OUFCセミナー概要(2011年2月20日)

下川床和真(人間科学研究科MC)「中国系マレーシア人の社会におけるゲイの“場所”」

西欧諸国では、ゲイはセクシュアルマイノリティとしてゲイをカミングアウトし、社会的な権利(同性婚やパートナーシップ法)の恩恵を付与される。一方で、中国系マレーシア人のゲイは自己のゲイアイデンティティを模索する手段としてのカミングアウトを中々実践しにくい。それは、イスラーム国家と中国系マレーシア人の儒教的家族観念によるものだと考えられる。イスラーム国家からの法による拘束(Sodomy法:刑法377条)や「セクシュアリテの装置」(ここでは、孝の概念、社会的価値観)、またマレーシアでの同性婚やパートナーシップ法の欠如がその障碍となりうる。この状況では、フーコーの述べるところの「権力関係」を言論、もしくはカミングアウトを通して十分に抵抗できず、中国系マレーシア人のゲイは「支配」に近い「権力関係」の図式に置かれているように見られる。

新たな「権力関係」に対する抵抗の手段として考えられる、「カミングホーム」の存在をChouが中国系の家族観念の中から言及した。それは、行動を通して両親に自己のセクシュアリティを表現する手法である。同時に、それは中国伝統/西欧近代という枠組みを新たに再確認させられる。そして、西欧近代的な思想の同性愛=反社会的という枠組みが近代中国社会に埋め込まれた、とChou(2001)は述べている。

この点に対してWong(2007)は批判している。西欧近代的な思想(こここでは、同性愛=反社会的)が近代中国文化の枠組みに影響を与えた、とは懐疑的である。Chouは、中国伝統/西欧近代の二項対立を持ち出し、ネイションを意識したセクシュアリティの意識の差異を、いたずらに強調しただけにすぎないからである。

筆者はカミングアウトの問題点を考察し、身体を通した非ヴァーバル的な「ディスクール(1)」としてゲイアイデンティティの社会への抵抗手段(2)を「場所」という概念を通して読み解き、社会への自己の位置付けを「実存の美学(3)」として新たに見出す。また、中国系マレーシア人のゲイが持つ「家族」の概念を再考察し、儒教的家族観念というあたかも中国系に普遍的な概念が、彼らが新たに作り出した「エピステーメー(4)」を通して、新たに解釈されることを示唆したい。

中国系マレーシア人のゲイが実践する、「場所」を介した社会への自己の位置付けを「whack-a-mole現象」と名付け、それが如何にマレーシア社会でゲイアイデンティティを保持するために機能しているかを考察し、それぞれの社会に依拠した自己の位置付けや権力関係の構築が、マレーシア社会における中国系マレーシア人のゲイの間に存在することを示唆し、結びとする。

注記
  1. ディスクールとは言語学では言語表現や言説と訳される。また、ディスクールに関係するものとしてエノンセが挙げられる。エノンセは行為によって実際に語られたものを意味し、これはディスクールの単位となる(中山、1996: 114-15)。
  2. フーコーは、生―権力に対抗する手段として、自己を放棄せず、欲望を断念しないことと挙げている(中山, 1998:226)。それは、パレーシアと呼ばれる、法的拘束される恐れや死刑になる危険性を冒して真理を語る方法を以てして、わずかながらでも自己と社会を変えていくことである(中山, 1998:226-31)。ここでは、危険性を回避した方法を取り上げている。ゲイに「なる」ことによって、現在の社会では公認されていない新しい生き方を模索すること、他者との間で友愛に満ちた新しい関係を模索できる(中山, 1998: 200-01)。新しい生き方や新しい関係という新しい「エチカ」を模索することによって、新たな「真理」を社会に還元する手段を抵抗手段と呼ぶ。
  3. 人がみずから行動の規則を定めるだけでなく、みずからを変え、固有の在り方において自己を変貌させ、自己の生を美的な価値を持つと共に、生き方のスタイルについて特定の基準にかなった一つの作品に作り上げようとつとめることである(中山, 1998: 199-200)。
  4. フーコーは、存在するものの秩序を認識するためには、物の認識に先だって一つの知の枠組みが必要になると説明する。この知の枠組みのことをフーコーはエピステーメーという用語で呼ぶ(中山、1996: 77)。また、エピステーメーは、永遠に不動の実態ではなく、常に変容の過程にある(内田、1990:31)。
参考文献

