出版プロジェクト・サマリー

2007年9月4日更新

中華民国の制度変容と国際秩序(現代中国文化研究 上)

第1部 制度変容と政治的凝集力

(1)王先明

制度変遷、革命をめぐる語りと郷紳階層:20世紀前期における郷紳階層衰退の歴史的軌跡
 1901年以後、中国は新旧制度が競いあいぶつかりあう時代へ入った。制度変革と伝統的郷紳が相対する間には、大きな張力と動作・行為空間が存在し、またこれによって民国時代の国家と社会、地方の利益と中央の権威、また新制度と旧権威など多くの力と要素の角逐および相互作用に、十分な歴史的場面とめぐり合わせがもたらされた。
 1.「新政」を志向した制度変遷は、実際には郷紳権力が「体制化」に向かって拡大したことの制度的基礎を構成し、また郷紳権力の形成及びその「体制化」は「民変」と「紳民衝突」の制度的な根源を構成した。旧制から新制へと移行した郷紳たちは、さらに広い権力空間を獲得し、これによって形成された社会矛盾と利益衝突も絶えず蓄積されていった。したがって、制度変遷そのものを超越した社会運動―革命(あいついで起こった国民革命と新民主主義革命)は、遅かれ早かれ一つの歴史的機会を見出したのであった。
 2.清末期から民国にかけて、さまざまな地域における郷紳権力の構成やその活動状況はさまざまである。しかし我々はさまざまな地域からその共通する歴史的特長を抽出することができる。まず、官職と学歴を基盤とする文化的資源は、依然として地方権力構造の重要要素であった。その次に、紳士階層の分化もまた都市・農村の二元構造の特徴を端的に体現しており、しかも郷紳権力が制御・均衡関係を失ったことで、地方利益の衝突が激化した。第三に、郷紳権力の無秩序な拡張が地方利益の衝突の主な矛盾となっている。それゆえ、清王朝が制度的な意義上の革命対象として覆されたあと、社会に現存する一切の弊害は、社会の基礎的意義における革命の対象、すなわち紳士階層へと向かっていった。
 3.20世紀1920年代になると、伝統時代にはあらゆる社会的価値基準による崇拝の対象であった「紳士」階層は、その身が揺るぎ「全社会」の「公の敵」となった。新知識青年世代による革命をめぐる語りにおいては、「革命」の名におけるおよそありとあらゆる政治的選択の中で、伝統社会の遺物としての紳士は明らかに中国の「進歩的でない」ゆえんたる「階級」の力を構成しており、中国が立ち遅れているゆえんの根底であった。紳士階級は国民革命に、またその後のいっそう突っ込んだ革命の嵐に、必ずや席巻されるであろうと言われたのである。
 4.共産党が主導した農民運動は「大革命」時代にふさわしい疾風迅雷の激しさで、農会組織を中心として郷村政権を再建し、郷紳権力を剥奪するという目的を実現した。共産党人の従事する農民革命運動とは異なり、国家権力(国民政府権力)と地方社会の矛盾やもめごとが国民党の従事する農民運動の主要な力点となった。郷村社会の政権再建は不安定な変動を続ける歴史的時期に入った。
 5.「大革命」の退潮以降、国民党は「国民革命」期の政治的立場を大幅に調整し、「打倒劣紳」の政治的主張を放棄し、制度再建の路線を選択して国家権力の郷村社会への浸透を実施する方針へと転じた。しかし、国民党政権は保甲制の踏襲による郷村社会の支配という目標を達成できなかったのである。
 「大革命」後の共産党も、郷紳の政策について調整を行った。抗戦勝利後、共産党は農村において実施した土地革命と村政権の再建は、郷村の社会構造を根本的に改造し、郷紳権力が依存していた社会条件を掘り出し、伝統紳士階層はようやく最終的に郷村社会の権力構造から姿を消した。
 中国郷村社会について、とりわけ郷村の伝統的権力構造形態について言うなら、郷紳権勢が最終的に舞台を退いて、ようやく真に一つの時代の終結が示されたのである。 

(2)江沛

清末中国人の鉄道に関する認識と論争について
 18世紀70年代初め、鉄道建設は中国で次第に現れ始めた。新式技術を取り入れた現代的な交通輸送手段として、その経済貿易の往来、軍事、行政コントロール、旅行、情報伝達、区域の橋渡し、ひいては国家民族融合等の面における多重的な価値は十分に明らかであり、社会構造の根本的変化に対して全面的な影響を与えた。鉄道運輸は土地占有、運輸手段の更新、職業の再構成、物資流通の方向性など多くの経済利益に及び、また政治コントロールや国家安全などの問題にも及ぶため、鉄道が導入された当初、国民の鉄道の利害に関する知識は多くなく、また鉄道の巨大な利益に対しての理解もなかったため、鉄道建設はいきおい、現実的利益や文化伝統及び道徳風俗の論争に陥らざるをえなかった。
 鉄道は清末に中国に伝えられて以後、その現代的特徴と機能とが中国伝統の技術意識や文化観念と大幅に異なったため、中国の伝統的交通運輸体系の知識体系に基づいたのでは、現代的交通運輸手段の巨大な効能を理解するすべはなかった。西洋列強が中国を侵略し、現代経済が東アジアを席巻するという特定の歴史条件の下、この認識上の無知と遅れ、それに自己保護の意識から成る極度の劣等感と行き過ぎた自尊心は、あてにならない噂の形で、鉄道に対する集団的な偏見を形成した。反対者はほとんどが鉄道の価値に対して理解が足りない。当然、このプロセスの中に見られるのは一方方向のベクトルのみではなく、鉄道という巨大な機能がもたらす効果と利益を前に、無知な排斥と観念の変革とが同時に進行していたのであり、そこに現れていたのは、変革と保守との並存というその時代の典型的な特徴であった。
 鉄道が中国に導入されるということそれ自体が、すでに現代科学の象徴であるとともに西洋列強侵略のアイコンでもあった。特に、西洋列強が鉄道借款を利用して鉄道利権を掌握し、鉄道建設を通じて勢力を大きく拡張したため、亡国の憂いを深める中国人にしてみれば、鉄道建設の利害を計る上で、まずもって排斥と抵抗の感情を呼び覚まされたわけだが、実際それも無理からぬことであったろう。世界経済一体化のプロセスが発展を続ける動向の中で、中国は態度をはっきりさせないわけにはいかないという点を理解する術がなかったため、ただ、国家の利益を十分に考慮し、外国勢力の侵入を抑制しようという前提だけに立って、清末の政治家及び知識人は、条件付きでようやく鉄道を受け入れた。このプロセスには、清末の中国人の、鉄道導入によって国家の進歩を追求し、ひいては国家主権を擁護しようという、「師夷長技以制夷」(訳注:夷の長技を師とし、以って夷を制す)の思考が含まれている。また、鉄道でもって国家の工業化を促し、ひいては「富国強兵」を目指そうという意識がおぼろげにではあるが目覚め始めたことも見て取れる。  同治元年、中国と外国の接触が多くなり、外国へ行く大臣の報告や台湾事件の刺激により、少なからぬ官僚が鉄道の持つ経済的・軍事的な価値の重要性を理解しはじめ、清廷に速やかに事業を興すよう次々と建議した。このとき鉄道建設に反対した声は、上層部の議論は鉄道運輸の機能が自然経済や既存の集団的利益と衝突することに関連して展開され、民間が更に多く論議したのは土地、職業的損失などの具体的利益及び風俗への影響にまつわることであり、鉄道建設の妨げにはさほどつながらなかった。
 清末の中国人による鉄道にまつわる議論の本質は、一面では無知な排斥と観念変革との争いであり、中国・外国間の国家利益の争いであり、国家と民衆の利益の衝突であった。また、鉄道と伝統的風俗・観念との間の紛糾でもあった。これら、利益と観念の衝突及び調整は、清末中国の現代化プロセスにおける各方面の利益の調整と協調を映し出し、同時に中国と西洋の文化的観念の衝突と融合のプロセスを典型的に反映しているとも言えよう。

