「中国」の自画像―過去と将来を規定するもの

堤 一 昭

はじめに

「中国」の自画像とその歴史的系譜を探るのが本稿の目的である。現在の日本では、「中国」=華人民共和であるかのような認識が一般的にあるかのように思われる。しかし、「中国」はどのように自画像を描いてきたかという問題は、現今の中華人民共和国を自明の前提として考えることからは、いったん自由になって考える必要があると考える。 「中国」はどのように自画像を描いてきたかという問題を、ここでは二つの視角から考えてみたい。一つは時間的認識からであり、もう一つは空間的認識からである。つまり、前者はいつからを自らの「中国」として考えてきたのかを、後者はどこまでを自らの「中国」として考えてきたのかを問う。そして、これらの自画像を規定してきたものが何なのかを考えようとするのである。 上記の二つの問いに関わりうる議論が、註に引いた文献など特に近年の日本で提出されてきている。諸家の議論を上記の問題設定に沿って整理しつつ、素描を試みてみたい。

1.いつから中国か? ―続くものとしての「中国」

(1)司馬遷『史記』の歴史観

「中国」の自画像を論じる際、『史記』の重要性はいくら強調してもしすぎることはない(1)。『史記』に込められた司馬遷の歴史観は、「中国」の自画像を時間的かつ空間的な構造としても、彼の時代から過去へ、また将来に至るまで規定することになったためである。 時間的かつ空間的な構造とはどんなものか。それは、原初から皇帝ないしはそれに相当する唯一の君主のもとの「中国」が存在し、この構造は不変で現在もあり、そして将来も不変で続いていくというものである。

『史記』は、司馬遷の生きた前漢の武帝時代(西暦紀元前1世紀)の現実を、彼の考える歴史の原初である五帝(とくにその最初の黄帝)時代に投影した。その後の皇帝ないしはそれに相当する唯一の君主のもとの「中国」という空間構造の変遷を、「本紀」を軸として「通史」として描いた(2)。つまり、「中国」はスタートから(司馬遷の)現在と同じ構造であったのであり、君主の興亡はあるものの現在まで変わらないということを主張していることになる。原初から現在に至るということは、それが将来にも続くことを言外に主張していることにもなろう。

彼の歴史観からは、時間的に原初から現代に至る、絶えることのない一方向のベクトルが想起される。これは近代西洋の発展史観にも似ているが、この間には発展ではなく不変が主張されていることが根本的に異なっている(3)。

(2)「正史」の継ぎ足し

「中国」の後世の歴史家たちがおこなったのは、司馬遷の創った時間的に原初から現代に至る不変のベクトルを継ぎ足すことだった。班固『漢書』は前漢一代を、范曄『後漢書』は後漢一代をというように、王朝ごとの「断代史」が書き継がれていったのである(4)。彼らは上記の司馬遷の歴史観に取って代わるものを創り出せなかった。それだけ『史記』のインパクトは強かったのである。

こうして司馬遷の『史記』を筆頭とする一連の「紀伝体」史書が、史書の代表「正史」として認識されるようになり、またここに表される「中国」観もオーソライズされてくる。原初から延々と「続くもの」としての「中国」があるべき姿として意識され、時の政権が意図して、自らの淵源となった過去の政権を、『史記』で描かれたこれまで以来の「続くもの」に接続する史書を編纂させることが起こってくる。紀伝体の「正史」を編纂させること自体が、当の政権をも「中国」に繋げる強烈な政治的アピールとなる。唐の太宗李世民が行わせた三国以降の歴史書編纂事業もその一例であった(5)。

「大清」の乾隆帝による、『史記』から『明史』にいたる「二十四史」の決定で、一連の正史に記された「中国」の自画像はひとまず確定する。だが、辛亥革命後も、『清史稿』編纂や、民国大総統徐世昌による『新元史』の「正史」への編入など、「正史」の継ぎ足しは続いた(6)。

こうして中華王朝の興亡の繰り返しという、時間的認識としての「中国」の自画像、「中国」史のイメージも生まれてきた。まさにイメージ、歴史家が「中国」の歴史をどうイメージして書いたか/書かされたかであって、ストレートに史実がそうであったとは限らないのだ。

