近代中国交通システムの初歩的形成と華北における都市構造の新たな展開:1881-1937

江沛(青柳伸子訳)

19世紀末から20世紀初めの、数十年にわたる近代経済システムへの適応と発展を経て、中国経済と社会形態は近代への転換の顕著な形跡を表しはじめ、時運に応じて現れた近代交通もこの時期工業化・都市化の最も重要な推進力となった。1881年から華北地域においても中国人がはじめて建設した鉄道である唐胥鉄道が開通してから、1937年に日中戦争が全面的に勃発するまでの56年間、天津港・青島港・秦皇島港の対外海運への需要を契機に、京漢・津浦・正太・北寧・膠済・京綏・隴海などの鉄道を主軸として、若干の自動車道路・水路で補う近代交通システムが、華北の諸省において迅速かつ盛んに形成された。近代交通システムの確立は、華北経済の近代化を促進すると同時に、華北地域の各重要都市の機能転換を大いに促した。新たな経済貿易ネットワークと近代交通システムは、古くからの都市の拡張と衰退、新興都市の迅速な興隆を決定づけ、ここから、華北地域都市の新構造はすばやく展開した。

華北区域の近代交通システム興隆の原因は何か? 交通ネットワークの結節点にあたる都市として、いったいどのように華北近代交通システムの助力のもと、都市空間結合の拡張と機能の転換を促進したのだろうか? また、どのように華北地域の都市構造を新しく展開させたのだろうか? この問題の認識と検討に対して、近代交通システムに華北地域の近代化プロセスにおいて通常とは異なる重要な作用をもたらしたという評価は、近代華北地域の都市化過程の基本的特徴に対して同様に重要な意義を有する。

一、経済の構造転換と近代交通システムの形成

中国で沿海都市が開港して数年のうちに、華中地域の経済は華北地域よりはるかに発展し、例えば華北の6港は華中・華南の商品流通に対して、「青島と秦皇島が輸出超過である以外は、天津・芝罘・龍口・威海衛などはどこも多額の輸入超過を維持している」。この他、明代に北京に遷都して以来、華北地域の商業貿易は北京を中心に展開し、商業貿易の路線も北京を中心に四方に伸びていた。

1858年に『天津条約』が、1860年に『北京条約』が調印されて以降は、煙台・天津が最初に開放された貿易都市となり、華北地域の伝統貿易の現地生産・現地消費という特徴は外向型へと転換し、「外国資本の急激な進出は、華北の民族商業資本を抱き込みながら、買弁化させた」。地域の近代化プロセスは沿海港湾都市から始められ、次第に内地の都市・農村に向かって推進され、当時の経済転換の基本的特徴となった。青島・天津の両大都市は地理及び海港が有利なため、華北近代経済転換の先頭となり、華北近代交通システムの中心地ともなった。天津・青島は鉄道貨物の主要な集散地となった。華北経済の市場ネットワークは国際経済の発展と緊密に結びつき、華北地域内陸の自然経済への巨大な衝撃波となった。そして当時の華北地域経済を最も強力に転換させたのである。

たちまち華北経済貿易の中心都市となった天津を例に挙げると、首都を周囲から守り、長年運河の官用貨物輸送及び海運を経営してきたため、天津は実際には、「交通の要衝で背後に広大な市場を有する地点にあった」。石炭を運ぶ津唐鉄道は拡大し、それは西洋列強が開港し貿易港を設置した要求に符合した。その「繁栄条件は完全に外国商品の輸入と転送、そして特産品の買い入れと輸出にかかっていた」。貿易におけるこの外向型の特徴は、天津商業の迅速な成長を促進し、華北地域の内陸経済の外向型貿易の成長に手本を示しただけではなく、天津を中心とする華北地域近代交通システムの確立を決定づけた。

