天津研究集会・論文提要

2007年8月21日更新

大阪外国語大学中国文化フォーラム

教員

許衛東(XU Weidong,アジアⅠ講座・准教授)

日本経済構造の転換と日中経済提携の展望
 第2次世界大戦後、日本はキャッチ・アップ型発展戦略を実施することによって、経済史上稀に見ない経済成長の果実を手に入れ、世界有数の市場大国、貿易大国、資本大国と技術大国としての確固たる地位を築き上げ、今日に至る。
 明らかに、日本は世界経済の中の重要な力であり、特に世界最大の債権国として、アジア太平洋地区の経済協力と発展に対して、また世界経済秩序を安定させることに対して重要な地位にあり、一挙手一投足が全局面に影響する。
 しかし、日本国内と国際の両方面の経済情勢を受けて、国内の景気低迷を上昇させるという客観的市場需要にせよ、また国際的には経済大国としての地位を確保するという主観的な願望にせよ、日本経済は厳しい歴史的挑戦の洗礼を受けなければならない時期にさしかかっている。
 国内では国富の均衡縮小傾向ならびに長期的な人口少子高齢化の動向が経済規模の引き継ぐ増大の可能性を阻んでいる。国際的には国際競争力の相対的な下降と市場緩和の緩慢さが日本経済の成長力評価にマイナス・イメージを増幅させている。
 発展の観点から見ると資産価値の上昇、技術革新の基盤的条件の整備および高付加価値型先端産業の先導的発展などに対する国際経済の期待が高く、日本経済のこれからの重要な転換方向である。この点、アジア太平洋地域の分業関係から言えば、市場の潜在力と労働力資源を備えている中国は日本の重要なパートナーとなるであろう。
 日中両大国の経済競争と連携が作り出す双機関車型発展形態は、アジア太平洋地区の経済秩序の基軸として、今後の変容が注目される。

日本经济结构的转变与日中经济合作的展望
  二战后,日本通过实施追赶战略,实现了经济实力的飞速扩张,冠之于当今世界的市场大国、贸易大国、资本大国和技术大国的称誉并不为过。
  显而易见,日本作为世界经济格局中的重要力量,尤其是作为世界最大债权国,对亚太地区的经济合作和发展,对国际经济合作体系的调整,对稳定世界经济秩序起着举足轻重的作用。
  另一方面,处于国内和国际两方面的经济走势的双重夹击之下,无论是立足于扭转国内市场景气的客观需要,还是着眼于确保经济大国地位的主观愿望,日本经济都必须接受一场严峻的历史性挑战的洗礼。
  国内方面,国富资产的缩小均衡趋势以及长期性的人口少子老龄化趋势构成维持增长的阻力;国际方面,国际竞争力的相对下滑以及市场开放进度的缓慢影响了与国际经济增长要素的良性互动。
  从发展的观点看,日本在资产增值运作、技术平台推广以及高端产业重组的国际合作需求是经济转行的重点方向,而从合作对象而言,具有市场潜力和人力资源的中国将是重中之重。
  日中两大经济实体形成的双火车头格局将成为东亚地区国际经济分工体系的支架。

田中仁(TANAKA Hitoshi,アジアⅠ講座・教授)

日中戦争前期における中国共産党の党軍関係に関する一考察
 1937年7月の盧溝橋事件を発端とする日中全面戦争は,翌年10月の日本軍による武漢・広州占領以降こう着状態となり,中国政治は新たな局面を迎えた。それは,「抗日」を共通課題とする国民党と共産党との政治的連携を前提として,中国が有するあらゆる資源を「抗日」のために動員することを基本的特質とするものであったが,政府軍が軍規違反を口実として中共系の新四軍9000を殲滅した41年1月の皖南事変は国共関係に甚大な衝撃を与えるとともに,中国政治を大きく変容させることになった。
 本報告では,主たる考察時期を1938年11月7日(中共6届6中全会終了後)から41年1月5日(皖南事変発生の前日)の797日とし,中共権力の中枢部分,とりわけ党軍関係の実態について初歩的考察を試みる。延安整風運動を経て,中共の権力は1949年の国家権力奪取を可能にする権力編成を獲得することになるが,その前段階である約800日間における権力の実態解明は,1950年代から1970年代なかばにいたる毛沢東時代の中国政治の構造と特質を検討するうえで重要な研究課題であろう。
 本報告は,指導者の日々の活動を記した「年譜」,“党・政・軍”諸系統の全成員を明示した「組織史資料」,発信者と受信者を特定しうる「電報」類に着目し,これらを活用することによって,当該の研究課題における新たな接近を試みる。

试论抗日战争前期中国共产党的党军关系
  以1937年7月的卢沟桥事件为发端的日中全面战争,次年十月被日本军占领武汉、广州以后陷入僵持状态,中国政治迎来了新的局面。它是在以“抗日”为共同目标的国民党和共产党政治联合的前提下,具有中国政治为了“抗日”动员所有资源的基本的特性,但是,41年1月国民政府军以违反军纪为借口歼灭了新四军9000人的皖南事变给与国共关系巨大的打击,同时使中国政治不小地改变了外貌。
  本报告,主要研究从1938年11月7日(中共6届6中全会结束以后)到41年1月5日(皖南事变发生的前一天)为止的797日,对于中共权力的中枢部分,特别是关于党军关系进行初步的考察。中共的权力经过延安整风运动,1949年获得了可能夺取国家权力的权力组成。那么延安整运动开始之前大约800日内的中共权力的实际阐明,应成为探讨从1950年代起至1970年代毛泽东时代的中国政治的构造和特性的重要研究课题。
  本报告着眼于记录了领导者日常活动的《年谱》,明示了党政军各系统全部成员的《组织史资料》,有可能确定发信人和收信人的电报,并且应用这些资料重新尝试接近此研究课题。

堤一昭(TSUTSUMI Kazuaki,所属:比較文化講座・准教授)

蒙元時代(西暦13~14世紀)における「中国」の拡大と正統性の多元化
 「蒙元時代」(西暦13~14世紀、いわゆる元朝時期)は、「中国」という地域概念の形成過程の中で大きな画期をなす。第一に「中国」という地域概念が中国本土を超えて大きく拡大し、第二に君主および支配の正統性を示す原理が多元化したからである。これら二つの特徴について検討した。
1.「中国」という地域概念の拡大
 「中国」という地域概念は、“長城”線以北の北アジアをも含めた概念に拡大した。当時の士大夫が、“モンゴル帝国”の君主(可汗)を「中国」の「皇帝」として位置づけ、君主の正統性と地域概念とを結びつけたためと考えられる。クビライ以降の元朝政権も、中国本土を統治するための一つの手段として、歴代の中国王朝的な行政システムを採用した。
2.君主および支配の正統性原理の多元化
 君主および支配の正統性について、元朝政権で重要な機能を果たした四つの「地域/人間集団」(0.士大夫、1.モンゴル、2.チベット仏教僧、3.イスラーム教徒)は、それぞれ異なる原理を持っていた。「中国」についての地域概念も異なっていた。「中国」という地域概念の拡大も、多元化した原理の中の一つ、士大夫の正統原理に基づく地域概念から発したものであった。
(1)軍事、高級行政を担当したモンゴルの、君主および支配の正統性原理の特徴として、『元朝秘史』に見える君臣関係認識、即位の際の「誓詞」の提出、“モンゴル帝国”全域におけるチンギス裔およびクビライ裔の正統性の認識が挙げられる。地域概念も、華北と江南を合わせた「中国」に相当する語が無いなど、独自の特徴を持っていた。
(2) 仏教高級行政やチベット行政を担当したチベット仏教僧は元朝の君主を、正義を以て世界全てを治める最高の君主、即ち仏教思想の「金輪転聖王」と見なして、君主とその支配を正統化する理論づけをした。モンゴルと中国本土を合わせたような地域概念はなかった。
(3) 財政や広域通商を担当したイスラーム教徒と元朝政権の関係は緊張していた。中国は、イスラーム法の支配する地域と異教徒の法が支配する地域との境界である「未開なイスラームの世界」として位置づけられた。イル・カン国のように、モンゴルの君主自身がイスラームに改宗すると、イスラーム教徒もモンゴルの君主および支配の正統性を論じるようになった。

蒙元时代(公元13~14世纪)‘中国’的扩大和正统性的多元化
  ‘蒙元时代’(公元13~14世纪,所谓元朝时期)在‘中国’地域概念的形成过程中具有巨大的划时代性。第一是因为‘中国’的地域概念超越了中国本土巨大的扩大了,第二是因为表示君主及统治的正统性的理论多元化了。关于此两点特征进行讨论。 1.‘中国’地域概念的扩大
  ‘中国’的地域概念,扩大为包含“长城”以北的北亚洲的概念。人们认为当时的士大夫将“蒙古帝国”的君主(可汗)定位为 ‘中国’的‘皇帝’,是为了将君主的正统性和地域概念联系在一起。忽必烈以后的元朝也作为中国本土统治的一个手段采用了历代中国王朝的行政体系。
2.君主以及统治的正统性理论的多元化
  关于君主以及统治的正统性,在元朝政权中实现了四个重要机能的‘地域/人集团’ (0.士大夫,1.蒙古,2.西藏佛教僧,3.伊斯兰教徒)持有各种各样不同的理论。对于‘中国’的地域概念也是各有不同。‘中国’地域概念的扩大也是多元化原理中的一项,是基于士大夫的正统理论和地域概念而产生的。
(1)作为担任军事、高级行政的蒙古的、君主及统治的正统性原理的特征,可以举例从《元朝秘史》中能看到的君臣关系认识、即位时的‘誓词’的提交、“蒙古帝国” 整个地区中的成吉思汗后裔及忽必烈后裔的正统性的认识。地域概念也具有没有词汇相当于汇融华北与江南为‘中国’等独特的特征。
(2) 主管佛教高级行政和西藏行政的西藏佛教僧视元朝君主为,持正义的统治世界全部的最高的君主,即佛教思想的‘金轮转圣王’,赋予君主及其统治以正统化的理论。没有地域概念将蒙古与中国本土混在一起。
(3) 主管财政和广域通商的伊斯兰教徒与元朝政权的关系很紧张。中国被定位为,伊斯兰法统治的地域和异教徒法统治的地域的边界‘未开垦的伊斯兰世界’。好像伊尔汗国一样,蒙古的君主自己改变信仰为伊斯兰,伊斯兰教徒也开始讨论蒙古的君主及统治的正统性。

西村成雄(NISHIMURA Shigeo,アジアⅠ講座・教授)

1930年「中原大戦」と東北・華北地域政治の新展開
 1930年9月18日付、張学良の「維護和平」通電によって、中原大戦は事実上の終結をむかえた。張学良は蒋介石の主導する中華民国国民政府の政治的正統性を支持し、その正統性を拒否し別に国民政府を樹立しようとしていた閻錫山、馮玉祥、汪精衛らの反蒋介石連合勢力を否認する立場をとった。張学良は、同年11月12日から18日に開催された中国国民党第三期四中全会に参加し、中央委員待遇を与えられ、これより先10月9日には国民政府陸海空軍副総司令職に就任し、北平に行営設立を準備しつつあった。それは、反蒋介石連合勢力としての閻錫山らの政治的資源を、張学良が相続することを意味していた。翌1931年はじめにかけて華北地域を政治的軍事的に接収することになった。東北政務委員会は、河北省、山西省、察哈爾省、北平市、天津市の三省二市をその支配下に置いた。このような新しい支配領域における行財政政策の展開という側面からみるとき、東北地域と華北地域の政治的統合というリージョナルな政治的意思と、国民政府レベルの東北政務委員会に対するナショナルな政治的統合への意思という交錯する二つの政治空間がとらえられる。そこで、まず中原大戦の東北政務委員会のもとで形成されつつあった華北を含めたリージョナルな政治空間とその行財政政策の展開過程を、遼寧省檔案館蔵「全宗」C10、奉天省長公署、東北政務委員会(行字第12号)の「92案巻、東北区財政会議(民国20年)」から再構成してみたい。

1930年“中原大战”与东北、华北地区政治新局面
  1930年9月18日,张学良发表了“维护和平”通电,中原大战实质上也由此走向终结。张学良支持蒋介石所倡导的中华民国国民政府的合法性,而对拒绝接受其合法性并企图树立新政府的阎锡山、冯玉祥、汪精卫等反蒋联军采取了否定的态度。同年11月12日至18日,张学良参加了这期间召开的中国国民党第三期四中全会,当时,他享受的是中央委员的待遇,而就在这之前的10月9日,张学良就任国民政府陆海空军副总司令,并开始着手准备设立北平行营。这就意味着张学良已继承了反蒋联军阎锡山等所控制地区的政治资源。1931年初,他又从政治、军事上接管了华北地区。东北政务委员会将河北省、山西省、察哈尔省、北平市、天津市这三省二市纳入了自己的管辖区内。在这一新管辖区内,行财政的政策也出现新转变,仅就这一侧面,我们可以看到这一区域内存在着两个相互交错的政治空间,一为东北、华北地区政治统一这一地域性政治思维,一为对国民政府级东北政务委员会所采取的国家性政治统一思维。在此,我们将根据辽宁省档案馆藏(全宗JC10,奉天省长公署)、东北政务委员会(行字第12号)之“92案卷、东北区财政会议(民国20年)”把中原大战后东北政务委员会中逐渐形成的包括华北在内的地区政治空间及其行政财政策的转变过程重新展现出来。

宮原曉(MIYABARA Gyo,アジアⅡ講座・准教授)

隠喩としての身体と「中国人」像:フィリピン華人研究における生政治的解釈モデルの可能性
 19世紀半ばから20世紀はじめにかけて中国大陸からフィリピン諸島へ移住したチャイニーズは、その多くが男性であった。その結果生じた男女比のアンバランスは、チャイニーズの男性とフィリピン人の女性の通婚を生み出したが、それはより正確に言うと通婚を通じてチャイニーズのカテゴリーが顕在化したということであった。その後、1930年代までに男女比は均衡していく。しかし、チャイニーズの男性の通婚は、今日に至るまですべての結婚の一定程度の割合を占め、このため一定程度の割合の女性は、未婚のまま生涯を送る。また、戦前、セブで生まれたチャイニーズの女性のなかには、教育や結婚のため中国大陸に還流した者もおり、彼女たちのなかには、戦後、相当たってからセブに移住した者もいた。このようなチャイニーズの《男-女》の経験は、どのように解釈、統御され、どのようにアイデンティティを生み出すのだろうか。
 かつて「華僑社会」あるいは「華人社会」と呼ばれていた社会が今日大きく変わりつつある。1990年以来、筆者はフィリピンのセブ市で華僑華人の調査をしてきたつもりであった。しかしそこで懇意にしていた友人たちは、いまラス・ベガスと台北とバンクーバーに移動している。彼ら・彼女らは、セブの華僑でも、華人でもなくなったのである。
 再移民を含む移動の複雑化は、チャイニーズの人口移動が中国大陸の出身村と移住先との二者関係といった単純な枠組みではもはやとらえきれないことを意味している。とともに従来の華僑華人研究が、例えば「華人」や「エスニック・チャイニーズ」という呼称を用いて提示しようとしてきた「チャイニーズ」の像に対しても再考を迫られるようになった。筆者のある友人は、父親がフィリピン・バタンガスのチャイニーズであるものの、香港で生まれ、その後、バンクーバーに移住し、現在は再び香港に戻っている。彼の異母兄弟はフィリピンにおり、母親と祖母は香港に留まっている。彼の父は、福建省晋江県に住居を持っていたがついぞ帰郷を果たせず、近年フィリピンで亡くなった。いったい彼は誰なのだろうか。
 本稿は、チャイニーズのこうした経験に即したアイデンティティの生成過程を明らかにするために、これまでの華僑華人研究の動向を振りつつ、生政治的解釈モデルの可能性を模索する。

作为隐喻的身体和“中国人”印象:菲律宾华人研究的现行政治解释和类型划分的可能性
  从19世纪中叶到20世纪初从中国大陆移居到菲律宾诸岛的中国人大多数是男性,女性极少。这种男女比例失调的现象产生了中国男性和菲律宾女性通婚的结果,更加精确的说通过通婚中国的范畴表面化了。随后,1930年代男女比例近于平衡。但是,中国男人的通婚直到今天仍占所有结婚的一定比率,为此,一定程度比例的女性终生未婚。另外,战前,在宿务市出生的中国女性当中,有人为了教育以及结婚返回中国大陆,也有人在战后,过了相当的时间以后移居宿务市。像这样的中国人 [男-女]的经历和选择,应该如何解释?自我约束以及自我认同又是如何产生的呢?
  以前被称为“华侨社会” 或者“华人社会” 的社会含义在今天已经发生了很大的变化。自1990年以来,笔者原计划在菲律宾的宿务市进行华侨华人调查,但是过去关系密切的华人朋友们,有的移居到拉斯维加,有的去了台北,有的去了温哥华。他们(她们)已经不是宿务的华侨和华人了。
  再移民现象以及再移民动向的复杂化,意味着中国人的人口移动已不能单纯的以中国大陆的出生乡村与迁栖地的二者关系的框架来概括。同时传统的华侨华人研究,例如对于使用〈华人〉及〈民族性・中国人〉的称呼揭示〈中国人〉形象等的传统研究方法也不得不重新考量。笔者的一位朋友,父亲是菲律宾Batangas的中国人,出生于香港,后来移居温哥华,现在再回到香港。他的同父异母兄弟在菲律宾,母亲和奶奶留在香港。他的父亲,在福建省晋江县买了房子,但是最终实现返乡计划,在菲律宾去世了。那么,他到底算什么人呢?
  本稿为全面把握与此经历相似的中国人的自我认同的形成过程,回顾华侨华人的研究动向,摸索通过现行政治解释的途径另立类型的可能性。

山田康博(YAMADA Yasuhiro,アメリカ講座・准教授)

冷戦後の東アジア国際秩序の変容と『中国』
 冷戦が終結して以来、東アジア地域の国際構造は大きく変化した。そのうち最も大きな変化は、東アジア地域がアメリカを「極」とする一極構造となったことである。1996年に日米両国が合意した日米安全保障関係の「再定義」は、アメリカによる一極構造を支える役割を日本がより大きく担っていくことを意味した。他方では、進みつつある中国の「大国」化が、冷戦後の東アジア地域の国際構造を21世紀において変えていく可能性をもっている。
 東アジア地域における国際構造の変化を背景として、同地域における安全保障をめぐる国際秩序の再編も進みつつある。冷戦の終結後、ASEAN地域フォーラムをはじめとして安全保障問題を協議する多国間の枠組みが、それらが対象とする地域を拡大させるとともに、いくつもの枠組みが重なり合いながら発展してきた。
 1990年代半ば以降中国が対東アジア外交を変化させたことは、東アジア地域の国際秩序の再編をさらに促進していった。とりわけ中国とASEANとの間の関係の緊密化には、めざましいものがある。また中国は、上海協力機構や北朝鮮による核兵器開発をめぐる6者協議において、主導的な役割を果たしている。安全保障にかかわる21世紀の東アジア国際秩序は、中国とASEANを中心とする秩序へと変わりつつある、といっても過言ではない。
 中国は、アメリカの東アジアにおける「覇権」を受け入れている。中国はアメリカとともに、21世紀の東アジア国際秩序の変革者としてではなく、その維持者としての役割をはたしていくだろう。台湾の地位をめぐって米中間に武力衝突の可能性があるが、それ以外の争点では米中間に深刻な対立が起こる可能性は高くない。米中関係のありかたは日本にも大きくかかわっており、米中日三国間の関係がどのようなものになるかが、21世紀の東アジア国際秩序に大きな影響を与えるだろう。

冷战后东亚国际秩序的演变与中国
  冷战终结以来,东亚地区的国际构造发生了很大地变化。其中最大的变化是东亚地区作为「极点」变成美国的一极点构造。1996年日美两国同意的日美安全保障关系的「再定义」,对于美国来说在支撑一极点构造上日本具有着重大地担当意义。另一方面,正在发展的中国「大国」化,在21世纪具有改变冷战后东亚地区国际构造的可能性。
  以东亚地区的国际构造变化为背景,围绕同地区的安全保障正在进行着国际秩序的重组。冷战终结后,以ASEAN地区广场为首协议安全保障问题的多国之间的轮廓,扩大其对象的地区的同时,几个互相重叠的轮廓发展起来了。
  1990年代中期以后中国改变了对东亚的外交,更加促进了东亚地区的国际秩序重组。特别是中国和ASEAN之间的关系紧密化异常显著。以及中国在围绕上海合作机构和北朝鲜的核武器开发的6国协议中发挥的主导性作用。关于安全保障的21世纪东亚国际秩序,可以说是逐渐变化为以中国和ASEAN为中心的秩序。
  中国接受美国在东亚的「霸权」。中国不是与美国一道,作为21世纪的东亚国际秩序的变革者,而是作为维持者发生作用吧。围绕台湾的地位问题中美之间有可能发生武力冲突,不过除此以外的争论点来看中美之间发生严重对立的可能性并不大。中美关系的状况与日本也很有关联,中美日三国之间的关系如何发展,将巨大影响21世纪的东亚国际秩序。

元教員

五島文雄(GOTO Fumio,静岡県立大学・国際関係学部・教授)

中国の台頭と東南アジア
 中国は1970年代末に開始した改革開放政策の下で台頭し、アジアの安定と発展に極めて大きな役割を演じてきた。私の報告の主要な対象地域である東南アジアとの関連でも、中国は1994年に創立されたアセアン地域フォーラムのメンバーとなり、域内の領土問題を平和裏に解決する努力をするなど安全保障面において重要な役割を演じ、1997年のアジア通貨危機の際には危機に見舞われた国々に経済支援をするなど経済面でも重要な役割を演じてきた。この事実は中国の指導者のみならず、誰もが認めるところである。
 その中国は2001年のWTO加盟後に、東南アジアとの間の貿易、直接投資を急速に拡大し、経済協力も積極的に推進している。このような中国の動向は、東南アジアでは国により温度差はあるものの、概ね歓迎されていると言ってよいであろう。換言すれば、東南アジアでは中国が脅威の対象としてよりも、機会(チャンス)の対象として認識されている、ということである。
 報告ではその背景と現状について概観したあと、今後さらに中国が東南アジアの安定と発展において大きな役割を果たしていく上で重要と思われる課題について言及したい。具体的には、主として東南アジア大陸部にあるアセアン後発国といわれるミャンマー、ラオス、カンボジア、ベトナムとの経済協力について考察し、中国は今日以上に国際協調を重視しつつ、経済協力を進める必要があるのではないかということを問題として提起したい。
 報告者がこのような問題を提起するのは、域外国から見ても中国と上記4カ国との間に良好な関係が築けるか否かが、過去の歴史においても東南アジアの安定と繁栄にとって重要であったばかりでなく、将来においても重要であると考えるからである。

中国的崛起和东南亚洲
  1970年代末开始的改革开放政策提高了中国的国际地位,这对于亚洲的安定和发展起到了积极的作用。从与本文探讨的主要地域东南亚地区的关系而言,中国成为创立于1994年的东南亚国家联盟地域论坛的成员,在努力和平解决域内的领土问题等安全保障方面起到了重要的作用,在1997年亚洲货币危机的时候,在向遭受到危机的各国进行经济支援等方面也发挥了重要的作用。这些事实不仅是中国的领导者,任何人都要承认。
  中国在2001年加盟WTO以后,急速扩大了与东南亚之间的贸易和直接投资的关系,积极推动经济合作。对于中国的变化,虽然东南亚各国存在温度差,说法不一,但大致上是持欢迎态度的。换而言之,东南亚对中国的认识与其说是感到威胁,不如说更多的是感到机会。
  本文概观中国和东南亚关系变化的背景和现状,并关注今后中国对东南亚的安定和发展将发挥更大作用方面中人们认为比较重要的一系列课题。其中之一是位于东南亚大陆被称为落后国家的缅甸、老挝、柬埔寨、越南和中国之间的经济合作,提出中国比以往更加重视国际协调以及有必要促进经济合作的观点。
  报告者之所以提出这样的问题,是因为报告者认为在域外国家看来中国是否与上述4个国家构筑良好的关系不仅针对历史问题的舒缓,更重要的是这种关系对东南亚整体的安定和繁荣的重要性,现在如此,将来亦如此。

秋田茂(AKITA Shigeru,大阪大学大学院・文学研究科・教授)

