ロシア外交における「多極化世界の構築」とアジア太平洋:対中国、東南アジア政策を中心に

北海道大学大学院 加藤 美保子

1. はじめに

アジア太平洋政策におけるソ連とロシア連邦の違いの一つは、既存の地域協力組織への正式な加盟を実現し、アジア太平洋諸国が直面する世界的・地域的問題の意思決定過程に関与する地位を得たことである。ASEAN+3を中心に、域内16カ国の首脳が一堂に会する東アジアサミットへの参加をロシアが強く働きかけているのは、再びこの地域から疎外されることを避けるために、より早い段階から新たな共同体創設の動きに関わることを重視しているからである。2005年12月14日に行われた第一回東アジアサミットのゲストとして演説を行った際、プーチン大統領はロシアがアジア太平洋地域の不可分の一部であり、この地域におけるロシアの信条は対等なパートナーシップと互恵性であると述べた。また、アジア太平洋で行われている統合プロセスに参加することはロシア全体の、とりわけシベリア・極東地域の社会経済的発展にとって好都合な外的条件を作り出すことに貢献するだろう、とも述べている(1)。これは裏返せば、中央政府がシベリア・極東地域の活性化のための効果的な国内戦略を持っていないことを示しており、地域大国としての地位確保と経済的恩恵の享受という二重の動機から、ASEAN・APEC・アジア協力対話・ASEAN地域フォーラム(以下、ARF)の利用にかつてないほど積極的な姿勢を示していると考えられる(2)

将来の東アジア共同体形成を視野に入れて開催される東アジアサミットであるが、その理念や内容は参加国によって異なる。しかしASEANが提示したサミットへの参加資格と(①ASEANの対話国であること、②東南アジア友好協力条約(以下、TAC)に加盟していること、③ASEANへの実質的な関与があること)、ASEANをサミットの推進力として認める点についてはクアラルンプール宣言で確認された(3)。東アジアの大国である日本と中国の政治関係が不安定ななかで、ASEANが地域統合の舵取り役として定着しつつある。

ロシア政府もこの点に着目しており、2003年に双方の外相によって調印された「アジア太平洋における平和・安全保障・繁栄・発展のためのパートナーシップ」を皮切りに、過去3年間でロシア-ASEAN関係は急速に制度化された。2004年11月には、国連安保理常任理事国・核保有国としてはすでに調印していた中国に続いて2番目に、TACの加盟国となった。東アジアサミットの参加資格をロシアはすでに2つまで満たしているのである。

1990年代半ばから、ロシアはASEANとの関係の緊密化が地域協力参入の糸口になると考え始めた(4)。1996年にASEANの域外対話国として初めてASEAN拡大外相会議に出席したエヴゲニー・プリマコフ外相(当時)(5)は、ASEANを多極化世界の重要な極の一つであると称えている(6)。プリマコフ外交(1996年1月-1998年9月)の特徴であった多極的世界秩序の追求は、ロシアの国家安全保障政策を定めた公式文書「国家安全保障概念」や中国との共同声明のなかで呼びかけられ、米国による一極支配の世界秩序を非難するものであると理解されてきた(7)。この路線はプーチン政権にも継承されたが、2001年の9.11事件を契機に、プーチンは米国が呼びかけた「対テロ同盟」に賛同を表明し、対米協調路線が鮮明になっていった。これには、欧米諸国によって人権侵害を非難されてきたチェチェン問題を国際テロリズムとの戦いと連関させる狙いがあった。しかし結果的にこの政策は、ロシアの裏庭である中央アジアへの米軍駐留やイラクでの軍事行動を許すことになり、米国の一国主義を助長させることになった。この反省にたって、現在改定中の「国家安全保障概念」では対米協調をどのように表現すべきかが一つの争点となっている(8)。実利主義をとるプーチンは大統領就任以降、「多極化世界の構築」や「一極支配阻止」という言葉を控えており、9.11事件後はさらにその傾向が強くなったと言われている。しかし、2001年10月から2002年12月までの約一年間に限っても、インド・マレーシア・中国との共同声明および上海協力機構の首脳宣言のなかで、国際法に基づいた多極世界の構築の促進が謳われ(9)、また第9回ARFではイワノフ外相がASEANを多極世界の形成を促進する重要なファクターとして認識していると述べている(10)。ここから、プーチン政権の多極化政策は主にアジア太平洋地域の友好国とロシアが参加している安全保障分野の多国間協力機構を対象にしていることが分かる。