20世紀の30年代前半、華北各貿易港の数年来の貿易総額は、全国の各主要港の貿易額の20%を占めた。その中で、天津・青島はそれぞれ全国の輸入額の7.69%-9.21%、5.21%-5.54%を占め、全国の輸出額の15.36%-16.67%、6.92-8.43%を占めた。まさに天津・青島港の輸出入貿易の急増により、二つの都市の経済は対外貿易を推進し、工業発展を促進のモデルとなった。近代工業の発展は、伝統工業の生産構造をも変化させ、労働者と生産資料の分離や近代機械の使用を推し進め、石炭・電力・石油などエネルギー源の開発を促し、工業全体の転換は顕著な態勢を示した。その他の都市に比較して天津・青島等の都市の工商業成長モデルは、近代華北都市化プロセスにおいて特例であると言われる。

この他、華北六大港である天津・青島・秦皇島・龍口・芝罘・威海衛の主要な輸出入・再輸出入の商品は農産物と鉱物で、輸入品は主に紡績品・鉄鋼そして機械製品である。天津の外国産綿糸・外国産綿布の輸入量は以下の通りだが、外国産綿糸・外国産綿布は同様に煙台・青島港の最大の輸入品でもある。1905年、膠済鉄道を通って膠州・?県・周村・済南及び付近の地区に運び込まれた綿糸は、当時の青島港に輸入された外国製品の総価値の70%以上を占めた。この特徴は伝統的自然経済の解体を引き起こし、華北各地の農産物の商品化程度を促進しただけではなく、華北経済の農業を主とし、かつ近代化工業に向かう転換の基本的特質を体現した。また華北地域の内陸部の都市・農村経済と貿易に対し強大な引力を直接的に形成し、迅速に天津・青島などの港湾都市の内陸経済貿易への浸透を拡大させた。

1933年-1935年の間で、河北・山東・山西の綿花の年間平均生産量は合計368万担、そのうち182万担は天津・済南・青島などに運ばれた。統計によると、1936年までに、華北各地の農村の2割以上の商品が天津に集中し、そのうち輸出商品金額は7,345元、再輸出入商品金額は3,121元、消費商品は3,703万元、総額は1.42億元にまで達した。この金額は、華北各地の農民が納める租税、およびその他支払わなければならない現金の総額である。この事からも天津が華北各地の農村経済に及ぼす影響力が見て取れる。運輸方式でも、直隷の綿産地は鉄道に近く、たいていは鉄道を使用し、鉄道が不便な場所や水路が比較的近く、輸送が便利な夏・秋の間にだけ水路や荷車を使って天津へ運んだ。

わずか20年余りの間に、天津に輸入される外国産綿糸・外国産綿布の数量は激増し、それぞれ全国に輸入された外国産綿糸・外国産綿布の数量の1/10、1/4を占めた。このような膨大な数量の外国産綿糸・外国産綿布は当然天津一都市が受け入れたのではなく、近代交通システムを通して山西・山東・河南・華北、さらには陝西・モンゴル各地の都市・農村市場に売られた。外向型経済貿易輸送ネットワークの需要により、天津は非常に多くの農副産物・鉱物および外来の工業製品の集散地となり、経済貿易の推進のもと多数の鉄道と道路交通が次々に天津を中心として四方に展開した。経済貿易ネットワークの拡張と近代交通システム確立の間の関係は、この時期の華北地域における鉄道建設ラッシュに一部分を見ることができる。天津の外向型経済貿易は19世紀80年代から激増し、天津を中心とする鉄道建設ネットワークはまさに19世紀80-90年代から展開された。華北経済の転換は近代交通システムの形成を促進し、港湾・鉄道の一体化を主とする近代交通システムを備え、広大な内地市場を擁するかどうか、これはひとつの都市が華北地域の経済貿易の重鎮となるかどうかを保障する鍵であった。

