19世紀の世界の政治・経済および文化をリードしたのは、ヨーロッパであったが、20世紀は「アメリカの世紀」だったとよく言われている。こうした欧米が主導した近代世界史を振り返ってみると、アジアの輝きがあまり評価されなかったように思われる。しかし、アジア諸国の著しい経済発展は、1970年代から明らかになっていたが、80年代にはそれがいっそう加速的となり、90年代には、世界経済のなかでもっとも活発な地域として注目されるようになった。中国の経済もこの地域経済の中に次第に組み込まれていき、グローバリゼーションの中で着実に成長をとげており、アジア全域の経済の一端を担うようになった。「中国の台頭」と言われるように、今後もアジアにおける中国の存在感はますます大きくなっていくと予想される。
このように、経済面での発達が著しいということは、近い将来の中国、日本、アメリカ三国関係においても、従来と同じように、経済が中心となっていくことを示すものである。しかし、それは中国、日本、アメリカ三国関係の今後が今までと本質的に変わらないということではない。経済面での中国の発展が著しければ、それだけ、中国、日本、アメリカ三国関係における他の面での複雑な問題も生じ得るのであり、また三国を取り巻く国際環境の変化も、従来のパターンとは異なったものとなり得ることも予想される。この中国、日本、アメリカ三国の協力関係を建設的に発展させることは、アジアの平和と発展のみならず、21世紀の国際システム全体の課題としてきわめて重要である。
あらゆる面での交流が深まっていくことが予想されるが、その接触や交流すべてが良い結果をもたらすとは限らない。誤解や摩擦も生じるだろう。中国、日本、アメリカ三国の関係の未来を眺めると、まだ不確定な要素を多くはらんでいる現実がある。本国際シンポジウムの趣旨は、歴史と現状の双方から過去一世紀の中国を取り巻く国際関係を問うことにあり、20世紀の経験から学び21世紀へ提言することを目的としている。「20世紀の経験」とは何だったのか。ここではまず20世紀におけるアメリカ人の「中国体験」、特に中国との出会いを通して得た対中イメージの変遷を中心に考えてみたい。
1785年、「中国の女帝」号という船がボストン港から出発し、はるばる太平洋を越えて、中国の貿易港広州に着き、米中接触の幕を開いた。これがアメリカとアジア貿易の始まりでもあった。独立戦争以前、アメリカの植民者たちはイギリス本国経由での輸出品によってアジアの産物を知っていたが、「中国の女帝」号は直接貿易を開いた海軍業界にセンセイションを巻き起こした。巨大な利益を得ることで、その後、希望に溢れたニューイングラント人は中国との貿易を盛んに行った。しかし、アメリカ人が多く中国へ到着したのは19世紀以後のことである。そのきっかけは宣教師の福音伝道活動によるものであった。
19世紀から20世紀初頭にかけて、アメリカ人宣教師がアングロ・サクソンの「白人責務論」(Manifest Destiny)に基づき、多く中国に送られた。最初のアメリカのプロテスタント宣教師は1830年に中国に到着した。1840年のアヘン戦争以降、中国は宣教師たちの興味をいっそう引き付けた。19世紀を通して、アメリカの海外伝道の歴史は海外膨張主義の産物であり、国家の領地拡大と商業の冒険主義のきっかけでもあった。1890年代にアメリカ国内のフロンティアが終わりを告げると、宣教師たちは海外に目を向け、アメリカの海外伝道の新しい幕開けとなった。それに続く20年間、アメリカの海外伝道は世界の福音伝道の先導となった。同じ時期に中国はアメリカ伝道界ではもっとも将来性のある国だと思うようになってきた。1880年代まではアメリカ伝道の関心としては、近東が極東に勝っていた。1890年にインドはイギリスとアメリカ両方の伝道の興味を引き付けていたが、90年代以降、アメリカの海外伝道は中国が宣教師の人数ではインドに勝り、予算では近東に勝っていた1。アメリカ歴史家ウイリアム・ウイリアムズ(William A. Williams)が指摘したように、中国はアメリカ人の意識の中に、「アメリカのイデオロギーおよび経済的拡張の新しいフロンティアのシンボル」として顕れてきた2。
