戦時上海日本人社会の実態と変容に関する数量的分析

前 田 輝 人

1945年8月半ばにおいて,海外には総数330万人以上の日本人(ほぼ同数とされる軍隊を除く)が在留していた。中国(「満洲」を除き,ヴェトナム北部と台湾を含む)には全海外在留者の約3割,100万人以上が在留し (厚生省引揚援護庁『引揚援護の記録』1950など多数の記録や著作があり,それぞれに微妙な数字の違いがある),そのうち,約10%が上海と長江中下流域に住んでいた。アジア・太平洋戦争終結時の上海在留日本人数は,1943年・44年には10万人を突破していて,37年日中戦争開始直前の,実に約4倍を記録していたのである (高綱博文・陳祖恩編,2000年,p.86)
在上海日本人社会の変貌に関する研究は,上海日本人社会は中国領土における日本の縮図であり,外国に住みながら外界と隔絶する環境を作っていったとするもの(Christian Henriot; 安克強:以下アンリオ〈陳絳訳〉(1998),「上海的“小東京”-1個対外隔絶的社会」,上海市地方志弁公室編『上海研究論叢』第12輯),多数の中小商工業者を包摂し「国策翼賛組織」に変貌した1939年改組以後の,上海日本商工会議所を解剖したもの(山村睦夫(2004),「日本占領下の上海日本商工会議所」,柳沢遊『戦時下アジアの日本経済団体』,日本経済評論社)などがある。

第1章では,金風社『支那在留邦人人名録』(以下,『人名録』)に基づき、1936年と39年の上海における就業者の個人情報データの集積を比較対照することによって、「第2次上海事変」を契機とする在上海日本人急増の因果関係について考察する。『人名録』は、金風社代表・島津長次郎(四十起)が大正2(1913)年に第1版を発行して以来、昭和19(1944)年第34版まで、第2次上海事変による休止の3年間を除いて毎年「up-date版」を読者に提供し続けた、島津生涯の労作である。
(1)1936年発行の『人名録』第28版には約9000件、(2)39年第29版には約1万5000件の収録データのうち,「氏名」・「所属組織」と「職種」・「当人の職掌」・「出身道府県」・「上海住所(路)」の6項目をデータベース化した。第29版では「国策会社」中支那振興株式会社設立に因る直接間接の、在留日本人増加につながる影響・波及効果が『人名簿』の随所に見られる。
華中や上海を日本軍が占領し,権力を掌握して圧倒的存在になるに連れて,「事変」以前には軽工業と中小零細規模の商工業者やサービス産業中心の,「土着派」主体の構成であった上海の日本人社会も,「事変」後は重化学工業が叢生し,街なかには「カーキ色」の制服が目立ち,むやみに中国人を叱る日本人の怒声が響く,荒々しい軍政下の工業都市に変容していった。

第2章では,領事館警察と工部局・参事会員数の変遷を論じた。前者は『人名録』36年・39年・43年版による「ケーススタディ」で,荻野富士夫論文(荻野富士夫(1994)「外務省警察論―特高警察としての機能」,『歴史学研究』第665号)の数字的裏付けである。共同租界を根拠とする外国人の,最多数を占めて久しい「居留民団」積年の思いは,工部局参事会を数で制し,局機構の要職を日本人が占有することであった。それは1942年1月,前年12月の太平洋戦争勃発で実現する。
工部局警察は,1940年末の段階ではまだ英人の掌握下にあった。日本当局は,日本人警官の多数が常に英人上司の風下に甘んじている実情に悲憤慷慨して,日本人警官の待遇を英人と同等にするよう,当局に要求してきた。1939年5月,工部局当局は日本人警官の初任「級」を,「平巡査」ではなく「巡査部長見習」扱いとしたが,名目の変更だけで何ら実質を伴わず,その結果,上海要所には「平巡査」のいない日本課管轄の警察署が十余箇所存在することになった。

