ディスカッサントの提言

江沛報告について(田中仁)

江報告は,中国最初の自弁鉄道開通(1881)から日中全面戦争勃発(1937)にいたる華北社会の近代化の過程について,(1)開港と鉄道敷設に起因する近代交通システムの形成が天津と青島を中心とする華北地域の外向型経済・社会システムへの転換を起動するとともに;(2)この近代交通システムの形成と発展が都市空間・機能の転換と同地域における都市構造の再編成をもたらしたとするものである。

評者は,江報告が,かつての”革命パラダイム”とは異なる”近代化パラダイム”を明快な論旨によって展開していることに注目したい。すなわち近代化を論じる際,”革命パラダイム”においてはまず”革命と改良”という枠組みのもと,外国資本・買弁資本・民族資本などがそれぞれ社会変革にどのような役割を果たしたのかについての究明がめざされた。同時にそこでは,暗黙の前提として輸入代替工業化があるべき道筋とされていた。これに対して江報告は,工業化と社会変容をもたらす担い手が外国資本であるか民族資本であるかを問わずに一括し,また生産過程に着目するのではなく近代交通システムの確立と発展に照準を定めて華北地域の工業化と社会構造の質的変容を論じている。さらに江報告が華北地域の世界経済への編入を外向型経済・社会システムへの転換と理解してのものであるこ とに関連して,評者は,こうした立論が20世紀後半期にアジアNIEsによって達成され,1980年代以降中国によって試みられた輸入代替工業化ではない工業化=輸出指向型工業化の軌跡と呼応しうるものとして注目したい。

たしかに江報告が実証したように,1880年代から1937年にいたる約半世紀において華北社会は質的変化を遂げた。それでは,これにつづく「戦争」(1937-1949)と「革命」(1949-1978)は華北社会に如何なる変化をもたらし,あるいはもたらさなかったのか? これが江氏に伺いたい第一の問題である。評者は,アジア経済危機と中国の「西部大開発」構想の提起そして2001年の中国WTO加盟という世紀交をターニングポイントとして,中国はそれまでの輸出指向型工業化の成果を前提とする新たな段階にたちいたっていると考える。江氏には,1880年代から1937年にいたるの華北社会の変容をふまえて現代華北社会の特質を素描してほしい。これが第二点である。ここ数年来,日中間で起こったいくつかの”不愉快な”問題を中国側から捉えると,”革命パラダイム”に依拠した公式発言と現代中国社会の質的変容に起因するものとが輻輳しているように思われる。この日中間の懸案を解きほぐすうえで何が必要なのか? この点について,江氏のお考えを披露していただきたい。これが最後の問題である。

馬暁華報告について(山田康博)

馬先生のご報告は、アメリカの活字メディアの世界で大きな影響力をもっていたヘンリー・ルースが、1930年代から1940年代にかけてどのような中国のイメージをアメリカ人に伝えようとしたのかを見ることを通じて、1930年代から1940年代にかけてアメリカ人が中国についてもっていたイメージの一端を明らかにしてくださいました。なかでも、雑誌『Time』の表紙に国民党の蒋介石が何度も登場したことや、訪米した蒋介石の夫人がいかに強くアメリカ人を魅了し、国民党に対するアメリカ人のイメージをよいものにしたということなどが、一次資料に基づいて論じられていることがとても印象的でした。

さて、そのような中国に対してアメリカ人がかつてもっていたイメージは、現在とこれからの米中関係を考える上で、どのような意味をもっているのでしょうか、どのような「20世紀の経験」を私たちは学ぶべきなのでしょうか。

まず第一に、1930年代から1940年代に中国に対してアメリカ人がもっていたイメージは、歴史的にどのように位置づけられるでしょうか。1940年代にアメリカ人が中国についてもっていたイメージが、その後どのような変化をたどって現在のアメリカ人がもっている中国についてのイメージになっていったのでしょうか。過去においてアメリカ人の多くが蒋介石や彼が率いた国民党に対してもっていたイメージは、現在のアメリカ人がもっている中国についてのイメージと似ているのでしょうか、それとももはや大きく異なったものになってしまっているのでしょうか。大きく異なったものになってしまってはいるものの、蒋介石と国民党が支配する中国について形成されたイメージは、現在もアメリカ人の中国イメージのなかに変わらずに存在しその基礎となりつづけているし、将来もアメリカ人の中国イメージの基礎となりつづけるものなのでしょうか。