(3)夏井春喜

文書史料からみる中国近代の地主 【詳細】

(4)周太平
辛亥革命と内モンゴル地域社会
(5)上田貴子

近代奉天と奉天紡紗廠
 近代と現代の特徴の一つとして、地域主義の強い時期が近代であり、地域主義以上に強く「中国」が意識される時代を現代ということができる。中国東北地域の中心都市瀋陽は、奉天と呼ばれる時代には地域主義が強い。奉天という名が支持されるときには、この都市が東北の中心であるという意識がされた。奉天とはもともと清朝の都を意味する言葉であり、「中国」の一地方都市の名にはふさわしくない。皮肉にも、瀋陽は「満洲国」期にも都ではなかったが奉天とよばれた。都市の名前は、決定を下す政治的意図、社会の地域主義、地域経済の実態のバランスを反映しているのではないか。このように考えて、近代に奉天が都市として成長し1929年には瀋陽とよばれるようになった時期を対象とし、地域社会と地域経済を考察し、地域主義の質と奉天地域社会が考えていた「中国」について考えたい。 おそらく奉天地域社会が考えていた「中国」は国民国家の形態を理解してはいなかったのではないか。強い地域主義の集合体としての「中国」ではないだろうか。
 このような仮説のもとに都市奉天についての研究を行っているが、本研究では奉天紡紗廠をとりあげて、設立計画、生産方法、販路を紹介し、地域主義に立脚している該工場の特徴を示す。
 1922年時点で綿糸布のほとんどが東北地域外からの輸移入であったといわれ、日本製、上海製の輸入綿糸が、奉天の中小規模の紡織工場と農村で使用された。奉天紡紗廠はこれらのシェアを切り崩すことが期待された。設立計画上は外国製品のシェア切り崩しを理由としているが、それを達成することは必然的に上海のシェアを切り崩すことにもなる。
奉天紡紗廠は1923年10月1日に正式操業を開始した。他の工場がインド棉花・アメリカ棉花を主に使用するのに対し、東北地域産の棉花を主として使用し、原料価格をおさえることができた。他の工場が東北産の棉花を使用したとしても、価格は奉天紡紗廠の購入価格より高かった。また省政府は棉花の作付けを奨励し、奉天紡紗廠は、棉花買い付け時に派遣員による先物買いによって、他の工場よりも安く買い付けていた。
 これらの努力によって、1920年代末、中国大陸本部では棉花高製品安の状況下、紡績工場が不振であった時期に、奉天紡紗廠は在地棉花を安く買い付けること、東北での需要の高い製品に特化することで経営上の成功をおさめていた。中国東北地域における1930年ごろの綿糸布需給は、綿糸は中国国内77%、綿布は日本製品63%を占めたが、上海や天津のシェアが拡大したわけではなく、綿糸については東北地域産のシェアが増加しつつあり、そのなかでも奉天紡紗廠の生産高が最も高かった。奉天紡紗廠の経営戦略は成功したといえる。「満洲国」の繊維産業においても、奉天紡紗廠の経営戦略は継承が意図され、東北地域産の棉花による太糸を中心とした計画がたてられた。

(6)西村成雄

1930年「中原大戦」と東北・華北地域政治の新展開
 1930年9月18日付、張学良の「維護和平」通電によって、中原大戦は事実上の終結をむかえた。張学良は蒋介石の主導する中華民国国民政府の政治的正統性を支持し、その正統性を拒否し別に国民政府を樹立しようとしていた閻錫山、馮玉祥、汪精衛らの反蒋介石連合勢力を否認する立場をとった。張学良は、同年11月12日から18日に開催された中国国民党第三期四中全会に参加し、中央委員待遇を与えられ、これより先10月9日には国民政府陸海空軍副総司令職に就任し、北平に行営設立を準備しつつあった。それは、反蒋介石連合勢力としての閻錫山らの政治的資源を、張学良が相続することを意味していた。翌1931年はじめにかけて華北地域を政治的軍事的に接収することになった。東北政務委員会は、河北省、山西省、察哈爾省、北平市、天津市の三省二市をその支配下に置いた。このような新しい支配領域における行財政政策の展開という側面からみるとき、東北地域と華北地域の政治的統合というリージョナルな政治的意思と、国民政府レベルの東北政務委員会に対するナショナルな政治的統合への意思という交錯する二つの政治空間がとらえられる。そこで、まず中原大戦の東北政務委員会のもとで形成されつつあった華北を含めたリージョナルな政治空間とその行財政政策の展開過程を、遼寧省檔案館蔵「全宗」C10、奉天省長公署、東北政務委員会(行字第12号)の「92案巻、東北区財政会議(民国20年)」から再構成してみたい。

(7)田中仁

日中戦争前期における中国共産党の党軍関係に関する一考察
 1937年7月の盧溝橋事件を発端とする日中全面戦争は,翌年10月の日本軍による武漢・広州占領以降こう着状態となり,中国政治は新たな局面を迎えた。それは,「抗日」を共通課題とする国民党と共産党との政治的連携を前提として,中国が有するあらゆる資源を「抗日」のために動員することを基本的特質とするものであったが,政府軍が軍規違反を口実として中共系の新四軍9000を殲滅した41年1月の皖南事変は国共関係に甚大な衝撃を与えるとともに,中国政治を大きく変容させることになった。
 本報告では,主たる考察時期を1938年11月7日(中共6届6中全会終了後)から41年1月5日(皖南事変発生の前日)の797日とし,中共権力の中枢部分,とりわけ党軍関係の実態について初歩的考察を試みる。延安整風運動を経て,中共の権力は1949年の国家権力奪取を可能にする権力編成を獲得することになるが,その前段階である約800日間における権力の実態解明は,1950年代から1970年代なかばにいたる毛沢東時代の中国政治の構造と特質を検討するうえで重要な研究課題であろう。
 本報告は,指導者の日々の活動を記した「年譜」,“党・政・軍”諸系統の全成員を明示した「組織史資料」,発信者と受信者を特定しうる「電報」類に着目し,これらを活用することによって,当該の研究課題における新たな接近を試みる。

(8)島田美和

顧頡剛と「疆域」概念
 今回の報告では、国民政府や地方実力派、知識人の領土(領域)意識と「辺疆」への認識及び研究活動を通じて、東アジア地域における中国ナショナリズムの「重層性」を解明したい。対象時期は、満洲事変の勃発から日中戦争期(1931年~1945年)にかけてである。この時期、強い国防意識を持った中国知識人が、非漢族とその居住地域である「辺疆」に対してどのような認識を持っていたのか、また、彼らが非漢族地域をいかなる論理をもって中国の「領土」の一部として認識しようとしたのか、を解明したい。従来の研究では、日中戦争期における中国のナショナリズムの特徴について、「愛国主義」的ナショナリズムであるという評価がなされてきた。こうした評価を再考するために、様々な学術思想を持った知識人によって行われた「辺疆」研究を分析対象として、抗戦期におけるナショナリズムの多様性を浮き彫りにしたい。具体的には、「辺疆」研究を推進した代表的人物である顧頡剛を中心に取り上げる。そして、彼が「辺疆」地域として考察した内モンゴル地域や回族が居住する中国西北部に関する言論を分析することによって、日中戦争期における知識人の「辺疆」観を考察し、中国「領域」意識の形成過程を明らかにしたい。
 顧頡剛の「辺疆」研究には、2つの側面からの影響が見られる。一つは学術の方法論であり、もう一つは西北地方との接触である。学術の側面では、顧頡剛の学術に大きな影響を与えた人物として、同じく歴史家の傅斯年がいる。傅斯年は、満洲事変の後、日本の学者矢野仁一による論説「満洲は支那に非らず」を、矢野と同じく近代実証主義歴史学を以って反駁し、中国東北部(満洲)の中国への帰属を主張した。こうした近代歴史学の分析手法による中国の領域認識は、顧頡剛の中国「領域」設定にも引き継がれた。その領域概念の下、顧頡剛は、戦前に歴史地理雑誌『禹貢』月刊を創刊し、抗戦期には「辺疆」研究に従事した。ここに近現代東アジアにおける日本と中国の国民国家形成過程において、日中双方における学術上の連鎖および共通の特徴を見出すことができる。
 また、西北地方との接触の側面では、顧頡剛はこの「領域」認識のもと、西北地方へ考察旅行を試みた。そこでは、蒙地における「開墾」の推奨や現地の漢族軍事勢力者との接近が見られる。このように、抗戦期における顧頡剛の「辺疆」研究は、国民政府や漢族軍事勢力者の民族政策において、少数民族に中国ナショナリズムを醸成させるために積極的に用いられ、さらにはその民族政策に学術的正統性を与えた。ここに、抗戦期において、国民党政権下における中央政治のみならず、地方政治においても学術との相互接近が見られた。

(9)堤一昭

蒙元時代(西暦13~14世紀)における「中国」の拡大と正統性の多元化
 「蒙元時代」(西暦13~14世紀、いわゆる元朝時期)は、「中国」という地域概念の形成過程の中で大きな画期をなす。第一に「中国」という地域概念が中国本土を超えて大きく拡大し、第二に君主および支配の正統性を示す原理が多元化したからである。これら二つの特徴について検討した。
1.「中国」という地域概念の拡大
 「中国」という地域概念は、“長城”線以北の北アジアをも含めた概念に拡大した。当時の士大夫が、“モンゴル帝国”の君主(可汗)を「中国」の「皇帝」として位置づけ、君主の正統性と地域概念とを結びつけたためと考えられる。クビライ以降の元朝政権も、中国本土を統治するための一つの手段として、歴代の中国王朝的な行政システムを採用した。
2.君主および支配の正統性原理の多元化
 君主および支配の正統性について、元朝政権で重要な機能を果たした四つの「地域/人間集団」(0.士大夫、1.モンゴル、2.チベット仏教僧、3.イスラーム教徒)は、それぞれ異なる原理を持っていた。「中国」についての地域概念も異なっていた。「中国」という地域概念の拡大も、多元化した原理の中の一つ、士大夫の正統原理に基づく地域概念から発したものであった。
(1)軍事、高級行政を担当したモンゴルの、君主および支配の正統性原理の特徴として、『元朝秘史』に見える君臣関係認識、即位の際の「誓詞」の提出、“モンゴル帝国”全域におけるチンギス裔およびクビライ裔の正統性の認識が挙げられる。地域概念も、華北と江南を合わせた「中国」に相当する語が無いなど、独自の特徴を持っていた。
(2) 仏教高級行政やチベット行政を担当したチベット仏教僧は元朝の君主を、正義を以て世界全てを治める最高の君主、即ち仏教思想の「金輪転聖王」と見なして、君主とその支配を正統化する理論づけをした。モンゴルと中国本土を合わせたような地域概念はなかった。
(3) 財政や広域通商を担当したイスラーム教徒と元朝政権の関係は緊張していた。中国は、イスラーム法の支配する地域と異教徒の法が支配する地域との境界である「未開なイスラームの世界」として位置づけられた。イル・カン国のように、モンゴルの君主自身がイスラームに改宗すると、イスラーム教徒もモンゴルの君主および支配の正統性を論じるようになった。