ところで、中国人に対する初期の伝道の姿勢は非常に急進的で、帝国主義的であった。つまり、異教徒の文化に対して大いなる軽蔑に彩られ、アメリカの文明が優れているという確信が誇張されていた。このような態度が19世紀伝道政策を形作り、対中イメージに影響を与えてきた。アメリカ人の中国に対する軽蔑は「異教徒中国人」という一般的な宣教師のイメージからきていた。それは後に中国人移民排斥運動に結び付け、1882年の排華法につながるものであった3。このような態度は歴史家ジェイムズ・リード(James Reed)が「宣教師の思考様式」(Missionary Mind)と指摘したものに支配されたアメリカの中国政策を形作るのを助長した4。
その後、20世紀初頭中国の社会的・政治的な変革が新しい形の伝道をもたらすことになった。この時期に何千人という宣教師が中国にやってきて、中国における伝道の黄金期でもあった。当時30近くのキリスト教宗派が宣教師を中国に送り込んでおり、そのため、中国で伝道していたプロテスタント宣教師の半分以上、2,500人に及ぶ人数がアメリカ人によって占められていた。こうした積極的な「福音」伝道活動はアメリカ文化の優位性を前提としており、自分の優れた技術や文明を中国人に伝え、中国の近代化を促進し、米中関係の緊密化を増やしていこうという考えであった。
加えて、宣教師だけでなく、多くのビジネスマン、外交官、新聞記者、学者、教育者も中国にやってきて、1930年代の一番多い時期には、13,000人のアメリカ人がいた。それによって、アメリカ人の中国に対する感情は新しい局面を迎え、それが宣教師や知識人による交流に裏打ちされたものである。第二次世界大戦以前に中国で生活した「中国通」と呼ばれた人物は中国人に対する自国でのアメリカ人の対中認識を変えるために働きはじめた。その中でもっとも重要な人物の一人は、ヘンリー・ルース(Henry Luce)であった。
ルースは1898年4月3日、中国青島の長老派宣教師の家族に生まれ、14歳まで中国で生活していた。彼の父ヘンリー・ウインターズ・ルース(Henry Winters Luce)は1897年中国に入り、30年以上にも渡って中国人にキリスト教の「福音」を広めることに尽くした。愛国心に富み、宗教心も強い父はこの時代の宣教師同様、中国を変えるために「あまり幸運に恵まれていない」何億の中国人にキリスト的文明を広めようと努めていた。
同じように、多くの宣教師は中国の歴史が大いなる文明であると理解しはじめた。その非常に多い人口が大いなる可能性をもっていた。「この国は素晴らしい国だ。5分毎に神への理解が深まるように感じる。」とルースの父は友人への手紙にこう書いていた5。宣教師にとってはこの深遠なる変化を知ることは驚きであった。彼らは中国をキリスト教的思想、精神、威光で満たすのを神が助けると信じており、中国国内にもたらそうとした変化に加えて、その経験が自分の子供たちに意義のあるものを与えた。しかし、ルースは父と違って直接宗教ではなく、メディアの力でアメリカ文明の威光を世界の各地に与え、世界を征服しようとした。
ルースは1923年タイム社を創設し、アメリカで最初のニュース週刊誌『タイム』を創った。『タイム』誌の発行部数は1935年の45万から1937年には60万を越えた。『フォーチュン』誌は読者がより特定されたが、1937年に10万を越えた。さらに新しい写真ジャーナル雑誌の『ライフ』誌は1936年に世に出た。1941年までに3種類の雑誌はタイム社をメディア帝国にのし上げ、ルースは続く20年の間に、アメリカのマス・メディアの中で、もっとも強力で知られた出版業界の帝王となった6。アメリカのマス・メディアへのルースの成功と影響を指摘する一方で、シカゴ大学の前学長ロバート・ハッチンズ(Robert M. Hutchins)は、「すべての教育システムをあわせたよりもルースの雑誌のほうがアメリカ人には影響を与えてきた」と述べている7。アメリカの人々に対するルースの影響は単に売った雑誌の数で計れるのではなく、強力なメディアの力を使って、アメリカ人の中国認識の構造を設定するのを助け、中国がアメリカにとってどのような意味があるのかという非常に影響力のある概念を持ち出した。
