田中仁先生追悼ページ
田中仁教授悼念专栏

2023年12月1日更新

田中仁先生のご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

田中仁先生の遺徳を偲ぶ/深切缅怀田中仁教授

大阪大学中国文化フォーラムの立ち上げと天花阪会議の開催・発展に対し、長年にわたり多大なるご尽力を頂きました田中仁先生(大阪大学名誉教授)が、かねてより病気療養中のところ、去る2023年4月14日にご逝去されました。享年69歳でした。衷心よりご冥福をお祈りするとともに、ここに謹んで深い哀悼の意を表します。

大阪大学中国文化フォーラムは、有志の教員により2007年に組織化されましたが、設立の中心メンバーとして、またその後も長きにわたり本フォーラムの代表として、私どもを牽引してくださったのが田中先生でした。先生は、現代中国政治の歴史的射程に立ち、「中国」の社会変容に与える政治過程の内実を討究されながら、数多くのご業績・作品を残されました。同時に総合大学である本学の強みを活かしながら、地域研究における領域横断的・文理融合的基盤の構築に邁進され、時代的要請に応えつつ地域研究のあるべき姿を積極的に提示してこられました。その主要な取り組みとして、本フォーラムと中国南開大学歴史学院、台湾国立東華大学歴史学系、韓国ソウル大学校歴史教育科の各大学組織を中心とし、日本・中国大陸・台湾・韓国における国境を越えた学術交流である国際セミナー「現代中国と東アジアの新環境」(会議言語中国語)を十数年間にわたり主宰されたことが挙げられます。その発展的成果物として、中国社会科学文献出版社から共編著『現代中国社会変動與東亜新格局・第一輯』(2012)および『現代中国社会変動與東亜新格局・第二輯』(2020)が、中国語にて発刊されたことは、特筆すべきであると思われます。

こうした堅実な研究活動が評価され、大阪大学の未来戦略を推進していく方策の一つとして、本学ならではの基礎研究の推進や、国家的課題解決に向けた研究にイニシアティブを発揮するための新たな研究分野の創出を目的として2013年に設立された「未来研究イニシアティブ・グループ支援事業」に、田中先生を代表とするプロジェクト「21世紀の課題群と中国」が採択され、文系部局からの唯一の採択事例となり、地域研究の重要性を改めて顕示する動力となりました。この試みは、「21世紀課題群をめぐる文理の対話」を創る「まちかねCAFÉ」として継承され、多様な専門分野の研究者間の気軽な交流空間と相互理解の機会を与え続けています。

大阪大学中国文化フォーラムのもう一つの重要な特徴は、若手研究者を育成することであり、学部・大学院生などが、これまで部局間を超えて、類似した問題関心を持ちつつ真摯に研鑽を積みながらも、相互に刺激し合える交流空間が欠如している現状を打破するための建設的な提案として、中国研究に関わる学生や若手研究者の積極的な参加を促す多様な企画を立案してきました。とりわけ田中先生は、若手研究者の発表・議論を促進する「中国文化コロキアム」の運営や、ホームページを軸としたサイバースペース上に中国の社会変容と東アジアの新環境に関する様々な論点を題材とした「ワークショップ・システム」(多言語によるディスカッションペーパーやブックレットの刊行等)を創出することにより、研究と教育の相互乗り入れの活性化を目指してこられました。

本学ご退職後も、貴重な一次資料を共に読み解きながら、若手研究者の研究指導を熱心に続けられました。こうした生涯にわたる精力的な先生のご研究活動と真摯なお人柄に敬意を表しつつ、謝意を深くしております。

大阪大学中国文化フォーラムでは、この度、先生の多年にわたるご尽力に感謝を申し上げるとともに、田中先生の足跡と遺徳を偲ぶことを目的として、追悼ページを開設致しました。ご寄稿頂きました皆様からの追悼文を、随時掲載して参ります。ここに謹んでお知らせ申し上げます。

长期以来为大阪大学中国文化论坛的创立以及“天花阪会议”的举办和发展做出巨大贡献的田中仁先生(大阪大学名誉教授),因病疗养期间于2023年4月14日逝世,享年69岁。我谨代表本论坛衷心地为田中教授祈求冥福,并在此表示最深切的哀悼。

大阪大学中国文化论坛于2007年正式组创,是有着共同研究趣向的大阪大学教员共同构建的学术交流平台。田中教授作为核心创始人,也是本论坛长期以来的代表人,在平台建设与学术交流上一直起着引领作用。田中教授的研究立足现代中国政治的历史射程,深入探讨对“中国”社会变革产生影响的政治进程的内在实质,留下了众多杰出的学术成果和著作。同时,田中教授充分发挥大阪大学作为综合大学的优势,积极倡导与推动文理融合的、跨学科地域研究的发展,与时俱进地为地域研究的未来发展指明了方向。其间,田中教授连续十多年主导了国际研讨会“现代中国与东亚新格局”的举办(会议语言为中文)。该研讨会以大阪大学中国文化论坛、中国南开大学历史学院、台湾东华大学历史学系和韩国首尔大学历史教育科为核心共同主办,是跨越日本、中国大陆、台湾和韩国学界的重要学术交流平台。其中,特别值得一提的学术成果是,在此研讨会基础上,由田中教授等合编的《现代中国社会变动与东亚新格局 第一辑》(2012)和《现代中国社会变动与东亚新格局 第二辑》(2020)已经由中国社会科学文献出版社以中文出版。

田中教授主持的上述坚实的学术活动,获得了大阪大学及日本国内外学界的广泛好评。2013年大阪大学创立了“未来研究计划小组支援项目”("Future Research Initiative Group Project Support"),该项目作为推进大阪大学未来战略的举措之一,旨在推进本校独有的基础研究,并创建新的研究领域,以发挥研究者的主动性、为解决国家级课题展开研究。田中教授主持的课题 “21世纪课题群与中国”获得立项,成为全校文科部门唯一获得立项的课题,这再次凸显了地域研究的重要性。这一地域研究的创新性尝试,继而由以创造“关于21世纪课题群的文理对话”为旨趣的“待兼CAFÉ”所继承,持续地为各个专业领域的学者提供轻松交流的空间和相互理解的机会。

大阪大学中国文化论坛的另一重要特点是致力于青年学者的培养。在此之前,本科生、研究生虽有跨越固有学科边界对相似的学术关注进行认真钻研,但缺乏相互切磋交流的空间。为打破这种局面,本论坛制定了诸多具有建设性的方案,以鼓励涉及中国研究的学生和青年学者积极参与。特别是田中教授通过组织“中国文化研讨会”来鼓励青年学者进行发表和讨论,通过以论坛网站为基础的网络空间创造了有关中国社会变迁和东亚新格局等各式议题的“研讨会系统”(包括以多种语言公开讨论稿或以小册子形式出版特辑等),以促进研究和教育的相互融合。

从大阪大学荣退后,田中教授仍旧继续热心地为青年学者提供研究指导,一起解读珍贵的原始资料。对于田中教授终其一生孜孜不倦致力学术研究的不懈精神和其真挚的人品,我深表敬意与感激。