第2部 アジア太平洋戦争と東アジア国際秩序の再編

(1)秋田茂

1930-50年代の東アジア国際経済秩序
 本報告では、新たな世界史の模索である「グローバルヒストリー」構築の一環として、第二次世界大戦をはさんだ1930-50年代のアジア国際経済秩序を連続性の観点から再考する。その際に、戦前の「帝国」秩序の崩壊(脱植民地化)とヘゲモニーの移行(パクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナへ)の関連性、世界システム内部でのアジア世界の「相対的自立性」、国際金融面でのスターリング圏の重要性に着目する。
 まず、1930年代のアジア国際秩序に関して、30年代の日本と中国が展開した経済外交を再評価したい。モノ(輸出入)のレヴェルでは、1933-34年の第一次日印会商に注目した。日印会商では、大阪に本拠を置いた大日本紡績連合会によるインド棉輸入ボイコットが交渉の行方を左右した。最大の問題は、インド政庁が新たに要求したインド棉花の対日輸出拡大(綿布と棉花のリンケイジ問題)であった。本国への円滑な債務返済を行うために、インド側は棉花輸出の安定化による外貨収入の確保が不可欠であり、日本は本国以上に重要な貿易相手国であった。カネ(金融)のレヴェルでは、1935年の中国幣制改革をめぐる国際関係を検討したい。幣制改革の成功は、当事者であった中国国民政府の周到な準備に加えて、英米両国の協力を引き出した中国当局の巧みな経済外交に依存していた。協力したイギリス側からすると、中国を実質的にスターリング圏に包摂して、基軸通貨としてのポンドの価値を高めることができた。ここでも、日印会商の場合と同様に、双方の経済利害は相互補完的であった。
 次いで、戦後の1950年代の東アジア(東南アジアを含む)の国際経済秩序においても、スターリング圏が依然として重要性を有したことを日本の経済復興と結びつけて論じたい。戦後アジアの低開発のスターリング圏諸国にとって、日本は、本国の限られた生産能力を補完する安価な代替供給源(綿製品・雑貨)であり、同時に、自国の第一次産品の輸出市場(パキスタンの棉花、オーストラリアの大麦、英領マラヤの鉄鉱石)であり、日本向け輸出が圏外輸出の12%を占めた(1952年)。経済復興を進める日本にとっても、スターリング圏諸国向けの輸出は45%を占め、双方にとって貿易とポンド決済を通じた広範な相互依存関係が復活した。この相互依存関係を支えたのが、対日スターリング支払協定であった。また、日本側は、スターリング圏で例外的に優遇された香港の自由為替市場(香港ギャップ)を利用して、米ドルを獲得して戦後復興に活用することも可能であった。
 以上のように、1930年代と50年代の間には、スターリング圏とアジア貿易ネットワーク(アジア間貿易)の両面で、ある種の連続性を指摘できる。我々は、こうした関係史的な見方にもとづいて、国際政治経済秩序の側面からグローバルヒストリーを構築できる。1990年代の「東アジアの奇跡」もこうした長期の歴史的射程で考察すべきであろう。

(2)小都晶子

「満洲国」初期における日本人移民用地の取得と中国東北地域社会:「三江省」樺川県を事例として
 本報告は,「北満」に位置する「三江省」樺川県を対象として,「満洲国」初期の日本人移民政策における移民用地の取得とこれに対する地域社会の抵抗の様相を,その後の政策展開と地域の変容を視野に入れて明らかにすることを目的とする。樺川県は,第1~2次日本人試験移民の入植地であり,「全国」でもっとも移民の入植が集中した地域のひとつである。
 1932年3月の「満洲国」成立以後,関東軍は三江地域で大規模な移民用地取得を強行した。しかし1934年3月,逆にこれが土龍山事件という1万人規模の抗日武装蜂起を引き起こすきっかけとなった。この事件に対し,関東軍は直ちに「討伐」を展開したが,同時に用地取得の方針は大幅に変更され,日本側は地域社会への対応のなかでさまざまな妥協や譲歩を余儀なくされた。他方で,中国共産党によって抗日勢力の統合が進み,「三江省」は抗日聯軍の活動拠点となっていった。この過程で,農民の利害は最大限に考慮された。「満洲国」における移民用地の取得は,地域社会の反応に制約されていたといえる。
 地域社会からの制約によって,移民政策における「満洲国」政府の位置づけも変化した。事件後,関東軍は用地取得の表舞台から退き,「満洲国」政府に業務を一任した。1935年7月,「満洲国」政府は移民行政機関である「拓政司」を設置し,正式に日本人移民政策の実施に参与することになった。移民用地取得の過程において,「満洲国」政府は地域社会に対するさまざまな対応をなし,住民の取り込みに「成功」した。抗日聯軍の活動は,1940年までにほぼ制圧されていく。以後,地域社会に対して一定の配慮がなされる一方で,さらに強権的な用地取得がなされるようになった。また,移民政策の性格は「治安維持」から農業生産を重視する「開拓」へとシフトしていった。
 「満洲国」政府にとっても,中国共産党にとっても,在地の抗日基盤が強固であった「三江省」では,地域社会の獲得がひとつの焦点になっていた。そして,この三江地域の特殊性ゆえに,日本人移民の入植が集中した。「満洲国」の移民政策は,用地取得過程におけるさまざまな対応を通して,徐々に地域社会に浸透していった。しかし,それが表面的なものであったのはいうまでもない。戦後日本人の悲惨な引揚げ経験は,彼らが入植から引揚げまで一貫して不安定な位置にあったことを物語っている。樺川県では,開拓団や報国農場などに在籍していた1万168人の日本人のうち,終戦直後の混乱によって全体の3分の1以上を占める3647人が死亡,1548人が現地に「残留」を余儀なくされた。
 1945年10月末,樺川県に国民党部が成立し,自警団や「満洲国」警察など在地の武装勢力を吸収していった。しかし,その後中国共産党による「剿匪」が進み,1946年9月,樺川県は「解放」された。中共は土地改革を実施し,農民に土地を分配したが,これを保証したのは,日本人移民用地や満拓所有地などの大規模な「日偽財産」と満拓の土地管理人に代表される「漢奸地主」の存在であった。

(3)臧運祜

抗戦中後期日本の「重慶工作」について (1941-1945)
 我国の学界では、1940年以前の中日「和平工作」に関しては今まですでに多くの深く掘り下げた究がされてきたが、抗戦中後期(1941-1945年)における日本の「重慶工作」の研究に関してはまだ相当に手薄である。
 1940年11月13日、日本の「御前会議」が決定した『中国事変処理綱要』では、「重慶工作」の計画と談判条件の推進が提示された。その実質は、蒋介石と重慶国民政府を「第2の汪精衛」と「第2の南京」にさせようとしたものであった。この目的は「銭永銘工作」を推し進めることはなかったが、11月30日に日本が汪精衛偽政府を承認することによって実現した。1941年に入り、日本は世界戦争の助けを借りて「中国事変」を解決しようと企て、「中国事変」によって、世界戦争で有利な形勢をとろうとした。太平洋戦争勃発後すぐの1942年、日本は偽満州国と汪偽政府の参戦を許可せず、また対重慶の諜報路線設置を引き続き国民政府に屈服を促そうと図り、閻錫山を対象とする「対伯工作」に転じて国民政府を分裂させようとしたが成功せず、攻撃戦略を主とする方向へ向くほかなかった。
 1943年はじめ、日本は汪偽政府の「参戦」をきっかけとして、その偽政権を主とする「対華新政策」を実施した。日本の指導のもと、汪偽政府により進めた「対重慶政治工作」は、対華新政策の内容の一つともなった。しかし1943年末、「カイロ宣言」の発表は日本の対華新政策の破綻を宣告し、それに続いて開始した「一号作戦」もまた日本の「対重慶政治工作」を結果のないものに終わらせた。
 1944年7月政権を持った小磯内閣は、日本の対華政策の重要性を再び汪偽政府を通しての対重慶政治工作へ転換した。最高戦争指導会議が関係文書を決定し、昭和天皇もまた多くの質問をされた。しかし汪精衛の病死により当該工作はさらに悲観性を増し、日本は中国派遣軍によってこれを守るほかなかった。小磯首相は「繆斌工作」をすすめようと企てたが内部の強烈な反対を受けて失敗した。鈴木内閣期間中、本土決戦と停戦のため、依然として重慶に対する「和平工作」を進めることが企てられたが、中国派遣軍の談判には結果がえられなかった。敗戦に伴い日本の「重慶工作」を含んだ国内の対華政策は徹底して失敗した。
 抗戦中後期における日本の「重慶工作」は、政策ランクや実施レベルに関しては高くないわけではなかったが、最終的にはすべて失敗に終わった。偽満州国と日本の駐留軍は、日本が和平の真意があるのか、和平が実現できるかどうかを検証する上で決定的に重要な条件となった。すでに汪精衛偽国民政府を育成し、承認した抗戦中後期において、日本の「重慶工作」の実質は重慶国民政府を南京偽政権に成り下げ、それにより戦わずして降伏するという目的を達成しようとしたものにほかならなかったが、その失敗は歴史の時勢のしからしめるところであった。

(4)石黒亜維

国連憲章制定会議と中国
  ⇒中国文化コロキアムで報告(2007.7.16)

