セミナー: ユン・チアン『マオ』を読む

  • 2006年3月10日,「セミナー:ユン・チアン『マオ』を読む」を安井三吉(神戸大学名誉教授)・西村成雄(本学教授)・田中仁(本学教授)をパネラーとして学術交流室で開催しました。
  • 文献:ユン・チアン,J.ハリディ『マオ―誰も知らなかった毛沢東』(講談社,2005)
  • パネラーの発言

    安井三吉

    【全般的印象】
    ・ 読み終わって中国共産党史について、今まで学んできたことと随分違っているという印象を受けた。二人の筆者の関心は、毛の個人的性格、すなわちその権謀術策、野望、残虐性をクローズアップすることにあるようだ。一方で、毛沢東も含め、20世紀、中国人が何をめぐって苦闘してきたのかについては、著者たちの関心は弱い。
    ・ 厖大な注釈、インタビュー、一見客観的にみえるが、しかし、一つ一つその根拠について吟味する必要があるように思われた。

    【人物評価について】
    ・ 毛沢東について、著者は「残虐で悪辣で自己中心的な暴君」(訳者のまとめ、下540-541頁)として描きだしている。これに対して毛沢東のライバル達、王明、劉少奇、彭徳懐らに向ける目は優しく、対照的である。周恩来への評価は厳しい。
    ・ 国民党の敗北は蒋介石が「私情に従って政治や軍事を動かした」(上、524頁)ためだとする。また朝鮮戦争での長男毛岸英の戦死に対しても毛は「悲しい表情ひとつ見せず」(下、90頁)として、毛沢東は肉親に対してさえ「非情」だったと描いている。この点で、モスクワに人質に取られた息子の蒋経国を心配した蒋介石は対照的である。

    【「冬眠スパイ」】
    ・ 「冬眠スパイ」の指摘と重視は本書のもう一つの特徴である。胡宗南までも中国共産党の国民党内の「冬眠スパイ」であったという。これは驚きであった。ただし、資料的に十分な根拠が示されているわけではない。

    【日本について】
    ・ 日中戦争は中国にとって大きな事件だった。著者たちは毛沢東が日本と戦わなかったことを繰り返し強調する。さらに日本語版では、わざわざ序文でこのことを強調しているが、防衛研究所戦史室編『北支の治安戦』などは目を通されたのだろうか? また、張作霖爆殺事件をソ連の陰謀だという人を驚かすような見解を肯定的に紹介している(上、301頁)。しかし、その根拠を提供したというドミトリー・P・プロホロフは、「“張作霖爆殺はソ連の陰謀”と断言するこれだけの根拠」(『正論』2006.4)において肝心の1928年6月の事件そのものについてはほとんど何も語っていない。
    ・ 盧溝橋事件から日中全面戦争への拡大について著者たちは、日本も蔣介石も拡大を望んでいなかったのであって、全面戦争に拡大させた責任はスターリンや中国共産党にあり、それを具体化したのが、「冬眠スパイ」の一人張治中であり、1937年8月の第2次上海事変を引起したのは(上、340頁)、「冬眠スパイ」張治中だと断定している。日中戦争の拡大については、日本でもこうした中国共産党とコミンテルンの陰謀によるという説があるが、説得力は弱い。本書の新しさは、張治中を持ち出した点にあり、その典拠は Zhang Zhizhong, Zhang Zhizhong huiyilu, Beijing, 1993(張治中回憶録?)によるとされているが、原著に当る必要がある(残念ながら手元にない)。
    ・ 張学良に関する記述に関してだが、九一八事変において日本に「勝てるはずなど、ありませんでした」(178頁)と述べたとしているが、1990年に臼井勝美氏とNHKが行った張学良へのインタビューでは、不抵抗政策をとったのは「日本があれだけやるとは思わなかった。」からだと声を震わせながら語っていた。まったくちがう話となっている。西安事件に関する証言も、随分とちがった印象を受けた。
    ・ こうした例は他にも少なくない。注釈の一つ一つを追い、著者の言うことが当っているのかどうか、確認する作業が必要であろう。

