【ワークショップの記録】
多様化するチャイニーズ・アイデンティティ : 周縁からの視点

宮 原 曉

1990年代以降の中国の突出した存在感を否定する人はいないだろう。冷戦構造の崩壊に伴うアメリカをその中心とする巨大な文化システムの顕在化は,世界的な労働力や金融,情報の流動化を加速させ,アイデンティティの多元化,断片化を促した。と同時に,東・東南アジアにおいては,中国をその中心とする文化システムによる新たな周縁の創造を観察することができる。

このワークショップでは,東南アジア出身の中国系留学生や若い世代の中国帰国者を囲んで,こうした文化システムの交錯のなかに現れるマージナルなチャイニーズの主観性,とりわけそのハイブリディティー(文化的混血性)に触れようとする。そうすることで,従来の二者関係的な「中国観」から脱却し,複眼的に「中国文化」をとらえる視点を共有しようというのである。

インフォーマント 1 “A”
インドネシア・メダン出身のチャイニーズ,日本で経営学を学んでいる。

・ 私は北スマトラのメダンで生まれ、18年間、あそこで住みました。今日本で留学しています。私は中国系です。
・ 私、小学校入るまでに、住宅に住みました。この住宅はほとんどnativeの人で、中国系の人は、私の家族だけでした。私はこのときの記憶があまり覚えていません。しかし、その時、私nativeの子供でも楽しく遊んだのを覚えています。
・ 私、小学校の1年生と2年生のときお祖母さんと住みました。たぶんこのときから、私あまりnativeの子供と交流しないようになった。このときの小学校は私立小学校で、中国系のための小学校ではなくても、ほとんどの学生は中国系でした。たぶん80%中国系ではないかと思います。(この学校のことはD学校と呼びます)。周りの人は中国系だから、交流していた友達も中国系だった。あまり覚えていないが、よく私と遊んだ子供も中国系だった。Nativeの子がいるが、クラスメートの程度の友達と思います。
・ 次、小学校3年生~高校まで、私は両親と住みました。両親はもう住宅ですみませんでした。近所が中国系ばかりのところで住みました。このとき、両親は店を開き始めた、店で働いているスタッフはnativeの人です。
・ 3年生~5年生と6年生~高校の学校が違います。
・ 3年生~5年生、私は家の近くの学校で通いました。(これからM学校と呼びます)。同じく私立学校ですが、中国系の人が多い。しかし、D学校と比べたら、M学校でnativeの人ちょっと多い、割合したら65%中国系35%native。先生方もM学校ではnative の先生の方が多い。ほとんど、nativeの先生でした。
・ このころでは、労働運動がありました。98年と比べたら全然怖くないですが、その時も、家の窓を割ったり、道で騒いだりしました。このときの労働運動は特に、中国系に集中しなかったが、被害者が(窓が石で割った家)ほとんど中国系所有だと思います。
・ 小学校5年生私、H学校で通い、高校まであの学校を通いました。H学校は私の家から25kmの距離があります。(車で30分)。私の家はメダンの近くの小さい町にあって、H学校はメダンの中部にあります。
・ 私が住んでいた小さい町と比べたら、メダン人の中国系はあまりnativeと交流しないと思います。小さい町ではnativeの数が中国系より遥かに多い、しかしメダンは結構大きいので、中国系の集中度が結構目立ちます。私の学校、90%ぐらい中国系です。1クラスの40人の学生の中で、全員は中国系か35人以上中国系という状態でした。先生も中国系の先生が多かった。
・ メダンでは、ほとんどの中国系の人は福建語を喋れます。中国系同士の人と喋ったら、この福建語を使います。Nativeの人と喋ったらインドネシア語を使います。
・ 考えたら、私、このときますますnativeの人と交流しなかった。先生とクラスメート以外の人とあまり喋らなかった。その時の私はちょっとnativeの人を怖かったかもしれません。
・ 私どこへ行っても交通機関が使わなかった。両親も交通機関を使うのが禁止しました。なぜかというと、危ないからと言われていました。特に、交通機関が使うのがほとんどnativeの人で、何かあったらすぐ助けてくれる人がいないだろうという考えかたもあるではないかと思います。友達の話から聞くと、交通機関の中で、thiefがいたら、targetは先に中国系の人で、nativeにあまり手を出さないと言っていました。(本当かがどうか分かりません)。
・ 98年の騒乱が起こったとき私は中学生の2回生でした。私たちは学校へ行く以外、家から出るのが最小限までlimitされています。学校へ行っても結構不安だった。授業の途中誰かのお母さんが、子供を迎えたら、どうかで騒乱のうわさがあるということ分かります。学校へ変えるとき、誰かが迎えに来なかったら、学校から出られない状況もあった。結構大変だった。
・ 98年の騒乱のピークほとんどの学校が休みだった。私は2週間ぐらい学校へ行かなかった。ホテルへ遭難しました。ちょっと、状況が落ちついたら、ホテルから学校へ通い、また、学校の近くの親戚の人の家に泊まってくれて、1ヶ月ぐらい家へ返れなかった。(私とお姉さん、両親は先に家に帰り、家を片付け、店を開けようとした)。
・ 私たちは、nativeが建てたホテルに避難したが、海外(マレーシア、Singapore)に避難した人も多い。あるいは、田舎のどうかで隠れる人も多い。ほとんどの人は家にいなかった。特に、騒乱を行った地域の近くのところ。
・ 騒乱のとき、騒乱をした人は車やバイクなどを燃やし、家(特に中国系の家)に無理やり入り、物や家具などを取りました。一番運がいい人は家も所有物も無事でなにもとらわれていなかったひとで、あるいはただ窓のガラスを壊されただけ。最悪の場合は家を燃やし、何も残っていない、ただ身につけるものだけが残っていた。
・ 騒乱のtargetは中国系に集中していた気がします。しかし、全員のnativeが騒乱に参加したわけではない。中国系を助けたり、避難のときかくしてくれたり人もいます。
・ 騒乱の後、また変わらない日々を続きます。中国系とnativeの人の関係がもっとfragileになったが、表面の程度ではあまり見えなかった気がします。