プーチンはなぜアジアで多極化を外交目標に掲げるのだろうか。この政策は、大国としてのロシアの影響力を拡大するうえでどの程度有効で、またどのような困難を含むものなのだろうか。この点をプーチン政権下(2000年1月-2006年11月現在)で活発化している対東南アジア政策に注目して論じることが本報告の目的である。以下では、①プリマコフ外交における「多極化世界の構築」とは何だったのか、②プーチン政権下のアジア太平洋政策(北東アジア、東南アジアを中心に)、③近年の東南アジアへの接近に見る、プーチンの多極化路線の可能性と限界、の順番で論を進めたい。

2. プリマコフ外交における「多極化世界の構築」

プリマコフは病身のエリツィン大統領に代わって、大国としてのロシアの地位の確保と国益の主張を第一に、積極的な外交活動を主導した。プリマコフが外相に就任した1996年当時、ロシアが直面していた最も深刻な外交問題はNATOの東方拡大であった。長年にわたる米ソ二極対立が終焉したとき、ロシアの外交エリートたちの多くは米国と共に世界を運営する未来と、西側諸国からの経済援助を期待していた。しかし期待していたほどの経済支援を獲得できず、またワルシャワ条約機構の解体にもかかわらずNATOが存続し、1993年の後半からポーランド・チェコ・ハンガリーが自国の安全保障をNATOに求め始めると、ロシアでは親欧米路線から国益擁護の現実的路線へと対外政策を修正すべきだという見方が強まっていった。

ロシアの選択肢は西側諸国への接近か対決かの二者択一しかないという仮定にたって、いかなる犠牲を払ってでも西側の文明世界との親善を優先する考え方に、プリマコフは異議を唱えた。それに代わって、西側主要諸国との関係においては、対立に陥ることも不必要な譲歩を行ってロシアの死活的に重要な利益を損なうことも回避するという立場を明白にした。利害が一致する分野を無視するのであれば、それは冷戦の再来という結果を招く。それを回避するのがパートナーシップである。プリマコフはこのような見地に立って、すべての国との対等なパートナーシップを追求し、利益を一致する分野を模索し、協力することをポスト冷戦期におけるロシアの外交路線と考えた(11)。経済・軍事分野の国内改革、領土保全と安全保障の維持、原料供給基地としてではなく、平等な権利を備えて国際経済に参入することは積極的な外交活動によって可能となるのであり、そうすることによって大国としての地位を取り戻すことが国際関係におけるロシアの国益である。その過程で創出されたのが「多極化世界の構築」というスローガンであった(12)

この言葉は、1997年12月に大統領令で承認された「ロシア連邦の安全保障概念」の冒頭で「今日、国際舞台においては、とりわけ多極世界を形成する傾向が強まっている」という世界認識として示された(13)。この「概念」では、アジア太平洋で進行中の統合過程からロシアが孤立していることが指摘され、ロシアが欧州国家であると同時に、中央アジア・南アジア・アジア太平洋地域に国益を有するアジアの大国でもあることが強調された。そして、このような全方位外交を行う上で、世界レベルでも欧州とアジアでも経済・政治機構に参加することが必要だと考えられた。また同時に、アジア太平洋と南アジアでは、国際安全保障分野の協力を確保しつつ、多国間機構を創設するための環境を強化していくことが課題とされた(14)

冷戦終結後の世界において、「欧州とアジアをつなぐ橋」を目指しつつも、現実には欧州でもアジアでもロシアは国際関係再編の動きから疎外されていた。プリマコフは「多極世界の構築」という言葉を用いて名指しを避けつつ米国の外交政策を批判し、NATOの東方拡大をめぐって条件闘争を行った。結果として、ロシアはNATO-ロシア常設合同理事会の設置、G8およびAPECへの参加を認められ、欧州でもアジアでも地域問題の政策決定プロセスにロシアの国益を反映させる地位を得た。このように、プリマコフの多極化政策は、米国と対峙する同盟を意図していたというよりは、米国がロシアの国益を無視した対外政策をとることを阻止する国際環境を作り出すためのものだったと言えよう。 

