上智大学講師 清水 学
ここ2、3年の間にユーラシア大陸における上海協力機構(SCO=Shanghai Cooperation Organization)の存在感が強まっている。SCOは正式には2001年6月15日に発足したもので、2006年6月には上海で加盟国6カ国の首脳が参集し、結成5周年を祝っている。現メンバー国は中国、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、ウズベキスタンであるが、オブザーバー国としてモンゴル、インド、パキスタン、イランの4カ国が参加している。なお5周年の式典にはアフガニスタンのカルザイ大統領をゲストとして招待した。地域協力機構には各地に多様なものが存在しているが、形式的な存在で機能が事実上停止しているようなものとか、活動は行っているがインパクトはもともと限定的なものも少なくない。しかし、SCOが存在感を強めてきた背景には、中国がロシアとならび積極的にSCOの活動に力をいれていることのほか、以下の特徴を考慮に入れる必要がある。
それは第1に、中国が主としてイニシャチブを発揮して組織した最初の地域協力機構だということである。第2に、SCOは軍事同盟ではないが、反テロを目的としている点から、協力の範囲が共同軍事演習の実施までを含んでおり、通常の地域協力機構の枠を超えた軍事面の協力まで含まれていることである。第3に、地域的にはロシア、中国、中央アジアの加盟国のほか、オブザーバーを含めると南アジアや西アジア・中東まで含んでいる地域横断的な組織で、極めて広大な地域と膨大な人口(全人類の半分近い)を包み込む地域協力機構だということである。加盟6カ国で世界の人口の4分の1、面積の5分の1を占める巨大な地域機構であるが、オブザーバーの国々を入れると世界人口の半分、面積もかつてのモンゴル帝国に匹敵する広さに近づく。第4に、BRICsと称される新興経済として注目される4カ国のうち、中国、ロシアとオブザーバーではあるがインドの3国が含まれており、経済的存在感を強めていることである。特に中国の経済的地位の巨大化は否応なしに、国際経済に対するインパクトを大きくせざるを得ない。急速な経済成長に伴うエネルギー資源、さらに各種原材料にたいする需要を急速に強くなっており、石油・天然ガス資源を求めてどこでも機会があれば進出しようとしている。インドのエネルギー資源を求める動きも急ピッチである。また、パキスタンの経済成長力も無視できない。これらの要素が直ちにSCOの活動に影響を及ぼすという意味ではないが、潜在的な影響力として重要である。第5に、米国あるいは日本、EUがメンバーあるいはオブザーバーとして認められる可能性は現段階ではなく、米国の影響力を排除した組織だということである。他方、中国とロシアの間の対立を調整し、協調と協力の可能性を追求しうる場となっている。第6に、中国にとって、西部大開発構想に見られるように相対的に経済発展から取り残されてきた内陸地域の経済発展と安全保障にも関連した、ソ連崩壊後のユーラシア外交をどのように展開するかという大きな戦略上の課題と関連していることである。換言すれば中央アジアの戦略的位置づけが焦点となる組織となっている。第7に、米国の一極支配体制とは異なる別の極として機能しようとする意図がみられ、米国を中心とする国際的枠組みに対して共同して対抗していこうとする意図が折に触れ示されていること、それ故に米国にとっても警戒すべき地域協力機構となってきたことである。特に強調しておきたいのは、2005年にイランがオブザーバーとして認められたことである。これについては後述するが、米外交におけるイランの決定的重要性を過小評価すると、この意味を理解できないことになる。
しかし誤解がないように最初に付加しておくとすれば、SCOの組織原則が極めて緩やかであり、加盟国の間の利害の対立も少なくはなく、統一的意志のもとで活動することを妨げる要素が多々存在していることである。従って、特定の国がSCOの全体の方向性とは異なる独自の政策をとっても、それを制裁したり、排除したりする権限を持った強力な地域協力組織ではない。しかしいかに緩やかであれ、一極支配体制とは異なる方向性を意図している点では、独自の存在理由を主張する組織である。もう一つは、SCOの重点課題事態が流動的だということであり、特に米中ロシアの間の相互関係の影響を受けやすいという点である。
SCOの歴史を見るためには、その前史である1996年以降の上海サミットを含めて考察する必要がある。なぜならば過去10年間で、この地域協力機構に期待する役割と重点が大きな変化を遂げてきたように見えるからである。その歴史は以下のように3つの段階に時期区分することが可能である。