華原月薇(言語文化研究科MC)「王安憶文学における憂傷の美学:『長恨歌』を中心に」

王安憶(1954―)は中国文壇を代表する女流作家の一人である。彼女は1980年代から文学創作を始め、常に時代と共にその文学スタイルを進化させていった。その中でも代表作『長恨歌』は中国文壇の最高峰である茅盾文学賞を2000年に受賞する。さらに同年「中国九十年代で最も影響力がある作家と作品」に王安憶と『長恨歌』が選ばれる。

王安憶の『長恨歌』は主人公王琦瑶と都市「上海」の運命を主題とし、女性視角から描かれた作品である。それは意図的に政治要素が表面に登場することなく、単にその時代背景として描かれ、個人の私生活が多くの空間を占めるという特徴がある。

王安憶は独自の審美意識を持って「上海」という女性都市の賞賛と、時代と共に変化を遂げることが出来ない女性の生存空間を描いた。彼女は上海弄堂における日常の神髄とその生活の美学により、小市民の精神世界を巧みに築いた。

さらに『長恨歌』の主人公王琦瑶の生涯を華やかな最盛期「刹那的繁華」時代、影を潜めた「遺失的角落」時代、そしてつかの間の幻想的な眩さを取り戻したかのような「末世的輝光」時代とタイトルをつけ、三つに分類する。そこから作者の策略とその意図を明らかにした。それは世紀末に向かう上海において、旧上海と新上海の象徴が出会い、呑み込まれるという顛末を導き出すための過程であることが浮き彫りになる。

また主人公王琦瑶の生涯を通して表わされる、旧上海の繁栄から一気に突き落とされ、徐々に破滅へ向かう道のりを、二十世紀への挽歌と捉えることができると思われる。

そして人物としての王琦瑶の矛盾点を指摘し、その人物統一性が欠如していることや王琦瑶の個人性を際立たせないための描写手法に注目する。そこから王安憶が一人の女性の生涯を通して、多くの弄堂に生きる女性達の美学を体現することを試みた新たな挑戦であったのではないかと考える。『長恨歌』は主人公王琦瑶が多くの女性の運命を一身に背負うことで、新たな上海の市民社会における女性史として捉える事ができるのではないだろうか考える。

最後に、王安憶は独特な女性の世俗的人生観と日常生活の神髄を以て、王琦瑶式の“憂傷”性溢れる悲劇を創出する。そこから上海ブルジョア女性の生存空間とその生活スタイルを表現する。その描写は時に幻想的であり、憂いと感傷を含んだ優美な美学を見事に創作することに成功する。そこには王安憶式の“憂傷”の美学が存在している。

楊霊琳(言語文化研究科MC)「湘西の戦火:沈従文の帰郷と創作」

沈従文(1902-1988)中国近現代文学界の作家である。1902年にミャオ族と漢民族の混住する、現在の湖南省湘西土家族苗族自治州鳳凰県に生まれた。ミャオ、土家、漢民族の混血である。彼の作品の大半は湖南省の湘西を背景として創作された。

沈従文は1924年に湘西を離れ、北京へ行った。1924年に文壇に登場してから、1949年中華人民共和国建国までの作家人生の中でに、二回湘西へ帰郷した。本論文では沈従文の湘西を舞台して創作された四つの代表作、『辺城』(1934)、『湘行散記』(1934-1935)、『長河』(1938-1942)、『湘西』(1938)を中心に扱った。この四つの作品はこの二回の帰郷と密接な関連性がある。

本論文は五つの部分から成る。順番に、「序章 湘西――沈従文の「郷土」」、「第一章 『辺城』――悲しい牧歌」、「第二章 『湘行散記』――帰郷の感想」、「第三章 『長河』――転換期中の湘西」、「第四章 『湘西』――戦火に及ぼされる湘西」、「結論」である。

「序章」には、まず沈従文の作家人生及び沈従文研究の歴史と現状を、それぞれ整理しておいた。また、周作人の「郷土」観を簡単に整理した。周作人の見解に基づいて沈従文の作品を見てみると、彼の湘西に関する作品は周作人が言及した「郷土」文学であると言える。湘西を描写することは当時の国民文学の建設につながったと言える。また、アンダーソンの『想像の共同体』によると、沈従文の湘西に関する作品は実は湘西及び現地の住民と外の世界との一つの連結である。