そして第二に、中国に対してアメリカ人がかつてもっていたイメージは、現在とこれからの米中関係にどのような影響を与えるものなのでしょうか。ここで私は、20年ほど前に国際政治の研究者のなかで流行した議論を持ち出してみようと思います。古い革袋を持ち出してそれに新しい酒を注いでみようか、というわけです。

その古臭い議論とは、アメリカの「覇権」の衰退をめぐる議論でした。国際関係におけるアメリカの力の相対的な低下が顕著となった1980年代に、アメリカの「覇権」の衰退が問題となりました。冷戦は80年代に再び厳しいものとなり、米ソ間の対立がアメリカの制御を超えてしまい、ソ連との間にヨーロッパを舞台とする核戦争がはじまるのではないかとの懸念すら強くなったのが、1980年代の前半でした。またアメリカが1970年代後半からインフレと失業の増加に見舞われる一方で、1980年代の前半には日本が自動車産業などにおいてアメリカを凌駕するかのような勢いをみせました。アメリカの「覇権」が衰退しつつあると指摘され、アメリカの「覇権」の衰退がどのような意味をもち、それにどう対処すべきなのかが活発に議論されたものでした。例えば、1981年にはロバート・ギルピンが『国際政治における戦争と変革』という本を出版し、ロバート・コヘインの『覇権後』やジョージ・モデルスキーが「覇権循環論」を論じた書もこの頃出版されました。さらには、ポール・ケネディの『大国の興亡』(1988年)も、広く読まれました。日本では、新人国会議員ではありながら先日早くも大臣に就任した猪口邦子が、新進気鋭の国際政治学者として『ポスト覇権システムと日本の選択』という本を1987年に出版しています。(1)

1980年代に流行したアメリカの「覇権」の衰退をめぐる議論が今日その重要性をどれほどもっているのか、と疑問に思われる方も多いと思います。なぜなら、今日問題とされているのは、アメリカの「覇権」の衰退ではなく、イラク侵略が象徴するようなアメリカの「覇権」の過剰であるからです。そのうえ、1980年代にアメリカの「覇権」の衰退が問題となった国際状況と、現在の国際状況やアメリカの経済状況は大きく異なってもいるからです。もう何年も前に冷戦は終わり、いまやアメリカの軍事力に対抗できる国はなく、日本の経済的な停滞が続く一方でアメリカの経済力は世界で揺るぎない地位を占めています。しかし、将来アメリカの「覇権」を脅かすであろう潜在的「挑戦者」として中国をみることができます。中国をアメリカに対する「挑戦者」としてみるとき、アメリカの「覇権」の衰退をめぐって1980年代に行われた議論が、現在と将来の米中関係を理解するうえで、なんらかの役に立つのではないかと考えるのです。

アメリカの「覇権」の衰退をめぐるかつての議論は、「覇権」が永久に続くものではないことを指摘していました。国際秩序を維持していくために「覇権国」は、いわば秩序の管理者として秩序を維持していくコストを大きく負担してきました。そのような秩序を維持していくコストの代表的なものは、軍事力の維持や軍事力の使用です。歴史的に見ると「覇権国」は、国際秩序を維持していくコストを永久に負担することができず、やがて「覇権国」の覇権は衰退し、別の国に「覇権国」の座を譲ってきました。近代世界では、オランダからスペインへと「覇権国」が交替し、ついでスペインからイギリスへと「覇権国」が移り、そしてイギリスからアメリカへの「覇権国」の交替が行なわれてきたとみることができます。

そしてアメリカの「覇権」の衰退をめぐるかつての議論は、「覇権」が衰退する時期には国際秩序が不安定化すること、そして戦争が「覇権国」の交替を決定づけてきたという近代世界史の特徴を指摘していました。ポルトガルからオランダへ、ついでオランダからイギリスへ、そしてイギリスからアメリカへと「覇権国」が代わっていきましたが、これらの「覇権国」の交替を決定づけたのは戦争でした。「覇権国」が交替したいずれの場合も、当時の「覇権国」とそれに挑んだ「挑戦者」との間で戦争が戦われました。しかしその戦争の結果「覇権」を継承したのは「挑戦者」ではなく別の国でした。