3. プーチンのアジア太平洋政策

「強いロシア」の復権を標榜するプーチンにとって、アジア太平洋での地位向上は対外政策における優先事項の一つである。アジア太平洋とは広大な地域を含むが、ここではとくに北東アジア(中国、北朝鮮、韓国、日本、米国、ロシア)と東南アジア(ASEAN10か国)を対象とする。ソ連崩壊直後の過度に欧米よりの対外政策から脱却するために、アジアでの政治・経済的基盤の強化に着手した後も、エリツィン政権は領土問題を抱える中国・日本との交渉や空洞化していたインドとの関係の建て直しという大国間関係を重視した。これに対し、2000年1月にプーチンが大統領代行に就任すると、2月にはI. イワノフ外相を北朝鮮・日本・ヴェトナムに派遣した(15)。北朝鮮との間では、1999年に仮調印した「ロ朝友好善隣協力条約」に正式調印して関係正常化を図り、エリツィンが実現できなかった朝鮮半島でのバランス外交の足場を確保した(16)。日本の小渕首相に手渡されたプーチンの親書では、先に平和友好協力条約を締結してから領土交渉を続け別条約で国境を画定するという「モスクワ宣言」(1998年11月)の方針を維持することが伝えられ、2000年内の平和条約締結に期待を持っていた日本側を失望させることになった。一方1990年代を通じてカムラン湾基地からの撤退と債務問題の交渉が難航していたヴェトナムへの親書では、同国をアジア太平洋における重要なパートナーであると位置づけ、伝統的な協力関係復活の意欲を示した。会談では政治・経済・科学技術分野での互恵的協力の強化という二国間問題のほかに、多極的世界秩序の構築や国連の役割の向上の問題についても話し合いが行われた。その後プーチン自身も国家元首として初めて北朝鮮(2000年7月)、ヴェトナム(2001年3月)への訪問を果たしている。

このようにプーチンは政権第一期目には、アジアの旧同盟国との低落した関係の回復に取り組み、徹底した領土保全の姿勢を示した。翌年には1990年代を通じてヴェトナムとの間の最大の棘であった債務問題とカムラン湾からの撤退問題を解決し、ロシア‐ヴェトナム関係は質的な転換を迎えた(17)

プーチンが大統領就任後に承認した「ロシア連邦の対外政策概念」では、現代世界の多様性を反映した国際関係の多極的システムを形成することを追求するとされ、プリマコフの基本路線が継承されている(18)。アジア太平洋政策については、第一にAPEC、ARFという地域統合機構への積極的な参加や上海5での主導的役割などを挙げている。そして次に、中国とインドの2国をアジアの最重要な方向性としている。1993年の対外政策概念において、中国との関係を最も重要な二国間関係に位置づけ、続いて日本、朝鮮半島、ASEANを挙げていたに比べ、中国がかなり相対化されている。「概念」の修正点と実際の外交活動から見えてくることは、欧州とアジアの間でバランスととりつつ、アジアにおいても外交関係を多角化していこうという姿勢である。

以下でも言及するが、2000年当時、中国とロシアは「戦略的パートナーシップ」の陰でミサイル防衛問題に関する矛盾を抱えていた。就任当初からプーチンは、中国との関係を重視しつつも過度に引き込まれることを避け、アジアで旧同盟国との関係を回復し、南北朝鮮との友好関係を築き、多国間外交を活発化させることによって地域への発言力を高めとうとしていた。「親中国」でも「反中国」でもない「バランス派」と目されるロシアの中国専門家は、日本との経済関係の強化や多国間の地域経済協力によって、ロシアは台頭する中国とバランスをとることができる、と指摘する。しかし、領土交渉が行き詰まり、関係改善の見通しが立たない日ロ関係とは対照的に、ロシアは東南アジア諸国との関係強化に乗り出している。冒頭で述べたように、2003年6月にロシアとASEANの外相間でパートナーシップ宣言が締結され、2004年11月には内政不干渉・武力不行使・紛争の平和的解決を規定したTACにロシアが調印している。その他にも、ロシアとASEANは2004年のASEAN拡大外相会議の個別会議において「国際テロリズムとの闘いにおける協力に関する共同宣言」に調印し、同年9月にブルネイで最初の高級事務レベル協議を行った。

