中華ナショナリズムの経済史的文脈―1936年中国「埠際交易」増大の政治的含意―

西 村 成 雄


  1. 20世紀中国に先行する「中華世界」経済圏の再定義―黒田明伸・杉原薫両氏の業績から
  2. 20世紀前半期にいたる長距離販運交易の発展―呉承明氏の統計から
  3. 1936年中国「埠際交易」の到達点
  4. 1930年代埠際交易増大と鉄道網形成の政治的含意


1.20世紀中国に先行する「中華世界」経済圏の再定義―黒田明伸・杉原薫両氏の業績から

ここでいう中華ナショナリズムとは、20世紀中国ナショナリズムを支える重要な柱であり、もう一つの支柱は国民国家ナショナリズムととらえられる。つまり、20世紀中国社会は、19世紀までの中華世界という原空間を基礎として、20世紀世界としての国民国家原理の導入とその凝集力の強化という新たな統合への道を歩むとともに、同時に「中華民族」という新たな統合原理を凝集させることによって従属的国民国家の政治的独立と侵略への抵抗力を担保してきた。

こうした政治空間における20世紀中国社会の特徴付けはどのような経済史的コンテクストのなかに位置づけられるのだろうか。

おそらく、最も体系的に20世紀中国経済をも展望して「中華帝国」の経済的特徴を定義したのは黒田明伸氏の『中華帝国の構造と世界経済』(名古屋大学出版会、1994年)であろう。氏によれば、国制としての中華帝国の本質とは、「地域経済の固有性を温存させながら、かつ財・サービスの移動の自由を保証する」ところにあり(同上書、p.322)、その中華帝国の市場社会は「非均衡型市場経済」として特徴つけることができる。それは農業社会の季節性に照応する貨幣機能をもつ「現地通貨」と、地域と地域との間の債権債務を決済する貨幣機能をもつ「地域間決済通貨」という二つの貨幣を生みだしてきた(同上書、pp.9-10)。これは、均衡型市場経済にみられるような二機能の統一を示す「本位通貨制そのものを拒否した社会」であった(同上書、p.12)。換言すれば、市場経済には均衡型と非均衡型があり、その「区分の鍵は地域性を付与された貨幣需給の季節性に対する制御の有無である」ということになる(同上書、p.9)。均衡型市場とは、貨幣需給の季節性に対する制御に成功したことによって、「地域間の価格体系の乖離を解消させ」「同一労働同一賃金」による広域な分業を生みだす」にいたる(同上書、p.9)。こうした傾向は20世紀初期中国にすでに萌芽的に現象しており、「財政機構を核として複数の現地通貨圏を総括した広域経済圏」がひとつの「国民経済としての内容」を準備しつつあった(同上書、p.16)。かくて、中華帝国の市場社会は「地域経済の自律性を保存しながら、超地域的な交易網の延伸を保証する」ものと規定することができ、これと対比的にヨーロッパを中心とする世界経済のそれは「地域経済」の総括が国境の内部で進行」した「国民経済」の総体としてとらえられる(同上書、p.17)。

氏は実証的にその分析枠組を提起する。すなわち18世紀後半以後「銀銭二貨制」による銀両の「地域間決済通貨」化と、銅銭の「現地通貨」化の過程が進行し(同上書、p.37)、「地域経済から超越させられた銀」の中華帝国での統合的機能を解明し、19世紀末から20世紀に入った頃には、「雑種幣制」ともいうべき状態を生みだし、それは、対外決済と対内流動性を取り結ぶ本位貨幣を形成させない」「地域経済に対外収支を均衡させる性格を付与させ」ないものであった(同上書、p.114)。さらに、「超地域権力が地域経済を管理するのを拒否する」傾向をもつことによって(同上書、p.133)、中華帝国は「権力の分散を伴わずに地域経済の多様性を保全」したのである(同上書、p.141)。このように、前編「中華帝国の昇華と世界経済の始動」を構成したあと、後編「世界経済の展開と中華帝国の溶解」にあっては、「帝国が世界経済に溶解していく過程」を辛亥革命後の変動として描く。まさに「溶解」であるがゆえに銀銭二貨制という磁場をもったもとでの世界経済の浸透であり、たとえば、湖北省を例として、省独自の通貨政策官銭局設立と、中央政府による幣制統一という対外的な統一通貨政策とは本来矛盾せざるをえないことを論じる(同上書、p.167)。しかし、湖北省官銭局による幣制改革の成功によって広域通貨圏が形成され、省レベルの財政金融上の自律性が獲得され「中国王朝の倒壊」をもたらすにいたる(同上書、p.186)。もちろんそこには「漢口開港場経済圏」という新しい条件があり、世界経済とのリンケージによる貿易額の増大とそれへの通貨的対応のなかで、省政府の通貨供給能力の拡大と独自財源創出は「権力の分省的展開の基礎」となり、「20世紀初期、中国は権力の分省化の動機を内にはらむ」ことになる(同上書、p.226)。世界経済とのリンケージが開港場経済圏を生みだし、農産物を含めた第一次産品の輸出も増加し、国内関連のもとでの商業的農業ネットワークは「開港場を中心に別々に世界市場に対し口を開いた形になった」(同上書、p.242)。つまり、「第一次産品供給国としての世界経済への編入は、一方で、旧来の国内地域分業を断ち切って再編しながら、他方では開港場を中心とした地域経済を越えた農産物集荷機構としての広域通貨圏を形成」し、「中国はいわば外向的な広域経済圏が並列しながら国民経済としては非統合的でかつ不均等な発展の道を歩みはじめた」(同上書、p.250)。ここでいう広域経済圏は開港場経済という意味である。ここに、20世紀初頭の「現地通貨」の消滅に示される非均衡型市場経済の世界経済という均衡型のそれへの「溶解」が進行する(同上書、p.258)。その到達点に1935年の法幣発行による幣制統一がある(同上書、p.261)。にもかかわらず、法幣統一後も、また現代中国においてすら「なお現地通貨需給の季節性に対応しきれずにいる」現実がある(同上書、p.323)。非均衡型市場経済構造は、彼らの選択を支配していたところの「構造の存在」として持続してきたといえよう(同上書、p.18)。