・ 私、小さいころからnativeの人とあまり交流しないと気がします。友達と遊んだときも、多く中国系の人が行く所へ行き(例、shopping mall, restaurant, etc)nativeが集まる場所を避けます。例えばshopping mallといっても、多くのvisitorが中国系というmallがあり、ほとんど来るのがnativeの人というmallもあります。大学を選ぶときも多くのメダンの中国系は国立大学へ行かせない、なぜなら、国立大学に差別があるといううわさあるから。ちょっと、お金がある家庭なら、子供が外国へ行かすという行為が見られます。国立大学より外国の大学へ通ったほうがいいという考え方です。特にメダンの人はMalaysia and Singaporeの大学へ行く人が多い。
・ 以前、私はnativeの人をできる限り避けたいという思っていました。しかし、日本に来るためのプログラムでは、nativeの人が多い。日本で会うインドネシア人もほとんどnative の人です。昔と比べたら、nativeの人とよく交流します。今の私はnativeを避けたいという意識がないかもしれませんが、インドネシアに帰ったらどうなるか分かりません。人間はだれかに影響しやすい人物からだと思います。

1998年5月のインドネシアにおける反華騒乱について

“A”

はじめに

1996年、世界的に経済危機に陥り、インドネシアもその危機の影響を受けた。多くの労働者が解雇され、人々の生活は苦しくなった。その混乱の中で、インドネシアの政府は何もできなかった。政府も不安定な状態であった。この状況の中で、インドネシアのいたるところでは改革運動が始まった。人々は、大学生を先頭に、新しい政府を設立するために、デモなどを起こした。このことによって、インドネシアの革命が始まったといえよう。この革命の中で、インドネシアは社会的にせよ、経済的にせよ、政治的にせよ、人権的にせよ大混乱に陥り、危機的状態になった。

1998年5月の事実

1. 原因

元大統領Soeharto の政権時代には、政治的発展は無かった。自由な政党活動が禁止され、民主主義を目指して活動した人はほとんど威嚇されたり、誘拐されたりした。人々は、大学生を先頭に、国内のいたるところで、抗議活動をした。彼らはSoeharto が政治から引退し、より民主的国家機関や、市民自治の尊重および基本的人権の尊重、さらに政治経済における腐敗の終わりを望んだ。しかし、1998年3月の選挙でSoeharto は再び選ばれた。その結果、より多くの抗議活動が起こった。政府側は軍と警察の力を使って、暴力的に抗議デモを解散しようとした。しかし、それはより激しい抗議デモのきっかけになった。インドネシアのニュースによると、約800人の大学生と少なくとも100人の警官や兵士がその紛争によって傷つき、4人の大学生が軍隊または警察の銃撃によってなくなった。


