2005年度中国文化コロキアム

タイムテーブル

7月17日(日)

7月18日(祝)

その他

  1. 報告時間は発表後のディスカッション・コメントを含めて一人あたり約40分です。
  2. レジュメにつきましては、お手数ですが各自で22部ご用意ください。
  3. 宿泊される方は洗面用具、タオル、バスタオル、寝巻きなど各自でご用意ください。

各セッションの報告テーマ

第1セッション(タイムキーパー・根岸)
大栗真佐美「中国帰国者たちについての一考察:第八次青溝子開拓団を事例として」
前田輝人「日中戦争期日本の”就業失業・転廃業”問題:戦時上海・日本人社会変容の一要因」
第2セッション(加奥)
市川雄「太平洋問題調査会(IPR)にみる日中戦争期中国の民間外交」
根岸智代「第6回太平洋問題調査会(ヨセミテ会議)における胡適と欧米における対中国観」
第3セッション(青柳)
加奥奏哉 「鄂豫皖根拠地における党・政・軍関係:1930.6~1932.10」
玄光星 「朝鮮人部隊の帰国及び性格についての研究:中華人民共和国建国前後に帰国した朝鮮人部隊三個師団をめぐって」
第4セッション(前田)
青柳伸子 「中国東北地方における抗日運動の形成と発展:東満地方を中心に」
ルービン 「中国における内モンゴルの歴史的変遷」
分部信幸 「李曾伯と“可斎雑稾”」
第5セッション(市川)
辻田洋一 「中国北方の水不足問題について」
呂模 「南泥湾百年の生態変遷」

参加者

伊丹スワンホールへの交通アクセス

市バスJR伊丹・阪急伊丹両駅前4番のりばから、裁判所前経由(17系統)西野武庫川センター前行きでスワンホール前下車、北へ100メートル。または市バスJR伊丹・阪急伊丹両駅前2番のりばから、(14系統)昆陽里行きで市役所前下車、北へ300メートル。

