2006年度 中国文化コロキアム(10周年)

報告テーマ

7月22日(土)

13:20~14:40 第1セッション(タイムキーパー・前田)
市川 雄「現代日中関係をめぐる日本側 のMedia AgendaとPublic Agenda」
根岸智代「太平洋問題調査会(IPR)第六回ヨセミテ会議にみる“中日”関係」
15:00~16:20 第2セッション(タイムキーパー・根岸)
小都晶子「“満洲国”政府の日本人移民政策と中国東北地域社会の変容」
青柳伸子「1930年代中国東満地方における抗日運動について」
16:40~18:00 第3セッション(タイムキーパー・青柳)
島田美和「内モンゴル西部における中央と地方の関係:綏境蒙政会の成立を中心に」
ルービン「墨尔色与近代呼伦贝尔

7月23日(日)

9:30~10:50 第4セッション(タイムキーパー・島田)
北原恵「日本と中国の知財戦略に関する概要と事例紹介」
馬越麻紗美「宋子文の金融・外交政策とアメリカの対中援助」
10:50~12:10 第5セッション(タイムキーパー・辻田)
平松宏子「中国帰国生に対する高等学校教育を考える:バイリンガル教育の視点から」
李愛華「豊子の研究状況について」
13:20~14:40 第6セッション(タイムキーパー・ルービン)
辻田洋一「北京市の取水工程が周辺部に与える影響」
海部岳裕「黄土高原におけるうわさのネットワーク:可能性についての試論」
14:50~16:10 第7セッション(タイムキーパー・馬越)
渡辺直土「胡錦濤政権の政治思想」
前田輝人「総力戦体制下における末端機構:上海日本人社会の“町内会”・“隣保会”」

メモ

伊丹スワンホールへのアクセス

  • 市バスJR伊丹・阪急伊丹両駅前4番のりばから、裁判所前経由(17系統)西野武庫川センター前行きでスワンホール前下車、北へ徒歩100メートル。
  • 市バスJR伊丹・阪急伊丹両駅前2番のりばから、(14系統)昆陽里行きで市役所前下車、北へ徒歩300メートル。
  • 車では国道171号線、市役所前交差点を北へ500m
  • 参加費

  • 参加費 300円(宿泊費・懇親会参加費は別)
  • 宿泊費 教員4,000円;大学院生2,500円
  • 食費等は含まれておりません。
  • 宿泊される方は洗面用具、タオル、バスタオル、寝巻き等を各自でご用意ください。
  • 報告について