1930-50年代の東アジア国際経済秩序
 本報告では、新たな世界史の模索である「グローバルヒストリー」構築の一環として、第二次世界大戦をはさんだ1930-50年代のアジア国際経済秩序を連続性の観点から再考する。その際に、戦前の「帝国」秩序の崩壊(脱植民地化)とヘゲモニーの移行(パクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナへ)の関連性、世界システム内部でのアジア世界の「相対的自立性」、国際金融面でのスターリング圏の重要性に着目する。
 まず、1930年代のアジア国際秩序に関して、30年代の日本と中国が展開した経済外交を再評価したい。モノ(輸出入)のレヴェルでは、1933-34年の第一次日印会商に注目した。日印会商では、大阪に本拠を置いた大日本紡績連合会によるインド棉輸入ボイコットが交渉の行方を左右した。最大の問題は、インド政庁が新たに要求したインド棉花の対日輸出拡大(綿布と棉花のリンケイジ問題)であった。本国への円滑な債務返済を行うために、インド側は棉花輸出の安定化による外貨収入の確保が不可欠であり、日本は本国以上に重要な貿易相手国であった。カネ(金融)のレヴェルでは、1935年の中国幣制改革をめぐる国際関係を検討したい。幣制改革の成功は、当事者であった中国国民政府の周到な準備に加えて、英米両国の協力を引き出した中国当局の巧みな経済外交に依存していた。協力したイギリス側からすると、中国を実質的にスターリング圏に包摂して、基軸通貨としてのポンドの価値を高めることができた。ここでも、日印会商の場合と同様に、双方の経済利害は相互補完的であった。
 次いで、戦後の1950年代の東アジア(東南アジアを含む)の国際経済秩序においても、スターリング圏が依然として重要性を有したことを日本の経済復興と結びつけて論じたい。戦後アジアの低開発のスターリング圏諸国にとって、日本は、本国の限られた生産能力を補完する安価な代替供給源(綿製品・雑貨)であり、同時に、自国の第一次産品の輸出市場(パキスタンの棉花、オーストラリアの大麦、英領マラヤの鉄鉱石)であり、日本向け輸出が圏外輸出の12%を占めた(1952年)。経済復興を進める日本にとっても、スターリング圏諸国向けの輸出は45%を占め、双方にとって貿易とポンド決済を通じた広範な相互依存関係が復活した。この相互依存関係を支えたのが、対日スターリング支払協定であった。また、日本側は、スターリング圏で例外的に優遇された香港の自由為替市場(香港ギャップ)を利用して、米ドルを獲得して戦後復興に活用することも可能であった。
 以上のように、1930年代と50年代の間には、スターリング圏とアジア貿易ネットワーク(アジア間貿易)の両面で、ある種の連続性を指摘できる。我々は、こうした関係史的な見方にもとづいて、国際政治経済秩序の側面からグローバルヒストリーを構築できる。1990年代の「東アジアの奇跡」もこうした長期の歴史的射程で考察すべきであろう。

1930-50年代的东亚国际经济秩序
  本报告立足于摸索新的世界史“Global History”结构分析的宗旨,从连续性观点的角度出发重新思考包括第二次世界大战期的1930-50年代的亚洲国际经济秩序的意义。本文关注几个方面:战前“帝国”秩序的崩溃(去殖民地化)和主导权的过渡(从和平到霸权)的关联性;世界体系内部中亚洲的“相对独立性”;在国际金融方面的银币交易圈的重要性等等。
  首先,针对1930年代的亚洲国际秩序,本文重新评价30年代日本和中国展开的经济外交的特点。在东西方贸易(进出口)方面,本文留意到1933-34年召开的第一次日印会商。在日印会商上,本部置于大阪的大日本纺织联合会左右了日商联合抵制印度棉进口的交涉方针。当时存在的最大问题是,印度政庁新提出的印度棉花对日本扩大出口(棉布及棉花的相关问题)。为了顺利地对本国进行债务返还,对于印度方面来说通过棉花出口确保稳定的外币收入是不可缺少的,对日本来说印度是比宗主国本国还重要的贸易方。在货币(金融)的问题上,本文探讨了围绕1935年中国制币改革的国际关系。制币改革的成功,依赖于作为当事人的中国国民政府周密的准备,再加上由于英美两国的协助中国当局发挥了巧妙的经济外交策略。从援助国英国方面来看,实现了将中国实质性地纳入银币交易圈的目的,提高了作为主要货币英镑的价值。与日印会商的情况相同,双方的经济利益得到了互补。
  接下来,本文结合日本的经济复兴论述在战后1950年代东亚(包括东南亚) 国际经济秩序方面,银币交易圈仍然具备的重要性。对于战后亚洲未发达地区的银币交易圈各国来说,日本是补充本国有限的生产能力的廉价代替供应源(棉制品、杂货),同时也是各国初级产品的出口市场(巴基斯坦的棉花,澳大利亚的大麦,英国领土马来亚的铁矿石),向日本的出口占据了圈外出口的12%(1952年)。对于发展经济复兴计划的日本来说,向银币圈各国的出口也占到45%,对于双方来说通过贸易和英镑结算重新激活了广泛的相互依赖关系。支撑这个关系的重要条件是对日银币支付协定。另外,日本方面利用接受银币圈例外优待的香港自由外汇市场(香港GAP),获得美元并投放于战后的复兴事业。
  如上所述,在1930年代和50年代之间,在银币交易圈和亚洲贸易网络(亚洲之间的贸易) 的两面之间存在一种连续性。我们可以根据这种关系史的看法,从国际政治经济秩序的视点重新把握Global History。1990年代“东亚的奇迹”现象也可以从这样一种长期的历史射程来阐释。

OB・OG

阿古智子(AKO Tomoko,学習院女子大学・准教授)

ポスト鄧小平時代の中国農村における権力構造と関係ネットワーク:基層をめぐる政治・社会力学に着目して
 中国は急速に市場経済化を進め、大きく変貌を遂げているが、依然「農民国家」であり続けている。「農民国家」が意味するのは、当然、農業に従事する人口が多数を占めるということであるが、中国の場合、経済発展に伴い、農業人口が減少しているにも関わらず、戸籍制度によって区分される「農民」が最も大きな社会勢力であり、国家建設の経路を複雑にする要因となっていることに留意する必要がある。
 都市と農村を二分する制度は、戸籍の移動に関するものだけでなく、土地所有、税制、社会保障、教育政策にまで及び、不利な条件の下に置かれた農民の多くは、貧困の悪循環から抜け出すことができず、停滞する農村から逃れるようにやって来た出稼ぎ先でも、都市市民と同等に扱われることはない。こうした不平等な制度が改善されないだけでなく、強制的な土地収用、税の過重徴収、環境汚染などの問題が、ガバナンスの低さや官僚組織の腐敗体質が原因となって発生しており、農民の不満はエスカレートしている。今後、農民がどのように位置づけられ、農村がどのように発展するかが、中国の将来を大きく左右することは間違いないだろう。中国において、農民と国家の関係が極めて重要であることは、中国自身の歴史が証明している。
 近年、中国国内外において、非常に活発に農村研究が進められており、膨大な情報やデータが蓄積されている。本論の前半部分は、そうした先行研究の中から注目すべきものを取り上げ、特に基層をめぐる政治・社会力学に着目しながら、農村研究に関する論点を整理する。農村研究には様々な種類のものがあるが、今回取り上げるのは、質的調査やフィールドワークを手法とする社会学的研究が中心である。後半部分は、筆者がこれまで行なってきた湖北省における農村調査を基に、各論点についての考察を行なう。主に焦点を当てるのは、農村社会に秩序或いは混乱をもたらし得る権力構造と関係ネットワークである。
 なお、本論の題名には「ポスト鄧小平時代」という言葉を冠しているが、それは、鄧小平時代に導入された家庭請負制が定着し、市場経済が浸透しつつある今、農業経営、土地所有、経済体制などに関し、現行の制度やシステムが継続するのか、それとも何らかの変更を迫られるのかを占う意味で、新たな転換期を迎えつつあると捉えているからである。
 また、中国語における「基層」というのは末端の組織・単位を示し、行政組織に関してみる場合には郷鎮以下のレベルを指すことが多いが、ここでは、中央と地方をつなぐ位置にあり、一般民衆の生活や労働・生産活動に最も密接に関係する領域とする。中国は人口・国土の規模が大きく、民族や地域性においても多様な国家であり、歴史的にも国家権力・統治の浸透が重要なテーマとして研究されてきた。基層における権力構造と関係ネットワークを見ることで、現代中国農村の基層をめぐる政治・社会力学の一端を明らかにしたい。

后鄧小平時代中国农村的权利结构和关系网络:着眼于基层的政治和社会力学
  随着中国市场经济的快速发展,中国社会发生了很大的变化,但中国仍然是“农民国家”。“农民国家”自然意味着从事农业的人口占据大多数,但是对于在中国经济发展过程中,农业人口逐步减少,然而在户籍制度上被区分为“农民”的人口仍然是最大的社会力量,并且正是这众多的农民人口成为使国家建设路径变得更为复杂的主要原因这一点有必要给予充分的留意。
  把城市和农村一分为二的制度,不单是有关于移动户籍,土地拥有、税制、社会保障以及教育政策,被置于不利条件下的农民的大多数无法摆脱贫困的恶性循环,即使逃离发展停滞不前的农村到外地打工,也不能享受与城市人同等的对待。此种不平等的制度不仅没有得到改善,由于管理低下和官僚组织的腐坏体制还发生了强行征用土地、太重的征税、环境污染等问题,农民的不满正在逐步升级。今后农民将怎样被定位,农村该怎样发展,无疑将左右中国的将来。在中国,农民和国家的关系极为重要,中国自身的历史已经证明了这一点。
  近年,在中国的国内外,农村研究非常活跃,积累了膨大的信息及数据。本论文的前半部分将从这些现存研究中选出应该关注的部分,特别着眼于围绕基层的政治・社会力学整理农村研究的有关论点。农村研究中有不同的种类,此次笔者关注的是以定性的实地调研为手段的社会学研究。后半部分,笔者将以本人迄今为止进行的湖北省的农村调查为基础对各论点进行考察。主要把焦点放在可能给农村社会带来秩序或者混乱的权利结构和关系网络。
  再者,本论文的题目冠以“后鄧小平時代”一词,目的是探索在鄧小平時代导入的家庭联产承包责任制逐渐稳定,市场经济逐步渗透的今天,关于农业经营、土地所有、经济体制等现行制度和体系是应该继续实行还是迫于某种原因不得不做一些改变,以迎接新的转换期。
  另外,在中文中“基层”一词表示末端的组织・单位,对行政组织来说多指乡镇以下的级别,在此是指与衔接中央和地方,与一般民众的生活以及劳动、生产活动具有最密切关系的领域。中国是一个人口、国土规模很大,民族以及地域性多种多样的国家,在历史上国家权力、统治的渗透也被视为重要的研究课题。笔者欲以观察基层的权利结构和关系网络,明确围绕现代中国农村基层的政治・社会力学的一部分。

坂井田夕起子(SAKAIDA Yukiko,大阪教育大学・非常勤講師)

玄奘三蔵法師はなぜ日本にやって来たのか?:玄奘遺骨略奪説とその歴史的変遷
 1942年12月、南京駐屯の日本軍が玄奘三蔵の頂骨と刻まれた石棺を発掘した。日中双方の専門家が調査した結果、唐代の玄奘三蔵の遺骨であることがほぼ確実視されたことから、遺骨は副葬品と共に汪精衛政権に返還され、日中の協力によって三藏塔が再建された。1944年10月10日、玄奘遺骨の入骨式が行われ、同日褚民誼外交部長によって、遺骨の一部が日本の仏教徒に贈られた。これが現在、埼玉県慈恩寺に祀られている日本の玄奘三蔵遺骨の由来とされるものである。
 しかし、中華人民共和国では、玄奘三蔵の遺骨は日本軍に奪われたものと広く認識されており、しかもいくつかの略奪説存在する。その原因は、抗日戦争時期の保存史料が少ないこと、南京の第二歴史档案館や図書館が戦争中の史料を公開していないこと、そして中国の研究者が日本語史料を利用していないことにある。
 本稿は、まず、日本の外務省外交史料館が公開する一次資料と、南京・上海で刊行されていた戦争当時の日本語と中国語の新聞、さらには日本仏教界の代表的な新聞『中外日報』と日本人僧侶・日本軍関係者らの回想録などを利用し、戦争中の玄奘三蔵の遺骨発見と日本への分骨経緯について、おおよそ日本側に伝わる説が事実に近いことをあきらかにした。
 さらに本稿では、玄奘遺骨をめぐる言説を分析することで、1950年代の日本と中国、台湾の仏教交流について分析した。戦後の中華人民共和国政府が積極的に仏教を利用して国際交流を推進していた中で、日本仏教界は1955年、台湾の中華民国に玄奘の遺骨を「返還」(分骨)した。当然ながら中国側の抗議を招いたが、日本では中国の影響を受け、中国側が主張する遺骨略奪説に同調する人々が増えていった。一方、台湾では戦後直後に語られていた日本の遺骨略奪説が影を潜め、代わりに玄奘の遺骨分骨が「日華友好」のシンボルとして語られるようになったことがわかったのである。

玄奘三藏法师为何来日本?:玄奘遗骨掠夺说法及其历史的变迁
  1942年12月,在南京驻屯的日本军发掘出一个刻有玄奘三藏顶骨的石棺。经中日双方的专家调查,大体上确认为是唐代玄奘三藏的遗骨。因此,遗骨和附葬品一起被返还给汪精灵卫政权,中日协力重建了三藏塔。1944年10月10日,进行了玄奘遗骨的入骨式,同日褚民誼外交部長赠送了一部分遗骨给日本的佛教徒。这就是现在崎玉县慈恩寺供奉的日本的玄奘三藏遗骨的由来。
  但是在中华人民共和国很多人认为玄奘三藏的遗骨被日本军掠夺,而且存在若干掠夺的说法。其原因在于抗日战争时期的保存史料过少,南京的第二歴史档案館以及图书馆不公开战争的史料,而且中国的研究人员不利用日语史料。
  本稿首先,利用日本的外务省外交史料馆公开的一次资料和南京、上海出版的战争时期的日语和中文的报纸,以及日本佛教界的代表性报纸《中外日报》和日本人僧侣、日本军有关人员们的回想录,明确了关于战争中玄奘三藏的遗骨发现和分骨给日本的经过,大约日本方面流传的说法接近于事实。
  本稿更进一步地分析玄奘遗骨相关的说法,分析1950年代日本和中国、台湾的佛教交流。在战后中华人民共和国政府积极地利用佛教推动国际交流的活动之中,1955年日本佛教界把玄奘的遗骨(分骨)返还给台湾的中华民国。理所当然地遭到了中国方面的抗议。日本受到中国的影响,赞同中国方面主张的遗骨掠夺说法的人逐渐增加。另一方面,战后不久在台湾日本的遗骨掠夺说法销声匿迹,取而代之的是作为“华日友好” 的象征玄奘的遗骨分骨之说开始流传。

中国文化コロキアム

青柳伸子(AOYAGI Nobuko,大阪外国語大学大学院・言語社会研究科・博士前期課程)

1930年代中国延辺地方における抗日運動について
 本報告では、1931~1936年中国延辺地方の抗日運動における朝鮮人問題を考察する。1910年「日韓併合」以降、多くの朝鮮人が日本の支配に抵抗し、延辺地方に渡って抗日運動を展開した。その中で朝鮮共産党員は、1928年にコミンテルンの「一国一党」原則発表後中国共産党に加入し、1931年に「満洲事変」が勃発した後、中国人党員と共同で反満抗日運動を展開した。しかし闘争の過程において、さまざまな民族問題・矛盾が露呈した。本報告は1930年代における抗日運動の展開過程とその問題点を分析することで、延辺抗日運動における朝鮮人のアイデンティティー問題及び彼らの政治的位置付けを検討する。
 報告内容は以下の二点に分かれる
一、1931年「満洲事変」の勃発から1936年中共東満特委の解散までの時期における、延辺抗日運動の変遷を分析する。この時期の抗日運動は2段階に分けることができる――「北方会議」路線段階と「一・二六指示信」路線段階である。本報告は『東北地区革命歴史文件匯集』(1)『東満地区革命歴史文献匯編』及び各地方の組織史資料をもとに、特委・県委・区委のレベルに分けて抗日遊撃隊の編成過程を分析する。『東北地区革命歴史文件匯集』『東満地区革命歴史文献匯編』(2)及び組織史資料等の文献に基づき、特委・県委・区委レベルに分けてそれぞれ遊撃隊の編成過程と抗日運動の展開について考察する。また『盛京時報』『満洲日報』『間島新報』(3)『満洲共産匪の研究』等の日本側の史料も参照し、抗日運動が日本人社会に及ぼした影響を考察する。
二、上記の抗日運動展開過程における問題点を考察する。特に「反民生団闘争」に代表される朝鮮人党員の大粛清運動では、「民生団分子」として処刑された党員は367人にのぼり(4)、延辺の抗日運動に深刻な影響を与えた。本報告では「反民生団闘争」の原因を1928年にコミンテルンが発表した「一国一党」原則にまで遡り、「反民生団闘争」が党内の「反民族主義」「反派争主義」「反右傾」闘争の一環だったことを論証する。
 「反民生団闘争」終結後、東満各地の抗日遊撃隊は東北抗日聯軍第二軍、東北抗日聯軍第一路軍第二軍へと統一され、日本軍の「討伐」と戦い、日本の東北統治に大きな損害を与えた。本報告では朝鮮族と漢族がどのように民族的対立を乗り越え、共に抗日運動を展開したのかを分析し、その過程が当時の朝鮮族アイデンティティーと政治的地位にいかなる影響を与えたのかを解明する。
(1)『東北地区革命歴史文件匯集』吉林人民出版社、1989年。
(2)中共延辺州委党史研究室編『東満地区革命歴史文献匯編』2000年、9月。
(3)『盛京時報』は東北地方で刊行された日本資本の中国語新聞、『満洲日報』『間島新報』は日本語新聞である。
(4)中共延辺州委党史史料徴集研究室『関於東満特委開展“反民生団闘争”情況的専題報告』(1984年8月)、18頁。

关于1930年代延边地区的抗日运动
  本报告考察1931—1936年在中国延边地区的抗日活动和朝鲜民族的问题。1910年“日韩并合”后,很多朝鲜人迁到延边地区开始抗日活动。其中,朝鲜共产党员,由于1928年共产国际发表的“一国一党”原则,加入中国共产党。1931年九一八事变后,朝鲜党员和中国党员共同开始反满抗日斗争,但是在斗争过程中显示出各种各样的民族问题和矛盾。本报告通过分析1931年在延边开展的抗日活动及其问题,检讨在抗日活动过程中朝鲜人的自我认同及其定位问题。
  本报告有以下两个部分。
  一、分析从1931年九一八事变爆发到1936年中共东满特委撤销期间的延边抗日活动的变迁。该时期的抗日活动可以分为两个时期——“北方会议”路线时期和“一二六指示信”路线时期。本报告根据《东北地区革命历史文件汇集》 《东满地区革命历史文献汇编》 及各类组织史资料的记述,分别分析特委、县委、区委组织游击队开展抗日运动的过程。同时参考《盛京时报》《满洲日报》《间岛新报》 《满洲共产匪的研究》 等日本方面的史料,考察日本人眼中的抗日活动及抗日活动对日本人的影响。
  二、考察上述抗日活动开展中出现的各种问题。特别是在“反民生团斗争”代表的朝鲜民族的大肃清运动中,被错定为“民生团分子”而遭受杀害的党员达到367人 ,对延边反日活动产生了深刻的影响。本报告追溯“反民生团斗争”的原因以及1928年共产国际发表的“一国一党”原则,论证“反民生团斗争”是党内反“民族主义”、反“派争主义”、反“右倾”斗争的一环。
  “反民生团斗争”结束后,东满各县的抗日游击队被统一为东北抗日联军第二军、东北抗日联军第一路军第二军,与日本军进行“讨伐”斗争,大大地打击了日本的统治。本报告力图考察朝鲜民族和汉民族如何超越民族对立的矛盾,共同开展抗日活动,明确其过程如何影响当时的朝鲜人的自我认同及他们的政治地位。
(1)《东北地区革命历史文件汇集》吉林人民出版社、1989年。
(2)中共延辺州委党史研究室编《东满地区革命历史文献汇集》2000年、9月。
(3)《盛京时报》是日本资本的中文报纸,《满洲日报》《间岛新报》是各东北、延边发行的日文报纸。
(4)満洲国军事顾问部编『満洲共産匪の研究』1937年。
(5)中共延辺州委党史史料征集研究室《关于东满特委开展“反民生团斗争”情況的专题报告》(1984年8月)、18页。

上田貴子(UEDA Takako,近畿大学・文芸学部・講師,大阪外国語大学博士2003)

山東における移民送出の変遷
 山東からの移民は前近代から存在し、最も早い形態は商業移民である。商業移民は親戚知人の紹介によって故郷を離れ仕事についた。1860年の北京条約以降、商業移民に加えて新しい形の移民として「把頭」に率いられて出稼ぎに出る労働者移民が現れた。「把頭」は労働者のリーダーとして労働者をまとめ雇用主との折衝を行い、信用関係を重視した。労働力の需要が高まると、「把頭」とは質の違う仲介者が現れるようになった。この仲介者は仲介料を目的とし、出稼ぎ労働者を見下し、騙すこともあり、労働者との間の信用関係が希薄である。
 信用関係が希薄な仲介者は移民の歴史の浅い地域にみられる。清代から移民を出した山東半島北岸にはこのような仲介者の事例はほとんどみられない。他方黄河の洪水に見舞われた山東半島の東部に多い。これらの地域では、近代以前には運河を通じた物流が発達し現金収入の機会に恵まれ、出稼ぎに出る必要がなかった。しかし民国期になって、海運にとってかわられた運河の利用頻度が低下すると、治水経費が削減され洪水に見舞われやすい地域となり、土地を離れる者が増加した。しかし、移民送出の歴史が浅いため、親戚知人を頼れるケースが少なく、営利目的の仲介者を介して出稼ぎに出ざるを得なかった。またこれらの地域は、鉄道と港湾の整備によって、移動の利便性が確保され、大量募集大量送出が可能となった。
 ところで、満鉄や撫順炭鉱など日本側企業は早くから彼らの存在に注目していた。当初、観察的な記録を残すのみであったが、1934年ごろから、移民の内的な送出システムに興味を持ちはじめた。この成果は「満洲国」期初期の流入制限や1940年代の労働者の需要拡大時には募集計画の立案に提供されていき、強制的な徴発にも活用されていったと考えられる。
 山東からの出稼ぎ移民は「闖関東」や山東苦力という表現で、ひとまとまりにとらえられがちである。しかし、交通手段の発達、東北の工業化の進展という近代化のなかで、送出地、仲介者、職業が多様化した。しかし同時に、労働需要の高まりは信用の希薄な人間関係を介在させた移動を増加させ、条件の悪い労働を強いられる移民を増加させた。

关于山东移民送出的变迁
  来自山东的移民开始存在于前近代,最早的形态是商业移民。商业移民是通过亲戚朋友的介绍离开故乡去工作。1860年的北京条约以后,不仅仅是商业移民,还出现了新型的移民,由“把头”带领外出挣钱的劳动者移民。“把頭” 作为劳动者的指挥者招集工人,与雇主交涉,并且重视信誉关系。随着劳动力需要的高涨,出现了与“把头”性质不同的中介人。中介人以介绍费为目的,轻视出外挣钱的工人,并且有欺骗行为,与工人之间的信誉关系稀薄。
  信誉关系稀薄的中介人出现在移民历史较短的地域。在清朝开始送出移民的山东半岛北岸几乎没有出现中介人的事例。另一方面,在黄河洪水泛滥的山东半岛的东部较多。这些地域,在近代以前运河物品流通发达现金收入的机会得天独厚,没有必要外出挣钱。但是进入国民期以后,被航运取代运河的利用频度低落,治水经费被削减,变成了洪水容易泛滥的地域,离开土地的人增加了。但是,由于送出移民的历史较短,能够依靠的亲戚朋友较少,不得不通过以营利为目的中介人介绍外出挣钱。另外,这些地域,由于铁道和港湾的修建,确保了移动的便利性,大量招募大量送出成为可能。
  由此,满铁和抚顺煤矿等日本方面的企业很早就开始注意他们的存在。只限于当时留下的观察记录,大约于1934年开始对移民送出组织的内部发生兴趣。可以考虑此成果在“满洲国” 初期的流入限制及1940年代的工人需求膨胀时被提供于招募计划的方案,并且被灵活地运用于强制性的征用。>
  来自山东的外出挣钱的移民经常被称为“闯关东”或山东苦力。但是,随着近代化交通手段的发达,东北工业化的展开,送出地、中介人、职业方面发生了多种多样地变化。与此同时,劳动需求的高涨让介于信誉稀薄的人际关系之间的移动增加了,使被迫于恶劣条件下劳动的移民增加了。

小都晶子(OZU Akiko,大阪外国語大学・非常勤講師,大阪外国語大学博士2007)

「満洲国」初期における日本人移民用地の取得と中国東北地域社会:「三江省」樺川県を事例として
  本報告は,「北満」に位置する「三江省」樺川県を対象として,「満洲国」初期の日本人移民政策における移民用地の取得とこれに対する地域社会の抵抗の様相を,その後の政策展開と地域の変容を視野に入れて明らかにすることを目的とする。樺川県は,第1~2次日本人試験移民の入植地であり,「全国」でもっとも移民の入植が集中した地域のひとつである。
  1932年3月の「満洲国」成立以後,関東軍は三江地域で大規模な移民用地取得を強行した。しかし1934年3月,逆にこれが土龍山事件という1万人規模の抗日武装蜂起を引き起こすきっかけとなった。この事件に対し,関東軍は直ちに「討伐」を展開したが,同時に用地取得の方針は大幅に変更され,日本側は地域社会への対応のなかでさまざまな妥協や譲歩を余儀なくされた。他方で,中国共産党によって抗日勢力の統合が進み,「三江省」は抗日聯軍の活動拠点となっていった。この過程で,農民の利害は最大限に考慮された。「満洲国」における移民用地の取得は,地域社会の反応に制約されていたといえる。
  地域社会からの制約によって,移民政策における「満洲国」政府の位置づけも変化した。事件後,関東軍は用地取得の表舞台から退き,「満洲国」政府に業務を一任した。1935年7月,「満洲国」政府は移民行政機関である「拓政司」を設置し,正式に日本人移民政策の実施に参与することになった。移民用地取得の過程において,「満洲国」政府は地域社会に対するさまざまな対応をなし,住民の取り込みに「成功」した。抗日聯軍の活動は,1940年までにほぼ制圧されていく。以後,地域社会に対して一定の配慮がなされる一方で,さらに強権的な用地取得がなされるようになった。また,移民政策の性格は「治安維持」から農業生産を重視する「開拓」へとシフトしていった。
  「満洲国」政府にとっても,中国共産党にとっても,在地の抗日基盤が強固であった「三江省」では,地域社会の獲得がひとつの焦点になっていた。そして,この三江地域の特殊性ゆえに,日本人移民の入植が集中した。「満洲国」の移民政策は,用地取得過程におけるさまざまな対応を通して,徐々に地域社会に浸透していった。しかし,それが表面的なものであったのはいうまでもない。戦後日本人の悲惨な引揚げ経験は,彼らが入植から引揚げまで一貫して不安定な位置にあったことを物語っている。樺川県では,開拓団や報国農場などに在籍していた1万168人の日本人のうち,終戦直後の混乱によって全体の3分の1以上を占める3647人が死亡,1548人が現地に「残留」を余儀なくされた。
  1945年10月末,樺川県に国民党部が成立し,自警団や「満洲国」警察など在地の武装勢力を吸収していった。しかし,その後中国共産党による「剿匪」が進み,1946年9月,樺川県は「解放」された。中共は土地改革を実施し,農民に土地を分配したが,これを保証したのは,日本人移民用地や満拓所有地などの大規模な「日偽財産」と満拓の土地管理人に代表される「漢奸地主」の存在であった。