为向田中教授多年来的辛勤付出表示感谢,大阪大学中国文化论坛特此开设悼念专栏,以追思先生足迹,缅怀先生遗德。专栏将随时发布来自各方的唁电和悼文。谨此讣告。

大阪大学人間科学研究科・教授
(中国文化フォーラム事務局・代表)
三好 恵真子

田中先生の略歴・著作目録

略歴/生平简介

1954年04月02日 奈良県に出生
1973年03月    奈良県立奈良高等学校卒業
1973年04月    広島大学文学部史学科入学
1977年03月    広島大学文学部史学科卒業
1977年04月    広島大学研究生(1978年03月まで)
1978年04月    広島大学大学院文学研究科博士前期課程進学
1981年03月    広島大学大学院文学研究科博士前期課程修了(文学修士)
1981年04月    広島大学大学院文学研究科博士後期課程進学
1984年03月    広島大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学
1984年04月    大阪外国語大学外国語学部講師
1988年01月    大阪外国語大学外国語学部助教授
1988年03月    文部省在外研究員として中国で研修(1989年01月まで)
1994年04月    広島史学研究会県外評議員
1999年10月    中国革命史中青年学術賞・海外優秀論文賞(中国社会科学院近代史研究所)
2001年01月    大阪外国語大学外国語学部教授
2004年03月    大阪外国語大学博士(国際学)
2004年10月    日本現代中国学会理事(2020年09月まで)
2007年10月    大阪大学大学院法学研究科教授
2008年04月    中国現代史研究会理事(2020年03月まで)
2008年04月    中国現代史研究会理事長(2012年03月まで)
2008年12月    科学研究費委員会専門委員(2010年11月まで)
2009年12月    東洋文庫客員研究員
2015年07月    大阪大学総長顕彰(研究部門)
2016年10月    日本現代中国学会理事長(2018年09月まで)
2016年12月    科学研究費委員会専門委員(2017年11月まで)
2017年11月    中国・南開大学講座教授(2020年09月まで)
2020年03月    大阪大学定年退職
2020年04月    大阪大学名誉教授
2020年04月    大阪経済法科大学国際学部教授
2021年03月    大阪経済法科大学退職
2023年04月14日 ご逝去

著作目録/学术论著目录

著作目録/学术论著目录
著作目録・編年体】(広島中国近代史研究会『拓蹊』第5号)
田中先生リサーチマップ

弔電/挽联唁电

南開大学より【PDF(日本語)】【PDF(中国語)

田中仁先生 ご遺族様

大阪大学名誉教授田中仁先生が2023年4月14日にご逝去されたとの訃報を受け、痛惜の念を禁じえません。多くの事情により悲報に接したことが遅くなりましたが、深い悲しみをもって哀悼の意を捧げたいと思います。

田中仁先生は永年にわたり、中国近現代史、中国共産党史、改革開放の歴史など諸分野の研究に携わってこられました。日本語や中国語で出版された多数の研究書は国内外で大きな反響を呼んでおり、中国近現代史の領域において極めて声望の高い歴史学者であります。2017年から2020年の間、田中先生は南開大学の外国人講座の教授として、学期ごとに授業や講座を開設し、人材の育成に尽力されました。また、田中先生が退官される直前には、多数の蔵書を南開大学歴史学院資料室に寄贈してくださっただけでなく、同学院の中国近現代史分野の学部生と院生の研究活動を援助する寄付もしていただきました。

2007年、田中仁先生を中心とする大阪大学中国文化フォーラムは、南開大学歴史学院、台湾東華大学歴史系と合同で国際セミナー「現代中国と東アジアの新環境」を開催し、その後も多国間・地域間の学術交流と相互理解を推進してきました。この国際セミナーは現在、中国両岸や日本、韓国の大学で13回の開催を数え、参加大学は数十校にのぼり、中日韓三国及び中国台湾地区における学術交流の有名な場として発展しています。ここでも田中先生は極めて重要な役割を果たされてきました。

この40年余り、田中仁先生は南開大学歴史学科の各世代の研究者と深い交流を持ち、研究者の育成に多大な貢献をしてこられました。田中先生は我々にとって敬慕する歴史学者であり、決して忘れることのできない大きな存在であります。

南開大学歴史学院・南開大学中外文明交叉科学センター全員、ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

南開大学歴史学院
南開大学中外文明交叉科学センター

田中仁先生家属:

惊悉大阪大学荣誉教授田中仁先生于2023年4月14日病逝,万分悲痛。由于多种原因,我们得到消息较晚,但还是要表达我们的痛悼之情。

田中仁先生一直从事中国近现代史、中共党史、改革开放史的研究,曾有多部著作以日、中文出版,在海内外引起较大反响,是极有名望的中国近现代史专家。2017至2020年间,曾受聘为南开大学外籍讲席教授,每学期都会访问南开大学授课,为培育人才尽心尽力。他在即将退职之时还将多部分所藏中日文相关文献及研究著作,无偿捐献给南开大学历史学院资料中心,并向南开大学历史学院中国近现代史学科捐款,以资助学生的科研及教学工作。

田中仁先生于2007年曾与南开大学历史学院、台湾东华大学历史系联合发起“现代中国变动与东亚新格局”为主题的国际研讨会,共同推动多国及地区间的学术交流及相互理解,这一会议在中国大陆两岸、日、韩高校连续举办了13届,发展为中日韩三国及中国台湾地区几十所高校参与的学术交流品牌。田中先生居功至伟。

40余年来,田中仁先生与南开大学历史学科几代人均有深入的交流,为培育人才做出了巨大贡献。他的逝世使我们失去了一位值得敬仰的历史学家。每每想起,感念不已。

南开大学历史学院、南开大学中外文明交叉科学中心全体同仁,谨向田中仁先生家属表示沉痛哀悼!

南开大学历史学院
南开大学中外文明交叉科学中心

東華大学より【PDF(中国語)

田中 仁教授 とこしえに

田中先生はこの世と永遠の別れを告げましたが、私たちの心のなかには、

先生の声と姿が今も存在し続けており、忘れることはないでしょう。

謹んで哀悼の意を表します。

台湾国立東華大学歴史学系一同 2023
李道緝,陳鴻圖,陳元朋,黃熾霖,潘宗億,劉慧,許育銘,陳進金

田中 仁教授 千古

田中先生雖然與世長辭,但在我們心中,

老師音容宛在,令人難以忘懷。

臺灣國立東華大學歷史學系全體同仁敬輓 2023
李道緝,陳鴻圖,陳元朋,黃熾霖,潘宗億,劉慧,許育銘,陳進金


追悼の言葉/追忆先生

福田州平先生より

田中仁先生のご逝去を悼み、謹んでお悔やみを申し上げます。

私が田中先生とお会いすることになったのは、GLOCOLの高度副プログラム「現代中国研究」の立ち上げがきっかけでした。

当時、GLOCOLでは多数の高度副プログラムを実施しておりましたが、先生が企画された「現代中国研究」のように地域研究をメインにしたものはありませんでした。そして、プログラム内容が分野横断的でしたので、田中先生の幅広い学識とご経験がなければ、まとまりを欠いたものになっていただろうと思います。

また、私のような中国研究の門外漢に対しても国際シンポジウムや天花阪論集へのお声がけをいただいたおかげで、私自身の視野が広がりました。本当に感謝申し上げます。

数年前から香港に住んでいるため、なかなか直接お会いする機会がなく、昨年のシンポジウムでzoom超しにお会いしたのが最後となってしまいました。今年になってコロナによる渡航規制もなくなり、いずれ直接お会いできるだろうと思っていただけに、訃報を聞いて信じられない思いでいっぱいです。

田中先生、いままで本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。

香港大学SPACE 福田 州平

竹内俊隆先生より

田中先生の訃報に接して、まさかと思い驚いています。一年ほど前に、体調がすぐれないと聞いて、電話しました。その時は、体調がかなり回復してきており、元気を取り戻しつつある。徐々にいろいろなことをしたいと思っている、とのことでした。そのため、もう安心だとばかり思っていました。残念至極です。私より若いのに。

田中先生に誘っていただいたおかげで、中国フォーラムに参加でき、中国関係の勉強を再開しました。少しかじった大学院時代からずいぶん時間がたっていました。中国各地での研究集会に何回も参加でき、又そのためにそれなりの勉強もしました。貴重な体験です。内蒙古や海南島も強く記憶に残っていますが、何と言っても憧れであった少林寺拳法の発祥地、本山である嵩山少林寺に参拝出来て、動きが信じられないほど早かった若い拳士と舞台の上で演武のまねごとをしたのが最大の思い出です。小職は、よろけながらでしたが。その時に、田中先生が喜んでいたのが記憶に残っています。