2000年以降、ロシアはアジアでの地位強化のために多国間外交を活発化させてきた。プーチンは国際関係において対等な権利と互恵性を何よりも重視しており、この点ですべての参加国の対等な参加を基本とするASEAN地域フォーラムは利用価値が高い。2005年の第一回ロシア-ASEANサミットの冒頭でラヴロフ外相がASEANを多極世界の構築、地域的安全保障システムの形成、新しい脅威への対抗における重要なパートナーであると述べているように、ASEANを地域統合の中心と見なす傾向がロシア外務省のなかに見られる(19)。ASEANの会議外交を利用して、伝統的に米国が主導してきたアジアの軍事・経済的構造のなかで自国の政治的影響力を伸張させることがその目的だと考えられる。

また、2006年6月の上海協力機構の開催に合わせてプーチンは「成功した国際協力のモデルとしての上海協力機構」という論文を発表している。そこでは、上海協力機構の意見はアジア太平洋における安全保障のアプローチと調整しなければならないとされており、そのためには既に機能している地域機構との緊密な協力関係を築くことが必要であると述べられている(20)。そうすることによって、上海協力機構の取り組みは無用の重複を避け、閉鎖的徒党や分離路線を形成せず共通の利益にたって行動することができる。これに関して、実際に2003年の「パートナーシップ」宣言や、2005年のロシア-ASEANサミットの共同宣言でASEANと上海協力機構間の政治・安全保障分野の協力の促進が確認されている。おそらくこれはまだ実行に移されていないが、ロシアがASEANの地域自助路線の経験を中央アジアのモデルとして考えている点には留意したい。

一方で、プーチンは一度もAPECに出席しなかったエリツィンと異なり、首相であった1999年からAPECの非公式首脳会議に出席しており、米国が参加するAPECでの活動も重視している(21)。ロシアはテロ対策や新型肺炎(SARS)などの新しい脅威への対処に関してAPECを重要な手段と考えている。また、経済面では欧州‐アジア間の貨物輸送の中継国としてのロシアの役割を高めようとしており、APECの枠内で協力を必要としている(22)

本稿の冒頭で述べたように、9.11事件後、ロシアは米国との協調路線を強めたが、米ロ関係における矛盾は払拭されていない。具体的には、米国の弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約からの離脱、イランの核開発問題や旧ソ連諸国で起きた民主化革命をめぐる対立などが挙げられる。しかしイラク戦争開始時にフランスやドイツと共同歩調をとって米国と距離を置く姿勢を見せたにもかかわらず、その試みが成功しなかったように、米国の一極主義に対抗してロシアが多極化を推進しようとする試みは現実的でない。特に、NATOの東方拡大、ロシアからのエネルギー供給、チェチェン紛争等に関してロシアと係争を抱えるEU諸国が、ロシアと反米同盟を組むことは考えにくい。これに対して、アジアには中国、インド、北朝鮮、ヴェトナム、マレーシア、イランなど、米国との対立を抱えていたり、あるいは米国との関係を重視しつつも独自の路線を歩もうとする国が多く存在する。そのためにプーチン政権下での多極化政策は主にアジアで展開することになったと言える。

4. ロシアと東南アジア:可能性と限界

ここでは、ASEAN諸国とロシアの政治・経済協力を概観し、ロシア外交における東南アジアの意義を考察したい。アジアにおけるプーチンの多極化路線について分析した米国のロシア外交・軍事政策専門家M. キャツは、反米多極秩序を支持する国として、中国・インドを挙げ、潜在的支持国には韓国・ヴェトナム・マレーシア・イラン・アラブ首長国連邦・シリア・トルコ・サウジアラビア・パキスタンを含んだ(23)。キャツは、これら諸国の共通点として、①理由は異なるが、米国の一国主義(特に軍事力の行使に関して)に反対している、②イスラム教スンニ派原理主義への反対、③自身が打倒の標的となるかもしれない民主革命を支持しない、④ロシア製武器・核技術の需要がある(見込まれる)、ことを指摘する。一方でアジアに多極世界を構築しようとする際の障害として、①中国の台頭に対するロシアの懸念、②上記の諸国の間には対立関係が存在し(インドとパキスタン、インドと中国、ヴェトナムと中国、等)、ロシアが双方と緊密な関係を維持することは難しい、③敵対関係にある両国に武器を供給するロシアに対する懸念、④たとえ矛盾を抱えていても、多くのアジア諸国にとって米国との関係が非常に重要であり、良好な関係を維持しようとしていること、を挙げている。以下では、これらの条件を念頭に、おいて、ロシアと東南アジア諸国の協力の可能性と限界について考察したい。