2. 1998年5月

1998年5月大学生を先頭とする改革運動が決定的局面に発展した。32年も支配していた元統領Soehartoが倒された。しかし、この展開になった後にも、様々な悲劇があった。前に述べたSoehartoを倒すためのデモは当初の目的から外れて、一般市民をまきこみ、悲劇へと発展していた。

以下1998年5月の注目すべき出来事を列挙する。

このいろいろな出来事の中で、5月13~15日の事件に注目したいと思う。

3. 5月13~15日の騒乱

1998年5月13~15日はインドネシア人にとって大変悲劇的な日になった。新しい政治や社会を設立しようとしたが、一方では、たくさんの人権侵害があった。この人権侵害は特に中国系のインドネシア人を中心にして、インドネシア社会を破壊した。

5月13~15日に、多くのショッピング・モールが放火され、その結果多くの人が燃えている建物の中に閉じ込められて、焼死した。ショッピング・モールだけでなく、一般市民の家も(特に、中国系の人の家)投石され、破壊され、放火された。また、一般市民の家がデモ集団に侵入され、中の家具や物などを略奪した。いたるところでも女性に対する強姦もあった。さらに、道を歩いただけでも危険な状態であった。車、乗用車やバスなども破壊され、放火された。この事件によって、たくさんの犠牲者が出た。Tim Relawan Kemanusiaan というボランティア団体の調査によると、1190人が焼死し、27人がナイフやピストルなどで亡くなり、91人が怪我などで治療を受けた。この騒乱のターゲットの多くは少数の中国系のインドネシア人であった。燃やされた家や店などの多くは中国系が所有しているものであった。また、強姦された女性も多くが中国系だと言われている。

以下のデータはThe volunteer Team for Humanityの調査による、女性に対する強姦とセクシャルハラスメントの数である。このデータはジャカルタとその周辺の犠牲者を示しているが、ほかの街、例えば、ソロ、メダン、パレンバンとスラバヤでも女性に対する強姦があった。1998年6月3日まで、以上の街々から16件の強姦ケースがVolunteer Team に報告さている。

Date Raping Raping & persecution Raping & burning Sexual Abuses Total Numbers of Victims
May 13 - 2 3 (all died) 4 9 (3 died)
May 14 101 17 (7 died) 6 (all died) 8 (1 died) 132 (14 died)
May 15 - 1 (died) - 1 2 (1 died)
After May 15 until July 3 2 (1 died) 6 (1 died) - 1 9 (2 died)
Total 103 (1 died) 26 (9 died) 9 (all died) 14 (1 died) 152 (20 died)

Source: Documentation of The volunteer Team for Humanity, May 13 - July 3, 1998

Notes:

  1. このデータは犠牲者、目撃者、犠牲者の家族などから収集した。
  2. Volunteer Teamは報告してない犠牲者に対して、恐怖があるため、情報が取れなくなった。
  3. 5月13~15日以降の強姦の場合も手口が同じため、このデータにも記入した。

4. 騒乱の解決

この騒乱によって、多くの人の人権が侵害された。国内と外国からの圧力により、インドネシアの政府は1998年5月の騒乱の事実を探るため、Fact Finding Team という団体を設立した。しかし、この団体は役に立たずと言われた。事実をあまり探らないといわれた。1998年6月、Wiranto将軍は1998年5月の強姦事件の証拠が無いと述べて、真相糾明に対して、消極的であった。更に、騒乱の事実を探ることに対してもいろいろな妨害もあった。5月の騒乱の犠牲者に同情や援助をしようとする人に対して、テロ行為とか威嚇行為があった。

例として、1998年10月Ita Martadinata が殺された。Ita の母親は深く5月の騒乱の強姦の調査に関係した方である。

Category and Target of Terror to
the Effort of Searching and Reporting Rape Victims and Sexual Abuse

Target of Terror Category of Terror
- Threaten via telephone Threaten via anonymous letter Threaten from military personnel Threaten to victim's children/family Distribution some photographs of rape victims Rumor about riots and rape
Victims - - - -
Victims' family - - -
Hospital - - - - -
Doctors - - - - -
The Chinese - -
The members of Volunteer team - -

Source: Documentation of Volunteer Team for Humanity. The stories come from the victims, their families, doctors and hospital staff, eyewitnesses, ordinary people, and members of the Volunteer Team for Humanity.