(5)田淵陽子

1945年「内モンゴル人民共和国臨時政府」の樹立と崩壊:「拉木扎布(B.Lamjav)報告書」をもとに
 日本敗戦後の中国東北・内モンゴル地域は、スターリンと蒋介石の間で締結された「中ソ友好同盟条約」(1945年8月14日締結)によって国民政府による接収が約束されていた地域であった。しかし、ソ連軍・モンゴル政府連合軍が進軍した直後の内モンゴルでは、主権なき「真空地帯」のような状況となり、独立や国民国家形成を目指す様々なモンゴル民族運動が展開された。
 内モンゴル西部の錫林郭勒盟西蘇尼特旗では、9月9日、偽「蒙疆政権」官吏と「モンゴル青年党」メンバーが、ソ連・モンゴル政府連合軍の「支援」のもと、補英達頼(巴彦塔拉盟盟長、偽「蒙疆政府」最高法院院長)を主席とする「内モンゴル人民共和国臨時政府」を樹立した。この「臨時政府」は10月中旬から下旬における政治的変動のなかで崩壊し、実質的な存続期間は約一ヶ月余りという短命に終わった。だが、「臨時政府」を吸収し11月28日に張家口で成立した中国共産党の「内蒙古自治運動連合会」は、その後本格的な内モンゴルにおける統一戦略を開始し、王爺廟を拠点とする「内モンゴル人民革命党」(東モンゴル人民自治政府)、海拉爾を拠点とする「呼倫貝爾自治省政府」へと影響力を拡大させていった。
 当時、錫林郭勒盟を中心に特務活動を行っていたモンゴル人民共和国政府副首相拉木扎布(B.Lamjav)は、「臨時政府」樹立の現場に立ち合った人物の一人である。本報告では、拉木扎布(B.Lamjav)が喬巴山(Kh.Choibalsan)元帥(首相兼外相)宛てに作成した特務活動の報告書を紹介する。そして、従来未解明な点が多かった「臨時政府」の樹立の背景を明らかにするとともに、以下二点を論じる。第一に、樹立に携わった旧政権の青年知識層・官吏はいかなる政治目標が掲げたのか、彼等が自らの重層的アイデンティティを、1945年8-10月というドラスティックな政治変動のなかでどのように収斂させようとしたのか、内モンゴルにおける民族的かつ政治的アイデンティティの定着化過程に着目する。第二に、中華民国内の二大政治勢力である中国国民党と中国共産党、そしてソ連とその「衛星国」モンゴル政府、アメリカの「四国五方」関係の構図が、当時の内モンゴル社会においていかなる実態を持ち、「臨時政府」に対していかなる影響力を及ぼし得たのか、「アジア冷戦のはじまり」とでもいうべき政治的現実を明らかにする。

(6)貴志俊彦

戦後直後の旧満洲におけるメディア報道:『東北日報』から見る「内戦」と「戦勝」
佐藤卓己・孫安石編『東アジアの終戦記念日』(ちくま新書、2007年)の拙稿=第9章「戦後中国の『戦勝』j報道」が「関内」を対象とした議論であったのに対し、これで言及できなかった中国東北部の状況を追加検討する。

(7)許育銘

戦後処理と地政学下の国民政府対琉球政策
 1947年に国民政府行政院新聞局が出版した『琉球』という一冊の本がある。この本の結論は、「地理上から、台湾と海南島が中国海域上の目だとすると、琉球諸島と南西諸島は中国海域上の触角にあたり、欠くことはできない」というものである。このことから、第二次世界大戦後、四大列強の一国となった中国が、どのように「太平洋西岸の大国」を自任しつつ、戦後の中国が同盟国側の対日戦後処理プロセスの下で、太平洋区域の国防戦略と地政学においてあるべき設定対象と目標を定めていたのかということを、観察することができる。今日琉球諸島と西沙・南沙諸島は、いぜんとして中華民国或いは中華人民共和国にとって非常に重要な国防指標区域である。その中でも琉球は特別である。その理由として、一つには琉球は中国と悠久の歴史的関係を挙げうる。それは古代の「中華世界天朝秩序」や歴史遺産であり、伝統意識の影響力を今なお保っている。第二に、琉球には重要な戦略価値があり、国際政治競争と離すことはできない。さらに、戦前日本が東アジアの雄を唱えたのは琉球を手に入れたことから始まり、また琉球を失ったことによって終わったとさえ言えるのである。琉球問題に対して当時の国民政府はどのような認識を持っていたのだろうか?また戦後冷戦体制が形成された激変する国際情勢にあって、どのような対策をおこなったのであろうか?戦後処理(時間)と地政学(空間)の観点から、第一次資料を収集し、比較観察を行い、歴史的解釈の輪郭を描き出すことが、本研究の主要目的である。

(8)坂井田夕起子

玄奘三蔵法師はなぜ日本にやって来たのか?:玄奘遺骨略奪説とその歴史的変遷
 1942年12月、南京駐屯の日本軍が玄奘三蔵の頂骨と刻まれた石棺を発掘した。日中双方の専門家が調査した結果、唐代の玄奘三蔵の遺骨であることがほぼ確実視されたことから、遺骨は副葬品と共に汪精衛政権に返還され、日中の協力によって三藏塔が再建された。1944年10月10日、玄奘遺骨の入骨式が行われ、同日褚民誼外交部長によって、遺骨の一部が日本の仏教徒に贈られた。これが現在、埼玉県慈恩寺に祀られている日本の玄奘三蔵遺骨の由来とされるものである。
 しかし、中華人民共和国では、玄奘三蔵の遺骨は日本軍に奪われたものと広く認識されており、しかもいくつかの略奪説存在する。その原因は、抗日戦争時期の保存史料が少ないこと、南京の第二歴史档案館や図書館が戦争中の史料を公開していないこと、そして中国の研究者が日本語史料を利用していないことにある。
 本稿は、まず、日本の外務省外交史料館が公開する一次資料と、南京・上海で刊行されていた戦争当時の日本語と中国語の新聞、さらには日本仏教界の代表的な新聞『中外日報』と日本人僧侶・日本軍関係者らの回想録などを利用し、戦争中の玄奘三蔵の遺骨発見と日本への分骨経緯について、おおよそ日本側に伝わる説が事実に近いことをあきらかにした。
 さらに本稿では、玄奘遺骨をめぐる言説を分析することで、1950年代の日本と中国、台湾の仏教交流について分析した。戦後の中華人民共和国政府が積極的に仏教を利用して国際交流を推進していた中で、日本仏教界は1955年、台湾の中華民国に玄奘の遺骨を「返還」(分骨)した。当然ながら中国側の抗議を招いたが、日本では中国の影響を受け、中国側が主張する遺骨略奪説に同調する人々が増えていった。一方、台湾では戦後直後に語られていた日本の遺骨略奪説が影を潜め、代わりに玄奘の遺骨分骨が「日華友好」のシンボルとして語られるようになったことがわかったのである。



ポスト鄧小平 中国社会変容の新段階(現代中国文化研究 下)

第1部 現代中国社会の構造変容

(1)加藤弘之

「新西山会議」をめぐって
⇒『近きに在りて』第51号,pp.151-153  【詳細】

(2)日野みどり

現代中国の職業観に関する一考察:「敬業」概念をめぐって
 中国が「自主的職業選択」制を導入した1990年代後半から、人材と職業をめぐる議論に「敬業」という言葉が頻出するようになった。「敬業」とは、自分の仕事に愛着を持ち職務に全力で取り組む姿勢を指す語で、ある種の職業道徳、ないしそうした道徳を持ち合わせる状態を意味する。現代中国における職業観を考えるときに、この「敬業」概念の解釈を検討することは重要であろう。本稿は、まず近年の中国における議論を素材に「敬業」概念の解釈について概観し、特に現代的文脈の中で同概念が持つ意味合いを考察する。次に、筆者らが上海市の高学歴者層を対象として2005年に実施した「敬業」概念に関する調査の結果を検討し、「敬業」という概念が現代中国の職業観に及ぼす意味を明らかにする。
 「敬業」の語は古代より文献に記されており、現代中国の「敬業」概念には、こうした伝統的な職業道徳規範から現代に通用する職業道徳観を求める志向性がある。また、現代的文脈における「敬業」概念の論じられ方については、政治思想教育と人的資本管理(HRM)の二つの立場が対照的な議論を行っている。前者は、共産党のイデオロギーを個人が全面的に受け入れることを前提とした「仕事への愛」「職務への熱心さ」を強調し、職業における「個人主義」と「国家の重視」の対立を批判するが、これは党が人々の職業生活を掌握していた計画経済期の枠組みをそのまま踏襲したものである。他方、後者においては「企業の目標達成」という高度に実務志向の原理に基づいて「敬業」精神が重視され、企業には従業員が「敬業」精神を発揮できるような職場環境を整える努力が求められる。
 続いて、高学歴者層582名を対象に実施した調査の結果、個人が抱く職業観・人生観の構成要素としての「敬業」概念の一端が明らかになった。まず、高学歴者層の「敬業」概念に対する解釈は、個人の主体性を重視する傾向にある。また、「敬業」精神を持つ理由については、原初的・理念的動機と用具的・功利的動機の間に必ずしも明確な区分はなく、両者の一体性を示唆する結果が得られた。つまり、本稿が考察の対象とした高学歴者層については、職業に関連して個人的な充足感という目標を完全に排除することはもはや難しい。また、職業を通じた自己実現を図る欲求の前には、「敬業」概念の原初的・理念的側面と功利的側面とは両立しうる。「個人主義」と「国家の重視」の対立枠組みを前提とした「敬業」概念は、実効性に乏しいと言わざるを得ない。