さて、中国がグローバルな大国への道を進んでいることは、まちがいないでしょう。将来中国がグローバルな大国として行動し始めたとき、中国とアメリカの間で「覇権国」の交替をめざして対決する戦争が戦われることになるのでしょうか。それともアメリカは、中国を自らと同じような地位に立つ国として受け入れることができるでしょうか。アメリカの中国に対する対応は、中国についてアメリカがもつイメージによって大きく左右されることにるでしょう。もしアメリカが、中国をアメリカの「覇権」に対する「挑戦者」だとみなして対抗していくことになれば、米中間の対立を助長してしまうでしょう。逆にアメリカが、かつてイギリスにとってのアメリカがそうであったように、中国をアメリカの「覇権」を支える協力者であり、やがてはアメリカの次の「覇権国」となる存在だとみなすならば、米中両国は「覇権国」のスムーズな交替に共通の利益を見いだすことになるでしょう。たとえ「覇権国」の座を中国にゆずることがアメリカにとって大きな苦痛をともなうことだったとしても、アメリカがそれを受け入れることが必要となる日が将来くるかもしれません。

過去15年間にアメリカが中国に対してどのような政策をとってきたのかを振り返ってみると、アメリカは中国を協力者としてもまた競争相手としても見てきたことがわかります。

1990年代にアメリカのクリントン政権は、「関与と拡大」を外交目標として掲げました。同政権は対中外交の目標を、中国国内の人権状況の改善と中国による国際経済枠組みへの関与であるとして、世界貿易機関(WTO)への中国の加盟を促しました。中国は、1997年に「国際人権規約」の「社会権規約(A規約)」に署名し(2001年に批准)、1998年に「国際人権規約」の「自由権規約(B規約)」にも署名する(未批准)などして、一定程度の人権状況の改善を進めます。また、2001年12月には世界貿易機関(WTO)へ正式加盟し、重要な国際経済枠組みに加わりました。1990年代のアメリカの対中外交の目標は、不完全ながらも達成されたわけです。

2001年に発足したブッシュ(子)政権は、中国に対して協調関係を求めつつも中国を競争者とみなして警戒もしています。2001年9月の同時多発テロの後、アメリカと中国は反テロで一致して協力しました。2002年2月にはブッシュ(子)大統領が訪中し、米中間に「建設的な関係」を築くことを表明しました。今年2005年9月にニューヨークで行なわれた米中首脳会談では、米中両国が協調していく方針が確認されています。また、今月にはブッシュ大統領の訪中が予定されており、米中首脳外交は非常に活発です。

他方では、アメリカにとって中国が経済的な脅威および軍事的な脅威である、という警戒感も強まってきています。今年7月には人民元が切り上げられましたが、アメリカの対中貿易赤字は巨額で、アメリカの貿易赤字の最も多くの部分が対中貿易から生まれています。また今年2005年10月に北京を訪問したラムズフェルド国防長官は、中国の国防費の拡大(中国政府が公式発表している数字では17年連続で前年比10%以上の伸び)と国防費の不透明性に懸念を表明しました。2001年12月にアメリカはABM制限条約から離脱を表明し(正式の離脱は2002年6月)「ミサイル防衛」を推進していますが、その目的の一つが中国の核ミサイルに対する防衛手段の獲得であることは公然たる事実です。

今後のアメリカが中国を「挑戦者」だとみなすかそれとも協力者であるとみなすかによって、米中関係は大きく変わってくるでしょう。そして米中関係のありかたが日本にも大きくかかわっていることを指摘して、終わりにいたします。

注記
(1)Robert Gilpin, War and Change in World Politics (Cambridge:Cambridge University Press, 1981); Robert O. Keohane, After Hegemony:Cooperation and Discord in the World Political Economy (Princeton, NJ:Princeton University Press, 1984).ジョージ・モデルスキー『世界システムの動態-世界政治の長期サイクル』浦野起央・信夫隆司訳、晃洋書房、1991年。ポール・ケネディ『大国の興亡』上・下、鈴木主税訳、草思社、1988年。猪口邦子『ポスト覇権システムと日本の選択』筑摩書房、1987年。

