1930年代中国政治史研究:中国共産党の危機と再生(概要)

本研究は,中国政治を構成する1つの政治勢力である中国共産党(以下,中共)について,1930年代なかばの軌跡に対する実証的考察によって,危機から再生にいたるその実像を把握すること―党史・革命史とは区別される一般政治史の対象としての中共の実態を解明すること―を目的とする。

中共党史・革命史・政治史の関係は,一般的には,党史は革命史の,革命史は政治史の一部であると言うことができるが,中国における党史研究は,「歴史決議」をはじめとする党の組織的結論を基本的枠組みとしてその軌跡が叙述される。これに対して革命史―新民主主義革命史―は,中共指導下で展開された「新民主主義」を実現するための人民闘争の歴史とされてきた。中国革命の基本戦略は1930年代初めに毛沢東によって体系化されており,従って遵義会議での毛の指導権の確立は中国革命の勝利―危機からの再生―を保障したという「通説」(井岡山原点説)が,現在にいたるまで党史・革命史のみならず,「全体史」や政治史を叙述する所与の前提とされている。

1930年代なかばの中共の軌跡をソヴェト革命の破産(危機)と抗日民族統一戦線政策の適用を契機とする新たな政治的可能性の獲得(再生)とする観点はすでに[中西功1969]によって提示されていた。本研究は,新資料の公開と実証研究の蓄積という新たな研究環境を踏まえて,この観点を継承しつつ国民政府時期(1928-49)と「抗日時期(1931-45)」の転換期(1935-38)において,中共がどのようにして「危機」を克服し「再生」を遂げたのかについてその実態を解明することによって,「通説」の確立とその政治的含意に対する当時の政治過程に即した内在的理解の獲得を企図している。

[西村成雄1991]は,国民政府時期の中国政治が,国民政府(国民党)による社会諸領域の再編(国家による総括)過程と,人民共和国時期(1949-)の中国政治を生み出すことになる新たな質の社会的・民族的統合の推進(国家への総括)過程との並行的進行として把握した上で,この2つの過程の結節点に「第2次国共合作」と抗日民族統一戦線が定置される。また[加藤哲郎1991]は,「社会ファシズム」期(1929-33)のコミンテルンの構造と特質を明示するとともに,第7回大会(1935)における「転換」が有していた積極的側面とその限界を究明している。本研究は,中国近代政治史とコミンテルン史にかかわる両研究の枠組みを前提として,「第一部 革命戦略の“転換”」「第二部 転換期の中国政治と白区工作」「第三部 指導者群像:協調と葛藤」の3視角から1930年代における中共の全体像を提示する。その際,[西村成雄1991]が提示する支配の正当性の根拠を中央政府からの権限の委譲に求める地方政府(Local Government)と地域社会からの認知に由来する地域権力(Regional Power)は,当時の政治過程を検討する上でのキー概念と位置づけられている。

第一部「革命戦略の“転換”」では,第1章において,南方根拠地の喪失から長征によって西北地区に到達し,東北軍・西北軍との「三位一体」的関係の成立と西安事変の平和解決を経て「第2次国共合作」成立にいたる時期の根拠地構想の展開過程を検討する。この「第2次国共合作」の成立によって,中共の組織編成―党・軍隊・「国家」(政府)関係―は,中共・紅軍・「中華ソヴェト共和国」の組み合わせから中共と8路軍・新4軍および陝甘寧辺区政府のそれへと再編されるのであるが,第2章ではこうした再編過程と指導部の変遷,およびこれと並行して生じた組織実態の変容を考察する。さらに第3章では,同党が危機から再生に向かう結節点となった抗日民族統一戦線政策の展開過程を検討するとともに,この過程でソヴェト革命路線が放棄されるとともに「抗日民族革命」という認識が獲得されたことを確認する。

1934年10月の瑞金陥落によって,中共は紅軍というみずからの軍事力によってしかその存在を保障しえないという「生存の危機」に直面することになった。コミンテルン第7回大会の新方針の陝北への伝達とそれに基づく系統的な統戦工作は,中共を東北軍・西北軍との「三位一体」的関係の構築へと導いた。「三位一体」の初歩的形成によって,中共は両軍との同盟関係に依拠してみずからの存在を保障することが可能になった(「政治的」保障)。西安事変は紅軍の主力3方面軍の合流および西安での大衆的抗日運動の高揚という状況下で勃発するが,陝北を中共の革命運動の策源地とする観点は,事変にともなう「三位一体」的関係の公然化を背景として確定されるのである。西安事変の平和解決を契機として,中国政治は抗日抗戦態勢の確立に向けての再編が進行し,1937年9月に「第2次国共合作」が成立する。国共の再合作によって,中共は,みずからの存在を「制度的」に保障することが可能となっただけではなく,権力の相対的自立性を確保することによってみずからの政治主張を政策化しうる「場」を確保することに成功したのである(第1章)。