(3)阿古智子

ポスト鄧小平時代の中国農村における権力構造と関係ネットワーク:基層をめぐる政治・社会力学に着目して
 中国は急速に市場経済化を進め、大きく変貌を遂げているが、依然「農民国家」であり続けている。「農民国家」が意味するのは、当然、農業に従事する人口が多数を占めるということであるが、中国の場合、経済発展に伴い、農業人口が減少しているにも関わらず、戸籍制度によって区分される「農民」が最も大きな社会勢力であり、国家建設の経路を複雑にする要因となっていることに留意する必要がある。
 都市と農村を二分する制度は、戸籍の移動に関するものだけでなく、土地所有、税制、社会保障、教育政策にまで及び、不利な条件の下に置かれた農民の多くは、貧困の悪循環から抜け出すことができず、停滞する農村から逃れるようにやって来た出稼ぎ先でも、都市市民と同等に扱われることはない。こうした不平等な制度が改善されないだけでなく、強制的な土地収用、税の過重徴収、環境汚染などの問題が、ガバナンスの低さや官僚組織の腐敗体質が原因となって発生しており、農民の不満はエスカレートしている。今後、農民がどのように位置づけられ、農村がどのように発展するかが、中国の将来を大きく左右することは間違いないだろう。中国において、農民と国家の関係が極めて重要であることは、中国自身の歴史が証明している。
 近年、中国国内外において、非常に活発に農村研究が進められており、膨大な情報やデータが蓄積されている。本論の前半部分は、そうした先行研究の中から注目すべきものを取り上げ、特に基層をめぐる政治・社会力学に着目しながら、農村研究に関する論点を整理する。農村研究には様々な種類のものがあるが、今回取り上げるのは、質的調査やフィールドワークを手法とする社会学的研究が中心である。後半部分は、筆者がこれまで行なってきた湖北省における農村調査を基に、各論点についての考察を行なう。主に焦点を当てるのは、農村社会に秩序或いは混乱をもたらし得る権力構造と関係ネットワークである。
 なお、本論の題名には「ポスト鄧小平時代」という言葉を冠しているが、それは、鄧小平時代に導入された家庭請負制が定着し、市場経済が浸透しつつある今、農業経営、土地所有、経済体制などに関し、現行の制度やシステムが継続するのか、それとも何らかの変更を迫られるのかを占う意味で、新たな転換期を迎えつつあると捉えているからである。
 また、中国語における「基層」というのは末端の組織・単位を示し、行政組織に関してみる場合には郷鎮以下のレベルを指すことが多いが、ここでは、中央と地方をつなぐ位置にあり、一般民衆の生活や労働・生産活動に最も密接に関係する領域とする。中国は人口・国土の規模が大きく、民族や地域性においても多様な国家であり、歴史的にも国家権力・統治の浸透が重要なテーマとして研究されてきた。基層における権力構造と関係ネットワークを見ることで、現代中国農村の基層をめぐる政治・社会力学の一端を明らかにしたい。

(4)深尾葉子

廟会からの視点:迷信という迷信
 中国陝西省北部は、廟会活動が盛んである。文化大革命期に迷信活動として否定されたものの、80年代に宗教活動が部分的に許されるようになると、雨後の筍のように廟が次々と建立された。
 廟会に対する人々の活動は、神との互酬関係からなりたっているが、それらが集約されてひとつの社会活動となる。「民間」の「迷信」とされる廟会活動には都市民も参加し、また関心をよせているが、都市民の解釈と「農民」の解釈には、さまざまなズレが存在する。
 これまで著者はこの廟会活動にさまざまな形で関与し、参加調査を行ってきたが、そのなかで、当事者の視野、外部からの視野、外部に向けて語る当事者の視野、当事者となる外部参与者や観察者の視野が異なることをさまざまな場面で見てきた。
 「基層社会」と呼ばれる論理が、どのように構成され、変化してくのか、外部者の視点はそれをどのように解釈しようとしているのか、彼らに向けられたレッテルづけはどのような意味を持つのか、そこに介在する世界観のズレを「迷信」という言葉をキーワードに読み解いてゆく。

(5)康越

中国都市部における高齢者対策とコミュニティーサービス
 ⇒【詳細】

(6)渡辺直土

現代中国の行政改革:政府機構改革と党政関係
 本稿は現代中国の政治体制を「政党国家」体制であると規定し、1980年代以降に推進されてきた「政治体制改革」の一環である行政改革について、その柱である政府機構改革を分析し、「政党国家」体制の変容を明らかにすることをねらいとする。先行研究については行政改革論と政治体制論の2つの視角に分けて概括し、地方レベルの改革実態や党政関係を解明し、かつ行政改革を体系的に分析する必要性を指摘した。
 これらの課題を意識しつつ、80年代以降の地方レベルにおける政府機構改革の事例を新聞、雑誌資料をもとに分析し、以下の三段階を経過してきたことを実証した。80年代前半の第一段階では党・政府への権力集中と非効率、財政負担の増大が問題とされ、幹部の若年化と専門化が進められた。臨時機構の削減など機構の簡素化も行われたが、政府機能の転換が不十分であったため、その成果は限定的であった。80年代後半の第二段階では政府の現業部門を「経済実体」に改組し(「政企分離」)、政府機能の転換により機構改革を推進するという方向性が生まれた。これは人員再配置を行ない、行政の効率化と財政負担の軽減を意図するものであった。その背景には市場経済化の推進に伴い、政府の市場に対する介入を制限し、市場の活力を引き出すという新たな認識が生じてきたことがある。さらに、党政関係の調整による行政の効率化という方針が提起され、「党政分業」「党政分離」の方針のもとで改革が進められた。これは「政党国家」体制の根幹部分にかかわる重大な改革であった。本稿では、第二段階の改革モデルを「市場化対応モデル」とした。90年代以降の第三段階は「小政府、大社会」として「政企分離」の方針は維持されているが、党政関係に関する方針は後景化した。つまり、80年代後半の「市場化対応モデル」は「党-政-企」の三者同時分離を意図していたが、90年代以降は「党-政」は分離せず、「政-企」の分離に重点をおいている。党政関係の現状に関しては、「党政分業」に近いと判断した。
 結論として、市場経済化への対応が明確に意識され、「小政府、大社会」を志向する現代中国の行政改革は、欧米諸国の「新自由主義」による行政改革の潮流の1つであるとも考えられ、今後はNPM(新公共経営論)の本格的導入がなされる可能性もあるだろう。ただ、中国の行政改革が欧米諸国と大きな相違をなしているのが党政関係の調整という課題である。第二段階で「党政不分」による非効率が問題とされ、「党政分業」「党政分離」による効率化が追求されたが、第三段階においては後景化した。党政関係の調整は「政党国家」体制の正統性の再編成へ接続する重要課題であり、今後も避けて通ることはできないだろう。

(7)鄒燦

「六一」児童節と中国の政治社会化過程:1949-1976
 1949年以来の20年余りにわたり、国内外の複雑な環境の影響及び中国共産党の政権を安定化する必要によって、伝統道徳及び政治信仰を核心とする政治教育が極めて重要な地位に置かれた。この政治社会化の過程は、一世代また一世代と育つ少年児童の集団にきわめて目立って現れた。少年児童を対象に政治教育を進めるうえで重要な媒介かつ担体として、「6・1」児童節は中共及び政府が少年児童に対して政治及び観念教育を行う主な内容とルートを示唆しており、少年児童の集団的意識の変化や政治的人格の形成及びその社会的効果もまた、祝日におけるさまざまな活動に十分に示されている。
 本稿では、中国共産党機関紙『人民日報』と雑誌『紅旗』に現れる、児童節に関する報道および児童政治教育に関する文書の分析を通して、この時期の中共及び政府が少年児童集団に対して政治教育を行った主な内容とルートについて包括的な概括とまとめを行う。党国観念の育成、革命伝統精神の宣伝、階級観念及び階級闘争の教育、道徳教化、国際時事の注入が、この時期の政治教育の中心的内容であった。中共及び政府は、家庭、学校、社会の三方面の役割を通して、政治的な児童組織を組織し、文化教育と娯楽活動において政治的要素を浸透させて、その政治教育の目的を達成した。この時期の少年雑誌と文学出版物、及びこの時代から成長した人の回想録と伝記は、当該時期の政治教育が少年児童の成長に与えた影響や、少年児童集団の政治社会化に対する反応を、さまざまな角度から生き生きと現している。
 本稿は、政治学、社会学、児童心理学及び宣伝学の関連知識の助けを借りて、中共及び政府が政治教育を行うプロセスにおいて、如何に巧妙に少年児童の集団的特徴と心理的特徴を利用して政治社会化の効果を増強させたかを分析する。同時にこれらの知識を通して、少年児童集団が政治社会化に対して示した各種反応の原因の分析を試み、その集団意識の変遷及び政治的人格の形成過程を理解しようとするものである。
 中共及び政府がこの時期、少年児童に対して行った非常に強度な政治教育は、その要求する政治観念とイデオロギーを当該集団の意識へ浸透させることに成功し、社会政治化の程度は深まった。少年児童の心身の成長は完全に濃密かつ強烈な政治的雰囲気のただ中に置かれ、児童は准成人として扱われ、当該年齢段階では受けるべきでない政治的圧力を受けた。政治の社会生活に対する過度の干渉は、とりわけ少年児童の教育と育成に対する過度の干渉は、その世代の人間から正常な成長の過程を奪い、一定程度の心理的な捻じ曲がりを与えることになる。これは当該時期の中国の政治的発展や変化の過程に大きな影響を与え、政治社会化の畸形的発展をもたらした。少年児童自身の人格形成もまた異化へと向かい、思考や言行は極めて強い政治性を示し、単一化、モデル化の状態が現出した。
 この時期の政治社会化が進む過程における少年児童集団を分析することは、現代の中国歴史発展の変遷過程と政治社会化がこの後に成長した数世代の人々の人格及び心理状態に及ぼした影響について、更にはっきり深く知るために有益である。この時期の政治社会化と社会政治化という双方向の相互作用プロセスが少年児童の成長に与えた多方面の影響は、その後の中国の歴史プロセスにおける例えば紅衛兵運動や知識青年運動、ひいては中国人の政治意識の特徴を理解する上での鍵となるであろう。