  • 報告時間はディスカッション・コメントを含めて一人約40分です。
  • レジュメにつきましては、お手数ですが各自で27部ご用意ください。
  • 出席者

    報告概要

    市川 雄「現代日中関係をめぐる日本側 のMedia AgendaとPublic Agenda」
    日本の内閣府が昭和53年(1978年)以来毎年実施している「外交に関する世論調査」によると中国に対して「親しみを感じる」日本人の割合はここ数年減少傾向にあり、「親しみを感じない」日本人の割合は増加傾向にある。この「親しみを感じる」人の割合は1992年以来、年々減少し、「親しみを感じる」人の割合と「親しみを感じない」人の割合が調査開始以来初めて逆転傾向に転じたのは1995年であった。本報告では、1992年から1996年までの期間に発行された日本の主要な新聞である読売・朝日両新聞の中の中国に関して書かれた社説を主な分析対象とした。当時、読売・朝日両新聞がどのように中国の動向を認識し、どのような観点から分析を加えていたのかということを考察することによって、当時の日本側の主要なメディアであった読売・朝日両紙と前記の「外交に関する世論調査」に現れた世論の対中イメージのもつ相関関係を明らかにすることを目的とした。また、読売新聞社説に現われた論点と朝日新聞社説に現れた論点を整理することにより、当時の両新聞が中国のどのような事象に着目し、どのような対中認識をしていたのかということにも注目した。
    根岸智代「太平洋問題調査会(IPR)第六回ヨセミテ会議にみる“中日”関係」
    太平洋問題調査会(The Institute of Pacific Relations)は、太平洋諸国間における学術交流の推進という認識のもとに、ハワイのYMCAが中心となって、1925年にホノルルで第1回が開催された。その後2年ないし3年ごとに会議が開かれ、1958年まで13回開催された会議であった。しかし満洲事変以後、日本の軍事態勢が拡大する中で、この会議も本来の学術交流目的から国際政治に関連する議論がなされるようになり、1936年に開催された第六回ヨセミテ会議(アメリカで開催)は国際政治的議論が濃厚な会議となっていた。本報告では1936年8月15日~29日に行われた第六回ヨセミテ会議の詳しい分析を行うことによって、当時の中国代表団側が、国際世論に中日関係を訴えて、中日紛争を中日二国間で解決すべきであるとしていた日本側とどのように対抗しようとしたかを分析する。資料として、東京大学 アメリカ太平洋地域研究センター所蔵の高木八尺文庫、一橋大学大窪源治コレクション、日本側外務省関係資料、『外交評論』等を利用する。
    小都晶子「“満洲国”政府の日本人移民政策と中国東北地域社会の変容」
    戦後日本において、悲惨な引揚経験をもつ「満洲」(以下括弧は省略する)移民は、被害の論理で語られた。こうした日本の被害者意識に対し、1970年代以降の満洲移民研究は移民の加害性を実証的に明らかにした。しかし、日本の植民地支配のあり方を問うこれらの研究では、入植地となった中国東北地域社会の実態は明らかにされていない。これに対し、本報告では、現地で発行された新聞、満洲国政府の行政文書、満洲拓植公社等現地機関や外務省記録、地方志等の文献資料の分析、およびフィールド調査を通して、満洲移民と現地東北地域社会の相互関係を検討した。具体的には、①当該地域の実質的な統治機構であった満洲国政府の満洲移民に対する取り組みを、その移民行政機関の設立過程と役割から検討し、②個別の地域社会における満洲移民の入植とこれにともなう地域社会の変容過程を三江省樺川県、錦州省盤山県、吉林省徳恵県を事例から考察した。これにより、以下4点を指摘した。①満洲移民が中国東北地域社会との相互関係の中で展開され、その過程で満洲国の移民関係機関が重要な役割をはたした。②時期が下るにつれ、満洲国政府は政策に対する地域社会の反発を抑えることに成功した。③入植地は国境地帯から全国、さらに都市周辺や鉄道沿線へと広がった。④その際、地域社会の反発を避けるため、あるいは「食糧増産」遂行のため、満洲移民は地域の「開発」をともなった。
    青柳伸子「1930年代中国東満地方における抗日運動について」