やや詳しく氏の論旨を追ってきたが、筆者にとっても最も刺激的なのは中華帝国の市場社会を「非均衡型」としてとらえ、世界経済を生みだした資本主義経済との種差を正面から論証しようとした点にある。というのも、ひとたびこうした種差への分析概念を得た以上、この二つの市場経済の交錯を区別し、かつ相互に作用し機能する経済の磁場を統一的に認識する手がかりを与えられたからである。20世紀史としての中国社会をその政治空間においてとらえたとき、明らかにそこに二つの異なる政治空間を観察しうる。一つは、国民国家としての凝集力を高める政治思想、政治運動の作用する国民国家形成空間としてのナショナリズムの空間であり、もう一つは、かつての中華世界とその政治体としての中華帝国的中華民族的編制への回帰願望の作用する中華ナショナリズム的空間である。これらはいずれも19世紀的中華世界を原空間として、20世紀現象として政治的に凝集したものといいうる。この政治空間における二重性、あるいは複合的性格は、まさしく経済空間における種差としての「均衡型」「非均衡型」と照応していると考えられる。政治史の文脈でいえば、近代国民国家システムへの編入過程としての国民国家への道と、20世紀現象としての中華民族的凝集願望の実体化への道が交錯しあっていることにほかならなかった。黒田氏の論点は、経済空間の複合性と中華帝国の20世紀的傾向性としての世界経済との溶解をあきらかにしていたのである。したがって、そこには20世紀第1四半世紀の政治的「混乱」現象の底流にある種の社会的経済的凝集力の形成を発見しようとする志向が示されていた(同上書、p.261)。この点は、筆者の理解とも共有する認識であろう(拙著『中国ナショナリズムと民主主義』研文出版、1991年、および『20世紀中国の政治空間』青木書店、2004年)。

にもかかわらず、ここで同氏の提示する種差論のレベルとは異なり、むしろ20世紀中国社会が示す現象の両義性という視点からその複合的性格を論じてみよう。それは、氏の分析した18~19世紀から20世紀初頭期を経たもとでの20世紀第2四半世紀の時代をとりあげることで、政治空間における国民国家的凝集と中華民族的凝集の特徴を経済史のコンテクストから再解釈することになる。

そこで、さらにアジアというより広い交易圏を設定し、アジア間貿易の近現代史における歴史的意義を再構成した杉原薫『アジア間貿易の形成と構造』(ミネルヴァ書房、1996年)の含意をとりあげたい。

本書のライト・モチーフは次の三点にあると考えられる。

第一に、従来の分析単位が一国史的、あるいは西洋中心史観的な制約下にあったことについて、アジア間貿易(Intra-Asian trade)の成長過程の実証を通して、アジア・レベルの分析単位を対置することにある。すなわち、アジア全体の地域内部の貿易=アジア間貿易が「欧米を中心とする世界システムから相対的自立性」(同上書、p.1)をもつ実体経済として存在してきたことを実証する。ここでいう相対的とは近代世界システムの一環として欧米との従属的関係にあることを指し、自立性とはアジア間貿易が単なる交易(ディマンド・プル型)ではなく「工業化型貿易」構造を創出しえていたことを指す。氏は、世界システム・レベル、アジア・レベル、一国レベルの三層構造に照応する三層の分析単位を想定している。しかも、この場合、従来の統計資料のもつ一国史的制約から、第二層にあたるアジア・レベルの分析には複雑な加工処理が必要であり、この面での氏の努力には敬意を表したい。

第二には、なぜ、アジア・レベルの分析単位が従来欠如していたのかという問題と関連して、実際には「アジアに共通の消費構造に適した工業品」(同上書、p.4)の供給がなされざるをえないし、またそのようなアジア域内「工業化型貿易」の存在があったことを検証しようとしている。つまり、アジアの近代にあっては欧米との貿易以上に、「アジアの生産・流通・消費の全構造」(同上書、p.4)に規定されたアジア域内の工業品と第一次産品との貿易関係が形成されていたとする。したがって、近代アジア・レベルを分析単位とする限り、この特徴はいわゆる前近代の「伝統的なアジア貿易圏の中から自主的に成長したもの」(同上書、p.2)とはみなせない。氏の時間軸からみた分析枠組は19世紀後半期から20世紀前半期にかけてであり、まさにこの時期こそ近代世界システム内において「アジア内部での国際分業体制」(同上書、p.2)が工業化型貿易構造として形成されるという特徴をもち、それ以前の伝統的貿易構造とは異なる段階を画していたことが実証される。ここに、「アジアの伝統的な物産が近代的商品に生まれ変わる」過程があり、それがアジア間貿易における「綿業機軸体制」の成立としてとらえられる。では、従来からのアジア間貿易が近代世界システムと相互浸透する時、アジア側が一方的解体をとげたのではなく、それ自身の枠組をなお維持しつつ、近代的物産創出として変容をとげることができた根拠は何か。氏は、それを①アジアの衣食住の価値体系にもとづくニーズに見合った原綿の産地、②近代紡績業、③膨大な手織綿布生産、の三者をすべて域内にかかえ、④主要な食料供給地域を開発するだけの条件があったからだとしている(同上書、p.37)。そこから、歴史的に、「一つのまとまりをもったアジア経済圏」像を抽出する(同上書、p.38)。しかもそれは、単なる伝統的経済構造の段階ではなく、また、ウエスタン・インパクトの強弱によってアジア経済が左右されたとするのではなかったことを強調することになる。そして、この議論と歴史像にかかわる論点として、川勝平太氏のいう「物産複合論」が援用され、アジア的規模での物産複合の19世紀的展開であったことが主張される。「アジアに共通な物産複合」(同上書、p.380)という概念は、独自なアジア貿易圏が近代的に再編される過程を表象したものといえる。つまり、伝統的アジア交易圏の即時解体論でもない、アジア的まとまりをもった中間的経済圏を19世紀から20世紀にかけて構想することであった。この経済圏の担い手を、インド洋交易圏における印僑、東アジア朝貢貿易圏における華僑に求め、しかもその相互浸透性のなかに近代アジア経済圏の一つのまとまりを見出している(同上書、p.381)。

