討論要旨

ディスカッサントとの応答

江沛報告について

ディスカッサントの問題提起(田中仁)

江先生、ご報告ありがとうございました。江先生のご報告は、1881年から1937年に限定しておられますが、この1881年という年は中国最初の自弁鉄道が開始された年であり、その時から日中全面戦争勃発に到るまで時期の中国社会の近代化のプロセスを、具体的には開港と鉄道敷設に起因する近代交通システムの形成が天津と青島を中心とする華北地域の外向型経済、社会システムへの転換を推し進め、さらに近代交通システムの形成と発展が都市空間・機能の転換をもたらし、さらに華北地域の都市構造の再編成をもたらしたという内容であったと思います。

江先生ご自身が報告の最初に話をされましたが、その内容は、かつての歴史の見方と非常に大きな違いがあるように思われます。すなわち、かつての見方というのは“革命パラダイム”と言い換えることができると思いますが、革命を軸とした歴史像・歴史観です。これに対して江先生のご報告は、“革命パラダイム”とは異なる“近代化パラダイム”、あるいは“現代化”と言ってもよいかもしれませんが、こうした見方に基づいて明解な論旨で議論を展開されました。

かつての“革命パラダイム”においては、まず諸々の政治勢力に対して、どれが革命勢力でどれが対抗勢力なのかという腑分けから始まるでしょうし、そのなかでどの勢力が革命を推進し、どの勢力がそれを阻止するのかという議論になったように思います。それともう一つの別の視点では、工業化・近代化は輸入代替工業化が近代化を実現する典型的形態であったと考えられていたように思います。そのようなこれまでの見方や知的枠組みを想起しながら今日の江先生のご報告を聞いていますと、とても新鮮な感想をもちました。例えば工業化や社会変容ををもたらす動因が外国資本であっても民族資本であっても構わないわけであります。また、かつての見方では、生産関係や生産過程に注目して近代化を捉えていたわけですが、江報告では、近代交通システムの確立と発展を基軸にして、それが華北地域の工業化や社会構造の質をどう変えていったのかという形で議論を展開されております。

さらに今回の江先生のご報告で興味深かったのは、華北地域の世界経済への編入を外向型経済社会システムへの転換と理解されていることでした。と申しますのは、20世紀の後半期、アジアにおいて韓国や台湾、香港、シンガポールにおいてまず工業化が達成され、1980年代以降に中国がそれを追っかけていきます。この工業化の過程は、輸入代替工業化ではなく輸出指向型の工業化のプロセスとして捉えることができるようです。こうした点からすれば、今日のご報告で1881年から1937年の数十年間にわたる中国華北社会の近代化の過程を外向型経済システムという視角から実証的に提起されたことは、まさに今日的意味があると考えました。

今日、江先生は1880年代から1930年代、すなわち1937年までの半世紀の間に華北社会は質的な変化を遂げたということを実証的に論じられたわけですが、ならば、今回の私たちのシンポジウムは「20世紀の経験と21世紀への提言」をテーマとし、またそれは言葉を換えればいま日本が「中国」とどう向き合うべきかということでもあります。このシンポジウムとの関連で三つの論点を掲げ、江先生のお考えを披露していただきたいと思います。

第一に、1880年代から1937年にいたる中国華北社会に質的な変化があったとすると、それに続く20世紀は、1937年から49年までは“戦争”の時代でした。日中戦争があり国共内戦がありました。そして1949年から79年までは“革命”の時代でした。この“戦争”と“革命”は華北社会にどのような変化をもたらしたのでしょうか、あるいはもたらさなかったのでしょうか。

第二に、21世紀に入ってすでに数年が経ちましが、20世紀末から21世紀の初めにかけての数年間に中国をめぐる状況には非常に大きな変化があったように思われます。私の理解では、アジア経済危機が起こりそれに対処るかたちで中国は西部大開発構想を提起しました。さらに2001年、中国はWTO加盟を果たして世界経済に全面的に組み込まれることになりました。これらのことがらを中国にそくして捉えなおすと、1980年代以来の輸出指向型工業化の成果を前提として、中国自身が市場として世界経済のなかに新たな要因を組み込んだという段階が到来したと理解することもできるように思われます。ならば1880年代から1930年代に到る華北社会の変容を踏まえて、今日の華北社会にはどのような特質が見られるのでしょうか。

第三に、ここ数年来――これは馬先生、紀先生、両方とも触れられたことでありますけども――日中の間でいくつかの“不愉快な”問題が次から次へと起こっています。この問題を中国の側から捉え直した場合、先ほど述べました“革命パラダイム”に依拠した公式発言が一方にあり、その一方でご報告で明らかにされた中国近代社会の質的変容とそれを基盤とする中国社会の発展の新たな段階を迎えているとすれば、言葉を換えれば、“革命パラダイム”と“近代化パラダイム”が交錯している現状において、昨今の日中間の懸案を解きほぐす上で何が必要なのかについて、江先生のお考えをぜひ披露していただきたいと考えます。

報告者のリプライ

谢谢田中老师的问题。我有一个感觉,田中老师的问题,好象在我论文的基础上特别注意历史与现代发展的关系。我简单地回答一下。其实有两个问题在座的马老师他们才是专家。我的论文谈及华北区域的近代交通体系是1881年到1937年间,那么田中老师想知道1937-1949年间铁路与华北社会的变化,1949-1978年间铁路与华北社会变化的情况,也可以说是我专业范围的问题。

田中先生ご質問ありがとうございました。田中先生の質問は、私の論文を基礎にして、さらに歴史と現代の発展の関係に注意をはらったもののようです。簡単にお答えします。2つの問題については、馬先生方のほうがお詳しいかと思います。私の論文が述べた華北地域の近代交通システムは1881~1937年まででした。田中先生の質問は、その後1937~49年の鉄道と華北社会の変化、1949~78年の鉄道と華北社会の変化についてです。これも私の専門領域内といえます。

1937-1949年间的华北社会的变化,这个期间的社会变化应该是分几个方面来谈。一个是中国共产党当时在华北地区的根据地。当时中共在根据地的建设上,做了很多的工作。比如说,民主选举和经济上的改革。其时那个时候的民主选举,比现在做得还好。但是这个变化是靠政治的力量来推动的,背后没有经济发展需求的根本推动力。以后呢,战争结束以后这种社会层面的变化又恢复到以前的状况。至少,中共没有能力在其控制范围内修建铁路,相反只是在破坏铁路,当然这种破坏不是为了破坏现代化建设、不是为了排外,而是为了抵抗侵略,这是无可厚非的。另外一个就是日军占领区。我们现在讲中日战争的时候,一般谈到日军占领区时,基本上都是讲一片黑暗、对社会经济的破坏等等。其实也不尽然。比如说,当然日本人的基础设施建设,在华北地区还是有不少的。比如说,有铁路、公路、电信的建设,还是有相当多的,铁路的建设对经济发展还是有一定的作用的。当然,谈及当时的这些建设及其影响有一个原则,日军所以这样做,目的不是为了让华北地区迅速实现现代化,其目的是为了经济掠夺,是为了战争服务的。但是这些建设设施,战后留下来了,华北区域后来的经济发展还是可以利用的。比如说铁路,日本人当时在华北地区建造了石家庄到德州的铁路,在山西省,也把阎锡山没有修完的同蒲路北端,彻底修好了。甚至我们很多农村和山区的老百姓,所以知道铁路,还是因为日本人给他们带来的这样一个观念及实际感受。