対外貿易に対して生み出された高付加価値と利潤は、華北地域経済の転換を推し進める見えない巨大な手だった。この時華北の都市・農村の農工業の大部分が天津・青島を筆頭とする対外貿易に属していたかは分からないが、天津・青島は農産物・鉱産物を主な輸出商品とし、その多くは河北・山西の農村から来ていた。また、天津・青島などの輸入商品には綿糸・純綿布・加工綿布・人工生糸・人工絹織物などの品物があり、多数は天津近郊、北平近郊、冀東、高陽保定地区、西河御河方面、山東、山西、張家口、甘粛省、陝西省へと売られた。

華北地域は河川が比較的少ないが、夏と秋の間の河水が上昇する時期は運輸に便利である。このため、水運は華北地域の貿易運輸の中で一貫して主導的地位を占めることはできず、青島・煙台・龍口・秦皇島などはみなこの様であった。しかしながら、九河の端天津は例外で、直隷(河北)省の西南・東北・東南方面にはどこも天津へ流れる河川があり、19世紀後半だけでなく、天津が商品を輸出するとき、夏秋の水運作用はきわめて大きかった。20世紀初期に鉄道・自動車道路ネットワークが形成された最初の頃は、輸送費が高額である等の原因から、民国初年に至るまで、華北各地の商品が天津へ集められる過程において、鉄道運輸総価値は66.12%にまで上昇し、水運はなお54.36%の運輸総価値を維持していた。1931年前後、天津は依然として華北地域の内陸河川水運の中心だった。当時、内陸河川運輸は津保線(天津-新安)、津磁線(天津-沙河橋)、津沽線(天津-大沽)があった。しかし、鉄道と自動車道路の迅速な展開と運輸ネットワークの形成、運賃の下落などの理由から、水運はしだいに近代交通システムの補助的役割に退いた。1912-21年の間に、天津付近の南運河・西河・北運河・東河の水運商品の比重は、44%から25.5%へ下降し、鉄道経由の商品の比重は53%から70.5%に上昇した。

20世紀初め、京漢・正太・津浦などいくつかの鉄道幹線の開通を契機として、鉄道を中心とし、港湾を商品集散目的地とする華北地域近代交通システムが日を追って形成された。それにより水路は鉄道の補助的運輸システムに転落し、徐々に華北交通システムの主導的地を退いた。一方、自動車道路の建設は大量の資金と技術の投入を必要としないものの、自動車の買い入れと維持・補修に相当の資金と技術訓練を要するため、20世紀の20年代になってようやくある程度固定した運輸路線が形成されるようになったが、なお近代交通システムをリードする立場にはなかった。

天津・青島・済南・煙台などの都市は地理的位置と海港が有利なため、華北工業近代化のパイオニアとなり、華北地域の対外経済貿易の前哨に立っただけではなく、勢いに乗じて華北近代経済転換の重鎮となった。この工業分布により、華北工業は多くが港湾を備える都市に集中し、「これらの工業はいずれも外国資本によって成立したか、あるいは外資に従属する性格を帯びたものである」。外向型経済と貿易の物流ルートの選択は、一般的にやはり水路・官道を習慣としたが、このような経済貿易の習慣は、実際に近代交通システムが確立する時の基礎でもあり、その中の重要都市は、鉄路を主な手段とする華北近代交通システムが路線を設計する時に中心的結節点として真っ先に選ばれた。津浦・京漢・京張・北寧・正太などの鉄道貨物の主要集散地は天津で、膠済鉄道貨物の主要集散地は青島であった。何本かの鉄道幹線は相連なり、以前の物流ルートの形態を変化させ、鉄道運輸はしだいに華北経済と貿易の市場再編成の最重要要素となった。天津・青島などの港湾の運輸を通じて、華北の諸省の経済貿易市場ネットワークと国際経済発展は緊密に相関し、華北内陸の自然経済への巨大な衝撃波となり、農業生産物の商品化率は日増しに高まり、当時の華北地域経済の構造転換の最も強大な推進力となった。