(3)「正閏論」 ―モデルと現実との妥協

ユーラシア大陸東部の実際の歴史は、紀元前1世紀に司馬遷が前漢・武帝時代の現実をもとに創り上げた唯一の皇帝のもとの「中国」という歴史観どおりには、続かなった。まず西暦紀元3世紀に漢王朝が終焉を迎えると、魏の曹丕・蜀の劉備・呉の孫権と皇帝を称する三政権が「中国」に同時に並立し、短い西晋の一時期を除いては、「南北朝」時代など、複数の皇帝が存在する時代が3世紀半も続いた。

こうした現実に対して歴史家たちが創りだしたのは、複数いる皇帝たちの正邪を議論する「正閏論」だった。司馬遷が描いた「中国」とその歴史のモデルとは異なる現実に直面しても、それに対応した新たな歴史観・「中国」観を創らず、つまり複数の「皇帝」が存在する場合、そのうちの一人が正しく、他は偽物であるという「説明」によってモデルは不変のまま温存したのである。

たとえば、三国の「正閏」について、西晋の陳寿『三国志』・北宋の司馬光らの『資治通鑑』では魏を正統、南宋の朱熹『通鑑綱目』では蜀を正統とした。南北朝についても史書により立場が異なる。現在から見れば、現実より観念上の理想を優先する逆さまの議論のように思えるが、「正閏論」は実に長く、「中国」の歴史家により議論し続けられた(7)。それだけ、司馬遷が描いた『史記』が「中国」の自画像を規定する力が強かったと見るべきであろう。

2.どこまで中国か? ―拡がるものとしての「中国」

(1)『中国歴史地図集』から見た歴史上の「中国」

まず、現在の中華人民共和国において、歴史上の各時期においてどこまでを「中国」として考えているのかを問いたい。その手段として、譚其驤主編『中国歴史地図集』全8巻(8)を用いる。各巻各時期の「全図」、その周縁部を示す境界線に注目する。この線の内側が「中国」であると考えていることになる。この歴史地図集は中華人民共和国の歴史地理学界の総力を挙げて作られたものであり、中華人民共和国の公式見解を反映していると見てよいだろう。まさに歴史的な奥行きをもつ現今「中国」の自画像である。

各巻冒頭に掲げられる「中華人民共和国全図」と各時期の「全図」の周縁部境界線を対照していくと、中華人民共和国の領域に一部でも領域が重なる歴史上の政権の領域はすべて「全図」で着色されて示すという“原則”らしきものが見えてくる。領域としては示しがたい第一冊(原始社会・夏・商・西周・春秋・戦国時期)でも原則は同様で、遺跡・都市の所在が中華人民共和国の領域内に限って濃い色で示されている。一部でも領域が重なるものは全て含んでいるので、各時期とも中華人民共和国領域よりも相当大きく「中国」が描かれる。だが、その現在より広い領域を直接そのまま「中国」の自画像として描いているのではなく、現在の中華人民共和国の領域・領土が、過去においてもずっと「中国」を構成してきたと主張していると読みとるべきだろう。

「中国」の枠組みをはるかに超えた13~14世紀の所謂モンゴル帝国の時代についても、 この“原則”が適用される。第七冊(元・明時期)の「元時代全図(一)」「同(二)」でも着色で示されるのは、所謂「元朝」と所謂「窩闊台(オゴタイ)汗国」「察合台(チャガタイ)汗国」のみで、所謂「キプチャク汗国」「イル汗国」は入っていない。当時のモンゴル帝国自身の「自画像」ではこんなことはありえない。これは、あくまで現在の中華人民共和国の歴史的な自画像なのである。

上記の “原則”が一箇所だけだが守られていないところがある。第五冊の「五代十国時期全図」で、中華人民共和国の領域には全く重ならず、モンゴル国の領域北辺にわずかに重なるだけの「轄戛斯」「嗢娘改」がひとまとめに色塗りされている。これは、中華人民共和国がモンゴル国の領域をも領土主張しているとストレートに読むよりも、モンゴル国の領域をも含んだ時期の領域を実は「中国」の自画像として描いているのではないだろうか。

