「2004年中国近現代史研究国際学術交流」参加記

島 田 美 和

2004年8月27日から30日にかけて、内モンゴル自治区フフホト市にある内モンゴル大学蒙古学学院にて、「2004年中国近現代史研究国際学術交流」が開催された。この会議は、内モンゴルと日本の研究者の交流を目的とするもので、日本からは関西の若手を中心に総勢11名が報告を行った。

初日の27日には、報告会に先立って「国際学術交流」開会式が行われた。周太平内モンゴル大学近現代史研究所長の司会進行のもと、田中仁大阪外国語大学教授が開会の辞を読まれた。続いて、山本有造京都大学名誉教授による基調講演、「日本植民地史研究の回顧と展望」が行われた。従来の細分化された「個別的」植民地史研究にとどまらず、近代「日本帝国」の存在そのものの構造を問うことの重要性が強く訴えられた。地域ごと、領域ごとに「蛸壺化」しがちな研究動向に、新たな総合化を目指す視座を提供しようとする、刺激的な問題提起であった。

続いて同日第一分科会、第二分科会が開かれた。プログラムは以下のとおりである。

第一日8月27日(金)

第一分科会 「モンゴル地域史」

第二分科会 「中国近現代史」

まず、第一分科会「モンゴル地域史」での報告要旨を簡潔に紹介しておく。田中報告はチンギス・ハン顕彰運動における言説・儀式と内モンゴルの「民族復興」との相互関係を考察した。具体的には、1930年代初期の内モンゴル自治運動における知識青年のチンギス・ハン像の多様な需要の形態から蒙疆政権においてはチンギス・ハン顕彰運動が民衆レベルへと推進されていった過程が分析された。1912年烏泰「独立」事件の原因を再検討したバイラドゲチ報告は、これまで、清末の漢民族による内モンゴル大規模開墾が惹起した民族的矛盾や外モンゴルの扇動が重視されてきたのに対し、烏泰の清朝への債務をめぐる蒙旗と中華民国東北当局の対立を事件の主たる原因とする新しい見解を提示した。島田報告は、1936年における綏境蒙政会の成立過程を考察した。1936年1月の百霊廟蒙政会解体後、国民政府は蒙旗の自治単位を綏遠省内に限定し、綏境蒙政会を組織するが、その際、国民政府と地方実力派である閻錫山、傅作義等との間に「蒙旗自治」に関する認識の相違があったことに注目した。テクスバヤル報告は1922年1月、インターナショナルが開催した「東方民族大会」においてモンゴル解放と独立の重要性を唱えたデンデブ(登徳布)の発言を紹介した。当時の共産党がこの発言に賛同したことから、ここに初期の共産党の民族政策の端諸があると報告した。

次に、第二分科会「中国近現代史」の報告要旨を記す。郝維民報告は、内モンゴル民族民主革命の勝利以来半世紀を過ぎようとする現代史を通観し、内モンゴル近現代史における地域的、文化的「特殊性」と中国近現代史の全体像との関係について考察した。上田報告は、民国初期、奉天における経済界の内部構造を検証した。具体的には、政府との関係を重視する商会長と都市雑業層の代弁者たる中間幹部との対立が考察された。奉天都市民と総商会の構成の綿密な分析を通して、中間幹部が基層地域社会の意識を体現する存在であったことが明らかにされた。石黒報告は、中華民国のカイロ会談への参加がもった歴史的意義を再評価した。当時、中華民国は、決して米英ソと「対等」な関係ではなかったが、少なくとも外見上は大国への一歩を踏み出したのであり、そうした同国の国際的地位の向上が後の国際連合形成においても有効に働いたと論じた。ウリジトクトフ報告は、清末清政府による憲政準備期間におけるモンゴル「旧例」の改正状況を検討した。具体的な分析は、「理藩部官制草案」の修訂、「蒙古刑罰」の減軽、「大清律例」関連の条文の改正、「理藩部則例」部分条文の排除等、広範囲な領域に及んだ。日本人満州移民政策を検証した小都報告は、地域社会からの抵抗や協調といった「反作用」が満州国政府の政策形成与えた影響を重く見る。この点で特に、日本政府と同一視される傾向のある満州国政府の位置づけに修正を求め、その独自性に注目すべきであると示唆された。抗戦後の国民党による蒙旗復員政策を考察した賽航報告は、モンゴル族各界人士がいわゆる「自治権問題」を自らの合法権益の保持という観点から肯定的に捉え、主体的に蒙旗復員活動に参加したと積極的に評価した。最後に、倉西報告は、1937年から1938年の日中戦争下における日中間の「和平工作」を分析した。38年が日本の「対中意識の転換点」であったこと、また早期和平達成と真の日中提携のために自発的に「和平工作」に関与した日本人が存在したことが確認された。

