歴史のなかの中華人民共和国

山田辰雄(放送大学教授)

学問には実業と虚業がありまして、実業というは、資料をじっくり読んで、その上に論理を作り上げていくということです。そういう学問が好きなんです。今日お話しするのは、そういう資料を読まないで論を展開するわけで、これは虚業です。今日は実は問題の性格上、虚業の方で話をさせていただきます。

お2人の報告者は、中華人民共和国の政治や外交を真正面から研究されておられます。私は中華人民共和国の政治に関心を寄せつつ分析の対象は主として中華民国期にあります。そういう意味では今日は、西村先生にこういう題をいただきましたが、私は20世紀の中国政治の中で中華人民共和国の政治をどのように捉えたらいいのか、中華人民共和国の政治の中で歴史的に引き継がれてきている要素がどのように展開しているのか、そのことが将来の中国の発展を見るのにどのような意味があるのかというようなことを、話したいと思います。

だから私の話しでは、中華人民共和国時期の政治と中華民国時期の政治との間を行ったり来たりいたします。

まず初めに、この連続性の問題は今日いろいろなところで取り上げられています。2005年12月に、張憲文氏の編集によって『中華民国史』4巻が、南京大学出版社から出版されました。この中で歴史の連続性の問題が提起されており、民国史と中華人民共和国史の関係を、現代化の理論と方法によって解明するのが民国史の使命であると主張されています。中国で連続性の問題を提起することには非常に微妙な問題が含まれています。なぜなら、連続性という問題を提起すると、国民党と共産党を同じ次元で論じなくてはならないという問題が出てくるわけです。そうであるとすれば、連続性を貫く現代化とは何かということが問われなければならなくなります。

そもそも、なぜ我々は、今連続性を問題にするのか。ここにも若い方がおられますが、今年(2007年)の2月3日に駒場の東京大学で『中華民国史』の合評会をやりました。私も参加しましたが、なかなか面白い会合でありまして、若い方が非常に丹念に読まれましていました。彼らの一致した意見、1949年で終わる中華民国史では中華人民共和国を理解することはできないということで、現存する連続性のいろいろな側面を、この若い研究者たちは指摘しまして、例えば、革命と改革だとか、武力、経済政策、組織、資源、政治指導などの側面です。むしろ今度は中華人民共和国を研究している方々が中華民国史との連続性をどのように捉えているのかということを、語ってもらいたいと思います。

この連続性をどう捉えるかという問題に関し、よく現象の類似性を捉えて連続性という議論があります。例えば昔の官僚は皇帝の下で中国を支配して、それは中国共産党が今日中で支配しているのと同じであり、中国2000年の歴史は変わっていないという意見です。類似性は連続性ではありません。むしろ類似性を生み出す構造的な要素を通して連続性が確認されなければならないと思っています。この観点から、日本における中華人民共和国政治の研究を見ますと、今お2人の報告者もすでにこの連続性を現時点で問題にされてきているように思われます。しかし、過去の中国研究についてみると、私は必ずしもそうではなかったと思います。例えば1950年代の中国社会主義を中華民国から切り離して考えようとしていました。あるいは1960年代から70年代にかけての文化大革命を、新しい社会主義の到来と考えようとしていた。そして80年代に始まる改革開放の時期と文革の時期とをどのように関係づけるのか、このような問題意識が必ずしも十分でなかったと思います。つまり前の時代との連続性を確認することなく、すぐに新しい状況に飛びついてしまう。後になってそこに連続性を発見することがある。こういう研究ではいつも中国の発展に振り回されています。そして、日本の中国研究の独自性を見出すことができない。将来の中国は変わるであろう。その将来の変化を知るためには、変化しない連続性の確認から出発しなければならないと思います。そういう意味で、連続と変化のバランスを考えなくてはなりません。連続性は絶対的なものではなくて相対的なものです。私はそのことを、連続と変化の弁証法と呼んでいます。そういう連続と変化の観点からすると、20世紀の中国の政治発展全体をどのように見たらよいのでしょうか。