報告概要

大栗真佐美「中国帰国者たちについての一考察:第八次青溝子開拓団を事例として」
第八次青溝子開拓団を知るようになったのは、私が1992年から京都市の学校において、日本語教室を担当するようになり、敦化出身者(現吉林省 敦化県)が多く、通級してきており、その中の1世の日本での葬儀に参列してからである。私は主に中国帰国者の2・3世とかかわってきたが、現在も毎年この開拓団の慰霊祭は行われており、過去の歴史としてではなく、今の日本を考える素材として、聞き取り調査を軸にこの地域を再検討することにした。従来の満州開拓団についての研究においては、中国での生活と日本での帰国後の生活、その後の中国にいる親戚等のかかわりなどについて言及しているものが少ないことに疑問をもちその方法として、(1)2つの親族への聞き取り調査を軸にする。(開拓団地域での生活状況を1世たちの語りを、再検討する)この聞き取り調査の中の出来事について歴史学の視点から補足をしていく。(2)聞き取りを行った方は、・集団引揚げ(昭和21年5月~昭和23年8月)=前期集団引揚げ で帰国、・中国人の妻になった日本人婦人(中国残留婦人)、・中国残留日本人孤児(中国帰国者1世)、・中国帰国者2世、・中国帰国者3世である。この方がたの中には、現在、京都地裁に2003年9月24日「国家賠償訴訟」 を起こした中国残留孤児の方もいる。戦後60年を迎えた今、彼らは60年前の日本の歴史をいまだに背負っている。(3)さらに、2004年8月、研究対象の現吉林省敦化市青溝子の「第八次満州開拓団跡地で聞き取り調査」を行った際、中国の公安に捕まり取調べを受けました。中国公安の方々の「満州開拓団」への歴史認識も体験することになり、中国人のこの問題への歴史認識をも考える必要性があると考えるようになった。(4)よって時代区分を1945年までを研究対象とするのではなく、入植の1938年から現在まで、すなわち中国帰国者1世の「日本」での生活・「渡満」時代、満州国崩壊後「混乱期」、「中国」時代、「日本帰国後」の生活を対象としたいと思う。
前田輝人「日中戦争期日本の”就業失業・転廃業”問題」
南京が陥落すれば、国民党軍は白旗を掲げるに違いないという目算がはずれて、日中戦争の長期化が次第に濃厚となった。31年の「満洲事変」以来、軍需産業偏重の重化学工業化が急激に進行するにつれて、繊維産業などの軽工業、商業やサービス業、農業などは「不急不用」と貶められる。38年には、さまざまな法令や政府提唱の「運動」による統制によって事業継続が困難になり、経営者は転廃業を・従業員は失業を迫られる。大阪だけでも十数万人或いはそれ以上の、大量失業者出現が濃厚となった。あらゆる面における優先権や特典を与えられた「時局産業」は「殷賑」を極めて、失業労働力の受け皿の一部としての役割も担った。このような「危機」に、日本政府が取り組もうとした「失業・転廃業対策」は、いかなる内容であったか、対策される側の「不急産業」経営者や労働者は、どのような対応を見せたか、その結果日本社会と周辺国社会はどのように変容していったか、などは興味深い設問である。主として、内閣情報部編集『週報』の記事によって知り得る事柄を数表で補強し、各種の様態を考察したい。1938年~41年、「第2次上海事変」収束直後から太平洋戦争勃発直前までのほぼ4年間を対象とする。
市川雄「太平洋問題調査会(IPR)にみる日中戦争期中国の民間外交」
1931年9月18日に端を発する満州事変(九一八事変)によって中国は15年に及ぶ日中戦争に突入することとなった。この間、中国が展開した「民間」外交の中に、当時の世界の三大会議のひとつとされた「太平洋会議」が含まれており、中国はその主要な参加国の一員であった。太平洋会議は第一次世界大戦後、太平洋沿岸各国及び同地域に利害を持つ国々の知的交流・理解促進を目指してYMCA(Young Man Christian Association)によって創設された会議であった。同会議は1925年の第一回会議から1958年の大一三回会議にいたるまでほぼ隔年で開催された。日本外交との関連でいえば、1933年10月の日本の国際連盟脱退(脱退勧告は同年3月)後における唯一の国際社会への窓口としての役割を果たしたのが太平洋会議であった。1936年の第六回会議を最後に日本はIPR(太平洋問題調査会)を脱退するが、それとの関連で、主に1936年以前の太平洋会議において中国がどのような「民間」外交を展開したのかを主な関心としていきたい。同会議の中国側の主な参加者であった胡適をはじめとする当時の中国側識者が中国の外交政策に対してどのような見解を持っていたかを分析することを通して、それらの言説に表出した当時の中国「外交」を分析したい。
根岸智代「第6回太平洋問題調査会(ヨセミテ会議)における胡適と欧米における対中国観」
