1930年代前半期東満(延辺)中国共産党の組織化と地域社会

青柳 伸子

本論文の目的は、1930年代前半期中国東北部東満(延辺、間島)地方における中国共産党の組織化過程を、次のように中朝民族間関係および東満地域社会の特質に着目して考察することにある。

第一に、東満において中国共産党による抗日遊撃闘争が組織化される過程で、朝鮮人共産主義者がいかなる位置づけを与えられ、そしてそれに対し朝鮮人共産主義者がどのような主体的な働きかけを試みたのかを解明する。この点に関し、従来の研究では十分に解明されなかった基層組織での朝鮮人党員の実態に検討を加える。この作業を行うことで、東満における抗日統一戦線の形成期において中朝民族間に存在した矛盾が克服される過程を歴史的に分析することが可能になると考える。

第二に、東満の地域社会の特質が抗日闘争の帰趨にどのように影響したのかを分析する。特に、東満で実施された日本側の「集団部落」政策の実態および抗日組織との関係や、中国共産党の抗日遊撃根拠地内における党と民衆の関係について考察を加えた。中国共産党による抗日遊撃組織が東満地域社会でいかなる基盤を築こうとしたのかを検討することは、抗日闘争の本質にかかわる重要な論点であるが、先行研究ではあまり触れられていないため、この点についての分析を試みた。

具体的には、第1章で東満中国共産党の組織変遷に焦点を絞り、その特徴と問題点を指摘した。第2章では1931年9月「満洲事変」から1933年半ばまでの、「ソビエト革命」を主要任務としたいわゆる「北方会議」路線時期における党の方針と具体的な活動を、第3章では1933年「一二六指示信」によって東北の「特殊性」が再認識された後、東満において1936年3月に東北抗日聯軍第二軍が成立するまでの過程を考察した。第4章では、東満における中国共産党の組織化、そして抗日運動が展開される過程で、その基盤となった東満の地域社会がいかなる変容をたどり、抗日運動の帰趨にかかわったのかを検討し、第5章では、1933年から党組織内で本格化した「反民生団闘争」の経緯とその実態について、日本側「間島自治区域化論」と朝鮮人の「民族自決」問題という文脈のなかで考察した。

終章では、周保中が吉林省長として1946年12月に吉林省委群工会議で行った「延辺朝鮮民族問題」報告を取り上げ、「満洲国」崩壊後、東満における中朝民族の共同抗日闘争がどのように概括されたかについて言及した。

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