[王健英1995]を主たる資料とする中共の組織再編に関する考察によって,以下の諸点が明らかになった。(1)遵義会議において党指導部の中枢(政治局常務委員会=「書記処」)の一翼を担うことになった毛沢東は,西北革命軍事委員会主席(1935年11月)・「中華ソヴェト共和国」中央革命軍事委員会主席(1936年12月)・中共中央軍事委員会主席(1937年7月)に就任する過程で軍事的指導権を確立し,6屆6中全会にいたって彼の指導権は軍事面から政治・組織両面に拡大した。(2)5中全会選出の書記処のメンバーにはモスクワ在住の王明と川陝ソ区を指導していた張国燾が含まれていたのに対して,6中全会選出のそれはすべて中共中央所在地たる延安に居住していた。前者が当時の中共・コミンテルン関係および中国ソヴェト運動の分散的性格の反映であったのに対して,後者のそれは,中共指導部の意志決定が書記処成員の直接対話によって可能になったことを示している。この点に留意して2つの全会にはさまれた時期を通観すると,コミンテルンの権威と指示は,1930年代なかばにおける中共の権力中枢の人事に対して決定的意味を有していたことが判明する。(3)「第2次国共合作」成立それ自体は中共権力の地域権力から地方政府への転換を意味していたが,同時に,辺区議会を発足させたことによってそれが地域権力的性格をもあわせもつことになった。(4)1930年代なかばにおける中共の地方組織原理の変容については,省レベルのそれについて明らかな変化を看取しうる。(5)6中全会において,「抗日時期」中国政治史の後半期における中共の組織編成が,一元的組織機構として確立された(第2章)。

中国ソヴェト運動の発展は,中国社会における階級社会の両極化という認識を前提として,帝国主義・地主・ブルジョアジーの階級的利益を代表する国民党権力の対極に位置する,プロレタリアートと農民のそれを代表するものとしてのソヴェト権力による「中華ソヴェト共和国」の樹立を実現した。コミンテルン第6回大会以降の左傾路線,および中国社会の一部辺境地域に樹立された地域権力としてのソヴェト権力を「近代国家」と誤認したことは,「中華ソヴェト共和国」が国民党権力との「階級的決戦」に勝利することが日本の中国侵略に抵抗する(「抗日」)前提である,という現実から遊離した認識を生み出すことになった。1934年10月,中央ソ区解体による統治すべき空間の喪失は,ソヴェト革命路線の挫折を意味していた。「存在の危機」に直面した中共は,「八一宣言」に象徴される植民地も含めた中華民族社会の「発見」を媒介とし,抗日民族統一戦線政策樹立に向けた諸政策の転換によって新たな「党・軍隊・政府」関係の構築に成功して「再生」を果たした。そして「第2次国共合作」成立後における「抗日民族革命」という認識の獲得,および6屆6中全会における軍事・政治構想の中国的特質の確認をふまえた「マルクス主義の中国化」の提起は,こうした政治的成果を踏まえてのものであった(第3章)。

第二部「転換期の中国政治と白区工作」では,1930年代なかばの都市部における中共地下組織の実態と行動を―従って,「抗日時期」転換期の中国都市部における中共の再生過程を―,一二九運動の舞台となった平津(北平・天津)地区(第4章),救国会運動が展開された上海(第5章),西安事変が勃発した西安(第6章),1938年に「臨時首都」となった武漢(第7章)について整理・検討する。

1930年代なかばにおける中共の白区闘争について,下記の諸点を確認することができる。(1)華北事変に始まる日本の中国侵略が強いた中国政治の変容を前提として,コミンテルン第7回大会の新方針の伝播が平津地区・上海・武漢における党組織の再生に対して起動的役割を果たした。(2)上海在華紡のストライキが国民政府の「安内攘外」政策を破綻の瀬戸際まで追いつめ,西安の抗日救亡運動に支えられた「三位一体」が国民政府に中共問題の軍事的解決方針を廃棄させ,抗戦初期武漢の抗日高潮のなかで国民参政会が「抗戦建国綱領」を中国政治の基本文献として確認したが,これらの政治運動において,中共はいずれの場合においても不可欠のないしは中心的役割を果たした。(3)この「抗日時期」中国政治の転換の方向を規定したこれらの政治運動は,都市部の全階層を包括する,あるいは射程に収めた政治運動であった。(4)「抗日時期」の中共が都市部の全階層を射程に収める政治運動を展開しえたのは,本研究が考察対象とした「転換期」だけであった。

毛沢東による国共再合作を志向する抗日民族統一戦線政策の具体化と抗日抗戦構想の体系化は,こうした白区闘争の成果とそれらによってもたらされた中国政治の変容を組み込んで行われたとしなければならない。

第三部「指導者群像」では,王明(第8章)・張国燾(第9章)・毛沢東(第10章)という3人の指導者が果たした役割を,中共の実態およびそれが直面していた課題との関係から検討される。