本発表では、修士論文で扱った『『獨立評論』の創刊主でもある胡適が1936年にアメリカのヨセミテで日本に対して激しく抗議した原因を探って行くのと同時に、太平洋調査会議での日中以外の国が胡適や中国代表団に対してどのように報道したかを探り、主に欧米の対中観を考察する。胡適は1932年に中国太平洋問題調査会の理事に就任し、第6回の会議では日本の中国侵略に対して抗議の演説を行った。しかし彼は1937年8月まで日本との戦争回避へと動いており、それ以後は一変して抗日擁護へと向う。この胡適の思考の変遷への一つの現れとして、ヨセミテ会議での演説があげられると考える。そして、この演説と会議を機に胡適の変化と、彼とその周辺を見ている欧米の思考を雑誌等を用いて考察するものである。ここで取り上げる論題の資料として、太平洋問題調査会が発行していた機関紙である『Pacific Affairs』、中国側の資料として『獨立評論』、『胡適日記』等を使用し、日本側の資料として『中央公論』他も使用するつもりである。
加奥奏哉「鄂豫皖根拠地における党・政・軍関係:1930.6~1932.10」
1930年代前半にかけて、中国共産党は数多くの革命根拠地を形成し、この革命根拠地を媒介とすることによって、中国共産党内に労働者・農民の武装暴動部隊を組み込んでいくという仕組みを作り、それは中国共産党の軍隊(党軍)としての性格を有することとなる。中国共産党はその党軍によって、さらなる地域権力の創出、革命根拠地を拡大・維持しようと試みた。中国共産党は革命根拠地(ソビエト政権)というたとえ部分的な権力であったにせよ、はじめて自ら指導し権力を行使しうるある一定の領域を確保し、政党・政府・軍隊の3系統の組織を有することとなった。鄂豫皖根拠地において、1930年3月から1932年10月までの約2年半は、政党・政府・軍隊の3系統の組織関係の成立時期であり、また根拠地は最盛期をむかえ党権力は拡大傾向にあったと考えられる。一次資料である『鄂豫皖蘇区革命歴史文件彙集』、『湖北革命歴史文件彙集』、『中国共産党湖北省組織史資料』などを利用し、鄂豫皖根拠地における政党・政府・軍隊の相互関係を整理することによって、該当時期における中国共産党の政治過程を再構築してみたい。
玄光星「朝鮮人部隊の帰国及び性格についての研究:中華人民共和国建国前後に帰国した朝鮮人部隊三個師団をめぐって」
1950年に勃発した朝鮮戦争は中、米を含む18国が巻き込まれ、その期間は3年にのぼった。この戦争では、戦争の直前に中国から帰国した朝鮮民族部隊が注目されている。和田春樹の『朝鮮戦争全史』によると朝鮮戦争の勃発、38度線に配置された朝鮮人民軍の21個連隊があって、内10個連隊が中国から戻ってきた中国人民解放軍所属の朝鮮民族部隊であった。この部隊は元々中国東北野戦軍の164師団、166師団、156師団であって、1949年7月~8月と1950年4月に二回に分けて入朝し、朝鮮人民軍の第5師団、第6師団、第7師団に再編された。帰国した3個師団の朝鮮民族部隊はすべて中国在住の朝鮮民族からなり、中国での抗日戦争と解放戦争を通して拡大した。朝鮮民族部隊を構成した朝鮮民族は19世紀末から20世紀初めにかけて朝鮮半島から移住して来た朝鮮人及びその2世であった。この時期の東アジアでは大きな歴史変動があった。朝鮮半島では1910年の日韓合併によって李氏朝鮮が滅亡し、中国では1911年の辛亥革命で清朝が滅びた。また、1931年の満州事変を契機として「満州国」が誕生したことは、東北(満州)に移住してきた朝鮮人に様々な影饗を与えた。歴史的視点からみれば、この時期にこの地域で生活している朝鮮人の国籍は何度も変更を余儀なくされた(それは朝鮮→清→日本→「満州国」という経緯とたどった)。この問題は、中華人民共和国が成立する前後における集団帰国によってさらに複雑化することになった。この特殊な歴史環境のなかで成立した朝鮮民族部隊の実態とその帰国の経緯を整理しながら、その特質と性格を究明したい。
青柳伸子「中国東北地方における抗日運動の形成と発展:東満地方を中心に」
1931年の「満洲事変」とそれに続く「満洲国」成立という日本による中国東北地方への一連の侵略行為に対して、事変勃発当初より東北地方各地で反満抗日運動が展開された。「義勇軍」と称される各地の抗日勢力は次第に中国共産党によって「東北抗日聯軍」に組織され、第1軍から第11軍まで統一的に編成された抗日聯軍は東北各地で抗日パルチザン活動を展開し、1942年にソ連領へ撤退するまでその活動は継続された。この報告では、中国東北地方における抗日運動の形成と発展を、東満地方を中心として考察する。東満地方は「間島」―後の延辺朝鮮族自治州を含む地域で、抗日運動には多数の朝鮮族が参加した。朝鮮族は中国共産党指導の抗日聯軍に積極的に参加し、果敢に活動するが、その一方で漢族との民族的対立も顕在化していった。その最も象徴的なものが1932年より開始された反「民生団」闘争である。反「民生団」闘争の経緯とその問題点を検討することで、抗日組織内における朝鮮族の位置付けの考察を試みたいと思う。また、一方で「満洲国」内における一般朝鮮民衆についても取り上げてみたい。「大日本帝国」の「臣民」として、また一方では「満洲国」の「五族協和」の一民族として、朝鮮族のアイデンティティー問題は深刻であった。この視点から問題を明らかにすることも、東北地方における抗日運動を理解する上で意味あることだと考える。
ルービン「中国における内モンゴルの歴史的変遷」
