「満洲国」の日本人移民政策と中国東北地域社会の変容

小 都 晶 子

Ⅰ 問題の所在

本論文の目的は,中国東北地域社会における「満洲国」(以下,括弧省略。「満洲」についても同様)政府の日本人移民政策実施過程を実証的に分析することによって,満洲国の統治に対する社会の側の積極的な関与を把握することにある。

1932年から45年までの14年間に,約27万人の日本人が「移民」または「開拓民」として満洲国に送出された。すでに,こうした満洲移民に関しては,戦前の移民政策の展開,送出過程,営農実態などを中心に,実証分析が積みあげられてきた。しかし,これらのほとんどは,移民を日本との関係でのみ切りとって議論している。これに対して,本論文では,満洲移民を中国東北地域社会の歴史的な過程のなかにおいてとらえなおすこと,すなわち満洲移民という傀儡政権の一「国家」政策と現地東北地域社会の相互関係を考察することを課題とした。これによって,中国東北地域社会を単なる満洲移民の客体ではなく,移民すなわち植民地権力と双方向的な関係をもつ能動的な存在であったことを確認できるであろう。その際,戦後への連続性のなかで,日本の統治を選択的に咀嚼,吸収した社会の側の変容過程に着目したが,これは日本の植民地支配の肯定を意図するものではなく,社会の「主体性」をとらえようとしたものである。

具体的には,(1)当該地域の実質的な統治機構であった満洲国政府の満洲移民に対する取り組みを明らかにし,(2)移民政策における満洲国の統治と中国東北地域社会の反応の相互関係をとらえなおし,(3)移民用地取得過程における「開発」について検討する。資料は,現地で発行された新聞,満洲国政府の行政文書,満洲拓植公社など現地機関や在満日本領事館の報告書(外務省記録),地方志等の文献資料の分析,およびフィールド調査での成果などを利用した。

Ⅱ 各章の概要

本論文は,第1部「『満洲国』政府の日本人移民政策」と第2部「中国東北地域社会における日本人移民政策」という2つの部分によって構成されている。

第1部「『満洲国』政府の日本人移民政策」では,満洲国政府による日本人移民政策の実施を,移民行政機関の変遷とその中心的業務となった移民用地取得業務を中心に検討した。ここでは,日本人移民政策における満洲国政府の位置づけが決定的に転換した「満洲開拓政策基本要綱」(1939年12月)によって,2期に区分した。

第1章では,前半の1932年から39年までを対象とした。当初,満洲国政府は移民政策に関与できなかったが,地域社会からの反発を受け,関東軍はこれを移民行政に組みこんだ。さらに,1939年12月に発表された「満洲開拓政策基本要綱」によって,満洲国政府に国内の政策権限が委ねられた。これに先駆けて,1939年1月,満洲国政府は拓政司を開拓総局に拡充し,その機構を整えた。しかし,関東軍は,総務庁に設置された委員会を通して,政府機構に「内面指導」の経路を確保していた。満洲国政府の日本人移民政策は,関東軍のコントロールを受ける構造を組み込みつつ,その制度化を進めたといえる。

第2章では,後半の1940年から45年までを対象とした。1940年以降,満洲国政府は,開拓総局を中心として,日本人移民政策実施のための諸体制を整備した。満洲国の移民政策には地域社会の「利害や要求」が反映され,日本側とは異なる論理によった「自立的」な政策実施が目指された。しかし同時に,日本人官僚の転入によって,機構内部で「日満一体化」が進行し,満洲国の移民政策に日本の方針が直接反映される体制が形成されていた。これにより,太平洋戦争時期,日本側の要請にそった「開拓増産」の遂行が可能になった。

第2部「中国東北地域社会における日本人移民政策」では,満洲国の移民政策が個別の地域社会でどのように実施されたのかを,3つの地域における事例研究から検討した。

第3章では,「北満」に位置する三江省樺川県をとりあげて,初期における日本人移民用地の取得と,これに対する地域社会の抵抗の様相を分析した。土龍山事件という武力による抵抗は,関東軍の移民用地取得に変更を迫った。また,用地取得事務を引継いだ満洲国政府は,地域社会との交渉のなかでさまざまな妥協や譲歩を強いられた。満洲国政府は中国東北地域社会の「利害や要求」を無視しえず,取得用地は当初の計画から変更,縮小された。中国東北地域社会の直接的,間接的な抵抗に対して,満洲国政府はこれを統制することができなかった。