まことに残念ですが、これが現実と受け入れざるを得ません。ご冥福をお祈りいたします。安からにお眠りください。

京都外国語大学国際貢献学部 竹内 俊隆

丸田孝志先生より

田中仁先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

私は田中先生の母校広島大学の後輩にあたりますが、年齢が10歳離れていて、先生と親しくお話ができるようになったのは、南開大学留学中の大学院生時代からです。その時から先生に様々なことを学び、私と同じ目線に立って率直に語りかけて下さる先生の言葉に励まされながら、研究を続けてきました。

誰とでも胸襟を開いて対話し、幅広い学術交流を世代を超えて進めようとする先生の熱意は、中国文化フォーラムと天花阪のシンポジウムを組織・運営する原動力であったと思います。天花阪のシンポジウムにおいては、広島大学の学生らにも報告の機会を与えていただきました。現在二人とも研究職に就いています。

先生はご逝去の直前まで論文の執筆と刊行に向けた準備に尽力されていたようで、そのことで4月にもご連絡を受けたばかりでした。本当に残念でなりません。

幅広い学術交流の中で中国研究の発展を長年に渉り導いてこられた先生のご遺志を継ぎ、私なりの立場から研究の発展と若手の育成に尽力していきたいと思います。

広島大学総合科学部 丸田 孝志

周妍先生より

田中先生に謹んでお別れのご挨拶を申し上げます。

田中先生の突然の訃報を受け、今はただただ悲嘆にくれております。大阪大学卒業後も、先生とのメールのやり取りの中で、よく近況を聞いていただきました。いつも私を気にかけてくださり、先生には心より感謝しております。

初めて田中先生の講義に参加したのは修士一年生のときでした。広い教室にたくさんの学生が集まり、多岐にわたる話題が次から次へと飛び交いながらあっという間に時間が過ぎたのを鮮明に憶えています。異なる専攻の間で交流する場を先生が設けてくださったおかげで、知識の幅の広げ方や問題意識の持ち方について学びました。何より講義を通して、学問の楽しさを覚えるようになり、研究の道へ進むことを決意しました。

博士課程へ進学してから、田中先生には、ただ知識を吸収するだけではなく、物事の背景に潜む様々な可能性を探求することの重要性を教えていただきました。論文に悩んだり、挫けそうになったときに、先生がいつも適切なアドバイスをくださり、学問に対する情熱を保つことができました。そして、先生のご紹介を通して学会で発表したり、翻訳や通訳の仕事に携わることができたことは、私にとってとても貴重な経験でした。

これからも、田中先生に教えていただいたこと、また「ご研鑽ください」との励ましのお言葉を胸に、研究に精進していきたいと存じます。

田中先生のご冥福をお祈り申し上げます。

浙江大学歴史学院 周 妍

松本豊さんより

田中仁さんとは奈良高校時代からの親友で、50年以上の付き合いになります。今回の仁さんの訃報に全く狼狽し落ち込んでいます。

彼とは17才の時同じクラス(奈良高校3年8組)になりました。少しはにかんだような、そして落ち着いた彼の語り口はその時から変わっていませんでした。大和高田の彼のご実家や、和歌山串本の彼のおばあちゃんのところにも一緒に行き、海水浴をしたこともありました。広島大学時代の下宿にも泊めてもらいました。就職してからも一杯飲みながら、お互いの近況や時々の思いをとりとめもなく話しました。そんな中でもお折に触れ、彼の歴史研究への強い思いを感じたものです。

また埒外の私をまちかねcafeにも誘ってくれました。私の仕事の段ボールの事、段ボールの歴史に付いて少ししゃべらせていただきました。

69才になった今、これから彼に中国の事を教えてもらったり、一緒に中国へ行ったりできる…と思っていました。あんなこと、こんなことと彼から考え抜いた言葉を聞けると思っていました。唯々残念でなりません。

日々仁さんのご冥福を祈っております。

大和紙器株式会社 松本 豊

西村成雄先生より【PDF(日本語)

2007年8月天津での国際学術研討会を思いだしています。

2023年4月14日のご仙逝以来、あまりにも多くお世話になってまいりましたことに心からの感謝を申し上げ、その重要なひとつに国際学術交流にご尽力いただき多大なる成果を挙げてこられたことに、改めて敬意の念を深くしております。

広くとれば日中関係の学術的相互理解と相互浸透性の重要性を1982年以来一貫して追求され、現代日本における中国認識形成にご奮闘されてこられたと実感しています。

2007年8月、南開大学歴史学院・大阪外国語大学中国文化論壇・台湾東華大学歴史学系・中国現代史学会の共催になる「現代中国社会変動与東亜格局・国際学術研討会」の開催に当たって、田中先生は日本側からの参加者約20名の報告集などの取りまとめを一身に背負って、南開大学・江沛先生との関係を基礎に国際シンポジウムを成功に導かれ、海峡両岸からの約30名の参加者との学術交流の機会を得ることができました。南開大学・魏宏運先生や東華大学・張力先生のご挨拶など、今も明珠園一、二楼会議室を思いだしています。

各地域間の民間学術交流の展開として見ますと、すでに多くの地域間学術交流が進められる中で、天津と花蓮と大阪は初めての試みでしたが、その後田中先生の若き後継者諸兄姉のご努力によって今日に至るまで(Covid19の影響はなお残っていますが)継続的に国際シンポジウムを開催される基盤を構築されたわけです。こうした民間交流は国際相互理解を深めるうえで、さらには国際的諸問題をより広い基盤からとらえなおし、人類にとっての「平和」を考えるうえでますます重要な役割を担うものと思います。

田中先生の1982年以来の国際交流への情熱を振り返った時、間近にそのご活動を見る機会を得た一人として、その40余年にわたるご研究の広さと深さを改めて認識することができると実感しています。昨年10月の「近況報告」にありますように、新しいご著書の構想が具体化しつつあるという時にそのご容態の急変に、ただただ驚愕し今なおその現実を直視し得ぬ心理状態が続いております。

とうてい田中先生を偲ぶという感情にはありませんが、長年にわたりお世話になってまいりました一人として、またどこかでお目にかかれるのではないかと夢想しております。

かつて武昌黄鶴楼で長江を共に眺めしことを思いだしつつ、風高帆影疾 目送舟痕碧。

大阪大学名誉教授 西村 成雄

張思先生より―「仁厚德高:追思田中仁老师」【PDF(中国語)

笔者与田中仁先生,奈良县大和高田市土库村,2010年12月

大阪大学教授田中仁先生于4月仙逝,令很多中国同行感到悲痛。与其他中国同行们相比,我自认为可能是与田中教授有过特别交往的一位,我有更多的机会近身领略田中教授的学问与仁德。在此悲痛伤感之际,无法用更多的语言来彰显仁厚德高的田中仁教授,只能记录一些我们之间交往的片段用以追思。

(一)
回想我与田中仁老师(以下,用“田中老师”这一南开师生爱用的称呼)的最初交流,应该是在2009年8月受邀参加在大阪大学举办的“第三届现代中国社会变动与东亚新格局国际学术讨论会(第三回「現代“中国”の社会変容と東アジアの新環境」国際シンポジウム)”上。我提交的论文是《集体化时代的乡村社会流动:一个华北村庄的个案研究》,田中老师提交的论文是《中日战争前期的华北农村与中国共产党:河北省涞源县的“800日”》。好像是我主动向田中老师请教了有关涞源县、王二小等感兴趣的问题,由此我和田中老师在会议上就相互的研究以及其他很多话题有了最初的交流。在交流中,我向田中老师介绍了我对近代以来中日两国村落共同体比较问题的关心,也应该是在这个时候我自然而然地询问了田中老师家乡的情况,并请教了日本农村的“结”(农耕互助习惯)以及村自治组织运营等方面的问题。在此过程中,我表示自己只是通过文献了解日本农村,并没有真正踏进日本农村一步。令我意外和感动的是,田中老师迅速、爽快地对我说,欢迎你有时间到我的家乡——奈良县大和高田市土库村(どんごむら)访问考察。田中先生告诉我说,他的家乡是典型的“環濠集落”(由具有防御功能的河流沟渠围绕的村落),村落共同体色彩浓厚。坦白地说,对于田中老师的盛情邀请,我刚开始都不敢相信是真的,心想这该给田中老师带来多大的麻烦啊,是田中老师的真诚打消了我的疑虑。我回中国后于9月中给田中先生去信时写到,“在这次学术会议上得以向田中教授请教,并深入交流,实在是一大幸事。期待着明年能去田中先生的老家,有机会实地感受日本的农村……”