内モンゴル(内蒙古)自治区は中国の北部に位置し、面積は118万3千平方キロで、東部は中国東北部から西部は新疆にいたり、その北東部はロシアと、北部はモンゴル国と国境を接しており、その面積は三番目である。人口は2400万人で、そのうち漢族が1900万人を占めている。モンゴル族は約404.08万人であり、モンゴル族などの少数民族の総人口は自治区総人口の16%である。「内モンゴル」という名称は、もともと清朝時代、モンゴル地域の「内札薩克」に由来しているが、「内モンゴル自治区」という名称は、1947年以降、中国共産党の指導下で内モンゴルの政治的統一がなされ、中国の一つの行政単位として成立したことよる。本報告では、(1)1636年に東部内モンゴルが満州族の清朝に帰属したこと、(2)内モンゴルに対する中華民国の支配権の確立<内モンゴル地域を熱河、察哈爾、綏遠、アラシャン旗(阿拉善)という行政単位に分けて統治したこと>、(3)1932年、日本の勢力による内モンゴルへの介入が本格化したこと<内モンゴル東部における「興安省」設置、1939年デムチクドンロプによる西部内モンゴルでの「蒙疆連合自治政府」設立>、(4)1947年「内モンゴル自治政府」成立、という歴史的経緯を概括する。
分部信幸「李曾伯と“可斎雑稾”」
モンゴル軍の南宋遠征は大きく三度ある。その内、二度目の戦闘が、有名な“鄂州の役”を生み、結果としてクビライ時代と賈似道時代を招くことになる。その二度目の戦闘、1259年あたりまで、賈似道とともに南宋の最前線のツートップを担いながらも、逆にこの“鄂州の役”を境に失脚した李曾伯は、『可齋雑藁』『可齋續藁』という大部の文集を残している。従来、その文集は元代史研究者の間で気にはされながらも、まともに研究されておらず、その使用価値はまだ不明である。しかし、クビライ即位前のモンゴルを記述し、滅亡直前の南宋の姿を伝える、数少ない史料の一つである。今まで使用されなかった理由は、南宋研究の手薄さや、モンゴル時代史研究が、非漢文史料を中心に盛況していること、クビライ以前を中国史として研究する動きが少ないことなどがあげられる。注目すべき記述としては、以下の二点である。一つ目は1240年代、モンゴル側が皇帝選出等で混乱する時期である。『可齋雑藁』は、この時期のモンゴル軍との戦闘の記述を残す。モンゴル側の史料では圧倒的に記述の少ないところを、どこまで南宋側の史料でまかなえるのか、検討してみたい。二つ目は鄂州の役前後である。時代のターニング・ポイントとも言うべき戦争の裏で、ウリャンカダイ軍の北上を許した李曾伯の広西での動きを追いたい。
辻田洋一「中国北方の水不足問題について」
現在中国ではすさまじい経済発展の裏で「電力不足」・「エネルギー不足」・「水不足」が大きな問題となっており、そのなかでも中国北方の水不足問題は2008年にオリンピックが開催される北京において由々しき問題となっている。水不足の主な原因としては先ず、中国北方における降水量が南方に比べて著しく少なく、一人当たりの水資源量が少ないことが挙げられる。そして、北京の位置する海河流域は、人口密度が高く、経済の中心地でもあり、そのほかにも工業地帯・農業地帯が拡がっており、水が様々な用途で使用されている。そのため水不足が一層深刻なものとなっている。また、北京市の水源について触れてみると約3分の2を地下水から取水しており、毎年の地下水の低下は約2.5mにも及び、1965年以来の低下は59mに達するという。他には北京近郊の密雲ダム・官庁ダムから約4分の1を取水しているが、年間供水量は減少の一途を辿っていて、生活用水を北京に供給するのが困難な状況となっている。このことを受けて北京周辺では密雲・官庁ダム以外の近隣ダムからの取水工程が盛んになっているという事実がある。これから論文を書き進めていく上で、「豊寧満族自治区」という北京の水源にあたる一地域を取り上げ、その地域の生態系や水環境の変化を調べていくことによって北京による取水工程が周辺地域に与える影響を考察していくつもりである。
呂模「南泥湾百年の生態変遷」
中国が発展途上国として、21世紀に直面する主な問題の一つが貧困問題と生態環境問題である。生態環境問題と貧困問題は相互に連係しており、中国がこれからも発展し続けていくための重要なキーワードである。人間は生態環境のバランスを維持する過程の中で、人間が与える影響はとても大きい。人間は生態システムの支配者になり得る。人類の経済活動は往々にして生態環境の変化を作り出す主要要素である。人類の活動が自然に与える影響は、短期間で分かるものもあれば、長期間の観察によってやっとわかるものもある。そこでこの度は、この100年間、南泥湾で起こった人類の活動、つまり、盲目的な開墾運動、略奪式の開発生産活動及び歴代の戦争の資料記載を通し、自然環境の退化と破壊を招いた人類の活動と生態環境の関係を分析したい。自然は人類が生存するための良い環境も与えてくれるが、人類が生存できないほど悪化に至ることもある。50年前、人間は生態規律に対しあまりにも無知で、生産活動は往々にして自然の規律に反したものだった。局部的なことしか考えず、全体を見ることがなかった。自然エネルギーを不合理に利用し、略奪式開発を行なったことで、人間が生存するために不可欠な自然環境を悪化させてしまった。

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