本論文が注目するのは沈従文が構築した「湘西」の特徴である。そして、本論文ではこの四つの作品における写実の部分を扱うことによって、作品における「湘西」の特徴、「湘西」を描く目的を窺おうと試みた。

第一章では、1934年に病気になった母親を見舞うための一回目の一時帰郷の前後に創作された『辺城』を扱った。『辺城』における自然の景色、人物描写、及び主人公翠翠と翠翠の両親の悲恋を扱ったことを通して、沈従文が描いた「湘西」は差別のない、人々が平等な世界であると分かった。

第二章では、1934年の一時帰郷の沿道の見聞きに基づいて描かれた『湘行散記』を扱った。そうすることによって、沈従文が1934年の一回目の帰郷の際に目にしたのは暗黒で堕落した湘西である、と指摘しつつ、沈従文は湘西に腐敗をもたらした原因が国による軍事管理であると考えていた、と述べた。

第三章では、1938年の二回目の帰郷の間に創作した『長河』を扱った。四十年代の湘西に関する客観的な資料と『長河』に描かれた1936年の湘西の状況を比較して見ると、沈従文が『長河』にも国家による湘西の軍事管理の暗黒な現実を暴き出している、と指摘した。

第四章では、同じく二回目の帰郷の間に創作された『湘西』を扱った。『湘西』が日中戦争において湘西を中国の兵站部にさせるべく創作された作品であると同時に、湘西地方と外界の誤解を解くために描かれたものでもある、と述べた。さらに、「苗民問題」の中に、未来に湘西を復興するには、湘西により湘西を管理すること、及び一律平等の原則を宣揚すること、この二つの発展する方法を提起した、と本章の最後に述べた。

この四つの作品を扱ったことによって、作品の中で、湘西を発展させる方法も書かれている、ということが分った。また、当時にとっての未来の国民文学を創造するには、このような平等で博愛の創作視点も欠かせないのではないか、と考えた。

滝本理博(言語文化研究科MC)「沈従文『鳳子』論」

沈従文(1902~1988)は、生涯自分の故郷湖南省西部の湘西地区にひとかたならない思いを持ちつづけた。今回の発表では、彼が青島に教員として滞在していた2年間(1931~1933)の間に書いた「鳳子」(1932年)について扱った。この作品は沈従文が「神」をテーマにした唯一の作品であり、10章まで書かれ未完に終わったものである。内容から作品を2つに分けると、前半部は4章までで、湘西出身の青年が失恋で青島に行き、現地で中年男性と鳳子という女性の哲学的な話を耳にする。そして青年がその後知り合った紳士がその中年男性であったというものである。後半部は5章以降であり、紳士の思い出話で、彼が若いころ湘西に行き土司である「総爺」という男性の案内でその地の前近代的な文化に触れるというものである。本発表では、(1)この作品における沈従文の「神」というものはどのようなものなのか解明し、(2)第10章まで書かれ未完に終わったこの作品のその後の展開はどのようになったのか、彼の他の作品を手がかりに考えた。

まず(1)の沈従文の「神」というものに関しては、作品第2章で中年男性と鳳子という女性の対話、第7章の紳士と「総爺」の対話を引用し解明した。そして筆者は人の感覚を研究しているフランスの学者アラン・コルバン氏の『レジャーの誕生』の、海辺に関しての言及を引用し、沈従文が当時滞在していた青島は「リゾート地」という特性があったからこそ、自然を評価の対象とする感性が育まれたのではないかという考えを提出した。沈従文はそうした美しい環境にいたことで、自然を評価の対象としてとらえることを身につけ、自然の美を「神」として表現したのではないかと考えた。また、彼の使う「神」は宗教性を帯びていないと考えている。

次に筆者は(2)の未完に終わったこの作品の書かれなかった展開はどのようなものであったのかを予測した。1933年の「三個女性」は青島と推測される所が舞台の作品で、登場人物の一人黒鳳という女性はある若い男性と婚約している。その女性のあだ名が鳳子である。もしこれが「鳳子」の続編だと仮定したら、「鳳子」第10章と「三個女性」の間には、前半部の主人公がこの鳳子という女性と知り合って婚約に至るまでが書かれたのではないかと考えた。

