成長か均衡か:中華人民共和国の経済政策論争と中央・地方関係

高原明生(東京大学教授)

今日の総合テーマは中華人民共和国の60年を問うという非常にスケールの大きなものでございまして、60年を通して何が私に話せるだろうと考えまして、経済政策決定をめぐる政治についてお話申し上げることといたしました。

経済政策といっても、もちろんいろいろあるわけですが、中心に取り上げる問題は、1つは制度改革ということです。つまり、1950年代、その計画経済の構築という作業があり、毛沢東のもとでそれに修正が加えられるということがありました。その過程には異なる意見のせめぎ合いがあるわけですが、改革開放の時代になって計画経済を改革し、そしてついには、計画経済を放棄して市場経済を目指すといった経緯で、制度改革が進んできたわけです。それが1つの大きな問題群ということになるかと思います。それからもう一つはそれとは別に、いずれの時代におきましても、中国はずっと発展途上国であり、当然ながらどのような戦略で発展していくべきか、ということが中国の指導者にとって大きな課題でありました。それは毛沢東の時代にも鄧小平の時代にも、そして今も存在し続けているわけです。しかし、闇雲に成長すればいいというわけでありませんので、それに対する立場としては、バランスのとれた発展でなければならないという主張があります。国民経済の成長と均衡という2つの課題が往々にして対立するということも、時代を通した1つの特徴として存在し続け、それに地方主義と中央主義の問題が、絡んでいたわけです。

私の今日の課題は、この2つの大きな問題を巡る論争のパターンを提示する点にあります。

これまでも、論争や闘争のパターンについてはいろんな議論があって、2つの路線の対立ということで、二元論的に、二項対立的にこの論争を描く傾向がずっとあります。しかし、それでは見落としてしまう面があるのではないかと、20年前から私自身は言ってきています。以下、時代を大きく分けまして改革開放以前の30年、それから改革開放以後の30年と二段階に分けてお話したいと思います。ちなみにその地方主義と中央主義の対立というのは、単純化しますと、主に財政、人事、産業行政で、そういった領域の権限を中央と地方でどのように分けるのか、より中央に多く集権するべきだという考え方を中央主義と呼び、地方により分権するべきだという考え方を地方主義と呼んでいます。また、均衡というのはあえて説明するまでもないかもしれませんが、たとえば財政収支の均衡や投資と消費のバランスなどを念頭においています。

実際の分析レベルについてみますと、一般的な理解としましては先ほど申しましたように、二元論的にこの論争を見る見方が普通ではないかと思います。一方におきましては、毛沢東主義的な中国型の分権的な計画経済の立場、毛沢東はソ連と比べて、中国というのは人口も多いし地方により分権的な開発戦略をとることがより適していると、ソ連よりもアメリカを、アメリカの連邦制を参考にして経済を運営すべきだというようなことを言ったことすらあるわけです。

そうした立場に対しまして、人物の名前を挙げますと、まず思い浮かぶのは陳雲ということになりますけれども、劉少奇、周恩来もこちらの側かとは思いますが、ソ連から学んだ中央集権的な計画経済(ソ連の場合も一口で中央集権的と言っていいのかどうか、フルシチョフの場合に地方分権化を進めたこともあり、かなり大雑把な言い方になりますけれども)をきちんとやろうという、バランスのとれた、中央の統制のとれた計画経済をやろうという立場がありました。

以上2つの立場の間の対立が50年代、60年代に持続したとする分析がほとんどであるわけです。論争の機軸と言いますか、一番大事なところは確かにここにあったといっていいと私自身も思いますが、先ほど申しましたように、この二元論だけでは見落とされてしまう非常に重要な、毛沢東を理解するための、あるいは毛沢東主義、毛沢東時代を理解するための大事なポイントが1つ見落とされてしまうのではないかと思っています。そういうことで、実はもう1グループ加える、毛沢東主義を二つに分けて考えた方がより適当な理解ができるのではないかというのが、これから申し上げる話であるわけです。そのことを説明するために、いつの時代の何をとってもいいんですけれども、たとえば華国鋒政権での論争と闘争というところから分析してみようと思います。