かくて、第三に、現代のアジア経済圏域内の経済発展をも展望し、「1990年までに戦前の絶頂期にみられたアジア経済の地域ダイナミズムがほぼ完全に復活した」ととらえる(同上書、p.389)。1965年以降、アジア間貿易は着実に拡大し、1980年代にはNIESの日本・ASEAN・中国との貿易、およびNIES間貿易の拡大が顕著になったとする(同上書、p.390表2)。加えて、欧米の価値体系との一定の融和というバイカルチュラルな性格が維持されていることによって、欧米のアジア域内進出の困難さを生みだしているとする(同上書、p.391)。その分、日本側のアジアにおける優位を保持している面があるにせよ、問題のあり方は、むしろ「どの程度バイカルチュラルな市場に対応できるか」「欧米のメーカーがいかにして自らの文化的バイアスを相対化しうるのか」という局面へ移行しているととらえる(同上書、p.391)。たしかに、その限りで「アジア経済の自立化」がいいうるか、決定的な論点は、「現在にいたるまで、アジアは欧米のバックアップのない独自な国際政治秩序をつくり得ていない」(同上書、p.391)というところにあり、「アジア間貿易を支えてきた制度的枠組の自立化の方向性をより長期的な歴史的パースペクティヴの中で検討する必要性を迫っている」と本書をしめくくっている(同上書、pp.391-392)。

20世紀中国史像を再構成しようとする点からみれば、本書の提示している歴史像はきわめて明解、かつ膨大な統計処理による実証性に含む刺激的論点が含まれている。すでに言及したごとく、氏の基本的枠組は、世界の経済空間を世界経済レベル、アジア経済レベル、一国経済レベルの三層に区分しつつ、それぞれを分析単位として抽出するところにあった。そして、とくにアジア経済レベルの分析単位が従来ほとんど正確に認識されてこなかった点に、今日にいたる東アジア経済圏域の成長を歴史的にとらえられなかった問題点があることを明確にしている。

まず、ここでいう分析単位としてのアジア経済圏域の抽出は二つの側面からみて重要な指摘であると思われる。第一に、アジア経済空間(圏)が実体経済として存在し、そこには独自な発展の論理があることを確認しうるとすれば、従来のようにウエスタン・インパクトの従属関数としてのみアジア経済をとらえた一路近代化という歴史像、さらにその裏かえしとしての「伝統的経済の強固な残存」=アジア停滞論という認識と異なる新たなパラダイムを切り拓きうる契機が内在している。つまり、氏のいう三層構造論の第二層への着目がアジアにおける重層的経済空間を改めて認識することになったのである。この点は、第二に、アジア政治空間を理解するうえでの新たな視界を与える。すなわち、従来の分析上の言説としての植民地支配の浸透度をもってアジア政治空間をとらえる植民地・半植民地概念の歴史的制約とその限界を明示しているといえよう。

この伝統的概念は、基本的には、宗主国・列強とアジア地域内の一国、あるいは一地域社会との関係として定置されたものであり、アジア・レベルを一つのまとまりとして認識したものではなかった。たとえ、アジアを全体としてとらえていたとしても、単なる算術総和としての被抑圧の共通性としてのアジアでしかなかったといわざるをえない。したがって、第二層への経済史的注目はアジア政治空間を新たにとらえなおす視点を生みだしうる可能性がある。アジア経済空間認識が欠如していたと同じように、アジア政治空間認識の希薄さは、アジア諸国家・諸地域内部あるいはそれらの相互関連性のなかに存在するある種の凝集力を見失わせてきた。この凝集力は、周辺地域としてのアジアの自律性を想定させるものであるが、その自律性は「植民地支配」という言説のなかに埋もれてしまっていたといえよう。その意味で、このパースペクティヴは、改めて、諸国家・諸地域内部あるいはそれらの間に存在する凝集力を再評価する視点を与えることになろう。のみならず、アジア・レベルのそうした凝集力と自律性をとらえる視点をも提供するにちがいない。