沈従文は「鳳子」において自然の美を表現するために「神」という言葉を使ったと考えられる。中断され書かれなかった個所では、今度は鳳子という女性に美を見出し「神」という言葉でそれを表現することになったのではないだろうか。

永野佑子(言語社会研究科MC)「古跡指定に見る台湾の歴史認識:日本統治時代の建築物を中心に」

1982年の文化資産保護法施行後、台湾の歴史的建築物が古跡に指定されるようになったが、文化資産保護法の目的の一つには「中華文化の発揚」が掲げられており、1990年まで古跡に指定された日本統治時代の建築物はなかった。1991年、台南地方法院が日本統治時代の建築物として古跡に指定されて以降、日本統治時代の建築物も徐々に古跡に登録されるようになったが、その数は少なく、また1998年まで第1級古跡に指定されることもなかった。1998年以降、日本統治時代の建築物が次々と古跡に指定されるようになり、同年、日本の植民統治の象徴である総統府(旧台湾総督府)庁舎も国定古跡に指定された。本研究では、この日本統治時代の建築物に対する扱いの変化の鍵は台湾におけるアイデンティティの変化と考え、戦後~1982年の文化資産保護法施行に至るまでの経緯と、桃園県忠烈祠と台南地方法院の保存・撤去をめぐる論争、総統府庁舎の国定古跡指定の意味を中心に、各時代における台湾のアイデンティティと歴史認識について研究する。

戦後、半世紀に渡って日本に統治された台湾人は「奴隷化」されていると考えていた中華民国政府は、「三民主義」や「中華文化」を教え込むことで台湾人を中華民国の国民、すなわち「中国人」にしなければならないと考えていた。加えて国共内戦に敗れ台湾へ撤退した中華民国政府は、「中国」の代表であるという自らの正統性を担保すべく、文化的精神動員運動を展開し、台湾の「脱日本化」と「中国化」を図った。その間、古跡は「脱日本化」と「中国化」の道具とみなされ、日本統治時代の建築物は勿論、台湾の伝統的建築物も破壊され、1978年に起きた民衆による「林安泰古厝」保存運動を契機に、台湾社会全体に古跡の現状保存という概念が生まれた。これらの背景を基に、1982年、文化資産保護法が制定・施行された。

1985年、旧桃園神社である桃園県忠烈祠の保存・撤去をめぐる論争が起こった。多くの人が保存を主張したが、その理由は「国恥の証拠品」であり、彼らの語る歴史は「中国」の歴史であった。結果、桃園県忠烈祠は保存されることになったが、当時古跡に指定しようと言う意見はなく、1994年に古跡に指定された。

1990年末に起きた台南地方法院の保存・撤去をめぐる論争でも、多くの人が保存を訴えた。台湾の歴史を意識した保存意見が多かったが、当時の彼らにとって台湾はあくまでも「中国」の一部分であり、彼らの言う台湾の「歴史」は台湾「地方史」であった。また、建築物そのものは国恥ではないが、国恥の証拠と言うのは構わないという「国恥」論の意見もあった。1991年に台南地方法院は日本統治時代の建築物として初めて古跡に指定された。

1998年、内政部は総統府を国定古跡に指定した。この背景には、既に1994年・1995年の段階で、台湾の多くの民衆・専門家・一部の政治家は、程度の差はあれ総統府庁舎の保存に賛成であったこと、さらに、李登輝総統が本土化政策を推進し、「台湾の中華民国」「新台湾人」などの新しい概念によりこれまでの「大中国」意識から抜け出したこと、さらには『認識台湾』教科書が登場したことなど様々な要素があった。総統府庁舎の古跡指定は桃園県忠烈祠・台南地方法院とは異なる。桃園県忠烈祠・台南地方法院は民衆が主体となって保存運動を行った結果であるが、総統府庁舎は政府が自ら国定古跡に指定したのである。これは「台湾の中華民国」が日本統治時代を近代史として受け入れたことを意味していると言えるだろう。

この後、台湾の各県市の日本統治時代の建築物を古跡に指定されるようになった。これは、台湾社会が植民地の歴史に自信を持って向かい合っていると言うことを表し、その自信は台湾の主体性に繋がった。2005年、文化資産保護法が全文改訂され、その目的が「中華文化の発揚」から「多元的文化の発揚」に変わった。当時の文化建設委員会の主任委員・陳郁秀が「我々の理想は、多元的文化を基礎とする「文化台湾」を確立することである」というように、「多元的文化」とはすなわち「台湾文化」を指すのである。