这次学术会议期间,能看出大阪大学和田中老师作为主办方安排周到,花了很多心思。比如,参观大阪市舞洲垃圾処理工场令我印象深刻,收获很大,深感中国的环境治理任重道远。在京都考察时的午餐安排在平安神宫东侧的乌冬荞麦面料理店“おかきた”,我认为这是田中老师精心考虑过的,传统与现代相调和的空间与陈设,醇汤与细面的极致考究不禁有京美人的联想,令人无法兼顾。

(二)
2010年10月,我获得在京都大学人文科学研究所访学半年的机会。时隔一年,田中老师仍记得对我的承诺,邀请我和正在阪大访学的渠桂萍老师(当时,太原理工大学)于12月中旬去他的家乡——奈良县大和高田市土库村考察。关于这次访问的具体过程与学术收获,我在南开大学中国社会史研究中心网页上做了较为详细的介绍,渠老师也有相关学术论文发表,在此不再赘述。这次考察令人无限回忆的地方还有很多:(1)田中老师提前为我下载、打印了有关“環濠集落”的网上资料,并为我复印了《大和高田市史》、《大和高田市史 史料编》、《私たちの社会:北部葛城郷土史》等资料,以便我预先熟悉当地情况。(2)田中老师的父母对我们的热情招待;(3)晚上和田中老师合宿一室,我们躺在榻榻米上聊到深夜;(4)田中老师的母亲为我提供了《土库北自治会会员名簿》、《土库北自治会评议员名簿》、《土库北自治会评议员与组长职务分担表》、《平成22年度土库北自治会役员会报告》等中国学者难得一见的资料;她在村民面前总是非常骄傲地为我们做介绍;(5)对村的产业、农业用地、环濠设施、神社、公民馆的考察;(6)对村的公共墓地的考察,令我印象深刻。其中,供养日俄战争以来历次战争村民战死者的纪念碑及“殉国碑”最为醒目,使我得以近距离了解那场侵略战争在日本底层民众心中的意味。

笔者访问田中老师的家乡,2010年12月

这次考察的所见所闻信息量很大,令我印象深刻,颇有感触的细节之处还有很多,篇幅所限仅举一例。当我细读田中老师的母亲给我的《平成22年度土库北自治会役员会报告》,我发现自治会会长阁下(相当于中国的村主任)对全体会员(相当于我们的村民)的报告里竟找不到一处多余的字句和冠冕堂皇的套话,实在是就事论事简单明了到极致。当然首句少不了季节感,也是满满的人间烟火气:“时值立春徒有其名酷寒每日闭锁家中,在此谨祝土库北自治会会员各位……”我认为这里面有很多中国的村民自治值得借鉴的地方。

在田中老师家乡的这次考察虽然短暂但意义重大,使我得以深入了解日本的乡村社会并与中国进行比较,也使我能够在南开的课堂上向中国的年轻一代分享这极为难得的考察成果。管见所及,中国学者留宿日本乡村农家可能是极罕见的,走入日本村落进行考察的案例恐怕也极为少见。因此,我一直都为这次经历而骄傲,这应该是一生中最重要的财富吧,为此我一直由衷地感谢田中老师。

(三)
我与田中老师的交往,有一些小事情也值得写出来。

(1)我从田中老师家考察回京都后一个月,2011年1月15日去京都国立博物馆参观“笔墨精神——中国书画的世界”展览。我是在报纸上看到的展览消息,没想到在这里竟与田中老师巧遇!想必田中老师也看到了这条消息。那天参观者并不多,我当时想,日本这么大,关西也这么大,人这么多,这是巧遇还是缘分?参观后我们两人在附近的CoCo壱番屋日式咖喱店边用餐边交谈。记得田中老师突然谈起“秽多”的话题,神情严肃,声音越来越小,搞得我直把身子往前探。

(2)大概是2019年秋天,田中老师作为客座教授来南开大学历史学院做访学研究。一天我去他的研究室闲聊,我对他说:工作忙碌之余也不妨休息一下,有时间的话可以开车带你去太行山里的抗日战争遗址参观。令我没想到的是,我连着说了三个抗战遗址,一个比一个偏远,田中老师都说去过了。最后我提了一个我认为绝对不可能去的偏远地方,“东团堡没去过吧?那里风景也不错。”田中老师还是说哪年哪月去过了。事后我想,田中老师到底是担任过日本的中国现代史研究会的会长啊,而且,如果我细心读了田中老师的大作《中日战争前期的华北农村与中国共产党:河北省涞源县的“800日”》,就不会傻傻地提出去那些地方了。

(四)
我与田中老师近几年有两次密集交往。一次是2019年夏天我带领南开大学历史学院伯苓班的同学们去大阪大学与田中老师的学生们进行交流。为此,我与田中老师事前多次书信往来,商量交流活动的细节。当然,是我向田中老师贸然提出了拜访与交流的想法,也想到这必然会给田中老师带来麻烦。不过我一直坚信,田中老师与我有一点是一致的:未来的中日关系,需要更多的民间交流,需要年轻人之间的交流和理解。在田中老师的安排下,这次交流会于7月22日在阪大圆满举行。交流形式是,由阪大的5名学部学生(正在选修田中老师的“21世紀の中国政治と日中関係”讨论课)各写1000字左右的短文,提前发给南开的10名学生,由南开的学生针对其中内容发表感想、意见。伯苓班的同学是这样记述这次交流的:“会上,田中仁教授对伯苓班的来访表示热烈欢迎,双方同学边吃饭边交谈,就“战后中日关系”“当代中国社会经济”“台湾的外交问题”等交换观点。此前的访学都属于旁听课程或宣读自己的小论文,而这次的交流会则是同学们聆听对方同学的看法并进行交流。交流会上,同学们了解到日本同龄学生对中日关系和中国社会的想法,并积极地表达自己的观点和意见。这不仅是一场学术上的交流,也是一次中日大学生友好交往的经历。”

众所周知,田中老师将其长年收集、利用的学术著作2058册捐献给了南开大学历史学院资料中心。在这次交流会转天,我带着10位南开的学生为田中老师的捐献藏书做了登录工作。

田中老师招待南开伯苓班的同学们,2019年7月22日

我与田中老师最后的密集邮件交流,是从今年的2月18日持续到4月7日。田中老师在2月28日的信中告诉我,他于2021年夏因病情变化做了气管切开手术,一直在适应中。我知道,田中老师不会把真实病请告诉我,这令我心痛。之后,我们之间多次就田中老师新写就的论文进行讨论交流。该论文利用了我提供给他的一位公社书记的工作笔记资料,他希望我对该论文从隐私处理到学术见解毫无顾忌地提出意见(日语原文:“……先生の忌憚のないお考えをお教えください。”而我在其中一次回信中这样写道:“附件是我对大作提出的一些问题和评论。表达都是非常率直的、直白的,是从纯学术性目的出发的,没有遮遮掩掩。因为我很敬仰、相信田中老师高尚的人格。”3月30日,田中老师发给我这篇论文的最终定稿(第18.2版)。之前的几天,田中老师告诉我他曾去阪大图书馆借阅我写的书,我当时很欣慰,心想这说明田中老师的身体还是不错的。4月4日,田中老师来信告诉我该论文将按计划发表,并对我一直以来的帮助表示感谢。我于4月7日晚给田中老师回信,全文如下:“田中老师:来信收到。我最近很少写论文了,因此很敬佩您的研究精神!望多多保重身体!”。6月6日,京都大学石川祯浩教授告诉我田中老师逝世的噩耗,也谈及田中老师的遗作。我给石川教授的回信很沉痛:“我没想到,这是我们之间最后的交流,我也确信,田中先生是在用尽最后的力量,去修改和完善那篇学术论文。”

永远怀念,仁厚德高的田中仁老师!