“满洲国”初期日本人移民用地的取得和中国东北地区社会:以“三江省”"桦川县为事例
  本报告以位于“北满”的“三江省”桦川县为对象,目的在于注目并明确“满洲国”初期日本人移民政策中用地取得及对此地区社会的抵抗情况,其后的政策展开和地域的改观。桦川县,是第1~2次日本人试验移民的迁入地,是在“全国”当中迁入移民最集中的地域之一。
  1932年3月“满洲国”成立以后,关东军在三江地区大规模地强制取得移民用地。但是1934年3月,反而因此引起了被称为土龙山案件的1万人规模的抗日武装暴动。针对这件案件, 关东军立即展开了“讨伐”,同时大幅度地改变了取得用地的方针,日本方面在对应地区社会时不得不做出各种各样的妥协及让步。在另一方面,由于共产党统一抗日力量的展开,“三江省”成为抗日联军的活动据点。这个过程中,最大限度地考虑了农民的得失。可以说“满洲国”移民用地的取得,受到了地区社会反应的限制。
  由于来自地区社会的限制,对于移民政策来说“满洲国”政府的定位也发生了变化。案件以后,关东军从取得用地的表面舞台退下,将业务委托给“满洲国”政府。1935年7月“满洲国”政府设置移民行政机关“拓政司”,正式参与日本人移民政策的实施。在取得移民用地的过程中,“满洲国政府”对地区社会采取了各种各样的对应,居民的参与获得了“成功”。到1940年抗日联军的活动几乎被压制。后来在对地区社会进行一定的照顾的同时,变得更加强权的取得用地。另外, 移民政策的性格从“保持治安”转换为重视农业生产的“开拓”。
  无论是对于“满洲国”,还是对于中国共产党来说,当地的抗日基础坚固的“三江省”已成为地区社会获得的一个焦点。以及,因为此三江地区的特殊性的原因,日本人移民的迁入非常集中。“满洲国”的移民政策,通过取得用地过程中各种各样的对应,渐渐地渗透到地区社会中去。但是,毫无异议这只是表面上的。战后日本人的悲惨撤回经验述说着他们从迁入到撤回整个过程中都处于不安定的位置。在桦川县,在籍与开拓团及报国农场等的1万168名日本人中,由于战争刚刚结束的混乱死亡了3647人占据全人数的三分之一以上,1548人不得不“残留”在当地。
  1945年10月末,在桦川县成立了国民党党部,吸收了自卫团以及“满洲国”警察等当地的武装势力。但是,其后由于中国共产党的“剿匪”的进展,1946年9月桦川县得到了“解放”。中共实施土地改革,向农民分配土地,但是为此做保证的是,日本人移民用地及满拓所有地等大规模的“日伪财产”和代表满拓的土地管理员“汉奸地主”的存在。

鬼頭今日子(KITO Kyoko,京セラ株式会社秘書室中国課,大阪外国語大学大学院・言語社会研究科・博士前期課程修了)

今日の日本における高等学校の中国語教育について
 文部科学省が隔年で発表している「高等学校等における国際交流等の状況」によると2005年度全国5477校の高校のうち、英語以外の外国語を開設している学校は計1355校あり、48356人が中国語やフランス語などを学んでいる。うち中国語クラスの開設校は553校、履修者は22161人で、中国語に次ぐフランス語(248校/9427人)や韓国朝鮮語(286校/8891人)と比べても校数、学生ともに格段に多い。約30年前の1975年、中国語教育関係者達による独自の調査による、当時の実施校は私学を中心に13校だった。
 本報告ではまず、1980年代以降の高等学校における中国語開設校の推移をたどり、増加した要因と契機を明らかにする。そこでは具体的に、関西を中心とした各都道府県の取り組み例を紹介し、その上で中国語教育をめぐる現状を以下の2点から考察したい。第一に、開設校の傾向、履修形態、期間、単位数、あるいはカリキュラムの位置づけ、各学校における学習者数、教師の身分などから高等学校の教育制度における中国語教育ひいては英語教育以外の外国語教育の性格を明らかにする。第二に、中国語教育自身について、教材、授業展開、到達目標などをタイプ分けし、現場ではどのような教育が行われているのか、いくつかの事例を紹介する。
 1987年の臨時教育審議会最終答申において国際化・情報化など変化への対応が3つの原則の一つに掲げられ、1989年の学習指導要領改訂では「近隣のアジア地域の言語をはじめ英語以外の様々な外国語教育が一層充実されることが必要性である」と明記された。これらの教育改革を背景に中国語など英語以外の外国語クラスが、1990年代初頭から続々と設置された総合学科、総合高校、単位制高校などの学校を中心に開設された。
 履修形態は自由選択或いは必修選択がほとんどで、必修としている学校はほとんどない。履修期間・単位数については1年間計2単位と2年間計4単位という開設校が圧倒的に多い。カリキュラムとしては3年次/2単位/自由選択/生徒数10~30人と2,3年次/計4単位/選択必修+自由選択/生徒数2年次>3年次がよく見られる形である。学習者数は1校あたり10-40名という学校が半数であるが、100人を超える学校も全実施校の10%ほどある。教師は他教科(英語、国語、社会など)との兼任か何校かをかけ持ちする非常勤講師がほとんどで、中国語のみを教えている教諭はおそらく全国で10名に満たない。高校生の中国語学習者は増加傾向にあるが、1995年より始まったセンターテストは受験できないカリキュラム実施校がほとんどであり、また、教育実習生受け入れ校の不足、教諭採用の圧倒的な少なさなどの課題が存在している。
 テキストは高校生を対象にしたテキストも増えつつあり、姉妹校交流、修学旅行などの体験学習、弁論大会、検定試験など実力を試す機会は多くなっている。しかし依然として学習指導要領は存在せず教育目標の設定などは各教師の裁量に委ねられている。夏場の研修、各地域での授業教材研究などを通して各自が研鑽することで底上げに努めているのが現状である。そこでは大学との連携もみられる。

当代日本高中的中文教育
  根据文部科学省隔年发表的“高中的国际交流状况”可了解到在2005年全国的5477所高中开设了英语以外的外国语的学校共计1355所, 有48356人在学习中文或者法语。其中中文班的开设校为553所,履修学生为22161人,学校数、学生数都显著地多于法语(248所/9427人) 和朝鲜语 (286所的/8891人)。大约30年以前的1975年,据中文教育方面的有关人员们的单独调查得知当时以私立学校为中心的实施校为13所学校。
  本报告首先,追溯1980年代以后高中的中文开设校的推移,明确增加的要因和起因。在介绍以关西为中心的各都道府县的具体研究事例的基础上,围绕中文教育的现状考察以下两点。第一,从开设校的倾向、履修形态、期间、学分数量,或者课程的定位、各学校的学习人数、教师的身分等辨明高中教育制度中的中文教育以及英语教育以外的外国语教育的性格。第二,对中文教育进行教材、课堂展开、目标达成等分类,通过事例介绍在现场是怎样进行教育的。
  在1987年临时教育审议会最终答辩中,对国际化、情报化等变化的对应作为三个原则中的一个被举出,1989年的学习辅导要领修订版中清楚地记载了“以近邻的亚洲地域的语言为首,有必要越发充实英语以外的各种各样的外国语教育”。 以这些教育改革为背景中文等英语以外的外国语班于1990年代初开始陆续地在综合学科、综合高中、学分制高中等学校中开设了。
  履修形态大多数为自由选择或者必修選択,定为必修的学校几乎没有。履修期间、学分数定为1年共计2学分和2年共计4学分的开设校相当多。课程以3年/2学分/自由选择/学生数10~30人和2,3年/共计4学分/选择必修+自由选择/学生数2年生>3年生的形式比较多见。学生数为10~40名的学校占半数,超过100名的学校只占全部实施校的10%。至于教师,几乎全部是兼任他科目(英语,国语,社会)或兼任几所学校的客席讲师,只教中文的教师大概全国内也没达到10名。经管高中生的中文学习者有增加的倾向,但是几乎全部的实施校的课程不能被参加从1995年开始的集中考试,另外还存在接受教育实习生校的不充足,教员采用非常少的课题。
  以高中生为对象的教材正在增多,并且姐妹学校交流、毕业旅行等经验学习、辩论大会、检定考试等尝试实力的机会增多了。但是仍然没有学习辅导要领,教育目标的设定等都决定于各教师的衡量。现在的状况为通过夏季的研究、各地区的课程教材研究等各自钻研努力提高水平。也可以看到与大学的联合。

康越(KANG Yue,北京化工大学文法学院,大阪外国語大学博士2000)

張学良政権下の最高行政機構:東北政務委員会について
 「政務委員会」は南京国民政府時期に地方数省を管轄していた一種の行政制度である。かつて相次いで、東北政務委員会(1929年1月-1931年12月)、北平政務委員会(1931年12月18日-1933年3月)、西南政務委員会(1932年12月31日-1936年7月)があった。
 本稿は東北政務委員会が張学良の易幟以後、1929年1月に成立した東北地区最高行政機構を論述する。中原大戦後、その管轄範囲は華北地区にまで拡張された。九一八事変後、東北政務委員会は改組され北平政務委員会となった。東北政務委員会の存続した時間は比較的短かった(わずか33ヶ月)が、東北政治制度史上、東北政務委員会は特殊な存在であった。しかし、今までのところ、東北地区における研究のなかで、行政機構に関係する研究は少なく、とりわけ東北政務委員会に関する研究基本は空白状態におかれている。
 本稿の趣旨は遼寧省档案館所蔵の東北政務委員会档案及びその他関連資料を利用し、東北政務委員会設立の背景、組織構成特徴、人員構成状況、及び中原大戦前後の東北政務委員会が東北事務と華北事務において発揮した機能を分析することによって、総合的に張学良統治時期の政治メカニズムの特徴を分析する。またこれを基礎にして、さらに進んで張学良政権と南京国民政府間の関係を分析する。全文は3部に分けられる。
 第1部:「皇姑屯事件」後、張学良が統治する東北の方針と東三省保安委員会の組織設立及び易幟等の角度から東北政務委員会が成立した歴史背景を分析する。
 第2部:東北政務委員会が管轄する範囲の変化に基づいて、それぞれ東北政務委員会成立初期(管轄範囲に遼寧、吉林、黒龍江、熱河東北四省を含む)と中原大戦後(管轄範囲に東北四省、華北三市四省(北平、天津、青島、河北、山西、察哈尓、綏遠)を含む)の組織構造、人員構成の特徴を分析した。またさらに進んで中原大戦後の東北政務委員会が華北事務を接収管理したプロセス及び九一八事変後東北政務委員会が改組され北平政務委員会となった前後の状況も分析した。
 第3部:東北政務院会成立後に直面した「引き続き保留」か「撤回」問題、この一連の論争はちょうど張学良政権と南京国民政府の異なった時期の関係を反映した。第3部は『盛京時報』に掲載された東北政務委員会撤回に関する10回の新聞報道資料を利用して、南京国民政府が異なった時期に東北政務委員会の存続問題について持っていたさまざまな態度について分析する。
 以上の総合分析を通して、本稿は基本上東北政務委員会の歴史概況を復元するという目的に到達した。しかし今後、同北平政務委員会と西南政務委員会の比較研究を通して、さらに東北政務委員会の特徴及び歴史地位を分析する。

论张学良政权下的最高行政机构:东北政务委员会
  “政务委员会”是南京国民政府时期管辖地方数省的一种行政制度。先后曾有东北政务委员会(1929.1-1931.12)、北平政务委员会(1931.12.18-1933.3)、西南政务委员会(1932.12.31-1936.7) 。
  本文所论述的东北政务委员会是张学良易帜后,于1929年1月成立的东北地区的最高行政机构。中原大战后,其管辖范围曾扩充到华北地区。9.18事变后,东北政务委员会被改组为北平政务委员会。东北政务委员会的存续时间虽然较短(仅为33个月),在东北政治制度史上,东北政务委员会却是一个较特殊的存在。但是,到目前为止,在东北地区的研究当中有关行政机构的研究很少,尤其关于东北政务委员会的研究基本处于空白状态。
  本文旨在利用辽宁省档案馆所藏东北政务委员会档案及其他相关史料,通过分析东北政务委员会成立的背景、组织结构特点、人员构成情况,以及在中原大战前后东北政务委员会在东北事务和华北事务中所发挥的作用,综合分析张学良主政时期的政治机构的特点。并在此基础上,进一步分析张学良政权同南京国民政府之间的关系。全文分为三部分。
  第一部分: 从“皇姑屯事件”后张学良主政东北的方针和组建东三省保安委员会及易帜等角度,分析了东北政务委员会成立的历史背景。
  第二部分:根据东北政务委员会管辖范围的变化,分别分析了东北政务委员会成立初期(管辖范围包括辽宁、吉林、黑龙江、热河东北四省)和中原大战后(管辖范围包括东北四省、华北三市四省(北平、天津、青岛、河北、山西、察哈尔、绥远)的组织结构、人员构成的特点。并进一步分析了中原大战后东北政务委员会接管华北事务的过程及9.18事变后东北政务委员会被改组为北平政务委员会前后的情况。
  第三部分:东北政务委员会成立后曾一直面临“继续保留”还是“撤消”的问题,这一系列的争论恰好反映了张学良政权和南京国民政府在不同时期的关系。第三部分利用《盛京时报》所刊载的关于撤消东北政务委员会的十次新闻报道资料,分析了南京国民政府在不同时期就东北政务委员会的存续问题所持的不同态度。
  通过以上的综合分析,本论文基本上达到了还原东北政务委员会历史概况的目的。但是,今后还有待于通过同北平政务委员会和西南政务委员会的比较研究,进一步分析东北政务委员会的特点及历史地位。

島田美和(SHIMADA Miwa,大阪大学・非常勤講師)

顧頡剛と「疆域」概念
 今回の報告では、国民政府や地方実力派、知識人の領土(領域)意識と「辺疆」への認識及び研究活動を通じて、東アジア地域における中国ナショナリズムの「重層性」を解明したい。対象時期は、満洲事変の勃発から日中戦争期(1931年~1945年)にかけてである。この時期、強い国防意識を持った中国知識人が、非漢族とその居住地域である「辺疆」に対してどのような認識を持っていたのか、また、彼らが非漢族地域をいかなる論理をもって中国の「領土」の一部として認識しようとしたのか、を解明したい。従来の研究では、日中戦争期における中国のナショナリズムの特徴について、「愛国主義」的ナショナリズムであるという評価がなされてきた。こうした評価を再考するために、様々な学術思想を持った知識人によって行われた「辺疆」研究を分析対象として、抗戦期におけるナショナリズムの多様性を浮き彫りにしたい。具体的には、「辺疆」研究を推進した代表的人物である顧頡剛を中心に取り上げる。そして、彼が「辺疆」地域として考察した内モンゴル地域や回族が居住する中国西北部に関する言論を分析することによって、日中戦争期における知識人の「辺疆」観を考察し、中国「領域」意識の形成過程を明らかにしたい。
 顧頡剛の「辺疆」研究には、2つの側面からの影響が見られる。一つは学術の方法論であり、もう一つは西北地方との接触である。学術の側面では、顧頡剛の学術に大きな影響を与えた人物として、同じく歴史家の傅斯年がいる。傅斯年は、満洲事変の後、日本の学者矢野仁一による論説「満洲は支那に非らず」を、矢野と同じく近代実証主義歴史学を以って反駁し、中国東北部(満洲)の中国への帰属を主張した。こうした近代歴史学の分析手法による中国の領域認識は、顧頡剛の中国「領域」設定にも引き継がれた。その領域概念の下、顧頡剛は、戦前に歴史地理雑誌『禹貢』月刊を創刊し、抗戦期には「辺疆」研究に従事した。ここに近現代東アジアにおける日本と中国の国民国家形成過程において、日中双方における学術上の連鎖および共通の特徴を見出すことができる。
 また、西北地方との接触の側面では、顧頡剛はこの「領域」認識のもと、西北地方へ考察旅行を試みた。そこでは、蒙地における「開墾」の推奨や現地の漢族軍事勢力者との接近が見られる。このように、抗戦期における顧頡剛の「辺疆」研究は、国民政府や漢族軍事勢力者の民族政策において、少数民族に中国ナショナリズムを醸成させるために積極的に用いられ、さらにはその民族政策に学術的正統性を与えた。ここに、抗戦期において、国民党政権下における中央政治のみならず、地方政治においても学術との相互接近が見られた。

顾颉刚的“疆域”概念和“边疆”研究
  本文,欲通过掌握国民政府以及地方实力派、知识分子的疆域意识和对“边疆”的研究,明确东亚地域中的中国民族主义的“多层性”。分析对象的时期是从满洲事变的爆发到抗日战争时期(从1931年到1945年)。这一时期的中国知识分子在强大的国防意识下是如何把握少数民族及其居住地域的呢?通过考察阐明他们是持何种理论将非汉族地域理解为中国的“领土”的一部分的。以前的研究评价抗日战争中的中国民族主义为“爱国主义”的民族主义。为了重新考虑这种评价,笔者尝试以持有各种各样学术思想的知识分子进行的“边疆”研究为分析对象,雕刻出抗战时期民族主义的多样性。本报告具体地以推动“边疆”研究的代表性人物顾颉刚为核心,通过分析他关于内蒙古地域及回族居住的中国西北部的“边疆” 地域考察的言论来考察抗日战争时期的知识分子的“边疆”观,明确中国“疆域”意识的形成过程。   顾颉刚的“边疆”研究具有两个方面的影响。一个是学术的方法论,另一个是与西北地方的接触。从学术方面来说,在学术上给与顾颉刚巨大影响的历史学家傅斯年在满洲事变以后,虽采纳了日本学者矢叶仁一所使用的近代实证主义的历史学方法,却反驳了矢野的“满蒙在历史上非支那领土”的主张中国东北部(满洲)应归属中国。运用这种近代历史学的分析手法而产生的中国的疆域意识也被顾颉刚所继承。在这种疆域概念下,顾颉刚战前创刊了历史地理杂志《禹贡》月刊,抗战期间又从事“边疆”研究。在此能够发现近现代东亚日本和中国的国民国家形成过程中,中日双方学术上的连锁以及共同特征。   另外,在与西北地方接触方面,顾颉刚在这种“疆域”意识下,尝试对西北地方进行考察并推荐蒙地“开垦”及与当地的汉族地方实力派有所接触。抗战期间顾颉刚的“边疆”研究,对国民政府以及汉族地方实力派的民族政策有所影响,为促使少数民族的中国民族主义的酿成起到了积极的作用,并且给以其民族政策学术上的正统性。在此无论是中央政府还是地方政府都受到当时学术界的影响并促成了其民族政策的形成。并可见抗战时期的政治和学术逐步接近。

田淵陽子(TABUCHI Yoko,東北大学・東北アジア研究センター・専門研究員,大阪外国語大学博士2003)

1945年「内モンゴル人民共和国臨時政府」の樹立と崩壊
 日本敗戦後の中国東北・内モンゴル地域は、スターリンと蒋介石の間で締結された「中ソ友好同盟条約」(1945年8月14日締結)によって国民政府による接収が約束されていた地域であった。しかし、ソ連軍・モンゴル政府連合軍が進軍した直後の内モンゴルでは、主権なき「真空地帯」のような状況となり、独立や国民国家形成を目指す様々なモンゴル民族運動が展開された。
 内モンゴル西部の錫林郭勒盟西蘇尼特旗では、9月9日、偽「蒙疆政権」官吏と「モンゴル青年党」メンバーが、ソ連・モンゴル政府連合軍の「支援」のもと、補英達頼(巴彦塔拉盟盟長、偽「蒙疆政府」最高法院院長)を主席とする「内モンゴル人民共和国臨時政府」を樹立した。この「臨時政府」は10月中旬から下旬における政治的変動のなかで崩壊し、実質的な存続期間は約一ヶ月余りという短命に終わった。だが、「臨時政府」を吸収し11月28日に張家口で成立した中国共産党の「内蒙古自治運動連合会」は、その後本格的な内モンゴルにおける統一戦略を開始し、王爺廟を拠点とする「内モンゴル人民革命党」(東モンゴル人民自治政府)、海拉爾を拠点とする「呼倫貝爾自治省政府」へと影響力を拡大させていった。
 当時、錫林郭勒盟を中心に特務活動を行っていたモンゴル人民共和国政府副首相拉木扎布(B.Lamjav)は、「臨時政府」樹立の現場に立ち合った人物の一人である。本報告では、拉木扎布(B.Lamjav)が喬巴山(Kh.Choibalsan)元帥(首相兼外相)宛てに作成した特務活動の報告書を紹介する。そして、従来未解明な点が多かった「臨時政府」の樹立の背景を明らかにするとともに、以下二点を論じる。第一に、樹立に携わった旧政権の青年知識層・官吏はいかなる政治目標が掲げたのか、彼等が自らの重層的アイデンティティを、1945年8-10月というドラスティックな政治変動のなかでどのように収斂させようとしたのか、内モンゴルにおける民族的かつ政治的アイデンティティの定着化過程に着目する。第二に、中華民国内の二大政治勢力である中国国民党と中国共産党、そしてソ連とその「衛星国」モンゴル政府、アメリカの「四国五方」関係の構図が、当時の内モンゴル社会においていかなる実態を持ち、「臨時政府」に対していかなる影響力を及ぼし得たのか、「アジア冷戦のはじまり」とでもいうべき政治的現実を明らかにする。

1945年“内蒙古人民共和国临时政府”的树立和崩溃
  日本战败之后的中国东北、内蒙古地区,根据“中苏友好同盟条约”(1945年8月14日缔结)即将成为被国民政府接收的地区。然而,在苏联,蒙古政府联合军刚进军之后的内蒙古,成为没有主权的,如“真空地带”的状况,开展着以独立以及国民国家形成为目标的各种各样的蒙古民族运动。
  9月9日、在内蒙古西部的锡林郭勒盟西苏尼特旗,伪“蒙疆政权”官吏和“蒙古青年党”成员在苏联•蒙古政府联合军的“支援”下,以補英达赉(巴彦塔拉盟盟長,伪“蒙疆政府”最高法院院长)为主席建立了“内蒙古人民共和国临时政府”。这个“临时政府”在10月中下旬的政治波动中崩溃,实际上的存在时间仅为一个多月便短命的结束了。然而,吸收了“临时政府”并且于11月28日在张家口成立的中国共产党的“内蒙古自治活动联合会”,此后正式展开了统一内蒙古的战略,开始扩大对以王爷府为据点的“内蒙古人民革命党”(东蒙古人民自治政府)和以海拉尔为据点的“呼伦贝尔自治省政府”的影响力。
  当时,以锡林郭勒盟为中心进行特务活动的蒙古人民共和国政府副首相拉木扎布(B.Lamjav)是建立“临时政府”时在场的人物之一。本报告介绍拉木扎布(B.Lamjav)寄给乔巴山(Kh.Choibalsan)元帅(首相兼任外务大臣)的关于特务活动的报告书。然后,阐明关于建立“临时政府”时的背景的存留下来的很多未明点的同时,论述以下两点。第一,参与建立旧政权的青年知识层、官吏是举着怎样的政治目标,并且在1945年8月至10月之间的激烈的政治波动中他们是怎样收敛多层的自我认识的,着眼于内蒙古的民族性以及政治上的自我认识的固定过程。第二,阐明中华民国国内两大政治势力的中国国民党和中国共产党,然后苏联和那个“卫星国”蒙古政府、美国的“四国五方”关系的构图,在当时的内蒙古具有怎样的实际状态,并给“临时政府”带来了怎样的影响力,以及应该称为“亚洲冷战的开端”的政治现实。

根岸智代(NEGISHI Tomoyo,大阪外国語大学・言語社会研究科・博士後期課程)

1936年IPRヨセミテ会議をめぐる「中日問題」言説の交錯
 1933年3月、国際聯盟から脱退宣言したあとの日本にとって、1936年に開催されたIPR第6回ヨセミテ会議(太平洋問題調査会)は最後の国際会議出席となった(1)。その意味で、第6回ヨセミテ会議は公式外交ルートとは異なる政治的役割と現実的意味を持っていたといえる。会議開催中の8月24日に胡適は中国の再建現状を述べ、この事業が、「国際的関連のもとで推進されはしたが、日本からは妨害を受けた」と強調した(2)。これを受けて日本代表の芳澤謙吉が「日本の行動が總てが正しいとは思はない、又支那の行動が常に正當ではない」との言説は英文メディアに、「芳澤が中国での過ちをみとめる―IPR代表が、日本が過去に犯したことが全て正しいわけではなかったとみとめる―」「より良い感じを生み出す」と記され(3)、日本が和平へ歩み寄るかのような論調を示した。しかし、郭斌佳(武漢大学教授)は「本屆太平洋學會議程之討檢」『外交評論』誌(1936年10月)で、この発言をとりあげ、「5年来の東アジア大陸が不安定である原因は日本の大陸政策が引き起こした」のであり、「胡適が述べた『中国は各国の援助を歓迎するが日本の干渉は願わない』『日本の宣伝する提携の真意を中国は了解できない』という言説は実に中国が敢えて対日提携に応じない原理を喝破するものである」と強調した。これは当時、譚振民「広田内閣之戦時統制経済政策」『日本評論』(1936年8月)、張覚人「日本軍需工業之発展」『日本評論』(1936年8月)、余甘雨「日本侵略政策之経済基礎」『日本評論』(1936年8月15日)、「国防第一主義的日本」『中央日報』(1936年8月15日)、賡華「日内閣庶政一新之國策問題」『外交評論』(1936年9月)等で、日本は中国との提携ではなく侵略の意思があるとして英文メディアの論調を否定していた。しかし、それ以前の1936年3月から「中日両国は長期の妥協と誠実な提携を追及し、日本は大陸政策を放棄し、中国は安定自強を求めなければならない」とするIPRヨセミテ会議出席者の一人である張忠紱の「論中日邦交」『日本評論』誌(1936年3月15日)、「日本之對華観念」『大公報』(1936年8月14日)等で見られるように中日和平模索のために日本への対中国認識転換を求める論調もあった。また、「日本之対華国策」『大公報』(1936年9月3日)で実際に実業家の高木陸郎、河北興中公司社長の十河信二、朝日新聞記者の太田宇之助などが社会的経済的レベルから日本の対中国政策転換を要求している論文を肯定的にとりあげて、日本での従来からの主流的中国観に対抗する新たな中国観が提起されつつあることを示した論調もあった。1936年8月、9月の段階では中日和平を追求しうるメディア・アジェンダが存在しえたといえる。
(1)太平洋問題調査会(The Institute of Pacific Relations、以下IPR)は、第1次世界大戦を防げなかった反省をうけ、国家間の諸問題を政治家のみに限らず民間組織においても議論する、いわゆる国民外交の推進という認識のもとにハワイのYMCAが中心となって1925年にホノルルで第1回会議が開催されたのが、創設の理由である。その後2年ないし3年ごとにIPR会議が開かれ、1958年まで13回にわたって開催された。IPRに関しては、山岡道男『「太平洋問題調査会」の研究』龍渓書舎、1997年、片桐庸夫『太平洋問題調査会の研究―戦間期日本IPRの活動を中心として』慶應義塾大学出版会、2003年に詳しい。
(2)胡適「支那から見た日本」『世界は日本をどう見る』太陽閣、1937年1月、pp.262-269。
(3)New York Times, August 26, 1936.

