内モンゴル近現代地域研究の新たな課題

周 太 平(中国・内モンゴル大学)

1.はじめに――中国における近現代モンゴル史研究

内モンゴル近現代史は、中国におけるモンゴル民族史の歴史的一段階であり、また中国地域史研究において重要な位置を占めている。しかし、近現代内モンゴル地域史研究という分野は、モンゴル史研究のなかで比較的新しい領域であり、独立した歴史学の分野として成立したのは、1980年代に入ってからのことである。その意味で、本稿は、内モンゴル近現代史研究の視角からみた地域研究が、現時点においてどのような段階にあるのかを確認しつつ、試論的に今後の研究課題の所在を提起することを目的としている。

周知のごとく、19世紀半ば以降の内モンゴルは、世界各地におけるモンゴル人居住地域のなかで、社会情勢がもっとも激しく動揺した地域である。さまざまな社会的矛盾の深化のなかで、モンゴル人居住地域社会は明らかに変容していった。とくに、東部内モンゴルでは、急激な農地化による伝統的社会構造の解体過程が進んでいた。そうしたなかで、東西内モンゴル各地において漢民族とのエスニック・コンフリクトが頻発しており、とくに牧場の開墾農地化に対してモンゴル人は抵抗と暴動をくりひろげた。これらの開墾農地化に対する抵抗運動は、のちに組織的なモンゴル民族革命へとつながった。また19世紀末期は、日本が内モンゴル東部、帝政ロシアが外モンゴル及び内モンゴル西部に対して非常な関心をもちはじめた時期でもあった1)。

19世紀半ば以降の「モンゴル問題」は、日本側にとってのいわゆる「満蒙問題」は、大陸の研究者から空白の研究対象として残されてきた。1980年代に入り、内モンゴルの研究者たちは、歴史研究の重要な課題を、専門機関の設置による研究体制を構想し、内モンゴル大学に内モンゴル近現代史研究所を創設し、ひとつの学問領域として内モンゴル近現代史研究の制度化が実現した。その後10年間に『沙俄侵略我国蒙古地区簡史』(内モンゴル人民出版社、1979年)、『内蒙古近代史論叢 第一輯』(内モンゴル人民出版社、1983年)、『内蒙古近代史論叢 第二輯』(内モンゴル人民出版社、1984年)、『内蒙古近代史論叢 第三輯』(内モンゴル人民出版社、1987年)、『大青山抗日闘争史』(内モンゴル人民出版社、1985年)などの成果が出版された。しかし、1990年代以前、主に一次史料が欠如していたため、実証的研究は十分でなく、またその研究内容も従来の歴史認識のパラダイムとしての「革命史」、「中国共産党史」の枠内にとどまっていた。 その意味で、中国における近現代モンゴル史研究は、1990年代から本格的に始まったといってよいだろう。

1990年代から近現代モンゴル研究に関する歴史、文化、社会などの研究者によるシンポジウムなどが積極的に組織され、その研究分野もモンゴル近代史、内モンゴル地域史、内モンゴル自治区史、内モンゴル地区中共党史、革命闘争史、ロシア・日本等との国際関係史、民族関係史、民族運動史、および近現代内モンゴル地域の経済、社会、文化などの地域研究も開拓されてきた。ここで1990年代から現在にいたる、内モンゴル近現代史研究の業績をみると、新たな水準の成果が刊行されはじめた。たとえば『近代内蒙古民族運動研究』(論文集)、『内蒙古革命史』(内モンゴル大学出版社、1997年)、『蒙古民族通史全5巻』(内モンゴル大学出版社、2002年)、『漢族移民与近代内蒙古社会変遷研究』(民族出版社、2004年)、『日本と内モンゴル』(内モンゴル教育出版社、2004年、モンゴル語版)などの業績がまとめられている。

