福祉国家論から見た華南の社会保障―「自由主義レジーム」下の膨張のメカニズム―

沢 田 ゆ か り(東京外国語大学)

はじめに

1990年代における東アジアの社会保障制度は、社会保険を中心にしたソーシャル・セーフティネットの構築が主流であった。これは世銀・IMFの推奨する「小さな政府、市場主義、規制緩和」に沿う改革でもあった。エスピン・アンデルセンの福祉国家モデルを援用すれば、市場から社会サービスを到達する「自由主義レジーム」へのシフトともいえる。

ところが「自由主義レジーム」は市場への依存度を高めるために、市場の失敗の局面ではかえって国家と家族への依存を深める結果になる。また好況下であっても貧困の程度が深まれば、自己責任の社会保険よりも国による福祉が有効となる。

本稿では香港と中国を事例に、グローバル化と市場化の元での社会保障制度改革が、当初の目標とは異なり、かえって国への依存を深めた経緯を紹介する。

1.香港の社会保障制度改革

(1) 進む年金改革と増大する新貧困層

不平等度を表すジニ係数を見ると、香港は東アジアNIEsの中では突出して高い。香港のジニ係数は2001年時点で0.525、シンガポールは1998年で0.425、台湾が2000年で0.326、韓国は1998年で0.316である。この数値は1990年代に大きく上昇した。

1990年代、香港の社会保障面では二つの大きな変化があった。年金制度の導入と生活保護の膨張である。公的年金は1970年代からすでに議論されていたが、財界の反対が根強く、実現されずにいたプログラムである。それが返還までの移行期において、急激な少子高齢化が進んだことと、公的年金ではないチリ型モデルが登場したことが作用して、返還後に「MPF」と呼ばれる民間の年金プログラムへの加入を義務づける法案が成立した。いっぽう生活保護プログラム(CSSA)の受給者件数は1991年度には7万2000世帯だったものが、2003年度には29万世帯へとほぼ4倍にふくれあがった。

この時期に貧困層が急増した背景としては、大きく分けて二つの要因が挙げられる。第1の要因はこの地域における少子高齢化化の急速な進展である。2003年における65歳以上の高齢者の人口比は、香港ではすでに11.7%に達しており、国連の定義7%を上回る高齢化社会に突入している。

第2は、香港の経済環境の変化である。これには、1980年代から進行した産業構造の変動1997年以降の経済不況が作用している。前者は、中国大陸への生産基地の移転により、香港域内の製造業が空洞化したことが背景になっている。

(2) 財政赤字の圧力

香港政府が社会保障制度の改革に踏み切ったのは、主として財政上の理由からである。返還後の経済不況により、1997年度には2812億香港ドルにのぼった歳入は2003年には2073億香港ドルまで縮小したのに対し、歳出は同期間に1133億香港ドルから2475億香港ドルに跳ね上がった。韓国や台湾では、社会保障制度の改革は民主化と合わせて進展したが、香港の場合は返還に備えての「上からの民主化」であったこと、民主党派が社会保障に関して分裂していることから、改革の主導権は政府が握っていた。

これに対して、政府はCSSA受給者に占める労働力を有する者の比率が増大したことを指摘し、先進国と同じ「福祉漬け」が始まったと解釈した。

(3) 香港政府の対応と限界~市場は社会保障をどこまで代替するか?

こうした認識のもとで香港政府がとった対策は、五体満足なCSSA受給者を労働市場に戻すことであった。失業者を事由とする受給者に、「自力更生計画」を打ち出し、労働署と雇用者再訓練委員会はNGOと協力して、失業者に職業案内と職業訓練を提供すると同時に、彼らに公園の清掃などコミュニティへの無償奉仕が義務づけた。もし正当な理由がないまま、この義務を履行しない場合は、政府はCSSA受給の差し止めを行うことができる。また2003年6月に香港特別行政区行政会議は、生活保護金の受給資格に、最低7年以上は香港に居住したという実績を義務づけた。