1936年IPR玉斯美脱(Yosemite)会议与日本和中国代表团
  对于1933年3月宣布了脱离国际联盟以后的日本来说,1936年举行的IPR第6次玉斯美脱会议(太平洋问题调查会)既成为最后一次出席的国际会议(1)。在这层意义上可以说第6次玉斯美脱会议具有与正式外交途径不同的政治作用和现实意义。在会议期间8月24日胡适叙述了中国的再建现状,强调此事业“在国际性的关联下得到了具体成果,但是我们不愿受到日本的妨碍”(2)。对此日本代表芳泽谦吉表示“不认为日本的行为全部都是正确的,中国的行动也不一定是正当的”。英文媒体(New York Times)报道“芳泽承认在中国的罪行―IPR代表承认日本过去触犯的行为并不全部都是正确的”“ 产生更好的感觉”(3),显示了好像日本在走近和平的论调。但是,郭斌佳(武汉大学教授) 在〈本届太平洋学会议程之讨检〉《外交评论》杂志(1936年10月)上,列举此项发言,认为“此5年来东亚大陆杌陧不安定之原因,宁非日本之大陆政策, 有以酿成之?”,强调‘胡适等谓..中国欢迎各国援助,但不愿日本干涉。又谓 日本宣传合作,但中国无法理解其真意。此数语实道破中国不敢对日合作之原理’。这是当时,谭振民〈广田内阁之战时统制经济政策〉《日本评论》(1936年8月)、张觉人〈日本军需工业之发展〉《日本评论》(1936年8月)、余甘雨〈日本侵略政策之经济基础〉《日本评论》(1936年8月15日)、〈国防第一主义的日本〉《中央日报》(1936年8月15日)、賡华〈日内阁庶政一新之国策问题〉《外交评论》(1936年9月)等,否定英文媒介的论调认为日本不是与中国合作而是具有侵略的意图。但是,正如在此之前如IPR玉斯美脱会议的一名出席者张忠紱在1936年3月开始于〈论中日邦交〉《日本评论》杂志(1936年3月15日)上表示的“中日两国欲求长期妥协,真诚合作,必须日本放弃其大陆政策,而中国须力求安定自强” ,〈日本之对华观念〉《大公报》(1936年8月14日) 等中可以看到的为了摸索中日和平也有论调向日本提出要求转换对华观念。事实上还有实业家高木陆郎,河北兴中公司社长十河信二,朝日新闻记者太田宇之助等人以社会经济水准的角度,于《大公报》(1936年9月3日)刊登的〈日本之对华国策〉上提出肯定要求对中国转换政策的论文,在日本也有论调提起新的中国观与以往形成主流的中国观相对抗。可以说在1936 年8月、9月时期可能追求中日和平的媒体时代已经存在了。
(1)太平洋问题调查会(The Institute of Pacific Relations、以下IPR)受到没能防止第1次世界大战的教训,不仅仅是政治家在民间组织中也进行议论国家间的诸问题,在所谓推进国民外交的认识下,以夏威夷的YMCA为中心1925年在檀香山召开的第1次会议为创办的理由。此后每2、3年召开一次IPR会议,到1958年连续召开了13次。有关IPR,详细请参考山冈道男《〈太平洋问题调查会〉的研究》龙溪书舍、1997年、片桐庸夫《太平洋问题调查会 的研究——以战争期日本IPR的活动为中心——》庆应义塾大学出版会 2003年。
(2)胡适〈从支那看日本〉《世界怎样看日本》太阳阁、1937年1月 pp.262-269。
(3)New York Times, August 26, 1936.

日野みどり(HINO Midori,金城学院大学・現代文化学部・教授,大阪外国語大学博士2002)

現代中国の職業観に関する一考察:「敬業」概念をめぐって
 中国が「自主的職業選択」制を導入した1990年代後半から、人材と職業をめぐる議論に「敬業」という言葉が頻出するようになった。「敬業」とは、自分の仕事に愛着を持ち職務に全力で取り組む姿勢を指す語で、ある種の職業道徳、ないしそうした道徳を持ち合わせる状態を意味する。現代中国における職業観を考えるときに、この「敬業」概念の解釈を検討することは重要であろう。本稿は、まず近年の中国における議論を素材に「敬業」概念の解釈について概観し、特に現代的文脈の中で同概念が持つ意味合いを考察する。次に、筆者らが上海市の高学歴者層を対象として2005年に実施した「敬業」概念に関する調査の結果を検討し、「敬業」という概念が現代中国の職業観に及ぼす意味を明らかにする。
 「敬業」の語は古代より文献に記されており、現代中国の「敬業」概念には、こうした伝統的な職業道徳規範から現代に通用する職業道徳観を求める志向性がある。また、現代的文脈における「敬業」概念の論じられ方については、政治思想教育と人的資本管理(HRM)の二つの立場が対照的な議論を行っている。前者は、共産党のイデオロギーを個人が全面的に受け入れることを前提とした「仕事への愛」「職務への熱心さ」を強調し、職業における「個人主義」と「国家の重視」の対立を批判するが、これは党が人々の職業生活を掌握していた計画経済期の枠組みをそのまま踏襲したものである。他方、後者においては「企業の目標達成」という高度に実務志向の原理に基づいて「敬業」精神が重視され、企業には従業員が「敬業」精神を発揮できるような職場環境を整える努力が求められる。
 続いて、高学歴者層582名を対象に実施した調査の結果、個人が抱く職業観・人生観の構成要素としての「敬業」概念の一端が明らかになった。まず、高学歴者層の「敬業」概念に対する解釈は、個人の主体性を重視する傾向にある。また、「敬業」精神を持つ理由については、原初的・理念的動機と用具的・功利的動機の間に必ずしも明確な区分はなく、両者の一体性を示唆する結果が得られた。つまり、本稿が考察の対象とした高学歴者層については、職業に関連して個人的な充足感という目標を完全に排除することはもはや難しい。また、職業を通じた自己実現を図る欲求の前には、「敬業」概念の原初的・理念的側面と功利的側面とは両立しうる。「個人主義」と「国家の重視」の対立枠組みを前提とした「敬業」概念は、実効性に乏しいと言わざるを得ない。

初探现代中国的职业观:围绕"敬業"概念
  自从中国全面实行“自主择业”制度的1990年代后期,围绕人材与职业的议论中开始频繁地出现“敬业”这个词汇。所谓“敬业”,是表示热爱自己的工作、在职务中投入全身力量的姿势的词汇,是一种职业道德,或者意味着持有这种道德的状态。笔者认为,在考虑现代中国职业观时,探讨这个“敬业”概念的解释是很重要的。本稿,首先以近年来在中国的议论为素材概观“敬业”概念的解释,特别的考察该概念在现代文脉中所持的含义。其次,笔者探讨以上海市的高学历者为对象在2005年实施的“敬业”概念调查的结果,阐明“敬业”的概念具有涉及现代中国职业观的意义。
  “敬业”一词在古代文献中既有记载,而现代中国的“敬业”概念,是从这些传统的职业道德规范中追求一些能够通用现代的职业道德观的。并且,在现代文脉中的“敬业”概念的讨论方面,政治思想教育和企业人力资本管理(HRM)这两个领域各自进行颇有对照性的议论。前者以共产党的思想体系为个人全面吸收的前提强调“热爱工作”“热心于岗位”,批判职业上的“个人主义”和“重视国家”的对立,但是,这实际上是沿袭了党掌握人们职业生活的计划经济框架的残余。另一方面,对于后者来说根据所谓“企业的目标达成”的高度实际业务意向的原理“敬业”精神受到重视,要求企业努力调整能使员工发挥“敬业”精神的工作环境。
  接下来,阐明以582名高学历者为对象实施的调查的结果,明确作为个人拥有的职业观、人生观的构成要素的“敬业”概念的一个方面。首先解释高学历者的“敬业”概念具有重视个人自主性的倾向。另外,对于所持“敬业”精神的理由,不一定明确的区分原始的、理念性的动机和工具性的、功利的动机,得到了示意两者一体性的结果。即对于本稿的考察对象高学历者来说,要完全排除以职业来达到个人满足目的说法是非常难的。还有,在通过职业争取自我实现这一欲求面前,“敬业”概念的原始的、理念侧面和功利侧面有可能并存。总而言之,不得不说以“个人主义”和“重视国家”的对立框架为前提的“敬业”概念缺乏实际性效果。

前田輝人(MAEDA Terundo,大阪外国語大学大学院・言語社会研究科・博士前期課程修了)

日中戦争期の「日本人社会在上海」
 本稿の目的は,主として「全社会階層に属する,全ての在上海日本人の有職業者」を掲載対象とした,金風社編『支那在留邦人人名録』収録データを分析することによって,日中全面戦争期における上海日本人社会の,変容の実態に迫ることにある。その結果,下記に述べる二つの状況が明らかになった。(【表2】などの表示は,拙論テキスト参照)
 第一に,第28版(1936年)・第29版(1939年)『人名録』の分析を通じて,「第2次上海事変」を契機とする在上海日本人社会の変容に関わる次の3点を確認した。第1に,上海居留民有職業者の出身道府県は全日本に拡がっているが,西日本に偏重し,九州7県出身者が30%前後を占め,長崎県だけで平均11%である【表2】。第2に,在上海企業の一部の大企業には,従業員の採用に際し,その出身地域性を重視・優先する傾向が認められる【表3】。第3に,上海在留日本人の「土着派」といわれる人たちの多くは,南北に伸びる「虹口」・「閘北」地区には密に,東西に拡がる地域にはどちらかといえば疎らに,両翼つきの長方形地域(10~12平方Km内外)に集住した。在華紡の従業員は滬西・楊樹浦の「社宅」群に,「事変」後急増した国策会社の従業員や官公組織勤務者たちは,大上海都市計画跡の「市中心区」にそれぞれ居住していた【表4】。
第二に,「第2次上海事変」を契機として量的拡大に転じた在上海日本人社会は,中支那振興㈱傘下の国策企業群設立を端緒として,質的変容を生じつつあった。この後の数年間,在上海日本人社会は,より一層の「膨張」を遂げることになる。本論文では,『人名録』第29版(1939年)と第33版(1943年)を比較・対照することによって,(1)国策企業による華中経済の掌握――「中支那振興」グループ【表5・表7】,(2)企業活動の活発化――三井洋行(三井物産上海支店)の例【表8】,(3)行政・治安機構の整備――日本総領事館,日本大使館事務所【表9】,(4)生活空間の拡大――上海居留民団【表6・表10】など,「膨張」の実態が人数の急増となって表れた。
 多数の日本人を上海に誘引した大きな要因の一つが,国策会社「中支那振興」を中核とする上海社会の再配置にあった。そして,この国策主導型人口膨張を支えたのが,日清・日露戦役以来日本軍の「無敵」を信じ,自らを「優れた民族」だと認識し,ホスト社会の住人を「劣敗者」だとする日常感覚を持つ,上海日本人社会であった。「第2次上海事変」以前は,軽工業と中小商工業者やサービス産業が中心であった上海は,「事変」以後,重化学工業化の潮流の中で,軍人や警察が圧倒的存在となる都市空間に変容していった。

抗日战争期的"日本人社会在上海"
  本稿的目的主要是分析刊登了“属于全社会阶层,全体在上海的日本有职业者”的金风社编《支那在留邦人人名録》所收录的数据,接近抗日战争期中在上海的日本人社会改观的实际状态。其结果,明确了以下两个情况。([表2]等的表示是拙论原文,请先生们参照)。
  第一,通过分析第28版(1936年)、第29版(1939年)《人名录》,确认了以下3点有关于以“第2次上海事变”为起因的上海日本人社会的改观。
  第1,上海居留市民有职业者的出身的道府县虽然遍布全日本,但是偏重于西日本,九州7县的出身者大约占据30%,只长崎县的平均数就为11%[表2]。第2,在上海企业中的一部分大企业中,在录用工作人员之际有重视、优先出身地的倾向[表3]。第3,被称为“土着派”的上海在留日本人的大多数,集中居住于南北走向的“虹口”、“閘北”并分散于东西走向的带翅膀的长方形地域(10~12平方公里左右)。在華紡的工作人员群居于滬西、扬树浦的“公司职工住宅”,“事变”以后国营公司的职员和政府工作人员们分别居住在大上海城市计划遗迹的“市中心区” [表4]。
  第二,以“第2次上海事变”为起因在数量上得以扩大的在上海的日本人社会,以“中支那(华中)振興公司”旗下的国营企业群设立为开端,发生性质上的改观。此后的几年中在上海的日本人社会实现了更加的“膨胀”。 本论文比较、对照《人名录》第29版(1939年)版和第33版(1943年),(1)国策企业对华中经济的掌握――“中支那(华中)振兴”集团[表5.表7],(2)以企业活动的活性化――以三井洋行(三井物产上海分店)为例[表8],(3)行政、治安构造的配备――日本总领事馆、日本大使馆办事处[表9],(4)生活空间的扩大――上海居留市民团[表6.表10]等,“膨胀”的实际情况表现为人数的剧增。
  上海吸引许多日本人的一个主要原因在于以国营公司“中支那(华中)振兴”为核心的上海社会的再设置。以及支持了此国策主导型人口膨胀的是,甲午战争、日俄战争以来对日军“无敌”的信任,以为自己是“优秀民族”的认识,以及持有主人社会的居民是“劣败者”的日常感觉的上海日本人社会。“第2次上海事变” 之前,上海以轻工业和中小工商业者以及服务产业为核心,“事变” 以后,在重化学工業化的潮流中,上海改变为以军人和警察为绝对多数的都市空间了。

宮崎いずみ(MIYAZAKI Izumi,北京林業大学・外国語学院・外国人教師,大阪外国語大学大学院・言語社会研究科・博士前期課程修了)

中国における日本語の位置づけに関する考察:近現代中国における外国語教育の変遷と日本語学習
 本稿は中国(1)における日本語学習(2)について、近現代の時間軸と他外国語との比較という二つの点から論じ、中国における日本の位置づけの変遷に関して考察を行ったものである。日本語学習をテーマとして選んだのは、言語学習への動機は(特に選択肢がある場合)ある程度その言語もしくは言語使用国(地域)の学習者にとっての存在価値を表すと考えられるからである。
 また、他外国語との比較という視点は、「中国における世界諸国の中の日本」という観点からの考察を行うためである。日本から見ると、中国と日本の二国の関係に注目することが多いと思うが、実際、日本は中国で活動する他国の機関や人々の一つにすぎない。よって、中国での他国との中におくことでより明確に日本の位置づけが見えてくると考える。
 中国における近代の外国語学習は清末に始まる。日本語学習は日清戦争後からである。清末~民国期は日本への留学生数は多かったが、日本はいわば「欧米の代替」的存在として日本語は第二外国語の位置づけであった。旧満州地域等では、植民地政策で国民としての日本語教育や強制的な日本語教育が行われた。
 そして新中国成立直後はロシア語一辺倒で、日本語は主に外交的な目的による専門教育のみであったのが、60年代ごろからは英語が第一言語としての位置づけを確固する一方で、大学での日本語専門教育も増加した。日本語学習が本格化したのは70年代以後、80年代のことである。この頃の日本語学習には主に経済的な実用性、先進的な知識や技術の習得などが背景にある。その後、95年以降は第二外国語としては第一の学習者数となり、2000年頃以後からは日本のサブカルチャーや文化、日本語自体、日本自体への興味等を学習動機とする学習者、第二外国語としての学習者が増加している。
 つまり、英語が国際的言語として重要視されているのと同時に、この数年文化的な面や日本自体への興味が日本語学習者の動機として増加する傾向が見て取れる。中国において清末から始まった日本語学習において「欧米の代替」から、実用的位置づけ、そしてこの数年は「日本的特色のある事物」への興味が学習動機に認められつつある。
 しかし、その多くは第二外国語としての学習者であり、日本語教育においてこのような学習者により適した教育が重視されていくべきであろう。このような学習者を重視し、日本への理解を深めてもらうことがいわゆる日中友好にもつながると考えられる。
(1)台湾・香港等は歴史的背景が異なるため、本稿で共には論じず、ここでの「中国」とは中国大陸を指す。
(2)本稿では日本語の「学習」ならびに「教育」どちらについても対象とし、ここでの「学習」は「教育」も含めた意味で用いる。

在中国的“日本”:中国近现代外语教育的变迁与日语学习、教学现状
  本文选择在中国(1)的日语学习与教学为研究对象,以时间为横轴,日语学习、教学的动机、目的及跟其它语言比较作纵轴,展开叙述和简单分析。就中国近现代外语教育的变迁与日语学习、教学现状,与同时期其他国家语言的比较等,在一定程度上更清楚地展现“日本”在中国的存在意义。语言的学习动机(可以主动选择的情况下)表示学习者对这门语言使用国家(或地区)的需求,也可以说在某些程度能反映出这门语言使用国家(或地区)对学习者的价值所在
。 同时,从与其他外语相比较的视点,是为了从“在中国的世界各国中的日本”的观点进行考察。从日本来看常常只关注中国和日本两国的关系,但实际上,日本只不过是在中国活动的众多国家之一。因而,笔者认为将日本放置于在中国的众多国家之中,可更准确的看清日本的位置。
  中国的近代外语学习从清末开始,日语学习是从甲午战争以后开始。清末至民国赴日的留学生很多,不过日本可以说是作为“欧美的替代”而存在,日语在中国的定位是第二外语。在伪满洲等地区,依据殖民地政策进行了以国民为对象的日语教育和强制性的日语教育。
  新中国刚刚成立以后出现俄语一边倒现象,日语一般仅作为外交目的进行专业教育,从60年代开始英语作为第一外语的地位得到巩固。另一方面,大学里的日语专业教育也增加了。70年代后期、80年代左右日语学习正规化了,此时的日语学习主要是以经济上的实用性、学习先进的知识和技术等为背景。其后,在95年以后发展到在第二外语中学习人数为第一位,从2000年以后开始以对日本的亚文化和传统文化、日语本身、“日本”本身产生兴趣等为学习动机的学习者,作为第二外语的学习者增加了。
  英语作为国际性通用语言被重视的同时,近几年对于日本文化和“日本”感兴趣的日语学习者的动机有增加的倾向。清末开始的日语学习从“欧美的代替”过渡到实用性的地位,近年来再转变为对于“有日本特色的事物”感兴趣作为学习动机。大多数人是作为第二外语的学习者,日语教育中应该重视这些学习者,并组织进行更加适合的教育,这样将有助于加深他们对日本的理解,也有助于中日友好。
(1)因为台湾・香港等的历史的背景不同,本稿不能一同论述,在此的“中国”是指中国大陆。

渡辺直土(WATANABE Naoto,近畿大学中央図書館,大阪外国語大学博士2004)

胡錦濤政権の政治思想:「和諧社会」論を中心に
 本報告は現代中国政治を思想的課題としてとらえなおすことで、現代中国研究あるいは政治学研究に新たな知見を加えることをねらいとしている。改革・開放以降の中国においては、それ以前と比較して一次資料や現地調査へのアクセスが飛躍的に向上し、現代中国研究においてもそれらを活かした詳細な実証研究が多く蓄積され、現代中国を理解する上で大きく貢献してきた。しかし他方で、現地社会の詳細な情報収集に傾倒することにより、ディシプリンへの認識が不十分なままの「現地報告」的な研究も増加する傾向にあり、アカデミズムの対象として中国をとらえることの意味を再考する段階に到達しつつあるようにも思える。そこで、本報告では現代中国政治研究の領域において、政治思想分析として中国をとらえ、これらの課題にとりくんでみたい。
 本報国が考察の対象とする中心的な課題は現代中国政治における「正統性」あるいは「正当性」概念にある。中国共産党が支配する政治体制の「正統性」および「正当性」に関して、日本の現代中国研究においても様々な形で論じられてきた。しかし、論者によりその概念の用い方が多岐にわたり、議論が混乱しつつあり、かつそれに対して整理を行なう必要があるのも事実である。そこで、第一に現代中国政治に関する先行研究における「正統性」「正当性」概念の相違について分析し、第二に政治学において構築されてきた「正統性」「正当性」概念について、リプセットや山口定などの議論を中心に紹介したい。第三に、胡錦濤政権が提起した「和諧社会」論について、2006年10月の16期6中全会での「中共中央関於構建社会主義和諧社会若干重大問題的決定」の内容を中心に紹介し、合わせて中国の新聞、雑誌等での見方をいくつかとりあげて分析したい。その中で、中国共産党がその支配の「正統性」「正当性」をどのような形で再調達しようとしているのかを分析し、さらに現代中国政治研究と政治学の相互関係についても考察したい。

胡锦涛政权的政治思想:以“和谐社会”论为中心
  本报告的目的是通过重新列举现代中国政治的思想性课题,向现代中国研究或者政治学研究注入新的见解。与以前相比,改革・开放之后的中国,取得一次资料和进行现场调查的方法飞跃地提高了,在现代中国研究方面储存了许多有效利用这些的详细的证明研究,对于理解现代中国发挥了巨大的贡献。但在另一方面,由于过度热中于进行现场社会的详细情报收集, 具有在理论框架认识不足的情况下做‘现场报告’ 的研究倾向,好象可以认为逐渐到达了重新考虑以中国为学术研究对象的意义的阶段。因此,本报告位于现代中国政治研究的领域对中国进行政治思想分析,尝试研究此课题。
  作为本报告的研究对象的主要课题是现代中国政治中的‘正统性’或者‘正当性’ 概念。关于中国共产党支配的政治体制下的‘正统性’以及‘正当性’,在日本的现代中国研究学界中有各种各样地讨论。但是由于议论者不同其概念的用法多种多样,议论渐渐混乱,并且有必要对其进行整理之事以成为事实。所以,第一分析现代中国政治的现存研究中关于‘正统性’‘正当性’ 概念的不同,第二对于政治学上被认定的‘正统性’‘正当性’ 概念,以李普塞(Lipset)和山口定等的议论为中心进行介绍。第三对于胡锦涛政权提出了的“和諧社会” 论,以2006年10月的16届6中全会“中共中央关于构建社会主义和谐社会若干重大问题的決定”的内容为中心进行介绍,结合中国的报纸,杂志的若干看法进行分析。其中,分析中国共产党如何再筹措其支配的‘正统性’‘正当性’,还想更进一步地考察现代中国政治研究和政治学的相互关系。

台灣 東華大學・歷史學系

張力(中央研究院近代史研究所研究員,國立東華大學人文社會科學院院長)