    中国吉林省長春市・延吉市での資料調査について (1)長春 〇吉林省図書館 ◆組織資料:《中国共产党吉林省延边朝鲜族自治州组织史资料(1928~1987)》《中国共产党吉林省延吉市组织史资料(1928.2~1987.11)・吉林省延吉市政军统群系统组织史资料(1949.10~1987.11)》《中国共产党吉林省和龙县组织史资料(1928.8~1987.11)》《中国共产党吉林省珲春县组织史资料(1928.3~1987.11)》《中国共产党吉林省汪清县组织史资料(1930.3~1987.11)》《东北抗日联军第一路军叛变投敌分子和被捕被俘人员材料》。◆回想録:《中共满洲省委时期回忆录选编》。◆「反民生団闘争」関係:《有关“反民生团斗争”历史资料(一)~(三)》《关于东满特委开展反“民生团”斗争情况的专题报告(讨论稿)》。◆中朝関係:《中朝边界沿革及界务交涉史料汇编》《中朝关系简史》《中朝边界史》。 〇中共吉林省委党史研究室:《杨靖宇将军》《杨靖宇纪念文集》《东北抗日联军 上・下》《中国共产党吉林历史》 (2)延吉 〇延辺大学歴史系:《东满抗日革命斗争特殊性研究》(朝鮮語)。〇延辺図書館:《延边人民抗日斗争史》《东北抗日运动概况》《延边文史资料 第三辑・第四辑》。〇中共延辺州委党史研究室:《东满地区革命历史文献汇编 上・下》
    今後の研究に関して 資料調査に関しては、引き続き長春市内での調査を行うと同時に、延辺朝鮮族自治州内での調査、吉林省外(大連市図書館など)での調査を予定している。修士論文執筆に向けては、《东满地区革命历史文献汇编 上・下》《东北地区革命历史文件汇集》を主軸として、満洲事変~1936年東満特委解体までの東満地方の抗日運動史を考察したいと考えている。同時に『盛京時報』『満洲日報』など、日系新聞の記事からも当時の東満の状況を再現し、東満という地方の特殊性に着目した抗日運動の再編成を試みたい。
    島田美和「内モンゴル西部における中央と地方の関係:綏境蒙政会の成立を中心に」
    1936年2月、国民政府は、1月25日に発表された「綏境蒙政会暫行組織大綱」に基づき、綏遠省にモンゴル族の自治政体である綏遠省境内蒙古各盟旗地方自治政務委員会(以下、綏境蒙政会と略記する)を設立した。注目すべきは、この綏境蒙政会の政体が、綏遠省内の盟旗制を単位とし、モンゴル族を自治の担い手としながらも自治区域を綏遠省の境界内に限定するという、いわゆる「分区自治」制を採用したことである。このことは、モンゴル自治運動の側面から見れば、1934年4月に、革新的モンゴル族王公の徳王がモンゴル知識青年とともに綏遠・察哈爾両省に設立したモンゴル族の統一自治組織である蒙古地方自治政務委員会(以下略称:百霊廟蒙政会)を解体に向かわせた。しかし一方で、国民党政権にとって、モンゴル族の自治機関が実質的に綏遠省の下部機関として配置されたことは、内モンゴルにおいて初めての実質的省制化が実現したことを意味した。本報告は、日本の華北分離工作と内モンゴル工作が一層進展することとなった1935年9月から12月の冀察政務委員会設立を経て、1936年2月の綏境蒙政会成立に至るこの時期を対象に、綏遠省内でのモンゴル族の「分区自治」制の実施及び綏境蒙政会の設立過程について分析を行った。
    ルービン「墨尔色与近代呼伦贝尔」
    本文主要力图阐述近代历史上的呼伦贝尔地区历史变迁,试图勾勒清末至“伪满”时期仅二十多年间的历史轨迹。从东北军阀、俄罗斯、日本等国内外势力的沁透、占领和压迫,导致当地原住民---巴尔虎蒙古民族奋起抗争的历史事件等,研究分析当时巴尔虎蒙古人中的新知识阶层,集当时地缘政治活动、民族教育与一身的杰出代表---墨尔色在呼伦贝尔地区的社会活动,探索当时的历史真相,寻找具有客观事实和历史意义的历史印记。一、清廷统治末期的呼伦贝尔 1、布特哈蒙古八旗兵、索伦八旗兵和巴尔虎八旗兵驻防至一九零八年(光绪三十四年),由黑龙江省直接节制的呼伦道,胪滨府,呼伦厅,室韦直隶厅,呼伦贝尔兵备道的行政演变。2、中东铁路以及一九零零年的“中东铁路事件”。3、一九零四年的(光绪二十九年)日俄战争。二、第一次呼伦贝尔独立 原因:1、客尔客与巴尔虎人的历史渊源,外蒙古得独立,主要是由呼伦贝尔的巴尔虎蒙古人策划参与并协助实施。2、一九一一年十月十日,辛亥革命爆发,同年十二月客尔客蒙古宣布独立。