第3章では,中支那振興㈱の創設に関わる1937年12月と翌年3月の,2つの「閣議決定」と,決定に基づく国策会社並びに子会社群の矢継ぎ早の開業,それに触発された民間の上海に対する投資の急増,転勤による会社・団体従業員の大量渡滬,転廃業者や失職者の対上海大量移動などの実態を,『上海商工録』(以下,『商工録』)(上海日本商工会議所(1941)『上海商工録』)のデータベース化によって観察する。「事変」直前1937年5月現在の会員数;100余社であった上海日本商工会議所(以下,上海商議所)は,事変後その役割を大きく変化させ,経済国策推進の中心的存在に変容し,39年3月の加入会員数369社,40年4月は664社,41年9月には780余社の大組織となった。
筆者は41年版『商工録』掲載事項のうち,(1)「商号」・(2)「本店所在地」・(3)「上海所在路名」・(4)「上海開業年月」・(5)「資本金」・(6)「上海代表者名」・(7)「邦人雇用者数」・(8)「華人雇用者数」・(9)「取扱商品」など12項目をエクセルで処理し,「商工録データベース」とした。これらのデータ集計によって,(2)ではその企業の「出身地(来歴)」,(3)では上海事務所・工場の「所在地」,(4)では「開業年月」などの「静態的」数値を知ることができる。「事変」後に設立され商議所に加入したものの41年半ばまでに廃業,という企業があったとしてもそれは把握できず,掲載されている企業が上海における成功例であるはずもない。
商議所会員企業の約半数が,上海を本店としている。もし上海の根拠を失えば,彼らは存立の基盤が無くなってしまうことを示唆している。会員企業の6割以上が「事変」後に上海で開業した。上海における開業ブーム時期と国策企業叢生時期,日本内地における商工業者の転廃業・労働者の失業多発時期,日本政府の外地移住奨励時期とは,符節が一致することに留意したい。
日本軍占領下の華中には,節度を失い中国人の弱みに付け込む「不良邦人」や,時局に乗じ横暴な「利権屋」の横行が目に余った。当論文では二つの節を費やして,それらの様態を追求してみた。華中には何十万という軍隊が展開して占領行政を敷き, 10万の在留日本人が生活を営んだのであるから,中国人の領域を侵害せずに共存共栄することは不可能である。なんでもない日本人の日常生活や存在自体が,中国人の眼には一種の「罪行」とすら映じたのかも知れない。

第4章では,「事変」前後の日本財界の戦争歓迎の空気と政界・報道・一般市民の戦争賛美・中国侮蔑風潮,軍需繁忙民需衰退の加速などを前置きにした上で,華中政策に関わる「二つの閣議決定」を考察した。華中に偏在していた民族資本の生産設備は,戦火を避けてあるいは西部奥地に遷移し,あるいは共同租界「孤島」や越界地域に回避したが,多くは戦禍に失われていた。日本は復興・再建に名を借りて華中経済基盤を掌握し,日本の兵站とするべく「興亜院」を創設し,国策会社・中支那振興㈱とその傘下企業群を次々に発足させた。

「事変」以後,上海租界とその周辺はことごとく日本軍の制圧下に置かれ,準占領地帯と化した。英米色から急速に日本色の濃い租界へと転機を迎えて,政治・経済・文化などあらゆる分野に,日本の支配力が浸透していった(羽根田市治(1984)『夜話・上海戦記 昭和6-20年』,論創社)
本稿の重点は,企業や団体における就業者の,特定時間帯における「人数」の変化から,その企業や団体の変貌を読み取ろうとするところにある。業種ごとの世界経済下における環境など「周囲の事情」には,敢えて触れていない。1939年,日本人は「戦勝」を笠に着て中国を侮り,中国人はそのような日本人の横暴を蔑んで風雪に耐えていた。
1932年,「第1次上海事変」が収束した日本には,世界大恐慌の後遺症が生々しく残っていた。しかし,日本民族の中国への大量脱出は起こらなかった。なぜ,1937年の「第2次上海事変」直後から,日本人は猛然と中国へ,そして上海へ向けて「大移動」を開始したのか。本論文の作業を通じて筆者は,華北の「北支那開発」と並ぶ国策会社「中支那振興」の上海における設立が,「一大要因」であったと確信している。

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