中伊外交関係の再建(1943-1949)
 1941年7月1日、イタリア政府は汪兆銘の南京国民政府を承認すると宣言した。次の日、重慶国民政府とイタリアは断交した。1943年、ムッソリーニのファシズム政権が崩壊し、新しく成立した政府はその年の9月に連合軍に降伏した。この時、重慶国民政府はイタリアとの国交回復を計画し始めた。蒋介石はアメリカとイギリスが共同で起草したイタリアの降伏条項に同意していたが、政府高官と外国に駐在する使節に、イタリアに対する中国の外交政策を計画するよう命じた。一般に、中国はまずイタリアに満洲国と汪精衛南京国民政府の承認を撤回するよう要求し、続けて中国での治外法権と義和団事件の賠償金の放棄を宣言するよう求めたと言われる。イタリアはさらに天津の租界と奪い取った文物を中国に返還しなければならなかった。この他に、イタリアは戦争中イタリアに住んでいた華僑の損失を賠償し、中国在住のイタリア人の世話をした費用を中国政府に支払わなければならなかった。
 1944年、ヨーロッパ各国に駐在するイタリア人外交官と外国に駐在する中国人外交官は接触し、2国関係を再建する話し合いを進めた。話し合いの進展はおおむね中国政府の希望にあうものであった。1945年以降、国共内戦の勃発により、国民政府は国内の憂事を抱える中、たびたび外交政策の調整を強いられた。この時期の中伊関係の発展は、観察期間に相当したと言えよう。
 本稿は、主に台北国士舘所蔵の外交部档案に依拠して研究を進めている。前言と結論のほか、中国のイタリア降伏に対する反応、中国のイタリア承認決定、中伊友好条約の締結の3つに分けて議論を行う。

中義外交關係的重建,1943-1949
  1941年7月1日,義大利政府宣布承認汪兆銘之南京國民政府;次日,重慶國民政府與義大利絕交。1943年墨索里尼之法西斯政權垮台,新成了的政府於是年9月向聯合國投降。此時重慶國民政府開始規劃與義大利恢復邦交。蔣介石雖然同意美國和英國共同起草的義大利投降條款,但也命令其高層政府官員與駐外使節,籌思中國對義大利採取的外交政策。一般而言,中國首先要求義大利撤銷對滿洲國和汪精衛南京政府的承認,繼而宣布放棄在華治外法權與庚子賠款。義大利還需要將天津租界與奪取之文物歸還中國。此外,義大利應賠償戰爭時期旅居義大利華僑的損失,以及付給中國政府照顧在華義大利僑民的支出。
  1944年義大利駐歐洲國家的外交人員與中國駐外人員接觸,就重建雙邊關係進行談判。談判之進展大致符合中國政府的期望。1945年以後,因國共內戰爆發,國民政府在應付內憂的困境之中,不時被迫調整其外交政策。此一時期的中義關係發展,可作為一個觀察。
  本論文將主要依據台北國史館所藏外交部檔案,進行研究。除前言和結論外,將分成以下三個部份進行討論:中國對義大利投降之反應、中國之決定承認義大利、中義友好條約的簽訂。

The Resumption of the Diplomatic Relations between China and Italy, 1943-1949
The Nationalist Government at Chongqing served her diplomatic relations with Italy on July 2, 1941, when the latter accorded recognition to Wang Jinwei’s government in Nanjing. With the collapse of the Fascist government and the reestablishment of a new government in 1943, Italy surrendered to the United Nations in September 1943. At that time China planned to resume her diplomatic relations with Italian new government. Chiang Kai-shek agreed with the United States and Great Britain concerning draft terms of surrender for Italy. He also asked his senior advisors at home and abroad to deliberate on the policy China should adopt. In general, Italy must withdraw her diplomatic recognition of Manchukuo and Wang Ching-wei’s government at first. Then she was expected to renunciate extraterritorial rights in China, give up the Boxer indemnity, and return to China her concession in Tianjin and treasures she took in the Boxer rebellion. In addition, Italy should make reparation for damage of the Chinese in Italy and pay to the Chinese government for the Italians who lived in wartime China.
In 1944 Italian diplomats in some European countries approached Chinese counterparts for negotiating the resumption of bilateral relations. The development mostly followed China’s expectation. Since the civil war broke out, the Guomindang government sometimes adjusted its foreign policies. The Sino-Italian relations during that period might be a good example for case study.
The paper will be divided into three parts: “China’s Response to Italy’s Surrender”, “China’s Decision on Recognizing Italy”, and. Toward the Conclusion of a Sino-Italian Treaty of Amity.” And my discussion will be mainly based on Chinese diplomatic documents stored at the Academia Historica (Guoshiguan) in Taipei.

許育銘(國立東華大學歷史學系副教授兼系主任)

戦後処理と地政学下の国民政府対琉球政策
 1947年に国民政府行政院新聞局が出版した『琉球』という一冊の本がある。この本の結論は、「地理上から、台湾と海南島が中国海域上の目だとすると、琉球諸島と南西諸島は中国海域上の触角にあたり、欠くことはできない」というものである。このことから、第二次世界大戦後、四大列強の一国となった中国が、どのように「太平洋西岸の大国」を自任しつつ、戦後の中国が同盟国側の対日戦後処理プロセスの下で、太平洋区域の国防戦略と地政学においてあるべき設定対象と目標を定めていたのかということを、観察することができる。今日琉球諸島と西沙・南沙諸島は、いぜんとして中華民国或いは中華人民共和国にとって非常に重要な国防指標区域である。その中でも琉球は特別である。その理由として、一つには琉球は中国と悠久の歴史的関係を挙げうる。それは古代の「中華世界天朝秩序」や歴史遺産であり、伝統意識の影響力を今なお保っている。第二に、琉球には重要な戦略価値があり、国際政治競争と離すことはできない。さらに、戦前日本が東アジアの雄を唱えたのは琉球を手に入れたことから始まり、また琉球を失ったことによって終わったとさえ言えるのである。琉球問題に対して当時の国民政府はどのような認識を持っていたのだろうか?また戦後冷戦体制が形成された激変する国際情勢にあって、どのような対策をおこなったのであろうか?戦後処理(時間)と地政学(空間)の観点から、第一次資料を収集し、比較観察を行い、歴史的解釈の輪郭を描き出すことが、本研究の主要目的である。

戰後處理與地緣政治下的國政府對琉政策
  在1947年,國民政府的行政院新聞局出版有《琉球》一書,在該書的結論有一段話:「從地理上來說,如果把台灣和海南島比做中國海疆上的兩只眼睛,那麼琉球群島和西南沙群島就可以比為中國海疆上的兩個觸角,都是不可缺少的。」或許藉此,可以來觀察第二次大戰後,成為四強之一的中國,如何以「太平洋西岸的大國」自居?來擬定戰後中國在盟國對日戰後處理程序下,所應有的太平洋區域國防戰略與地緣政治的設定對象與目標。至今,琉球群島和西南沙群島仍然是,對中華民國或則是中華人民共和國而言,兩處極為重要的國防指標區域。其中特別是琉球,一是其與中國具有相當悠久的歷史淵源,是古代「中華世界天朝秩序」與歷史遺產,仍有傳統意識的影響力;二是其具備相當重要的戰略價值,難脫國際政治角力。甚至可以說戰前日本稱雄東亞自得琉球始,而也是至失琉球而終。對於琉球問題,當時的國民政府抱持如何的認識?並在戰後冷戰體制形成的激變國際局勢中作何種的對策?在戰後處理(時間)與地緣政治(空間)的角度下,進行第一手史料的收集,並進行初步的比較觀察,勾勒出歷史解釋,是本文研究的主要目的。

李道緝(國立東華大學歷史學系副教授)

華僑資本と税務改革:「中華民国華僑事業協進会」を中心に(1953-1974)
 民国42(1967)年5月、台湾の華僑資本企業者が「華僑資本工場組織会」を結成した。43(1968)年4月には「中華民国華僑資本生産事業促進会」と改組され、49(1974)年9月には〈投資奨励条例〉交付にあわせ、第7回会員大会を経て「中華民国華僑資本事業協進会」(以下、「僑資会」と称す)と名を変えた。僑資会成立の目的は、政府による華僑帰国投資の奨励政策に協調するためであり、その成立は華僑委員会の助言・指導によっていたことから、政府が民間において政策を進めた組織であったと言える。ゆえに僑資会の機能は実際には政策に追随している。
民国42(1967)年から政府が進めた一連の4年経済計画の内容は投資環境を改善することに重点がおかれ、またその間、僑資会は華僑資本企業が台湾に来て投資するのを助けることから積極的に投資環境の改善を主唱することに転じ、常に政府官員との面談や立法院の座談会等体制内の呼びかけを通して、主に税制改革を訴えたのであった。民国49(1974)年9月に交付された〈投資奨励条例〉は、その後の経済発展にとって重要な財政経済改革措置だったと言える。〈投資奨励条例〉の主な内容は二つあり、一つは投資者に税の減免の恩恵を与えること、二つには工業用地取得に便宜をはかることであった。この二つは正に数年来「僑資会」が政府に実施を訴えた重要な措置だったのである。
その実際の内容を精査すると、「僑資会」が数年来行ってきた活動の重点は、投資環境改善の提議、税収税制改善の提言、企業のトラブル解決の手助け等、政府制度関連の側面に他ならない。その活動の性質は、工商界の遊説団体、或いは圧力団体により近いと言える。しかも、僑資企業は一般の工商業界と違って、今なお「愛国」という政治アイデンティティのベールをまとっている。このことから、華僑資本企業が結成した団体である「僑資会」の意見は政府部門内では特に重みがあり、しばしば政府関連部門に対して改革の圧力となったのであった。

僑資與稅制改革:以「中華民國僑資事業協進會」為中心的探討(1953-1974)
  民國42年5月,在台僑資企業者發起組織「僑資工廠聯誼會」。43年4月,改組為「中華民國僑資生產事業促進會」, 49年9月,配合〈獎勵投資條例〉公布,經第七屆會員大會更名為「中華民國僑資事業協進會」(以下簡稱「僑資會」)。僑資會成立的目的,是為了配合政府鼓勵華僑回國投資的政策,而其成立,亦由僑委會輔導成立,可以說是政府推動政策在民間的組織,故僑資會的功能,實與政策亦步亦趨。
  自民國42年政府所進行的一系列4年經濟計劃,內容則多以改善投資環境為其重點,而在期間,僑資會從協助僑資企業來台投資轉而積極倡導投資環境的改善,不斷的透過與政府官員的訪談、立法院的座談會等體制內的呼籲,其中主要的訴求即稅制的改革。民國49年9月公布的〈獎勵投資條例〉,可說是對日後經濟發展至為重要的財政經濟改革措施。〈獎勵投資條例〉主要的內容有二項,一為給予投資者稅捐減免的優惠,二是便利工業用地的取得。而此二者,正是歷年來「僑資會」呼籲政府採納施行的兩項重點工作。
  故究其實際的工作內容,可以發現,「僑資會」歷年之重作重點,不外於倡議改善投資環境、建議改善稅收稅制、協助解決企業各項困難等與政府制度相關之層面。就其活動之性質,更接近於工商界之遊說團體或壓力團體。而且,僑資企業不似一般工商業界,它尚披了「愛國」的政治認同外衣,這使得由僑資企業結成團體的「僑資會」的意見,在政府部門中尤具分量,往往對政府相關部門造成改革的壓力。

陳進金(國立東華大學歷史學系助理教授)

中央への挑戦:両湖事変期における桂系軍人の和平と戦争
 1928年12月の東北易幟により、中国は形式上の統一を達成した。しかし国民政府は、軍隊を擁して自尊心が強く、領土を各々占領していた地方軍人を、どうしても完全に統率できずにいた。地方軍人勢力の発展を抑え、国家建設を軌道にのせるため、国民政府主席の蒋介石は軍備縮小を決心し、国軍の編制縮小を実施した。翌1929年元旦、国民政府は国軍編遣委員会を成立させ、国軍編遣会議を開き部隊の縮小再編に従事する準備をした。しかし地方軍人はこれを疑い、政府が彼らの軍事的権限権を弱めようと図っているのだと認識し、一連の中央への反抗へと行動を移した。北伐後形式上統一された局面は半年も維持できずに、再び内戦が開始された。
 1929年2月19日、武漢政治分会は湖南省政府を改組する決議をし、省主席の魯滌平を更迭し、何鍵を後任につけた。同時に第52師師長葉琪、第15師師長夏威に命じて兵を率いて鄂(湖北省)から湘(湖南省)に入らせ、長沙を占領し魯氏を江西に逃走させた。これが「両湖事変」である。両湖事変は国民革命軍の北伐が全国を統一した後はじめての地方軍人の行動であり、武漢政治分会が武力を用いて地方官僚の任免を強行したことはそれ自体、すでに国民党第二期五全会で政治分会の権限について定めた規定に違反しており、また国軍編遣会議の定めた各部隊が思い通りに振舞うことを禁ずる規定にも抵触している。この事件は南京中央による統治の権威に対する桂系軍人の挑発とみられている。これまでの「両湖事変」事件に関する研究は、ほとんどが関連人物の回想録に頼っているだけでオリジナルの檔案資料の証左が不足しているため、蒋介石或いは桂系軍人の和平と戦いの主張に関する具体的な検討が欠けている。本文は台湾国史舘所蔵の『蒋中正総統檔案』、『閻錫山檔案』等オリジナルの資料に基づいて、具体的に桂系軍人の両湖事変期間における和平と戦いの主張を分析する。
 両湖事変が始まると、桂系軍人の中で、和平か戦いかに分かれた。前者には李濟深、黃紹竑、後者には胡宗鐸、陶鈞、夏威等がいた。白崇禧は和平、戦い以外の第3派をなし「情勢観望派」に属していた。桂系軍人は和平と戦争に分かれていたが最後には南京中央と武力衝突となった。この結果を招いた鍵は李宗仁の主張にあった。

挑戰中央:兩湖事變期間桂系軍人的和與戰
  1928年12月東北易幟,中國達成形式上的統一,但國民政府仍然無法完全控制擁兵自重、割地自據的地方軍人。有鑒於此,為了抑制地方軍人勢力的發展,使國家建設能步上軌道;國民政府主席蔣介石乃決心裁減軍隊,實施國軍編遣。翌(1929)年元旦,國民政府成立國軍編遣委員會,召開國軍編遣會議,準備從事部隊縮編,卻引起地方軍人的猜疑,認為政府藉以削弱其軍權,遂有一連串反抗中央的行動。使北伐後形式一統的局面,維持不到半年,再啟內戰。
  1929年2月19日,武漢政治分會決議改組湖南省政府,撤換省主席魯滌平,以何鍵繼任;同時派第五十二師師長葉琪、第十五師師長夏威率兵由鄂入湘,進佔長沙,迫使魯氏遁走江西,是為「兩湖事變」。兩湖事變是國民革命軍北伐統一全國後,首次地方軍人的異動,武漢政治分會以武力方式強行任免地方官,已違反國民黨二屆五中全會對政治分會權限的規定,也抵觸了編遣會議各部隊不得擅自調動的規定。此一事件,被視為桂系軍人對南京中央統治權威的挑釁。以往有關「兩湖事變」事件的研究,大都僅能依賴相關人物的回憶錄,因缺乏原始檔案資料的佐證,對於蔣介石或桂系軍人和戰的態度,欠缺較具體的探討。本文即根據臺灣國史館所典藏的《蔣中正總統檔案》、《閻錫山檔案》等原始資料,來具體分析桂系軍人於兩湖事變期間的和戰態度。
  兩湖事變初起,桂系軍人中確有主和抑主戰之分,前者如李濟深、黃紹竑,後者如胡宗鐸、陶鈞、夏威等,至於白崇禧則為主和主戰以外的第三派,屬於「謀定而動派」。桂系軍人中雖有主和主戰之分,但最後仍然與南京中央兵戎相向,導致此一結果的關鍵則在於李宗仁的態度。

陳元朋(國立東華大學歷史學系助理教授)

身体、権力とアイデンティティー:中国文化における「身体」の実際と虚構 近代知識人の飲食テクストにおける身体の感覚と境界の構成
 本文は「身体感(身体の感覚)」(categories of body of experience)と「境界」(boundaries)の二つの角度から、宋代から清代にかけての知識人による飲食物をめぐるテクストに焦点を合わせ、細部にわたり検討し、そこから彼らの言論に存在する階級文化の意義と機能を発掘するものである。
 伝統的中国の飲食物に関するテクストというのは、ほとんどが宋代から始まり十分に計画研究対象となる性質を備えている。その著者の大半が知識人階級に属しているこれらのテクスト中では、「おいしい」ものは往々にして単純な「感覚器官」の議題とはならない。人類学的角度からみれば、この近世知識人によって発見された「身体感」というカテゴリーは、実際には相当程度、特定かつ長期の文化訓練によるものなのである。また本文は、北宋・南宋時代以降の飲食物のテクストにおけるカテゴリーを分析し、その間に存在した文化構成要素を探ることは、古代の知識人が飲食物を利用して「境界」を構築し、またそれによって人と自分の階級の差を区分していたという史実を我々が理解する助けとなるだろうと考える。
 本文の執筆は、古代飲食史料の史学研究にとっての価値を検証する意義も有している。長期にわたり、学界は常にこれらの史料の日常的通俗性のゆえに、その重要性を見落としてきており、またその単調な記述方式の制限をうけて、関連研究が故事来歴の類の範囲に限られてしまっている。しかしながら、「身体感」と「境界理論」を連動して観察することを通して、我々はこの一連の「旧史料」に「新しい生命」を与えることになるであろう。

身體、權力與認同:中國文化中「身體」的實際與虛構 近世士人飲饌文本中的身體感與邊界建構
  本文擬藉由「身體感」 (categories of body of experience)與「邊界」(boundaries)這兩個角度,針對宋清間的士人飲饌論述進行細部的研討,並從而發掘彼輩言論所具有的階級文化意義與功能。
  傳統中國的飲饌文本,大概自宋代開始,便具備了足以作為子計畫研究對象的體質。在撰著者大多屬於士人階級的這類文本中,「美味」之為物往往不是單純的「感官」議題。而從人類學的角度來看,這些被近世士人所揭櫫的「身體感」之感知項目(categories),其實有相當程度是源自於特定且長期的文化訓練。而本文以為,對兩宋以降的飲饌文本的感知項目(categories)進行分析,追索存在於其間的文化  構成要素,將有助於我們理解古代知識分子藉飲食以構築「邊界」並從而區分人我位階差異的史實。
本文的執行,還有著檢證古代飲食史料在史學研究上之價值的意義。長久以來,學界常因為這類史料的日常通俗性格而忽略其重要性,又或是受限於其單調的記述方式而使相關研究流於掌故之囿。然而,透過「身體感」與「邊界理論」的連動觀察,我們或許還能賦予這批「舊史料」以「新生命」。

蔣竹山(國立東華大學歷史學系助理教授)

新知識、新消費:清代の日中における人参消費に関する案内書の比較研究
 筆者は近年、清代の人参に関する研究で、大量の清代档案を利用し、清代における人参の消費と流通の歴史を検討した。この研究プロセスで、清代の乾隆・嘉慶年間の人参商品にいわゆるブランド化の現象があることを初歩的に見出した。清代の人参消費の特色の一つは人参専門書の出現である。人参消費について案内するこれら専門書の出現は、人参の消費が清代の乾隆・嘉慶年間において一つの新しい段階へ入ったことを示している。乾隆・嘉慶年間に、なぜ大量の消費案内書が出たのか?これは、その時期の人参の価格高騰に何か関連しているのだろうか?清代江南の『人参系譜』や『人参考』などの消費指南書は、人参販売商人が人参の品種を見分ける上で重要な根拠を提供するだけでなく、一般民衆のために人参の分類基準を作りあげた。この時の人参分類は、すでに遼参とは人参の総称にすぎないという所まで細かく、また、さまざまなブランドの遼参間に熾烈な商品競争があった。人参についての消費案内書は乾隆・嘉慶年間の人参流通と消費習慣の変革に豊富な情報を提供した。人参消費案内書は、鳳凰城、船廠、臺貨などいくつかの重要な人参ブランドを作り出しもした。
 この時期、清代中国で多くの人参専門書が出ただけでなく、中国の周辺国家である朝鮮や日本にも同様の現象があった。これら東亜国家の人参流通と消費と中国の関係は相当密接であり、日本と朝鮮は人参の品種に対する好みにおいて基本的に中国の人参市場消費スタイルの影響を受けているようだが、かすかに違いもある。これまで、時間と能力の制約上、筆者はただ清代中国地区の人参消費案内専門書の初歩的整理をしただけで、同時期の日本、韓国地区の人参専門書においてはまだ触れていない。本計画では、もとからある研究を基礎にして、まず清代中日の人参消費案内書に対して全面的な収集と整理を行い、清代中日の人参流通と消費文化の比較を進めることを希望している。
 筆者は日本が所蔵する人参消費案内専門書を比較研究することによって清代中日の人参消費文化の交流についてさらに認識を深められると望むものであり、のみならず、明清物質文化研究に対してさまざな研究視野を与えることを希望している。我々が検討したい課題は、清代の中日における人参消費案内書のテクストとしての特性、清代の人参医療知識の確立と消費文化との関連性、清代の中日における人参医療と消費知識の交流と影響である。

新知識、新消費:清代中日人參消費指南書籍的比較研究
  在筆者近幾年有關清代人參的研究中,曾利用大量的清代檔案探討清代人參的消費與流通的歷史。在研究過程中,曾初步發現清乾隆、嘉慶年間的人參商品有所謂品牌化的現象。清代的人參消費的特色之一是人參專書的出現。這些人參消費指南專書的出現代表了人參消費在清乾隆及嘉慶年間進入了一個新的階段。清乾隆及嘉慶年間為何會出現大量的消費性指南書籍?這與人參在那段時期的價格的昂貴有何關連?清代江南的《人參譜》與《人參考》消費指南專書不僅為人參銷售商人分辨人參品種提供了重要的參考依據,還為一般民眾建構出一套人參分類的標準。此時的人參分類已經細緻到遼參只是人參的一種統稱,不同品牌的遼參之間還有更為激烈的商品競爭。有關人參的消費指南書籍為乾隆與嘉慶年間人參流通與消費習慣的改化提供了豐富的訊息。人參消費指南書籍塑造了幾個重要的人參品牌:鳳凰城、船廠及臺貨。
  不僅清代中國在此時出現許多人參專書,就連中國的周邊國家朝鮮及日本亦有同樣的現象。這些東亞國家的人參流通與消費與中國的關係相當密切,基本上日本及朝鮮對人參品種的喜好似乎受中國的人參市場消費風格的影響,但又有些微的不同。以往限於時間及能力,筆者只對清代中國地區的人參消費指南專書做初步整理,對於同時期日本、韓國地區的人參專書並未觸及,本計畫希望能在舊有的研究基礎上,首先對清代中日的人參消費指南書籍,做全面的蒐集與整理,進而對清代中日的人參流通與消費文化進行比較。
筆者希望透過這些日本所藏人參消費指南專書的比較研究,不僅對清代中日的人參消費文化的交流有進一步的認識,還希望能對明清物質文  化研究提供不同的研究視野。我們欲探討的課題有:清代中日人參消費指南書籍的文本特性;清代人參醫療知識的建立與消費文化之間的關連性;清代中日人參醫療與消費知識的交流與影響。

天津 南开大学・历史学院

教师

李喜所(南开大学历史学院教授)

調整と理解:厳復の社会調和思想
 調和社会は人類共同のすばらしい探求である。厳復は中国近代の著名な啓蒙思想家として、調和社会を構築することに一連の鋭い論述をしているだけでなく、中国伝統儒家の「和合」、「中庸」思想を超越し、多くの挑戦的な現代的観念を提起した。彼の、調整をもって社会民衆の平等の競争を促進するという社会改革の思想、及び中国と西洋文化に精通することで国民自身が調和を保ちつつ民衆の素養・素質を高めようという国民性改造の主張は、きわめて独創的で意義深い。
 厳復は『天演論』で一挙に有名になった。『天演論』は競争をもって生存を求めるという自強の観念を伝えているため、多くの人は厳復が競争を重んじ、調和を重んじないと思っている。だが実のところ、厳復が述べる競争は手段に過ぎず、調和こそが目的なのである。「競争」は「天擇」に適応せねばならず、「適者」のみが「生存」できる。いわゆる「天擇」に適応するとは、自然と人類発展の規律に適合せねばならないということである。「天人合一」であってはじめて調和へと到れる。厳復によれば、矛盾は絶対であり競争は永久不変であり、調和とは矛盾と競争を回避することではない。キーポイントとなるのは合理的な社会メカニズムを構築することであり、それによりさまざまな矛盾を解決することができ、人々は公平で秩序ある競争をして、最終的には社会の発展と生活の調和に到達できるという。厳復が想定した社会メカニズムの核心は「尽性」であり、これはつまり人間の知恵と才能、それに自由と平等を追求する本性を十分に発揮させ、同時に協議と大勢が認める法律と各種制度を通してそれらの矛盾や紛糾を解決することである。これが「自由を体とし、民主を用とする」ことに他ならない。
 社会調整を促す新しい社会機構を創設しようとするなら、基本は高い素質をもった国民、つまり人である。それで厳復と同時代に生きた梁啓超、のちの魯迅はみな国民性の改造を重視した。事実上、人間の自己調和は特に重要である。というのも、人間自身が一つの矛盾した集合体であるので、個々の独立した個人が科学的に自分の矛盾を自分で解けて、調和した態度で社会に参与できてこそ、この社会は調和を保つことができる。このために厳復は「民の力を鼓舞し、民の智を開き、民の徳を新しくする」ということを提案した。いわゆる「民の力を鼓舞する」は、民衆の精神活力と進取の意思を高めることである。「民の智を開く」とは、民衆の知恵を開花させ、それに現代の科学知識と思考方式をもたせるものである。「民の徳を新しくする」とは現代国民の新しい道徳をもって封建的旧道徳の悪い根性を取り除くことである。明らかに、厳復の国民性改造は現代の新国民を作ることであった。だから厳復は中国と西洋文化の完全な理解を精一杯呼びかけた。厳復の基本構想とは次のようなものであった。中国と西洋の文化の集積を理解し、かつ現代教育を通じて、国民の調和という素質は一つの新しい水準に到達する見込みができるのである。