1996年4月、上海に中国、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタンの5カ国首脳が集まり、首脳会議を行った。中国の江沢民主席がイニシャチブをとったもので、上海サミットあるいは「上海ファイブ」と呼ばれた。その構成国は中国および中国と国境を接する旧ソ連構成共和国であり、当初の課題は国境地帯における軍事面での信頼醸成と国境確定を目的としたものであった。国境確定交渉自体は1992年9月以降、段階的に行われてきていた。1997年には国境地区軍事力相互削減協定が調印され、以後、参加国持ち回りによる首脳会議が定例化した。注目すべきことは、5カ国すべての首脳が例外なく毎年出席している点で、これは各国ともこの首脳会議を特に重視してきたことを示している。中国との国境確定はタジキスタンとの間の合意は2002年にまでずれこんだが、中国とカザフスタン、キルギスタンとの間の国境は1999年までに確定した。中央アジア各国は中国に譲歩したという意識が強く、これが対中国政策を展開するうえで微妙な影響を与えているが、国境そのものが確定した意味は大きい。
1999年8月のビシュケク会議を契機として、国境確定とならんで「反テロ」が新たな共通課題として浮揚した。キルギスタン南部のバトケン地区(現在はバトケン州)で日本人の鉱山技術者4人が、「ウズベキスタン・イスラーム運動(IMU)」系活動家に人質になる事件が首脳会議の直前に起きたこともあった。中央アジア諸国、特にウズベキスタンにとっては「イスラーム過激派」が独立以降、体制側にとって最大の脅威として受け止められていた。また中国は新彊ウィグル自治区におけるトルケスタン独立分離運動、ロシアはチェチェンにおける分離運動を抱えており、それぞれ国家統一の課題に挑戦するものと見られていた。また「イスラーム過激派」が国際的に連携しながら活動しているとみられ、それゆえに関係諸国が共同して対処する必要が痛感された。上海サミットのメンバー国が共通に抱えている問題であると認識されたのである。特に中央アジア諸国のイスラーム過激派、ウィグル独立運動、チェチェン独立運動がアフガニスタンのタリバーン勢力と関係を持っている者もあり、かれらがアフガニスタンやパキスタンで思想面での影響を受けるとともに武装訓練を受けていると見られていた。また一部はビン・ラーディンとの関係も疑われていた。
翌2000年にウズベキスタンが上海サミットにオブザーバーとして加わったことは、上海サミットの目的が国境画定から「反テロ」に重点を移したことを示すものであった。ウズベキスタンは中国とは国境を接していないが、1999年5月にタシュケントで大統領暗殺未遂事件が起きており、ウズベキスタン政府はイスラーム過激派に対する危機意識を一層強めていた時期であった。ウズベキスタンの上海サミットへの関心は「反テロ」のための地域協力にあった。ウズベキスタンは2001年6月に正式にサミットに加盟した。 「反テロ」がサミットでは強調されたが、そこで共通軸として打ち出されたのは、「反分離主義」「反テロリズム」「反宗教的過激主義」のコンセプトであった。この3つのスローガンは事実上密接に結びついているコンセプトであり、イスラーム過激派によるテロと分離独立運動に共同で対処していくという含意があった。ウズベキスタンの加盟で中央アジア5カ国のうち、4カ国がSCOのメンバー国になったが、未加盟のトルクメニスタンは1995年に中立非同盟宣言を行っており、地域協力の面でも他の4カ国とは1線を画しており、今後ともSCOに加盟あるいはオブザーバー参加する可能性はほとんどない。
ウズベキスタンの受け入れに伴い2001年6月15日、上海ファイブは常設機関「上海協力機構」(SCO=Shanghai Cooperation Organization)として再編・再出発することになった。共通の利害が国境確定を超えて多分野に広がっていることを認識し、恒常的な形で関与する必要を認識した結果であった。そこでは「反テロ」のみならず経済分野での協力、文化交流など多面的な活動に言及されている。SCO加盟国の間の多角的経済貿易協力としては、貿易・輸送・環境・災害救済・技術、教育、電力・エネルギー、天然資源の合理的利用での協力がうたわれている。