そして、このような分析視角は、実は中国レベルの経済空間をあたかも一つの「アジア」レベルの分析単位になぞらえることが可能であるような印象を与える。なぜなら、われわれは往々にして、19世紀中国の政治経済空間を中華世界という言説でみているにもかかわらず、分析単位としてはそれを「近代国民国家」としてとりあつかうメンタリティーをもってきたといわざるをえないからである。果たして中国社会の政治的総括としての中華帝国はいかなる国家状態にあったのだろうか。19世紀から20世紀にかけての中国社会の国家状態を独自に規定しなおすことによって、あたかも杉原氏の提起した「アジア」レベルの分析単位と同じ位相をもった一つの経済的凝集力を保持しえたような意味での中国社会の独自なあり方を抽出しうるのではないだろうか。その意味で、統計操作も含めて「中国」という一国史的枠組をひとまずほどいて、20世紀中国の経済空間を複合的構成として再定義するなかで、20世紀中国社会認識の新たな視界を獲得しえないだろうか。これは黒田明伸氏のいう「非均衡型市場経済」の空間的配置を再検討することでもある。

2.20世紀前半期にいたる長距離販運交易の発展―呉承明氏の統計から

すでにこの領域での先駆的研究者呉承明氏の『中国資本主義與国内市場』(中国社会科学出版社、1985年)に所収の三部作「論明代国内市場和商人資本」「論清代前期我国国内市場」「論我国半殖民地半封建国内市場」を中心にまとめてみよう。なお、これらの論文集はその後『中国的現代化:市場與社会』(三聯書店、2001年)に所収されたが、ここでは旧版に依る。

呉承明論文は「国内市場」という視角から明代から20世紀までを時系列的に、かつ空間的にとらえるとともに、しかも、市場の構造を定量的に分析している点で、ここでの問題関心に最も適合する成果と考えられる。

まず、明代国内市場についてみると、明代に形成された各級市場を次の四層からなるとする(同上書、pp.218-222)。第一は、地方小市場で、これは「墟集貿易」という。往復一日以内の距離をもつ範囲で、表面的には商品交換にみえるが、実質的には使用価値の交換であった。第二は、都市市場で、農村からの流入という一方向流通で、政府徴税・城居地主の地租・商業高利貸資本の農村からの利潤や利息の三種類からなる。都市の消費的性格が濃厚であった。ところが、「長距離販運貿易」が発達するにつれ、沿江、沿海の商業ルートには商業都市が発展し、とくに沿海の広州、泉州、明州、秀州などが顕著であった。第三は、地域市場で、数省を範囲とする市場で、自然地理的生活習慣の諸条件を共有していた。小商品生産の段階へ移行しつつある農村家内手工業製品の交換が増大したといえる。第四は、「全国市場」で、長距離販運交易とともに発展をとげた。塩、鉄、漁猟産品の交易は長距離販運交易の重要産品であり、民生用品も明代からその主要産品となりつつあった。

明代の市場の定量分析は困難なので、商業ルートと新興商業城鎮の発展からそれを推測している。20世紀の鉄道ルート形成前は、沿江・沿海の水運が中心でとりわけ長江はその商品流通のチャネルであった。宣徳年間(1426-35)に、明朝は33の商品流通税徴収機関である「鈔関」を設置したが、そのうち15は長江沿いであった。上流域の成都、瀘州、重慶、中流域の荊州、武昌、下流域の揚州、鎮江、儀征、江寧、常州、蘇州、嘉興、杭州、湖州、松江、がそれであった。明代後期には長江貿易は発展をとげ、とくに江蘇、浙江両省の桑、綿、手工業の生産増大がそれを支えていた。また、明代国内市場の拡大は「南北貿易」の発展によるところが大きく、大運河沿いの商業ルートや、贛江沿いに南下し両広地域へのルートがそれを支え、通州(北京)から杭州までの運河1千キロ以上のルート開通により北京、徳州、臨清、済寧、済南、開封の6つの鈔関が設置され、天津や准安も新興商業都市化した。贛江沿いにも、南昌、清江、臨江、吉安の4ヵ所に鈔関が設置され、饒州や景徳鎮が繁栄をとげた。総じて明代はその「海禁政策」もあって海外市場との関連は少なく、国内市場の空間的かつ社会的分業の拡大という特徴をもっていたといえる。

そこで主要商品の長距離販運とその消費についての論点に言及しておく。明代の長距離商品としては、第一に「糧食」があり、商品化された食糧の移入域内調整地域は長江下流域で、九江以南の江西、安徽、江蘇、浙江、福建の5省がその中心で、清代のような湖南米や四川米の移入や、東北の大豆や麦の移入はなお出現していない。第二には「綿花、綿布」の長距離販運があり、この発展は一定程度の社会的分業を示すもので、地域内の使用価値交換との対比で商品流通を明示するものといえる。第三は絹糸と絹織物で、第二の綿布生産が明代の新興商品とだとすれば、歴史的商品といいうるもので、明代の蘇州杭州一帯の絹織物生産はすべて長距離販運の商業ルートに吸収されていた。第四は手工業流通で、とくに重要なのは鉄製品で明代後期には広東の佛山が中心となり、四川の鉄は長江から江蘇の無錫に運ばれた。景徳鎮の磁器も海外市場を獲得しはじめた。

こうした長距離商品流通市場の形成は、大商人資本の出現を伴っていた。徽商、山西や陝西の商人が有名である。これら新興大商人の主要営業商品は、食糧の販運だけではなく、塩や茶、布、絹製品、木材などであった。徽商は塩と典當(質)業に、山西や陝西の西北商人も塩商が最も多く、北辺の軍事的防衛に関わる食糧供給にも従事した。こうした大商人は清代には「十大商幇」と呼ばれるネットワークを形成するにいたる。