どういうことかというと、これは多くの方がもちろん疑問に思うし、考えたことがある問題なのですが、華国鋒も文化大革命の中で台頭してきた人物であり、四人組も文革の中心にいた人たちであるわけで、この両者がどうして対立をすることになったのかという問題があります。中国の研究者には次のように捉える人がいます。これは文化大革命を起こした側、つまり四人組の側で、王洪文だけちょっと違うんですけども、それと華国鋒など文革の恩恵を被った側の間の派閥的な争いだとします。四人組の側は上海閥ということにもなるわけです。しかし実際は、思想的な、政策的な違いというのが重要だったのではないかと思います。そのことを説明するために、今申しました四人組と華国鋒の最終的な衝突は76年の華国鋒による四人組逮捕という形で起きるわけですけれども、まず簡単に74年から75年にかけてどういうことがあったのかを申し上げたいと思います。

つまり毛沢東の晩年、最晩年ということになりますが、実は、毛が非常に複雑な人物であることは皆さんご承知の通りですけれども、解釈によっては三つの相互に対立しあうような指示を74年末から75年にかけて出していたわけですね。それぞれの政治勢力が自分に都合のいい形で、この三つの指示の都合のいいところを利用するといった争いが75年、76年には起きていました。もうすこし具体的に見ますと、3つの指示というのは、1つはプロレタリア独裁によるブルジョワ的諸権利の制限でありまして、労働に応じた分配という社会主義の原則はよくないとか、それから貨幣交換はよくない、商品は良くないとか、かなり急進的な発言がこのときに見られ、これを四人組は取り上げましてプロレタリア独裁理論の学習運動などを推進したわけです。

それから2番目の指示は安定団結ということでありまして、これは主に四人組を対象とした批判でありました。あまりグループになって権力闘争するなということで、指導部はみんな団結しなければならない、協力しなければならないということが2番目の指示です。

それから3番目の指示としましては、経済担当の副総理であった李先念に語った、国民経済のレベルを引き上げようということでした。この指示に沿う形で鄧小平を党の副主席、第一副総理、総参謀長という要職に引き上げ、周恩来がもう病気でありましたので、周恩来に代わって党中央の日常工作を主催するという立場に立たせました。鄧小平のイニシアティブの下で75年の、鄧が整頓と呼んだ文革の混乱からの回復、鉄道部門や地方レベルの、また思想における文革的な抗争問題の解決を実現し、それらを通じて国民経済の向上を鄧小平が強力に進めるわけです。ところが、やり過ぎたと申しましょうか、75年の秋以降、毛沢東はこのような計画を推進する鄧小平に対して不信感を募らせていくことになります。最後には、鄧小平は文革に恨みがあって、三つの指示を要とすると言いながら実際は国民経済のことばかり一生懸命やっている、したがって三つの指示を要だとする言い方はそもそも間違いだ、階級闘争だけが要なのだというような言い方をして鄧小平を批判します。

鄧小平は苦境に立つわけです。しかし、党中央の工作は主催しているわけですから、自分が主催する政治局の会議で自分を批判させるというようなことが、75年の末から76年の始めにかけては続いていたわけです。毛沢東は鄧小平の処分を最後まで躊躇しますけれども、結局のところ76年の天安門事件をきっかけにして完全に解任したわけです。ここで何がポイントかというと、毛沢東はなぜ鄧小平にこだわったのか、その解任を躊躇したのかということで、それはやはり経済に対する彼の思いがあったからだと思います。だからこそ、鄧小平に代わって、四人組の一員である張春橋ではなく、華国鋒を登用したのではないかと思うのです。

華国鋒を、周恩来が1976年1月に亡くなった後に総理代行にし、この段階で鄧小平に代わって党中央の日常活動を主催するようにさせます。その決定が一号文件という形で全党に発せられるわけです。それを受けて張春橋は日記に次のように書いたということで、彼のその日記のページが写真に撮られて今いろんな文献に出ています。それを読みますと、張春橋は大変怒っているのです。前年1月の一号文件で鄧小平が党中央の日常活動を主催するようになり、それが今年もまた一号文件だと苦々しく書いてあります。そして間違った路線は結局行き詰ると記し、華国鋒と自分とは路線が違うことをはっきりと述べています。路線の違いとは何なのかといえば、それは経済政策に反映されています。華国鋒の経歴を見ると、出身は山西省ですけれども、湖南省の地方幹部として台頭してきた人物であり、農業集団化であるとか人海戦術による大灌漑工事をして毛沢東に認められ見出された人物であるわけです。地方にいる時もそうですけれども、彼が党中央の日常活動を主催するようになってからのやり方を見ても、華国鋒が大躍進的な大々的な経済発展を強力に推進する考え方の持ち主であったことは間違いないと思われます。