2001年の9月11日事件は中国・ロシア・ウズベキスタンなどに大きな衝撃を与えた。アフガニスタンのタリバーンの「国際的活動」に対する共通の懸念を持っていたからである。タジキスタン、キルギスタン、ウズベキスタンが米軍・EUなど多国籍軍のアフガニスタン作戦のため、国内の空軍基地あるいは空港の使用を認めたのはそのためである。キルギスタンのマナス国際空港に700人の米軍、ウズベキスタン南部のハナバード空軍基地には1000人の米兵が駐屯し、タジキスタンでの米軍などの空港利用も多国籍軍に認められた。ウズベキスタンは多国籍軍のタリバーン攻撃に利益を感じていた。IMUがタリバーンと関連を持っていたためである。またウズベキスタンにとってはロシアと米国の勢力をバランスさせるという意図もあったと見られる。しかしロシアにとっては、中央アジアは独立直後「近い外国」と呼ばれていたように、旧ソ連領として「裏庭」的意識が強い地域であるだけに、米軍が入ってくることは大きな心理的抵抗があったと見られる。プーチン大統領も対テロに限定するという了解で中央アジアへの米軍の進出を承認したが、米軍の影響力が定着化し、それがロシアの立場を弱くする危険性に関して懸念を持ち続けたことも事実であった。つまり米国が「反テロ」以外の別の目的を同時に達成しようとするのではないかという懸念であった。その意味では複雑な政治的決断であった。中国にとっても同様な懸念があった。太平洋を表玄関とすれば中央アジアは裏玄関である。そこに米軍のプレゼンスが定着することは、中国が前後から挟まれることを意味しており、その戦略的意味を無視することはできなかった。しかし、アフガニスタンのタリバーン勢力に対してはウィグル独立運動を支援しているとして反発を持っていた。
その後、ウズベキスタンを除く5カ国は、反テロ合同軍事演習の実施に関する覚書に調印し、2003年以降毎年演習国を変えながら共同軍事演習が行われるようになった。2003年8月6日から、合計1000人以上の実戦部隊がカザフスタン東部の中国国境付近に終結、SCOによる初の多国間合同反テロ軍事演習が行われた。これによりSCO名での合同軍事演習が定着した。これはSCOが反テロという課題のためであれ、事実上軍事協力の分野まで踏み切ったことを示すものであり、にわかに国際的な関心を高めることになった。
SCOは恒常的組織となり、機構整備が進んだ。2004年1月の外相会議(北京)では、オブザーバーや対話パートナー制度を設け、メンバー拡大の方針を決めるとともに、北京に秘書処(事務局)を設立した。また同年6月の第4回首脳会議(タシュケント)では「タシケント宣言」に調印し、同地に常設の「地域テロ対策機構」が設置された。現在、常設機構として存在するのは、書記局(北京)と地域テロ対策機構(タシケント)の二つである。SCO初代事務局長(執行書記)の張徳広(前中国駐露大使)は、SCOは「安定と開発」を通じる中央アジアの発展を目的とすると述べている。
オブザーバーのステータスに関しては2004年にモンゴルが最初のオブザーバーに認められたが、2005年になるとSCOは対外的に組織的にも政治的にもその影響力を拡大するのに一層意欲的な側面が明らかになった。2005年6月の第5回アスタナ首脳会議では、インド・パキスタン・イラン3カ国にSCOのオブザーバーの地位が認められた。オブザーバーの資格であれ、南アジアのインド・パキスタンの両大国を受け入れ、さらに米国が敵視しているイランを受け入れたことの意味は大きい(1)。
そこには米国の一極支配体制に対する集団的な牽制、特に中央アジアへの介入、さらには中国、ロシアに対する介入に対する警告をくみ取ることは不自然ではない。これはSCOに本来存在していなかった側面ではないが、より明示的に出てきたことが注目される。アスタナ首脳会議の背景にあったのは、2004年以降グルジア、ウクライナと続いて起きた政変による親米政権の成立、さらには2005年3月のキルギスタン政変や5月のウズベキスタンでのアンディジョン騒擾事件であった。SCO加盟国が、これら一連の動きの背景に米国系NGOなどの活動、さらには米国の意図があったとみて警戒心を強めたことは事実である。SCO首脳会議は、このような新たな情勢展開を考慮に入れた域内の安全保障問題を協議し、アフガニスタンの「安定化」を理由として米軍など多国籍軍の中央アジアでの駐留長期化を不要とみる声明を発表した。その声明を通じて、SCOが米国の中央アジアへの影響力拡大に歯止めをかけようとする意向を示したことは間違いない。ウズベキスタンはその後、6ヶ月以内の米軍の撤退を要求してそれを実現させた。米軍はウズベキスタンでの足場を失うことになった。2005年3月にアカーエフ前大統領の国外逃亡で成立したキルギスタンのバキーエフ新政権は、マナス空港からの米軍撤退を求めずに空軍基地使用の延長を認めたが、8月15日に初代SCO事務局長張徳広(前駐露中国大使)は、「上海協力機構の声明は最後通告ではない。キルギスタンが国内の米軍駐留継続を決定したことを尊重する」と言明してそのトーンを弱めた(2)。このように加盟国の対米関係で共通のたがをはめられるようなものではなく、理念的な宣言にとどまるとみてよい。米国の対イラク戦争に対してロシア、中国とも反対の立場であったが、カザフスタンは象徴的な数であれ、イラクに派兵しており、イラク戦争などに対して共通の行動を意図しているわけでもない。