中国はルースにとってはノスタルジックがあった。いつも優しさや愛情に満ちそこで育った子供時代を思い出し、アメリカと中国は完全に融合できるという考えを持っていた。つまり政治、道徳、経済に強力なアメリカと、アメリカがその使命を果たすために十分な独自の立場を持つ中国との融合である。ルースが「アメリカ化された中国」という概念を伝える前に、1927年から31年の間にわたり三つの重要な出来事が起こった。第一は、1925年孫文の死後、蒋介石が反共に成功し、中国の指導者になった一方、敬虔なクリスチャンの宋美齢と結婚すると自分もクリスチャンとなったことである。第二は、1931年にパール・バック(Pearl S. Buck)の『大地』が出版されたことである。バックの作品に登場してくる中国人の小作人は高潔で、忍耐強く生まれながらに現実を直視し、厳しい自然と絶えず闘っており、その姿がアメリカ人の心の奥深くに届いた。第三は、1931年9月の日本の満州侵略である。最初日本の中国侵略にはすぐにアメリカの反応があったわけではなかった。それよりも、蒋介石のキリスト教信仰とバックの作品のイメージはアメリカ人が後にアメリカ人の新しい中国像を創ろうとすることの基となる。
その時代を通して、ルースのタイム社は蒋介石の国民政府を支持し、共産党を排除しようとする努力を称え続けた。満州事件直後の1931年10月、蒋介石がはじめて『タイム』誌の表紙を飾り、それは日本の中国侵略に対抗しようとする蒋介石の決意を強調していたものとみられる8。1933年に二度目に『タイム』誌の表紙に現われた時には、キリスト教の信仰を持ち蒋介石が中国の近代化に果たす役割を強調し、共産党勢力を抑え、国内の統一をもたらそうとしたことに焦点が当てられた9。1936年末、ルースは蒋介石政権を強く支持していることは明らかであり、ついに「蒋介石は疑いもなく極東でもっとも偉大な人物になるだろう」と締めくくっていた10。
「極東でもっとも偉大な人物」というイメージを発展させるため、蒋介石が指導した国民党軍がどのように日本軍と闘ったかを『タイム』誌が強調した時に、蒋介石の中国共産党の扱いに特に注意を払った。1936年11月9日『タイム』誌のカバー記事は、ルースが長年続けてきた、蒋介石が中国人にキリスト教的道徳、政治的民主主義、近代的な産業をもたらした人気のある指導者としてのイメージを助長するためのキャンペーンの始まりであった。そこでは、蒋介石のキリスト教的道徳観および共産党と闘うことに焦点を当て論じ、彼が優れた指導才能を有する者として、「疑いもなく極東でもっとも偉大な人物」であると再び強調した11。
しかし、1936年11月、蒋介石が『タイム』誌の第三回目の表紙を飾ったわずか1ヶ月後、張学良将軍は西安を訪れていた蒋介石を監禁し、いわゆる西安事件が発生した。まもなく、1936年12月の『タイム』誌にはまず二点が明らかにされていた。第一に、蒋介石が東アジアでもっとも権力のある人物であることと、第二に、彼の監禁は強力な親共産党派で、かつてアヘン中毒だったものの仕業であると書かれた12。実際に、張学良将軍は蒋介石の国民党軍が共産党に対抗する作戦を止めさせ、その代わり日本軍と闘うことに集中して求めたのであった。張学良将軍の「アヘン中毒」つまり中国の後退と悪勢力とみなされたのに対して、ルースは「蒋介石こそ中国を進展させる事ができる唯一の人物である」と信じていた。後に『タイム』誌では、蒋介石が「中国のナポリオン」として登場し、「アジアでもっとも偉大な政治家である」と描かれた。それゆえ、中国の人々には日本の中国侵略に対抗するためには、彼の優れた指導力を必要として、「アジアの平和、中国の経済的発展および政治的民主化の実現は彼の手に握っている」との結論をつけた13。