1937~49年の華北社会の変化について、この期間の社会変化はいくつかの面に分けて考えることができます。第1に、中国共産党による当時の華北地区の根拠地です。当時、中国共産党は根拠地建設で多くの仕事をしました。例えば民主選挙、経済の改革です。実際、この時期の民主選挙は現在よりも進んでいました。しかし、この変化は政治の力によって推進されたもので、経済発展に必要な根本的な推進力はありませんでした。そのため戦争が終わった後、こうした社会の変化はまた以前の状態に戻ってしまいました。少なくとも中国共産党には、そのコントロールの及ぶ範囲内で鉄道を修理する能力はなく、逆にただ鉄道を破壊しただけでした。もちろんこうした破壊は現代化建設を破壊するためではなく、排外のためでもなく、侵略に抵抗するためでした。これは過度に非難されるべきことではありません。第2に、日本の占領地域です。現在、我々が日中戦争について語るとき、ふつう日本の占領地域はつねに暗黒や破壊などによって語られます。しかし実際はそうではありません。例えば、もちろん日本人による基礎施設の建設は、華北地域でやはり少なくありません。例えば、鉄道や道路、通信の建設、ほかにもたくさんあります。鉄道の建設は経済発展に一定の作用を及ぼしました。もちろん当時のこうした建設やその影響について述べるにはひとつの原則が必要で、日本軍はそのためにこのようにしました。それは、その目的が華北地域での迅速な近代化の実現ではなく、経済を略奪し、戦争に従事させることにあったということです。しかしこうした建設施設は、戦後残され、華北地域ののちの経済発展のために利用できるものでした。例えば鉄道について言うと、日本人は当時、華北地域で石家庄から徳州までの鉄道を建設しました。山西省では、閻錫山が完成させていなかった同蒲鉄道の北側を徹底的に建設しました。中国の多くの農村や山間部の民衆が鉄道を知ったのは、日本人がこうした鉄道の概念や実際の感覚をもたらしたためだといえるほどです。

大家知道中国有关抗日战争纪念的很多画册,里面有一张有关许多人共同拆铁路的照片可能比较熟悉。那张照片,其实它的背景并不是大家摆一个姿势,让记者拍照出来的。它的背景是什么呢?由于当时游击队里很多人都是第一次见到铁路,不知道怎么破坏铁路。我们在山西采访时,一个当年的八路军战士告诉我们,他们在第一次拆铁路时,因为以前从来没有见过铁路,根本不知道铁路怎么破坏。怎么办呢?大家干脆一起用力把铁路推翻算了。所以才有了这张传世的照片。

みなさんご存知だと思いますが、中国には、抗日戦争を記念する写真集が多くあります。そのうち、多くの人が並んで鉄道を壊す写真は、おなじみの一枚でしょう。この写真は、みんなが同じ姿勢をとって記者に写真をとらせていることに意味があるのではありません。この写真が意味するのは何か。それは、当時、多くの遊撃隊員が初めて鉄道を見て、これをどうやって壊すのかわからなかったということです。我々が山西省で調査したとき、当時のある八路軍の兵士が言うのには、最初に鉄道を壊す時、それまで鉄道を見たことがなかったので、どうやって破壊したらいいかわからなかったのだそうです。どうしましょう、いっそのことみんなで力を出して鉄道をひっくり返せばいい。それであの有名な写真ができたのです。

1949年之后的情况呢?直到1978年,这个期间华北社会的发展应该讲是比较慢的。在这个期间,铁路对华北地区的影响还是非常大的。因为有铁路经过的地方,就意味着能获得更多的物品及对外交流的机会,可以有更多的发展。中国有一句话讲出了交通的重要性:”要想富先修路”。这句话相当典型地点出了交通体系在近代化发展期间对社会发展的重要作用。但这个期间,华北区域的铁路建设可以说很少,只进行了一些复线工程,国家经济处于贫困状态,也无力进行大规模的铁路建设。甚至在“文革”期间由于武斗,不少地区的铁路还被迫停运,对经济发展造成了不利的影响。

1949年以後の状況はどうでしょう。1978年までの華北社会の発展は、比較的遅いものでした。この時期、鉄道の華北地域への影響は、非常に大きかったといえましょう。なぜなら鉄道がある地域には、より多くの物資が届き、より多くの対外交流の機会が得られるため、より大きな発展が望めるからです。中国には、「豊かになるためにはまず道を直さなければいけない」という、交通の重要性をあらわす言葉があります。この言葉は、近代化発展期における社会発展に対する交通システムの重要性を典型的に表しています。しかし、この時期には、いくらかの複線工事が行われただけで、華北地域の鉄道建設は少なかったといえます。国家経済は貧困状態にあり、大規模な鉄道建設を行う力はありませんでした。「文革」期には、武力闘争によって多くの鉄道が運行停止に追い込まれ、経済発展に不利な影響をもたらしました。

第2个是中国外向型工业发展的的问题。大家都看得很清楚。可以说1840年之后一直到今天,中国的近代化进程是在外向型经济推动展开的,对中国的经济发展可以说至关重要。世界各国的初期近代化历程都是如此。英国、日本等等。这种外向型经济对于中国经济的决定性作用,其实从清末民初到今天都是一样的。所以说,中国东部有港口的地方是最发达的,这也是必然。这是现代化初期落后国家融入世界经济时必有的一个现象。

2つ目は、外向型工業発展の問題です。みなさんもはっきりおわかりだと思います。1840年以降今日まで、中国の近代化は外向型経済により推進されたもので、中国の経済発展にとって重要なものであるといえます。イギリスや日本など、世界各国の初期の近代化のプロセスはみなこのようなものでした。こうした外向型経済の中国経済に対する決定的な作用は、清末民初から今日までずっと同じです。それゆえ中国東部の港のある地域が最も発展しています。これも必然です。これは、現代化初期の後進国家が世界経済に組み込まれる際の必然的な現象です。

第3个问题是怎么理解中日关系。从革命观的模式去理解还是从近代化的模式去理解,是一个关键性的不同。我觉得中日关系这个问题太复杂了。也好象不是我今天报告题目的重点所在,不容易回答的问题。但我觉得,只要中日之间经济互补能够持续发展的话,只要日中两国人民及文化间的交流持续下去的话,我想中日关系也不会坏到哪里去的。

最後の問題は、日中関係をどう理解するかでした。革命モデルで理解するか、近代化モデルで理解するか、これはポイントの違いです。日中関係の問題は大変複雑だと思います。これは、私の今日の報告の論点ではありませんし、簡単にお答えできるような問題でもありません。ただ、日中間の経済の相互補完関係が継続して発展し、日中両国の人民および文化の交流が続いていけば、日中関係も極端に悪くなるようなことはないと思います。

馬曉華報告について

ディスカッサントの問題提起(山田康博)

馬先生のご報告は、アメリカの活字メディアの世界で大きな影響力をもっていたヘンリー・ルースが、1930年代から1940年代にかけてどのような中国のイメージをアメリカ人に伝えようとしたのかを見ることを通じて、1930年代から1940年代にかけてアメリカ人が中国についてもっていたイメージの一端を明らかにしてくださいました。なかでも、雑誌『Time』の表紙に国民党の蒋介石が何度も登場したことや、訪米した蒋介石の夫人がいかに強くアメリカ人を魅了し、国民党に対するアメリカ人のイメージをよいものにしたということなどが、一次資料に基づいて論じられていることがとても印象的でした。

さて、そのような中国に対してアメリカ人がかつてもっていたイメージは、現在とこれからの米中関係を考える上で、どのような意味をもっているのでしょうか、どのような「歴史の教訓」を私たちは学ぶべきなのでしょうか。

まず第一に、1930年代から1940年代に中国に対してアメリカ人がもっていたイメージは、歴史的にどのように位置づけられるでしょうか。1940年代にアメリカ人が中国についてもっていたイメージが、その後どのような変化をたどって現在のアメリカ人がもっている中国についてのイメージになっていったのでしょうか。過去においてアメリカ人の多くが蒋介石や彼が率いた国民党に対してもっていたイメージは、現在のアメリカ人がもっている中国についてのイメージと似ているのでしょうか、それとももはや大きく異なったものになってしまっているのでしょうか。大きく異なったものになってしまってはいるものの、蒋介石と国民党が支配する中国について形成されたイメージは、健在もアメリカ人の中国イメージのなかに変わらずに存在しその基礎となりつづけているし、将来もアメリカ人の中国イメージの基礎となりつづけるものなのでしょうか。このような疑問がでてまいりました。