同年8月にはSCOのもとで8日間にわたる「反テロ」の中露合同軍事演「平和ミッション2005年」が中国で行われた。演習の参加兵員は1万人(1800人はロシア軍)でウラジオストークから始まり山東省で中国海軍も参加した大規模なものとなった。2006年3月にはウズベキスタンで演習が行われた。これら一連のSCOの動きも、米国の警戒心を強めたことは間違いない。中国、ロシアとも米国との2国間関係では真正面には言及しにくい問題をSCOの声明を利用して主張して、米国を牽制していると見ることができる。さらに2005年に入るとアフガニスタンへの対応に対してもSCO特にロシアから批判的な発言が聞こえるようになった。
SCOが今後、どのような役割を果たしていくのかを判断するうえで、その対外的力学と内部力学の二つの側面から考察することがかのうであるが、ここではまず内部力学を見ておきたい。なお上海協力機構のこれ以上のメンバー拡大の可能性に関して、当面は考えていないようである(3)。
まず第1に、中国とロシアの両国が大きな役割、特に中国が大きな役割を果たす組織となっており、各国の対中国関係がSCOの機能と役割に大きな意味を持っている。その意味では中国、ロシアに対して他の中央アジア加盟国の間では大きな力のアンバランスが存在する。中央アジアではウズベキスタンとカザフスタン両国の力が相対的に強い。
中国はすでに2004年のタシュケント首脳会議において加盟国に対して9億ドルのソフトローンを約束したが、これは事実上中央アジア諸国に向けられたものである。さらに2005年に中国は人づくりの特別ファンドをつくり、3年間で中央アジアの1500人の経営者の訓練を行うことを約束した。ヒト作りの領域も協力分野として含まれているのである。しかし現在までのところ、中国が提示しているソフトローンは現在までのところ中央アジア側の具体的なプロジェクトとして結実していない。これに関しては、強大な中国に対する中央アジア側の留保・警戒心が指摘されることが多い。中央アジア最大の人口(2700万人)を抱えるウズベキスタンでさえ、中国の50分の1である。また中国商品、特に繊維製品や雑貨は一層大規模に中央アジア市場であふれており、中国商品との競争に勝つことは難しい。また、鉄くずなど金属材料が大量に急速な高い成長を続ける中国に流れていると見られる。2006年9月にキルギスタンのナリン州を訪問したが、そこで走っている超巨大トラックはすべて中国・キルギスタンを結ぶもので、キルギスタンのトラックはほとんど見かけず、また見かけても小型トラックであった。ナリン州は中国のカシュガルからキルギスタンの首都ビシュケクへのルートに当たる。人口規模、経済力の点から中国はあまりに巨大であり、その圧力はひしひしと感じている。しかし、同時に中国市場と中国を経由するルートは選択肢の一つとして重要であり、中国との共存の必要性は痛感している。中央アジア諸国は治安面・軍事面では中国と協力しつつ、同時に経済面では実利を求める一方、中国が過度に経済面で進出してくることに対する警戒心を持っている。SCOの場にロシアが入っていることは、中央アジア諸国にとってはバランサーとして重要である。
なお中央アジア諸国の間の経済協力の可能性についてはどうであろうか。域内諸国の間の貿易・投資での交流の強化が望まれることはいうまでもないが、各国の経済システムの相違、「国民経済」構築の努力、政治的対立などによって、現実には統合とは逆方向が見られるのが実態である。中央アジアのなかではウズベキスタンとカザフスタンの間に指導権争いが看取される。経済的はカザフスタンが抜きん出始め、ウズベキスタンの停滞が目立ってはいるが、後者の影響力はいぜんとして大きい。確かにここ2,3年は石油ブームにわくカザフスタンへの労働力の移動、カザフ資本の他の中央アジア諸国への進出などの現象が目立ち始めた。しかし、少なくとも中央アジア諸国相互の貿易関係(1994年―2004年:IMF貿易統計)に限って見れば、むしろ中央アジア域内の比重はいずれの国をとっても縮小傾向にあるのが現実である。つまり相互経済関係は希薄化傾向にある。そのなかで中央アジア協力機構(CACO)はロシアが主導するEEC(ユーラシア経済協力機構)に吸収されており、中央アジアだけで経済協力機構をつくる発想は現実性が弱まってさえいるといってよい。EECにはロシアのほかベラルーシ、アルメニアが加盟している。