「中国」のエスニック・バウンダリーと知識:紀宝坤報告への提言(宮原暁)

「中華世界」を中心と周縁の構図のなかに描くことは決して新しい視点ではない。にもかかわらず「チャイニーズ」の人口移動を中心と周縁の緊張関係のなかに捉える視点は王崧興の卓見である。

王は人口移動が周縁と中心の対立図式を「二つの中国モデル」として説明する。中国には,海禁政策に特徴づけられる「内陸中国」と海外に積極的に進出していく「海洋中国」の二つの側面があり,「内に向かう力」と「外に向かう力」の合力が中華システムを成立させているという[1992: 129, 1996:202]。そのうえで陳其南の「土着化(土著化)」、李国祁の「内地化」の概念を援用し,海外に移住したチャイニーズが社会関係の土着化(出身地の社会関係に対する現地の社会関係の比重の増大)を果たし,再び内地的な階層社会が構築される過程をモデル化している。

このモデルによると台湾やシンガポールは,内地的な階層社会が再生産された社会であると言え,マニラやセブ,ペナン,スマランなどのいわゆる華人社会は,社会関係の土着化が大規模に展開され,現地の社会関係の変容をも促している社会であると見ることができる。これに対して,大阪や名古屋といった日本の都市は,社会関係の土着化がそれ程大きな規模で展開されておらず,現地の社会関係への影響も限定的である。

このような類型化の基準についての細かな議論は今は措くとして,「外の中国」での土着化や内地化を促しているものは,誰がチャイニーズであるか,誰が関係のある者か,に関わる知識である。こうした知識は,エスニック・バウンダリーの維持に関わっており,「内の中国」からいくつもの分節点を通過して中継され,周縁にもたらされる。その知識のフロンティアの一つが東南アジアの華人社会や日本なのである。

紀先生の論考は,そうした知識のフロンティアで何が起こっているかについて断片的な記述を試みたものである。紀先生の議論をより大きな枠組みに位置づけて議論する能力は私にはないが,次に挙げる3つの点に留意して紀先生の記述を読むことで,

  1. 中国に関する知識は,「中国は○○である」という形式を持った言説である。この言説で重要なのは,「○○である」というコメント部分ではなく,「中国は」というトピックの部分である。コメント部分が議論の対象となるのに対して,トピックは暗黙の前提とされ議論の対象とはならない。こうして「中国」は何ら疑いをさしはさまれることなく,そのエスニック・バウンダリーを確立する。
  2. こうしたエスニック・バウンダリーは,日中関係のような中国と「外」との関係を問題にすることである程度観ることができるようになる。中国にとって「化外」とはどういうことか,蛮夷とはどう違うのかなどの問題は,エスニック・バウンダリーと知識の関係を考えるうえでヒントとなる。
  3. 日中関係を考える上で,さしあたり政治的アイデンティティと文化的,社会的アイデンティティを区別することは重要である。「政治的アイデンティティ」と「文化的アイデンティティ」の区別は戴國煇が華僑・華人のアイデンティティを考える上で提唱した区別である。戴によれば,「政治的アイデンティティ」とは「その土地に生まれ育つこと」を要件として構成されるものであり,「社会的,文化的アイデンティティ」とは「個人の持つ『民族性』や『生まれ』,もしくは『血』に起因するものである」とされ,「(両者を)一応切離して考え,その後で個人的には統合・再構成すること」が必要とされる[戴 1980:23]。靖国参拝問題にせよ,他の問題にせよ,政治的なレベルと文化的,あるいは情緒的なレベルを混同することは,議論が混乱する原因の最たるものである。したがって,議論のある段階までは,両者を明確に区別する必要がある。しかし,戴の提唱にも関わらず両者の区別が次第に曖昧になってくる点に,知識のシステムのもう一つの特徴があることも忘れてはならない。

注記
王 崧興 1992 「華人の移住と海外華人社会」 可児弘明(編)『シンポジウム華南――華僑・華人の故郷』東京,慶應義塾大学地域研究センター 127-132頁
戴 國煇 1980『華僑──落葉帰根」から「落地生根」への苦悶と矛盾』東京,研文出版

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