現在、ロシアとASEANの対話関係は、以下の定例会議に支えられている。

  1. ASEAN拡大外相会議(以下、PMC)およびPMC+1(1996年~)
  2. ASEAN地域フォーラム(ARF)(1994年~)
  3. ASEAN-ロシア高級事務レベル会合
  4. ASEAN-ロシア合同協力委員会、ASEAN-ロシア合同計画管理委員会(1997年~)
  5. 貿易・経済および科学技術分野の作業部会(1997年~)
  6. ASEAN-ロシアサミット(2005年~)

軍備管理を目的として北東アジア諸国との安全保障体制を築こうとしていたロシアにとって、紛争当事者同士の対話を優先しコンセンサス方式を採用するため、政策決定力の弱いARFへの期待は低かった。しかし1990年代半ばから始まったロシア-ASEAN関係の制度化は、政府レベルの地域協力から疎外されていたロシアに閣僚・官僚間の交流の場を提供することになった。1993年に米国はAPECをアジア太平洋の安全保障対話の場として利用しようとするが、これはASEANや日本の反対で頓挫した。しかしこれ以降非公式のAPEC首脳会議が慣例となる。この非公式首脳会議にも、北朝鮮の核開発阻止を目的として1995年に設立された朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)にもロシアは関与していなかった。プリマコフが全方位外交を掲げた時、ロシアは冷戦終結後のアジアの国際関係再編の動きから取り残されていたのである。そのような状況下で、ロシアは独自の安全保障政策を表明したり、またロシアにとって脅威となりうる他国の政策に異議を唱えたりする場をしてARFを利用するようになった。例えば1997年7月の第4回ARFで、プリマコフは南北朝鮮間の対話の再開におけるARFの役割の強化を主張し、北朝鮮の参加を訴えている。また、2000年7月に行われたARFでイワノフ外相は中国とともに、アジアに閉鎖的でブロック型の弾道弾迎撃ミサイル防衛システムを配備することは地域の軍事・政治的不安定を招くだろうと主張して米国を非難した(24)

一方、冷戦終結後のASEANは、地域の中立を東南アジア諸国間、東南アジア諸国と米中日ロの4大国との間、そして4大国間の相互抑制とこれらの大国の建設的関与によって達成しようと考えるようになった(25)。ロシアはソ連から継承した国連安保理常任理事国と核大国の地位、そして世界有数の通常戦力によって、ASEANの規範的条約であるTAC、ARFの戦略的基礎である東南アジア中立地帯(ZOPFAN)とその具体策である東南アジア非核地帯(SEANEFZ)の保証国となり得る。

これまで述べてきたように、ロシアの対外政策の過程でASEANの会議外交の利用をはじめとする多国間外交が活発化してきたのは1996年からであり、それは国際関係における孤立の回避が主な動機であった。一方中国も1997年頃から、軍事力の増強や軍事同盟に依拠せず、相互信頼と多国間の政治対話に基づいた安全保障政策が主張され始め、ARFにおけるASEANの試みを評価するようになった(26)。同盟を連想させる多国間主義に慎重な姿勢をとっていた中国が対ASEAN政策でこれを採用した理由は、天安門事件による国際的孤立から脱することの他に、安全保障面では国境画定問題(ヴェトナムとの陸上国境およびトンキン湾での領海線画定、南シナ海の島礁の主権)や国際テロ、越境犯罪、SARSという新しい脅威への対処、経済面では中国のWTO加盟の負の影響を最小限に抑えること、中東からの原油の輸入ルートの安全確保という直接的問題を抱えていたことにある。これらの問題のほとんどが一国あるいは二国間の枠組みでは解決困難な性質のものであった。このように、中ロはほぼ同時期にASEANに接近し始めているが、その動機は大きく異なる。