ここでいう連続と変化の弁証法は変化の可能性を否定することなく連続性を論じる考え方であります。変化に内在する連続性を確認し、その結果として連続性の中に変化を見出そうとする考え方です。より具体的に言いますと、清朝末期の軍の近代化の指導者として出発した袁世凱は、辛亥革命後の中国政治の中で独裁権力を樹立しようとしました。軍閥と戦って国民革命を達成した国民党は、後に蒋介石の指導の下で孫文の訓制理論を利用することによって、独裁的支配を正当化しました。そして国民党の独裁化に対して民主主義を追求して戦った中国共産党は、中華人民共和国において一党独裁を継続しました。そこには権力の集中・独裁という意味での連続性が存在します。しかしその反面辛亥革命というのは清朝を打倒して2000年にわたる専制支配に終止符を打ちました。国民党による北伐の完成は、軍閥支配を打倒して不十分ながら全国を統一し、20世紀中国における最初の国民国家を樹立しました。さらに中華人民共和国は列強の支配を終わらせ、中央政府の権力を全国に浸透させ、土地革命を実行しました。

これら3つの革命によってもたらされた3つの独裁は単なる循環ではないと考えられます。それでは、この連続と断裂をどのように見たらよいのでしょうか。私は、辛亥革命は共和主義的民主主義と同時に強い中国の建設を目指したと考えます。強い中国の建設は権力の集中を必要とし、ひいては独裁的権力を生み出すことになります。国民党は国家の統一と独立による民族の解放と同時に、国民党一党の指導による革命の達成を目指しました。共産党は国家の独立と統一を一層進化させ、労働者、農民を解放するのと同時に、中国社会における党の独裁的指導性の確保に固執しました。したがって、それぞれの革命は一面では旧体制からの解放を目指しながら同時に党・国家の上からの指導と集権化の傾向を内包していたということになります。そして、上からの指導は必ずしも旧体制からの解放と矛盾せず、時には相互補完的関係にあったと考えられます。そうであれば、歴史的連続性として確認された上からの指導が、将来の状況の中でどのように変わっていくのかということが連続と変化の弁証法の課題になると思います。

そういう観点から、私はかつて1989年の天安門事件のなかに現れた連続性の要素として、アイデンティティの問題、政党の排他的支配の問題、そして「代行主義」をとりあげましたが、それらについてはここでは説明を省きたいと思います。この中で代行主義における制度化の問題だけを取り上げておきたいと思います。毛里先生も「代行主義」という言葉は使っておられますが、私の文脈とは少し違いますので、改めて私の定義を申します。「代行主義」とはエリート集団が人民に代わって改革の目標を設定し、人民に政治意識を扶植し、目標を実現するために人民を動員するが、人民が自発的に政治に参加する制度的保障を欠く政治体制であり、政治指導様式であるということです。人民の自発的政治参加あるいは政府の政策に対する異議申し立てが制度的に保障されていない点が「代行主義」の特徴です。中国に胡鞍鋼という有名な経済学者がおり、今文化大革命史論を書いておられるそうです。東京で彼は最近何回か講演され、私はたまたま慶応大学で話を聞きました。これが大変面白い話でした。彼は文革失敗の1つの重要な要因として、制度的欠陥を指摘しています。制度的欠陥として指導者の終身制、民主的政策決定の機能不全、党内の異なる意見や争いの階級闘争化などに言及されています。それとは逆に、鄧小平は文革の失敗を繰り返さないために、制度化を進めたことによって改革を成功させたというのが、胡鞍鋼氏の主張です。間違いではありませんが、胡鞍鋼氏のいう制度化は共産党の支配を前提としていることです。しかしわれわれが代行主義の観点から将来の中国を見ようとするとき、今日中国が直面している問題は党内と党外大衆の異議申し立てをどのように制度的に保障するかということです。私は徐々にその過程が始まっていると考えています。ここで出てくるのが、自由化と民主化の問題です。自由化というのは、言論や行動の自由がある程度存在するが、それが制度的に保証されていない状況を言います。それが民主化に移行するとすれば、そのような自由が制度的に保障されなければなりません。代行主義がどのように変わっていくのかを見ることが、中国の政治を見ていく上で非常に重要になると思います。

中国はどうか、お2人に任せた方がよいと思いますが、私は基本的に暫く中国共産党の独裁的統治が存続すると考えております。しかし、中国共産党の統治能力は明らかに、鄧小平時代、毛沢東時代に比べれると後退していると思います。私は皮肉に中国における3つの「自由」と言っていますが、中国共産党が十分に権力を浸透させることができない領域が3つあるということです。