さらに、張学良将軍が蒋介石を1936年のクリスマスの日に釈放したことはルースにとって、大きな意味があった。後に蒋介石は西安で軟禁されている間、彼のキリスト教信仰がどのように自分を支えたかを公に話し、何度も強い信仰心のことをあげ、「十字架にかけられたキリストの精神で中国人のために最後の犠牲となる覚悟ができていた」と述べた14。このように、海外の支援を得るために、蒋介石は自らキリスト教を誇示することを政治的利用価値として素早く見てとった。これは本当に行動の規範となる内面の思想よりも、公共の場でのパフォーマンスに気を配ったものである。だが、蒋介石のこの言葉は海外でも多くの支持者を作り、彼らは中国がキリスト教の信仰で精神的に生まれ変わるだろうと信じた。例えば1938年1月3日の『タイム』誌のカバー記事では、「蒋介石がより進歩的な世界を作るために中国人を団結させる卓絶した指導力を有する」ことを論じ、彼の「新生活運動」を「ピューリタニズムの火増し油」にたとえ、「蒋介石は20世紀の中国に進歩と繁栄をもたらす唯一の人物である」と再び結論を出し、「疑いもなく彼は20世紀のアジアにおいてもっとも偉大な人物になるだろう」と予言した15。そのため、蒋介石は『タイム』誌の「1937年のもっとも優れた人物」として選ばれ、1938年1月最初の『タイム』誌の表紙を蒋介石夫妻の肖像で飾った。満州事件直後、蒋介石の肖像が『タイム』誌の表紙として登場しはじめ、盧溝橋事件勃発後蒋介石が『タイム』誌の「1937年のもっとも優れた人物」として選ばれるまでわずか6年間だが、蒋介石の巨大な肖像や写真は『タイム』誌の表紙として4回以上使われ、これが『タイム』誌史上前例のないものであった。ここで特筆すべき点は、ルースの『タイム』誌の蒋介石に対する称え方の微妙な変化である。満州事件直後『タイム』誌では、蒋介石が「中国のナポリオン」として登場し、後に「極東のもっとも偉大な政治家」へと変身され、さらに「20世紀のアジアにおいてもっとも偉大な人物」として描かれた。要するに、蒋介石が中国、極東、さらに20世紀のアジアの「もっとも偉大な人物」となっていく過程において、アメリカがその影響を十分に中国、さらにアジア各地に及ぼし、国際政治の全体的方向性を握るために全世界に対し自由と民主主義の拡張の力を積極的に行使すべきであると、ルースはアメリカ国民に警鐘を鳴らしたのである。つまり、彼の論理は、世界がアメリカの積極的関与なくして価値のある国際秩序を築くことができない、戦争そのものの意味にあるということである。その意味で、アジアでの戦争がアメリカの戦争であり、アメリカは戦後に向けて、世界秩序の形成に決定的な役割を果たさなければならないのである。
1941年5月、ルースは国民党政権の首都重慶を訪問し、蒋介石と会談を行った。それをきっかけとして、アメリカの指導の下で、ルースは蒋介石が指導した民主的な中国は最後には現実となるであろうと再び確信し、帰国後、『ライフ』誌に寄せた論説のなかで、日本帝国主義と戦う「自由中国」の姿を大いに宣伝するために、蒋介石夫人宋美齢の巨大な写真を同誌の表紙として選び、蒋介石政権への支援を呼びかけた16。だが、ルースの願望が実現化され、中国における「アメリカの世紀」が大々的に展開し始めるためには、さらに劇的な事件を必要としていた。それは、いうまでもなく日本の真珠湾攻撃であった。
1941年初頭、ルースは『ライフ』誌にエッセイを寄せ、20世紀が「アメリカの世紀」であると見通していた17。「アメリカの世紀」という彼の有名な予見は、アメリカがその比類のない国力によりその影響を十分に全世界に及ぼし、国際政治の全体的方向性をコントロールするために伝統的な孤立主義を投げ捨て、介入的な国際主義へと対外政策を全面的に転換しようとしたものである。ルースのこのエッセイこそ、アメリカ対外政策の大転換の兆しをいちはやく敏感に嗅ぎ取り、介入的な国際主義の必要性を強く打ち出す最初の宣言であった。日本の真珠湾攻撃は、アメリカにその運命と世界に対する責任を果たす絶好の機会を与えることになった。同時に、真珠湾攻撃はアメリカがアジアに対して抱く概念を、二つの点で大きく変えた。第一は、アメリカ人の日本と日本人に対するイメージはかなり人種的なものになり、終には日系アメリカ人を強制収容所に送るということになる。第二では、アメリカ人の中国に対するイメージは極端に好意的なものとなり、太平洋戦争勃発以前には、アメリカ民衆の間には、中国と中国人に対して同情的な見方もあったが、最終的には非現実的な賞賛と楽観主義的なイメージに傾いた。