中国における内モンゴル近現代史研究は、従来からの内モンゴル革命史関 係の研究が中心となってきたのはいうまでもないが、近年、近代モンゴル政治・社会史研究、現代中国における内モンゴル地域社会の生態史的変容に関する研究も含め、より広い史的視野からのモンゴル歴史理解へのアプローチが開拓されつつあり、若干の研究者による実証的研究がすすめられつつある。 しかし、現状からみて、時代と地域によっては殆ど研究がなされていない領域が少なくない。また、モンゴル諸地域におけるアーカイブズ資料の収輯や利用問題が、歴史研究者を中心とする地域研究関係者にとって重要な課題となっている。

中国周縁地域としてだけでなく、またモンゴル世界の一部でもあった内モンゴル地域、あるいは主体的な「内モンゴル地域史」を再認識し再構成するには、従来の方法によって選択され加工された「文献資料」だけでは不十分であり、今後さらに中国語、モンゴル語、 日本語、ロシア語などの史料による総合的、比較分析も必要となるが、これは、研究分野の拡大、研究課題の多様化ともかかわっている。現在の内モンゴル自治区行政区分は下図の通りとなっている。

2.モンゴル地域社会変容

(1)清朝政治とモンゴル社会の変容

満州族の清朝支配下で内外モンゴルは最初の一世紀間(17世紀半ば~18世紀半ば)は大きな混乱に直面することはなかった。内モンゴルでは、康熈年間までに「雖四十九旗蒙古、従未有令内地遊牧者」であった遊牧地帯に、18世紀半ば頃から、内地漢人農民の入植が進んだ。雍正元年(1722年)、清朝政府は「借地養民」令を公布し、内モンゴルの土地開発推進を図った。さらに、19世紀後半期に増大した漢民族の北方への移住人口は、モンゴル民族社会にかつてない影響をもたらすにいたった。とくに、20世紀初期、清朝政治による漢人大量入植を目的とする対モンゴル殖民実辺「新政策」が実施された。また、これはロシア勢力の南下と日本勢力の北進に対抗するものでもあった。日露戦争の後、この「新政策」は、内モンゴル各地に急速に展開し、農耕民の入植は内モンゴル東南部から各盟、旗へ広がっていった。ところで、内モンゴルの草原開墾のすすんだ原因は、漢人商人、農耕移民、清朝の対モンゴル政策などに求められるが、同時に、当該地域の社会内部要素からも考える必要がある。まず第一に、モンゴルの王公たちが、漢人商業資本への巨額の負債を、土地を農耕移民に貸与したり売り払うことによって弁済するという経済的困窮にあった。つまり、モンゴル王公自身の政策としての内的要因を指摘しなければならない。さらに、第二に、「モンゴル貿易を通じた旅蒙商とモンゴル支配者層との私的な土地貸借関係という経済的条件」があったことに注目する必要がある。

この経済的諸条件のもとで、近代内モンゴルの南部地帯において、農牧交錯地域社会が形成され北方へ拡大していった。農業村落はしだいに内モンゴル地域社会に浸透し、これに伴って、遊牧経済地域内に農業経済地域が形成されることとなった。

このように長期にわたって、内モンゴルに大量の「民人」が移住して耕地化がすすみ、内モンゴル南部、東南部、及び東部において広大な農耕地帯化がすすんだ。中華民国初期(1914年)、農耕地帯の人口平均密度が273人/平方キロに達した。民国初期におけるジリム盟の人口をみると、3,951,819人のうち、移民が3,679,244人であった2)。下記の【表A】【表B】を参照いただきたい。これとともに、内モンゴル地域経済は、20世紀中頃までには、北部の一部の草原地帯と大興安嶺の山間部を除き、モンゴル人は遊牧から半農半牧或いは定着農耕という生業様式に変わっていった。そこに、従来のモンゴル社会と文化とは異なる新たな特殊性をもつ地域が形成されてきた歴史的状況が現出する。

【表A】ジリム盟の人口密度の歴史的状況(人/平方キロ)

清朝中期 清朝末期 民国初期 「満州国」期(1) 「満州国」期(2)
(1770年) (1912年) (1915年) (1932年) (1941年)
0.87 10.7 18.5 6.12 14.3