    西村成雄

    【歴史叙述と歴史分析,歴史観】
    ・ この著書の印象として感じたことは「歴史叙述と歴史分析を区別すべきである」ということである。どちらも実証が重要であるが、とりわけ「歴史叙述」では構築力が重要である。『マオ』はストーリーであってヒストリーではない。中国でいえば、この対比は、「稗史」と「正史」の関係であり、『マオ』においてその史実がどこまで歴史分析として追求できているかが問題となる。
    ・ 枠組みの問題で言えば、『マオ』は従来の「革命パラダイム」を「陰謀史観」「スパイ史観」として組み替えたものと理解することができる。しかしながらこの「スパイ」の概念規定が明確ではないため、読者が任意にそれを解釈できるようになっている。本書を読むとき、この点に留意したい。

    【李志綏『毛沢東の私生活』との関係】
    ・ 『マオ』は,李志綏が『毛沢東の私生活』(文芸春秋、1994)で示した内容を追認した側面があり,その意味では毛沢東の知られざる個人史がこの著書の最大の特徴といえる。
    ・ 全体的な叙述の特徴はユン・チアンには陰謀性がある点、すなわち、「個人の野望」を基軸に書き上げているところにその特徴ある。とは言えその聞きとりを含む資料収集力には圧倒され、10年でこれだけの内容をまとめたことには驚嘆する。その一方で、安井氏やネイザン氏がすでに指摘しているように、史料の恣意的使い方に少なからずの問題が存在している。

    【叙述のパターン】
    ・ 内容に即して叙述のパターンをいくつか類型化してみると、(1)アイデンティティに関する問題、(2)論理の飛躍に関する問題、(3)歴史叙述の構築に関わる問題、(4)ソ連の役割をどう規定するかにかかわる問題、(5)毛沢東の夢=超大国、世界を支配することに関する問題、(6)恐怖の力とい視点、というようにいくつかに整理することができる。それぞれ、アイデンティティや個人の思想の変化という視点が欠けていたり、スパイを英雄史観としてとらえたり、社会的影響力を毛沢東個人に帰したりするところに無理や問題あるといえよう。これらはいずれも,収集した素材をどのように分析するのかという点における恣意性の問題にほかならない。
    ・ たとえば西安事変について言えば、張学良とソ連との関係、毛沢東と西北独立論との関係、中共と蔣介石との関係、中共と日本との関係など、それぞれ新しい視点を出しているものの、いずれも史料的根拠が弱く、また楊虎城に関する記述がない。張学良個人の政治的野心に対する記述も、歴史における個人の役割から政治的にどう位置づけるかが重要で、それを一言で野心と置き換えることは出来ない。これでは歴史的文脈を等閑視しているといわざるを得ない。

    【まとめ】
    ・ 以上、特徴と問題点を指摘したが、全体として「歴史分析」の「無力さ」を痛感する。「歴史叙述」のみによってこれだけ大きな社会的インパクトを与ええるとなおさらである。李志綏は毛沢東個人としての多面性を提示したが、『マオ』はそれを一つのストーリーとして構築した。これに比して、これまでの近現代史研究は歴史の多面性を「革命パラダイム」で語る傾向にあった。その点を批判してきたが、叙述として実現しえていない現状にある。
    ・ 新資料の発掘という点では、たとえば楊開慧の手紙はストーリーとしてきわめてリアルである。毛沢東は、男世界をコントロールしてきたと描かれるが、そのことを女性の側から捉え直した場合に政治や権力はどのように総括しうるのかという視点を提示している。この点で『マオ』はジェンダー論的視点からみた毛沢東および権力に対する告発の書とも言えよう。

    田中 仁

    【全般的印象】
    ・ 中国におけるオフィシャルな毛沢東像、あるいは中共中央文献研究室の『毛沢東伝』などと比較すると、『マオ』の叙述はそれらの歴史像・政治評価をすべて裏返すような内容となっている。例えば日中戦争(抗日戦争)について言えば、『マオ』では、毛沢東が望んだのは日本との戦争でなく、蔣介石との内戦持ち込むことであったとしている。このほか整風運動の評価や「精兵簡政」「減租減息」など、すべてが消極的かつ否定的評価である。このことは、従来の「革命パラダイム」に対して西村氏が言われたように「陰謀・スパイ史観」を提示したものであるとしてよいであろう。この相反するふたつの捉え方について、一見まったく別もののように見えるものの、メダルの裏表あるいはオセロの白黒の関係のような同質性を有するものとして理解したい。