金晶(言語文化研究科DC)「中国民国期における谷崎潤一郎文学の受容状況」

本論文は民国期における谷崎潤一郎の作品が中国大陸でいかに読まれてきたかを考察するものでありながら、谷崎の作品研究に一石を投じようとする試みでもある。

第一章の第一節では、西欧「世紀末」文芸思潮の生れる背景とその特徴について論じた。高度の物質文明や進化論などに代表される中産階級の価値基準へのアンチテーゼとして生まれた「世紀末」文芸の特徴は美術、文学、音楽など芸術の各ジャンルにおける相互作用性・逆説性である。第二節では、日本における「世紀末」文芸受容の全体像を概観した。日本文壇における自然主義文学から象徴主義文学、耽美主義文学への変遷を考察することによって、その互いに重なりある関係が見て取れ、ひいては日本の近代文学は「世紀末」思潮というひとつの源から進化してきたことが確認できる。第三節では、民国期中国における「世紀末」受容のありさまについて論じた。

第二章の第一節では、谷崎の二回中国旅行が彼の中国観の変遷にいかなる影響を与えたかを論述した。第二節では民国期における谷崎翻訳作品の目録を作成し、このデータを基礎として翻訳状況の特徴を四点に纏めた。1、民国期において、谷崎の24点の作品が翻訳された。1929、1930年の2年間が最盛期である。2、訳本の中では、「麒麟」は訳がもっとも多く、4つの異なるバージョンが存在する。「富美子の脚」も3種類のバージョンがある。3、翻訳作品ジャンルの選定から見ると、「陰翳礼讃」をはじめとする随筆は、逆に随筆というジャンルを重視し愛好した当時の中国文学者から看過されている。4、谷崎作品の訳者として、十数人の訳者の名が挙げられるが、谷崎の作品を最も多く翻訳したのは章克標である。

第三、四、五章は主に受容状況について論じた。第三章では、郁達夫と施蟄存に即して、異常性欲描写における谷崎受容の状況を概観した。第一節では、谷崎文学における異常性欲描写を辿りながら、その背後にあってその動きを方向付けている要素を考察した。その要素としては、当時の「変態性欲」ブームや、ワイルド流行に代表されていた世紀末作家の影響が見られる。また、異常性欲描写が、当時まだ存在しなかった「高尚な恋愛文学」を作り上げるための谷崎の試みでもあったと考えられる。第二節では、郁達夫がなぜ谷崎潤一郎の異常性欲描写を受容したのか、異常性欲描写が彼の文学の中で、どのような位置づけになるかについて論じた。郁達夫は厨川白村経由で異常性欲描写を「世紀末」的なもの、「近代」的な現象として捉えていた。第三節では、施蟄存作品における異常性欲描写に焦点を当て、谷崎やフロイトから影響されながら、彼が作品を生み出していった様子を跡付けた。本節ではフロイト理論(金銭コンプレクス理論および「思考の万能」というアニミズムの世界観)を援用しつつ、施蟄存が異常性欲描写を自らの作品に持ち込んだ理由は、人間精神のより普遍的根本的な性質を追求することにあったということを論述した。

つづく第四章は谷崎作品の女性像と恋愛論の受容を考察した。第一節では、谷崎の「刺青」、「痴人の愛」を取り上げ、それぞれ作品の中で作り上げた女性像の発表当時における女性運動社会史とのかかわりを検証することによって、谷崎文学の先覚性を明らかにした。第二節では、郁達夫の「迷羊」と「痴人の愛」における女性像を通して、日中社会のジェンダーのあり方を描き出そうとした。作中女性像のジェンダーロールや男女関係の逆転などの共通点を検討することによって、「迷羊」における女性主人公は中国の「モダン・ガール」の原型であることが判明しただけでなく、中日両国の女性が身体性を以て都市空間に進出したことが明らかになった。第三節では、谷崎作品の主要な訳者である章克標の恋愛観における谷崎受容を取り上げた。章克標作品からは、彼が谷崎から影響を受け、それまでの恋愛と結婚を切り離して考えていた大多数の民国期文学者たちとは一線を画し、性欲、恋愛、結婚という三大テーマがセットとして論じられる恋愛観を自らの作品に持ち込んだことが見て取れる。

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