第一分科会と第二分科会をとおしての報告内容を小括するなら、日本の若手研究者の報告は東北地域もしくは満州国の政治史、さらには国民政府の外交政策にいたるまで広範の研究領域に及んだのに対し、内モンゴル大学側の報告は地域としてはモンゴルに焦点を絞ったものとなっていた。特筆すべきは、後者の報告がいずれもモンゴル人内部に議論が閉じることなく、モンゴル人とモンゴル地域の管轄行政機関である清朝、中華民国北京政府当局、中国国民党や中国共産党との関連性を強く意識したうえで様々な問題を分析していたことである。特に、賽航氏の戦後国民党による蒙旗復員に関する報告は注目に値する。同報告は、西村成雄氏が指摘されたように、近年、戦後国民政府研究が盛んな日本での研究動向と符合するものであった。また賽航報告は盟旗存続運動の歴史的意義の評価に関しても重要な見解を示していた。同報告は、まず、蒙旗復員問題を一般的な戦後の少数民族政策とは一線を画するものだと考える。たしかに、国民政府の蒙旗復員政策は、元来少数民族の統合を目的とするものであったかもしれないが、そもそもの政策の正統性は「旧体制への復帰」に求められていたのであり、その限りでモンゴル盟旗にとっては、「設省」が体現する新しい政治再編に抵抗する媒体となりうると見えたのである。同報告はさらに進んで、南京国民政府成立後顕在化していた設省問題をめぐるモンゴル人の盟旗存続運動が戦後いかに展開していったかを詳細に検証した。この作業を通して、国民政府とモンゴル王公・知識人との複雑な関係を解明し、モンゴル人側を主体とした民国への参加運動を戦前から戦後にかけて連続した潮流として捉えようとする。こうした、モンゴル人の活動が、戦後の内モンゴル独立運動や共産党が指導する内モンゴル自治運動とは本質的に異なる性格を持ったことは言うまでもない。戦後における蒙旗復員政策の失敗は、むしろ戦前から連続した活動の終結点としてみるべきなのである。

次に、二日目のプログラムとその内容を紹介する。

第二日目8月28日(土)

第三分科会「現代中国研究」

プログラムが示すとおり、第三分科会は日本人研究者が現代中国に関するさまざまな分野の研究の報告を行った。以下その概要を記しておく。日野報告は政府が建設を進める高学歴、専門職、管理職の職業仲介施設「人材市場」の実態分析を通し、市場化へ向かう中国社会の変動過程を確認した。また今後の課題として、「人材」概念の変化や市場原理、競争主義の展開が進む中、「人材市場」が社会の職業観や職業倫理構築に向けて積極的貢献が必要であると説いた。渡辺報告は80年代以降の中国の政治体制改革に対する日本の認識として、日本の現代中国政治研究を概括し、さらに新たな分析枠組みとしてコーポラティズム論と支配の「正統性」論の二つの理論を提議した。宮崎報告は、20世紀陝西省楡林地区における農民の植林概念の変化について考察した。中華人民共和国成立後から1983年までの集団化の時代における農村部の人々の植林への認識、理解は1983年植林の請負制開始以降の植林活動の活発化に貢献したとする。坂部報告は「慰安婦」経験のある女性への聞き取りに関しては、その植民地経験自体を語ること自体の語りがたさが存在するとした。したがって、語りの内容のみならず語り口(形式)へも着目し、経験者が新しい自己物語を語り、深いレベルで聞き取る枠組みが必要であると説いた。鬼頭報告は、日本における高校での中国語教育について高校中国語の現状、つまり中国語実施高校の広がりと履修概要、教員をめぐる状況、そして、教科書および学習内容について考察した。