呼伦贝尔蒙旗额鲁特总管胜福,陈巴尔虎总管车和扎诸员,索伦旗总管成德等人响应库伦,策划实施了呼伦贝尔独立,并入刚刚成立不久的大蒙古帝国。3、一九一五年据《中俄会订呼伦贝尔条件》,呼伦贝尔改为“特别区域”。名义上直接由中国中央政府管辖,副都统由中华民国大总统任命,受黑龙江省长监督,实则实行了九年的完全自治。三、呼伦贝尔的第二次独立---墨尔色与蒙古青年党暴动> 原因:1、呼伦贝尔统治当局延续旧满清官僚制度,阻碍了社会的发展。2、墨尔色创建的呼伦贝尔青年党建立了与外蒙古人民党的奴属关系。3、受第三国际与外蒙古的支持与援助。 经过:一九二八年六月,张作霖在皇姑屯被日本人炸死,东北局势发生动荡作为导火索,一九二八年七月九日,郭道甫、福明泰迅速从外蒙古返回呼伦贝尔,在绰克图松布尔召开会议,组织了一千多人,发动了呼伦贝尔历史上第二次独立运动。决定以“呼伦贝尔青年党"的名义发动"武装革命”,提出呼伦贝尔独立自治的政治主张,夺取呼伦贝尔政权并实现“完全自治”。
    北原恵「日本と中国の知財戦略に関する概要と事例紹介」
    1970~80年代に「モノづくり立国」として発展してきた日本は、限られた資源の中で経済成長を遂げるために、海外貿易の拡大による「貿易立国」として発展してきた。その後、2000年代に至っては、モノづくりの基本である技術の権利を如何にして保護するかという「知的財産権」の重要性が叫ばれるようになり、2002年からは知財立国を標榜している。知的財産権の権利化、保護は、将来的にみて産業競争力の強化に繋がる。このように、日本で知財が注目され始めた理由としては、近年のアジア諸国の発展と日本の相対的な産業競争力の低下が考えられよう。積極的な開発に資金投入を行っているけども、事業の利益回収には反映されていないといった指摘がなされている。このような企業活動において、知財は事業と研究開発とが三位一体となり、初めて個々の強みを発揮できるのである。一方、中国での知財に関する意識の高まりは、1979年の三中全会以降の経済改革期からのことであり、現在では呉儀副首相が中心となって、中国の知財政策を推進中である。「科教興国(科学と教育による国の発展)」を掲げる中国では、目下、特許認可件数が中国国内の権利取得を中心に、爆発的に増加しつつある。また、中国では「海帰派」など海外の中国人技術者の帰国を奨励し、研究開発活動に従事する者の人数が日本を上回るなど、将来、中国は知財の生産者としても日本の競争相手となるであろう。しかし、現状の中国関連の知財案件では、主に「模倣品対策」「コピー商品取締り」等の商標権や著作権侵害案件の発生が多く、産業構造の質の競争力となる特許案件の侵害問題は少ない。中国政府も2006年に「知的財産権保護行動計画」を打ち出すなど、地方保護主義の改善や取締りを強化している。中国ではTRIPS協定の遵守に始まり、世界のグローバルスタンダードで物事をみる意識が高まりつつあるが、知財の分野は黎明期ともいえよう。以上、このような両国の産業構造と国際競争力について、今後は「知財」というフィルターを通して考察していくことを当面の課題としていきたい。
    馬越麻紗美「宋子文の金融・外交政策とアメリカの対中援助」
    宋子文は物価変動が激しく、政府の信用が十分ではないので国債や貨幣に十分な裏書のできない国民政府時代の財政を陰に陽に支えた人物である。1923年に中華民国政府の秘書となり、財政再建政策を成功に収めたのを皮切りに、彼は中国政治の財政部門においてなくてはならない存在となる。1928年、孫文の革命をついで成立した蒋介石国民政府において財政部長に任じられるが、30年代初頭から彼は外交にも深く関わってゆく。彼は国民党内における親米派の代表格で、日米開戦後彼の外交における活動領域はさらに広がることになる。中国は連合国の四強の一国であったが、物資に乏しく、アメリカから援助を受けていた。この時期、宋子文の外交目的は1.対華援助を得る、2.中国が国際的地位を勝ち得る、3.日本降伏後に備え、ソ連の協力を得ておくことの三点であった。戦争の進行に伴い、中国は連合国内において微妙な立場に立たされることになるが、内戦期もアメリカへの対華援助に関する交渉は続けられた。しかし国民政府の台湾への撤退とともに、宋子文は国民政府を離れ、アメリカへ渡る。彼の金融政策と、外交における指針、また、それにより得られた援助を分析する。