南开大学历史学院资料中心“田中仁教授捐赠书库”


南開大学歴史学院 張 思

周太平先生より―「田中仁先生を憶う」【PDF(日本語)

田中仁先生が今年4月14日にお亡くなりになったことについては、しばらく経ってからその報に接した。突然のことで、こころからのお悔やみを表明いたします。田中先生には大変お世話になり、たいへん悲しくつらく感じております。

今振り返ると、田中仁先生のお名前は、日本留学時代に『中国近代化過程の指導者たち』(曽田三郎編)という本を通じて知っていたが、直接、お目にかかるようになったのは、私が大阪外国語大学大学院に入って確か先生担当の「中国近代政治史像の再検討」という講義が開いた1998年春季のころであったと記憶しています。まず、先生はうわひげの温顔で、やや早口で物静かにお話になるのが印象的でした。いつも中国からの留学生のことを気にかけてくださいました。そのことに対する感謝を、わたくしは忘れません。

それまでの私のあたまに入っていた近代史研究は、どちらかというと、観念形態的なものでありましたが、先生の講義は、史料にもとづき、研究の現状を批判的に検討するもので、両大戦間期に関する中国政治史研究では、国民政府研究を中心に実証研究の蓄積とそれを踏まえた新たな歴史像の提起を重視されたご研究は、私に新しい感覚を与えてくれました。先生の講義に一年間出席させてもらいましたが、その頃の思い出に、また、先生に誘われて、夏の共同研究合宿や研究会に参加したり、よるいっしょにビールやお酒を飲んだりしていたことが目に浮かぶ。先生は中国産の赤いラベルの紹興酒も好きでした。

先生は、近現代中国史の研究に多くの業績を残されました。先生を喪いましたことは、日本、中国および国際中国史学界にとりまして、多大な損失であることは言うまでもありません。

私ども日本留学を終えて、帰国して以降も、日本·中国大陸·台湾·韓国などの各地で開催された国際セミナーにおいて先生と常に意見交換をしてきた。とくに、『フフ·トク/青旗』誌を内モンゴル大学出版社から刊行する計画にあたって著作権の交渉や原本複写などにきわめてご尽力されてくださいました。このようなご苦労を意に介されぬ先生の親切をいつまでも忘れることはできません。

2014年4月から一年間、私とナランゲレルが日本滞在中で、田中先生は、なにかと私たちの研究と大阪滞在へ御協力·御援助くださいました。戦前期モンゴル語新聞『フフ·トク/青旗』に関する共同研究プロジェクトを計画するため、お久しいことで、先生にお目にかかり、お話をうかがう機会を得ましたが、そのたびに近代内モンゴル植民地史研究の該博な知識の一端に触れ、また、週に一回田中ゼミに出席させていただき、先生の学恩に与って過ごした日々であったと思われます。

2020年夏から、ながらく闘病生活を続けておられると聞き及び、心配しておりましたが、ついに鬼籍に入られたとのことを偲び、痛惜の念に耐えない次第であります。思い出は尽きませんが、これまで田中先生より頂いたご厚誼、学恩に深く感謝しつつ、今はただご冥福をお祈りするばかりであります。

2011年8月内モンゴル大学で開催された「現代中国と東アジアの新環境」第五回国際シンポジウムで講演される田中仁先生


内モンゴル大学モンゴル学院 周 太平

青野繁治先生より―「田中仁先生を憶う」

田中仁先生の訃報に接し、呆然としております。

田中仁先生とは、1988年に私が大阪外国語大学に赴任して以来、2007年の阪大・外大統合まで、ずっと研究室がB棟4F西南側で隣同士でした。朝早く研究室に来られ、夜は最終のバス便で帰宅されるのが、先生の長年の習慣であったと思います。私も火曜日以外は大抵授業か会議でしたので粟生間谷キャンパスの研究室にいることが多かったのですが、パソコンに向かっていると、隣の部屋から先生が咳をされる声や電話の声、ゼミ生と話す声がBGMのようにかすかに聞こえていました。となりに大抵私がいるのを心得ておられて、パソコンやネットワークでトラブルがあると、必死の形相で飛び込んでこられることもありました。粟生間谷キャンパスでは、入試や博論・修論審査を除けば、パソコントラブルを通じたつきあいが多かったかも知れません。私の音楽の趣味に対し、若いころは画家を志したこともあると、作品の写真を見せてくれたことがありました。

私が在研で北京の清華大学にいた2004年、田中先生は専攻語代表として、武漢大学との交流協定を結んだあと、北京に来られ、「甲所」で王中忱先生たちと食事をしたのを覚えています。

統合後は法学研究科に移籍されたので、研究室は離れ離れになってしまいましたが、田中先生の主催する大阪大学中国文化フォーラムに参加させてもらい、天花阪会議には、花蓮(2回)、鄭州、長春、大阪(2回)と参加しました。毎回、天津と花蓮の歴史系の先生がたと綿密に計画を練り上げ実施された田中先生の力量には毎回感服させられました。フォーラムでは専門の中国文学ではなく中国ロック音楽という専門外のテーマで発表を続ける私を、ずっと見守ってくださった。

田中先生はご専門の中国現代史だけではなく、阪大という総合大学の利点を生かして、理科系の先生方とも交流の場を設けられ、中国文化フォーラムの中身を豊かにされた。この点は、大阪外大ではできなかったことで、大学統合を積極的な活動につなげられた田中先生の功績だと考えます。

私は2月生まれ、田中先生が4月生まれで、わずか2か月ですが私の方が年長でしたので、一年先に定年退職しましたが、田中先生の最終講義には出席させていただきました。そのときのご様子はとても元気でしっかりされていたので、その後病に倒れられ、こんなに早く逝ってしまわれるとは、想像もできませんでした。

田中先生、本当にご苦労さまでした。謹んで感謝申し上げます。やすらかにお休みください。

大阪大学名誉教授 青野 繁治

渡辺直土先生より

3年前の退官記念講義の後にお話ししたのがまさか最後になるとは思わず、驚いています。記念講義では今後は華国鋒に関する研究を構想しているとお話しされていたので、どのような成果を発表されるのか楽しみにしておりました。

大阪外国語大学大学院で博士前期、後期課程の6年もの間、田中先生に副指導教官をお引き受けいただき、ご指導を受ける機会に恵まれたことは幸運なことでした。当時私は20代と若く、また奈良高校の後輩ということもあってか、ゼミでの発表内容が不十分な際は容赦ない叱責が何度も飛んできたことが思い出されます。中でも博士後期課程の授業でご著書『1930 年代中国政治史研究:中国共産党の危機と再生』(勁草書房)を草稿段階で読ませていただくことができたのは貴重な経験でした。当時受講者は私一人で、1930年代の中国共産党と中国政治を分析した同書について、「現代を専門とする渡辺君の視点から意見が欲しい」とのことでしたが、知識不足であまりお役に立てず、先生の失望を招く結果になってしまいました。ただ、終章の「中華民族社会」の概念を巡る部分についてだけは議論になったことは記憶に残っています(その結果「中華民族社会」と括弧付きの表記になりました)。

大学院修了後も大阪大学中国文化フォーラムの「天花阪会議」に継続して誘って頂き、阪大の先生方と中国や台湾の各地を訪れることができ、その全てが自分の中で財産となりました。また、中国現代史研究会では田中先生の下で運営体制の改革に関わることができ、どのような形で学界に貢献するのかを考える機会を得られたことも貴重でした。