メンバー国とオブザーバー国との関係である。SCOは事実上3層から構成されていると見てよい。メンバー国、オブザーバー国および正式なものではないがゲストである。しかしオブザーバー国は、メンバー国になるためのワン・ステップとしては考えられていないとみるべきだということであり、またゲストもオブザーバーの前段階と位置づけることは難しい。SCO事務局長は同機構の規約のなかには新規メンバーを受け入れるための手続きを規定するものはない。またアフガニスタンは2006年6月15日には上海でゲストとして招待はされているが、ゲストはゲストであってオブザーバーに「昇格」するステップとしては考えられていない。
まずオブザーバーのモンゴルであるが、早くからオブザーバーの有力候補と見られてきた。モンゴルは中国・ロシアの両大国に挟まれ、最大の貿易相手国である両国を無視しては経済発展を展望することはできない。しかし、モンゴルの外交戦略はSCOの路線とは重ならない点も大きい。まず対中国関係で自立性を維持しようとするモンゴルは、米国との協調、日本の経済援助などは不可欠であると考えている。イラクにも象徴的な数ではあるが米軍に協力して派兵している。また中国側の不興を買いつつもダライ・ラマを2回にわたり受け入れている。また、モンゴルはロシアと協調しつつも、ロシアからの政治的自立の維持も重要である。その意味ではモンゴルは正式メンバーではなくオブザーバーで参加している方がメリットであると見てよい。
次にインドとパキスタンは同時にオブザーバーのステータスを与えられた。冷戦期を通じて特殊な友好関係を維持してきたパキスタンが早い時期にSCOに加盟することを求めているという情報は流れていた。しかし、SCO研究者の間では否定的であった。それはインド・パキスタンという厳しい対立関係にある国の片方をメンバー国として受け入れることは、SCOが南アジアの地域紛争にコミットせざるを得ない事態に巻き込まれる危険を犯すことになるからである。しかし、インド・パキスタン両国をオブザーバーとして受け入れたのは、正式メンバーではないため、両国間の紛争に直接関与しなくてすむこと、第2に、中国とインドとの関係改善も進み経済交流も急速に活発化してきたことと、第3に、2003年頃からインド・パキスタン関係も改善の方向に向かいつつあるという南アジアをとりまく状況の大きな変化もあった。印パの間には解決が困難なカシュミール帰属問題が存在しており、複雑な要素がからむこの問題は、単に領土問題だけではなくインド・パキスタンの国家の正統性に関わる点で容易に解決する見通しは立っていない。しかし両国とも経済発展が政治的課題のなかで優先度を高めてきており、カシュミール問題は解決できないにしても「凍結」する点で大枠で合意が成立しうる余地が生まれている。このような状況が生まれているのは、独立以来の両国の関係において初めてのことである。中国と関係の深いパキスタンを先行させるのではなく、インドと抱き合わせでオブザーバーとして受け入れた背景には、2004年から2005年にかけて、SCO特に中国とロシアの側に、国際政治においてより積極的な役割をSCOに付与させようとする前向きの動きがあったと思われる。インドは冷戦終焉以降、米国との急速な改善が目につくなか、SCOと関連を持たせることはインドにとっては外交上の選択肢を開いておく意味もあったと見られる。中国が大きな影響力を有するとみられるSCOに対してインドの参加は名目的な側面が強いにしても、今後中央アジアを含めてインドの影響力の拡大が見込まれるなかで、オブザーバーの地位は意味がある。なお、ソ連時代にはソ連とインドは平和友好協力条約(1971年)を締結するなど事実上の同盟関係にあったが、冷戦終焉後はロシア・インドの間は普通の関係になったにせよ、歴史と地理的条件は両国を結びつけている。