真珠湾攻撃の二日後、『ニューヨーク・タイム』紙の社説では、「もしアメリカが、無尽蔵の兵力を有する忠実な同盟国、中国と協力すれば、太平洋戦略の鍵を握ることになるだろう」ということが議論された18。1942年初頭『タイム』誌では、アメリカ人は、非情な侵入者に対して自由を求めて絶えることなく勇敢に戦ってきた最初の国民である中国人の英雄的な不屈の精神に対して、深い同情と賞賛の念を示したと共に、「蒋介石は日本侵略者と敢行に戦う唯一の指導者である」と強調し、「自由中国」の大義を宣伝し続けた19。6月1日の同誌には、蒋介石の肖像が第5回目に『タイム』誌の表紙を飾り、そこで「アジアの最も偉大な人物」というタイトルをつけた。その中の記事においては、蒋介石がいかに「毎日朝5時半に起きて、中国語版の聖書を読み、祈祷し、自由中国の運命を探っている」かと具体的にクリスチャンの蒋介石の姿を報じ、また「われわれを援助してくれれば、中国は必ず戦争を勝ち取ることができる」との蒋介石の言葉を引用し、国民政府の「民主化」を過大評価していた20。その後、ルースの『タイム』と『ライフ』は、蒋介石とアメリカの教育を受けたその妻宋美齢の指揮下の中国は、日本の侵略に対して勇敢に戦っていることを報道しつつ、蒋介石の「アジアのもっとも偉大な政治家」というイメージをいっそう発展させた。さらにルースの「アメリカ化された中国」というイメージをアメリカ社会に伝え、それを実現させる絶好のチャンスはまもなく到来した。それは1943年の蒋介石夫人宋美齢のアメリカ訪問であり、それによって、アメリカの中国に対する情熱は、戦時の強烈なうねりの中で最高潮に達した。
宋美齢は1942年11月27日にアメリカに着き翌年の5月まで滞在した。夫と中国国民党を代表して、1943年2月上旬、彼女はホワイト・ハウスを訪問し、17日にローズヴェルト大統領と会談を行い、アメリカの対中援助の強化を求めた21。会談後、ローズヴェルトは「世界でもっとも特別な特使」である宋美齢とともに、記者会見を行い、「もしアメリカ人が蒋介石夫人のアメリカに対する理解の半分でも中国を理解できれば、じつに喜ばしいことであろう」と語り、中国を全力で支援することを内外に宣言した22。
翌日、蒋介石夫人は上下両議会に招待され、上院で行われたスピーチの中で、自分自身を中国人とアメリカ人の間の深いつながりの例としてあげ、「私はあなた方の言語を話しています。それはあなた方の舌から出る言葉だけでなく、あなた方の心からの言葉でもあるのです」と強調し、「今日ここに来て私はまるで家に帰ってきているように感じます」と語った23。中国人とアメリカ人の類似性を多く強調して、彼女は、「両国の間の160年にわたる伝統的な友情関係は誤解によって損なわれることはなく、世界史の中で消えることはできない」という米中両国の親密な同盟関係を訴え、「中国はあなた方と熱意をもって協力し、近隣の略奪者たちが再び人類を血塗られた運命に導かないよう、より理想的かつ進歩的な平和世界のための礎を築くことに尽くさなければなりません」とアメリカ社会に伝え、「それは我々自身のみのためだけでなく、全ての人類のためです」と宣言した24。
そのスピーチは非常に成功だった。上院も下院も、優雅で、チャーミングで知的な中国のファースト・レディーに心を奪われ、驚いた。1943年3月1日の『タイム』誌の記事は蒋介石夫人の上下両院での演説を大いに報道し、「彼女のアメリカに対する理解は祖国への愛情と融合し、米中両国の関係は兄弟のようなものである」と論じた。また蒋介石夫人の議会声明は、連邦議会でなされたスピーチの中で「もっとも印象的で効果的なものの一つ」と称された25。同日の『ライフ』誌にも、宋美齢の議会演説が「彼女はいかに巧みに我々と同じ言語を話すかという点ばかりでなく、その考え方や価値観において、いかに我々と類似しているかという点を明らかに証明してくれた」と強調した26。蒋介石が「1937年のもっとも優れた人物」として選ばれた際に、『タイム』誌は中国の近代化や民主化における宋美齢の役割を強調しつつ、「悠久なる中国文明を再生させ、中国人の道徳、倫理、物質文明のあらゆる面において彼女は誰よりももっとも素晴らしい指導力を有する人物である」と論じた27。従って、ルースは宋美齢の訪米にあたって、全米各地で彼女の歓迎会や講演会の開催に心血を注いだと同時に、宋美齢の訪米をきっかけとして、蒋介石が指導した「自由中国」の様子を大きく宣伝するため、1943年3月1日の『タイム』誌は、その表紙を宋美齢の肖像で飾ったことを決めたのである。