第1は市場経済、第2はインターネット、第3は反日ナショナリズムです。こういう状況が民主化に結びつくかどうかは議論のあるところです。私は民主化にあまり楽観的でありませんが、それにしても、中国共産党の統治能力が後退し、中国の政治社会が変わっていく可能性がある。大体2010年から2020年の間であろうというのが私の、六・四事件以来の予感です。

次に取り上げるのは、中国の政治を見る上での関係性のもんだいです。相互依存とか相互浸透、あるいは政策の対応性とか相互作用といういろいろな言葉によって置き換えられます。では1980年頃から中華民国史が提唱されました。その背後には、国民党や共産党を中心としたいわゆる革命史観に対する批判がありました。私もそういうなかで多様な政治勢力を相対化し、その相互作用を見る中で歴史を見ていこうと主張しました。

その延長線上で、私は歴史のいろいろな場面で対立する政策の相互依存性に注意してきました。例えば、1920年代後半に活躍した、国民党の改祖派という集団があります。この中で陳公博は国民党の階級基礎論という主張を展開しました。それは、国民党の階級的基礎が労働者、農民、小ブルジョワジーからなり、小ブルジョワジーの中国革命における積極的な役割を強調しました。1920年代の後半、中共はソビエト革命の時期にあり、中間派を排除した急進的な路線をとっていました。階級基礎論は国民党内部の問題であると同時に、当時の中共の急進路線に対する反発でもありました。ここにわれわれは、国共間の相互作用・相互関連の側面をみることができます。

それから、1930年には都市工作重視の李立三路線がありました。なぜ李立三が都市工作を重視したかが問題です。そこにはマルクス・レーニン主義、コミンテルンの政策影響がありました。しかし、相互作用という観点から見ると、もう1つの面がありました。つまり1928-30年の上海を見ると、そこには共産党の本部がありました。上海では共産党系の労働運動と共産党系の労働運動が主導権争いをやっていました。だから都市の労働運動を強調するというのは共産党の存立に関わる問題であり、都市工作重視の政策が出てきたという側面があります。

さらに1989年の天安門事件の時、私は1つ文章を書きました。当時、一方では党・府・隊と他方では学生・識人との対立という分法がありました。二分法のなかで当時比較的軽視されていたのは権力保持者、つまり、党・国家・軍隊と学生・知識人との間の力関係でした。しかしこの対立の中にも、やはり相互依存・相互浸透の側面がありました。そもそも学生運動自体が改革開放の産物であり、その側面は政府側も共有していました。趙紫陽が学生に同情を寄せたように権力側にも学生との相互浸透という面がありました。これらが関係性の問題の一端です。

次の問題は、中間派勢力の依存性と独立性の問題です。周知のように中国革命は結果的に国民党と共産党との対立に二極分化しました。その1つの重要な特徴は、共産党も国民党もそれぞれの独自の軍隊と支配領域を持っていたということです。これは、中華民国期から今日に至るまでの中国政治の基本的な構造的な特徴です。しかし、自らの軍隊と支配領域を持たない中間派が一定の役割を果たすこともありました。例えば、既存の政治勢力を操縦する、あるいは仲介することによって一定の役割を果たしました。その最初は孫文にありました。彼は中共が組織した大衆運動と蒋介石などの軍人勢力を利用しながら、それを操縦していました。それを引き継いだのが、第1次国共合作時代の国民等左派でした。。彼らは蒋介石と中共に依存し、自ら支配する組織や軍隊は非常に弱体でしたが、国共合作を推進する上で一定の役割を果たしました。

