現代日中関係認識をめぐるメディア・アジェンダ:
1990年代読売・朝日両新聞「社説」における中国「脅威認識」

市 川 雄

1990年代に出現して一般的に認知されることとなったいわゆる「中国脅威論」は、1990年代を通じて日本国内社会にその浸透度を深め、今日にいたっている。この「中国脅威論」の一般大衆レベルへの浸透度を深化・加速させる上で日本のメディアの果たした役割は大きい。

本論文では、日本の新聞メディア(読売新聞「社説」および朝日新聞「社説」)を分析対象とし、1990年代の読売新聞「社説」および朝日新聞「社説」が中国「脅威認識」に対してどのようなアジェンダ設定をおこなっていたかについて時系列的に分析・再構成を行う。本文では、1990年代を第一期(1989年6月~1992年10月)、第二期(1992年11月~1996年)、第三期(1997年~1999年)の三期に時期区分し、分析・考察する。

第一章では第一期の読売・朝日両新聞「社説」の特徴を比較分析することによって、それぞれの「社説」の特徴を明らかにする。読売新聞「社説」のこの時期の特徴としてはまず、第一に東南アジアの視座からみた時の対中国「脅威認識」という視点が提起されていたこと、第二に1989年6月の天安門事件発生後の中国の「混乱・無秩序化」傾向をアジェンダとして設定していたことがあげられる。他方、朝日新聞「社説」の特徴としては以下の三点があげられる。まず、第一に天安門事件をきっかけとした「暗黒中国」への回帰に対する懸念認識、第二に中国の国内政治の不透明性に対する懸念認識、第三に東南アジアの視座からみた中国の軍事的政治的動向に対する懸念認識である。

第二章では第二期の読売・朝日両新聞「社説」の特徴を分析する。この時期の読売新聞「社説」の主な特徴としては、中国の軍事的脅威がアジェンダ設定されていたという点があげられる。それは中国の「不可視的」脅威(中国の核実験継続、不透明な軍事費の増加)と「可視的」脅威(台湾海峡危機)が「社説」上に混在表出していたという点にその特徴があった。その一方で、朝日新聞「社説」の特徴としては、前半期(1992年11月~1994年半ば)においては中国国内の政治経済社会各層の不透明性が主として取り上げられ、後半期(1994年半ば~1996年)においては中国の軍事面での脅威がアジェンダとして設定されていたことがあげられる。またその際、日本のODA援助のあり方と中国の核実験継続問題とをリンケージさせた言論が「社説」の言説空間上の表出していたこともその特徴のひとつであった。

第三章では、第三期の読売・朝日両新聞「社説」を分析対象とする。読売新聞「社説」の特徴としては中国の軍事大国化と政治大国化に対する「懸念」認識表出がその主要なものとしてあげられる。その一方で、朝日新聞「社説」の特徴としては、第一に従来の「中国→日本」という脅威認識以外に、「日本→中国」、「中国→アメリカ」、「アメリカ→中国」という三つの新たな脅威認識ベクトルが提起されていたという点、第二に、日中両国間に存在する相手国の実態を伴わない、遊離・膨張化した対中(対日)「脅威認識」についての懸念・等身大の相手国の実態を捉えることの必要性についての言説展開がなされていた点があげられる。 第四章では読売・朝日両新聞「社説」上に表出した東南アジア諸国連合フォーラム(ARF)、アジア太平洋経済協力会議(APEC)、世界貿易機関(WTO)と中国との関係について取り上げ、東アジア・アジア太平洋・世界というグローバルな枠組みでの国際的組織の中に中国を包摂化することによって中国の軍事的政治的経済的「脅威」の相対化とその効用がどのように認識・分析されていたかについて再構成を試みる。

終章では、これまでの読売・朝日両新聞「社説」の言説を概観するとともに、それらと日本国内の世論の傾向性との相関関係について考察を加え、最後に「東アジア共同体」創設の必要性と今後の課題について述べる。

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