(8)曹牧

20世紀中・後期工業化の松花江水環境に対する影響:吉林市を例として
 現在の中国環境史研究は、ほとんどが歴史上の環境要因の変遷や環境総合評価及び理論的研究というような早期の社会環境問題への関心に集中しており、近現代の工業発展がもたらした環境破壊に関して系統的研究を展開している歴史学者は少ない。研究の区域からいうと、黄河、長江の二大流域の環境歴史問題に主に集中しており、残りは華南と西北内陸で、東北地区に関する環境変遷史の研究成果は少ない。しかし当該区域は、工業化以来の環境変遷史を研究する上で、特殊かつ重要な意義を備えているのである。
 松花江の水環境問題に関する従来の研究は、大多数が科学的考察の性質を持った調査報告であり、しかも汚染事件そのものの調査・検証が多かった。社会が環境保護を重視するにつれて近年では松花江の環境問題に関する調査が現れてきており、こうした研究は流域の環境保護に対して疑いなく重要な働きをするようになった。しかし、その成果には若干の顕著な欠陥が存在している。言い換えると、こうした考察はすべて分散しており全面に及んでいない。地域の生態環境の回復と保護は一つのシステマティックな事業であり、系統だった解決案を提供し採択するために、関連する問題についてのより全面的な認識と理解が必要である。上述した状況にかんがみて、筆者は一人の歴史研究に従事する者として、工業化が引き起こした環境問題とそれがもたらす影響に対して、歴史的な深度と一定の包括性を備える考察を行うものである。松花江流域の地域が拡大し、問題は複雑であるため、議論を集中させ、掘り下げることができるように、本稿では吉林市を典型的な事例として選び、5つの部分に分けて議論を行う。
 論文の第1部では選定した事例都市の吉林市を簡単に紹介し、それを研究対象として選んだ原因と20世紀中後期における発展基本状況を明らかにする。第2部では工業排水放出と水環境汚染関係の研究に重点を置き、当地の実際の状況から両者の関係をまとめる。第3部の関心は汚染がもたらした経済面への影響へと移り、そこには漁業、栽培業ならびに工業生産等も含める。第4部では生産領域から生活領域に視野を拡げて、汚染がもたらす人体への健康被害に重点をおき、死亡率、癌発症率などの各観点から切り込むとともに、1960-70年代の当地における水俣病の事例を解説する。最後の部では、一つの新しい角度から汚染問題を取り扱う。すなわち、社会的影響という観点から汚染について考察する。水の汚染は勢い社会問題を招くにちがいないし、これは区域内部、国家内部の矛盾につながるだけでなく、ひいては国境を分ける境界河川を通じて国際紛争をも引き起こしうる。
 長い歴史発展のプロセスの中で、人類の歩む一歩一歩が自然環境と不可分である。重工業を主とする粗放的経済発展の道は、もとより中国の経済発展に多大な貢献をなしてきた。しかし、これによる汚染問題もまた、はかりしれない害を残すのである。これはつまるところは、人と自然の関係をうまく処理してこなかったことに帰結するだろう。20世紀中後期の吉林市を代表例とする工業発展と環境保護との矛盾および衝突は、工業化の時代における「人類―自然」の矛盾した関係の普遍性な事例であり、それが我々に与えてくれる経験と教訓は、深く考え参考とするために極めて大きな価値を持つのである。

第2部 グローバリゼーションと現代中国

(1)五島文雄

中国の台頭と東南アジア
 中国は1970年代末に開始した改革開放政策の下で台頭し、アジアの安定と発展に極めて大きな役割を演じてきた。私の報告の主要な対象地域である東南アジアとの関連でも、中国は1994年に創立されたアセアン地域フォーラムのメンバーとなり、域内の領土問題を平和裏に解決する努力をするなど安全保障面において重要な役割を演じ、1997年のアジア通貨危機の際には危機に見舞われた国々に経済支援をするなど経済面でも重要な役割を演じてきた。この事実は中国の指導者のみならず、誰もが認めるところである。
 その中国は2001年のWTO加盟後に、東南アジアとの間の貿易、直接投資を急速に拡大し、経済協力も積極的に推進している。このような中国の動向は、東南アジアでは国により温度差はあるものの、概ね歓迎されていると言ってよいであろう。換言すれば、東南アジアでは中国が脅威の対象としてよりも、機会(チャンス)の対象として認識されている、ということである。
 報告ではその背景と現状について概観したあと、今後さらに中国が東南アジアの安定と発展において大きな役割を果たしていく上で重要と思われる課題について言及したい。具体的には、主として東南アジア大陸部にあるアセアン後発国といわれるミャンマー、ラオス、カンボジア、ベトナムとの経済協力について考察し、中国は今日以上に国際協調を重視しつつ、経済協力を進める必要があるのではないかということを問題として提起したい。
 報告者がこのような問題を提起するのは、域外国から見ても中国と上記4カ国との間に良好な関係が築けるか否かが、過去の歴史においても東南アジアの安定と繁栄にとって重要であったばかりでなく、将来においても重要であると考えるからである。

(2)辻美代

グローバルリズムのなかの中国アパレル産業
 改革開放後、中国アパレル産業はグローバリズムのなかで「世界の工場」として急成長を遂げてきた。製品の企画・開発から原材料の調達、製造、流通、販売に至る一連の企業活動の中で、中国企業はもっぱら製造過程を請け負うこと(委託加工生産)で大きくなった。また、日本を始めとした先進国のアパレル企業は、自ら中国に進出し、縫製技術や生産・管理技術を伝えながら生産活動を行ってきた。
 アパレル産業同様、グローバリズムのなかで急成長してきた家電産業は、技術力に不安を抱えながらも、現在、ハイアールのように自社ブランドを育て、世界に販売する企業が現れ始めた。しかし、中国アパレル産業は世界一の生産量を誇り、縫製技術においてトップレベルの企業が存在しながら、世界に知られた企業・ブランドはほとんどない。
 アパレル産業は極めて労働集約的で、機械・設備に技術が体化されており、また、初期投資があまり嵩まないので、発展途上国の工業化に最適な産業である。他方、アパレル産業は極めて流行性が高く、リスクの高い産業でもある。売れ残りを軽減するためには、広告・販売に巨額の資金を投じなければならず、資金力のない企業は自社ブランドでの販売は容易でない。そのため、現在、世界の一流ブランド企業は、MHLVグループのような巨大企業グループに集約されている。もちろん、広告・販売費が嵩む商品は高額である。消費者はそれでも、商品に内在するブランド文化を購入する。19世紀初頭、フランス・パリが世界のファッション都市として君臨して以来、今なお、フランスが世界ファッションの中心である。
 中国アパレル産業は、途上国工業化における役割を終えつつある。今後、グローバリズムのなかで、どのような成長を遂げて行くのか一考察を加えたい。

(3)澤田ゆかり

香港の少子高齢化と中国大陸からの新移民対策:香港を支える「借り物の住民」
 いま東アジアは共通して少子高齢化に直面している。日本はもちろんのこと、すでに韓国も台湾も日本以上のスピードで少子化時代に突入している。2005年の合計特殊出生率をみると、日本1.25に対して、台湾は1.12、韓国は1.08と日本を下回っている。この結果、韓国政府では政府内に新たに女性家族省を設けるなどこれまでにない対応を迫られたし、日本でもジェンダーの平等よりも労働市場の要請から、男女共同参画が進められた。
 ところが合計特殊出生率0.97の香港では、そのような悩みは聞かれない。たとえ子どもが生まれなくても、中国大陸をはじめ世界中から若い労働力がやってくるからである。高齢化問題についても同様のことがいえる。ケア労働は、人件費の安いインドネシアやタイから家政婦や介護士を調達することができる。子どものいる家庭では英語の早期修得という点からフィリピン人のメイドが歓迎されるが、高齢者のばあいは広東語を覚えてくれるインドネシア人が喜ばれるという。さらに香港経済の中核である金融や貿易の世界はあたりまえのように英語が使われるので、中国大陸だけでなくインドやシンガポール、さらに欧米から優秀な専門職が集まる。域内で専門職を育てるよりも早い。
 しかし、このような「借り物の住民」は、どこまで社会的コストを引き受けるか、という点で大きな問題を残している。人的資源としての利用のみに着目して受け入れると、彼らの住居や子弟の教育、また彼ら自身が高齢化した際の保障がすべて市場に依存することになるからである。これに対して、香港政府は最大の労働力供給地である中国大陸との連携(年金の合算と移転)を進めて、市場補完型の社会保障制度を整備しつつある。とはいえ、中国大陸の華南地方では「民工荒」と呼ばれる労働力不足の現象がみられる。さらに一人っ子政策の影響で、10年以内に大陸の「人口ボーナス」は終了すると予想されている。また現在はホンダの広州進出などで、日系企業にとっても香港は経済拠点としての重要性を増しているが、大陸の高度経済成長が後退すれば、高い賃金で世界の人材を引き寄せる方程式は通用しなくなる。そのときに香港に残るのは、新産業に適応できない人材であろう。彼らを養うコストは、誰か負担するのか。
 本稿では香港を事例にして、ワークフェアを基盤にした人材のグローバル化の限界を取り上げ、東アジア諸国(とりわけ中国)の少子高齢化の行方を占う。