その想定される最適の時期は、「大清」乾隆帝時代、宿敵のジュンガルを滅ぼし「回部」をも併合して新たな領域「新疆」とした西暦18世紀後半である。

これは“原則”が守られていないのではなく、むしろこちら西暦18世紀後半「大清」乾隆帝時代の領域が、空間的に見て中華人民共和国の「中国」の自画像だと考えられるのである(9)。

(2)「中国」の自画像の拡大 ―大元・大明・大清

現在の「中国」の自画像に関わり、王柯は近著『多民族国家 中国』で興味深い意見を提出している(10)。ただその中で気になるのは、「中国」の原初から現在の中華人民共和国までを直結し、拡大としてイメージしている点である。彼は「基本的な事実」として次のように言う。「中華文化は……その地理的空間もかつての「中原」から、十数倍にも拡大した。つまり中華文化は長い歴史のなかで次第に衰退したのではなく、逆にますます周辺の人々を引き込み、勢いを伸ばしてきたのであった(p.22)」。この主張がはらむ問題点については、濱田正美が鋭く指摘している(11)。それとの重複を避けて、ここでは濱田が論じていない一点、宋と「大元」以後との「中国」の自画像の違いについて検討したい。

通例は、「(夏)殷周…秦漢…唐五代宋元明清」と一続きに王朝の興亡として呼び慣わされているが、宋代までと13~14世紀の所謂モンゴル帝国「大元」以後の「大明」「大清」とでは、その各々描く「中国」の自画像には大きな断絶があるのである(12)。「大元」「大明」「大清」においては、宋代以前の「中国」王朝が描いた自画像としての「中国」(中華と言った方がいいかも知れない)と、モンゴル高原を中心的にイメージしたであろう北アジア(ないしは内陸アジア地域)との双方を合わせた姿が意識的に自画像として描かれているのである。

当時の史料でその自画像を示そう。「大元」時代に刊行された“日用類書”『事林廣記』(至元庚辰(西暦1340年)刊本)癸集上巻、地輿類・歴代国都に「……大元皇帝、奄有天下、混一南北」と記され、「南」と「北」の統一が強調されている。「南」が宋につづくそれ以前の「中国」であり、「北」が北アジアを指している。「大明」初代の洪武帝が、「大元」直系のトグステムルが死亡した直後の洪武22年(西暦1389年)に「大元」皇族のアジャシリに宛て帰順を呼びかけた書簡(13)(モンゴル・漢のバイリンガルで残る)にも、「大元」による「南」「北」の統一という意識が示されている。煩瑣をいとい大意訳だが、キーワードのみはモンゴル語・漢語双方を示す。「…二百年前の昔、モンゴル(mongqol, 達達)と中国(kitat, 漢人)が別々に国(qaritan, 邦土)を建てていた時、南北に分かれていた。どうして予期できようか、中国の皇帝(qahan, 皇帝)が怠り、モンゴルの皇帝(qahan, 皇帝)も悪しくしたので、天(tengiri, 天)は大元モンゴル皇帝(Ta Iuen mongqol qahan, □□達達皇帝)を選んでモンゴルの土地(qajar, 地面)に生まれさせた。多くの国を破って北の土地を安寧にし、後に彼の子孫が天の意思に依って南の土地を安寧にして、南と北すべてのくに(ulus, 百姓毎)を一つにして、モンゴルと中国の別なく統一した。」ここに続く部分にと「大元」皇帝を継ぐものとしての「大明」皇帝という考えが示されている。

上記の記述からは、「北」=モンゴルの君主も「皇帝」と記され、「南」=中国(漢人)の「皇帝」と同等であり(14)、「大元」以後は、宋以前からの「中国」皇帝とチンギス・カン以来の北アジア(ないしは内陸アジア地域)の君主・カアン(カン/ハーン)を一人の人間が兼ねるということになる。

通例、「漢民族王朝の復活」というイメージで語られやすい「大明」も、意識の上では「南北」に君臨する「大元」を継いだ姿を自画像として描いていたのである。しかしながら、万里の長城に象徴されるように「大明」は「北」を支配する実力がなく、モンゴル高原には「大元」後裔の政権が続いた。「混一南北」を再び成し遂げたのは、「大清」になってからである。太宗ホンタイジが「大元」後裔たるチャハル部のエジェイから「伝国の璽」を譲り受けて「北」の君主たる資格を得て(「大清」への国号変更と崇徳改元はこれを記念したもの)、さらに順治帝の時に「大明」の滅亡を機に「入関」し、李自成はじめ対抗勢力を滅ぼして「南」の君主・皇帝となった。「北」の君主たる資格には強大な挑戦者たるジュンガルが存在したから、それを滅ぼして「南北」に君臨する自画像と実態が完全に一致することになったのは、先にもふれた乾隆帝の時代なのである(15)。