【表B】 現代におけるジリム盟の人口密度(人/平方キロ)

1953年 1964年 1982年 1996年 2000年
16.31 25.46 39.93 47.83 49.89

資料出典:『蒙古地誌』(東京富山房1919年)、『哲里木盟統計年鑑』(ジリム盟統計局各年版)

(2)内モンゴル地域社会の新たな歴史的特徴

近現代における内モンゴル地域社会の歴史的特徴について議論するためには、まず、すでに多様化時代を迎えつつあったモンゴル人社会の変容を客観的に見る必要がある。つまり、モンゴル人社会は本来こういうものでなければならないという思い(静態的設定)と先入観を排除しなければ、議論が混乱することになる。つぎに、内モンゴル地域社会の歴史と現在が、われわれが今了解するモンゴルとどのようにつながっており、またどのような違いがあるか、この点を明らかにする必要がある。そして第三に、この地域の文化変容―文化創出は、モンゴルの歴史、さらに中国周辺諸地域の歴史にとってどのような意味をもつのかを再認識し、再定義する必要がある。

中国領内モンゴル民族の人口の約80%を占める390万人が内モンゴル自治区に住み、またその大多数(内モンゴル自治区のモンゴル人の3分の2を占める約260万人)が、ジリム盟、ジョーオダ盟(現在の赤峰市)、興安盟等の内モンゴル東部地域に暮らしている。

内モンゴルの西部の牧畜業地域は、1980年代に国家規模での経済政策の転換を経験し、放牧地が各世帯に分配された。放牧地を狭隘化されたモンゴル族は移動放牧の自由を失って、1990年代からゲル生活から離れ、現在は完全に定住化生活へ移行した。それは、牧畜生業様式が人口密度の増大、草原の退化・砂漠化等の自然環境により大きな制約を受けたからである。

このように、内モンゴルの西部の一部の牧畜地域には、草原と草原の民も存在するが、内モンゴルにおいて目につくのは、 農耕村落という空間表象であり、農耕或いは定着性の強い半農半牧が内モンゴル地域全体に広がり、中国内地の影響を受け、言語や生活の面で「漢化」現象が顕著になっている。

歴史的に見ると、モンゴル社会は清朝期、その生業様式は比較的安定した時期であったといえる。その後、19世紀半ば以降変化を常態としてきたとしても、今日の変化の速度と規模は従来にはなかったものといえよう。

ところが、農耕化過程にあるモンゴル地域社会は、漢人移住の影響を受け、モンゴル人が中国式の生活に移行したということが言えるが、実はそれほど単純ではない。換言すれば、内モンゴルにおける農耕化とそれに伴う地域社会の変容過程をどう捉えるのかという問題である。それは新たなモンゴル地域社会を創出する過程なのか、それとも単なる漢化の過程あるいは同化の過程といってよいのか。もし、新たなモンゴル地域と地域問題が創出されつつあるとするならば、そのなかの地域の今日的な歴史的特徴、特にいわゆる伝統文化を守り続けようとする「民族化」という動きをどのように認識すべきかという地域研究の新たな課題が出されているといえよう。

(3)「民族区域自治」からみる「内モンゴル自治区」

内モンゴル自治区の面積は118万3千平方キロで、中国では新疆維吾爾自治区、西蔵自治区に次いで三番目の面積をもつ地域である。東部は東三省、南部は河北省、山西省、陝西省、寧夏回族自治区、北東部はロシア、北部はモンゴ ル国と境を接している。同自治区は、1947年に中国の一地方行政単位としてスタートした。

2000年に行われた第五回国勢調査によれば、内モンゴル自治区の総人口は 2,332万3,347人で、そのうち漢族1,846万5,586人、モンゴル族約390万人、満州族49万9,911人、回族20万9,850人、朝鮮族2万1,859人、ダフール族7万7,188人、エヴェンキ族2万6,201人、オロチョン族3,573人、チベット族2,062人である。モンゴル族などの少数民族の総人口は自治区総人口の16%であり、比率は低下している。