(4)宮原曉

隠喩としての身体と「中国人」像:フィリピン華人研究における生政治的解釈モデルの可能性
 19世紀半ばから20世紀はじめにかけて中国大陸からフィリピン諸島へ移住したチャイニーズは、その多くが男性であった。その結果生じた男女比のアンバランスは、チャイニーズの男性とフィリピン人の女性の通婚を生み出したが、それはより正確に言うと通婚を通じてチャイニーズのカテゴリーが顕在化したということであった。その後、1930年代までに男女比は均衡していく。しかし、チャイニーズの男性の通婚は、今日に至るまですべての結婚の一定程度の割合を占め、このため一定程度の割合の女性は、未婚のまま生涯を送る。また、戦前、セブで生まれたチャイニーズの女性のなかには、教育や結婚のため中国大陸に還流した者もおり、彼女たちのなかには、戦後、相当たってからセブに移住した者もいた。このようなチャイニーズの《男-女》の経験は、どのように解釈、統御され、どのようにアイデンティティを生み出すのだろうか。
 かつて「華僑社会」あるいは「華人社会」と呼ばれていた社会が今日大きく変わりつつある。1990年以来、筆者はフィリピンのセブ市で華僑華人の調査をしてきたつもりであった。しかしそこで懇意にしていた友人たちは、いまラス・ベガスと台北とバンクーバーに移動している。彼ら・彼女らは、セブの華僑でも、華人でもなくなったのである。
 再移民を含む移動の複雑化は、チャイニーズの人口移動が中国大陸の出身村と移住先との二者関係といった単純な枠組みではもはやとらえきれないことを意味している。とともに従来の華僑華人研究が、例えば「華人」や「エスニック・チャイニーズ」という呼称を用いて提示しようとしてきた「チャイニーズ」の像に対しても再考を迫られるようになった。筆者のある友人は、父親がフィリピン・バタンガスのチャイニーズであるものの、香港で生まれ、その後、バンクーバーに移住し、現在は再び香港に戻っている。彼の異母兄弟はフィリピンにおり、母親と祖母は香港に留まっている。彼の父は、福建省晋江県に住居を持っていたがついぞ帰郷を果たせず、近年フィリピンで亡くなった。いったい彼は誰なのだろうか。
 本稿は、チャイニーズのこうした経験に即したアイデンティティの生成過程を明らかにするために、これまでの華僑華人研究の動向を振りつつ、生政治的解釈モデルの可能性を模索する。

(5)三好恵真子

中国の経済発展に潜むアスベスト災害の恐怖:負の遺産から学ぶべき今後の課題と予防原則の視座
 現在、世界中で様々な環境問題が深刻化しているが、中でも「アスベスト」は、環境汚染物質として最も注目すべきものの一つとして位置づけられている。アスベストの危険性は、日本では2005年6月末のいわゆる「クボタ・ショック」により再認識されることとなったが、被害の規模や複雑さ、長期に持続すること、他国への波及、さらに解決の困難性を考えると、まさに人類史上最悪の災害・公害に発展する可能性があると危惧されている。アスベストは「キラー・ファイバー」,「静かな時限爆弾」と称され、吸入した人々を死に至らしめる程の健康障害を発生させる危険性があり、またこれらの疾病が発生するまでに、15〜40年という長い潜伏期間があるという特異性を持つ。そして、アスベスト災害の第一の社会的特徴は、「複合型ストック公害」であることである。すなわち、アスベスト問題は、原料の採取・製造・流通・消費・廃棄(解体・中間処理・最終処理)といった経済の全過程において、労働災害、大気汚染公害、商品公害、廃棄物公害などを引き起こす、従来の公害にはなかった複雑な事態を発生させるため、アスベスト製品の生産を中止しても、建築物や廃棄物のストックとしてアスベストがある限り被害が増え続ける一方で、問題の責任を特定することも困難になりかねない。
 日本において、アスベストによる「公害の危険性」は1971年に制定された「特定化学物質等障害予防規則」の中で明言されているにも関わらず、2004年10月に「石綿使用原則禁止」が導入されるまでに、実に33年の月日の経過を待たねばならなかった。アスベストは極めて広範囲な製品の生産に用いられ、最盛期には3000種類以上の用途があり、製造関係の労働者だけでなく、日常生活の中で一般の人々がアスベストに曝露される機会があり、もはや全国民が潜在的にアスベスト被害者と言えるほどの状況になっている。
 そして、現在最大の視点は「アジア」における今後の動向と言われている。アスベストの世界生産量とアジア各国の消費量の推移を見ると、日本,韓国,台湾等でアスベスト使用量が激減している一方で、中国,タイ,ベトナム,フィリピン等では、逆に今なお消費量が増加しつつあるという著しいコントラストが見受けられる。日本では、70年代頃からアスベストの消費量が急上昇し、その30年後にアスベストによる健康被害が顕著化している傾向に鑑みると、中国などでは90年頃から消費量が激増しているので、近い将来、これらアジア諸国がそれを追従するかのように我々の二の前を踏むことが推察される。したがって、今後アスベストによる危害を途上国に移転させないためにどう対処してゆくかが大きな課題の一つと言え、全世界的英知が求められているのである。2004年開催された「世界アスベスト東京会議(GAC2004)」では、今後世界的にアスベスト問題の焦点になりうるアジアで開催されたことに加え、アスベスト研究に先駆的に取り組んでいる研究者,今なおアスベスト使用が増大している国の政府関係者,労働組合,市民団体,被災者支援グループなど、立場の異なる人々が一堂に会し、議論が交わされたことは、一つの大きな成果と言えるであろう。
 一方、特に今後の動向として注目しなければならないのは、アスベスト生産量が世界第3位に位置する中国である。中国は、国内消費量もロシアに続き世界第2位で、アジアでは最大であり、アスベストの利用範囲も広いが、アスベスト被害の深刻さがいまだ注目されていないために、アスベスト産業が中国経済の支柱産業になっていることは否めない。
 一般に、種々の環境物質の規制などが実際に行われる際、その時点では科学的に不確実性が残るために、リスク管理の取る立場として、Cost-Benefit-Analysisとの兼ね合いからしばらく様子を見ながら使い続けてしまうことも少なくない。しかし、過去の痛ましい歴史を振り返ると、被害が出る前に予防的措置の視点、すなわち「予防原則」が取り入れられずに、早期警告があったにも関わらず、被害が出てからようやく手が打たれたといった事例が数多く見受けられる。アスベスト被害のように、長い潜伏期間を経て危害が明らかにされる場合には、「予防原則」を取り入れることは、問題が深刻化した現状からの反省も踏まえ、改めて問われることになると考えられる。
 そこで本稿では、昨今急成長を見せる中国の経済発展とその陰に潜むアスベストを巡る諸問題に焦点を当てて論じることとする。その際、ヨーロッパや日本における負の遺産から得られた教訓をもとに、中国でも人々の間で早期に問題意識を醸成する必要性を唱えながら、主として「予防原則」の視点から今後の課題を考察してみたい。

第3部 21世紀日中関係の再構築

(1)山田康博

東アジアにおける安全保障環境の変容と中国・アメリカ・日本
冷戦の終結後、東アジアにおける安全保障をめぐる国際環境は大きく変化した。東アジアの国際構造は、アメリカを「極」とする一極構造となった。進みつつある中国の「大国」化と、日本がより大きな軍事的役割をはたしていこうとしていることは、東アジア地域の国際構造をさらに変えていくだろう。国際構造の変化にともなって、国際秩序も変容しつつある。冷戦の終結後、ASEAN地域フォーラムをはじめとして安全保障問題を協議する多国間の枠組みが、それらが対象とする地域を拡大させるとともに、いくつもの枠組みが重なり合いながら発展してきた。
 東アジアにおける安全保障問題もまた変容しつつある。カンボジア紛争を最後にして、東アジアでは大規模な武力紛争が起こっていない。1990年代初頭には紛争の種として懸念された南シナ海を舞台とする領土問題は、完全な解決には至っていないものの大きな問題とはなっていない。21世紀に入ってからは、北朝鮮が核兵器実験に成功して大量破壊兵器の拡散問題が現実のものとなった。また、中国による軍事力の強化が、周辺諸国の警戒感を高めつつある。とくに台湾は中国の軍事力強化に対して敏感である。さらには、国際的なテロ対策の動きが、東アジアにおいても見られるようになった。
 このように、東アジアにおける安全保障をめぐる国際環境は1990年代以降大きく変容した。新しい国際環境において中国・アメリカ・日本の3カ国は、東アジアの安全保障を維持するために協調関係を築いていくことができるだろうか。中国・アメリカ・日本の3カ国の間にどのような関係が構築されつつあり、それが3カ国の協調関係をもたらすことになるのかどうか、それとも、よりよい協調関係を築くためには政策の転換が必要なのかどうか。以上に述べたような議論を内容とする論文としたい。