さらに注目すべきは、オブザーバー国としてイランを受け入れたことである。SCOが西アジア・中東までも組み入れたことを意味し、またパキスタンとならびイスラーム世界とのパイプを強めたのである。チェチェン問題やウィグル問題を抱えるロシア・中国がイスラーム圏の政治的影響力を国内的にも利用することや、さらに石油ガス資源の確保などエネルギー問題まで視野に入れたとみることができる。イランは中国にとっても重要なエネルギー供給国であり、またイランが戦略的にも重要なペルシャ湾に面しており、パキスタン、インドとならび石油輸送路を抑える重要な戦略的地位にあることも一つの要因であろう。中東・アフリカをも含め石油ガスを海外から調達しようとする中国はシーレーンに対する関心を強め、また海軍力の強化に力を入れている。その点からすると、パキスタンのバルチスターン州にある港湾グワダルの港湾整備に中国が大々的援助を与えている点も注目される。グワダルはすでに能力の限界が露呈されているカラチ港を補完・代置するものである。中国の新疆ウィグル自治区からパキスタンのカラコルム・ハイウェイを経由して海に出るルートを一層容易にする。グワダル港は単に中国だけではなく、中央アジア・アフガニスタンから海へのルートとしても重要な地理的場所に位置している。ちなみにグワダルはかつて対岸のオマーン領に属しており、1956年にパキスタンに引き渡されたものである。アラビア半島側の飛び地とならんでオマーンはペルシャ湾の出口を両岸から抑えていたのである。
しかし、何よりも注目されるのは、イランの持つ広い意味での国際政治上の重要性である。パレスチナのハマース、レバノンのヒズボッラーを支援しているとして、イランはイスラエルにとって最大の戦略的敵となっている。イスラエルと特殊関係にある米国にとっても、イランは極めて重要な敵対国家である。SCOのオブザーバーになってから「強硬派」のアフマディネジャドが大統領に選出されたことや、核開発問題が国際政治上の大きな問題になっている状況があるが、いくつかの点で明確にしておく必要がある。第1に、米国の対イラン政策は、アフマディネジャドの登場とほとんど関係がないことである。確かにアフマディネジャド新大統領は、イスラエル抹殺論やホロコースト否定論など過激な言辞を弄しており、必要以上にイスラエルを刺激し、西側に敵を作り出している。しかし「穏健派」のハータミー大統領の対米関係改善の努力にも関わらず、米国はイランに厳しい経済制裁を課しており、それは民主党クリントン時代から変わらない点を見逃してはならない。米国は1995年の大統領令で米国企業の石油ガス開発を含むイランへの投資と、医薬品などを除くイランとの貿易を禁止しており、翌年のイラン・リビア制裁法は当該国に石油ガス関連で年間4000万ドル以上の投資を行う外国企業に対する制裁を加えることを可能にした。これは5年間の時限立法であるが、ブッシュ大統領は2001年に5年間延長し、今年は対象と主として大量破壊兵器の生産に関連するものを重点に再度イラン制裁法を制定している。ブッシュ政権になってから対イランのトーンは一層厳しくなっているが、基調は不変である。1997年に選出されたイランのハータミー大統領は、イスラーム革命体制の下で大統領の権限が極めて限定的という条件ではあったが、文明間の対話など米国を含む西側に対して宥和的な姿勢をみせたが、米国側は基本的にそのジェスチュアに応ずることを拒否した。このことがイランの改革派を失望させ、ハータミーの支持基盤を崩し、その結果、2005年8月に保守原則派のアフマディネジャド大統領の登場を準備することになった。第2に、ウラン濃縮再開の決定はアフマディネジャドではなく、ハータミー政権末期の決定である。政策的にはアフマディネジャドはハータミーの決定を実施しているに過ぎないという構造になっている。
そのなかで、イランをオブザーバーであれSCOに組み入れたことは、SCO側の明確な政治的意思を示すものである。その決定プロセスを筆者は現段階では知りえないが、質的にみても極めて大きな決定的な意味を持つものであったことは否定し得ない。それはインドやパキスタンのオブザーバーとしての受入とは意味が異なる。これは中国・ロシアとイランの間に利害が一致する側面をもっていることを意味する。これはSCOがイランの主張を全面的に支持することを意味するわけではないが、イランをオブザーバーであれSCOが受け入れたという象徴的意味は大きい。いうまでもなく、イランにとっては国際的地位を強化する上でSCOへのオブザーバー加盟は大歓迎するところである。