今私も教員という立場になり、外大で学んだ6年間の重みを改めて感じています。特に田中先生の言葉で印象に残っているのは「資料(史料)と格闘しなさい」ということです。わかったような気になって安易に結論を出すことに対して常に厳しい姿勢をもっておられました。若い学生にどのように学問と向き合うのかを伝えていくためにも、この言葉を今後も大切にしていくつもりです。

熊本大学文学部 渡辺 直土

団陽子先生より

田中先生に初めてお目にかかったのは、京都大学の「毛沢東に関する人文学的研究」班においてでした。その帰り道でご指導いただいたことや、研究会へと急ぐ道すがら鉢合わせた先生と遅れついでにカレーをかきこんだことなどが懐かしく思い出されます。

他大学の学生ではありましたが、大阪大学中国文化フォーラムの国際会議にも幾度も快く参加させてくださいました。また、慣れない学会報告の際にも、田中先生が聞きに来てくださり、とてもうれしかったことをいまも鮮明に覚えています。

その後、私の海外滞在とコロナ禍が重なり、先生にお目にかかれませんでしたが、その間も先生からはとても興味深いシンポジウムのお知らせを賜りました。ご自身のお身体の具合にもかかわらず、私の研究関心にまでご配慮くださるとは。。。

中国研究の発展のために尽くされてきた田中先生のお姿に深く敬服するとともに、先生の優しいお心遣いがありがたく感謝の念に堪えません。

田中先生、数々のご指導と励ましをいただき本当にありがとうございました。

先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

日本学術振興会特別研究員 団 陽子

江沛先生より―「田中仁先生を偲ぶ」【PDF(中国語)

私と忘年の交わりを結んだ、師であり友でもある大阪大学名誉教授の田中仁先生が病気で亡くなられてから既に7か月が経ちました。なぜ天国に召されたのでしょうか。心の奥底ではこのことに触れたくない気持ちが今も残っています。

先生の悲報に接した2023年6月6日は、ご逝去からなんと50日も後のことでした。翌日の7日、私は大阪大学、台湾東華大学、そして南開大学の3者でオンライン会議を開催し、如何に追悼するかについて相談しました。その結果、大阪大学の「中国文化フォーラム」において追悼文を掲載し、記念会議を開くことが決まりました。多くの追悼文が次々と発表され、本当に心が打たれました。

記念会議が開催される直前になって、ようやく私は文章を書き始めました。先生のことを思い出すたびに、涙をこらえました。田中先生のぽっちゃりとした体型、カジュアルなベスト、そして親しみやすい笑顔が、私の前に浮かび上がり、悲しくてなりません。先生と学術理念を共有して日中相互理解の可能性について探究した日々が昨日のように思えました。

このような温和で聡明な学者が、70歳にも満たないで天国に召されたのはなぜでしょうか。新型コロナウイルスは3年間流行し、神は中国の苦境を打破する方法を早く知りたかったのでしょうか。

私が田中先生と知り合ったのは1986年9月頃、先生が南開大学で私の指導教官である魏宏運先生を訪ねた時です。魏先生のお家で、奥様が餃子を作って田中先生をご馳走しました。私は魏先生のお手伝いをしていたので、共に食事をする機会がありました。その時はまだ田中先生についてあまり深い印象を抱いていませんでしたが、30代半ばで、スリムなからだつきで、性格が豊かで真摯な印象を受けました。中国語の会話に多少不自由はありましたが、読解能力が抜群であり、中共党史、特に中日戦争における中共の発展史に対して深く理解していました。また日中の文献を対照して研究を行うことは、当時では非常に珍しい才能でした。

その後の1991年、南開大学で開催された第二回中国抗日根拠地国際学術研討会で私は田中先生に会いました。その時、私は既に卒業しており、若手教師でありながらも、魏宏運先生の学術秘書も務めていました。初めて国際学術研討会で発表ができ、田中先生とも交流しましたが、それはあくまで一般的な交わりでした。当時、田中先生は中国の学界で既に一定の知名度を持っていました。その後も、中国各地で開催された学術会議で何度も田中先生に会いましたが、やはり短い会話で、話題は南開大学、魏宏運先生、中日戦争史の研究に限られていました。

2003年4月、私は日本の愛知大学に1年間の訪問交流の機会を得ました。黒笹キャンパスの愛大HOUSEに宿泊しました。7月のある日、田中先生と馬場毅先生が一緒に訪ねてきてくれた時に長時間話し合ったのですが、この時に多くの歴史学の理念に共感し、中日関係史や中共党史に対する理解も一致しました。もっと早く話し合えばよかったと思いました。中国の学者と交流するため、田中先生は新著の『1930年代中国政治史研究―中国共産党の危機と再生』(勁草書房、2002年版)を中国語に翻訳することを提案し、本の出版を私に一任しました。

本の翻訳は南開大学周恩来政府学院の趙永東教授と博士課程学生の劉暉さんに依頼し、私は学術的なサポートを提供し、また愛知大学の現代中国学部の劉柏林教授が翻訳の校閲者として携わりました。その結果、田中先生の著作『20世紀30年代的中国政治史:中国共産党的危機与再生』は、2007年に天津社会科学院出版社から出版されました。本書は、中共の革命戦略の転換、中国政治と中共の白区工作、中共の指導者である張国焘、王明、毛澤東の思想分岐を主線として、この時期のコミンテルンとマルクス主義の中国化、毛澤東思想生成の中で、中共が如何に危機を経験し危機の中で再生したのかについて研究しています。それに加えて、本書は緻密な分析の上で日本語文献と日本の学者の研究成果を引用しており、中国の学者の注目を集めました。田中先生は本書の出版に非常に満足しており、これをきっかけに私と深い友情を結びました。

2006年、田中先生と西村成雄先生は学術会議の参加のために天津に来られ、「現代中国変動と東亜新格局」をテーマにした国際学術研討会を定期的に開くことを提案しました。田中先生は、1894年の甲午戦争以降、日本が中国の東アジアにおける主導的地位に取って代わり、そこから100年後、改革開放政策によって急速な経済成長を遂げた中国が再び東アジアの局面を左右する力になったと認識しました。この変革は19世紀から21世紀にかけて東アジア、特に中国本土と台湾、日本との関係に影響を与える要因であり、重要な意味を持っています。この知見に対する理解を深めるために、学術的な人材を育成すること、三者間の学術交流を強化すること、そして矛盾や誤解を解消することは不可欠であり、東アジアの歴史を理解することは、東アジア地域の平和を推進する鍵となります。私はこの重要な責任感と学術的使命に感銘を受け、積極的に協力するようになりました。また、田中先生は台湾東華大学歴史系の許育銘主任に対してこの計画について言及し、許主任は積極的にこの計画に参加しました。

聡明な許育銘主任は、頭の中でアイディアを生み出し、天津、花蓮、大阪の3つの都市それぞれの一文字を取り、研討会の別称として「天花阪」という名称を考案しました。「天花阪会議」という名前は直ちに広まり、学界で有名になりました。

2007年7月、一回目の「現代中国変動与東亜新格局」国際学術研討会が天津で開催されました。それから3校が交替でこの会議を主催することになります。さらに、韓国のソウル大学、内蒙古大学がチームに加入しました。影響力を拡大するために、会議は中国大陸の贛南師範大学、内蒙古大学、吉林師範大学、山東大学が交替で主催し、多くの若手教師や学生は貴重な知見を得ることができました。中には、この機会を通じて指導教官と知り合って日本に留学したり、台湾で研究したりする者もいました。3校の多くの学者の努力により、この研討会はなんと15年間も続き、大評判となりましたが、これはまさに奇跡と言えるものであり、新型コロナウイルスが流行するまで、途切れることなく続いていました。2010年8月の贛南会議で、参加者は井岡山を見学し、国共分流後の政治局面に感嘆しました。2014年12月、長春の大雪と寒風の中、参加者は室内外の寒暖差を体験し、強い印象を残しました。2017年8月の済南会議で、参加者は泰山に登り、雲の奥まで眺め、「一覧衆山小(衆山の小なるを一覧す)」を実感しました。もちろん、大阪や花蓮に行った経験も忘れられません。2021年12月、ZOOMを通じて第14回「天花阪」会議を開催し、技術的な進歩でコロナ禍による障害を乗り越えました。呼吸器の病気を患っていた田中先生は、回復したばかりで、少し元気がなさそうでしたが、笑顔でいっぱいであり、思考もはっきりしていました。思いもよらず、この会議が永遠の別れとなるのです。