(2)李少兵

現代中国社会変動と東アジア新秩序
 1999年10月、私は香港のバプティスト大学で「中華人民共和国建国50周年国際学術シンポジウム」に参加し、ハーバード大学のEzra F. Vogel教授の「中国の飛躍と新世紀の東アジアにおける秩序」と題する講演を拝聴した。彼は、20世紀には日本が国力上実質的に東アジアのナンバーワンであったが、21世紀に入ると、中国の国力増長が予見できるため、どの国がアジアのナンバーワンかは言いがたくなり、中日間では明らかな競争関係が出てきたと述べた。
 2007年になると中国の国力は確かに目覚しく伸びた。これはGDPや国民購買力のような簡単な数字の問題のみならず、中国社会におけるいくつかの進歩的要素が積極的に牽引し、かつ総合的な影響をもたらしたことのなせる技と言える。 中国政府筋は中国が「社会主義初期段階」にあると述べ、一部の民間人士(訳注:共産党員でない社会的地位のある人)は中国が「ごった煮」の時期にあると考えている。このことが反映する実際の国情とは、中国には既に資本主義の初期要素があり、また封建主義の大海とそれに繋がる共産集権専制もあるということである。
 現代中国の社会変動の主な要因は市場経済の速い成長であり、中国のWTO加入の影響による汎行政化(訳注:社会において行政機能が過度に膨張し、その権力が極端に拡張する状態。Pan-administration。王世達「汎行政化略論」『開放導報』2003年02期[http://scholar.ilib.cn/Abstract.aspx?A=kfdb200302025])の後退、法治の初歩的な建設、民衆生活の自由度の増大、それに中産階級の成長でもある。
 これら進歩の要因は過去十数年間においては明らかな社会的効果を示し、将来の一定期間は自身も引き続き機能を発揮するであろう。しかし中国社会の深刻な変動の車輪は既に発動しており、たえず発展するには新しいさらに強力な動力を必要とする。しばし強力に押さえ込まれた民主化が、最終的にはその主要な要素になりうるのである。
 民主化が未来の予測可能な十年以内に中国大陸において真に実現することはないだろうから、中国大陸の社会が激変する可能性は比較的小さく、中国の東アジアにおける影響力は主としてやはり経済領域におけるものとなるであろう。
日本は国連の常任理事国ではないし、さらに歴史問題を遅々として解決することができず、いまだにドイツのように損害を被った国と和解できない。このため日本は早くに民主国家となっていたけれども、東アジアにおいては経済面での影響力を発揮するのみにとどまっている。
 21世紀の東アジア新秩序の中で、最も強大な二つの国家である中国と日本は、実際にはいずれも限界を抱えていて、影響力はすべて経済に偏っており、政治的には自国の「弱点や隠れた危険」のために、その影響は明らかではない。 現代中国の社会変動は、中国をすでに東アジアにおける日本の競争相手にまでせしめ、これに伴って東アジアの新しい秩序も出現した。しかし、このような「新しさ」には限界がある。総じていえば、国力と総合的影響力が最も強いアメリカが東アジア秩序ではやはり主導的地位を占めている。

(3)趙永東

高等教育の市場化:中日比較の視角
 20世紀末から21世紀に至り、世界の高等教育の「市場化」は大変な勢いで前進した。しかし、高等教育機構と市場・政府間の関係には、各国家・地区に違いが存在する。中国の高等教育状況については、最近の20年ほどで、中国の高等教育は自国の独特な方式で迅速に発展し、世界各国の学者の注目を引き起こし、また国外の中国研究及び中国高等教育に対しする強烈な関心も引き起こした。1998年から1999年に開始された中国高等教育は最も新しい発展段階に入った。このような「新しさ」は高等教育の規模の急激な拡大という面に現れているだけでなく、さらに重要なことが市場化と国際化を主要な特徴とする高等教育の改革に現れている。しかしこのような改革がなぜ中国という土地に起こったのだろう?この改革がどのような構造上の変化を伴うのだろうか?現在の中国の高等教育規模の拡張と日本の歴史上に現れた高等教育の規模拡大にはどのような違いがあるのか、本稿は高等教育市場化の背景と構造を整理して、これを基礎にして中国と日本の特質について比較を行う。中日の学者の批評とご指摘を賜りたい。
一.高等教育市場化の背景
 中世期ヨーロッパを起源とする「大学」には、19世紀末の近代国家形成に伴って大きな変化が生じ、近代の大学には「国家施設」型、「私立大学」型と「政府委託」型の3種類が現れるようになった。しかし、福祉国家政策の拡大と政府の義務的支出の増加により、特に人口構成が高齢化した工業発達国家においては、政府はその支出項目を抑えざるをえなくなり、高等教育もまた例外ではなかったのである。こうして、近代大の学の危機と機能の弱体化が引き起こされた。このような状況のもと、高等教育はより効率的に経営し、拡大し変化する社会需要により密接に対応しなければならなくなり、そこで以下の状況が現れた。
1.教育の市場化。90年代末期に現れた高等教育改革の基本的特徴は、高等教育が個人負担への依存度を徐々に増し、政府の財政投資の増加を限定的にしたことである。このような状況の下、まず思い至るのは学費の徴収である。同時に、ある高等学校は「二級学院」と呼ばれる教育機関を設置した。その他に90年代に入って、民営の高等教育も急速に発展した。
2.研究の市場化。中国の学術研究は、本来は研究所(Academy)の職責である。しかし90年代には、高等教育機関の研究領域において現代化の改革と建設が開始された。「211工程」と「985工程」計画の提出と実施にあたり、政府は北京大学や清華大学等の大学に多額の投資を行った。高等学校ごとの政府予算の配分は停滞して前進しないものの、90年代末期から競争的科研経費の比例は大幅に増大した。 二、中日比較
 高等教育の市場化は疑いなく世界の趨勢であるが、この時代の趨勢の最前列にいると言えるのは中国の高等教育改革である。中国は社会需要に基づいて自己行為を絶えず調整することができる高等教育の基層組織を形成し、同時に当該体制は教師が携わる教育と研究の原動力を活性化した。日本を見てみると、1960年代、日本の高等教育もまた相当粗放的な市場原理の支配下のもとで、急速に発展した。しかしその後の福祉国家政策の下、高等教育機関といういわゆる既得権受益者は、市場競争の圧力と徐々に隔絶するようになった。これは日本の大学の内部が自発的な改革力を産み出せない原因の一つである。
 しかし、マクロの視点から見ると、中国は急激に経済が発展しているけれども、収入分配の平等性は却って悪化している。このような高等教育の市場化の拡大は、高等教育を受ける機会の不平等をもたらしている。日本は私立大学の学費は相対的に高いが、国立大学の学費はかなり低い水準におさえられており、これが高等教育を受ける機会の均等性を保証した。
 この他、急激に増加する高等教育の卒業生が直ちに就職できるか否かは、目の前にある無視できない問題である。日本では、高等教育が大幅に発展した当時、大卒労働力の急激な過剰を招いたが、急成長したさまざまなサービス業がこの労働力を吸収し、高学歴労働力の過剰は社会問題にならなかった。中国経済がこの部分の高学歴労働力を吸収できるか否かはなお未知数であるが、目前の状況をみる限り、決して楽観はできない。
 高等教育市場化の発展モデルはどれほど長く続くだろうか?これに対して改革をするべきであろうか?どのように改革すべきであろうか?いつ改革するのが最も適切だろうか?この点において、研究者はこれらの問題に対して科学方法論的角度から科学的な知的検討を行うことが望ましい。日中比較は中日両国の研究者にとって重要な研究方法である。同時に隠し立てをすることなくこれらの課題に向き合い、中日両国の研究者が共同研究し相互に啓発することは、明らかに両国高等教育の健全な発展の重要な基礎と保障になる。

(4)許衛東

日本経済構造の転換と日中経済提携の展望
 第2次世界大戦後、日本はキャッチ・アップ型発展戦略を実施することによって、経済史上稀に見ない経済成長の果実を手に入れ、世界有数の市場大国、貿易大国、資本大国と技術大国としての確固たる地位を築き上げ、今日に至る。
 明らかに、日本は世界経済の中の重要な力であり、特に世界最大の債権国として、アジア太平洋地区の経済協力と発展に対して、また世界経済秩序を安定させることに対して重要な地位にあり、一挙手一投足が全局面に影響する。
 しかし、日本国内と国際の両方面の経済情勢を受けて、国内の景気低迷を上昇させるという客観的市場需要にせよ、また国際的には経済大国としての地位を確保するという主観的な願望にせよ、日本経済は厳しい歴史的挑戦の洗礼を受けなければならない時期にさしかかっている。
 国内では国富の均衡縮小傾向ならびに長期的な人口少子高齢化の動向が経済規模の引き継ぐ増大の可能性を阻んでいる。国際的には国際競争力の相対的な下降と市場緩和の緩慢さが日本経済の成長力評価にマイナス・イメージを増幅させている。
 発展の観点から見ると資産価値の上昇、技術革新の基盤的条件の整備および高付加価値型先端産業の先導的発展などに対する国際経済の期待が高く、日本経済のこれからの重要な転換方向である。この点、アジア太平洋地域の分業関係から言えば、市場の潜在力と労働力資源を備えている中国は日本の重要なパートナーとなるであろう。
 日中両大国の経済競争と連携が作り出す双機関車型発展形態は、アジア太平洋地区の経済秩序の基軸として、今後の変容が注目される。