二、近代交通システムと華北都市空間・機能の転換

華北地域の近代経済システムの核心部分として、天津・青島は近代交通の総合的な中枢の位置にあるだけでなく、華北地域経済の輸出入貿易の終点と始点でもあり、両都市の都市機能は大きく変化し、華北最大の貿易・工業加工基地となった。また、近代交通システムの確立によって、本来市場貿易ネットワークにおいて突出した地位になかった石家庄、鄧州、済南、張家口などの都市は、日増しに地域経済の中心都市へと上昇し、工業及び貿易の中心的地位は日に日に強化され、経済の影響力は大幅に拡張した。かつての華北都市は政治を中心とし、消費を機能とする性格であったが、地域経済及び貿易の中心としての機能へと転化し始めた。

天津港は近代交通システムの中枢であり、商工業の発展の重要な作用を果たすという認識から、イギリス・フランスなどの9カ国は天津の旧市街の東南地区において次々と租界を開設し、ほぼ一つの例外なく海河両岸の未耕作地が選ばれた。対外貿易は天津経済の主要部分を占めていたため、租界近くの海河の沿岸には埠頭が立ち並び、塘沽海港へ向かう貨物運輸と租界の輸入物品の受け入れを可能にした。天津の商工業貿易・水上運輸業・金融及び輸出加工等の方面において、外資は絶対的優勢にあった。20世紀始めまでに、鉄道・水路と対外港湾の交差点という好条件のもと、天津は次第に華北区域経済貿易の中心地となり、さらに東北・西北、さらにはモンゴル地区の貿易港にまで浸透した。天津の都市空間もまた迅速に旧市街から租界区域まで拡大し、商工業の中心は旧市街からやがてイギリス・フランス租界へと移転した。数年のうちに各国の租界は次々と管轄する海・河沿岸の整備を行い、埠頭を改造し、商工業は日増しに繁栄するようになった。この様な交通設備の改善は客観的には海・河の運輸能力を大いに増加させ、天津港及び津浦・京奉鉄道が共同で構成した近代交通システムの華北・東北経済貿易における輻射能力を向上させた。20世紀前の15年間は、天津を中心とする華北鉄道ネットワークが迅速に建設されはじめ、天津経済貿易の内陸部は日ごとに拡張し、華北・東北・西北の三大地域経済圏と貿易の発展に影響を及ぼす最大の外向型貿易都市となった。

20世紀始めに、9カ国の租界は天津都市の新たな成長極となると同時に、直隷総督の袁世凱は、華界を振興し、租界と競争する目的をもって“河北新地区”を建設した。この新地区の計画は完全に租界を模倣したもので、大経路(現在の中山路)が新たに建設された駅(現在の天津北駅)と海河に連接し、いくつかの“経路”と“緯路”が交差して新たな道路ネットワークを構成した。新地区は初めは人口増加も速く、多くの工場、学校、文化施設が集中して建設され、北京政府と南京政府の統治時期を経て、早くも旧市街に代わって華界の新たな政治・文化の中心となった。しかしながら、政治権力は政治・文化の中心を形成することはできたが、経済貿易と交通システムを主導する天津都市空間の結合を変えることはできなかった。20世紀20-30年代の政治と社会の動揺の激化にともない、商工業は多くが各国租界内へ安全を求めて移り、都市の重心は海河の埠頭及び駅を主導とする租界区へと入った。

山東地区では煙台が港湾貿易の発展により日に日に盛んになっており、開港後は、煙台は山東の輸出・中継輸送貿易港となり、山東の商品輸出入の主要な任務を担った。煙台の経済貿易の発達により、就業機会は増加し、外来人口は急増した。