どの報告も日本での現代中国研究の最新の学説を内モンゴルで紹介し、集中的に議論がなされた。第三部会終了後、閉幕式が行われた。元内モンゴル大学学長トプシン(特布信)氏の特別講演と西村成雄大阪外国語大学教授の閉会の挨拶があった。トプシン氏の講演の内容はご自身の生涯を私たちに簡単に紹介されたものであった。同氏はすでに東京外国語大学中見立夫教授の招請で学術交流のため長期滞在されたことがあり周知の方も多いと思われる。トプシン氏はウランホト(王爺廟)の方で、苦学のすえ内モンゴルの中学校から日本へ留学し、第一高等学校へ進学されたが、学徒出陣の開始に伴い卒業を前に帰国を余儀なくされた。その後、内モンゴルの中学で教鞭をとられた際、日本留学中に「秘密図書館」と呼ばれた留学生間の相互貸借で学んだマルクス主義を、多くのモンゴル人学生に伝え、かれらの革命への参加に影響を与えたという。1945年11月には、ウランフ率いる内モンゴル自治運動連合会が成立すると、21歳の若さで内モンゴル自治運動連合会興安盟分会(46年5月28日成立)の主席に就任された。さらに、1947年5月1日内モンゴル自治政府成立以後も参議会の参議員として名を連ねておられる。この間ウランフの通訳等を行い、また、綏遠工作、とりわけウランチャプ盟の人民政府の成立などに大きく寄与された。しかし、1957年内モンゴル自治区成立十周年慶祝大会開催直後の宣伝工作会議での発言が「右派」分子と批判され、内モンゴル出版社社長の職を解かれてしまう。ようやく1979年に公職に復帰し、内モンゴル大学の副校長、校長の要職に就かれたが、6年後には早くも退職年齢の60歳を迎えることになる。このように、氏は自身の一生を「前半生は頂点に達し、後半生はこのよう(解職)になった」と評され、現在回想録を執筆されているそうである。「今(みなさんが)研究しているこの近現代史を私の一生ですべて経験した」という講演の最後の言葉は実に印象深かった。トプシン氏の人生はまさしく、今回の会議で議論された近現代モンゴル史のみならず、戦前期日本留学という経験そのものからみても「日本帝国」に深く関わるものであった。この講演は、今回の日中学術交流の最後に歴史のリアリズムと衝撃を与え、私たち若い世代にとっても直接お話を伺えた貴重な機会であった。

27日の午後から28日にかけては百霊廟へのエクスカーションを行った。百霊廟は1932年から1937年までの徳王を中心とする自治運動の拠点であり、百霊廟蒙政会が設置され、当時は内モンゴル自治運動の政治的.宗教的中心であった。1937年に出版された黄奮生の『百霊廟巡礼』によると、当時は百霊廟までは、約10時間を要したそうだ。フフホト市の北に位置する内モンゴルの慈母(北側から吹く冷たい気流を遮り山の南側を暖かくするから)と呼ばれた大青山をムカデのように横登りして越え、また途中砂漠の難に遭い、草原の天然の道を走り、やっと百霊廟に到着したという。私たちは、フフホト市内から北へ向かってよく整備された公道を通り、いとも簡単に大青山を乗り越え、途中武川の町を通過し、3時間ほどで百霊廟のあるダモ連合旗(達爾軍茂明安連合旗)へとたどり着いた。しかし残念なことに、現在の百霊廟は百霊廟蒙政会が設立されていた頃の規模のほんの一部しか残されていなかった。旗長のお孫さんの女の子が私たちを百霊廟の向かいにあるイルミネーションに彩られたダモ連合旗の広場へ誇らしげに案内してくれた。百霊廟の存在は薄れ、百霊廟自治運動の面影も完全に吹き飛ばすような現代的な広場の情景が目に焼きついた。また、このエクスカーションでは主に草原へ行き草原岩絵やモンゴル・ゲルの中で羊料理を堪能するといった楽しい経験をさせてもらった。

本交流会では、日本の若手研究者の新しい視点と内モンゴルの研究者の最新の内モンゴル研究を相互に報告しあうことで、日本と中国の中国近現代史に対する歴史観の共通性と相違点を確認するだけでなく、日本での現代中国に対する研究を紹介することもでき意義深いものであった。

『NEWS LETTER近現代東北アジア地域史研究会』第16号,2004年12月,125-130頁。

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