そしてこれらの疑問に関連した問題として、第二に、中国に対してアメリカ人がかつてもっていたイメージは、現在とこれからの米中関係にどのような影響を与えるものなのだろうか、という疑問も浮かんでまいります。この第二の問題を考えるにあたって私は、20年ほど前に国際政治の研究者のなかで流行った議論をここで持ち出してみようと思います。古い革袋を持ち出してそれに新しい酒を注いでみようか、というわけです。

その古臭い議論とは、アメリカの「覇権」の衰退をめぐる議論でした。国際関係におけるアメリカの力の相対的な低下が顕著となった1980年代に、アメリカの「覇権」の衰退が問題となりました。冷戦は80年代に再び厳しいものとなり、米ソ間の対立がアメリカの制御を超えてしまい、ソ連との間にヨーロッパを舞台とする核戦争がはじまるのではないかとの懸念すら強くなったのが、1980年代の前半でした。またアメリカが1970年代後半からインフレと失業の増加に見舞われる一方で、1980年代の前半には日本が自動車産業などにおいてアメリカを凌駕するかのような勢いをみせました。アメリカの「覇権」が衰退しつつあると指摘され、アメリカの「覇権」の衰退がどのような意味をもち、それにどう対処すべきなのかが活発に議論されたものでした。例えば、1981年にはロバート・ギルピンが『国際政治における戦争と変革』という本を出版し、ロバート・コヘインの『覇権後』やジョージ・モデルスキーが「覇権循環論」を論じた書もこの頃出版されました。さらには、ポール・ケネディの『大国の興亡』(1988年)も、広く読まれました。日本では、新人国会議員ではありながら先日早くも大臣に就任した猪口邦子が、新進気鋭の国際政治学者として『ポスト覇権システムと日本の選択』という本を1987年に出版しています。(注:Robert Gilpin, War and Change in World Politics (Cambridge: Cambridge University Press, 1981); Robert O. Keohane, After Hegemony: Cooperation and Discord in the World Political Economy (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1984).ジョージ・モデルスキー『世界システムの動態-世界政治の長期サイクル』浦野起央・信夫隆司訳、晃洋書房、1991年。ポール・ケネディ『大国の興亡』上・下、鈴木主税訳、草思社、1988年。猪口邦子『ポスト覇権システムと日本の選択』筑摩書房、1987年。)

1980年代に流行ったアメリカの「覇権」の衰退をめぐる議論が今日その重要性をどれほどもっているのか、と疑問に思われる方も多いと思います。なぜなら、今日問題とされているのは、アメリカの「覇権」の衰退ではなく、イラク侵略が象徴するようなアメリカの「覇権」の過剰であるからです。そのうえ、1980年代にアメリカの「覇権」の衰退が問題となった国際状況と、現在の国際状況やアメリカの経済状況は大きく異なってもいるからです。もう何年も前に冷戦は終わり、いまやアメリカの軍事力に対抗できる国はなく、日本の経済的な停滞が続く一方でアメリカの経済力は世界で揺るぎない地位を占めています。しかし、将来アメリカの「覇権」を脅かすであろう潜在的「挑戦者」として中国をみることができます。中国をアメリカに対する「挑戦者」としてみるとき、アメリカの「覇権」の衰退をめぐって1980年代に行われた議論が、現在と将来の米中関係を理解するうえで、なんらかの役に立つのではないかと考えるのです。

アメリカの「覇権」の衰退をめぐるかつての議論は、「覇権」が永久に続くものではないことを指摘していました。国際秩序を維持していくために「覇権国」は、いわば秩序の管理者として秩序を維持していくコストを大きく負担してきました。そのような秩序を維持していくコストの代表的なものは、軍事力の維持や軍事力の使用です。歴史的に見ると「覇権国」は、国際秩序を維持していくコストを永久に負担することができず、やがて「覇権国」の覇権は衰退し、別の国に「覇権国」の座を譲ってきました。近代世界では、ポルトガルからオランダへと「覇権国」が交替し、ついでオランダからイギリスへと「覇権国」が移り、そしてイギリスからアメリカへの「覇権国」の交替が行なわれてきたとみることができます。

そしてアメリカの「覇権」の衰退をめぐるかつての議論は、「覇権」が衰退する時期には国際秩序が不安定化すること、そして戦争が「覇権国」の交替を決定づけてきたという近代世界史の特徴を指摘していました。ポルトガルからオランダへ、ついでオランダからイギリスへ、そしてイギリスからアメリカへと「覇権国」が代わっていきましたが、これらの「覇権国」の交替を決定づけたのは戦争でした。「覇権国」が交替したいずれの場合も、当時の「覇権国」とそれに挑んだ「挑戦者」との間で戦争が戦われました。しかしその戦争の結果「覇権」を継承したのは「挑戦者」ではなく別の国でした。

さて、中国がグローバルな大国への道を進んでいることは、まちがいないでしょう。将来中国がグローバルな大国として行動し始めたとき、中国とアメリカの間で「覇権国」の交替をめざして対決する戦争が戦われることになるのでしょうか。それともアメリカは、中国を自らと同じような地位に立つ国として受け入れることができるでしょうか。アメリカの中国に対する対応は、中国についてアメリカがもつイメージによって大きく左右されることにるでしょう。もしアメリカが、中国をアメリカの「覇権」に対する「挑戦者」だとみなして対抗していくことになれば、米中間の対立を助長してしまうでしょう。逆にアメリカが、かつてイギリスにとってのアメリカがそうであったように、中国をアメリカの「覇権」を支える協力者であり、やがてはアメリカの次の「覇権国」となる存在だとみなすならば、米中両国は「覇権国」のスムーズな交替に共通の利益を見いだすことになるでしょう。たとえ「覇権国」の座を中国にゆずることがアメリカにとって大きな苦痛をともなうことだったとしても、アメリカがそれを受け入れることが必要となる日が将来くるかもしれません。

過去15年間にアメリカが中国に対してどのような政策をとってきたのかを振り返ってみると、アメリカは中国を協力者としてもまた競争相手としても見てきたことがわかります。

1990年代にアメリカのクリントン政権は、「関与と拡大」を外交目標として掲げました。同政権は対中外交の目標を、中国国内の人権状況の改善と中国による国際経済枠組みへの関与であるとして、世界貿易機関(WTO)への中国の加盟を促しました。中国は、1997年に「国際人権規約」の「社会権規約(A規約)」に署名し(2001年に批准)、1998年には「国際人権規約」の「自由権規約(B規約)」に署名する(未批准)などして、一定程度の人権状況の改善を進めます。また、2001年12月には世界貿易機関(WTO)へ正式加盟し、重要な国際経済枠組みに加わりました。1990年代のアメリカの対中外交の目標は、不完全ながらも達成されたわけです。

2001年に発足したブッシュ(子)政権は、中国に対して協調関係を求めつつも中国を競争者とみなして警戒もしています。2001年9月の同時多発テロ後は反テロを共通の目標として、アメリカと中国の協調関係が進みました。2002年2月にはブッシュ(子)大統領が訪中し、米中間に「建設的な関係」を築くことを表明しました。今年2005年9月にニューヨークで行なわれた米中首脳会談では、米中両国が協調していく方針が確認されています。また、今月にはブッシュ大統領の訪中が予定されており、米中首脳外交は非常に活発です。