中国との紛争を抱えるASEANは、中国と対等な立場で直接対話を行うことによって脅威を低減できるが、完全に解消されるものではない。彼らは中国の「アジアの自然な指導者」という自己認識や、ロシアからの武器購入によって国防を近代化させ、その気になれば域内のどの国にも勝てる軍事力を有する点を脅威とみなす(27)。このような情勢を反映して、2003年にはマレーシア・インドネシア・ヴェトナムの武器契約総額が中国とインドの合計を追い抜いた(28)。とくにマレーシアは、西側の武器供給に依存しないというマハティール前首相の路線を反映して、武器供給源の多様化からロシアの戦闘機(Su-30MKM)を購入し、アジアでは中国・インドに次ぐ武器購入国である。ロシア製の武器が安価でコスト・パフォーマンスが良く、またヤシ油などとのバーター貿易を行えることもマレーシアにとって都合の良い条件だろう。軍事均衡の点でも、ロシアの航空産業が中国・インドに依存することを避ける意味でもロシアは新しい武器市場を開拓しなければならない。武器貿易は互いの利益が一致する分野であるが、同時にロシアへの不信の源となっている。

近年、ロシアはASEANとの政治関係を制度化し、テロ対策での情報交換や武器輸出の分野で協力を拡大している。しかし経済面から見ると、ロシアは域外対話国のなかでASEAN全体との貿易額が最も小さい国である(29)。将来的に期待される協力分野はロシアから東南アジア諸国へのエネルギー供給である。特にフィリピンは、ロシア極東から最も近い東南アジアの国として輸送の中継国を名乗り出ている。実際に2005年10月にA. ロムロ外相とフィリピン国営石油会社の代表がモスクワを訪問してエネルギー分野と核不拡散問題での協力に関するいくつかの協定を結んでいる(30)。このように、実際面での協力も見込まれるが、経済関係の拡大は最も努力を要する領域である。

5. おわりに

中国との包括的関係の強化、エネルギー協力の拡大、地域統合の過程における上海協力機構の活用(中央アジア-南アジア)、ASEAN・APECを通じてロシアの国益を反映させること(ロシア極東-アジア太平洋)、がアジア太平洋でロシアが大国としての地位を確保する主要な手段であると考えられる。アジアにおけるロシアの安全保障にとって、中国との関係の安定が最重要であるが、その一方で東南アジアへの接近に見られるように、プーチン政権下でロシアはアジア外交の多角化を進め、米国・中国との対等な地位を追求してきた。 

2006年6月27日にロシア外務省で行われた在外大使会議で、プーチン大統領は「自分には許されることが、他の者には許されない」という原則をロシアは受け入れられないと述べ、米国の一国主義を牽制した(31)。ロシア外交における「多極化」は国家間のパワー・ポリティクスに基づいた発想である。これは他国と反米軍事同盟を築くような試みではなく、米国や中国との協調を維持する一方で、ロシアの国益が無視されたり犠牲になったりすることを阻止し、世界レベルでも地域レベルでも影響力ある大国としての地位を確保することを目的としている。その手段として、ロシアは地域統合の推進力であるASEANの外交力を利用して多国間協力に参入し、アジア太平洋地域への政治的影響力を拡大しようと考えている。他方、ASEANの戦略は域外大国の国益を競合させて勢力均衡を作り出すことによって域外からの干渉を回避し、地域の独自性と影響力を向上させていくことである。現在ロシアはグローバルレベルでは国連安保理の常任理事国であり、G8のメンバーでもある。地域レベルではCIS、中央アジア、中東、北東アジアの安全保障に直接関与している。特定の国の影響力が増すことを嫌うASEANにとって、現在のロシアの国際的地位は米国・中国・日本の政治的影響力を相対化する上で利用価値のあるものだろう。その意味でロシアとASEANは今後も接近していく余地がある。ただし、軍事・経済協力の観点から見て、ASEAN諸国はロシアよりも米国・中国・日本との利害が深い。どの域外大国とも等距離を保つことが戦略であるためにASEANはロシアとの関係や武器を必要とするが、逆に米・中・日との関係以上にロシアに接近することはない。むしろ、ASEANと国境を接する中国やインドへ武器輸出を行っているロシアに不信感を持っているだろう。これまでのところ、ロシアはASEANの会議外交を利用して多国間外交を展開しているが、今以上の関係強化を目指すならば、ロシアはエネルギーや科学技術など、需要の見込まれる分野の経済協力を拡大していかなければならない。