このことによる1998年5月の事実はあまり知られていないといえるだろう。政府の調査団体もあまり調査もあまり進まなかった。1998年5月の騒乱の調査は中途半端で、解決されたとは言えない。

おわりに

インドネシア改革のとき色々な人権侵害が目についた。まず、大学生の抗議活動に対して、政府は暴力的に解決しようとした。また、その行動によって、多くの被害者が出た。亡くなった被害者もあった。そして、1998年5月13~15日、たくさんの建物、家やビルなどが放火され、その結果、閉じこめられた人がいて、亡くなってしまった。その数は、1000人を超えるという。財産を失う家族も多かった。最悪の人権侵害は女性に対する強姦である。しかし、この人権侵害に対する補償は何もされなかった。1998年5月の人権侵害の事実は、公式には発表されていない。政府が設立した事実調査団体の調査もあまり進まなかった。今も1998年5月の事件の人権侵害の存在が不明である。

インフォーマント 2 “B”
中国東北生まれ。中学のときに祖母や両親とともに日本に帰国した。

あなたが中国に生まれて日本の大学に通うようになるまでのライフヒストリーをお話し下さい。
私は、98年の3月に日本に来ました。父方の祖母は日本人なので、祖母の帰国とともに家族全員で日本に来ました。中国で高校1年生だったけど、日本に来て、義務教育じゃない高校にそのままあがることができないので、中学校3年生としてもう1年中学校に通いました。中国で中学校を卒業したので、国語と社会以外の教科の内容についてあまり問題がなかったです。それで、最初の半年は学校に通いながら、日本語の勉強に集中しました。その後、授業に付いていくため必死でした。それから、高校受験、大学受験を経て、現在、大阪外国語大学に通っています。大学4年生です。
日本に行くことが決まったとき,どんなことを感じましたか,教えてください。
日本に行くという話が出てからいくことが決まるまで、いろんな手続きで1年かかりました。時間的スパンが長かったので、決まったとき、特に違和感がなかったのです。
日本に行くときに,姓名が変わるわけですが,名前に関するエピソードをお話し下さい。
姓に関して、祖母の苗字は山田(仮名)なので、それに従って山田になりました。下の名前に関して、私の中国名は、王秀彦(仮名)で、‘秀彦’は日本で男の名前として使われているので、その中の‘秀’を取って日本人の名前らしくするため‘子’をつけたと思います。
もしあなたのアイデンティティのある部分がチャイニーズだというのならば,それはどういった点ででしょうか。
スポーツの試合で、日本と中国が対戦することになったとき、中国の選手を応援するところかなと思います。
もしあなたのアイデンティティのある部分にチャイニーズで・は・な・い部分があるとすれば,それは何であり,どういった点ででしょうか。
ニュースなどで反日デモが取り上げられたけど、そのデモに参加する人たちと同じ気持ちになれないところと、前ほど中華料理が食べれなくなってしまったところかな。
もしあなたのなかにアイデンティティの曖昧さがある(あった)としたら,それはどういった部分でしょうか。
名前は日本人の名前だけど、国籍は中国です。私の中では自分を中国人として認識しているけど、考え方や価値観について、中国に居る中国人たちとまた違うと思っています。今は、中国籍だからまだいいけど、日本に帰化した場合、自分をどういった者として生きていたらいいか戸惑いも出てくるではないかと思います。
あなたはアイデンティティの揺らぎや曖昧さをどう生きてこられたのでしょうか。アイデンティティの揺らぎを経験することで,苦しかったこと,またよかったことはどんなことでしょうか。
何人ですかとよく聞かれます。中国人ですと答えたら、何で名前は日本人なのと聞かれます。私自身もよく分かっていないので、いつも説明に困ります。もうほっといてと言いたくなる時もあります。しかし、どっちに属するか分からない、あるいははっきりすることができない、このような立場にいるからこそ、文化、習慣、政治の面で日本と中国の両方を理解することができたと思います。

インフォーマント 3 “C”
日本生まれ。マレーシア・チャイニーズと日本人のハイブリッド。

マージナルなチャイニーズのハイブリディティー(文化的混血性)のワークショップに参加して

“C”