他方では、アメリカにとって中国が経済的な脅威および軍事的な脅威であるという警戒感も、ブッシュ(子)政権は持ちつづけています。今年7月には人民元が切り上げられましたが、アメリカの対中貿易赤字は巨額で、アメリカの貿易赤字の最も多くの部分が対中貿易から生まれています。また今年2005年10月に北京を訪問したラムズフェルド国防長官は、中国の国防費の拡大(中国政府が公式発表している数字では17年連続で前年比10%以上の伸び)と国防費の不透明性に懸念を表明しました。2001年12月にアメリカはABM制限条約から離脱を表明し(正式の離脱は2002年6月)「ミサイル防衛」を推進していますが、その目的の一つが中国の核ミサイルに対する防衛手段の獲得であることは公然たる事実です。

今後のアメリカが中国を「挑戦者」だとみなすかそれとも協力者であるとみなすかによって、米中関係は大きく変わってくるでしょう。そして米中関係のありかたが日本にも大きくかかわっており、日本がその米中関係のありかたにどのように関わっていくのかいうことが、今後のアジアや世界の姿に大きな影響を与えるということを指摘して、私のコメントを終わりにしたいと思います。

報告者のリプライ

山田先生、どうもご指摘いろいろありがとうございました。非常に重要な問題を提示していただきまして、感謝しております。簡単に説明をさせていただきます。またお答えできないところもありますのでご了承お願いします。

まずメディアの役割についてお話させていただきます。イメージをどのように理解するのかということは非常に難しい問題です。というのは、人間自体が変わるものですので、変わらないということまず有り得ないのです。どのように変わるか、どのような方向へ変わるか、これは非常に大きな問題です。つまり私達はどのような目的でイメージを作ることかによるのです。例えば第二次世界大戦中に中国を売り出す、そのために中国を一生懸命宣伝する。しかしながら、この場合でも中国を全面的に支援するわけではないのです。国民政府の親アメリカ的な政権を応援して、一方的に共産主義を批判するという姿勢を出してしまえば、アメリカの対中政策の一端が分かります。その後、もちろんアメリカの中国イメージは変化します。50年代、60年代、70年代は対立時代であり、実際に国交正常化される1979年までは、米中間にはほとんど実際的な関係は存在しませんでした。その後両国の関係は変化し、友になったり敵になったり、また友になったり、という時期がありました。今後この二つの国、特に中国の台頭に対応して、この関係がどのように変わっていくか、これは極めて重要な問題であると考えています。

そしてもう一点。イメージというのは、先ほど申し上げましたように、どのような目的で作られるかということは、国際政治に非常に大きな影響を与えます。例えばいま、日中関係は非常に難しい問題に直面しています。しかしメディアのことを考えれば、中国のことをもう少し多面的に見ることができれば日本から見ても意外に理解しやすい面があります。デモのことばかりを取りあげてしまえば、中国人はみんな「反日」ということになってしまい、その結果、日中関係に好ましくない影響を与えることになってしまいます。そういう意味でイメージ、世論というものは非常に大切な問題として注目しなければならないのです。現在の米中関係についても、やはり私はこのような側面があると考えています。第二次世界大戦のイメージにこだわるアメリカ人がいるのではないか、つまり中国に対して「脅威」「脅威」ばかり言うのは、つまり「信頼できない」という発想に基づいてのものではないかということです。しかしながらこれはイデオロギーの問題です。社会システムが違う国とどのように付き合っていくかという問題は日本に限ったことではありません。このことはアメリカ、さらには世界中の国にとって非常に大きな問題です。例えば日本とアメリカの関係は非常に安定しています。韓国とアメリカとの関係も安定しています。そして日本も韓国もどちらのアメリカの従属的な同盟国であり、アメリカとの関係は平等ではありません。一方、中国とアメリカとの関係について言えば、もし中国がいつかアメリカを追い越したとき、この二つの大国は対等に付き合うことができるかも知れません。とは言え現在までの両国の関係はこのようなものではありませんしこれまで歴史上なかったことです。ならば、このことをどのように捉え、両国がいかにして協力しながら共存しえるのか、これは国際政治に与えられた一つの挑戦ではないかと思います。

次に、覇権の崩壊に対して国際システム全体が変わるかどうか、そしてもし変わるとすれば戦争があるかどうかということですが、これは非常に難しい問題です。確かに過去2世紀の歴史は覇権の交替で、必ず戦争が起こります。第一次世界大戦、第二次世界大戦を想起すると、戦争は起こると考えなければなりません。私たちはいま平和な世界を作るために努力していますが、衝突が存在しないわけではありません。とすれば、実際に衝突が起こったときそれをどのような方法で解決するか、このことがキーポイントです。回避することができるのかできないか、新しい可能性はないのか、という問題です。それは国際政治そのものが今後どのように変わっていくかという問題なのかも知れません。歴史家の場合、将来を展望することは非常に困難です。いずれにしても衝突を避ける姿勢を保ちながら、米中両国がお互いを理解し協力することが重要だと考えます。

第三点について。軍事力を行使するかどうかですが、当然大きな脅威を受ければ軍事力は行使されるでしょう。しかしながら今日の国際政治を考えれば、それが回避されるに越したことはありません。今後、米中間の戦争があるかないないかについて、誰も正確な解答を出すことはできません。私はおそらくないと考えますが、もしあるとすればそれは台湾問題でしょう。この意味では、第二次世界大戦のイメージがアメリカの国内政治、そして現在の国際政治に大きな陰を落としてるのではないかと考えます。台湾問題は、現在まで米中間で容易に調整できない問題です。今後お互いの協議を経てどのようにこの問題を解決していくのかを注視したいと思います。これ以外の問題で両者の衝突があるとすれば、それは経済や文化をめぐるさまざまな問題に起因する衝突でしょうか。いずれにしても、お互いが話し合い共存していく道を見つけてほしいと思います。

現在、米中の関係は、日本を含めて非常に緊密化しています。例えばアメリカ企業で最近5年間か10年の間で一番利益をあげている会社は小売業のウォルマートです。ウォールマートは全米で成長の速度が最も速い会社の一つであり、世界中で150万人もの人々を雇っていますが、この会社の9割の製品を中国に依存しています。まさしく中米の相互依存です。モルガン・スタンリーというアメリカの一番大きい投資会社の統計によると、中国の経済成長のおかげでアメリカ人は毎年6000億ドルもの資金が節約できています。日本の場合、学生にとても人気があるユニクロという会社は最近急成長しましたが、この会社も中国に大きく依存しています。たしかにアメリカや日本と中国との間にはさまざまな衝突局面が存在していますが、同時に緊密な共存関係も存在しているのです。この共存関係、お互いに利益を得るダブル・ウィンの関係に注目し、どのようにすれば安定的関係が構築できるのかを考えて行きたいと思います。このことは米中関係だけではなく、世界中の多くの人々の利益に適うことなのではないでしょうか。

山田先生から中国の軍事費についてのご質問がありました。アメリカは中国の軍事費の不透明性をいつも非難しています。中国の経済成長率は毎年10%か9%での成長であり、軍事費も10%ぐらい伸びています。とは言え、中国の軍事費はアメリカのそれに比べるとまだ非常に小さな額に止まっています。第二次世界大戦期の蒋介石に対して、当時のアメリカの世論は中国の民主化の可能性と中国そのものを過大評価する傾向がありました。現在、中国の軍事費の不透明性を非難しているアメリカ政府も、中国の実際の軍事力をいささか過大評価しているのではないでしょうか。このような意味で、アメリカはまず中国を冷静に分析し、その上で今後どういう風に付き合うべきかを考える必要があるのと思います。どうもありがとうございました。

紀宝坤報告について

ディスカッサントの問題提起(宮原曉)

このシンポジウムに提出したペーパーは、執筆者名にあるように紀先生と私が共同で執筆したものです。はじめに紀先生から頂いたキーワードを、宮原が文章に膨らませております。従って細部に関して、いくつかの点で紀先生のお考えと文章がずれる箇所がございます。こうしたずれを確認するということから、コメントさせて頂きたいと思います。