さらに、アメリカ世論を中国に有利な方向に導き、アメリカからより多くの対中援助を引き出すため、ほぼ二週間後の3月2日、蒋介石夫人宋美齢はニューヨーク市を訪問し、市庁舎前のマディソン・スクェア・カーデンで約2万人のアメリカ市民に演説を行い、「中国が平等かつ公正な原則に基づき、より進歩した世界を築くために最善の努力を尽くさなければならない」と決意し、「神と人類に共通する平和な理想世界」を実現させるための中国人の心奥からの願望を表明した28。このように、1943年の春、蒋介石夫人はワシントンからニューヨーク、ボストン、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルスまで移動し、アメリカ人の蒋介石の指揮下の中国に対する関心をいっそう喚起したのである。
一方、アメリカの報道やメディア、特にルースの『タイム』誌や『ライフ』誌では、蒋介石夫人は「自由中国」の声であるだけでなく、「アジアの声」として取り扱われた。3月15日の『タイム』誌は、蒋介石夫人が英語を完璧に使いこなしていることとアメリカと中国において同じ考え方や価値観を完璧に理解していることが、より両国の関係を近いものにし、これら二つの共有された文化的概念―言語と考え方―は相互理解を創り出し、両国間の絆を強くすることを何度も繰り返している。すなわち、中国はアメリカ人にとってもはや奇妙で理解しがたい国ではなく、海の向こうで自由を希求し、「我々にとってなじみのある特色を持つ民主主義の喜び」と表現している。彼女の夫蒋介石は、戦後もアメリカのもっとも親密なアジアの同盟国である、「自由」と「民主主義」の中国を建国しようとしている人物の象徴として描かれている29。
明らかに、宋美齢は、「中国とアメリカの文化を完璧に統一した人物」であることをアメリカ人に示しつつ、その政策表明の全てにおいて中国がアメリカのモデルを採用しようとしているという考え方を進める「完璧な人物」であることが分かる。彼女は中国を擬人化することに成功し、アメリカ人が自分のイメージ通りに、残りの世界を変える努力の中で、見たいと願っていた明白な証拠となった。蒋介石夫人は、アメリカの宣教師が何十年にもわたって伝達したいと願ったメッセージの象徴であったことは疑いがないだろう。
同時に、アメリカ人の目には、中国人はキリスト教の信仰と民主主義のイデオロギーを、特にキリスト教徒蒋介石の指導のもと、喜んで受け入れようとしているというふうに映った。蒋介石のアメリカでの一般的なイメージは、中国人をアメリカスタイルの未来に導く勇敢な、英雄的なキリスト教信者というものになっていたのである。
のみならず、蒋介石夫人の登場は直接戦時中の緊張事態と、伝統的に男性中心の政治世界においてアメリカ人の中国に対する見方に深く関わっている。1930年代から始まった中国の「新生活運動」のリーダーとしての活躍、戦争孤児のための応援活動、孤児救済委員会の会長としての立場、これらは全て、中国とアメリカの両方の社会によって制限されてきた伝統的な女性の立場を超えて活躍した女性としての彼女のイメージに貢献している。1942年2月12日、蒋介石とインドを訪問する際、宋美齢は世界中の女性に「民主主義を勝ち取るため、私たちは戦争協力をしなければなりません」と呼びかけた30。または東洋と西洋の相互理解を求めるため、彼女はアメリカのマス・ メディアに積極的に登場し、中国人の平和への願望および世界再建における役割を伝え続けた31。さらに訪米活動を通じて、彼女はローズヴェルト大統領の「四つの自由」を実現させるため、アメリカ人の女性にも呼びかけ、戦争に協力しようと訴えた32。