それに対して四人組は経済を重視することは経済主義であると批判する立場にありました。ブルジョワ的諸権利を制限すべきだとか、賃金をあげるべきでないなど、この段階でもこうしたことを言っていたわけです。ただし、賃金の引き上げに反対だったからといって、四人組が人民を軽視していたかというと決してそういうことは言えないでしょう。先ほど申しました日記の中にも、間違った路線は結局行き詰ると書いたのに続けて張春橋が何を言っているかというと、大多数の人のために利益を求め、どのような状況にあっても常に人民大衆の側に立つこと、それこそが勝利なのだと書いています。少なくとも張春橋にとって人民は確かに彼の頭の中には存在していたわけです。そうだとしますと、張の考えていた人民というのは、例えば労働に応じた分配の原則を貫徹することによって弱い立場に立たされるような、社会的弱者のことを指していたとも解釈しうるわけです。しかし現実には、四人組の言動に対して人民の間では大変反発が強く、それが周恩来を追悼する活動の中で噴出するに至ったのです。

しかし、考えてみますとこの両方の側面が、つまり開発主義的な考え方と急進主義的な側面と、毛沢東のなかに両面あったといえるのではないかと思うのです。お手元のレジュメの座標は、縦軸が中央主義、上に行くほど中央主義、下に行くほど地方主義という配置で、横軸は左と右の政治イデオロギーの軸にしています。一番左にはもっとも急進的な、人物で言えば四人組がここに位置し、党政府組織で言えばここに宣伝部門が来るわけですが、この人たちは地方主義どころか、コミューン主義、コミュニズム、まさに共産主義に重点を置くべきだと言っていた人たちなので第Ⅲ象限に位置しています。ただ地方の下の基層を書いておりませんが、当時の政治対立の構図でいえば、地方だけじゃなくて、あるいは地方もレベルが多いわけですから、地方を下位区分して描いたり、地方の内部を描いたりすることが可能ですが、煩雑になりますので、今日は中央、地方ということで配置しております。さて、第Ⅲ象限のところに急進的毛沢東主義があると、真ん中のところに、開発主義型毛沢東主義があって、人物でいえば華国鋒などが当たるわけです。それから第Ⅰ象限のところに中央統制主義と書きましたけれども、陳雲あるいは周恩来などを代表的な人物とするところの中央集権的な計画主義、計画経済を実施しようとする立場の人たちがいた。その意味では、一番地方の利益と協調していたのが、開発主義的毛沢東主義だったといえるでしょう。

例えば、あの大躍進政策を始めるとき、あるいは文革を始めるときに、毛沢東は南方の地方を回るわけです。南方の地方を回って、そのリーダーたちと会議を次々と開き、そこで中央統制主義的な政策を批判してそれをひっくり返していく。地方を活用して、地方の声を頼みにして中央統制政策をひっくり返していくことを、50年代もやったし、60年代もやったといえるのではないかと思います。もちろんこれは理念型ですから、これにぴったり合う人物や政府機関があるわけではありません。中央統制主義のところ、もちろん中心にある政府機関は国家計画委員会ですが、たとえば、長く主任を務めた余秋里などはどうか、あるいは石油派はどうなのかなどの議論になるかもしれません。石油派は、石油工業部門を中心として文革中には計画経済、国家計画委員会の中枢にもいたグループですけれども、この人たちはいわば開発主義型毛沢東主義と中央統制主義の間にいるような位置づけだと言えるのではないかと思っています。