第一点めは、日中文化交流史の中でのクレオールの役割です。文化的に日本と中国の両方の文化を背負っている人たちはどのような形で日中文化交流の中で役割を果たすかという点について、論文の中には例が出ていますが、その辺のお話を少し紹介していただきたいと思います。また、かつて蘇曼珠が果たしたクレオールとしての役割はそれ程大きくなかったと言えますが、今日のクレオールが果たす役割についてはいかがでしょうか。この開場には、日本に留学に来られている中国人の方など、ある意味で日本と中国の両方の文化を背負っておられる方が多々おられますが、そうした人々が日中関係に果たす役割というのはどういうものなのか、コメントいただけたらと思います。

第二点目は、これも時間の関係で触れられなかったのだと思いますが、「日中関係における日本の逸脱」という部分が論文についてです。紀先生から「逸脱の50年」というキーワードを頂きまして、私はどういう風に考えたらいいのかとたいへん迷いました。そこで私は、逸脱の50年は、2千年の日中交流史の本質からの逸脱と考えました。この50年の逸脱は、それまでの日中関係が内在的にもっていた性格から派生したものではなく、外在的な要因が大きく関与していると考えたわけです。この見方が当たっているかはわかりません。皆さんでご議論いただいたらとも思いますが、なぜこの逸脱が起こったのか、外在する要因、内在する要因は何であったのか。そしてなぜ50年にも及んだのか、この点について紀先生のお考えをお聞かせいただければと思います。

第三点目は、プレゼンテーションの一番最後のところで言及された「文明の衝突」についてです。この点がおそらく紀先生の一番おっしゃりたかったポイントだと思いますが、論文の最後の部分をご覧になるとお分かりの通り、私が文章にしたことと、紀先生のご発表はかなりずれております。とは言え、多少重なる部分もあって、その部分からお話したいと思いますが、紀先生のお話の中で、日本と中国という別々の文明が衝突するのか、あるいは日本は中国の文明の中にあって、中国文明の一部として、例えばアメリカといった別の文明とぶつかるのか、というお話がありました。ここで「文明」という見方自体が正しいかどうかという問題もありますが、いずれにしても文化システムとしての中国ということを考えてみないわけにはいかないだろうと思います。

文化システムに関する私の考え、と申しますか台湾の研究者の考えについては、ディスカッサントのコメントの後半部分に掲載しております。この文化システムは、政治システムや経済システムを取り込むような大きなものだと思いますが、紀先生のイメージする文化システムはどういったものなのか、先生がご提示になったキーワードを手がかりにお教えいただければと思います。

中国の文化システムに関して紀先生から頂いていたキーワードの一つは、「天命」です。マルクス・レーニン・マオイズムの凋落後、中国共産党はその正統性を確保するために上位のイデオロギーを必要とするようになったと紀先生はお考えのようで、私はここに中国においてナショナリズムが再び高揚してくる理由があると書きましたが、紀先生はここでの正統性を「天命」という大変興味深いことばで表現されています。この点を少し補足説明していただければと思います。

次に中国と周辺との関係を考えるうえで、現代版の華夷思想ということを考えてみることができるかもしれません。かつて日本は中華の周辺の「蕃」であったわけですが、今日の中国文明を考える上で、中華と周辺の蛮のリニューアルがどう見られるかお考えをお聞かせいただきたいと思います。

この点に関連して、ちょうど昨日、新聞に北京原人の話が出ておりました。いま中国では、北京原人が日本人に盗まれて皇居の下に眠っているという説が流布していて、中国政府が抗議しているという記事です。北京原人の時代に、「中国人」という概念があったとは思えませんが、現在中国のナショナリズムにとって、北京原人は象徴的な意味を持っていることは想像に難くありません。この北京原人が中国の文化システムにどのような意味を持つのかということもご議論いただければと思います。

先ほど山田先生からヘゲモニーについてのお話がありました。言うまでもなくヘゲモニーというのは、西欧近代的な概念です。そうした西欧近代起源の概念で中国の現在の政治や文化システムを論ずるのは、それ自体どの程度の正当性を持つものなのでしょうか。つまり我々は「中国が台頭してきている」「ヘゲモニーを握ろうとしてきている」というようなことを言ったりしていますが、それはアメリカ的な視点から言うとヘゲモニーということになろうかと思いますが、果たして別の解釈はないだろうかということです。この点について、もしお考えがあればお話いただければと思います。

最後に、やはりこれだけはお聞きしておかなければならないと思うのですが、ノーコメントと仰られた「靖国問題」です。政治的な側面と感情的な側面は区別する必要がありますが、政治的な側面に限って言えば、もちろん中国は批判していますが、台湾は「靖国公式参拝」を歓迎していたりもします。こうした点に触れないのも中国の文化かなと思いますが、もし、言うとしたら、どこまで言うことができるのか、その辺をやはりお聞きしておきたいと思います。

報告者のリプライ

Professor Miyahara has asked some very difficult questions. I counted five or six. I'll take them in turn. The first question is about Chinese-Japanese hybridity or creolization. Miayahara-sensei asks whether I could further comment on that. I'll make a couple of comments about Chinese-Japanese hybridity. Hybridity is a term used in botany when plants are mixed and you may get a nicer flower. I guess Miyahara-sensei is referring to Japanese-Chinese intermarriages and children as products of Chinese-Japanese intermarriages. Two points can be made. Miyahara-sensei mentioned that in my earlier discussion with him, I referred to some examples of early hybridity. In the late nineteenth century and early twentieth century, a number of Chinese who came to Japan to study or gain new ideas, ended up marrying Japanese, mostly women. There were mainly Chinese men marrying Japanese women. There were some very famous examples. One very special one was the writer and a poet, Su Manshu (蘇曼殊), who came here partly because his mother was Japanese and his father a Cantonese trader. He subsequently became a Buddhist monk and wrote many well-known poems. Interestingly, he died quite young and according to some accounts, in an eating competition of Chinese buns. He vastly over ate and died. A number of people have commented on those early Chinese-Japanese intermarriages.

The other widely known example is Lu Xun's (魯迅)younger brother who also came to Japan and later married a Japanese woman. Some writers observed that in most of those early cases of Chinese men marrying Japanese women, there appeared to be a class factor at work. The Japanese women who married Chinese men tended to come from what some would call a lower class background. Su Manshu's mother is believed to be a maid of his merchant father and I understand Lu Xun's younger brother's Japanese wife was also a servant girl. Observers have noted that in those early examples of close Japanese-Chinese contacts there was another aspect of the important class factor. The so-called lower class and upper-class seemed to get along very well with the Chinese. People who were friendly to the Chinese students, often were upper-class Japanese families and lower class Japanese women. The products of intermarriage were in many cases unhappy. Lu Xun himself did not get along with his younger brother's Japanese wife. He wrote openly about the problems between the two of them.

We are now witnessing a modern China and a modern Japan. There is a large number of Chinese in Japan, and even more Japanese travel overseas. The incidence of Chinese-Japanese intermarriages has become higher also. But unfortunately, I think we are not seeing any major positive impacts on China-Japan relations as yet. The rare exceptions are some prominent people, like Kaneshiro Takeshi, son of a Taiwanese mother and Japanese father and fully bicultural. There are a few others who became famous because of their good looks, interesting backgrounds, and some have become popular as actors, singers and in other fields of popular culture and entertainment.

In my view there are several structural barriers. One problem is Japan's reluctance to grant dual nationality. When a child of a mixed marriage reaches 21 years of age, he or she has to make a decision about whether to pick the Japanese or other nationality. In many countries, dual citizenship is possible. I think in those societies, often multicultural societies, hybridity has been able to function more effectively. So there is one comment.

Miyahara-sensei questioned my comment about aberrations in China-Japan relations, in particular the fifty years that seemed to have spoiled 2,000 years of good relationship. Why fifty years? Fifty years was simply the period of Japanese expansion into China, meaning 1894 to 1946, a period when Japan and China were at war. Fifty years of war. But perhaps the impact is longer than fifty years. The many problems that we are seeing now, I think, are inherited from that period of fifty years when Japan occupied parts of China.

