討論要旨

地域社会からみたグローバリゼーションの浸透度

1990年代におけるアメリカ地域研究の後退とグローバリゼーションの影響力評価については、アメリカの「知の体系」に沿って理解する必要がある。また地域の側からみる限りグローバリゼーションが地球上のすべての地域におよんでいるとはいえないのではないか、とする指摘がなされた。

これに対し報告者は、ジョン・トムリンソン『文化帝国主義』(青土社、1997年)をひいて、現在のグローバリゼーション論は、地域におけるグローバリゼーションの浸透を議論する段階から、むしろそれに対する現地の人たちの反発や抵抗を議論する段階になっていることを指摘し、グローバリゼーションのますますの広がりが前提とされているとされた。

またこれに関連して、次のような意見が出された。すなわち濃淡強弱の差はあれ、グローバリゼーションの「ゼーション」の時代は古来、世界どの地域にもあった。その重層的なグローバリゼーションをある切断面でとらえて、個別の地域でその濃淡強弱の度合いをみることが地域研究の課題ではないか。さらに、グローバリゼーションの時代は終わり、いまやグローバリティの時代がきたと理解できるのではないかとの指摘もなされた。

これを受けて報告者も次のように続けた。19~20世紀は、それへの反発も含めてモダナイゼーションの時代であった。それは、国民国家によって国境がつくられ、強化される過程でもあった。しかし、国境強化のなかでの核兵器の登場や1970年のジャンボジェット機の民間航路への登場は、国境線を越えられるものにしたことによって国境性の意味変容がすすんだ。つまり、これに続くグローバリゼーションの時代は、境界の多孔性状態("porous border")を特徴とする。個別の地域に密着すると、グローバリゼーションのおよびかたには濃淡強弱があるかもしれない、しかし国境が越えられるものになったという事実は変わらない。これが、報告者のグローバリゼーション論の根幹にあるとした。

地域の枠組み

地域研究における地域の枠組みをめぐって、東欧史研究の現状が紹介された。すなわち1980年代末以降の政治体制の転換を受けて、東欧史という枠組みそのものがゆらいだ。日本における東欧史研究は、社会主義、ナショナリズムを柱としたもうひとつのヨーロッパ研究として発展してきた。しかし体制転換後、東欧における東欧史研究は、むしろヨーロッパとの一体性を主張しはじめた。このなかで、そもそもヨーロッパという枠組みがどのような意味でなりたつのかという問題にぶつかっている。

これに対し報告者からは、イギリス研究やスコットランド研究など個別の地域研究があるとすれば、その拡大版としての地域研究があってもよいのではないか、つまりナショナル・ヒストリーを越えるものとしての地域研究(リージョナル・ヒストリー)の可能性が示された。この際、ナショナル・ヒストリーの寄せ集めであったり、ナショナル・ヒストリーの語り口を地域研究にもちこむのを回避することの必要性が強調された。

地域研究とその再組織化

地域研究における言語の重要性とその被制約性が示されたうえで、地域研究のもつインター・ディシプリンナリーな性格を獲得することの難しさをどう克服していくかという問いがあった。

これに対して報告者は、地域研究者はジェネラリストたるべきであり、インター・ディシプリンではなく、むしろノー・ディシプリンでかまわないのではないかとしつつ、いずれにせよ地域研究者には、分野をこえてコーディネイトしていく力が求められるであろうとされた。こうした問題意識は、昨今の地域研究の再組織化の過程でも検討されるであろう課題である。地域研究のネットワーク化から、チームワークの研究へとつなげる環境づくりを求める意見も、こうした意識を共有しているといえよう。

全体=グローバルの対極としての地域

全体と部分の、部分を地域研究の対象とするとき、その部分の切り取りかた、つまり全体(グローバル)の対極をどうとらえるべきかとして、“グローバル⇔トランスナショナル⇔ナショナル⇔エスニー⇔個あるいは基層社会”の5層構造を視野に入れるべきことを主張する見解が出された。

これに対し、人類学の視点からは、こうした問題のたてかたが空間を前提としたものであると指摘したうえで、「地球上の人口の動態」を全体とし、その対極である部分を「セクシュアリティ」とすることも可能なのではないかという提起があった。

報告者は、全体と部分の「入れ子状」の構造は、地域として切り取る部分をどこに置くかによってその座標軸も異なり、機械的に区分すれば最小単位は個人であるが、それを意味のあるまとまりとするには、実際にはその上位の部分までとするのが適当であろうとした。また、政治による区分だけではなく、文化による区分も可能であろうとした。

新しい地域研究の指標

新段階の地域研究において、21世紀初頭の今日のありようをグローバリゼーション、グローバリティという枠組みのみで説明しきれるか、例えば、冷戦の解体、IT化やアメリカ資本主義への対応などはキーワードになりうるかとの問題が出された。

これに対して報告者は、後者はグローバリゼーションの範疇にあるとし、前者については1989~91年を時期区分の分水嶺とする考えかたに同意せず、人が境界を越えて動き始めた1970年代~80年代を転換点とする論点を提起し、冷戦構造崩壊の基盤もこの時期につくられたとした。さらに、21世紀の地域研究の重要性を表象するグローバリティ以外のキーワードとして、トランスナショナリティが示された。国境はなくなったわけではなく、越えられるものになった、つまり国境を前提としたトランスナショナリティが重視されるべきであるとした。

全体と部分の関係

まとめとして、報告者は「入れ子状」の構造とする全体と部分の関係を補足した。すなわち、ある地域を全面的に理解しようとすること自体のなかに、全体を理解しうる根拠があるとする。報告者のいう全体をみるとは、対象とする地域のひとつうえの部分をみることではなく、対象とする地域に外から入ってくる影響を理解することであるとする認識を示した。

最後に、新しい地域研究の学問的課題と関連して全体を理解するとは何を意味するのかという問題をめぐって、全体の討論のなかで、全体をみるという全体には、研究対象地域としての全体と、あるissueに関わるレベルでの全体性があるのではないかという意見が出された。すなわち前者は、その地域に自分が生きていたら暗黙知として知っているであろうことを外部から学び取ることができるかどうかという意味での全体性を意味し、これが地域研究の根幹にあるとした。こうした意味で、area studiesの地域は相対的に固定的である。他方、regional studiesでは、issueをどこに置くかによって、地域は伸縮性を帯びるとした(ちなみにareaの原義は「空地」、regionの原義は「支配する」である―小都注記)。

また、何のための地域研究かという論点について、次のような見解も示された。グローバリゼーションとはある意味で権力の意思であり、社会はつねに権力に規制される。しかし、社会自身にも自立性があり、社会の側からはグローバリティの問題も一部でしかない。ここに、社会そのものの自立性のもつ意味を、国家との対抗関係のなかにおくことができる。つまり、地域には権力とはことなった論理があり、グローバリゼーションのもとにすべてが均質に存在しているわけではない。権力と社会の関係において、権力の側から見た論理としてのグローバリゼーションまたはグローバリティのもつ問題を相対化する地域社会の側の論理をどう組み立てていくのか、という点に地域研究の課題のひとつがあるのではないか、とするものであった。

(小都晶子・整理)

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