中国系マレーシア人の母、日本人の父を持ち、生活のベースを日本に置き、マレーシア、シンガポール、アメリカなどの国での長期滞在を経験している私は、多種の文化的混血性を持っていると自覚しています。私は日本人アイデンティティを持っているという自覚はしっかりとあるのですが、チャイニーズのアイデンティティとなると、まだ模索中といったところです。その理由のひとつは、マレーシアという国は多民族国家であり、多種の文化が入り混じる生活が普通であります。それぞれの民族独自の暮らしがあることは確かですが、私の生活の基盤のほんの一部だけがマレーシアであるため、マレーシアにいたとしても私は多種の文化を常に感じ、チャイニーズだから、という意識はとてもひくかったかもしれません。また、日本の地方で育った私は、約18カ国の人たちと触れ合って育ってきたからであるかもしれません。外国人の多い都心部や地域では、同じ民族、国の人が集まっての生活や活動が多いのですが、私の育った地方では、私が幼少のころに外国人は今のようにたくさん居らず、国籍、民族関係なく、日本に住む外国人であるという共通性だけで皆が集まって活動をしていたので、様々な文化に慣れ親しんできました。育ってきた中でチャイニーズとしての生活がほとんどなかったのです。

しかしながら、マレーシアチャイニーズ、華僑社会はメインランドより旧式の文化が根強く残っていると耳にします。冠婚葬祭、などでは中国文化に触れることは頻繁にあったと感じます。また、アメリカ、イギリスに滞在した際も、大半の時間をチャイニーズの人たちと過ごし、チャイニーズのコミュニティで生活をしていたのは、私の中にあるチャイニーズとしてのアイデンティティが意識せずに表れているのかもしれません。現在では、自分の中にある、チャイニーズアイデンティティを確立するために、中国語を学んでいます。幼いころ親戚中に、なぜ中国人の血をひいているのに中国語ができないのだ、と母が何度も指摘をうけていたこともきっかけであります。正直私はチャイニーズ文化を受け入れていませんでした。それは母もチャイニーズとして強いアイデンティティを持っていないからだったのかもしれません。しかし、中国語を学ぶことで、文化、歴史、などが少しずつ私の知識の中で増え、もっと自分のルーツのことを知り、チャイニーズとしてのアイデンティティを見つけたいと強く願っています。

アイデンティティの確立は私の人生の大きな転換ともなりました。日本で外国人と扱われることに何度も遭遇し、母の故郷に帰れば、また外国人と意識され、では私はいったい「なに人」なのであろうか、思春期に頭を悩ませたことでした。その時期に関わった仕事、人によって私は、自分は曖昧なのではなく中立でかつ人よりプラスαのものを持っているのだと学びました。そのことは私の勇気になり、原動力になり向学心を生みました。

私は自らのアイデンティティの確立で、周囲になにか貢献できること、を考え行動していこう、そして自らも止め処なく学んでいこうと常日頃考えています。

最後に私から観て、中国、中国人とはどんな存在か、日本、日本人とはどんな存在か。

正直私は中国を自分の母国という意識はありませんが、自分のルーツのひとつであると認識しています。中国人ともあまり強い結びつきを感じません、それは私の母の育ち、中国系ではあるが、ニョニャというマレーシアの少数民族、中国系とマレー系の混血の血をひいていることからなどからかもしれないと考えます。逆に日本は私にとって大きな存在であります。私を外国人である、と意識して見る人たちには、私が日本人より日本人らしく、日本を愛していると言われることが頻繁だったように、私は日本という国に自分が生まれ育ったことを誇りに思っている部分は強いのです。しかし、それは日本という国を客観的にもしくは他国と比較して見ることができるからでしょう。日本人というのは私にとってとても近いようで近くない存在と感じます。客観的な視点で見ると、愛すべきところ、尊敬するとこはたくさんあります。私個人にとって一番近くに感じる存在でいうと、やはり混合した文化をルーツにもっている人であるように感じます。アメリカの青春映画で学食のシーンを見ると、不思議なことに同じカラーの人たちが集まっています。たくさんの理由はありますが、やはり同じ民族、人種、ルーツをもつことで理解しあえる、身近に感じる度合いは大きく変わってしまうことが確かであるからでしょう。

自分のアイデンティティ、ルーツ、考え、バックグラウンドをシェアして他人が興味を持ち、疑問を投げかけてくれる。とても貴重な経験で有意義な時間を過ごせました。このような経験が増えていくたび、機会くれる人々に強く感謝の気持ちを感じ、さらに自分を磨こうと思います。

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