1898年、ドイツは膠州湾租借地の管轄権を取得し、租借地全体を自由港として世界に開放し、同時に大量の資金を投入して建設を行った。近代化された青島港はこの時に興隆した。青島港に広大な内地販売市場と原料供給地を提供するため、1904年膠済線が敷設され、全線で394キロメートル、青島から?県を通って済南へ至り、山東の重要な炭鉱・経済地区及び重要都市は青島港と緊密に関係するようになった。汽船と鉄道の連絡輸送は、膠済線と青島港を運送に便利で、連絡も行き届いた、何ら障害のない近代交通システムへと形成させた。このため、山東各地の輸出入商品の運輸は青島に集中し始め、ただ水路あるいは道路運輸のみを頼みとした煙台は、青島との貿易競争において不利な状態に置かれるようになった。膠済線開通前は、済南と魯東地区は煙台を輸出入の基地としていたが、膠済線及び張博支線の開通後は魯東の商品は明らかに青島へと向かうようになった。迅速に山東最大の貿易の中心となった青島の、その貿易成長は煙台の衰退を代価としたものであったのである。また、近代交通システムの影響を受け、青島は工業化に着手し、結果、青島市全体の商業の中心は、駅付近でもあり、港近くでもあり、近代交通システムの青島の都市建設に対する作用はないがしろにはできないものであった。

その他、石家庄、石門市、邯鄲県、泰安、徳県、集寧県などの華北地域の多くの新旧都市空間の拡張と構造を概観すると、ある基本的法則が見て取れる。それは、元からの交通の中枢・商業貿易の中心は、鉄道・自動車道路及び水路の総合利用によって新しい交通システムへと取り入れられ、新しい都市は交通中枢のため新しい商業貿易の中心、あるいは区域経済の中心となった。近代交通システムに取り入れられた都市は、多くが区域経済貿易の利益を得て発展しはじめたが、一部の都市はこれによってさらに区域性または地区性の経済貿易の中心となった。この他、近代交通システムの影響を受けた都市は、空間の拡張の中で終始近代交通システムの影響に束縛され、鉄道・自動車道路の中枢都市は多くが鉄道あるいは自動車道路のターミナルを中心として展開した。都市の商業センターも多くがまず駅周辺から興っている。

三、近代交通システムと華北都市構造の再編成

19世紀末から20世紀20年代にいたる間、伝統的な自然経済が外向型経済へと迅速に転換したため、天津・青島などの港湾都市を中心として、港湾・新しく敷設された鉄道・自動車道路や元の水路によって組成された近代交通システムが盛んに形成された。この近代交通システムの建設は、華北地域経済と貿易の一体化構造を大いに加速させただけではなく、華北地域の都市と農村経済の共同的形成を推進し、華北と東北・華中・華南の地域経済と貿易の交流も促進し、これを背景として華北地域の伝統的都市構造は再編成され始め、社会構成に深刻な変革がもたらされた。

隗瀛涛氏らが言うように、全国と同様に、華北地域には伝統的な意味で二つのタイプの都市があり、それは行政消費型都市と経済型都市である。その中で、行政消費型都市は行政を主要な機能とし、農村供給を経済の内容とし、政治的意義が経済的意義よりはるかに大きく、行政システムの変動により顕著な盛衰の変動を呈し、持続発展の可能性を備えないものでる。宋から清にかけて、このタイプの都市は縮小、さらには停滞の趨勢を示した。宋代ののち、特に明清の間には、国内貿易の成長と市場の開拓に伴い、経済型都市が出現しはじめ、このタイプの都市は多くが商工業、もしくは鉱工業を拠り所とし、政治・軍事機能とは異なる経済的役割を備えはじめた。近代交通システムの発展において、華北地域固有の都市構造は打破され始め、沿海の港において、対外港湾に依拠する天津・煙台・青島・龍口などは、都市商工業がみな異なる速度で発展し、都市空間にも大きな発展があった。石家庄・鄧州・済南・徐州・張家口など鉄道中枢型都市の興隆は、近代鉄道に依拠する区域性の経済貿易センターを迅速に形成し、都市空間と機能はいずれも鉄道交通を中心として展開した。これは商業化を主導とする近代中国の都市化の特徴に符合し、当然経済型都市に属する。