ロシアは、いわゆる「カラー革命」(2003年のグルジア、2004年のウクライナでドミノ的におきた旧来の政権が妥当され親米政権が樹立されたこと、場合によっては2005年のキルギスタンでの政変も含まれる)の背後には米国があると見て、対米警戒心を急速に強めてきた。イランも米国の対イラン戦略の最終的目的はイスラーム政権の転覆にあると見ている。イランで石油を国有化したモサデク政権が1953年に打倒され、パーレビ国王の復権が実現した裏には米CIAの介入があったことはよく知られている。イランの場合も反体制の大衆運動を組織するやりかたでモサデク政権を打倒したものであり、「カラー革命」のプロセスと酷似している。この点に関しては、ロシアとイランが期せずして同様な懸念を共有していることになる。
今日、イランの核開発(疑惑)問題は、ロシア・中国と米国の間を分かつ問題である。イランは2006年に入ってウラン濃縮過程を再開したが、英仏独3国・米国対ロシア・中国の間での交渉はSCOの対米政策とダブっている。イランはあくまで主権国家として当然認められている権利としての核エネルギー開発を主張しており、核兵器開発を否定している。イランの立場は「北朝鮮でもなく、リビアでもない」という中間の立場である。しかしエネルギー需要に対応する必要性という論理は強くはなく、むしろ国家の権利を認めるかどうかという原則論に近い。他方、米国はイランのウラン濃縮を核兵器開発の準備過程として不信の目で見ており、つまり「黒」と見ており、それが両者の対立の核になっている。ロシアはブシェールの原子力発電に協力してきた立場からイランを擁護することになる。
アフガニスタンの政情不安定はSCO内の地域協力を推進するうえで大きな障害であると同時に、安全保障上の懸念であるイスラーム過激派の拠点となりうる国として、SCO加盟国にとって強い関心を持たざるを得ない。また麻薬(ケシ)生産の世界最大の拠点として、その流通上の通過点に位置する中央アジア・ロシアなどは問題とせざるを得ない。アフガニスタン問題との関連で米軍などが中央アジア諸国の基地・空港使用を続けているとすれば、その観点からもアフガニスタンの現状に対する認識と関与のありかたが重要である。
SCOは2005年の声明で初めて中央アジアでの反テロに協力を表明するとともに、中央アジアの安全はこの地域の責任であり、つまりSCOメンバー諸国の責任であることを言明した。アフガニスタンを直接名指ししてその再建問題に言及していないが、ロシアにとってアフガニスタンも念頭にあったことは明らかである。ロシアはSCOが独自にアフガニスタンとのコンタクト・グループを結成する意図を表明している。麻薬取引とテロを抑える上で、米国主導の多国籍軍は有効ではないとして批判的立場に立つものである。コンタクト・グループを通じて、ロシア軍はヘリコプター、全天候性車両、通信機器をアフガニスタン軍に提供する用意があるとしているが、アフガニスタンにSCOの枠内で関与しようとする動きがロシアから出ていることは注目される。これはアフガニスタン再建が治安・経済再建の面で十分成果をあげていないのではないか、という厳しい批判を含むものである。ソ連は1979年末のアフガニスタン侵攻以来1988年の撤退まで、当初の意図に反してムジャヒディーンの強い抵抗に会い、結局侵攻の目的を達成することができなかったという苦い経験をしている。後継国家ロシアもアフガニスタンの難しさは理解しているが、それでも米国よりは事情をよく知っているという自負を持っているといえよう。
2006年に入って、アフガニスタンの政情不安が再び国際的な関心を呼ぶようになった。それは南部と東部での「タリバーン」の活動活発化が伝えられ、米軍に引き継いで南部の治安対策を担うようになったNATO軍への新たな朝鮮となっている。「タリバーン」はいぜんと同じイデオロギーなのか、パシュトゥーン民族の扱いに対する不満を代弁していないかなどの不明のところがあるが、「パシュトゥーン」の全面的排除を前提に戦後の再建計画を立てたのが正しかったかどうかが問われている。他方、カーブルの街にナジブッラーの肖像や写真が復活していると言われ、ソ連の介入に対する評価には現状の不満が反映されていると思われる。
なおSAARC(南アジア地域協力連合(SAARC:South Asian Association for Regional Cooperation)は2005年11月12~13日にバングラデシュ・ダッカでの首脳会議ではアフガニスタンの正式加盟が承認された。SAARCは南アジア7カ国による経済協力機構であるが、今回アフガニスタンが加わって8カ国となったが、南アジアの側からアフガニスタンを抱き込もうとする意味で注目に値する。