このように、同盟国になった中国のとても重要な人物としての蒋介石夫人の登場によって、アメリカの女性も、戦争に貢献するという認識を持ち始めた。従って、多くのアメリカ人が中国を蒋介石夫人を通してみるようになった。彼女は中国人がもっとアメリカ人に近くなるという推測を持たせた。最終的に、この推測は中国とアメリカの関係の未来に関してアメリカ人の理想化された一つの幻想を生むことになったのである。
第二次世界大戦は中国とアメリカを結び付け、両国の間に一つの神話を生み出した。この間の米中関係は特別なものであったが、後にひどく複雑になった。大戦終結後まもなく、国共間の軍事的紛争が始まり、終に全面的な内戦へと進んでいった。その後、蒋介石の国民党軍の敗北による「中国喪失」、および「二つの中国」などの激しい論争は1950年代にアメリカの政界で起こった。現在も多くのアメリカ人にとって中国は二つ、独裁的で脅威のある「赤い中国」、と民主主義の「自由中国」(台湾)がある。アメリカと台湾との特殊な関係は米中両国の間の大きな障壁となっている。今日でさえ、米中関係における断続的な改善に、大戦期のアメリカ人の想像と経験が影を落としている。
イメージとはなにか。現実とはなにか。影とはなにか。実体とはなにか。この質問に対する答えを見つけるのは確かに難しい。これらのイメージのどれも、純粋な幻想の産物には思えない。それぞれのイメージが誰かの経験の影響と、知覚の「真実」を表現している。私たちが考えることの中の神話と現実の区別をするために努力と鍛錬が必要である。なぜなら、イメージはたいてい人々の自分自身に対する推測から生まれてくるのであって、歴史的、文化的、あるいは社会的理解から生まれてくるのではないからである。>
アメリカと中国は、過去一世紀の間、お互いに様々なイメージを抱きながら、いろいろな劇的な出来事を体験した。そして今や、ある種のイメージがドグマされ、それをそれぞれの政策の基調としているように見える。しかし、本論で述べたように、米中間の相互イメージは一方的に極端化、あるいは理想化される傾向が以前から存在している。さらにそのイメージと現実との間のギャップが広がるにつれ、米中間の相互イメージもまた変わっていく。
今回の対テロ戦争を通して、米中間の提携関係はいっそう強化されてきた。2002年、ブッシュ大統領が就任以来始めて中国への公式訪問を実現した。歴史の偶然であったが、ちょうど30年前ニクソンは米国の大統領として始めて中国の土地に降り立ち、20数年間に渡って敵視しつづけた米中両国が共同の脅威を取り除くために暗黙の「同盟」関係を結んだ。今年の9月、胡錦涛国家主席はアメリカを訪問した。続いて11月、ブッシュ大統領は再び北京を訪問し、中国との全面的な協力関係の強化を模索している。このように、米中関係は目まぐるしく変化し、21世紀における国際関係の展開の見通しをたてるのはけっして容易ではない。しかし表面的に刻々変転する出来事でも、歴史的な観点からみれば、意外と連続性のあることが多く、米中関係の歴史的展開をたどる意味もそこにあるのではなかろうか。
米中両国の提携関係がいっそう進む一方、21世紀に向けてアメリカに匹敵する経済規模を持つことが確実視される中国に対して、さらには潜在的「脅威」と見なして身構える向きがアメリカ国内には少なくない。中国の社会主義体制が崩れない限り、経済の発展が著しく進むなかで、米中対立の時代が再び来るのではないか、という不安を抱いている人々も少なくない。いわゆる「中国脅威論」の根強い存在である。彼らは、ベオグラード中国大使館の「誤爆事件」を契機に、ナショナリズムの高揚しつつある中国で、ナショナリズムが国家統一の道具としてイデオロギーのかわりをしていると分析している。また中国が再び覇権的な「中華思想」の世界を狙っているのではないかと恐怖感をもっている。米中両国は、自らの歴史や文化および政治的立場を反映させながら、今後どのように共存していくのか、こうした問題は米中両国に限らず、アジア、さらに世界各国の人々に与えられた新たな課題であろう。