Lee Kuan Yew, the former Prime Minster of Singapore was recently reported as having said the following when he was interviewed by a Western journalist. They ask him for his comments about the future of East Asia, in particular, Japan and China. Lee Kuan Yew is said to have replied to this effect. Should Japan be involved in a China-Taiwan war, and America comes in because America has to come in. If Japan is intentionally or unintentionally drawn into the Taiwan Strait conflict, China in war with Taiwan, supported by the US and Japan, China would shake hands with America twenty years after the war. However, China is unlikely to shake hands with Japan for another 100 years. Lee Kuan Yew added that this observation was made to him by a senior Japanese politician. Lee didn't say who that was. This highlights the antagonism, the very unique relationship between Japan and China.

And as I have tried to explain, it has to do with China's concept of nationhood and Chinese nationalism, an aggrieved form of nationalism. Japan has somehow grieved China more, hurt China more, than say another colonial aggressor, the British who were very ruthless and staged the Opium War on China. The Chinese difficulty with Japan is due partly to culture affinity. The Chinese see Japan as having benefited from China culturally and its aggression on China is all the more unforgivable because of this perceived cultural debt.

This brings me to the question of supposed clashes of civilization. We used this concept often in our teaching because Samuel Huntington, the very influential American public figure, popularized this idea in writings even before September 11. And then 2001 September 11, and leading American commentators were happy to claim that Huntington was right all along. The end of the Cold War has eroded the influence of political ideology. It is civilizations that are important. He attempted to map the major civilizations of the world: the Christian civilization of Europe, Islamic civilization of the Middle East, Hindu civilization of South Asia, and Sinic civilization of East Asia. “Sinic” is from Latin, meaning Chinese. And this is where his categorization becomes a bit ambiguous. He believed that Korea and Vietnam could come under the Sinic civilization but did not think Japan is part of it. He described Japan as a distinctive civilization. One of the reasons he used for defining Japanese as distinctive has to do with Shintoism. He considered Islam, Christianity, Buddhism, as world religions or potentially could become world religions. You know, an African can be a Buddhist. The Hollywood actor Richard Gere is supposedly a famous Tibetan Buddhist. Christianity is everywhere. But Shintoism cannot be easily transported outside Japan. Shintoism or its symbolisms are closely related to the land, the village, or even trees that grow around the shrine. A Shintoist has to be in Japan. You cannot really be a good Shinto priest if you live in San Francisco or New York. Huntington used this as one of his classification criteria.

The other reason for classifying Japan as a distinct civilization is what Huntington claimed as Japan's unique sense of self. Whereas the Chinese civilization is a civilization defined by values and practices, you know, anyone can be a Confucian, and that's why Vietnamese are very good Confucian and Koreans are very good Confucian. But here in Japan, it's hard to be a good Japanese if you are not born here, and if you don't grow up here. Look at the Nikeijin for example. They are racially, ethnically Japanese but they come here from South America, they are as a consequence not quite Japanese. There is something that sets them apart. Those reasons let Samuel Huntington to consider Japan as a distinctive civilization. He did not think in the post-Cold War era, civilizations would come together. He did not think Japan will be part of the Sinic civilization. He actually concluded with a warning for Japan. He argued that only major or large civilizations would prosper in future. With a population of just over 120 million and shrinking, some demographers are projecting Japan to have about 100 Japanese left in another 500 years if fertility decline continues. You know, it's a mess, and a warning message to Japan. If one were to believe in the importance of a large and growing civilization (as some alarmist are seeing in the alleged influence of Islam), then there is a case for re-constructing or reclaiming the shared cultural heritage of China and Japan.

The fourth question is about “Tien Ming”(天命), which is a Chinese concept translated into English as Mandate of Heaven. I used Mandate of Heaven (Tien Ming), in my discussion about why nationalism has become, in some way, more important in China now. The argument has to do with the erosion of Communism, the spread of the Internet, growth of the Middle Class, and the view that the Chinese Communist Party is threatened. It is about how the Communist Party in China can continue to claim legitimacy, the right to rule China as a one-party state. In the past, the Emperor claimed there was a Tien Ming, a mandate to rule from Heaven or God. The Communist Party can claim that it has Tien Ming, Mandate of Heaven, because it has the truth, it has the knowledge, wisdom and experience to know what is best for the Chinese people, for China. To do that China has to galvanize, has to unite the rather diverse 1.3 billion Chinese. Often, a common target of attention, a common enemy would unite large numbers of people. An example is the anger directed at Yasukuni or history textbooks. The ability to move and unit a large and diverse nation is one way that the Communist Party can continue to assert its influence over China. It shows that the government has a certain position and this position is the one best for China. It is a complicated argument but there is a suggestion that the Chinese government is fearful of the Internet, is fearful about regional autonomy, and is desperate to have the truth and be able to claim to have the truth. The age-old Mandate of Heaven has come back as a relevant concept for understanding the behavior of the Chinese government and its response to Japan.

Miyahara-sensei asked about Yasukuni, which I avoided commenting several times. The question is difficult. There are for example arguments about culture differences. It is hard to deal with cultural explanations of differences on the subject. I personally believe that politicians should refrain from going because they are public figures, namely ministers or members of parliament. Even if they go as private citizens, as Prime Minister Koizumi seemed to try to emphasize when television footage showed him slowly taking a coin from his trouser pocket, his own money, and putting it in the shrine donation box. This image is not seen outside of Japan as Koizumi, a private citizen, paying respects. He is seen as Koizumi, Prime Minister of Japan, a country that invaded China, Korea and other Asian countries. There are debates about a separate place of worship for the dead. I would certainly support a separate place of worship because if you think of the millions of Japanese whose lives could have been saved had the war not been fought or had the war ended sooner. There is a widely held belief that Japanese leaders had known they were going to lose the war but continued the fighting. The Japanese civilian victims are being enshrined at Yasukuni with Class-A War Criminals who were responsible for their sufferings and death. How could the victims rest in peace at Yasukuni where a small number of militarists responsible for their deaths are also being enshrined? This is my rather uncomfortable analysis of the Yasukuni issue.

Some people have attempted to draw lessons from the German experience. I tried to look at this in the paper presented here but it didn't go very far. A big distinction between European Nazism and Japanese Militarism is that at the end of the war in Europe, there was a closure, a clean-cut accountability. The Nazis were openly condemned as evil. In Japan, um, there has not been any clear resolution and the history has partly continued to this day. I think, the longer it lives on, the more complicated it becomes. In hindsight, it was a wrong turn to take after the war. However, many problems relating to Japan and China are determined or influenced by a third player, America. We all know about the American role in the trial or non-trial of the people responsible for the Pacific War. That is my reply to Miyahara-sensei.

There was a question about hegemony also and I did not quite understand that one. Uh huh. Yes. Yes. Some people actually use the word on China. They say China is intent on a Chinese Hegemony. I think there is a difference in my understanding of the word. ‘Hegemony' as used in the West has many senses. It could mean moral leadership, having the truth, having democratic values, having military might, or being powerful economically. If China does have hegemonic intent, it is probably best understood in the context of its historic influence. In the past, many countries in Asia, especially South-East Asia and Korea came under the Chinese “sphere of influence”. It was China's perceived place as The Middle Kingdom. It was a tribute relationship, not political or economic subjugation. It certainly was not a matter of military occupation. The countries in a tributary relationship with Imperial China were expected to acknowledge China's civilization strength. All they needed to do was, at given times, paid homage to the Chinese court, bringing as many gifts as possible. And that was it. Where I come from Malaysia, its state Malacca, maintained a very close tribute relationship with China. The Chinese actually responded by marrying a Chinese princess to the Malay ruler of Malacca. It was almost a mutually respectful relationship - if you acknowledge my civilization's power, in return I give you my daughter. This is not hegemony in the sense of dominance or coercion in international relations, not in the language of single polar, bipolar or multi-polar leadership. And when China does become very powerful, with reliable rockets and so forth, there is a danger that Chinese leaders may get carried away by their strength, by their influence. If that happens, I think it would be very unfortunate. Some people critical of China point to its armed conflicts with the former Soviet Union, its brief incursions into Vietnam and India during border clashes. But if you look at Russia and India, China has in recent times agreed to give up large areas of what the Chinese used to claim as their territory for the sake of improving bilateral ties with these countries, or in the case of Russia for its energy supply and coalition against the United States. So even in that aspect, China has been quite flexible and different from the Bush Administration's unilateralism and one-polar, hegemonic approach to international relations.