2006年6月15日に上海で開かれたSCO首脳会議は同機構の創設5周年を祝った。そこではゲストとしてアフガニスタンのカルザイ大統領がゲストとして招待された。オブザーバーとゲストを含めると11カ国である。その宣言(4)には、SCOの結成を「これは文明間の対話のよい例であり、国際関係における民主化促進のための積極的な推進力である」とする一方、「非伝統的脅威との戦い」をうたっている。また上海協力機構の精神は「相互信頼、互益、平等、協議、文化の多様性に対する敬意、共同の発展の希求」で、第3者を対象とするものではない、としている。
そこでは「冷戦メンタリティー」を捨て去ることも呼びかけ、また国際政治における「ダブル・スタンダード」を批判している。さらに、「文化や発展モデルの多様性は尊重されるべきである」とし、「歴史のなかで形成されてきた文化的伝統、政治社会システム、発展モデルを他国の内政干渉の口実に使われてはならないし、社会発展モデルが『輸出』されるべきものではない」としているが、ここでは米国の一極主義批判のトーンを読みとることができる。
現段階においてSCOをどのように規定づけるべきであろうか。筆者は、SCOを地域協力機構として存立させている最小限の条件を考えた場合、第1に集団安全保障体制の新たな形態のひとつであり、第2に、国際関係における多極化を目指す試みとして考えたい。その場合、上海サミットを実現させた当初の目的であった国境確定とそれに関する諸問題は、むしろ当事国である2国間の協議に移されてきているといえよう。第3に、可能な分野での経済関係の協力である。
第1の条件についていえば、加盟国が安全保障上の敵として想定しているのは、加盟国の一つあるいは複数の国の他の加盟国に対する攻撃ではなく、テロ、宗教的過激主義(具体的にはイスラーム政治運動)、分離主義、麻薬につながる非国家的集団である。その意味では従来の集団安保のモデルの変形である新たな集団安全保障体制の模索といえる。この問題は各国指導者の体制維持の努力を結びつける役割を果たしている。第2の条件である多極化志向については、先述のようにイランをオブザーバーとして受け入れたことが決定的な意味を持つ。これは明示的な「反米」で意志統一するものではないが、米国の介入に対する警戒心を国際関係におけるルールの問題として表示しているとみることができる。ロシア、中国とも2国間で米国と対決することはできるだけ避けており、SCOのような多国間の地域協力機構を通じて、米国を牽制する方法を選んでいるということができよう。
SCOがNATOのような軍事同盟へ発展する展望は持ち得ないし、また当面はASEANのような経済統合に向けた動きも展望しにくい。加盟国の置かれた条件が異なり、対米協調派と米国との間に距離を置こうとする立場の違いも内包している。また経済状況も著しく異なる。中国の経済的存在感は急速に強まっているが、またロシアは石油収入増と工業化を両立させているように見える。しかし中央アジアの置かれた条件は複雑である。カザフスタンのように石油・ガス資源に恵まれ、周辺諸国から労働力を引きつけている国もあるが、クルグズスタンのように重債務国に転落した国もある。経済システムもカザフスタンとウズベキスタンはその差異を拡大している。 しかし中国やロシアと比較すると、中央アジアは5カ国を合わせても5500万人程度の市場規模に過ぎない。タジキスタンやキルギスタンのように500万―600万の人口規模で「国民経済」を構築していくのは容易ではなく、何らかのかたちの経済的地域統合を求める客観的条件が存在している。しかし、先に述べたように現実は貿易関係では相互間の依存関係の弱化という反対の方向に事態が進んでいるといってよい。またロシアはEECを通じて中央アジアへの影響を強めようとしている。米国はインドをひとつのテコとして中央アジアに影響力を強化する可能性を検討している。このように中露米の綱引きが中央アジアを舞台に強まっている。日本は「中央アジア・プラス・ジャパン」を打ち出し、中央アジアの外交的経済的選択肢を広げる点で日本の存在理由を示そうとしている。そこにはASEANが当初内部矛盾が大きく、地域協力機構への可能性が見えなかった時期もあったことを参考にし、現在の方向性が逆ベクトルのように見えながら、長期的には中央アジアの経済統合の進展を待つという理念を背景に持っている。ASEANの場合は、文化的背景が、イスラーム、仏教、キリスト教など多様な背景を持ち、全会一致主義をとってきた。これはEUなどのように事実上キリスト教的価値観を前提にしている組織とは異なっている。中央アジアの場合はペルシャ・トルコ文化、イスラーム、ロシア・ソ連文化の遺産を共通に引き継いでいる点で、価値観を共有できる点も少なくはない。しかし、中国、さらに現在のオブザーバー国を含めるとSCOはASEAN的多文化主義を背景にしたものになろう。