ここで一点、注をつけますと、中央地方間の紛争に実は2種類あるということがわかるのです。どういうことかと言いますと、中央と一口で言いますが、実は中央には二つあるのです。中央の中央と言うべき総合経済部門と、それから中央の地方、中央の周辺というべき、部門があります。部門と言うのは例えば、石油工業部門であるとか、機械工業部門であるとか、そうした、主には工業を担当する生産担当省庁があります。そして均衡か成長かが論点になったときには、この中央の周辺である生産担当省庁、例えば石油派と、地方の利害が一致するわけです。これに対して中央の中央である総合経済部門、例えば計画委員会であるとか財政部であるとか、そうした国民経済のマクロコントロールを職掌としている部門は、成長か均衡かというときには、どちらかといえば均衡重視の立場に立つわけです。

次に、華国鋒と鄧小平の共通点、相違点について言及しておきたいと思います。これは改革開放の時代への、つなぎということになりますが、共通点も多くあります。共通点というのは両者とも大変成長を重視する立場でありますし、それから中央―地方という問題については地方分権を重視する。この点でも実は華国鋒と鄧小平は同じような立場を取る傾向にあります。ただどこが違うかというと、1つは思想路線です。華国鋒は当時の状況でしょうがなかった面もあるのかもしれませんが、毛沢東の言ったこと、やったことは全て正しく、その通りやらなきゃだめなのだという、いわゆる2つの全てを唱えてしまいます。それに対して鄧小平の側は、実践こそ真理を判断する唯一の基準だとして、思想路線のところで対立するわけです。もう少し具体的な政策レベルで言えば、市場の導入について、鄧小平の方がずっと積極的だったと思います。それは華国鋒が市場を全く受け入れなかった、受けつけなかったといえばそうではないし、華国鋒自身も改革の必要性を唱え、経済の開放についても決して消極的ではありませんでした。しかし、どこまでいくかということについて言えば、鄧小平の方がずっと積極的で、計画経済の問題点を深く改革しなければならないという考えの持ち主であったわけです。こうして一陣の権力闘争の末に鄧小平の側が勝利して改革開放が始まることになります。

改革開放以後なのですが、これも一般的な理解としましては、計画経済を守る側と市場化を進める側に分けて、計画経済を守る側がいわゆる保守派、市場化を進める方がいわゆる改革派、また計画派の方が中央主義的であって改革派の方が地方主義的であったという二項対立で見るのが一般的だと思います。しかし、やはりここでも二元論で割り切ってしまうと見落としてしまう大事な点があります。1つのケースを取り上げて政策的立場の三分類を提起してみようと思います。

それは、80年代の企業改革と財政改革の連動ということです。改革の中で、企業改革は1つの眼目でありました。それからもう1つの眼目は財政改革ということでした。企業改革の目的は企業を政府から分離して、独立自主の経済実体にすることでした。そのときに政策の論争の焦点になったことは企業利潤の分配で、額の多寡と分配のやり方、この両方が問題でした。形式の方で申しますと、1つの焦点は利潤の請負制か法人税制か、そのどちらを取るのかということだったわけです。法人税制については説明は不要でしょうが、利潤の請負制とは、企業は政府と事前交渉で決めた利潤上納額を請け負い、上納額を超過した利潤については、それを留保することができるとするのがそのエッセンスです。

財政改革の問題は中央と地方の間でどういう財政管理制度を設定すれば1番望ましいのかいうことで、中央にある程度の財力があれば、国民経済全般を見通した再分配ができるし、中央が吸い上げすぎて地方の活力をそぐということもあってはならない。具体的な議論の焦点というのは次の三つの制度のうち、どれを採るかということだったわけです。1番目の制度は総額分割制で、財政収入には大きく分けて中央財政収入、例えば中央に直属する企業の利潤であるとか、関税であるとか、そういう中央財政収入があります。それから地方財政収入があり、地方財政収入の方を中央上納分と地方留保分に一定の比率で分割する。これが総額分割制です。2番目が財政請負制です。これはすなわち、地方が固定された、あるいは一定比率で逓増する中央への上納額を請け負い、それを超過して達成した地方財政収入については留保しうるという制度です。3番目が分税制で、これは税収を、完全に中央固定収入、地方固定収入、それから中央と地方で一定比率の下に分割する収入、この3つに分けるやり方です。