Those are my comments. Thank you very much.

自由討論

「中国」の台頭をどう見るか

【許衛東(司会)】 どうもありがとうございました。 自由討論に移りたいと思います。フロアの参加者の皆さんから、江先生のご報告、馬先生のご報告、あるいは紀先生のご報告に対してご質問をお出しください。それではどうぞ。

【学生】 学部生です。二つほどお尋ねします。最近中国の台頭ということが20世紀の終わりから今世紀に入って叫ばれるようになっています。この台頭にをめぐって、日本では、脅威論とか、警戒論とか、あるいはこれを好機として捉えるというような様々な意見が出ています。この中国の台頭については政治面・軍事面・経済面などを総合的に理解する必要があると考えますが、これをもたらした究極の原因は何でしょうか? これが第一の質問です。もう一つは、この中国の台頭に対して中国でどのように捉えているか、また中国人としてこのことをどのようにお考えかについて、ご教示いただきたいと思います。

【許】 馬先生でしょうか、あるいは紀先生でも結構です。

【馬】 ご質問ありがとうございました。すべてにお答えすることはできませんがご了承ください。第一の問題に関して、私は経済学者ではありませんので、経済学の視点で考えることは困難です。歴史的な視点から見れば、なぜ中国は1970年代の末頃から発展してきたのでしょうか。私は、中国の改革開放政策は20世紀の経験、すなわち社会主義体制、旧ソ連や東ヨーロッパが経済的に破綻しやがて崩壊するという事情を見、そのことに対するある種の反省から出発したのではないかと考えます。この意味で、中国は国際社会との関係をとり結びながら、その一方で自らの体制を現在も堅持しています。この意味で私は、中国の経済発展に積極的評価を与えることができると考えます。とりわけ中国独自の構想には、おそらく他の国に全く前例のないものが存在します。例えば香港での一国二制度で、これは非常にユニークなものです。それまでの国際政治において一つの国家には一つのシステムしが存在しませんでしたし、それが当たり前でした。これに対して中国が香港で採用した一国二制度というシステムは、中国の経済発展に非常に大きく寄与するものでした。

このことはまた、今後米中が衝突するか否かという点について考える際にも示唆するところがあるのではないでしょうか。これまで私たちが国際政治を捉える場合、あくまでヨーロッパ中心的な発想で考えてきました。日本の近代化しかり、韓国の成長しかりです。ただこのような発想で20世紀、そして21世紀を考えることが妥当であるのかどうか、このことについてはもう一度でしっかりと考え直してみてもよいのかもしれません。そしてこの問題は、国際政治を Nation-state とそれを構成単位とするシステムと捉えることに対してにどのようなスタンスをとるのか、という問題でもあると考えます。

次に中国の台頭と中国の歴史的遺産との関係についてです。私の海外生活が非常に長いので、中国に帰ってその大きな変化に対してとても驚きました。こうした変化は15年前に留学した時には想像すらできないものです。しかし私は、中国の現状を非常に望ましいものであると考えているわけではありません。中国の台頭そのこと自体は決して悪いものではないのですが、それとともに、中国人の国民感情も徐々に変化しつつあります。この変化がどのような方向に向かうのかは、国際社会に大きな影響を与えることになります。例えばそれが中国人の国際社会に対する理解を深める方向に変化するのなら、それは何の問題もありません。逆にそれによって中国人が傲慢になって「中国はナンバーワンである」と考えるようになり、国際政治における実際の地位との間のギャップが大きくなるとすれば、それは憂慮すべき問題です。中国人は冷静に自らの国家と社会国の現状を直視しなければなりません。こうした例として最近の神舟6号の成功と宇宙開発構想をめぐる中国人の感情をあげることができましょう。最近、中国のナショナリズムに非常な高まりがあり、そしてそれは必ずしも健全とは言えない一面が存在しています。現在、中国人は自らの国家の実情を知り、実際に人々の生活がどの程度向上し、自らが国際社会を適切にどれほど理解しえてているのかについていま一度考えてみる必要があるのではないかと感じています。私は、このことが中国が日本やアメリカと共存していく道を見出すことにつながると考えます。

いくつかの問題

【許】 ご質問はありませんか?

【学生】 学部生です。二点あります。第一に先生方のお考えになる日中関係の理想的な姿はどのようなものですか? 第二に、そのような理想的な関係をつくることは可能でしょうか? よろしくお願いします。

【許】 時間の関係もありますので、他の質問者の発言もうかがって、まとめて各先生に回答していただくことにしたいと思います。

【学生】 我是大阪外国语大学博士前期课程的翻译系的学生。我想向江老师请教一两个问题。江老师的这次报告(就是说)仿佛给我带回了在中国学校里历史课堂的那个感觉。给我仿佛带回了的中国的历史课堂里,然后唤起了我《暗香魂・追旅思》的情景。那个下面的我请教一两个问题。第一个是老师在那个报告里说的这些问题啊,是否可以理解成他可以说明当时的殖民地,殖民体制是有着推动中国经济发展的作用,从而推动中国历史发展的一个作用。再一个问题就是说是因为我当时在高中的时候曾经阅读过一些历史研究的报告,好像是因为,我记不清那个历史学家的名字了。他是一个美国人,他曾经对这个帝国主义瓜分中国的现象,做了一个评价,就是说各国,许多帝国主义瓜分中国呢,他同时遏制了一个帝国主义国家统治以及殖民整个中国的一个作用。这两个问题我想请教老师一下。

大阪外国語大学博士前期過程翻訳コースの学生です。江先生に1、2点お教えいただきたいと思います。江先生の今日の報告を聞いて、私は中国の学校の歴史の授業に戻ったような気持ちでした。中国の歴史の授業に戻ったようで、「黯(あん)たる鄕魂、旅思を追ふ」(範仲淹「蘇幕遮」)の風景を思い起こしました。それでは、1、2点おうかがいします。まず第1に、先生がこの報告でおっしゃったこれらの問題は、次のように理解してよろしいのでしょうか。つまり当時の植民地、殖民地体制には中国の経済発展を推進する作用があり、したがって中国の歴史発展を推進する作用があったということですか。次に、第2の問題です。高校のときに歴史研究の報告を読んだことがあります。その歴史学者の名前はよく覚えていないのですが、著者はアメリカ人でした。彼は、帝国主義による中国分割の現象について、次のように評価していました。つまり、多くの帝国主義が中国を分割したが、それは同時に、一国の帝国主義国家による中国全体の統治や植民地化を抑制した、と。この2つの問題についてご教示ください。

【学生】 馬先生がお示しになった19~20世紀のアメリカの図像を見ても、あるいはアメリカの外交理念を想起しても、今日のアメリカの外交理念とまったく変化がないように思われます。一方、アメリカという国は国内に多様な文化が存在しまさに多民族共生社会であり、「人種のるつぼ」とも呼ばれています。従って多文化共生という考え方も他の国と比べて進んでいると考えることができるように思います。にもかかわらず今日のアメリカの政権、とりわけブッシュの政権の政策からこうしたことをまったく感じることはできません。これはなぜなのでしょうか。