    【歴史研究と『マオ』】
    ・ 歴史研究に携わる者としてこの『マオ』にどのように接近することができるのか? どのように実証研究の課題を見出しうるのかと考えたとき、『マオ』の叙述には多くの検討に値する素材が含まれているといえる。例えば長征に関する記述で、神話化された瀘定橋や蝋子山の戦闘が後に宣伝のために創作されたフィクションであるとしていること、あるいは西安事変期のモスクワから中共中央への電報の解釈(電文が読めなかったのではなく、読めないということにした)などは、現在用いうる資料を用いて再吟味しうる問題であろう。「革命パラダイム」を全面的にひっくり返す内容の歴史叙述である『マオ』における個々の具体的叙述のなかに、多くのこうした事例を発見できた。

    【人物の描き方】
    ・ 『マオ』では、毛沢東を権力に対する強烈なパラノイア的執着とサディスティックな権力行使を行って「恐怖」による支配を実現した人物として描いている。一方、毛以外の人物に対して毛との位置関係によって描き分けられているとの安井氏の指摘は正鵠を射ていると思う。加えて私は、『マオ』の毛沢東以外の人物の描き方,毛に対して受動的でまったく主体性を有していない描き方に違和感をもった。

    【李志綏『毛沢東の私生活』との関係】
    ・ 李志綏『毛沢東の私生活』は毛の私生活を描いたものとして重要な著作ではあり、多くの興味深いエピソードを含んでいた。とは言えそれは、中国革命像や中国共産党史あるいは中国政治史などに直接的なインパクトを与えるものではなかった。これに対して『マオ』は中国革命像・中国政治史の再検討を喚起する内容を有している。同時に、その社会的影響についても注視する必要があろう。

    自由討論

    【張学良と西安事件】
    ・ 安井氏は『マオ』で張学良へのインタビューの引用とされるものが、これまで理解されてきたものと異なることを指摘した。この問題について、レイナードの回想録や周恩来年譜の記載、史料の引用の妥当性、インタビューの公正さなど、『マオ』の張学良像と西安事変理解について批判的意見がだされた。

    【人物の描き方】
    ・ 毛沢東周辺の人物について、『マオ』が例えば周恩来を毛沢東に完全に押さえつけられた「奴隷」と描いていることをどのように捉えるべきかという質問が出された。
    ・ この問題について西村氏は、毛沢東と周恩来に対する評価は対になっているとし、中華世界を代表した孫文・毛沢東と、Nation-Stateを代表した蔣介石・周恩来というふたつの類型と捉えうるとした。そしてこの見方からすれば、『マオ』における毛と周との関係のある一面を的確に捉えていることになるであろうとし、さらに、チアンは毛自らの心理に軸足を置いて毛と周との関係を描いている、文革における周の態度は Nation-state を守るぎりぎりの政治的選択ではなかったか、と述べた。

    【中国近現代史との関係】
    ・ 安井氏は、『マオ』では中国近現代史とは何かという問題が書かれず、毛沢東の生涯が中国近現代史の流れと切りはなされて描かれていることに違和感があるとした。
    ・ これに対して田中氏は、「国民党=搾取の主体」「共産党=人民の代表」という「正統的な」視角を『マオ』が完全にひっくり返している点をふまえて、同書における整風運動や革命根拠地の描かれ方にはある種のリアリティが存在するとし、このギャップをどう埋めるのかが歴史学の課題ではないかと述べた。さらに「スパイ」という表現について、1920~40年代の中国政治史の特質(国共関係)に由来すさまざまな人間関係を想起すれば、『マオ』が「スパイ」としているそれぞれの人物について、別の角度からの評価もできるのではないかと指摘した。

    【その他の問題】
    ・ ユン・チアンらが膨大な取材・や資料収輯を行うことができたのはなぜか、中国政府や香港との関係でどのようなルートが存在するのかという疑問が出された。資料の問題については、『マオ』で使われている大多数がロシア・ヨーロッパの文献で日本での研究の蓄積をなおざりにしているとの指摘もなされた。
    ・安井氏は、中国近現代史、中国革命史おいて多くの人々が犠牲になったのは事実であるとして、こうした一連の傾向が『マオ』で描かれているように毛沢東という個人にはじめからインプットされていたのか、それとも時代を経るなかで変化してきたものなのか、このような問題についての議論が必要であると述べた。
    ・ 田中氏は、『マオ』に書かれている大部分の内容について、日本人はさしあたり「他者」であるのに対して著者であるユン・チアンは当事者であり、彼女自身やその家族が直接そのなかをくぐり抜けてきたという違いがあることから、中国語で『マオ』が出版されたときの反響にも注目したい、と述べた。

    (根岸智代・石黒亜維 整理)

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