清代前期の長距離販運についていえば、商品化食糧の約20%がそれであったとされるが、明代にはなおその水準までにはいっておらず、綿布や絹製品の価格総額も食糧の半分に達していないと推測される。清代ではほぼ同額となる。ただ、この明代には長距離販運交易が、奢侈品や特産品流通から次第に民生用品交易へと移行しつつあったことが重要で、国内市場の性質にひとつの転換があったことを意味している。

そこで次に「清代前期の国内市場」についてみておこう。

明代国内市場は南北交易、大運河交易、長江交易から成りたっていたが、清代の商業ルートはさらにその経済的発展を基盤に大きな発展をとげるにいたる。まず、東西交易の拡大がはじまり、長江上流域の商業ルートが四川への移民と開発に伴い増大し、中流域(宜昌から漢口)交易も洞庭湖の開発による長沙を中心とする米市場の形成で増加、漢口鎮は乾隆期には10万人の人口を擁し「九省通衢」の商業中心地へと発展、華中と東南交易を増大させた。南方の珠江水系もその商業ルートを拡大した。南北交易の面では、大運河の改修不備によって乾隆期には衰退したが、それに代わって沿海北洋航路の開拓がなされ、華北、東北からの大豆、麦などが江浙に運ばれ、布、茶、糖などの南方商品が北へ運ばれるという南北一大幹線が形成された。アヘン戦争前にすでに内河航運ルートは5万キロ、沿海航路は1万キロができあがっていた。アヘン戦争後の商業ルートはほぼこの枠組にあり、一部が蒸気船などに代替したにすぎない。ただ20世紀に入り鉄道網の形成が新たな条件をもたらすことになる。

清代の大商人資本には、徽商、山陝商、海商のほかに、粤商、寧紹商、沙船商、そして国際貿易の行商が含まれる。清代に入り、各商業都市に商人会館が多く設置されたが、それは長距離販運交易の発展を反映しており、北京や蘇州には30~40ヵ所もの商人会館があった。それらは競争のなかで分裂と統合をくりかえし、嘉慶期(1796-1820)以後、会館は工商業公所という業界団体的性格をもつ組織へと発展し、清末には蘇州には公所が100種、上海にも60種あったという。

そこで、アヘン戦争前の国内市場についてみると、呉承明の計算によれば次のような三大商品類流通額を推計している。

この推計からみると、80%以上の市場交易は第Ⅰ類と第Ⅱ類の間で行われ、とくに糧食と布は市場の二大商品であり、その次に塩との交換があったことになる。次に、これらの生産者はすべて農民小生産者であり、市場交易とは小生産者間の交換にあったとすることができる。さらに、第Ⅰ類の布塩は、都市人口(全人口の約5%)の消費を除くと、ほぼ第Ⅱ類と同額となり、商品化食糧の都市流入は184万両で200万石たらずということになる。都市での食糧消費の残りは農村からの一方向の移入で2000万石を越えており、これは交換ではない。第Ⅲ類の絹、茶は都市で消費されたが2000余万両でしかなく、都市と農村の交換はそれほど大きくない。これがアヘン戦争前の市場構造モデルとなる。

食糧の商品流通をみるとき、これは長距離販運交易としてとらえる必要があり、これは手工業や経済作物との交換であった。清代前期には10大商業ルートが形成されていた。

  1. 南方の米麦:大運河経由で京畿、山西、陝西へ、約600万石
  2. 奉天の麦・豆:海運で天津、山東へ、約100万石
  3. 奉天の麦・豆:海運北洋航路の沙船交易で上海へ、約1000万石
  4. 河南・天津の麦・粱:山東の臨清へ、約数十万石
  5. 漢口の麦:漢水を経て陝西へ、約60万石
  6. 安徽・江西米:長江を経て江蘇へ、約500万石
  7. 湖南・四川米:長江を経て江蘇へ、約1000万石
  8. 江浙米:上海を経て福建へ、不明
  9. 台湾米:海運で上海へ、約200万石
  10. 広西米:西江経由で広東へ、約200万石

この10大商業ルートの総計は約3600万石で、漕糧を除いたとしても3000万石以上となる。これは、明代の長距離販運商品食糧の1000万石と比べて3倍以上となっている。しかし、総商品食糧に占める長距離販運の比率は、3000万石を45億斤に換算すると、商品食糧208億2500万斤の21.6%を占めるだけで、必ずしも手工業や経済作物との交換を意味したわけではない。

綿布流通についてみるとその市場における地位は清代になり綿布が塩にとってかわった。明代には綿布生産は江蘇省の松江一帯のみで、年間1500~2000万匹が長距離商業ルートに乗ったにすぎなかったが、清代には、松江布、常熟布、無錫布などの蘇松生産地帯を形成し、北方や華中にもいくつかの生産地が現れた。この綿布流通も、10ルートあったとされ、蘇松地区で4000万匹の生産があり、他の地域を含め約4500万匹が長距離販運に参入していたと考えられ、明代の2000万匹以下と比較して2倍半となっていた。しかし、綿布の商品化総量に占める率は4500万匹として14.3%でしかなく、長距離販運レベルの市場はなお狭い段階にあった。