「内モンゴル」は、民族名ではなく、地域名である。しかし、「内モンゴル」という名称は、もともと地域として存在しなかった。それは清朝期モンゴルの「内札薩克」に関係するもので、ゴビより南の49旗(ホショー)のモンゴル人地帯を指す意味であったが、1947年以降中国共産党の指導下で内モンゴルの政治的統一が実現され、漢人地域を含めた「地域」としての内モンゴルが歴史的に形成されてきた。これはモンゴルの歴史、より広くは中国の周辺社会として位置づけられているさまざまな少数民族地域の歴史に起きた重要な変化を示すものであった。

中国の「民族区域自治」というものをどのように認識すべきか、つまり「民族自治」か、「区域自治」か、という問いに対しては、歴史的かつ、今日的な「中心―周辺」の再編過程との関連を考える必要があるが、簡単に概括すれば、その基本的な内容はまず「区域自治」にあるように考えられる。「内モンゴル自治区」(内蒙古自治区)、「新疆維吾爾自治区」、「広西壮族自治区」、「寧夏回族自治区」、「西蔵自治区」といった自治区名称からも分かるよ うに、区域を民族より優先させている。もちろん、区域と民族に分けて別々に考えると無理が生じるが、現代中国における「民族理論」の到達点を再検討するうえでのひとつの試みといえよう。

3.中国における「民族理論」をめぐる新動向

近年、中国では少数民族問題をめぐる理論的再検討がすすんでいる。注目すべきは、民族問題に対する根本的な意見の差異のためというよりは、現実の民族政策をいかに実施するのかという点において今までとは異なる考え方が提起された点にある。中国における「民族」概念をめぐって新たな解釈が試みられ、北京の研究者たちを中心に多くの論文が発表されている。それらの議論は、次のようにまとめることができよう。第一に、「少数族群問題の脱政治化」という馬戌の説である。それは少数民族問題における政治問題、つまり「民族」概念に含まれる政治性を抜き取ることを目的として、「族群」(ethnicity)概念を提起している。第二に、民族政策の観点から提起された「自治にかわる共治」の主張である。「民族共治」概念の首唱者は朱倫である。そして第三に、馬戌説にせよ朱倫説にせよ、いずれも費孝通の「中華民族多元一体格局」論に深く関連している。 費孝通は中国における諸民族の一体論を説き、学界のみならず、政府の民族政策にもきわめて重要的影響を与えてきた大きな存在である。馬戌等の研究は実は、費孝通理論の具体化を図ることで、「民族」概念の政治性がエスカレートして分 離主義的な「政治問題」を生む現実を克服しようとするものである。こうした複雑な民族構成を持つ大国の民族間関係を解決するために、「民族」から「政治性」を抜き取り、新たに「文化性」としての「族群」(「族群」概念が「民族」概念に代わるものとする)の方向へ導くべしとする構想が形成されるに至った。いずれにせよ、「民族問題」や「民族関係」に含まれる「政治性」という困難な課題をめぐって本格的な論争がようやく表面化しつつあるように思われる。

その意味で、中国における民族問題を理解するうえで歴史学からの研究は必要不可欠であり、現在、地域研究という視点に立ち、変容著しい中国の中心-周辺関係 を、その歴史と実像から再考察し、さらに周辺地域における動的な「民族境界」の維持・変容をめぐる議論が必要となる時期にさしかかっていると思われる。

注記

  1. 中国における内モンゴル近現代史研究では、内モンゴル大学が中心となっているが、そのほか、内モンゴル師範大学歴史系、モンゴル史研究所、内モンゴル社会科学院、中国辺疆史地研究センター、中国社会科学院民族研究所、中国人民大学 清史研究所などの関係機関がある。
  2. 中国東北部を北東から南西に走る大興安嶺山脈南端の東側一帯は、東方に広がる東北平原に向かって緩やかに高度を低める海抜200-500mの台状地形のホルチン草原をなしている。ジリム盟(現在の通遼市)は、そのホルチン草原の中心地域である。

参考文献

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