この20年間、私は大阪を十数回訪れています。田中先生も幾度となく天津を訪れ、2019年から2021年にかけて南開大学の客員教授に着任しました。私たちは何度も面会、交流、食事、飲酒をし、お互いを親友と認めていました。私の研究室から、修士卒業生の鄒燦さんが大阪大学の博士課程に進学し、田中先生は入学や指導に関して全力を尽くしました。田中先生が中共根拠地史の資料を必要とされた時、私は河北省や天津市の檔案館調査に同行しました。また、博士課程学生の劉暉さんに田中先生を河北省の淶源に案内してもらい、黄土高原の地形を観察し、地元の高齢者にインタビューしましたが、中日戦争で日本軍がなぜ勝利しなかったのかに関する複雑な要因を田中先生は感じ取られました。田中先生はお酒に強く、特に中国の白酒が好きで、中国で会うと必ず飲みます。日本での食事をする時には清酒と白酒を交互に楽しんでいました。酔っぱらうと話は尽きず、非常に楽しいひとときでした。中年になって知己を得ることができて、他に何を求めるものかと思います。

私は大阪大学の短期客員教授を2回務めました。赴任時期を1月から2月にして、2回ぐらいの講義をする以外には特に仕事がありませんでした。雑務から解放され、研究と執筆に専念することができました。私の研究室は法学部の向かいにある豊中学舎にあり、毎晩9時過ぎに会館に戻る時、法学部の建物を通り過ぎるのですが、その時に建物を見上げるといつも田中先生の研究室には明かりが灯っていました。学生たちは、「田中先生がキャンパスにいるかぎり研究室にはいつも電気がついています。先生の研究室は最後まで電気がついている数少ない部屋の1つです」と語っています。

田中先生は中国近代史と中共党史を40年間にわたって研究し、中国語や日本語で書かれた多くの学術的著作と貴重な史料を蓄積してきました。先生の研究室には、幾多の本棚に本がぎっしりと詰まっており、羨ましく思いました。2018年、田中先生の退官が迫っていた時、先生は家のスペースが足りないため何千冊もの本をどう処分すべきか悩んでいました。私は南開大学歴史学院に寄贈することを提案しました。彼は考えた上で承諾しました。2019年、田中先生の学生であった鄒燦さんと林礼釗さんに手伝ってもらい本を天津に郵送し、何度も天津税関と駆け引きを繰り返した結果、ついに全ての本が揃いました。南開大学歴史学院の外国語図書室に「田中仁教授寄贈本専用書棚」が設けられ、約2000冊の寄贈本が展示されています。田中先生は南開大学の学生に知恵を与えると同時に、田中先生の学術精神が受け継がれることとなりました。

田中先生が生前何度も述べていたように、学者は東アジア各地の歴史を正しく理解し、相互の矛盾を解消し、東アジアの平和を促進するために努力しなければなりません。それは現代世界に対する学問の責任です。賢者が去っても、後世はその精神を継承すべきです。

思い出が歴史の年輪の中で行き来する中で、田中先生の姿は繰り返し浮かび上がります。ぼんやりとした時に幻覚が現れ、最後まで明かりが灯っている法学部の研究室で田中先生がキーボードを叩いている姿が浮かび上がります。(李薈 訳)

南開大学歴史学院 江 沛

陳銘俊さんより

田中仁先生のご訃報に接し、ただただ驚いております。

田中先生と出会った当時の私は、駐大阪総領事館に勤務しながら大阪外国語大学に通う学生でした。お世辞にも真面目とはいえなかった私を先生は根気強くご指導下さり、学位取得の喜びを与えて下さいました。先生との出会いは私の人生にとって不可欠なものであり、勉学はもとより先生から教わったことの全てが、今のキャリアに生かされているといっても過言ではありません。

2021年の秋、私が3度目の日本勤務となってからは、ネットや新聞で私の寄稿を読まれ必ず感想を添えて携帯にメッセージを送ってくださり、ご療養中でありながらも私の健康を気遣って下さるような気高いお方でした。

“魯迅と藤野先生”に重ね合わせ惜別の思いを強くしております。慈父のような田中先生、深い愛と寛大な御心で不勉強でわがままだった私を受け入れてくださり、有難うございました。安らかに永眠されますことを衷心よりお祈りいたします。

台湾駐福岡総領事 陳 銘俊

根岸智代先生より

田中先生には学部4年生、大学院生、その後の中国文化フォーラム主催の会議など、長年ご一緒させていただき、多くのご助言、ご指導を賜りました。私の至らなさ故に、先生にお叱りを受けたこともありました。特に文化フォーラムの事務を担った時などは、先生が思われるようにスムーズに会の準備を進めることができず、先生をいらいらさせてしまったこともありました。

私が参加させていただいた会議の中で、モンゴル、フフホトでの会議がございました。その会議前に、先生から「今回の会議の体験記を書いてほしい」と言われたことがございました。事務の仕事とは別に、できるだけ他の先生方のご発表を拝聴してまとめ、私なりに感じた会の雰囲気を書いてみたところ、「細かく観察して書いてくれたんだね」と優しくお声をかけていただいたのは、今でも忘れることはできません。つたない体験記でしたが、先生にお褒めの言葉をいただいたんだと、勝手に解釈して喜んでおります。

最後まで研究や国際会議に対して情熱をもっておられた先生を尊敬しております。ありがとうございました。

神戸松蔭女子学院大学非常勤講師  根岸 智代

鄒燦先生より―「恩師田中仁先生の追憶」【PDF(中国語)

恩師田中仁先生が4月14日に病気療養中のところ亡くなられました。訃報に接したのは6月6日です。その瞬間、驚きと深い悲しみに襲われ、茫然自失になりました。遠い中国にいるからかもしれませんが、私は先生がご逝去されたという実感をいまだに抱くことができません。

私は2011年から先生のご指導で大阪大学に留学し、2016年に博士号を取得した後も阪大に就職し、先生が阪大からご退官されるまでのほぼ9年間、ずっと先生のそばにいました。2020年末頃転職のため帰国することになり、その直前、田中ゼミの皆さんが石橋駅付近の「がんこ」で送別会を開いてくれて、田中先生もご出席くださりました。コロナが大流行していた時期なので、食卓には透明なパーティションが設置されていましたが、リラックスした温かい雰囲気での食事会でした。当時、別れの悲しみは全くなく、今後は学術活動のため、必ず毎年どこかで会うことができるだろうと、先生も私も思っていました。これが私と先生がお会いする最後の機会になるとは当時誰も思っていなかったことでしょう。このことを思うたびに、痛恨の情を禁じ得ません。昔のことも次々と思い出されます。

先生と最初に出会ったのは2007年の夏であり、天津で開かれた「天花阪会議」の一回目に参加するためでした。その時の私はまだ学部生でした。当時の先生への印象は、にこやかな顔、整った口髭、ぽっちゃりとした体型で、「スラムダンク」の登場人物の安西先生によく似ていると思いました。その後、先生のおかげで、会議で発表した論文が日本語に翻訳されて公刊されました。それが私のはじめて公刊された研究論文です。こんなにも早い時期から先生の恩恵を受けたことで、当時の私は歴史研究者を志す上で大きく励まされました。