注記
(1)第一回東アジアサミットでのプーチン大統領の演説。Выступление на саммите Восточноазиатского сообщества, http://www.kremlin.ru/text/appears/2005/12/98892.shtml (2006/10/23).
(2)ロシア連邦外務省ウェヴサイトでの特集「2005年のロシア外交の総決算」(ロシア語・英語)のなかで、東方外交についてはA. アレクセーエフ外務次官が多国間・二国間外交を総括している。とくに2005年はASEANとの対話関係が画期的に発展したと記されている。A. Iu. Alekseev, “The Eastern Vector of Russian Foreign Policy,” http://www.mid.ru/brp_4.nsf/itogi/E86945F853F7E79EC32570E60027D718 (2006/10/31).
(3)Kuala Lumpur Declaration on the East Asia Summit, (Kuala Lumpur: 14 December 2005), http://www.aseansec.org/18098.htm (2006/10/31).
(4)1990年代のロシア-ASEAN関係については拙稿「ソ連/ロシアの外交政策とアジア太平洋の地域主義」『ロシア・東欧研究』第34号、2006年、88-100頁で概観している。
(5)1929年、キエフ生まれ。中東問題の専門家であり、ソ連時代の共産党機関紙『プラウダ』の中東特派員としてキャリアをスタートさせた。東洋学研究所所長(1977年)、世界経済・国際関係研究所所長(1985年)を歴任。ソ連共産党では中央委員(198‐89年)、政治局員候補(1989‐90年)、議会では最高会議連邦議会議長(1989年‐90年)、政府では対外情報長長官(1991年‐96年)、外務大臣(1996年‐98年)、首相(1998‐99年)を務めた。その後、「祖国・全ロシア」代表となり、1999年12月の下院選挙で当選するが、2001年辞任。同年12月からロシア商工会議所会頭。
(6)«Дипломатический вестник», 1996, №8, стр. 38.
(7)Sherman W. Garnett, “Limited Partnership,” Sherman W. Garnett ed., Rapprochement or Rivalry?: Russia-China Relations in a Changing Asia (Washington D.C.: Carnegie Endowment for International Peace, 2000), p. 3.
(8)兵頭慎治「プーチン政権における「国家安全保障概念」の改訂をめぐる動き-「国家安全保障概念」から「国家安全保障戦略」へ-」岩下明裕編『ロシア外交の現在Ⅱ』北海道大学スラブ研究センター、2006年、3-8頁。
(9)2001年11月、インドのバジパイ首相訪ロ時の共同声明。«Дипломатический вестник», 2001, №12, стр. 24. 2002年3月、マレーシアのマハティール首相訪ロ時の共同声明。«Дипломатический вестник», 2002, №4, стр. 29. 2002年8月、上海で行われた第7回中ロ定期首相会議の共同コミュニケ。«Дипломатический вестник», 2002, №9, стр. 15. 2002年6月、上海協力機構の首脳宣言。«Дипломатический вестник», 2002, №7, стр. 27.
(10)«Дипломатический вестник», 2002, №8, стр. 46.
(11)Yevgeny Primakov, Russian Crossroads: Toward the New Millenium, (New Haven & London: Yale University Press, 2004), 126-127.
(12)この言葉は1996年4月の中ロ共同声明のなかで最初に用いられた。«Дипломатический вестник», 1996, №5, стр. 19.
(13)Концепция национальной безопасности Российской Федераций 1997 г. // Внешняя политика и безопасность современной России 1991-2002 в 4-х томах. Т. 4, М., 2002, стр. 51.
(14)Там же., стр. 68.
(15)一連の公式訪問の内容は以下を参考にした。«Дипломатический вестник», 2000, №3, стр. 14-16.
(16)エリツィン期の対朝鮮半島政策については、斉藤元秀『ロシアの外交政策』勁草書房、2004年の第五章「エリツィンの対韓急傾斜外交」(111-126頁)を参照されたい。
(17)2002年から2005年の間に、ロシア‐ヴェトナム間の貿易額は4億米ドルから9億米ドルに拡大している。Таможенная статистика внешней торговли Российской Федерации годовой сборник, Т.1, 2003, стр. 7-10.; Т.1, 2006, стр. 8.
