中国帰国者たちについての一考察:第八次青溝子開拓団のライフヒストリー

大 栗 真 佐 美

本論文では、1939年から2005年まで長いタイムスパンを時間軸とし、第八次青溝子開拓団として入植した満州移民体験者の家族・親族=中国帰国者一・二・三世について、研究対象地域を中国吉林省敦化「第八次青溝子開拓団」、日本は研究対象者の居住区である京都と定め、ホスト側の地域の状況、満州移民たちはなぜ移民したか、開拓団生活はどのようなものか、中国人や朝鮮人とどのような関係をもっていたか、敗戦後の混乱をどのように生き抜き、中国に中国残留孤児・中国残留婦人として、「残留」すること「遺棄」されることをよぎなくされた日本人たちは、戦前と立場の逆転した中国でどのように生活し、中国で生活の拠り所をどこに求めていったか、日本に帰国後どのような立場にあったのか。1972年国交回復後中国から帰国した中国帰国者のアイデンティティ、帰国後の諸問題などを満州移民体験者・中国帰国者一世・二世・三世はどう考え、それをどのように対処しているのかなどを、2つの入植者の家族・親族を取り上げることで明らかにしていく。

方法として、谷富夫の用いた「世代間生活史法」を用いてライフコース調査をおこない、時間的パースペクティブと、青溝子開拓団関係者という空間を限定、空間パースペクティブの二方向への展開を試みた。
中国帰国者における家族・親族の結合はつよく、非常に重要な準拠集団となっている。その理由として、中国での生活習慣に基づく家族・親族結合の「絶対的強度」と、家族親族以外の社会関係が少ないことからである。これは日本人でありながら、日本社会の民族障壁に起因するのであろうと考えられる。ある中国帰国者二世は、自分自身を「日籍華人(リィジィホワアレン)」と称するものもいる。

第1章では、1939年日本・中国の時代背景を取り上げる。
1939年日本は4月米穀配給統制法公布、10月1日実施、5月11日満州と外蒙との国境付近のノモンハンで外蒙軍と日本の関東軍・満州国軍が武力衝突、日本の完敗、9月15日モスクワで休戦協定が結ばれ、9月1日第2次世界大戦開始。11月10には朝鮮総督府が朝鮮人の氏名を日本式に改めさせる政令公布した。このような情勢の中、第八次満州農業移民は送出された。さらにホスト側の中国吉林省敦化の本節では入植地敦化の主な概況(地勢・気候・人口・治安概況・敦化県の入植状況)を述べる。

第2章では、第八次青溝子開拓団についての概況、開拓団の実態、1945年8月敗戦後の混乱について述べる。
第八次青溝子開拓団は、1939年4月に、中国東北地区吉林省敦化県額穆索村青溝子に第八次満州開拓団の中の1つとして入植。大阪、京都、奈良、和歌山、滋賀、三重などの近畿一円2府4県の混成開拓団であり、名前は入植した土地の鎮名をとっている。この開拓団は、満州移民の最盛期に送出されながら、典型的な「虫喰い団」で入植当時三百戸集団開拓団の指定をうけていたが、二百戸を限度しか集まらなかった。
資料として、敦化県の資料、外務省資料、青溝子開拓団の団史『藍田の大地』、会報誌等を中心として満州での開拓団生活の一端について述べる。

第3章では、2つの家族・親族(中国残留婦人の家族であるK家と中国残留孤児の家族であるN家)過去から現在までを通して、中国帰国者一世から三世までの世代間にあらわれている問題等を考察する。
実際に青溝子開拓団で生活していた人々及びその家族・親族への聞き取り調査を中心に用い、ライフヒストリーの実証主義的アプローチ「個人の一生の記録、個人の生活の現在から過去に至る記録」をもちい、個人の生活の論理に即しながら個人を取り巻く社会を考察する。方法として、他者からの聞き取りや記録文書などの史実を補うことによって、彼らのこれまでの人生を規定してきた歴史への理解と自己体験を理解する。
明らかにすることは、吉林省敦化「第八次青溝子開拓団」について、家族・親族の構成員である個人の生活史を縦に祖父母や親戚・親・子・孫の中に位置付けることで、長いタイムスパンで、渡満したことにより個人の生活に何がおこったか、長い中国での生活によって、生活の世代間比較を行う。つまり、世代間で考察することで日本の政策により渡満したという事実が、その後のかれら中国帰国者にもたらした現実を浮かびあがらせることになる。

第4章では、中国残留孤児の集団提訴についてのべる。青溝子開拓団の関係者も京都裁判の原告の一人となっている。なぜ国を訴えたのか、京都裁判の原告について考察する。
中国残留孤児2,492人のうち2004年末までに1,848人が訴訟を起こし、京都原告団の総数は現在100名を超えている。中国残留孤児が国の責任を問う訴訟をおこした事実は、1992年から現在に至るまで、中国帰国者Ⅰ世・Ⅱ世・Ⅲ世と関わってきた私にとっては大きな関心事であり、関わってきたときからの国の世策を顧みると、「訴訟を起こしたことは当然のことである」という認識であった。原告団の中には青溝子開拓団に満州移民として父母に連れられ、渡った満州でN家の2人もいる。彼らは、原告になることで現在になって、また自分のこれまでの不遇な人生を語り、自己の過去を見つめなおしているのだ。またこの運動を支えているのも中国帰国者二世、三世である。

終章では、第1章から第4章までの総括を行う。

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