目を転じて1929年から30年の時期を見ると、国民党の中では4回反蒋戦争が行われましたけ。この反蒋運動で重要な役割を果たしたのは国民党改組派でした。しかし、改組派は独自の軍隊も組織もないために閻錫山・馮玉祥・李宗仁の軍事力に依存せざるを得ませんでした。国共内戦期にも、中間派として中華人民共和国時代に参加して民主諸党派と呼ばれる中間的勢力が存在しました。民主同盟はその中で1番大きな集団でした。1948年の2月、民主同盟が新聞記者との談話会を開きました。新聞記者が民主同盟は武力を持たないのにどのうように民主主義を勝ち取るのかと質問すると、民主同盟の指導者は武力には人民の武力と反人民の武力の区別があり、民主同盟は今では武力を持たないが、全人民を団結させ、積極的に人民武装を支持して反人民武装に対抗していくことによって反動政権を終わらせ、民主政府を実現するに至るという考えを表明した。さらに記者が、もし中共が一旦武力で政権を奪取すれば、ソ連と同じように独裁を始めるだろう。民主同盟はその場合どうするかとたずねると、その時民盟指導者は、中共とソ連の問題についてはどうか中共とソ連に聞いていただきたい、われわれはそれに答える義務がない。こういう形で問題を曖昧にしていました。

中間勢力はこのように形で中国で歴史的に存在し、それなりの役割と弱点をもっていました。かなり飛躍しますけれど、江沢民の3つの代表思想の中で、民間の企業家や新しい知識分子が党内に取りこまれ。重視されています。これは私に言わせると中間勢力の範疇に入ります。彼らは独自の軍事力をもっていませんが、将来の中国の発展でどのような役割を果たすのか、注目すべきであると思われます。

最後に私は少し青臭い問題を皆さんに提起したいと思います。それは、研究と政治との関係に関する問題です。それは、研究問題をどのように選択するのかということです。実は今の若い方と私どもの世代との間に差があると感じています。そこを埋める意味でも、なぜわれわれは中国研究を、そして中華人民共和国の研究をするのかということを問うてみなければなりません。

私が若い時に中国研究を始めた時と、ここにおられる若い方々の意識との間にはかなり違いがあると感じています。違いがあるのは悪いことではありません。しかし、私は若い方に問題提起をしたいんです。そもそも研究というのは、特定の政治運動や組織に束縛されるべきではないと考えています。なぜなら、運動の目標が変わったり、組織ができたり消えたりすると、それによって研究が左右されるからです。1つの運動、1つの組織のための研究は、研究としての永続性を持ちません。

例えば、1950年代には、日本の革命運動と中国革命とを結び付けようとする試みがありました。この中国革命に、自らの情念と立場を投影して研究を行おうとする人もありました。文革時代と五四運動における学生運動を結び付けようとする研究もありました。あるいは1989年の天安門事件における民主化の支持の問題もありました。そういう特定の運動や組織と結びついた研究は学術的には意味がありません。しかし逆に、政治状況に対する批判を伴わない研究は方向性を見失って、現状を受容するだけになってしまいます。そうであるとすれば、政治の現状に対する見方・批判が、どのようにしてより広い研究課題の選択、研究方法に投影されるかが重要な問題となります。つまり、研究の課題と方法が個別的現象ではなくより広い学問的関心を反映したものでなくてはならないというのが、私の考え方であります。私はかつて国民党左派の研究をしていました。これは当時あって社会民主主義批判、そして近代化論批判を含んでいました。西洋の近代化とは違った中国の発展があるのではないかという考え方を持っていました。私は国民党左派が西洋とは違うが、社会民主主義的な傾向を持った集団と考えました。それが中国でどのような役割を果たすか、考えてみたかったのです。

そもそもここでは学問の自由とは何かということ問題まで問い詰められなければなりません。学問の自由は通常、政治からの自由を言います。政治からの自由の問題で1番重要なのは問題の選択と研究発表の自由であると私は考えています。しかしもう1つ見落としてならないのは、学問の自由を主張する以上守るに値する研究の質を維持しなければならないということです。守るに値しない研究であれば学問の自由は必要ありません。そうであるとすれば、政治・社会状況を取り込んだ研究課題と方法は何か、皆さんに考えていただきたい。

最後に私はこれまで言及しなかったいくつかの問題を列挙してみます。例えばグローバリゼーションの中での中国の内発的な発展の問題、独裁・自由化・民主化と政権の変容の局面との関連の問題があります。さらにそれらの局面が民国期中国の政治発展とどう関連しているのか、つまりここでの連続と断絶が問題になります。それから、政党の民衆支配と民衆の政治参加の在り方、権威主義的支配に内在する民主化への契機の問題もあります。現在われわれが直面しているこれらの状況を自らの問題選択のなかにとり入れていくかが今後の課題になると思います。

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