调适与会通:严复的社会和谐思想
  和谐社会是人类共同的美好追求。严复作为中国近代著名的启蒙思想家,不仅对构建和谐社会有一系列精辟的论述,而且超越了中国传统儒家的“和合”、“中庸”思想,提出了许多富有挑战性的现代观念。他的以调适促进社会民众平等竞争的社会改革思想,以及以中西文化会通达到国人自身和谐的提高民众素质的国民性改造主张,颇有创见,且意义深远。
  严复以《天演论》一举成名。《天演论》所传达的以竞争求生存的自强观念,使很多人会认为严复是讲竞争而不讲和谐的。其实,严复说的竞争只是手段,和谐才是目的。“物竟”是要适应“天择”,“适者”才可“生存”。所谓的适应“天择”就是要符合自然和人类发展的规律。“天人合一”才能达到和谐。在严复看来,矛盾是绝对的,竞争是永恒的,和谐并不是回避矛盾和竞争,关键是要创立一种合理的社会机制,能够化解各种矛盾,让人们可以公平有序地去竞争,最后达到社会发展和生活和谐。严复所设想的社会机制的核心是“尽性”,也就是充分发挥人们的智慧和才能以及追求自由、平等的本性,同时通过协商和公众认可的法律和各种制度去解决那些矛盾和纠纷,这就是“自由为体,民主为用”。
  要创建促进社会和谐的新的社会机制,最根本的是高素质的国民,也就是人。故而,严复和同时代的梁启超、后来的鲁迅都十分注重国民性的改造。事实上,人的自我和谐特别重要,因为人本身就是一个矛盾的集合体,只有当每个独立的个体能科学地化界自身的矛盾,以和谐姿态参与社会,这个社会才可能和谐。为此,严复提出了“鼓民力、开民智、新民德”。所谓“鼓民力”,就是提高民众的精神活力和进取意志;所谓“开民智”就是开发民众的智慧,使其具有现代的科学知识和思维方式;所谓“新民德”就是以现代国民的新道德去铲除封建旧道德的劣根性。显然,严复的国民性改造是要造就现代新国民。所以严复极力呼吁中西文化会通。严复的基本思路是:有了会通中西的文化积淀,再通过现代教育,国民的和谐素质就有望达到一个新水平。

江沛(历史学院教授)

清末中国人の鉄道に関する認識と論争について
 18世紀70年代初め、鉄道建設は中国で次第に現れ始めた。新式技術を取り入れた現代的な交通輸送手段として、その経済貿易の往来、軍事、行政コントロール、旅行、情報伝達、区域の橋渡し、ひいては国家民族融合等の面における多重的な価値は十分に明らかであり、社会構造の根本的変化に対して全面的な影響を与えた。鉄道運輸は土地占有、運輸手段の更新、職業の再構成、物資流通の方向性など多くの経済利益に及び、また政治コントロールや国家安全などの問題にも及ぶため、鉄道が導入された当初、国民の鉄道の利害に関する知識は多くなく、また鉄道の巨大な利益に対しての理解もなかったため、鉄道建設はいきおい、現実的利益や文化伝統及び道徳風俗の論争に陥らざるをえなかった。
 鉄道は清末に中国に伝えられて以後、その現代的特徴と機能とが中国伝統の技術意識や文化観念と大幅に異なったため、中国の伝統的交通運輸体系の知識体系に基づいたのでは、現代的交通運輸手段の巨大な効能を理解するすべはなかった。西洋列強が中国を侵略し、現代経済が東アジアを席巻するという特定の歴史条件の下、この認識上の無知と遅れ、それに自己保護の意識から成る極度の劣等感と行き過ぎた自尊心は、あてにならない噂の形で、鉄道に対する集団的な偏見を形成した。反対者はほとんどが鉄道の価値に対して理解が足りない。当然、このプロセスの中に見られるのは一方方向のベクトルのみではなく、鉄道という巨大な機能がもたらす効果と利益を前に、無知な排斥と観念の変革とが同時に進行していたのであり、そこに現れていたのは、変革と保守との並存というその時代の典型的な特徴であった。
 鉄道が中国に導入されるということそれ自体が、すでに現代科学の象徴であるとともに西洋列強侵略のアイコンでもあった。特に、西洋列強が鉄道借款を利用して鉄道利権を掌握し、鉄道建設を通じて勢力を大きく拡張したため、亡国の憂いを深める中国人にしてみれば、鉄道建設の利害を計る上で、まずもって排斥と抵抗の感情を呼び覚まされたわけだが、実際それも無理からぬことであったろう。世界経済一体化のプロセスが発展を続ける動向の中で、中国は態度をはっきりさせないわけにはいかないという点を理解する術がなかったため、ただ、国家の利益を十分に考慮し、外国勢力の侵入を抑制しようという前提だけに立って、清末の政治家及び知識人は、条件付きでようやく鉄道を受け入れた。このプロセスには、清末の中国人の、鉄道導入によって国家の進歩を追求し、ひいては国家主権を擁護しようという、「師夷長技以制夷」(訳注:夷の長技を師とし、以って夷を制す)の思考が含まれている。また、鉄道でもって国家の工業化を促し、ひいては「富国強兵」を目指そうという意識がおぼろげにではあるが目覚め始めたことも見て取れる。  同治元年、中国と外国の接触が多くなり、外国へ行く大臣の報告や台湾事件の刺激により、少なからぬ官僚が鉄道の持つ経済的・軍事的な価値の重要性を理解しはじめ、清廷に速やかに事業を興すよう次々と建議した。このとき鉄道建設に反対した声は、上層部の議論は鉄道運輸の機能が自然経済や既存の集団的利益と衝突することに関連して展開され、民間が更に多く論議したのは土地、職業的損失などの具体的利益及び風俗への影響にまつわることであり、鉄道建設の妨げにはさほどつながらなかった。
 清末の中国人による鉄道にまつわる議論の本質は、一面では無知な排斥と観念変革との争いであり、中国・外国間の国家利益の争いであり、国家と民衆の利益の衝突であった。また、鉄道と伝統的風俗・観念との間の紛糾でもあった。これら、利益と観念の衝突及び調整は、清末中国の現代化プロセスにおける各方面の利益の調整と協調を映し出し、同時に中国と西洋の文化的観念の衝突と融合のプロセスを典型的に反映しているとも言えよう。

清末国人有关铁路认识及论争述评
  18世纪70年代始,铁路建设在中国逐渐出现。作为一种采用新式技术的现代化交通运输工具,其在经贸往来、军事、行政控制、旅行、信息传递、区域沟通乃至国家民族融合等方面的多重价值十分明显,对社会结构的根本性变迁产生了全方位的影响。由于铁路运输涉及土地占有、运输工具更新、职业重构、物资流向等诸多经济利益,也涉及政治控制及国家安全等问题,在铁路引入之初,国人对铁路利弊所知不多,也无对铁路巨大利益的体会,铁路建设不可避免地陷入现实利益、文化传统及道德风俗的争论之中。
  铁路在清末传入中国后,因其所具有的现代性特征及功能,与中国传统的技术意识、文化观念均有极大差异,基于中国传统交通运输体系的知识体系,无法理解现代交通运输工具的巨大效能。在西方列强侵略中国、现代性经济席卷东亚的特定历史条件下,这种认识上的无知与落伍,与自我保护意识所形成的极度自卑与过分自尊意识,在道听途说形成了群体性的铁路歧见。反对者则多对铁路价值缺乏了解。当然,这一过程中并非只是单向度的,在铁路巨大功能所带来的效益面前,无知排斥与观念变革的并行,彰显的是那一时代变革与保守并存的典型特征。
  铁路引入中国,本身既是现代科技的象征,更是西方列强侵略的标志性符号,特别是西方诸强利用铁路借款把握路权、通过铁路建设极力扩张,都使深怀亡国之忧的国人,在对铁路建设的利弊权衡上产生了最初排斥与抵触,其实情有可原。因为无法理解中国不可能游移于世界经济一体化进程的发展趋势,只是在充分考虑国家利益并抑制外国势力深入的前提下,清末政治家及知识界人物才有条件地接受铁路,这一过程包含着清末国人以引进铁路谋求国家进步进而维护国家主权的“师夷长技以制夷”的思维,也包含着以铁路促进国家工业化进而“富国强兵”的意识朦胧觉醒。
  同治末年,由于中外接触较多,出洋大臣的报告及台湾事件的剌激,不少官员开始了解到铁路所具有的经济及军事的重要价值,纷纷建议清廷从速兴办。此时反对修建铁路的声音里,上层的讨论多围绕着铁路运输功能冲击自然经济、固有群体利益而展开,民间争议更多的是围绕着土地、职业损害等具体利益及影响风俗而展开,对于铁路建设的阻碍并无大的影响。 清末国人围绕铁路争议的本质,既有无知排斥与观念变革之争,中外国家利益之争,国家与民众利益的冲突,也有铁路与传统风俗、观念间的纠纷。这种利益与观念的冲突及调整,折射出清末中国现代化进程中各方利益的调整与协调,也是中西文化观念冲突与融合过程的典型反映。

李少兵(南开大学历史学院教授)

現代中国社会変動と東アジア新秩序
 1999年10月、私は香港のバプティスト大学で「中華人民共和国建国50周年国際学術シンポジウム」に参加し、ハーバード大学のEzra F. Vogel教授の「中国の飛躍と新世紀の東アジアにおける秩序」と題する講演を拝聴した。彼は、20世紀には日本が国力上実質的に東アジアのナンバーワンであったが、21世紀に入ると、中国の国力増長が予見できるため、どの国がアジアのナンバーワンかは言いがたくなり、中日間では明らかな競争関係が出てきたと述べた。
 2007年になると中国の国力は確かに目覚しく伸びた。これはGDPや国民購買力のような簡単な数字の問題のみならず、中国社会におけるいくつかの進歩的要素が積極的に牽引し、かつ総合的な影響をもたらしたことのなせる技と言える。 中国政府筋は中国が「社会主義初期段階」にあると述べ、一部の民間人士(訳注:共産党員でない社会的地位のある人)は中国が「ごった煮」の時期にあると考えている。このことが反映する実際の国情とは、中国には既に資本主義の初期要素があり、また封建主義の大海とそれに繋がる共産集権専制もあるということである。
 現代中国の社会変動の主な要因は市場経済の速い成長であり、中国のWTO加入の影響による汎行政化(訳注:社会において行政機能が過度に膨張し、その権力が極端に拡張する状態。Pan-administration。王世達「汎行政化略論」『開放導報』2003年02期[http://scholar.ilib.cn/Abstract.aspx?A=kfdb200302025])の後退、法治の初歩的な建設、民衆生活の自由度の増大、それに中産階級の成長でもある。
 これら進歩の要因は過去十数年間においては明らかな社会的効果を示し、将来の一定期間は自身も引き続き機能を発揮するであろう。しかし中国社会の深刻な変動の車輪は既に発動しており、たえず発展するには新しいさらに強力な動力を必要とする。しばし強力に押さえ込まれた民主化が、最終的にはその主要な要素になりうるのである。
 民主化が未来の予測可能な十年以内に中国大陸において真に実現することはないだろうから、中国大陸の社会が激変する可能性は比較的小さく、中国の東アジアにおける影響力は主としてやはり経済領域におけるものとなるであろう。
日本は国連の常任理事国ではないし、さらに歴史問題を遅々として解決することができず、いまだにドイツのように損害を被った国と和解できない。このため日本は早くに民主国家となっていたけれども、東アジアにおいては経済面での影響力を発揮するのみにとどまっている。
 21世紀の東アジア新秩序の中で、最も強大な二つの国家である中国と日本は、実際にはいずれも限界を抱えていて、影響力はすべて経済に偏っており、政治的には自国の「弱点や隠れた危険」のために、その影響は明らかではない。 現代中国の社会変動は、中国をすでに東アジアにおける日本の競争相手にまでせしめ、これに伴って東アジアの新しい秩序も出現した。しかし、このような「新しさ」には限界がある。総じていえば、国力と総合的影響力が最も強いアメリカが東アジア秩序ではやはり主導的地位を占めている。

现代中国社会变动与东亚新格局
  1999年10月我在香港浸会大学参加“中华人民共和国建国50周年国际学术研讨会”,聆听了哈佛大学傅高义教授关于“中国崛起与新世纪东亚格局”的演讲。他认为20世纪,日本在国力上是名符其实的亚洲第一,但进入21世纪,由于中国可以预见的国力增长,谁是亚洲第一,就很难说了,中日之间,会有明显的竞争关系。
  到2007年,中国的国力确实又有了显著提升,这并不只是国民生产总值或国民购买力这样的简单数字问题,而是中国社会一些进步因素的积极推动及其综合影响所促成。
  中国官方称中国处于“社会主义初级阶段”,一些民间人士认为它处在“大杂烩”时期。它反映的实际国情是中国既有资本主义的早期元素,也有封建主义的汪洋大海以及与其紧密结合的共产集权专制。
现代中国社会变动的主要进步因素,是市场经济的快速成长,中国加入WTO影响下泛行政化的减弱,法治的初步建设,民众生活自由度的提升和中产阶级的成长。
  这些进步因素在过去十几年间发挥了明显的社会功效,在未来一段时间自身也会壮大并继续发挥作用,但中国社会深刻变动的车轮既已启动,不断前进就需要新的更强劲的动力,暂时被强力压抑的民主化最终会成为其主导因素。
  由于民主化在未来可预见的十年里不会在中国大陆真正实施,中国大陆社会发生巨大变动的可能性较小,中国在东亚的影响力主要还是在经济领域。
  日本不是联合国常任理事国,在加上迟迟不能真正解决历史遗留问题,未能像德国那样真正与受害国和解,因此日本虽然早已是民主国家,但在东亚却也只能发挥一些经济影响力。
  在21世纪东亚的新格局中,最强大的两个国家中国和日本其实都有其局限性,影响力都偏于经济,在政治上都因自身的“软肋”而影响不彰。
  现代中国的社会变动,使中国已经可以和日本在东亚展开竞争,东亚新格局也因之出现。但这种“新”是有限度的。总的来说,国力和综合影响力最强的美国在东亚格局中仍会占据主导地位。

王先明(南开大学历史学院教授)

制度変遷、革命をめぐる語りと郷紳階層:20世紀前期における郷紳階層衰退の歴史的軌跡
 1901年以後、中国は新旧制度が競いあいぶつかりあう時代へ入った。制度変革と伝統的郷紳が相対する間には、大きな張力と動作・行為空間が存在し、またこれによって民国時代の国家と社会、地方の利益と中央の権威、また新制度と旧権威など多くの力と要素の角逐および相互作用に、十分な歴史的場面とめぐり合わせがもたらされた。
 1.「新政」を志向した制度変遷は、実際には郷紳権力が「体制化」に向かって拡大したことの制度的基礎を構成し、また郷紳権力の形成及びその「体制化」は「民変」と「紳民衝突」の制度的な根源を構成した。旧制から新制へと移行した郷紳たちは、さらに広い権力空間を獲得し、これによって形成された社会矛盾と利益衝突も絶えず蓄積されていった。したがって、制度変遷そのものを超越した社会運動―革命(あいついで起こった国民革命と新民主主義革命)は、遅かれ早かれ一つの歴史的機会を見出したのであった。
 2.清末期から民国にかけて、さまざまな地域における郷紳権力の構成やその活動状況はさまざまである。しかし我々はさまざまな地域からその共通する歴史的特長を抽出することができる。まず、官職と学歴を基盤とする文化的資源は、依然として地方権力構造の重要要素であった。その次に、紳士階層の分化もまた都市・農村の二元構造の特徴を端的に体現しており、しかも郷紳権力が制御・均衡関係を失ったことで、地方利益の衝突が激化した。第三に、郷紳権力の無秩序な拡張が地方利益の衝突の主な矛盾となっている。それゆえ、清王朝が制度的な意義上の革命対象として覆されたあと、社会に現存する一切の弊害は、社会の基礎的意義における革命の対象、すなわち紳士階層へと向かっていった。
 3.20世紀1920年代になると、伝統時代にはあらゆる社会的価値基準による崇拝の対象であった「紳士」階層は、その身が揺るぎ「全社会」の「公の敵」となった。新知識青年世代による革命をめぐる語りにおいては、「革命」の名におけるおよそありとあらゆる政治的選択の中で、伝統社会の遺物としての紳士は明らかに中国の「進歩的でない」ゆえんたる「階級」の力を構成しており、中国が立ち遅れているゆえんの根底であった。紳士階級は国民革命に、またその後のいっそう突っ込んだ革命の嵐に、必ずや席巻されるであろうと言われたのである。
 4.共産党が主導した農民運動は「大革命」時代にふさわしい疾風迅雷の激しさで、農会組織を中心として郷村政権を再建し、郷紳権力を剥奪するという目的を実現した。共産党人の従事する農民革命運動とは異なり、国家権力(国民政府権力)と地方社会の矛盾やもめごとが国民党の従事する農民運動の主要な力点となった。郷村社会の政権再建は不安定な変動を続ける歴史的時期に入った。
 5.「大革命」の退潮以降、国民党は「国民革命」期の政治的立場を大幅に調整し、「打倒劣紳」の政治的主張を放棄し、制度再建の路線を選択して国家権力の郷村社会への浸透を実施する方針へと転じた。しかし、国民党政権は保甲制の踏襲による郷村社会の支配という目標を達成できなかったのである。
 「大革命」後の共産党も、郷紳の政策について調整を行った。抗戦勝利後、共産党は農村において実施した土地革命と村政権の再建は、郷村の社会構造を根本的に改造し、郷紳権力が依存していた社会条件を掘り出し、伝統紳士階層はようやく最終的に郷村社会の権力構造から姿を消した。
 中国郷村社会について、とりわけ郷村の伝統的権力構造形態について言うなら、郷紳権勢が最終的に舞台を退いて、ようやく真に一つの時代の終結が示されたのである。 

制度变迁、革命话语与乡绅阶层:20世纪前期乡绅阶层消退的历史轨迹
  1901年以后,中国进入了一个新旧制度竞相更易的时代。在制度变革与传统乡绅的应对之间,存在着很大的张力和运作空间,并由此为民国时代的国家与社会、地方利益与中央权威、乃至新制度与旧权威诸多力量和要素的角力、互动提供了充足的历史场景和机缘。
  1,以“新政”为导向的制度变迁实际上构成了绅权走向“体制化”扩展的制度性基础,而权绅的形成及其“体制化”也就构成了“民变”或“绅民冲突”的制度性根源。从旧制走向新制的乡绅们,获得了更为广阔的权力空间,由此生成的社会矛盾和利益冲突也在不断地蓄积。因而,超越制度变迁本身的社会运动——革命(相继而起的国民革命和新民主主义革命),迟早会寻找到一个历史的机遇。
  2,在晚清至民国间不同的地域内,乡绅权力建构及其活动情况有所不同。但我们从不同的地域样本中可以抽取出其共性的历史特征。首先,基于功名和学历的文化资源,依然是地方权力结构中的重要因素。其次,士绅阶层的分化也突出体现为城乡二元结构特征,而且乡绅权力制衡关系的缺失导致地方利益冲突激化。第三,乡绅权力的无序扩张成为地方利益冲突的主要矛盾方面。所以,当清王朝作为制度意义上的革命对象被推翻后,现存社会的一切弊端就指向了作为社会基础意义上的革命对象——绅士阶层。
  3,到20世纪二十年代时,传统时代被整个社会价值取向所崇奉的“绅士”阶层,简直摇身而为“全社会”的“公敌”。在新知识青年一代的革命话语中,或者在所有以“革命”名义的政治选择中,作为传统社会遗存的绅士,显然构成了中国之所以“不进步”的一个“阶级”的力量,是中国之所以落后的根基。绅士阶层必将被国民革命和以后更为深入的革命风暴所席卷。
  4,以共产党为主导的农民运动构成了“大革命”时代的急风暴雨,并且以农会组织为中心重建乡村政权,实现剥夺乡绅权力的目标。与共产党人从事的农民革命运动有所不同,国家权力(国民政府权力)与地方社会的矛盾纠葛成为国民党从事农运的主要的着力点。乡村社会的政权重建进入了一个持续波动的历史时期。
  5,“大革命”退潮之后,国民党大幅调整了“国民革命”时期的政治立场,放弃了“打倒劣绅”的政治诉求,转而选择制度重建路径实施国家权力向乡村社会的渗透。但是,国民党政权并没能达到循保甲以控制乡村社会的目标。
  “大革命”之后的共产党对于乡绅的政策也有所调整。抗战胜利后共产党在农村实行的土地革命和村政权的重建,则从根本上改造了乡村社会结构,并挖掘了绅权赖以存在的社会条件,传统绅士阶层才最终在乡村社会的权力结构中消失。
  对于中国乡村社会,尤其是对于乡村传统权力结构型态而言,乡绅权势地位的最终退出,才真正标志了一个时代的终结。

侯杰(南开大学历史学院教授)

「人の治療」から「国の治療」へ:孫中山の東アジアにおける活動の探求と分析
 中国ブルジョア革命の先駆者である孫中山は広東で生まれたが、世界各地を歩き、東アジアとの関係は特に密接であった。注意すべきなのは、彼はここで「人の治療」から「国の治療」へと歴史的転換を完成させたということである。
 1866年、孫中山は広東香山県(今の中山市)翠亨村で生まれた。翠亨村は、マカオから30キロほどの位置にあり、東南部は遙かに香港と向かい合っている。特殊な地理のせいで孫中山は香港に勉学の地をもとめ、1883年、香港拔萃書室( Dioceson Home,Hong Kong)で英文学を専攻した。そのあと、彼は中央書院(The Central School)へ転校した。卒業後、孫中山は一度、広州博済医院付属南華医科学校に入り実習した。1887年9月、彼はまた香港西医書院(The College of Medicine for Chinese, Hong Kong)に転校して医学を学んだ。1892年7月、孫中山は優れた成績で卒業し、何穂田などの招きに応じてマカオへ渡り、9月にアモイで有名な鏡湖医院で西洋医学薬剤局の主任医師に就任した。同年12月に、孫中山は鏡湖医院理事の経済保証を得て、草堆街80号で「中西薬局」を開設した。これは中国人がマカオで開いた最初の民間の薬局であった。後に、議事亭前地14号で医院を開業し、マカオ人士はこれを「孫医館」とよんだ。孫中山は、その巧みで完璧な医術、医者としての徳の高さに加え、無料での診療や投薬を行ったためにマカオで評判となり、毎日診察を求めに多くの人が訪れた。
 しかし、孫中山は早くから「人への医療」だけでなく「国への医療」が必要であると考えていた。つまり、国家民族の「疫病」を治し救うことである。このために、孫中山は香港やマカオで多くの先輩や友人と付き合い、鄭藻如、鄭観応の改良主義思想は彼に大きな影響を与えていた。また、陳少白、楊鶴齢などの人物とは革命をとことん語り合い、「四大寇」と称された。1895年2月、彼は香港で興中会総部を成立させ、武装蜂起に備えた。それが失敗するとただちに日本に渡り、日本と浅からぬ絆を結ぶことになる。国を治療するために、孫中山は日本で日本の各界人士と付き合うだけでなく、青山で軍事学校を組織し、東京で中国同盟会を創立し、革命力を凝集し、革命活動を展開した。1907年、清朝政府の圧力の下、日本政府は孫中山に出国を求めた。しかし、彼は日本との連絡を中断しなかった。中華民国成立後、逝去する数ヶ月前まで、亡命し、中華革命党を組織し、また日本を経由して北上したことから、日本が孫中山の革命生涯で重要なのは明らかである。
 東アジアが孫中山を完成させ、またさまざまな地域がその歴史的運命に対して、同じ或いは多少違う機能や影響を生みだしたということは、同様に注目するに値する。

从“医人”到“医国”:孙中山在东亚的活动探析
  中国资产阶级革命的先行者孙中山生于广东,但行走于世界各地,与东亚的关系特别密切。值得注意的是,他在这里完成了从“医人”到“医国”的历史性转变。
  1866年,孙中山生于广东香山县(今中山市)翠亨村,据澳门30多公里,东南方与香港遥遥相对。特殊的地理位置,使孙中山可以到香港求学,1883年,孙中山考进了香港拔萃书室( Dioceson Home,Hong Kong)专攻英文。稍后,他又转学到中央书院(The Central School)。毕业后,孙中山一度进入广州博济医院附属南华医科学校实习。1887年9月,他又转到香港西医书院(The College of Medicine for Chinese,Hong Kong)学医。1892年7月,孙中山以优异成绩毕业,应何穗田等人的邀请来到澳门,并于9月开始在澳门著名的镜湖医院出任西药局首任义务医师。同年12月,孙中山获得镜湖医院董事的经济担保,在草堆街80号开设“中西药局”。这是中国人在澳门办的第一所私人药局。后又在议事亭前地14号行医,澳门人士称之为“孙医馆”。孙中山凭借精湛的医术、高尚的医德和为赠医送药而享誉澳门,每天求诊者络绎不绝。 然而,孙中山早就认识到不仅要“医人”,更要“医国”,即疗救国家民族的“疾病”。为此,孙中山在港澳结交了一批师长、朋友,郑藻如、郑观应的改良主义思想曾对他产生很大影响;而与尤列、陈少白、杨鹤龄等人畅谈革命,更被称为“四大寇”。1895年2月,他在香港成立了兴中会总部,准备武装起义。未果,遂转道日本,并与日本结下不解之缘。为医国,孙中山在日本不仅结交日本各界人士,在青山组织军事学校,而且还在东京创立中国同盟会,凝聚革命力量,开展革命活动。1907年,在清朝政府的压力下,日本政府要孙中山离境。但是,他与日本的联系一直没有中断。中华民国成立后直到逝世前数个月,孙中山还曾流亡,组建中华革命党,或取道日本北上,足见日本在孙中山革命生涯中的重要。
  东亚成就了孙中山,而不同地区对其历史命运还产生过相同或略有差异的作用与影响,同样值得关注。