(18)Концепция внешней политики Российской Федераций 2000 г. // Внешняя политика и безопасность современной России 1991-2002 в 4-х томах. Т. 4, М., 2002, стр. 111.
(19)Opening Remarks by Russian Minister of Foreign Affairs Sergei Lavrov at Russia-ASEAN Foreign Ministers Meeting, Kuala Lumpur, December 10 2005. http://www.mid.ru/brp_4.nsf/e78a48070f128a7b43256999005bcbb3/f982bd095207f90cc32570d500524cd7?OpenDocument (2006/11/06).
(20)Vladimir Putin, “SCO – A New Model of Successful International Cooperation,” (14 June 2006),http://www.mid.ru/brp_4.nsf/e78a48070f128a7b43256999005bcbb3/afd849a437e08babc325718d002511b6?OpenDocument (2006/11/06).
(21)2002年のみプーチンに代わってM. カシヤノフ首相が非公式首脳会議に参加した。非公式首脳会議の出席者はAPECの公式ウェブサイトで確認できる。http://www.apecsec.org/ (2006/11/06).
(22)プーチンの朝日新聞への寄稿。朝日新聞、2005年11月17日。
(23)Mark N. Katz, “Primakov Redux?: Putin’s Pursuit of “Multipolarism” in Asia,” Demokratizatsiya 16:4 (2006), pp. 147-150.
(24)http://www.mid.ru/dip_vest.nsf/99b2ddc4f717c733c32567370042ee43/7baf4faeb4156ee0c325695f0021fdde?OpenDocument (2006/11/06) 「閉鎖的でブロック型の」という限定が付されているのは、ロシアが戦域ミサイル防衛(TMD)の可能性を残したかったからだと考えられる。中国がTMDの導入に強固に反対する一方で、ロシアはABM制限条約の修正阻止を最優先課題と考えていた。ロシアは米国に対して、ABM制限条約の対象ではないTMDの導入で妥協を図り、全米ミサイル防衛(NMD)の配備を阻止することも考えおり、中ロの見解は実際には一致していなかった。岩下明裕「関係再構築の裏に覗く中ロそれぞれの思惑:実利外交をしかけるプーチン」『世界週報』2000年、9月5日、6-9頁。
(25)佐藤考一『ASEANレジーム:ASEANにおける会議外交の発展と課題』勁草書房、2003年、141頁。
(26)この時期の中国の安全保障観の変化については、以下を参考にした。毛利和子「ポスト冷戦と中国の安全保障観-「協調的安全保障」をめぐって」山本武彦編『国際安全保障の新展開』早稲田大学出版部、1999年、32-49頁。
(27)P. Dibb, “Indonesia: the key to South-East Asia’s Security,” International Affairs 77:4 (2001), p. 832.
(28)防衛庁防衛研究所編『東アジア国家戦略概観 2005』防衛庁防衛研究所、2005年、172頁。
(29)1998年から2004年の間に、ロシアとASEANの貿易額は10億米ドルから31億米ドルに拡大している。これは2004年のASEANとニュージーランドの貿易額(35億米ドル)に近づいている。Государственный таможенный комитет Российской Федерации.// Таможенная статистика внешней торговли Российской Федерации. Сборник. М., 2000. С. 8.; 2005. С. 7-9. ASEAN Statistical Yearbook 2005, (Jakarta: The ASEAN Secretariat, 2005), pp. 70-73.
(30)Asia Pulse, 17 October 2005.
(31)在外大使Выступление на совещании с послами и постаянными представителями Российской Федерации, http://www.kremlin.ru/text/appears/2006/06/107802.shtml (2006/10/24).

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