華北地域の伝統都市は、多数が四方八方に通じる水路・駅道の両側に分布する。それらは北京・保定のように政治の中心であったり、駅道の中心であったり、あるいは河川運輸の中枢だったりする。その中には天津、臨清、済寧など著名な商業都市もあるが、政治の中心が多数を占めた。都市として発展する以前は、天津、煙台、青島などの都市には、もとは近代工業発展するに十分な資源はなく、その対外港湾は内貿の需要が限られているため、目覚しい発展のチャンスは存在しなかった。まさに近代の開港において、これらの都市は港の地理条件が有利なため国際貿易システムに取り入れられ、鉄道等の交通手段を通じて自ら広大な内陸を有し、興隆した。もう一つの近代交通システムにより興隆した都市は、鉄道の中枢である石家庄を例に挙げる事ができる。この荒涼とした貧しい小村落は、伝統社会の交通と経済発展のシステムにおいて、けっして重要都市に変化する可能性を秘めていたわけではない。まさに近代的鉄道の発展により初めて石家庄の自然条件と地理的位置の潜在力が発揮され、速やかに交通機能型都市となったのである。続いて、交通機能の優勢に基づき、石家庄に行商が集まり、経済輻射能力が大幅に増加し、冀中経済区の中心都市となった。天津、煙台、青島、張家口、石家庄などの都市の興隆は、華北都市の機能が行政中心から経済中心へと変化したことを示すだけではなく、華北の伝統的都市構造にも重大な変化が起こりはじめ、分布の重点は伝統的な駅道と運河沿岸から、港、鉄道、自動車道路交通沿線へと移り変わった。

近代交通システムは、新しい交通機能型都市が興隆するのに必要条件であると同時に、この種の都市の空間構造と機能の発揮にも深刻に影響した。伝統的都市と異なり、天津、鄧州、石家庄などの新興都市はこれ以上城壁を作らず、都市商工業の繁華地は省庁、府庁、県庁の所在地とはならず、都市空間構造には大きな変化が生じた。明らかに、この種の都市形成の基本要素として、港湾と鉄道は都市空間構造の展開においてきわめて重要な影響力を発揮している。

近代華北地域経済と貿易システムが伝統的な自給自足型から外向型へと発展するプロセスにおいて、近代交通システムの根本的意義は、安価な価格と、大量の商品・人員を短期間で長距離を交流させることができ、人と物の活動空間を大々的に開拓したところにある。都市の形成と発展の中で近代交通システムは交通中枢都市の商工業の影響力を開拓し、華北経済貿易市場ネットワークの終点市場・中級市場と初級市場を順次形成した。

近代交通システム、特に鉄道ネットワークの確立により、もとは市場貿易ネットワークにおいて突出した地位になかった石家庄・鄧州・済南・張家口などの都市は、次第に地域経済の中心都市へと上昇した。一方もとは中心都市であった開封、保定などの都市は目に見えて衰退していった。鉄道ネットワークと港湾の連結は、華北地域に元からあった北京中心の、官路・水路をネットワークとし、消費を機能とする都市構造を、貿易と工業都市の天津、青島を中心とした、鉄道・港湾ネットワークの、貿易あるいは生産を機能とする近代化都市構造へと迅速に変化させた。これらの都市構造の新展開は、近代経済転換後の近代交通システムの選択と要求により引き起こされたもので、経済転換に適応した新都市は、近代中国の経済貿易システムの発展において日増しに重要かつ主導的作用を呈し始めたのである。

以上をまとめれば、港湾、鉄道の建設、とりわけ鉄道鉄道を中心とした運輸業の発展は、交通機能型都市天津・青島・石家庄・鄧州の興隆をもたらし、これらの都市は空間結合、機能、規模そしてその地域分布上の変化において、華北地域社会の近代化プロセス内の注目に値する現象なのである。


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