おわりに ―もう一つの問い

以上、二章に分けて述べてきたことを簡単にまとめると次のようになろう。

「中国」の自画像は、司馬遷『史記』が当時の現実をもとに描いたものがきわめて大きな影響力を持った。それは、原初から皇帝ないしはそれに相当する唯一の君主のもとの「中国」が存在し、この構造は不変で現在もあり、そして将来も不変で続いていくというものであった。この「続くもの」としての自画像は、現実が変化しても「正閏論」という説明を付け加えるのみで、描き直されなかった。

モンゴル帝国の「大元」に至って、それまでの「中国」(南)と、北アジア(ないしは内陸アジア地域)(北)との双方を併せた姿が自画像として描かれるようになった。現実とは別に「大明」もその姿を描き、そして「大清」乾隆帝の時代にいたってその姿は再び現実のものになった。

ただし、「南北」を併せた自画像の出現も、司馬遷『史記』以来の自画像を塗り消すことにはならなかった。「大元」「大明」「大清」の時代も「続くもの」としての『史記』以来の「正史」が編纂されて、こちらの自画像も描き続けられたのである。

現在の中華人民共和国は、空間的に見ると「大清」乾隆帝の時代の領域を継承しているが、「南北」を併せた自画像は司馬遷『史記』以来の自画像との違いはかならずしもはっきりと意識されていないと思われる。

“いつから”と“どこまで”という二つの問いから「中国」の自画像を論じたこの文章で、省いた三つ目の問いがあることを最後に告白しなければならない。それは、誰が「中国」人か?という問いである。この問いに答えることはこの小論では荷が重すぎる。三つの注意すべきポイントが存すること指摘し、今後の自らの課題としたい。(1)「大清」乾隆帝の父、雍正帝時代に問題となった中華文化の普遍性の問題(16)、(2)華僑・華人をめぐるアイデンティティの問題(17)、(3)最近提唱される東アジアの「漢文文化圏」の問題(18)。