ソヴェト革命の挫折によって直面した1930年代なかばにおける「存在の危機」から中共を再生させる決定的契機となったのは,「八一宣言」に象徴される植民地をも包括する中華民族社会の「発見」とそのことを転換軸とする政策体系の転換―抗日民族統一戦線政策の展開―であった。さらに抗日抗戦態勢の形成に向かう中国政治の転換期にあって,中共の統一戦線政策を「社会」を基盤としたものから「国家」を基盤とするそれに転換すべきであることを提示した王明の提起は,中共の政策展開にあるべき方向性を指示するものであったと評価することができる。同時に,こうした王明の言論と活動がコミンテルンの「転換」の一部として提起されたこと,従ってその方向性と論理展開もまた─それ自身が有していた限界も含めて─コミンテルンの枠組みに規定されていたこと,に留意しておく必要がある。とは言え,王明の抗日民族統一戦線をめぐる言論の限界は,「民主共和国のために奮闘する段階」において中共がとるべき有効な処方箋を提示できなかったことにあったのである。1945年,中共7中全会は,王明を「第3次左傾路線」の指導者と規定する「歴史決議」を採択した。「決議」は,「ソヴェト革命」という概念を「土地革命」に代替することによって,「第3次左傾路線」それ自体に刻印され構造化されていたコミンテルンと中共との関係についての検討を慎重に回避するとともに,抗日期の歴史問題については「まだその段階を終了していない」という理由で考察対象から除外した。こうしてコミンテルン第7回大会が中共の「再生」に果たした決定的役割―従って王明の積極的役割―に言及しないことによって,「第3次左傾路線」と「毛沢東同志を代表とする正しい路線」を対置させる定式化が成立したのである(第8章)。

張国燾に関する考察によって,次の諸点が明らかになった。(1)西康・青海などチベット社会を革命運動の拠点として組み込もうとする構想は,川陝ソ区退出直後から西路軍壊滅までの時期の第4方面軍指導層の共通認識であった。(2)コミンテルンの権威を背景とした張浩の調停工作は,第2中央樹立に起因する中共指導層の分裂の収拾に対して,決定的な意味を有していた。(3)3方面軍会師期の書記処に,張国燾問題を路線問題として清算しようとする意向は存在しなかった。(4)西安事変平和解決後の新情勢と西路軍壊滅の責任問題の惹起という状況下で,「張国燾の逃亡路線」という総括が行われた。(5)第4方面軍に対する「反張国燾闘争」の展開によって,同軍の8路軍129師への改編のためのイデオロギー的前提が準備された。張国燾問題の清算は,抗日民族統一戦線政策の全面的展開によって中共が獲得した政治的成果を,中央の一貫した「正しさ」の証明という解釈によって代替することを意味していた(第9章)。

遵義会議において,ソヴェト区での反囲剿闘争の過程で毛沢東によって整理された諸観点が中国革命戦争の「戦略・戦術の基本原則」として事実上承認された。1936年12月に執筆された毛沢東「中国革命戦争的戦略問題」は,游撃戦争が運動戦・陣地戦と並記すべき戦争形態としていまだ一般化されていたかった点で過渡的性格を有していた。1937年5月,「矛盾」論的認識方法によって,毛は,抗日抗戦態勢の形成に向かう中国政治の新動向をふまえた明快な政治主張を提起しえた。1938年5-6月,毛沢東は「論持久戦」によって抗日戦争の全過程を視野に入れた軍事構想を提起したが,国共両軍を一括して中国軍と把握することによって,抗日戦争における抗日民族統一戦線の重要性とこの戦争の過程で游撃戦が有する決定的役割が確認された。6屆6中全会において,農村が都市を包囲するという視角から「抗日民族革命」の見通しが展望されるとともに,軍事構想と政治構想の中国的特質を確認して「マルクス主義の中国化」が提起された(第10章)。

「第2次国共合作」成立後における「抗日民族革命」という認識の獲得,および6屆6中全会における軍事・政治構想の中国的特質の確認は,ソヴェト革命に代わる革命戦略としての「抗日民族革命」の一般化を招来しなかった。第7回大会決議が採択したコミンテルン加入条件―「ブルジョアジーの支配を革命的に打倒し,ソヴェト形態でプロレタリアートの独裁をうち立てる必要を承認すること」―が中共の存在理由そのものを確認する尺度として観念されていたことによって「抗日民族革命」という形態の一般化を阻止した,と考えられる。一方,6中全会が提起した「マルクス主義の中国化」は,1940年初めに発表された毛沢東「新民主主義論」が延安整風運動とコミンテルン解散を経て「歴史決議」にいたる過程で中共公認のイデオロギーとしての認知を獲得することによって完結する。この「新民主主義革命」の構想は,6全大会が提起していたソヴェト革命の廃棄を前提として,その政治路線を基本的に継承するとともに,一部の「欠点と誤り」を「中国革命に関する毛沢東同志の理論と実践」に代替することによって,中共の革命戦略として体系化されることになったのである。

参考文献

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