そこでまず83年から始まった「利改税」の導入についてふれますと、それは要するに利潤上納請負制を税制へ転換するということでした。これを主導したのは国務院と財政部です。国務院というのは多義的ですが、日本風にいえば、ここでは官邸という意味です。それから財政部がそれまでの利潤上納請負制を批判するわけです。それは非常に恣意的な制度であるというわけです。ある企業がいくら利潤を上納するか、請負額を決めるときの決め方も非常に恣意的で、その企業を所轄している政府部門、主管部門といいますけれども、その主幹部門と企業の間で適当に決めている、これは大変よろしくない。それから契約の執行にも恣意性がある。本当は利潤が出ない場合でも、資産を切り崩したりして請け負っただけの金額は上納しなければならないというネガティブ・インセンティブもここには込められていたのです。ところが実際には、利潤達成額が請負額に届かないときに、企業の方はいろんな言い訳を言い、主管部門の方も企業をかばって「契約不履行」を容認してしまうようなことが普遍的に行なわれていたわけです。財政部門としては、政府と企業との間の癒着した関係があると恣意性が強くなるので、主管部門の権限をとってしまおうと考えました。いちいち交渉して請負額を決めるやり方ではなく、最初から税率を決めておけば、何も主管部門が間に立って企業と国庫の間、財政部門との間を取り持つ必要は何もないと主張したわけです。

徴税制にすることによって、財政税務部門は直接、企業利潤に触ることができる。また企業の側で主管部門のいろいろなうるさい干渉から自分を解放することができるとして、抵抗はあったのですが、利改税を導入することになったのが83年84年です。それによって財政収入の制度安定化を狙ったわけですが、実際やってみたところ、確かに財政収入は増えましたが、企業利潤は全体として低下してしまいました。これはなぜか、もちろん「利改税」だけのせいだけではないのです。しかし当時盛んに言われたことは、今の中国人の文化に1番合っているのは請負制だ、請負制のような単純な制度でないとやる気がでない、税制のような複雑な制度だと企業も労働者もやる気を出さないから利潤が減ったのだということでした。実はそうしたことを見越した広東省は最初から面従腹背、吉林省の場合は面従もせず、まったく実行しなかったのです。これに対して趙紫陽、当時の総理は非常に怒りますがなんともできないということがありました。

北京市は最初税制を導入したのですけども、85年から実質的な請負制に復帰します。実質的なという意味は、これは表面的には税制をやっていますよと言うのですけれども、実態は請負制、つまり納税額の請負です。そういうやり方を始めたわけです。そうした実態の在り方を受けて、国家経済委員会が企業改革座談会を主催するなどしまして、請負制を全国にまた普及するべきだとして国務院に、すなわち官邸の方に提案します。最終的には趙紫陽も妥協しまして、請負制をまたやろうということになるわけです。ただ財政部は抵抗しました。後で説明しますが、三つの原則を提示し、「利改税」の基礎の上に請負制をやること、税率引き下げや利潤留保率の引き上げは禁止、地方は自らの費用で実施すること、という三原則を受け入れさせる形で請負制を容認するわけです。

ところが、実施段階になってみると、地方はためらい始めます。当時の財政関係は、ほとんどの地方において総額分割制を実施していました。総額分割制、これは地方財政収入を中央と地方で一定の比率で分ける制度です。財政部が出した条件、つまり「利改税」を基礎とした請負制や、地方政府が自らの費用で実施するという意味は、実際は企業と国の間ではすでに請負制が実施されているのですけれども、「利改税」を実施したとみなして地方財政収入を計算し、その額をベースに中央と地方の総額分割を行うことです。実際のところ、請負制をやると、地方政府と企業の間では、当然企業の留保分が増え、地方政府の取り分が減るわけです。地方政府にすれば、実際は財政収入が減っているのに、前と同じだと仮定して財政収入を中央に分割上納しなければならない。それがいやで利潤上納請負制を普及させなかった地方が多かったし、総額分割制の地方留保率を上げてくれとか、あるいは、財政の方も請負制に変えてくれというところが出てきます。結局どうなったのかというと、財政請負制への転換を趙紫陽も88年に認めることになりました。こうした経緯からみて、中央の改革主義には2種類あったということができるわけです。