    平松宏子「中国帰国生に対する高等学校教育を考える:バイリンガル教育の視点から」
    中国帰国生(中国残留婦人や孤児の家族として帰国した者で中学校、高等学校の生徒)の中で、高等学校では「問題のない生徒」として、特にケアされることのない生徒でも、実は特殊な言語環境に置かれている。彼らは、外では日本語を使用し、家では中国語で会話する。それは彼らの親世代の日本語能力が劣るからである。また、彼ら自身の中国語能力も来日して日が経つにつれ忘れられて行く。家庭内でかろうじて簡単な会話ができるに過ぎない。これらの現象を彼らの「能力開発」という視点から考えた場合、何か対策はないか、「先行研究」を分析していく中で考えてみた。中国帰国生の言葉に関する論文の多くは、日本語教師としてかかわっている研究者によって書かれている。まとめると、中国「帰国生」と呼ぶが実質は「移民」であり、移民の言語研究から方法論を論じたものが多い。結論は第二言語である日本語能力を高めるために、本来の第一言語である母語、すなわち中国語の維持が欠かせない、ということになる。実際に母語保持のための取り組みをしている学校も現れてはいるが、まだまだ、学校レベルでの大きな流れとはなっていない。当面はボランティアを主とした日本語教室での活動の中に母語保持教育を入れていくことをから始めていくしかないのではないか。
    李愛華「豊子の研究状況について」
    中国の「最も芸術家らしい芸術家」豊子(1898~1975)は画家、随筆家、翻訳家、芸術教育家として幅広いジャンルの文筆活動に従事し、生涯200冊以上の著作を残した。しかし、豊子に関する研究は20年代半ばから彼の作品の刊行や鑑賞、またはその作品に対する評価や彼についての回想文が主である。研究というほどのものではない。本格的な研究は80年代から、中国を初め、日本や台湾などで行われてきた。中国では、文化大革命を境に、二つの時期に分けられる。20年代半ばから~30年代にかけては、豊子愷の創作の旺盛期、成熟期である。文壇では既に画家、随筆家としての位置が確立され、彼とその作品についての評価は主にその友人達によってなされていた。80年代から、豊子に関する評論、研究は徐々に盛んになった。日本では、数が少ないが、40年代吉川幸次郎は『縁縁堂随筆』を翻訳し、それを谷崎潤一郎が読んで、豊子愷とその作品に関する日本での最初の評論の随筆を書いた。近年、楊暁文と西槙偉がそれぞれ豊子愷についての研究成果を出した。香港では豊子の崇拝者明川が専ら豊子を研究し、台湾では楊牧が『豊子文集』を編集出版した。また席慕栄の「永遠の約束―豊子の『護生画集』をひもとく」では豊子とその師李叔同との約束が生き生きと書かれていた。シンガポールでは広洽法師が豊子の『護生画集』等が出版した。中国でも、海外でも、豊子に対する評価は彼の随筆や漫画のみならず、その人柄にも及んでいるという点は同じである。
    辻田洋一「北京市の取水工程が周辺部に与える影響」
    中国では現在洪水・冠水などによる災害、水不足、水汚染という三大水問題を抱えている。その中でも2008年にオリンピックを迎える北京市においては水不足問題は深刻であり、生活用水を確保するために周辺地域からの取水工程が盛んである。本コロキアムにおいてはまず、北京市における1949年以降の生活用水・工業用水・農業用水の水利用状況はセクターごとにその割合はどのように推移していったのか、また生活用水の確保のために他のセクターにいかなる影響が出たのかを見ていく。そして次に北京市における生活用水の水源である密雲ダム、官庁ダム、地下水からの取水状況の変化を見ていき、密雲ダム周辺では取水工程によって周辺住民の水使用に変化が現れていること、官庁ダム周辺では水の再利用を行うために産業構造に変化が現れていることに言及する。到達点としては簡単に水を利用できる都市部とその都市部のために苦労している周辺部という対立構造を描き、行政側の方針や中央と地方のパワーバランスの違いを掘り下げて見ていくつもりである。
    海部岳裕「黄土高原におけるうわさのネットワーク:可能性についての試論」