(1) 司馬遷『史記』のインパクトについては、岡田英弘が各論著でくりかえし述べている。たとえば、『世界史の誕生』(筑摩書房、1992年)第3章「皇帝の歴史――中国文明の歴史文化」、『だれが中国をつくったか』(PHP研究所、PHP新書363、2005年)の序章「中国人の歴史観――つくられた「正統」と「中華思想」」や第一章「司馬遷の『史記』――歴史の創造」参照。
(2) 順に「五帝」「夏」「殷」「周」「秦」「秦始皇」「項羽」「高祖」「呂太后」「孝文」「孝景」「孝武」の各本紀。
(3) いつから中国か?という問いは、実は原初の「中国」をどうイメージして描くかという問いにつながる。この問題については、岡田英弘が描いた原初の「中国」の姿と王柯が描いたそれとを対照してとらえた濱田正美の議論が注目されることのみを記したい。濱田正美2006:「湖南・樸学・「内」と「外」」(『史林』第89巻第1号、2006年1月、pp.1-21)参照。
(4) 宮崎市定は、班固『漢書』は『史記』の続きとして単に前漢一代のみを描いたものでなく、独自の「通史」としての性格をも持っていると指摘する。前漢より前を「古今人表」という形で圧縮して示しているとする。「アジア歴史研究入門 序文」『アジア歴史研究入門1』(同朋舎、1983年,pp.ix-x)参照。
(5) 杉山正明『遊牧民から見た世界史』(日本経済新聞社、1997年)のpp.200-209「中華王朝史観からの脱却」参照。
(6) 中華人民共和国になっても、中華書局が他の「二十四史」と全く同じ体裁で(ただし装丁の色は微妙に異なっている)『清史稿』を刊行していることは、もちろん公式にではないにせよ、一連の「正史」による「中国」像が継続されていることを示しているといえるだろう。
(7) 「正閏論」の問題は、単に過去をどう考えたのかだけでは説明できない。論じられたその時代の現実が、過去の歴史の認識に反映された例として、北宋時代の欧陽修をはじめとして「正閏論」が盛行があげられる。これは契丹(遼)の圧力のもとに、北宋が自ら以外に契丹の君主をも皇帝として認めざるを得なかったことが背景にあると考えられる。複数の皇帝が存在する現実に対し、自ら(北宋)が本当は自らの「皇帝」だけが本物で契丹皇帝はニセモノだ、でもそれは表だっては主張できないというジレンマが、過去の歴史を考えるなかで表れたものと思わざるを得ない。同様のことが、清初にも看取できる。「大清」そのものを否定できないために、過去の「大元」を色々なかたちで否定するというものである。考証学者として著名な顧炎武がその一例といえる。時代の現実が、過去の歴史の認識に反映されることについては、礪波護「鏡鑑としての歴史」(礪波他編『中国歴史研究入門』名古屋大学出版会、2006年、pp.2-4)参照。
(8) 譚其驤主編『中国歴史地図集』第一冊(原始社会・夏・商・西周・春秋・戦国時期)、第二冊(秦・西漢・東漢時期)、第三冊(三国・西晋時期)第四冊(東晋十六国・南北朝時期)、第五冊(隋・唐・五代十国時期)、第六冊(宋・遼・金時期)、第七冊(元・明時期)、第八冊(清時期)、北京・地図出版社、1982年(第一~第七冊)、1987年(第八冊)。
(9) これは中華人民共和国だけではない。台湾で発行される「中華民国」地図でも、モンゴル国(さらにはトゥヴァ共和国の)領域も「中華民国」の一部として示されている。なお、中華人民共和国の領域が、乾隆帝時代の領土拡張に遡ることは研究者にとっては周知のことでもあるが、杉山正明の近著(杉山2005 .pp.14-17)では、「必ずしも周知の事実にはなっていない」と、この事実をよりはっきりと認識すべきと主張している。
(10) 王柯『多民族国家 中国』岩波書店、岩波新書新赤版983、2005年。
(11) 濱田正美前掲「湖南・樸学・「内」と「外」」, pp.18-19.
(12) 国号についても、宋以前は皇帝の家にちなみのある地名であるが、「大元」が『易経』に基づく国号であるのと同様に、続く「大明」「大清」も理念を示すもので、異質のものである。美称として宋以前の王朝でも「大」字を冠するのでそれと混同して、逆に「元」「明」「清」と称されるなど、宋以前と大元以後の質的違いは現在でも必ずしもはっきりと意識されていない。
(13) 『華夷訳語』(甲種)「来文」の「詔阿札察里」。A. Mostaert, Le matériel mongol du Houa I Iu華夷訳語 de Houng-ou(1389) , I, 1977.
(14) 北アジアの君主も対等の「皇帝」とすることは、北宋が契丹(遼)に対して認めた先例がある。
(15) 「大清」皇帝が冬に居る北京の紫禁城と、夏に滞在する承徳の離宮群とは、各々南北の君主の性格を反映したものである。もう一つ「大清」皇帝にはチベット活佛の大檀越として君臨する性格があることも忘れてはならない。
(16) 宮崎市定「雍正帝」の「六 忠義は民族を超越する」にこの問題をめぐる状況が活写されている。『宮崎市定全集14』岩波書店、1991年。
(17) 斯波義信『華僑』岩波書店、岩波新書新赤版382、1995年の第四章「ナショナリズムと異化・同化」はこの問題を考える際の糸口になる。
(18) 「特集=東アジア――漢文文化圏を読み直す」『文学』岩波書店、隔月刊第6巻第6号、2005年。書き言葉「漢文」を媒介とする東アジアの文化交流は、「中国」から他の漢文文化圏への一方通行だけではないだろう。ちなみに中世の「日本」は「中国」とはまったく異質の「自画像」を描いていたことも忘れられない。黒田日出男『龍の棲む日本』岩波書店、岩波新書新赤版831、2003年参照。また自画像のみならず他者が描く像がはらむ問題を羽田正『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会、東洋叢書13、2005年)は教えてくれる。これらは「中国」の自画像を相対化して考えるために貴重な材料となる。

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