第4章では,「南満」に位置する錦州省盤山県をとりあげて,「満洲開拓政策基本要綱」以後の移民用地取得において目指された「未利用地開発」の実態について検討した。1930年代後半,満洲国政府は各種の土地調査を実施し,「未利用地開発」計画を立案していた。盤山県では,この事業の一環として,大規模なアルカリ地の「改良」工事が実施され,これが日本人移民用地に充当された。日本人は水田耕作に従事したが,未利用地に入植した彼らは敗戦から引揚げまでの被害が小さかった。これは土地収奪によった樺川県の開拓団とは対照的であり,「土地改良事業」によった移民用地取得が地域社会の「利害や要求」に与える影響を軽減させていたといえる。

第5章では,「中満」に位置する吉林省徳恵県をとりあげて,「未利用地開発」がより収奪的側面を強めていった時期の政策を分析した。太平洋戦争時期,満洲国の「土地改良事業」は,既利用地を収奪し,「開発」する「緊急農地造成計画」に組みかえられていった。この計画によって,徳恵県では,大規模な既利用地収奪や労働力動員がなされたが,満洲国統治の社会への浸透によって,地域社会からの「利害や要求」の表出はもはやみられなくなっていた。

Ⅲ まとめ

日本人移民政策の展開にしたがって,満洲国政府は,その行政機関を整備,拡大し,政策実施のための諸体制を整えていった。しかし,その過程において,満洲国政府は,中国東北地域社会の「利害や要求」と日本本国の「意思や利害」との間でジレンマにあった。そして,これは日本の「意思や利害」が強まるにつれて,深刻な矛盾を呈していった。

地域社会の「利害や要求」は,初期には武装暴動という直接的な抵抗によって,後には陳情や交渉という間接的な抵抗によってあらわれた。社会の抵抗が満洲国の統治体制を通してあらわされるようになったことから,その統治はかなりの深度で社会に浸透していたといえる。樺川,盤山,徳恵へと移民政策が展開するにしたがって,移民用地の取得はより円滑に実施されるようになった。しかし同時に,その過程において,満洲国は地域社会から多くの譲歩や妥協を強いられた。移民用地取得の過程からは,満洲国下の中国東北地域社会が「自立性」をそなえ,満洲国の統治はその深層には到達しえていなかったとすることができる。太平洋戦争時期,戦時体制への移行にしたがって,満洲国の移民用地取得は「未利用地開発主義」を放棄し,暴力的な収奪を強めていった。「緊急農地造成計画」の実施にみられるように,土地や労働力などの資源の抽出において,満洲国は高い能力を発揮した。しかし,すでにこれを効果的に利用する時機は失われていた。

また,満洲国の移民用地「開発」は,「治安維持」や「近代化」,戦時動員といったその時期の統治の要請にあわせて進められていた。移民用地「開発」は,地域社会の「利害や要求」に矛盾しなかった場合には受容され,大きく矛盾した場合には抵抗にあった。満洲国の「開発」のいくつかは,地域社会からも自主的かつ選択的に吸収されたといえる。こうした農地「開発」や各種のインフラ整備は,戦後の中国東北地域社会に継承された。

満洲移民研究において,「支配と抵抗」の二項対立的なモデル,あるいは「北満」移民引揚げの「悲劇」のモデルが,満洲国統治下にあった中国東北地域社会への視角を閉ざしてきた。本論文では,移民の入植地の広がりを確認するために,「北満」,「中満」,「南満」のそれぞれから事例をとりあげた。日本人移民の入植地は,政策の拡大にともなって,いわゆる「国防第一線」とよばれる国境地域から,全国へ広がっていた。末期には,開拓増産の展開によって,都市近郊や鉄道沿線などへ集中的な入植がみられた。すでにみてきたように,この背景には,一方で,中国東北地域社会の「利害や要求」が反映され,他方では,日本の戦時体制が反映されていた。満洲国の移民政策は,中国東北地域社会の抵抗に規定され続けていた。満洲国の統治下にあって,中国東北地域社会は「主体性」をもってこれを吸収し,変容していったといえる。

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