清代前期段階にすでに商業ルートは全国的にそのネットワークを拡大し、水運はほぼ近代の規模を備え、大商人資本も増加し、長距離販運交易品種も増大した。布が塩に代わって、市場の工業品ギルドの商品は大部分長距離販運ルートに乗っていた。しかしながら、食糧と布の長距離販運は全商品の15~20%の比率であり、大部分は地域内か地方小市場での交換で、農村での「耕織結合」状態が主流であった。また、食糧の長距離販運は、主として対象地域の食糧不足が原因で、必ずしも手工業や経済作物という商品生産の拡大を前提にしていたわけではない。したがって、清代農村市場を市場経済と規定するのは困難であろう。呉承明氏推計では、商品化食糧245.0億斤(1億6333万銀両)は総食糧生産の10.5%であり、綿布は3億1518万匹(9455.3万銀両)で総生産の52.8%という状況であった。

3.1936年中国「埠際交易」の到達点

呉承明氏による清朝前期の国内市場分析は、商品経済としての全国市場はなお未成熟であったととらえるが、ここでは、それにもかかわらず食糧や綿布、塩、茶、絹製品、綿花などの全国商品市場が形成されていたことに注目したい。その意味では清朝というある種の「国家状態」のなかで全国的市場レベルの経済的凝集がみられるといえよう。それをさしあたり「中華世界交易圏」の形成として把握しておきたい。もちろん、すでに言及したごとく、市場の四層構造のそれぞれに異なる凝集度をもつが、中華世界レベルの経済的凝集を示すものとして、全国商品市場を生みだした長距離販運交易の存在を位置づける必要がある。しかも、中国社会は「比較的早く領主制割拠状態を廃棄し、大統一国家を樹立した」ことによって、政治的社会的にも長距離販運交易を中華帝国内で保障しうる条件があった(呉承明、前掲書、p.213)。

同じく呉承明氏は「半殖民地半封建的国内市場」の論文で、とくにその長距離販運交易を指標とする国内市場の拡大を分析している。

清朝前期、アヘン戦争前夜の商品流通総額3.9億銀両(元換算で5.5億元)のうち長距離販運交易は20%の約1.1億元を占めており、これが商品経済発展のメルクマールである(同上書、p.266)。これに対し、19世紀半ば以降の近代中国にあっては、三つの関連した統計数字が、上記の長距離交易を反映することになる。すなわち、第一に、厘金税率から商品額を推定すること(1870~1910年頃まで)が可能であり、第二に海関輸出統計による農副業加工製品の推定、第三に海関の「土産品」国内交易額である。これがいわゆる「埠際貿易」(開港場間交易)で、呉承明氏は韓啓桐編制になる『中国埠際貿易統計 1936~1940』(中国科学院社会研究所、1951年)を利用し、統計上の諸制度を前提に次のようないくつかの論点を提起している(呉承明、前掲書、p.266以下)。

第一に、韓啓桐統計によれば、1936年の40海関(東北は含まず)の移出総額は11億8470余万元で、これには鉄道、道路、民船(木帆船)による貨物量は含まれていないが、1930年代には一般的にみて汽船運送量の4倍以下と推定しうるので、4倍として計算すると47.3億元となり、アヘン戦争前夜の長距離販運交易量の44倍になる。約100年の間に長距離販運交易量は大きな伸びを示したが、その最大の理由は各開港場が世界経済と密接にリンケージされたことによると考えられる。さらに、1936年の純輸入額は9.4億元、純輸出額は7億元、合計16.4億元は全埠際貿易推計47.3億元の35%にあたる。ただ、1936年段階は世界恐慌後の条件が作用しており、輸出入金額は急激な低落を示して国内交易の下げ幅を超えていた。これを1920年代の輸出入額年平均25億元、1929~31年年平均30余億元と比較すると、輸出入額は国内流通総額(全埠際交易)の約半分以上を占めることになり、世界経済の影響力がかなりのものであったことがわかる。

第二に、アヘン戦争後の国内市場拡大は顕著なものがあったと評価しうるが、1936年の埠際交易額11.8億元は、工農業総生産額の4.1%にしかすぎず、また、国民収入の4.6%でしかなかった。上記の総埠際交易額47.3億元で計算しても、それぞれ16.3%、18.6%でしかない(工農業総生産額と国民収入は、巫宝三「中国国民所得(1933年修正)」『社会科学雑誌』第9巻第2期、1937年による)。呉承明氏はこれからみて商品経済の発達という点でなお全国流通国内市場は狭隘であったとする。しかし、ここでも認めざるをえないのは、中国経済の幹線たるかつての長江交易圏が開港場間交易という形をとって20世紀に出現したということであり、さらにいえば、中華世界長距離販運交易圏がそれぞれ開港場を拠点として世界経済と直接的に接合されつつあったことである。世界経済は、20世紀前半期、このようにして中華世界交易圏を刺激し、むしろ活性化させていたといえよう。

第三に、アヘン戦争後、沿海一帯には通商開港場が出現するとともに、内陸部や辺境は従来の経済状態を保持するという状況にあったが、埠際交易の発展は内陸や辺境の集市市場や地方市場を世界経済と接合する役割を果たした。1936年の埠際交易統計は、華北、華中、華南の40の税関のうち、上海・天津・青島・広州の4開港場が移入総額の66.6%、移出総額の72%を占めたことを示している。つまり、埠際交易の商品の半分以上が4つの沿海大開港場間で流通していたことになる。上海では、移入・移出それぞれ36.3%、39.1%を占め、内陸の漢口は10.1%、16.7%という状態であった。西南市場は最も少なかった。沿海4海関と内陸1海関を合計すると、埠際交易総額の70%を占めるにいたる。その限りでいえば、沿海と内陸の商業ルートは長距離販運交易としての性格を保持していたといえよう。