先生と再会したのは、2009年に阪大で開催された三回目の「天花阪会議」でした。これは私が初めて海外に行って国際シンポジウムに参加した時です。大阪での五日間、先生と話す機会が多くなり、素朴な質問を出す私に対して、先生は頑張って中国語で丁寧に対応してくださいました。当時日本語のあまり通じない私は、先生の優しさと真摯さに深い感銘を受けました。その時、修士課程の指導教員であった江沛先生の推薦もあり、私は将来日本に留学し、先生のご指導を受ける決意をしました。

帰国後、私は日本語の勉強と修士論文の執筆以外に、先生のご指導と援助のもと、阪大への留学準備も順調に進めていました。2011年10月1日、私はようやく来日し、念願の留学を実現させました。到着の翌日、先生に早速ゼミへの参加を要求され、はじめて先生の優しさの中に厳しさを感じました。初回のゼミの直前に、先生の研究室を伺った情景は今でもはっきりと覚えています。ドアをノックすると、部屋のずっと奥から「はい、どうぞ」という先生の声が聞こえてきて、ドアを開けると目の前には本棚がいっぱいです。本棚を通り抜けてやっと先生にお会いできました。先生は嬉しそうに「腰を掛けて」と言ってくださりましたが、それまで日本語の試験勉強を独学でしかしたことがない私は、その言葉の意味が聞き取れず、堅苦しく立ったままでいました。それに気付いた先生は中国語で「請座」と言ってくださり、私の気持ちはすぐに落ち着きました。今から思えば、これは先生の生涯における留学生指導の中で、滑稽な場面の一つであったに違いありません。

その後の5年間、先生の丁寧なご指導の下、楽しく充実した留学生活を送りました。私が早く日本の生活に慣れるため、大学内外の外国人支援施設を先生自ら案内してくださる先生の細かいお心遣いや、研究テーマについて何か思いつくといつも事前予約なしに直接先生の研究室に伺う私に対して、先生が仕事中でもその手を止めて興味深い返答をしてくださったこと、常に論文をめぐって討論しながら研究室の本棚から十数冊の本を取り出して「読んでみてね」と私に言ってくださる先生のお姿、先生の研究室で一緒にコーヒーを飲みながら研究や生活上の悩みや楽しいことを気兼ねがなく先生に吐露して先生が丁寧に耳を傾けてくださる場面、私がつまらない問題に頭を悩まして困っていたときに先生が率直に適切なアドバイスをくださったこと、午後1時頃に学食の「らふぉーれ」でお昼ご飯をいつも先生とご一緒しながら交わした雑談の場面、私を学外の研究会や学会に連れていってくださった時に電車や新幹線の中でした雑談から研究上のいいアイディアが出てきた時の嬉しさ、仕事や史料整理・分析の効率を向上させる新しい技術やツールなどを常に好奇心を持って勉強し続ける先生のお姿、シンポジウムやワークショップなどの準備を手伝った時に見られた先生の学術交流と若手世代の育成に対する情熱と真摯さなど、言い切れないほどの思い出が今も蘇ります。

2016年からは助教として阪大に就職しましたが、私の研究室が隣の建物に移動しただけで、先生の研究室に伺うこと、一緒にお昼ご飯をご一緒しながら雑談すること、一緒に研究会に行くことなどの日常は学生時代とほぼ変わりませんでした。ただ、教員になったことで研究だけでなく授業もしなければなりませんでした。日本語での学術発表と交流に馴れてきた私にとって、日本人学生に日本語で授業することは新しい挑戦であり、決して容易なことではありませんでした。このような私の気持ちに気付いた先生は、ご自身が数年間担当されていた法学部の授業を私と共同で担当するようにしてくださった一方、先生が召集された集中講義の講壇にも私を立たせてくださり、教員としての私の成長を見守ってくださいました。また、私が大阪経済法科大学21世紀社会総合科学研究センターの客員研究員を兼任すること、阪大中国文化フォーラムブックレットの編集委員を担当すること、学内の文理融合のプラットフォームとしてのまちかねCAFÉの企画委員及び幹事を務めることなども、先生のご推薦によるものでした。先生は各方面から研究者としての私の成長も後押ししてくださいました。さらに私を感動させたことは、私が国際公共政策研究科に勤めることになった後、先生が毎学期の学期末に同研究科の山田康博先生を誘い、三人での食事会を企画してくださったことです。これは新しい研究科に異動した私が慣れない環境で寂しさを感じているのではないかと心配してくださった先生の細かいお心遣いだったと感じています。山田先生と経済学研究科の許衛東先生は「田中先生は鄒さんにとって日本のお父さんだよね」と半ば冗談でおっしゃったことがあります。確かにその通りです。一人で長期間、日本で留学や研究生活を送っていた私にとって、先生は学業上の指導教員だけではなく、慈父のように支えてくださった存在でした。

2020年末、私が完全に帰国した後も、先生は数回メールやウィチャットを通じて私の研究関心に関わる日本の学界の新しい研究成果を共有してくださり、本を購入して私に郵送することも考えてくださいました。私もウィチャットで中国の研究動向を先生に転送し、昔のように近況や考えたことについて雑談をしました。また、先生がご遺稿に使われていた共産党の某基層幹部の工作日記を、zoomを通じて週一回の頻度で昔のゼミ生と一緒に読み解き、私も中国でこのオンラインゼミに最後まで参加しました。2021年6月末、先生は気管切開の手術を受けられました。手術後のリハビリ生活に苦しみしばらくの間学界で姿を見せなかった先生は、研究をやめたわけではありませんでした。2022年の年賀状では自信に満ちた様子で次のように書かれています。「今年の目標は健康の回復(往時の80%)と研究の再開です」。同年の5月末頃、先生が「現代中国政治の転換と農村幹部」の原稿を仕上げ、当初ゼミの参加者に送って意見を求めました。同原稿は修正されたうえで、2023年2月17日、石川禎浩先生が主宰する共同研究班「20世紀中国史の資料的復元」で発表されました。その時、先生はスピーチカニューレを装着して発話が困難だったため、事前に発表内容を録画した映像を会場で放送し、討論のセッションで顔を出して質疑応答に参加する形で発表を完遂されました。それは私がオンラインで最後に先生にお目にかかった機会でした。身体の具合がよくなくとも、先生はできる限り研究活動に参加し、研究を最後の最後まで頑張って続けておられました。

もう一つここで特筆したいことがあります。私が帰国する直前、先生は南開大学歴史学院で特任教授として受け取った給料の一部を同学院に寄付し、中国の若手研究者の日本との交流を支援する基金を設立したいという願望を私に伝えてくださいました。手術後身体が少し回復したころ、先生は寄付の手続きを早く進めるよう私に促しました。その甲斐もあり、2022年3月に寄付金の振り込みが完了しました。こうした先生の熱意と執念に深く感銘を受けました。ご自身の研究であれ、学術交流の推進であれ、ご自身がどんなに困難で厄介な状況に直面しても、先生はいつもあきらめず、動揺せず前に進もうとなさいました。

私が先生と最後に連絡をとったのは今年の3月3日でした。私がコロナにかかったことを知った先生は、病気療養中ながらも私の健康を気遣ってくださり、ウィチャットを通じて温かい言葉をくださいました。そのたった1か月余り後、先生が他界されたことがどうしても信じられません。今後日本に行っても先生にお会いすることができないことを思うと、深い寂しさがこみあげ、涙をこらえきれません。先生は謹厳な学風をお持ちであると同時に、この数十年間は若手世代の養成と日中間の学術交流及び相互理解の促進にもご尽力されてきました。私はまさにその恩恵を受けた一人です。これからも、先生に教えていただいたことを胸に刻みつつ研究に邁進していき、先生のご遺志を継いで日中間の交流にほんの少しだけでも貢献できれば、先生は嬉しく思ってくださるかなと思っています。

南開大学日本研究院 鄒 燦


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