李金铮(南开大学历史学院教授)

収入増加と絶対的貧困:近代河北省定県における農家の生活水準に関する考察
 1920、30年代の河北省定県の農家の生活状況は、近代中国農民の生活水準研究のために重要な例証を提供している。全体的に農家収入は増加の勢いにあるが、土地の占有或いは耕作植付面積が異なるため、収入はこれに随って差がある。収入の比較的少ないものは赤字となる。エンゲル係数によれば、農家の生活は絶対貧困型に属するが、飢餓状態に置かれている農民の食品の割合の増加は、往々にして生活の改善を意味する。各種の具体的な消費を見ると、食品の種類の中では米、小麦、雑穀を主としており、調味料は食塩を主とするが、少なからぬ農民が塩さえ買えない。肉・卵類の消費は豚肉を主とするが、食べられる者はごく少ない。農民の衣類も非常に劣悪で、住居は土の住居が多い。その上、農村各階層の消費における差異は、これまで想像されてきたように差が大きいわけではない。農民消費の中にすでに現代的工業製品の要素が浸透し始めたことは否定できないが、普通の農民に対する影響は大きくなく、これを根拠に農民生活水準の向上を説明することはなおさらできないのであり、いわゆる農民生活水準が明らかに改善したという観点は、推敲に値しない。

收入增长与绝对贫困:近代冀中定县农家生活水平考
  20世纪二三十年代冀中定县农家生活状况,为近代中国农民生活水平研究提供了重要例证。总体说来农家收入处于增加之势,但因占有或耕种土地面积不同,收入也随之有别,收入较少者多入不敷出。按恩格尔系数衡量,农家生活几都属于绝对贫困型,但处于饥饿状态下的农民,食品比例的增加又往往意味着生活的改善。从各类具体消费看,食品类中又以米面杂粮为主,调和类以食盐为主,不少农民连盐都买不起,肉蛋类消费以猪肉为主,但食者极少。农民的穿着也非常恶劣,住房以土房居多。不仅如此,农村各阶层的消费差别也非以往所想象的那样悬殊。不可否认,农民消费中已开始渗入现代工业品因素,但对普通农民影响不大,更不能据之说明农民生活水平的提高,所谓农民生活水平明显改善的观点经不起推敲。

李永胜(南开大学历史学院副教授)

列強が1923年に中国「商標法」を認めた経過
 中国近代商法の制定と列強各国の制定には直接の関係がある。1902年の「中英続議通商行船条約」と1903年の「中美通商行船続訂条約」、「中日通商行船続約」では、清政府は外国商標を保護すると規定した。各国公使の催促のもと、清政府は1904年に「商標注冊試辦章程」(商標登録を試験的に行う計画)を頒布した。しかし各国はこの「商標注冊試辦章程」に対して不満の意を表し、さまざまな修正意見を提出し、この章程に対して改正を要求した。しかしさまざまな要素の制約を受け、1923年まで中国政府は新しい商標法律を公布することができなかった。
 1923年5月3日、中華民国大総統が命令を発布し、「商標法」が公布施行された。この後、北京政府外交部は各国の駐華公使に覚書を提出し、各国の商人が商標法令に従って商標局に彼らの商標を登録するよう要求した。各国公使は「商標法」について本国政府の同意を得ずに頒布するやり方に対して不満を表明した。彼らはすぐに中国「商標法」を本国政府に報告すると同時に「商標法」が彼らの条約権利に侵入することのないよう要求した。後に各国公使は4項目に渡る具体的な要求を提出した。それは、商標局が外国顧問を任用すること、「商標公報」に英文公報を付けること、もともと税関で申請した商標には登録の優先権があること、中国商標局は外国商人の商標登録代理人を取り替えることはできない、というものであった。外国顧問を任用する件では、北京政府は努力をしたが、実現することはなかった。商標公報に英文商標公報をつけることは、すぐに実現した。北京政府は、以前に税関で申請した商標には登録の優先権があることに同意した。外国商人の商標登録代理人の件に関しては、北京政府は各国公使に説明して、代理人が代理能力を失った状況の時のみ取り替えるとした。本国商人の利益を確保するため、各国公使は最終的には本国の商人に中国の「商標法」を遵守させることに同意した。1926年末になって、各国の駐華公使はあいついで北京政府外交部に覚書を提出し、中国の「商標法」を承認した。しかし日本は「中国商標法」を条件付きで承認するとし、商標局に日本顧問を任用するよう要求した。日本の要求は北京政府外交部によって拒否された。
 1923年5月3日、中国の「商標法」が公布されるとともに各国によって承認されたことは、中国と外国間の20余年間にわたる闘争と妥協の結果であった。そこでは、この問題をめぐる各国の激烈な衝突が織りなされたのである。列強各国が「商標法」に承認したことには重要な意義があった。中国政府が中国と外国商人の商標に対する保護を行うことに法的根拠が付与されたことで、各国間および中国と外国間の商標をめぐる紛争の解決が容易になり、経済発展に有利になった。

列强承认1923年中国《商标法》之经过
  中国近代商标法的制定与列强各国的要求有着直接的联系。1902年《中英续议通商行船条约》和1903年《中美通商行船续订条约》、《中日通商行船续约》规定,清政府对外国商标进行保护。在各国公使的催促下,清政府1904年颁布《商标注册试办章程》。但各国对此《商标注册试办章程》表示不满意,提出各种修改意见,要求对此章程进行修改。但受种种因素制约,一直到1923年前,中国政府一直未能颁行新的商标法律。
  1923年5月3日,中华民国大总统发布命令,公布施行《商标法》。此后,北京政府外交部,照会各国驻华公使,要求各国商人依照商标法令到商标局注册他们的商标。各国公使对于《商标法》未经其本国政府同意即行颁布的做法表示不满。他们在将中国《商标法》报告本国政府同时,要求《商标法》不能侵及他们的条约权利。后来,各国公使又提出四项具体要求。他们要求商标局要聘用外国顾问,《商标公报》附刊英文公报,原在海关挂号之商标有注册的优先权,中国商标局不能更换外国商人的商标注册代理人。对于聘用外国顾问一事,北京政府曾做过努力,但后来并未成为事实。商标公报附刊英文商标公报,很快付诸实现。北京政府同意前在海关挂号的商标有注册的优先权。对于外商的商标注册代理人,北京政府向各国公使解释说,只是在代理人失去代理能力情况下才加以更换。为了确保本国商人的利益,各国公使最终同意令本国商人遵守中国《商标法》。到1926年底,各国驻华公使先后照会北京政府外交部,承认中国《商标法》。但日本承认中国《商标法》附有条件,要求商标局聘用日本顾问。日本的要求被北京政府外交部拒绝。
  1923年5月3日中国《商标法》的公布和被各国所承认,是中外之间长达二十余年的斗争和妥协的结果。其中也交织着各国在此问题上的激烈冲突。列强各国承认《商标法》,具有重要意义。中国政府对中外商人的商标进行保护有了法律依据,这便于解决各国之间和中外之间的商标纠纷,有利于经济的发展。

张伟伟(南开大学历史学院副教授)

中心なきグローバル史観から見る近現代中国と東アジアの新秩序
 ヨーロッパ・西洋中心論の世界史の教育・研究体制の中、近現代中国と東アジアはずっと周辺の地位に置かれてきた。民族的優越感に支配された西洋の学者およびその論述の影響下にある東洋の学者はずっと民族劣等感の影の中、自らを落後者と認識している。そして、まさにアメリカの学者であるピーター・グランド(音訳)が言うように、「ヨーロッパ以外の学者はどのように主流の理論に関係するのか?現代と現代性観念について話す権利を奪われたあと、主流の理論の影響を受けたヨーロッパ以外の学者たちは実証主義からロマン主義へと転向し、それゆえ黄金時代を構想して穴埋めに余念がなく、その文明の周縁化を推し進める一方でその連結点としての機能を認めるのみの主流の理論には少しも影響を及ぼしていないかのようである」。多くの中国や東アジアの学者は知ってか知らずか自己の文明の評価を下げて、「西洋」文明の「優秀さ」を拡大し高め、自己の文明の「欠点」を暴き批判する。そして他の人や自分によって理想化され完璧にされた「西洋」の「優秀さ」と「東洋」の「欠点」を比較することによって自己の文明のみすぼらしさを恥ずかしく思うのである。民族的優越感と民族的劣等感の二つが繋がった東洋の学者は「民族国家」を抜け出し、世界の人類全体の発展史のプロセスから、地球史の「待つべき」発展と、各「民族国家」が地球史の中で個々の「機能体」として中心なき全体において他の部分と相互に作用し発展する歴史を読み取るしかなく、そうしてこそ、地球史および各「民族国家」の歴史を客観的肯定的に描写し解釈でき、ヨーロッパ・西洋中心の捻じ曲がった歴史の真の姿を取り戻し、グローバルな歴史と各民族国家の歴史の本来の面目を取り戻せるのである。
 中心なき地球史において、近現代中国と東アジアは積極的に活躍した機能体であり、人類文明全体の発展に対し、その他の部分と同様に欠かせない機能を果たしている。地球史の発展を促進する「力を合わせる」構成部分として、その「待つべき」発展は地球史全体の発展において作用するだけでなく、地球史全体の発展の直接的な影響のもと、自身の歴史を形作ってもいる。中心なき地球史という視覚から近現代中国社会の発展と東アジア新秩序を認識するならば、伝統的な「中心/周辺」理論や「文明伝播論」といった体系下の世界史や民族国家史とはまったく異なる結論と見方が必然的に出てくる。たとえば、近現代(ヨーロッパ史の意味では1500年~、中国史においては1840年~)史においては、「西洋がそびえたつ」理論は完璧に近いようであり、「西洋がそびえたつ」ことを際立たせるために「東洋の零落」が当然のことながら「紅い花」を浮き上がらせる「緑の葉」となった。では「西洋」は一体いつ「進んだ」のであり、東洋は一体いつ「遅れ」たのであろうか。「進んでいる」と「遅れている」の基準はどこか?アヘン戦争の軍事的失敗が中国「文明」の「遅れ」を証明できるのだろうか?中国と東アジアのその他の国家はそもそも「遅れ」たからこそ「殴られたのか」それとも「進んで」いて「富裕」だからこそ殴られたのか?中国と西洋はそもそも「大分流」なのか「大合流」なのか?多くの似たような問題の答えは依然として同じ事でも各人によって見方は異なり、反省検討する価値がある。
 1500年以来、特に19世紀中頃から中国と日本の歴史的発展はかつてないほどの速度で進展し、また迅速に「そびえたっている」中で、一連の深刻な社会改革を経験した。その規模は大きく、そのテンポの速さはかつてなく、「西洋」にひけをとらない。最後に中国は社会主義の道を行き、日本はわけがわからないまま「西洋」国家にされた。2回の世界大戦前後の東アジア秩序の変化はグローバルな全体秩序の変化の待つべき構成部分でしかなかった。東アジア新秩序はグローバルな新秩序の変化に影響を及ぼしつつ、グローバルな新秩序の制約を受けてもおり、互いに補完しあい、大勢のしからしむるところである。つまり、中心なき地球史の理念でもって、中国と東アジアに発生した一切はあるいは人類全体と各民族国家の個別の発展に対してより深く真実の悟りを秘めているということを読み取るならば、これまでとは違うホログラフィック(立体的)な歴史図絵が見えることとなる。

无中心全球史中的近现代中国与东亚新格局
  欧洲/西方中心论的世界历史教学和研究体系中,近现代中国和东亚一直处于边缘位置。民族优越感支配下的西方学者及其论著影响下的东方学者一直处于民族自卑感的阴影中,自认落后。于是,正如美国学者彼得•格兰所言:“非欧洲学者如何参与主流理论呢?在被剥夺了对现代和现代性观念的话语权之后,主流理论影响下的非欧洲学者们从实证主义转向浪漫主义,从而构想出黄金时代作为补偿,似乎一点也不影响推崇将其文明边缘化而只承认其联接点作用的主流理论。”许多中国和东亚学者自觉不自觉地贬低自己的文明,放大和抬高“西方”文明的“优点”,揭露和批判自身文明的“缺点”,在以被别人或自己理想化完美化的“西方”“优点”与“东方”“缺点”的比较中自惭形秽。民族优越感和民族自卑感孪生情结中的东方学者只有走出“民族国家”,从全球人类整体发展史的过程去读解全球史“有待而然”的发展和各自“民族国家”作为全球史中各个“功能体”在无中心的整体中与其他部分相互作用并发展的历史,才能客观中肯地描述和解释全球史和各自“民族国家”历史,恢复被欧洲/西方中心论扭曲了的历史真相,还全球史和各个民族国家历史的本来面目。
  在无中心全球史中,近现代中国和东亚是积极活跃的功能体,对人类文明的整体发展起着和其他部分同样不可或缺的功能。作为推动全球史发展的“合力”的组成部分,其“有待而然”的发展不仅作用于全球史的整体发展也在全球史整体发展的直接影响下塑造自身的历史。从无中心全球史视角认识近现代中国社会发展和东亚新格局必然得出与传统“核心/边缘”理论和“文明传播论”体系下的世界历史和民族国家历史中迥然不同的结论和看法。例如,在近现代(欧洲史意义上的1500-,中国史意义上的1840-)历史上,“西方崛起”的理论似乎近乎完美,为了彰显“西方的崛起”,“东方的衰落”理所当然成了衬托“红花”的“绿叶”。那么,“西方”到底是在什么时候才“先进”的,东方到底是在何时“落后”的,“先进”和“落后”的标准何在?鸦片战争的军事失败是否能证明中国“文明”的落后?中国和东亚其他国家到底是由于“落后”才“挨打”,还是由于“先进”和“富有”才挨打?中国和西方到底是“大分流”还是“大合流”?许多类似的问题的答案依然见仁见智,值得反思商榷。
  1500年以来,特别是19世纪中叶以来,中国和日本的历史发展速度空前提高,也都在迅速“崛起”,经历了一系列深刻的社会变革,其规模之大,节奏之快实为空前,不逊于“西方”。最终,中国走上了社会主义道路。日本莫名其妙地被当成了“西方”国家。两次世界大战前后东亚格局的变化只是全球整体格局变化有待而然的组成部分,东亚新格局既影响全球新格局的变化,又受全球新格局化的制约,相辅相成,大势使然。所以,以无中心全球史理念读解发生在中国和东亚的一切或许会对人类整体和各民族国家个体的发展有更深刻真实的感悟,看到不同以往的全息历史图画。

毛立坤(南开大学历史学院讲师)

晩清時期における中国の対外貿易の新局面:香港中継貿易を例として(1869-1911)
 晩清期中国の対外貿易における空間的局面には、大きな変化が現れた。全国の対外貿易の中心は広州から次第に北に移り上海に至った。中国沿海で唯一上海と覇を争える港は香港だけであり、これは香港の地理的優位と貿易対象範囲の広さによるところが大きく、香港中継貿易の出現は中国沿海、特に華南と西南地区に対し、きわめて大きな影響を与えた。本稿は香港中継貿易が最盛期に入った60年代末を切り口として、晩清期の香港が伝統的および近代化した交通・金融・商業ネットワークの力を借りて、大量の輸出入貨物に対して発揮した集散中継の機能について研究する。中継貿易の興隆は逆に香港の都市経済そのものの繁栄を促進し、中国沿海、特に華南と西南地区の輸出重視型経済の発展を積極的に展開する牽引車となった。
 本稿はまず香港の対中国中継貿易の空間的差異や相対的特徴について検討する。貿易額を尺度にして香港の国内主要貿易港との順位を若干の時期ごとに区分し、香港と各地の貿易構造の特徴及び差異を簡単に列挙する。そこに含まれるのは、雲南との鉱産物貿易、広西との山地商品貿易、広東との「日用」消費財と「かさばって重い」消費品貿易、福建との大量の日用品と華僑の必要品貿易、台湾との樟脳貿易、上海との多様化する大量貿易、天津との兵器弾薬や機械設備貿易、煙台との高麗人参中継貿易、盛京との豆商品、砂糖、金属貿易などである。その後、香港が各地区との貿易往来において発揮した共通の機能、つまり香港の対中中継貿易における比較的際立った幾つかの特徴をまとめる。その後、5つの区域(広東・広西、福建浙江台湾、上海、北方渤海周囲、西南)に分け、それら各区域と香港貿易の展開形式を詳細に検討する。最後に、中継貿易が香港の経済繁栄に対してもたらした影響をまとめる。水上運輸事業、金融、為替、抵当業の発展、北米貿易に従事する「金山庄」を含んで広く南北両地域との貿易を行う「南北行」の出現、都市経済の発展、外国人経営商社の香港における経営活動、華商(買弁を含む)の勃興などをめぐって論述を展開する。
東部沿海各地区および西南内陸部と香港との間の貿易関係をなるべく正確に復元することに基礎を置きながら、汪敬虞や林满红による貿易の経済発展に及ぼす利害をめぐる論争や、吴承明による市場要素の強調、アメリカの郝延平や台湾の王良行、それに大陸の聂宝璋による商権問題に関する議論、また吴松弟が経済地理学の角度から提示した中国経済現代化の糸口を再検討し、これらの理論に対して検証を行い、修正と補充を加えたい。

晚清时期中国对外贸易的新格局:以香港转口贸易为例(1869-1911)
  晚清时期中国对外贸易的空间格局发生了很大变化,全国对外贸易枢纽由广州逐渐北移至上海。在中国沿海唯一能与上海争雄的口岸只有香港,这得益于香港优越的地理位置及广阔的贸易辐射面,香港转口贸易的兴起对中国沿海特别是华南和西南地区影响极大。本文从香港转口贸易进入兴盛期的60年代末切入,研究晚清时期香港借助于传统和近代化的交通、金融和商业网络,对大批量进出口货物发挥的集散转口功能。转口贸易的兴盛又反过来促进了香港城市经济本身的繁荣,使其成为拉动中国沿海特别是华南和西南地区外向型经济发展的火车头。
  本文首先探讨香港对华转口贸易的空间差异性和总体特点。以贸易额为尺度区分若干时期香港在国内主要贸易对象港的排名先后,简要列举香港与各地贸易结构的特色及差异,包括对云南的矿产品贸易,对广西的山地货贸易,对广东的“快速”消费品和“笨重”消费品贸易,对福建的大宗日用品和侨需品贸易,对台湾的樟脑贸易,对上海多样化的大宗贸易,对天津的军火和机械设备贸易,对烟台的高丽参转口贸易,对盛京的豆货、糖和金属贸易等。然后总结香港在面向各地区的贸易往来中所发挥的一些共同功能,也就是香港对华转口贸易比较突出的几个特点。然后分5个区域(两广、闽浙台、上海、北方环渤海、西南),详尽探讨其与香港贸易的展开形式。最后总结转口贸易对香港城市经济繁荣带来的影响。围绕贸易对航运业、金融、汇兑、典当业的推动,金山庄和南北行的兴起,城市经济的发展,洋行在香港的经营活动,华商(包括买办)的兴起等等展开论述。
  在尽可能准确地恢复东部沿海各个地区和西南内陆与香港之间贸易关系原貌的基础上,反观汪敬虞和林满红关于贸易对经济发展所生利弊的几点争论,吴承明对市场因素的强调,美国的郝延平、台湾王良行、大陆聂宝璋有关商权问题的一些讨论,还有吴松弟从经济地理学角度提出的中国经济现代化的线索,对这些理论做一些检验、修正和补充

邓丽兰(南开大学历史学院副教授)

憲法制定権の危機と民初における権力制度化の失敗
 憲法制定は現代国家立国の「第一の事実」である。新政権が成立して初の憲法は、通常、一国の政治体制の基礎を定めると同時に、その他の政治権力、組織、行為に合法性を与える。民国の憲政史上、憲法は何度も倒れては起き上がり、憲法制定権問題は終始一貫した問題となった。
 北京政府時期の憲法制定危機は、まず、各派の政治勢力の間で国会草憲、専門家による草案、政府草案等、違った起草方式をめぐる論争として表れ、国会草憲が優勢を占めた。
 憲法制定権の危機は、次いで、国会による憲法制定の長期化と紛争、そしてついには国会が憲法制定機関としての合法性を喪失したことに表れた。憲法制定権の危機は一つには民間の憲法制定活動の出現が国会によう憲法制定の合法性と衝突したことに表れ、二つには国会が賄賂をもらったために合法性を失い、同時に憲法制定権を失ったことに表れた。民国第一部が正式に憲法を公布した時、国会の憲法制定権はすでに世論の多数の認めるところではなくなっていた。たとえ国会自身が民意に助けを求めて合法性を回復せざるを得なくなったにせよ、それもすでに不可能であった。国会の失敗と憲法の失敗は互いに関係しあい、互いに因果関係を及ぼしあっていた。
 段祺瑞の執政時期には、国会と憲法制定はすでに世論の関心を集める焦点とはならなかった。憲法制定はただ個別の政治派閥の立法行為となり、当時の社会の主要な政治勢力からは拒絶されたのである。これより先、民国の政治は国会もなく憲法も持ち合わせない時期に入り、憲政民主メカニズムの礎は瓦解した。
 民国初期において憲法制定権の危機から脱することができなかった原因を究明すると、国会から独立した専門の憲法制定機関を作れず、立憲過程における政治実力の対比を軽視し、国会自身が憲法制定の使命を疎かにし堕落してしまったこと、及び直接民権の思想傾向が奮起したことにあると言えよう。憲法制定の失敗は、雪崩式に制度の瓦解を招き、民国初期の制度移行は最終的には失敗となった。

制宪权危机与民初权力制度化的失败
  制宪为现代国家立国之“第一事实”。新政权建立的首部宪法通常奠定了一国政治体制的基础,同时也赋予其他政治权力、组织、行为的合法性。民国宪政史上,宪法屡仆屡起,制宪权问题也成为一个贯穿始终的问题。
  北京政府时期的制宪权危机,首先表现在各派政治势力围绕国会草宪、专家草宪、政府草宪等不同起草方式的争论,国会草宪占了上风。
  制宪权危机继而表现为国会制宪的延宕与纷争、国会作为制宪机关合法性的丧失。制宪权危机一则表现为民间制宪活动的兴起冲击了国会制宪的合法性,二则表现为国会因贿选而丧失合法性,同时也丧失制宪权。当民国第一部正式宪法公布时,国会的制宪权已不为多数舆论所认同。即便国会自身也不得不求助于民意来恢复合法性,但已不可能。国会的失败与宪法的失败相辅相成,互为因果。
  段祺瑞执政时期,国会与制宪本都不再成为舆论关注的焦点,制宪仅仅成为个别政治派系的立法行为,而为当时社会的主要政治力量拒绝。自此,民国政治走入一段既无国会,也无宪法的时期。宪政民主机制的基石自此瓦解。
  民初制宪权危机未必能化解,究其原因,则在于未能建立独立于国会的专门制宪机关,忽视立宪过程中政治实力的对比,国会自身对于制宪使命的疏忽与腐化,以及直接民权思潮的兴起。制宪失败导致雪崩式的制度瓦解,民初制度移植最终失败。

赵永东(南开大学高等教育研究所副研究员)