呉承明氏はさらに、機械製工業品の流通経路として綿布を例に引き、1936年国内流通綿布128万余ピクルのうち、上海から96万8000余ピクル、青島から22万6000余ピクルでこの二大開港場で総量の93%を占め、上海布(輸入洋布を含め)は23ヵ所の開港場へ移出し、その半分以上が漢口、重慶、広州、天津へと送られた。綿糸についても、120万ピクルのうち、上海は96万ピクル、青島は10万4000ピクルで、全体の85%を占めた。上海の綿糸は31の開港場に移出され、広州、重慶、天津、蒙自などであった。輸出農産加工品の流通経路は、茶と絹糸を例として、紅茶の最大の移出港は漢口で4万8000ピクル、ほとんどが上海へ送られた。絹糸の流通も、主として重慶、漢口、広州、煙台から上海流入で、1931~35年の国際市場は、絹糸の輸出価格の58%下落で、上海での市価も60%以上の下落であった。工業原料としての農産品流通では、17の海関から綿花91万7000ピクルを移出したが、そのうち、漢口が55%、沙市が18%、天津が15.8%を占め、この91万7000ピクルのうち83万3000ピクルが上海へ運ばれ91.9%を占めた。同じく、小麦は16の海関から134万9000ピクルが移出され、漢口は46%、鎮江24%、蕪湖18%で、そのうち、84万7000ピクルが上海へ(62.8%)、29万6000ピクルが天津へ(21.9%)という状況であった。タバコ葉は63万ピクルのうち、半数が漢口から移出(29万5000ピクル)され、河南煙として90%が上海に送られた。ただ、タバコ葉は鉄道輸送も多く海関統計だけでは不十分である。国内消費の農産品流通としての米についてみると、埠際交易統計では、723万6000ピクルで、九江が第一位(183万7000ピクル)、第二位は蕪湖(161万9000ピクル)、第三位は長沙(81万ピクル)であった。これらは上海、広州、天津を最大の消費地としていた。

こうした商業ルートと商品チャネルを通じた商品の流れは、開港場都市間の相互依存関係としてとらえなおすことができよう。

つまり、長距離販運交易構造は、他の商品についてもほぼ同様の空間的配置を示すことになる。1936年の埠際交易商品上位20位までの総計をみると、商品額合計9億5100万元は、埠際交易総額11億8470万元の80.2%を占めた。

開港場都市間の長距離交易圏は、全体として中華世界交易圏の実体を表象しうるものであり、上海を窓口とする近代世界経済圏とある種の接合をとげたといえよう。そうした交易を支えた商人層は、世界経済との接合に重要な役割を果たすとともに、海外華僑商人層との緊密な連携を保持していた。このネットワークが、抗日期の海外からの支援体制を支えていた。埠際交易統計の初歩的概観からも、長距離販運のもつ政治的社会的含意は、都市空間の商業ルートによる相互依存性の基盤のうえに形成されるであろうことを推測させる。それは、清代以来の中華世界内交易圏が埠際交易の構造として20世紀の中国に再編され出現しているとともに、世界経済という20世紀現象との接合という新たな世界史的条件のなかに中国が存在していることを示している。ここに、埠際交易の両義性を含んだ20世紀中国の歴史性が内在している。

4.1930年代埠際交易増大と鉄道網形成の政治的含意

長距離地域間の交易という商品のフローは同時に人口フロー、資金フローを生みだすことになる。そうした各地域空間の相互依存性の増大は同時に、情報とイデオロギーのフローを伴うことはいうまでもない。それら情報やイデオロギーを運搬する人の流れや、メディアの発達、通信科学技術の発達などが、長距離販運交易を基礎にして地域間社会集団の相互依存性をさらに濃密な段階へと導く。

歴史的にみて、中国は19世紀も終わりの段階に地域間交易の新たな手段となる鉄道の導入がなされた。もちろん、諸列強の政治的軍事的利害を如実に反映した導入であったが、ここに中国社会は従来の内河沿海航路による交易圏とは異なる運搬手段を手に入れることとなった。まさに20世紀現象として、交通運輸手段獲得の新たな段階を画した。

1931年時点で、東北地域を含んで中国側、外国側の修築キロ数は、13,960キロであった。そのうち、関内は8,376キロ、東北は5,584キロ(全体の40%)で、外国の直接経営4,366キロ(関内500キロ、東北3,866キロ)を差引いた9,594キロ(関内7,876キロ)が中国側の鉄道であった。交通運輸手段としての鉄道の発展は、満洲事変によって東北地域が国家主権から切り離されたため、1932年以降は関内の増築キロとして表れる。1932年から37年までの増築キロ数は3,543キロで、37年の関内延キロ数は、11,919キロとなった。

中国国有鉄道幹線は、1932年6月の鉄道部発表によれば以下のとおりであった。

  1. 北寧路幹線(北平―山海関):425km
  2. 平漢路(北平―漢口):1,213km
  3. 津浦路(天津―浦口):1,013km
  4. 京滬路(南京―上海):311km
  5. 滬杭角路(上海―寧波):281km
  6. 膠済路(青島―済南):394km
  7. 平綏路(豊台―包頭):816km
  8. 粤漢路(武昌―広州):829km
  9. 隴海路(海州―潼関):924km
  10. 正太路(正定―太原):243km
  11. 広九路(広州―九龍):179km
  12. 南潯路(九江―南昌):129km
  13. 道清路(道口―清化):150km
*粤漢路は、湘鄂段(506km)と広韶段(323km)に分かれて経営されていた。