報告者のリプライ

【許】 フロアから出された質問に対して簡単にお答えください。

【江】 我简单地回答这两个问题。第一个问题是说殖民统治体制对中国近代化是不是有推动作用。这个很简单,有。因为关键是评价的立场和标准在哪里。当然殖民统治对另一个国家的主权肯定是有损害的。但另外一个方面,由于当时中国是封建体制,野蛮的殖民体制,同时也带来了近代文明这一种完全崭新的东西,对中国来讲是损害但也是一个发展的机遇,很难从道德的立场来衡量。对此,我觉得中国和日本的观念不同是非常典型的。当年,美国毛利将军登陆日本的静冈海岸,有一个有关此次登陆的纪念碑。上面写的很清楚,毛利将军的登陆是日本近代化的开端,这个评价非常明确。可是在中国,类似事件的评价是完全相反的。中国广州纪念鸦片战争的纪念碑,上面写的是中国近代屈辱历史的开始,没有提一句促进中国近代化的问题。我觉得,从中日两个民族在类似事件上,在遭遇西方的问题上完全截然不同的评价,可以看出此后为什么中国和日本近代化进程走在完全不同的道路上。在这一点上,可能中国的历史包袱更重一点。

簡単にこの2つの問題にお答えします。ひとつ目の問題は、植民地統治に中国近代化を推進する作用があったかどうかという問題です。これはとても簡単です。ありました。肝心なのは、評価する立場や基準をどこに置くかです。もちろん殖民統治は、間違いないなく別の国家の主権を損なうものです。しかし別の面からみると、当時中国は封建体制にあったので、野蛮な殖民体制は同時に近代文明という一種完全に新しいものをもたらしました。中国にとって、それは損なうものではあるけれど、また発展のチャンスでもあったわけです。道徳でこれを理解するのは難しいですが、これに対して中国と日本の考え方の違いは大変典型的だと思います。日本で、当時、アメリカのペリーが上陸した静岡の海岸には、この上陸に関する記念碑が建っています。記念碑には、ペリーの上陸は日本近代化の始まりである、とはっきり書かれていました。評価は大変明確です。しかし中国で、これとよく似た事件に対する評価はまったく逆のものでした。中国広州のアヘン戦争の記念碑には、中国近代の屈辱の歴史の始まりであると書かれ、中国近代化の問題には一言も触れられていません。中日両民族はよく似た事件に対して、つまり西洋に直面して、まったく異なる評価をしました。ここに、なぜ以後の中国と日本が近代化過程においてまったく異なる道を歩んだのかを見いだすことができます。この点において、中国の歴史が内包する悩みはさらに深刻であったといえましょう。

另外一个是说多国体制对于一国政治的控制,我觉得可能是有这方面的原因。好多国家利益不同,其实是互相牵制,谁也不可能最后真正的从中国得到什么东西。

もうひとつは、一国政治に対する多国体制のコントロールについてでした。このような原因があると思います。つまり、多くの国の利益は異なっており、実際はお互いに牽制しあっていました。だれも中国から本当の意味でなにかを得ることはできませんでした。

【馬】 時間の関係がありますので詳しく説明できません。まず日中関係の理想的な姿があるかどうかについてですが、私はないと考えます。個々の人間がいろいろな夢をもつことは当然です。しかし完璧な人間は存在しません。国際関係はこのような人間によって作られたものですから、完璧な人間がいないのと同じように完璧な国際関係も存在することはありえません。たしかに現実を離れて日中関係に対して理想像を描くことはできるかも知れません。ただ過去においても、現在も、そして今後もさまざまな衝突や誤解が存在し、存在するでしょう。私たちにとって重要なことは、このような衝突や誤解をどのように解決して安定した関係を構築していくのかということだと考えます。

次にアメリカの国内政策と対外政策との関係について、私の考えを話します。確かにアメリカは、1960年代以降かなり変化したとは言え一貫して多文化的な国内政策を採用してきました。これに対して対外関係において、とりわけ戦争に対してアメリカはあまり反省するということはなかったのではないでしょうか。例えばベトナム戦争も、また今回のイラク戦争も、基本的にそれらはアメリカ民主主義を世界に拡大するという使命の実現を目的としたものであり,換言すればそれはアメリカ外交の原点でもありました。敗戦後の日本の場合、アメリカによる占領政策の結果、日本はその姿を大きく変えました。現在、日本はアメリカの同盟国ですが、アメリカに対して従属的な立場に置かれています。この点は韓国も同じであり、さらにどちらも民主化に成功しました。これに対して中国の場合、政治システムがアメリカと異なります。異なる政治システムの国家が共存していけるかどうかは今日の国際政治における非常に大きな課題です。このことに関して私は具体的な回答を提出することはできませんが、これは今後私たちが知恵を出しあいともに考えていかなければならない問題だと思います。どうもありがとうございました。

【紀】 I think, what we are doing here today is a very good example of helping improve a relationship between Japan and China. As I mentioned, you know, we probably cannot look to the government to do a great deal. And the non-government's initiatives; prefecture government, academic bodies, NGOs, media and others, I think, you know, will probably be more important in the foreseeable future. Thank you very much.

まとめ

【許】 ありがとうございました。今回の私の役目は司会ですが、たまたま3人の発表者が中国系というバックグラウンドをお持ちであるから司会も中国系でなければならないと言うことではないと思いますが、現在、私が最も関心を寄せている問題のひとつは、やはり昨今の日中関係です。これは非常に重要な問題ですが、私の専攻は経済です。経済の見方からすると、どうしても過去よりも先を見たい、予測したいという性癖があります。少なくとも経済面から見れば、今日の日中経済の相互依存は相当深化しています。とりわけ日本の経済規模と安定的成長の一部分が中国との経済関係において実現されていると言っても過言ではないようです。とすれば、今後、日中の政治関係がさらに複雑化し、そのことが経済にも影響して経済も冷え込むというような事態になれば、例えば一番悪い予測では、日本経済はほぼ毎年0.8%、あるいは1%、今より悪くなるとしています。こうした見方が経済の側からなされていますが、どのように良好な関係を構築するかについて具体的に提言することは簡単ではありません。政治と経済が両方とも良好であるということは理想的ですが、せめて政治も経済も両方悪くなり、日中の関係が縮小均衡に向かうことを回避すること、これが目下の喫緊の課題であると考えます。時間の関係でそろそろ閉会しなければなりません。最後に西村先生から一言お願いします。

【西村成雄】 お三方のご報告とディスカッサントのご報告、たいへん刺激的で、私が今まで考えてきたことも含めまして「中国」研究についての新しい方向性、あるいは考えるべき論点が出たのではないかと考えます。ここでは日中関係という論点に絞って申し上げます。私は、東アジア世界の20世紀は Nation-state 間の不均衡があまりに大きすぎたと考えます。20世紀前半期を日本植民地帝国システムであると考えることができますが、それ以前は中華帝国システムでした。そうすると、現在我々が21世紀初頭で経験していることがらの最大のポイントは、二つの、あるいは複数の Nation-state が対等で平等な関係をどのように構築していくのかということが大きな問題としてあるのではないかと考えます。これまでの東アジアの二国間・多国間関係は極めて不均衡な一極支配型でした。今後、ヨーロッパにおける様なドイツ、フランス、あるいはイギリス等々の複数の国家システムが共存しうるような、そのような可能性をどのように構想するのかということが、おそらく若い世代の知恵に任せられているのではないかと思いました。そういう意味では東アジアの20世紀の Nation-state システムを再定義するような、新たな段階に今我々はいるのではないかと考えた次第です。

【許】 これからの中国研究、アジア研究、地域研究のあり方を考えるうえで多くの貴重なご提言いただきました。これをもって閉会とさせていただきたいと思いますが、はるばる九州からいらっしゃいました紀先生、中国からお見えになりました江先生、馬先生、大変ありがとうございました。

(青柳伸子・根岸智代・ルービン・小都晶子 整理)

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