    常識、規範、「当たり前」、そうした感覚は私たちそれぞれが持ち合わせているものだが、そうした「ふつう」の感覚はどのようにして得られるのだろうか。私は、日常的なお喋りがそうした感覚の形成に大きく係わっているという視点から研究を進めようとしている。私たちはお喋りを通して、他者と自分を比較し、「ふつう」の範囲と自分の位置づけを確認している。重要なことは、私たちの行動が、他者との相互行為を通して「ふつう」を確認し、今度はその「ふつう」に従って相互行為を行なうという動的性質を持っていることである。そのため、同じ「ふつう」を共有する人が集まりやすく、また、「ふつう」はゆきだるま式に爆発することがあるという傾向を持っている。黄土高原の村では噂が頻繁に飛び交っている。例えば冠婚葬祭の手伝いをした際の報酬額までもが話題に上る。報酬の支払形式は複雑だが、紛争が起こることはないという。そのためには、1)報酬の相場が明確に認識されていること、2)関係について人々の間で相互に一致した認識が存在することの二つが条件となると思われる。この二点はまさに日常的なお喋りによってクリアされている。ミクロのお喋りからマクロな社会的な安定性が生まれてくる動的過程を私は理解したいと考えている。
    渡辺直土「胡錦濤政権の政治思想」
    本報告では博士論文「現代中国の行政改革 -『政党国家』体制の変容と支配の正統性-」(大阪外国語大学博士論文シリーズ Vol.33, 2004年)でとりあげた中国共産党政権の「正統性」をめぐる諸問題に関する研究の新たな段階として、胡錦濤政権によって提起されてきた政策理念について、政治思想としての分析を行なう。近年の現代中国政治研究においては詳細な現地調査の結果に基づいた現状分析が主流となっており、その重要性は否定すべくもない。また、中国共産党の政治思想と社会の現実的基盤とのかかわりの希薄さを指摘する批判もありうるが、他方で、中国共産党の政治思想を分析することで政権の「正統性」の調達方法を考察し、将来の政治体制変容の展望へと連結させるという分析も1つの方法としての重要性を看過できないと考え、そこに報告の意義を見出したい。本報告では2002年11月の第16回党大会で胡錦濤政権が発足して以降、継続的に提起されてきた政策理念を分析している。具体的には「科学発展観」(2004年2月)、「執政能力」(2004年9月)、「和諧社会」(2005年3月)、「《中国的民主政治建設》白皮書」(2005年10月)、「八栄八恥」(2006年3月)をとりあげ、その含意や相互の関連性などの分析を試みた。これらの意図するところとして、経済発展と政治的民主化の関係をどのように構築するか、経済社会の変容と政治体制の矛盾をどのように解決するのかという点にあると考えられるが、政権の「正統性」問題へと直接的に考察を進めるにはさらに「媒介項」が必要だろう。また、今回は時系列的な分析が中心となったが、今後は政治思想史の手法も考慮し、政治学の理論と現代中国分析の相互の関連性を視野に入れながら、より方法論を特化させて考察する必要があろう。
    前田輝人「総力戦体制下における末端機構:上海日本人社会の“町内会”・“隣保会”」
    いま日本で,平和と民主主義を当然のこととして活動している住民組織は,日中戦争期には「戦争協力・戦争推進機構」として重要な役割を果たした。「総力戦体制」下,内務省は1940年9月訓令により,町内会・隣保会を「制度化」して行政の補助的役割を担わせた。国民全体の「準公務員化」といえよう。町内会以外にも,壮青少年婦女子それぞれに参加を強制する会があった。同じ時期,上海総領事の下に,市町村に相当する「上海居留民団」があった。1942年6月,居団は機構の一つとして「市民部」を新設し,町内会・隣保班を傘下に統合した。町内会数178,会員数1万9500,家族構成員数およそ8万人,居留民総数の約80%をカバーすることになる。町内会の6割,109会が北区と虹口区の狭い地域に存在し,会員数は1万2000人以上,家族はほぼ4万8000人を占めた。町内会の上海における特徴は,自警団・予防注射・「皇軍」慰労接待,英霊送迎の各活動であろう。糧食や燃料など統制品の配給に大きな役割を果たしたのは,日本内地も同じである。一家の主は「隣保班常会」,職場で「青年団」,夜は「自警団」勤務,母は「時局婦人会」の皇軍接待・慰問・防火演習などに忙しく,子供は「青少年団」で鍛錬され全生活を統制される。指導者たちは,「上海総力報国会」という組織をさらに案出した。

    トップページにもどる