一方においては国家経済委員会に代表されるような生産重視型の改革主義がありました。このグループの最大の関心事は経済成長です。いろいろ理由づけがありますが、まだ企業改革を貫徹する条件が中国にないとする主張でした。当時、東大の小宮隆太郎先生が中国に行って、中国には企業がないと喝破して中国側はびっくりしたわけです。要するに、単なる工場しかない状態では、市場において自力で経営し競争に勝ち抜いていく能力はまだ中国の当時の企業にはない、だから政府部門が保護し援助しなければならないとして、主管政府部門の役割を大変重視するのが生産重視型改革主義の立場でした。計画経済の改革はある程度実施し、市場も導入するわけですが、計画経済の官僚組織は解体しようとしない立場です。この立場は、実は地方の考え方に近かったと思います。

それに対して、国務院とか財政部に代表されるのは財政金融重視型の改革主義の立場でした。この立場にとって1番大切なことは、マクロ経済の均衡ということでした。国民経済が均衡をとりながら安定的に発展すればよい、徹底的に企業改革を行ない、地方や部門といった中間的な権力を全部排除して、政府は財政金融政策を通してマクロ的に市場を調節すればよく、企業は市場を導き手として自主的に活動すればいいという立場、徹底した改革論が財政金融型改革主義だったと思います。

改革後の30年の、今申しましたような論争を座標軸に配置しますと、いまや、中央統制主義、計画経済論者は1番左になりました。中央統制主義というのは例えば陳雲が言ったように、あくまで中国は計画経済が主で、市場経済は従ですよという「鳥籠経済論」者です。計画が鳥籠で市場は鳥だとして、鳥は鳥籠の中に入れておかないと飛び去ってどうなるかわからないというのがこの立場です。横軸でみて政治的には1番左の立場ですし、縦軸からみて中央対地方ということでは中央主義になります。それに対して、いや市場化をどんどん進めなければならないとするのが2つの改革主義です。ただ生産重視型の方は、中国の現状を考えれば、地方に分権する、あるいは部門に分権した方がより活力が出て成長のためにはよろしいということで、地方寄りに配置されている。徹底した改革を唱える財政金融重視型は1番右に配置され、やはりマクロ的な均衡が大事なのだという立場なので縦軸の右上に置かれているわけです。

この三角形は実は、大変強固な三角形でありまして、中央統制主義と生産重視型改革主義は先程申しましたように計画経済の機構を維持する、組織を維持する意味では共通する面があります。生産重視型改革主義と財政金融重視型改革主義の間ではもちろん、改革を進めるというところでは共通するわけです。中央統制主義と財政金融重視型主義は中央主義という点では同じです。ですから反発し対立する面と協調する面がこの3つの辺全てにあるという大変強固な三角形が80年代の始めにできた。これが崩れるためには90年代を待たなければなりませんでした。直接のきっかけになるのは92年の南方談話で、鄧小平が改革開放を大いに推進すべきと言ったことによって計画経済論者が中央において一気に周辺化されます。

左側の中央統制主義の勢力が弱まり、中央の対立は生産重視型対財政金融重視型になって、財政金融重視型は、もう生産重視型に対して遠慮する必要がなくなります。つまり、80年代においては、財政金融重視型改革主義にとって1番の対立相手は中央統制主義だったわけです。ですからそれに勝つためには、やはり地方の利益をかなり斟酌し、その歓心を買う必要がありました。だから80年代は、一貫して地方の言う通りに改革政策は変わっていったのです。それが逆転するのが90年代です。そのポイントはどこにあったか、からくりはどこにあったというと、中央の高層政治において中央統制主義が周辺化されたことだと私は思っています。朱鎔基という指導者が財政金融重視型改革論者の代表格となり、98年には生産担当省庁をほとんど撤廃してしまいます。全くなくなることはないのですが、中央においては朱鎔基以来、財政金融重視型改革主義が主流になったわけです。しかし成長重視論との対立がもちろんなくなったわけではありません。現在の経済政策論争は、中央主義対地方主義が直接対決するといいましょうか、財政金融家型の中央政府と企業家型の地方政府が直接対立するような、そういう構図になっているのではないかというのが私の見方です。

中華人民共和国の60年を通して、成長か均衡か、あるいは地方主義か中央主義かという論争がずっと継続してきました。しかし実際の政策論争や権力闘争を分析してみると、単純な二項対立のパターンではなかったということを提示させていただきました。大変拙い話でしたが、そのようにご理解いただければ幸いでございます。

トップページにもどる