同時にNGOを通じて、CSSA受給者への特別就労プログラムを実行した。具体的には各NGOに就労プロクラムを設計させ、その成果に対して補助金を給付したのである。これは「集中就労支援プログラム」と呼ばれる補助金枠である。たとえば、カリタス香港はCSSA受給者である一人親家庭の就労を助けるため、カリタスの地区センターが託児所を開設するプログラムを実施した。また地元住民から不用品を集めてリサイクルショップを開設し、CSSA受給者に経営に当たらせた。CSSA受給者の女性には、カリタスの高齢者のケア(病院への付き添い)や単純な家事補助を斡旋して、収入の獲得を支援した。

図3 失業率とCSSA受給の推移

それでは、このような対策は効果があったのだろうか。図1と2からも明らかなように、労働力を有する生活保護受給者は一時的に抑制できたものの、1993年度以降はまた上昇に転じている。NGOからの聞き取り調査でも、成果主義型評価にもとづく補助金制度の導入によって、プログラムの逆選択(労働市場に参入するのが困難な受給者はプログラムに受け入れないという事態)が発生しているという。

2.中国の社会保障制度改革

(1) 社会保障の対象者の拡大

中国の社会保障改革は、国有企業の改革促進を目指して始まった。しかし1990年代後半からは国有企業の再生という目標は後退し、政府は従来の政策では優先順位の低かった農村や非公有制の安定にも注目せざるを得なくなった。「単位」が担った社会保障の機能を政府がすべて代替するのではなく、政府が保障する主要な対象は、都市部の住民一般に対する基本養老保険、公有企業からリストラされた終身雇用者の雇用保険、都市住民の最低生活保障制度に限定されている。しかし計画経済期には、その対象は災害時の救済と障害者および身寄りのない高齢者や孤児など、家族・職場・共同体のいずれの保護も受けられない者に限られていた。それが都市住民の一般市民に拡張したのであるから、改革開放期に政府が直接果たす役割は増大したといえる。

(2) 地域間格差の壁

注目すべきは、この場合の政府がもっぱら地方政府であることである。

表1からも明らかなように、社会保障関連の財政支出の内訳を見ると、地方が7割から8割を占めている。このため改革・開放期には地方間の経済格差がそのまま社会保障に反映されるようになった。市場経済の「勝ち組」となった地方では社会保障面でのセーフティーネットが整備されるのに対し、それが必要な「負け組」には救済のチャンスが薄くなるという矛盾を抱えるようになったのである。

(3) 社会保険(年金・医療・失業)と生活の保障

【年金改革とその限界】 1995年に国務院は「企業従業員の年金制度改革の深化に関する通知」(第6号文件)を公布し、自己責任を追及すべく個人口座と社会統一徴収した共通基金を組み合わせることで、年金を賦課方式から積立て方式に転換する方法を示した。この結果、地方間の年金水準の格差はかえって拡大した。保険料率も安徽省では30%を越えたのに対して、広東省では18%にとどまるなど、企業と個人の負担面でも明暗が分かれた。また独自年金をもつ11業種を省レベルの社会統一年金基金に統合する改革でも、筆者が1999年に広東省の社会保険庁で行った聞き取り調査によれば、すべての業種が省の社会統一年金基金に基金を繰り越ししなかったという。逆に社会統一年金が不足した地方では、在職者の個人口座の積立金を退職者の年金支払いに流用する「カラ口座」現象が発生している。

年金基金の安定を図るために、政府は退職者の少ない非国有企業の加入を強化する、国有資産の売却し社会保障基金に当てる、という対策を採った。前者は広東省でキャンペーンとして実施されたが、人民大学社会学研究所の鄭杭生が2000年5月に行った大中都市でのサンプル調査によれば、保険料を納付する非国有企業の比率はまだ高くない。