全13路(粤漢を二つに区分すると14路)の国有鉄道が関内に敷設されていた。このうちとくに注目すべきなのは隴海線で、1932年1月潼関まで開通し、ほぼ黄河沿いに東西を結ぶ一大幹線が完成した。この結果、津浦線および平漢線の南北幹線と交差して、徐州、開封、鄭州、洛陽といった内陸部の都市を結ぶことができるようになった。さらに、すでに31年4月には潼西段工程局を開設し、潼関と西安を結ぶ約630キロの延長計画を具体化し、資金面の困難のなかで工事が遅れたが、その後フランスからの借款などによって、33年7月以降進捗し、潼関―華陰間の24キロは34年4月、華陰―渭南間の49キロは同年7月、渭南―西安間は同年12月に開通した。また1934年には連雲港の築港が完成し、隴海線は、1000キロを超える輸送幹線として西安まで接続するにいたった(『昭和十年版 最新支那年鑑』東亜同文会、1935年、p.1329以下)。ただ、隴海線は単線であり、とくに1920年代に開通していた鄭州より海州にいたる東段線は技術水準や保守の不備によって時速20キロぐらいしか出せず、黄河下流域経済にどのような役割を果たしたかにつき不明な部分が多い。しかしながら、鄭州から西安までの西段については、京漢路とのクロスによって華北からの物資と人の流れや、長江を経て漢口から北上する物資や人の流れが陝西地域へと向かう効果をもたらした。

鉄道敷設は、沿海地域社会に経済的政治的に大きな影響を与え、とくに都市と都市とを結ぶ経済的チャネルとしての役割は大きく、1930年代半ばという歴史的条件のなかで隴海線の西安への延長を考えると次のような議論が成立するように思われる。

第一に、20世紀の象徴ともいうべき鉄道網の創出は、近代国民国家としての凝集力を高める役割を有しており、軍事輸送、商品輸送、乗客輸送などを通じた社会的統合の強化手段であった。その意味で、内河沿海による交易圏と比較してより強力な国民国家形成手段となり、すでにふれてきた埠際交易とは質的に異なる役割を担っていたといえよう。たしかに、物流という点では単なる流通チャネルの違いでしかないにせよ、20世紀社会に与えたインパクトは明らかに異なるものであった。「鉄道帝国主義」という概念で世界史に果たした鉄道の役割を論じたロナルド.E.ロビンソンは「鉄道が中国を統合する機能をもてなかった」理由をあげるなかで、列強による中国領土分割の基礎に鉄道利権の分割があったことを指摘している。にもかかわらず、「鉄道が国民形成の手段に転換する」可能性と、「鉄道は地方の経済機構を統合し、国家形成を促進する統合化機能があることに言及している(C.B.ディヴィス、K.E.ウィルバーンJr.編著、原田勝正、多田博一監訳『鉄路17万マイルの興亡―鉄道からみた帝国主義』日本経済評論社、1996年、p.231)。つまり、20世紀前半期中国にとって鉄道はたしかに帝国主義列強の侵略の手段であったが、同時に国有鉄道を敷設することによって国民政府そのものの統合能力を高めようとしていた。おそらく、その鉄道経営内容と借款による返債率によってきわめて悲観的結論を導くしかない現実は、実は同時に、遠く20世紀後半にかかわる国民国家的凝集力を準備しつつあったとみることができる。鉄道はやはり結果として「国民国家」形成に重要な役割を担うことになる。

そこで第二に、鉄道網の整備は、1931年以降の華北における日本軍部による政治的軍事的侵略の拡大に抵抗する社会的基盤を陝西に創りだす役割を果たしたといえる。なぜなら、1935年秋には1年前に江西瑞金を出発した中国共産党と紅軍が陝北へたどりつき、それを追って東北軍と副総司令張学良は「剿匪総司令部」「委員長行営」のある武昌から西安へ移ることになり、しかも、1935年12月9日の北平における抗日学生運動は京漢線と隴海線を経て急速に伝わり、西安にも波及したからである。このプロセスは、単に鉄道沿線を席巻しただけでなく、沿線の農村部にまでその影響力を拡大していた。さらにそうした動きに先立って、32年から35年にかけて、上海、南京、武漢という長江沿いの都市空間では抗日救亡救国のイデオロギーと運動が凝集しはじめ、国民政府のいう「攘外安内」政策に示される中国政治のあり方を問う潮流が姿を現しはじめた。あきらかに、沿江都市ベルトを基礎とした動きであり、満洲事変以来の中国政治のベクトルが抗日へと傾斜しつつあることの証明であった。沿江諸都市は、埠際交易の拠点であり、全中国的政治の枠組にも影響を及ぼしうる政治空間でもあった。埠際交易というチャネルを通じて抗日救亡救国のイデオロギーと運動はさまざまに各都市空間を充たしはじめていた。この都市間チャネルは、20世紀30年代になると、内陸都市間の連携が鉄道網の形成を媒介にして強化されるという特徴をもつこととなった。

埠際交易の増大と1930年代前半期の鉄道輸送網の一定の蓄積は、政治空間における中華ナショナリズムと国民国家的ナショナリズムの社会的基盤として機能しつつあった。この二つの凝集力をどのように評価するのかという政治的争点が、1936年から37年にかけて展開した日本での「中国再認論」であり、「中国統一化論争」であった(拙稿「日中戦争前夜の中国分析―『再認識論』と『中国統一化論争』」『「帝国」日本の学知』岩波講座第3巻、東洋学の磁場、2006年)。

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