【医療費の負担と広がる自費医療】 改革開放期において都市部では高騰する薬価と公有セクターの赤字から医療保険が機能不全に陥った。中央政府の指定を受けた江蘇省の鎮江市と江西省の九江市は、1995年から事業主が10%、従業員1%の保険料を徴収し、従業員の保険料全額と事業主の40%を個人口座に積み立て、使用者保険料の60%を社会統一基金に納付するという「両江モデル」の医療保険制度を試行した。これをもとに1998年に「都市職員・労働者の基本医療保険制度の整備に関する国務院決定」が公布され、従来の公費医療と労働保険制度に代わって、個人口座と社会統一基金から成る全国統一の医療保険制度が誕生することになった。この制度は国有企業などの公有セクターと外資や私営企業などの非公有セクター同じ制度内でカバーするという点に特徴がある。また実験段階よりよりも加入者本人の保険料率を引き上げ、事業主の個人口座への投入を約30%に抑え、社会統一基金からの給付額に現地の年平均賃金の約4倍までという上限を設けたことから、加入者本人の自己責任を強調することになった。

ただし年金と同様に、具体的な保険料率や給付水準については、地方ごとの調整に任されている。基金の管理は市県レベルにとどまっており、全国統一制度の名目とは裏腹に地方の経済格差を反映している。また自営業者と郷鎮企業、農村からの出稼ぎ労働者に対しては、加入を強制しないという問題点もある。鄭杭生のサンプル調査によれば、2000年の時点で出稼ぎ農民と自営業者の8割以上が自費医療に甘んじている。(表3)


【失業保険】 1990年代に国有企業の倒産や従業員の一時帰休が現実のものとなるにつれて、失業保険の必要性が認識されるようになった。1999年、「待業保険条例」が法制化された。これによれば、都市部の企業従業員が職を失った場合、まず公有企業の終身雇用者であった者が一時帰休になると、再就業サービスセンターで3年を上限として生活費を受給する。3年が経過しても就業先が見つからなければ、次に雇用保険から2年を上限として地元最低賃金の7~9割の生活費を受け取る。ただし契約労働者は再就業センターには行かずに、直接雇用保険を受給する。受給開始から2年後にも失業状態にある者は、最後のセーフティーネットである都市最低生活保障制度(生活保護)に移行するというものである。

ところが失業保険基金の問題点は、積立額が小さく基金が不安定なこと、そして年金や医療と同様に市県別の管理・運用のため、地域間格差が反映され、地方によっては雇用保険の未払い現象が発生していることがあげられる。また雇用保険の給付額が、失業前の賃金水準に比例するのではなく、現地の最低賃金を基準に設定されており、最低限の生活保障を目的にしていることにも注目する必要がある。

結局、保険基金が不安定な地方の生活保障は、1999年に成立した「都市住民最低生活保障条例」に頼らざるを得ない。この制度の前身である社会救済制度は、従前の労働力を失った高齢者や孤児、障害者、慢性傷病者に生活保護として民政救済金を支給するものであった。しかし国有企業のリストラが進展すると、失業保険からの移管が急激に増大した。2000年には最低生活保障制度の対象世帯の8割が、失業または退職による収入減が原因となっている。受給額はここでも都市間の経済力を反映しており、深セン市は一人当たり300元以上、上海・北京は280元であるのに対し、21の中小都市では平均130元余と格差がある。

おわりに

グローバル化のもとでは市場に親和的な「自己責任」を強調する制度が導入されやすい。社会保障制度改革においては、社会保険を中心にした積み立て型の基金とコミュニティを強調する安上がりな福祉サービスである。これは市場メカニズムを最大限に利用し、国の責任範囲を限定することでもあった。しかし中国と香港の事例を見る限り、市場主義の中で所得格差が拡大すると、「最低限の生活保護」に特化した国の守備範囲が量的に拡大する。その結果、期待された社会保険ではなく、逆に従来型の社会扶助の割合が増大する。華南においても、社会保険制度の整備はかえって従来型の家族間の相互扶助と財政依存を増大させることになると思われる。


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