高等教育の市場化:中日比較の視角
 20世紀末から21世紀に至り、世界の高等教育の「市場化」は大変な勢いで前進した。しかし、高等教育機構と市場・政府間の関係には、各国家・地区に違いが存在する。中国の高等教育状況については、最近の20年ほどで、中国の高等教育は自国の独特な方式で迅速に発展し、世界各国の学者の注目を引き起こし、また国外の中国研究及び中国高等教育に対しする強烈な関心も引き起こした。1998年から1999年に開始された中国高等教育は最も新しい発展段階に入った。このような「新しさ」は高等教育の規模の急激な拡大という面に現れているだけでなく、さらに重要なことが市場化と国際化を主要な特徴とする高等教育の改革に現れている。しかしこのような改革がなぜ中国という土地に起こったのだろう?この改革がどのような構造上の変化を伴うのだろうか?現在の中国の高等教育規模の拡張と日本の歴史上に現れた高等教育の規模拡大にはどのような違いがあるのか、本稿は高等教育市場化の背景と構造を整理して、これを基礎にして中国と日本の特質について比較を行う。中日の学者の批評とご指摘を賜りたい。
一.高等教育市場化の背景
 中世期ヨーロッパを起源とする「大学」には、19世紀末の近代国家形成に伴って大きな変化が生じ、近代の大学には「国家施設」型、「私立大学」型と「政府委託」型の3種類が現れるようになった。しかし、福祉国家政策の拡大と政府の義務的支出の増加により、特に人口構成が高齢化した工業発達国家においては、政府はその支出項目を抑えざるをえなくなり、高等教育もまた例外ではなかったのである。こうして、近代大の学の危機と機能の弱体化が引き起こされた。このような状況のもと、高等教育はより効率的に経営し、拡大し変化する社会需要により密接に対応しなければならなくなり、そこで以下の状況が現れた。
1.教育の市場化。90年代末期に現れた高等教育改革の基本的特徴は、高等教育が個人負担への依存度を徐々に増し、政府の財政投資の増加を限定的にしたことである。このような状況の下、まず思い至るのは学費の徴収である。同時に、ある高等学校は「二級学院」と呼ばれる教育機関を設置した。その他に90年代に入って、民営の高等教育も急速に発展した。
2.研究の市場化。中国の学術研究は、本来は研究所(Academy)の職責である。しかし90年代には、高等教育機関の研究領域において現代化の改革と建設が開始された。「211工程」と「985工程」計画の提出と実施にあたり、政府は北京大学や清華大学等の大学に多額の投資を行った。高等学校ごとの政府予算の配分は停滞して前進しないものの、90年代末期から競争的科研経費の比例は大幅に増大した。 二、中日比較
 高等教育の市場化は疑いなく世界の趨勢であるが、この時代の趨勢の最前列にいると言えるのは中国の高等教育改革である。中国は社会需要に基づいて自己行為を絶えず調整することができる高等教育の基層組織を形成し、同時に当該体制は教師が携わる教育と研究の原動力を活性化した。日本を見てみると、1960年代、日本の高等教育もまた相当粗放的な市場原理の支配下のもとで、急速に発展した。しかしその後の福祉国家政策の下、高等教育機関といういわゆる既得権受益者は、市場競争の圧力と徐々に隔絶するようになった。これは日本の大学の内部が自発的な改革力を産み出せない原因の一つである。
 しかし、マクロの視点から見ると、中国は急激に経済が発展しているけれども、収入分配の平等性は却って悪化している。このような高等教育の市場化の拡大は、高等教育を受ける機会の不平等をもたらしている。日本は私立大学の学費は相対的に高いが、国立大学の学費はかなり低い水準におさえられており、これが高等教育を受ける機会の均等性を保証した。
 この他、急激に増加する高等教育の卒業生が直ちに就職できるか否かは、目の前にある無視できない問題である。日本では、高等教育が大幅に発展した当時、大卒労働力の急激な過剰を招いたが、急成長したさまざまなサービス業がこの労働力を吸収し、高学歴労働力の過剰は社会問題にならなかった。中国経済がこの部分の高学歴労働力を吸収できるか否かはなお未知数であるが、目前の状況をみる限り、決して楽観はできない。
 高等教育市場化の発展モデルはどれほど長く続くだろうか?これに対して改革をするべきであろうか?どのように改革すべきであろうか?いつ改革するのが最も適切だろうか?この点において、研究者はこれらの問題に対して科学方法論的角度から科学的な知的検討を行うことが望ましい。日中比較は中日両国の研究者にとって重要な研究方法である。同時に隠し立てをすることなくこれらの課題に向き合い、中日両国の研究者が共同研究し相互に啓発することは、明らかに両国高等教育の健全な発展の重要な基礎と保障になる。

高等教育市场化:中日比较的视角
  从20世纪末到21世纪,世界高等教育“市场化”高歌猛进。但是,高等教育机构与市场、政府间的关系各个国家、各个地区却存在着异同。就中国的高等教育情况而言,最近20多年来,中国的高等教育以自己独特的方式迅速发展,引起了世界各国学者的关注,也激起了国外研究中国及对中国高等教育的强烈兴趣。从1998-1999年度开始,中国高等教育进入了一个崭新的发展阶段。这种“新”不仅表现在高等教育规模的急剧扩大方面,更重要的是表现在以市场化和国际化为主要特征的高等教育改革上。但这种改革为何会在中国这片土地上发生?这次改革伴随着何种结构上的变化?现在中国的高等教育规模扩张和日本历史上出现的高等教育规模扩大有何异同,本文将就高等教育市场化的背景和构造进行梳理,在此基础上对对中国和日本的特质作一比较,希望得到中日学者的批评指正。
一、高等教育市场化的背景
  源于中世纪欧洲的“大学”,伴随着19世纪末近代国家的形成发生了巨大的变化,从而使近代大学产生了 “国家设施”型、“私立大学”型和“政府委托”型的三种类型。但是,由于福利国家政策的扩大,政府的义务性支出增加,特别是人口构成高龄化的工业发达国家,迫使政府抑制其支出项目,高等教育也不例外。这样就导致了近代大学的危机和机能的削弱。在这种情况下,高等教育需要更有效地经营,更密切地适应扩大和变化着的社会需要,于是出现了:
1.教育市场化。90年代末期出现的高等教育改革,其基本特征是高等教育对个人负担依存度的逐渐加深,政府财政投资增长有限。在这种情况下,首先想到的是收取学费。同时,有的高等学校设置了被称为“二级学院”的教育机构。另外,进入90年代,民办高等教育也有了长足发展。
2.研究的市场化。中国的学术研究原本是研究所(Academy )的职责。但90年代高等院校的研究领域开始进行现代化改革和建设。“211工程”和“985工程”计划的提出与实施,政府对北大和清华等院校大量投资。虽然以高等学校为单位的政府财政拨款停滞不前,但从90年代末期起,竞争性科研经费的比例大幅度增加。
二、中日比较
  高等教育市场化无疑是世界潮流,但是走在这个时代潮流最前列的可以说是中国高等教育的改革。中国形成了能够根据社会需要而不断调整自我行为的高等教育的基层组织,同时,该体制又激活了教师从事教育和研究的动力。纵观日本,20世纪60年代,日本的高等教育也是在相当粗糙的市场原理的支配下急速发展起来的。但是在其后的福利国家政策下,高等学校这个所谓的既得利益者逐渐和市场竞争的压力隔绝。这是现在日本高等院校内部不能产生自发改革动力的原因之一。
  但是从宏观上来看,中国尽管经济发展迅速,但收入分配的平等性却有所恶化。这样高等教育的市场型扩大就带来了高等教育机会的不平等。日本虽然私立大学的学费相对较高,但国立大学的学费一直被控制在较低水平,这就保证了高等教育机会的均等性。   另外,迅速增加的高等教育毕业生能否及时就业,也是摆在面前而不容忽视的问题。在日本,当时高等教育的大发展致使大学毕业生劳动力急剧过剩,但是迅速发展起来的各种各样的服务行业吸收了这部分劳动力,高学历劳动力过剩没有成为社会问题。而中国经济是否能够吸收这部分高学历劳动力尚是未知数,就目前状况而言,不容乐观。
  高等教育市场化发展模式能够持续多久?是否对此应进行改革?怎样改?什么时候改最为合适?在这一点上,希望研究者对这些问题从科学方法论的角度进行科学的理性探讨。日中比较对中日两国的研究者来说都是重要的研究方法。同时毋庸讳言,面对这些课题,中日两国的研究者共同研究和互相启发显然是两国高等教育健康发展的重要基础和保障。

博士生

秦熠(南开大学历史学院博士生)

「権自我操」と「鉄路委員会」の間:中外の鉄道利権争奪に関する研究(1863-1923)
 鉄道は近代中国に重大な影響を与えたが、中国の鉄道建設は世界のその他の地区に比較すると相対的に遅れていた。資金や人材など技術的な要素の影響のみならず、中国対外国の路線利権をめぐる争奪戦も鉄道建設のプロセスに影響し、また社会思想に対しても相当大きな影響を及ぼした。
 西洋資本主義の在中国勢力は中国の鉄道利権の制圧を一貫して企んでいたため、中国側は中国の鉄道利権に対する外国勢力の非望を抑制しようとした。在華外国商人は、中国政府による鉄道建設、もしくは中外商人による鉄道建設投資への許可を要求し、外国政府の支持の下、中国の鉄道を直接コントロールしようと図った。中国政府は外国勢力による中国鉄道のコントロールを懸念したため、1880年代以前には外国人あるいは本国による鉄道建設に一貫して反対しており、1877年には外国人が無断で建設した吴淞鉄道を取り戻し取り壊している。しかし、政府内部の態度も徐々に変化し、その中の有識者は鉄道が近代国家発展において果たす効果を理解し、国防を強化するとともに民を豊かにし商人に利益をもたらすためにも自国の鉄道を建設するよう、中国に要求した。しかし中国政府内部ではこれに対してまだ一致した意見に達していなかった。
 1881年、洋務運動を主管する李鴻章等の調停のもと、中国政府は自ら建設した唐胥鉄道の運行を許可し、中国は鉄道の試験的経営の段階に入った。李鴻章等は一方で外国勢力が鉄道利権に手を染めることを固く拒絶し、また一方で中央政府が更に多くの鉄道の継続的建設を許可することで、辺境強化や人民生活の改善を図れるともくろんでいた。この点についての意見はまちまちで、鉄道建設の進展は緩慢ではあったが、中日戦争勃発前までに、中国は結局自らコントロールする鉄道数百キロメートル分を建設したのである。しかしながら、更なる計画は戦争のために中断を余儀なくされる。
 1895年以後、中国の内部は、鉄道建設は危機的情勢を救う重要な措置であるという点に基本的に同意していた。さらに、外国債を借りて鉄道を建設すると、西洋列強はこの機に乗じて中国政府に一部鉄道の全部或いは部分的な利権を譲渡するよう迫り、中国の主権整備に深刻な損害を与えるということも了解していた。1901年以後、危機にある中国政府は新政を実行し、民間に対して鉄道への投資を奨励するとともに、失った鉄道利権を取り戻すため、各省の民間鉄道会社は鉄道利権奪回運動を展開し、一部の利権を回収した。しかし政府の実質的な支持を得ていなかったので、民間鉄道会社の多くは苦境に陥った。鉄道建設を加速するため、中国政府は「幹線鉄路国有化」計画を打ち出し、南方数省の鉄道保護運動を引き起こし、これに伴って起こった革命が中央政府を打倒するに至った。
 中華民国建国後、袁世凱政府期の中央政府は「鉄路国有」を実現した。第一次世界大戦後、北洋政府内部の一部の人は外国人が言い出した「鉄路統一」を利用して中国の鉄道利権の奪回を助けようと図ったものの、中・外双方の反対に会い、1923年の臨城列車ジャック事件(訳注:山東省で外国人の乗った汽車が襲われた事件 http://www.mzyfz-news.com.cn/news/0606203100.html)以後、中外鉄道利権争奪戦は暫時一段落となった。

“权自我操”与“组织‘铁路委员会’”之间:中外铁路路权争议研究(1863-1923)
  铁路对近代中国产生了重大影响,但中国的铁路建设相对于世界其它地区较为滞后,除去资金、人材等技术性因素影响外,中外间的路权争夺也影响了铁路建设的进程,并对社会思想产生了相当大的影响。
  由于西方资本主义在华势力一直企图控制中国铁路利权,中国方面则试图遏制外国势力对中国铁利权的觊觎。在华外国商人要求中国政府修建或允许中外商人投资修筑铁路,并试图在外国政府支持下直接控制管理中国铁路;因为担心外国势力控制中国铁路,中国政府在19世纪80年代以前一直反对由外国人或本国修筑铁路,并于1877年收回并拆毁外国人私自修建的吴淞铁路;但政府内部的态度逐步变化,其中的有识之士了解了铁路在近代国家发展中所起的作用之后,要求中国修建自己的铁路,以加强国防、裕民利商,但中国政府对此内部未能达成一致意见。
  1881年,在主持洋务运动的李鸿章等人的斡旋下,中国政府允许中国自己修建的唐胥铁路运行,中国进入铁路试办阶段,李鸿章等人一方面坚决拒绝外国势力染指铁路利权,另一方面企图得到中央政府允许继续修筑更多的铁路以加强边防、改善民生;虽然对此意见不一,铁路修筑进展缓慢,但在中日战争爆发前,中国还是修建了由自己控制管理的数百公里铁路,然而更大的计划为战争所打断。
  1895年后,中国内部基本都同意修筑铁路是挽救危局的重要举措,并借洋债兴建铁路,西方列强利用此机会压迫中国政府向他们出让了一部分铁路的全部或部分利权,严重损害了中国主权完整。1901年后,危机中的中国政府实行新政,鼓励民间投资铁路,为挽回失去的铁路利权,各省商办铁路公司展开了收回铁路利权运动,收回部分路权,但由于没有得到政府的实质性支持,商办铁路公司多数陷入困境。为加快铁路建设,中国政府提出“干路国有”计划,引起南方数省的保路运动,随之而来的革命推翻了中央政府。
  中华民国建立后,袁世凯当政时期中央政府实现了“铁路国有”,一战后北洋政府内部一部分人企图利用外人提出的“铁路统一”帮助中国收回铁路利权,但受到中外两方面的反对,1923年临城劫车案后,中外路权争夺终于暂时告一段落。

赵志强(南开大学历史学院博士生)

近代華北の石炭輸送販売体系:1905-1937
 近代中国の石炭に関する研究の中で、研究者は石炭企業の政治と生産面に多大な関心をもつが、石炭の運送販売面の成果は少なく、本稿では近代華北地区の石炭運送販売体系について検討したい。
 石炭価格のうち運輸費が相当部分を占めるため、輸送距離と輸送コストが強い制約的作用をもたらし、そのため石炭の消費と輸送販売は一定の地域的特徴を帯びる。近代華北の石炭運送販売体系は、北寧(訳注:北京―瀋陽)-天津-秦皇島系統、北寧-平漢(訳注:北京―漢口)-平綏(訳注:北京―綏遠)-北京系統、正太(訳注:石家庄-太源)-平漢(訳注:北京―漢口)-石家庄系統、平漢-道清-隴海-鄭州-開封系統、胶済(訳注:青島―済南)-津浦(訳注:天津―浦口)-南青島系統、上海-武漢系統など、いくつかの運送販売系統に分けられる。
 北寧-天津-秦皇島の運送販売体制内では、主な炭鉱は開灤、柳江、長城の3つであり、主な消費地は天津で、その他一部は上海各地に運送販売するとともに日本へ輸出していた。
 北寧-平漢-平綏-北京系統は北京を主要な消費市場としていて、石炭は主に北京、平漢、平綏の鉄道で運ばれて来る。門頭溝の石炭は一部らくだに背負われて運ばれる。北寧、平漢、平綏の沿線各炭鉱が北京市場において占める占有率はそれぞれ異なる。
 正太-平漢-石家庄系統の特徴は、一つには地元での販売、二つには北京・天津への中継輸送である。本系統は石家庄を中継輸送の中心とし、北京・天津等の大都市及び平漢鉄道沿線の都市と町を主な販路にしている。河川沿岸の農村もまた一定の消費量を有する。
 平漢-道清-隴海-鄭州-開封系統は主に六河溝炭鉱、福公司と中原炭鉱があり、また少なからぬ小さな炭鉱がある。河南の石炭は、六河溝などの大きな鉱山で一部を外部に販売するほかは、輸送上の障害のため、全て省内で運送販売される。
 胶済-津浦-済南-青島系統は、主に津浦鉄道付近の中興炭鉱と胶済鉄道付近の淄川坊子等の炭鉱を擁し、消費地は青島と済南を主とする。
 上海の石炭のうち一部は華北の各炭鉱から来ており、開灤の石炭が最多である。武漢市場の華北石炭の供給元は、一つには開灤石炭が天津や秦皇島から船で上海まで運ばれ、さらに長江を経て武漢へ運ばれている。もう一つは、六河溝等の石炭が平漢鉄道経由で運ばれる。  華北の鉄道による運輸体系が一応の形成をみてからは、石炭の物流ネットワークは次第に整備され、華北石炭の運送販売方式にはこれにより大きな変化が生じた。つまり、鉄道を主体とする近代交通方式こそが華北の石炭の産業化を加速する役割を果たしたのである。

近代华北的煤炭运销体系(1905-1937)
  在有关近代中国煤炭的研究中,研究者多关注于煤炭企业的政治和生产方面,煤炭的运销方面成果较少,本文试图就近代华北地区的煤炭运销体系做一探讨
  由于运费在煤炭价格中占有相当大的比例,运输距离和运价起着强约束作用,使得煤炭的消费和运销具有一定的地域性特征。近代华北的煤炭运销体系可分为北宁天津秦皇岛系统、北宁平汉平绥北京系统、正太平汉石家庄系统、平汉道清陇海郑州开封系统、胶济津浦济南青岛系统、上海武汉系统等几个运销系统。
  在北宁天津秦皇岛运销系统内,主要的煤矿有开滦、柳江、长城三矿,主要消费地以天津为主,部分运销上海各地和出口日本。
  北宁平汉平绥北京系统以北京为主要消费市场,煤炭主要由北宁、平汉、平绥铁路运入。门头沟的煤有一部分使用驮运运入。北宁、平汉、平绥沿线各煤矿在北京市场上所占的份额不同。
  正太平汉石家庄系统特点为,一是本地销售,二是转运京津。本系统以石家庄为转运中心,以平津等大都市及平汉铁路沿线城镇为主要销场;沿河乡村也有一定消费量。
  平汉道清陇海郑州开封系统主要有六河沟煤矿、福公司和中原煤矿,还有不少的小矿土窑。河南煤除了六河沟等大矿部分外销外,其余煤产由于运输障碍,皆在省内运销。
  胶济津浦济南青岛系统主要有津浦路附近的中兴煤矿和胶济路附近的淄川坊子等矿,消费地以青岛和济南为主。
  上海煤炭部分来自华北各矿,以开滦煤为最多。武汉市场上的华北煤炭来源,一是开滦煤由天津、秦皇岛海运至上海再由长江运至武汉;一是六河沟等地之煤由平汉路运来。
  华北铁路运输体系初步形成后,使煤炭的物流网络逐渐完善起来,华北煤炭的运销方式由此发生了很大的变化,以铁路为主体的近代交通方式才是华北煤炭产业化的加速器。

郭海成(南开大学历史学院博士生)

隴海鉄道と関中近代化過程をめぐる概論:1931-1945
 関中平原は陜西省中部にあり、肥沃な土地と湿潤な気候に恵まれて、古から「天府」(訳注:天然資源の豊富な)「陸海」の名称を持っており、唐以前は中国北方の重要な政治、経済、文化の中心であった。しかし宋代から国家経済の中心が南に移るに従って、関中は次第に以前の地位を失い、経済社会発展の速度は落ちて、東南の河川沿岸・沿海地区との差は次第に開いていった。清末から民国初期になると、内陸にあって交通が不便なため、関中地区は中国経済の版図における既存の地位を完全に失ってしまった。これに加えて外的動力の刺激を欠き、東南の河川沿岸・沿海地区の急速な発展と比べると、関中地区の近代化は実際上一種の停滞状態にあった。しかし隴海鉄道が陜西省に導入されると、この長期停滞状況を徹底して打ち破り、関中地区の発展に強力な動力を注入した。
 まず、隴海鉄道が陜西省に導入されると、陜西省の交通環境は根本的に変革された。中国を東西に貫通する大動脈として、隴海鉄道は関中地区の交通面における地位を突出して優勢な地位に引き上げ、関中と中、東部地区の交通面での連絡はこのために大いに便利になった。一種の外的動力として、隴海鉄道は関中の近代化プロセスの展開にきわめて強い刺激を与えた。
 次に、隴海鉄道がもたらした交通条件の改善では、鉄道沿線地区の農工商各業種の急激な発展に役立った。農産面では、陜西産の綿の大量出荷が可能になったことで、長らく停滞していた農村市場を生き返らせ、二つには、関中の農民経済状況に一定の改善を引き起こした。同時に陜西綿の大量出荷は中継輸送業の発展にもつながり、中継輸送会社は綿取扱業者と鉄道当局の橋渡し役となった。工業面では、小麦粉業に代表される近代工業が急激に発展し、鉄道沿線都市に集中するという特徴が現れた。商業面では、隴海鉄道が運輸上の利便性と速さ、および物流と人流の集積をもたらしたことで、以前の関中地区の商業の苦境を打破し、鉄道沿線の都市と町の商業はさらに急激に発展し、商業は業種・数量とも以前と比べ大いに発達した。
 さらに、隴海鉄道が陜西省に入ったことで、関中地域の都市化プロセスもまた加速された。渭南・宝鶏を代表とする鉄道沿線都市は急激に頭角をあらわし、西安市の経済的地位はますます上がった。そして最終的には、関中における既存の都市体系の変動及び地域経済の中心の転換を引き起こし、明代中期に形成された大茘・三原・鳳翔を中心とする渭北都市部は長期にわたる関中の地域経済の中心としての地位を喪失し、隴海鉄道都市帯がこれに取って代わった。

陇海铁路与关中近代化进程论略:1931-1945
  关中平原位于陕西省中部,土地肥沃、气候湿润,自古即有“天府”“陆海”之称,唐以前一直是中国北方重要的政治、经济、文化中心。但自宋代起,随着国家经济重心的南移,关中逐渐失去了其往日之地位,经济社会发展速度减缓,与东南沿江沿海地区的差距逐渐增大。及至清末民初,由于偏处内陆、交通不便,关中地区已彻底丧失了其在中国经济版图上之既有地位;加之缺少外源动力的刺激,相较于东南沿江沿海地区的快速发展,关中地区的近代化实际上处于一种停滞的状态。但陇海铁路的入陕,则彻底打破了这种长期停滞的状态,给关中地区的发展注入了强劲动力。
  首先,陇海铁路入陕,从根本上改变了陕西的交通环境。作为横贯中国东西的大动脉,陇海铁路使得关中地区的交通区位优势凸显,关中与中、东部地区的交通联系因之大为便利。作为一种外源动力,陇海铁路强劲地刺激了关中近代化进程的展开。
  其次,得益于陇海铁路所带来的交通条件的改善,铁路沿线地区农工商各业迅速发展。农产方面,陕棉大量输出,一则激活了沉寂已久的农村市场,二则使得关中农民经济状况得到一定改善,同时,陕棉的大量输出亦带动转运业的发展,转运公司成为棉商与铁路当局间的桥梁;工业方面,以面粉业为代表的近代工业快速发展,并呈现集中于铁路沿线城市的特点;商业方面,陇海铁路所带来的运输上的便捷及其对货流与人流的集聚,打破了之前关中地区商业凋敝的状态,铁路沿线城镇的商业更是发展迅速,商业门类与数量相较于前甚为发达。
  再次,陇海铁路入陕,亦加速了关中区域城市化进程。以渭南、宝鸡为代表的铁路沿线城市快速崛起,西安城市的经济地位进一步提升;并最终引致关中既有城市体系的变动以及区域经济重心的转移,自明代中叶形成的以大荔、三原、凤翔为中心的渭北城市带丧失了其长期作为关中区域经济重心的地位,陇海铁路城市带则取而代之。

李海滨(南开大学历史学院博士生)

1934年における中日鉄道開通交渉と華北の政局
 1934年、南京国民政府と偽満、それに日本の間で行われた交通および郵便の開通に関する交渉は、日本が華北自治を画策しようと造った一連の交渉の「懸案」中の一つのエピソードである。しかし、それは特定の政治・社会状況に置かれていたため、国民政府及びその内部と日本政府及びその内部におけるこの問題に関するさまざまな態度や主張は当時の複雑な政治闘争と世論の雰囲気を反映し、またそれだけでなく、この事件の解決が華北の政治情勢ひいては中日関係に対して一定の影響をも生み出したのである。本稿は、交通・郵便開通に関する交渉事件の起伏ある交渉過程に対して念入りな描写と分析を行い、この事件をめぐる複雑に入り組んだ政治闘争及びそれが華北政局ないしは中日関係のプロセスにもたらした結果と影響を明らかにするものである。
 1931年の「九一八」事変後、華北と東北を結ぶ政治・経済・社会の「紐帯」――北寧鉄道は再び「ばらばらにされる」運命に遭い、関内は依然として華北地方当局によりコントロールされ、関外の約3分の2の路線は偽満政権下の東北交通委員会にコントロールされ、このため1つが2つに分かれ、各自がそれぞれ勝手に管轄する状況が現出した。1933年に華北の治安状況が徐々に好転したことや政治情勢が相対的に安定したことに伴い、華北地方政府と偽満及び日本の三者間で、北寧鉄道の管理の統一及び開通問題について秘密かつ断続的な交渉が展開されたが、実質的な成果は上がらなかった。1934年、日本の華北地区に対する非望と「渇望」はますます強まり、華北地方当局と国民政府に圧力を加えようとして絶えず摩擦や事件を起こすと同時に、中日間で以前に棚上げにした一連の懸案を解決するよう要求してきた。とりわけ、鉄道開通に関する交渉はまさにこれらの懸案の焦点であり、社会世論が注目する重要な問題ともなった。その後の数ヶ月間、南京国民政府、華北地方政府、日本政府及び関東軍当局の間でこの問題をめぐって一連の長い談判と妥協が展開され、最終的には鉄道開通交渉に関する解決案と具体的な方法をまとめた。しかしながら、双方の当局がこの事件を「円満解決」し喜び祝っていた頃、交渉後最初の鉄道開通は途中で中国の急進的愛国団体の暴力行為によって、その前途には「ゆううつな」色合いが立ち込めることとなり、鉄道開通交渉の努力と成果もほとんど無に帰してしまった。このため、この事件の進行と解決は、華北政治情勢ないし中日関係、ひいては国際的にも直接間接の影響を与え、また華北地区の軍事形態への影響もきわめて深刻であった。
 これを要するに、中日間の鉄道開通交渉を描写し分析することは、我々がこの時期の華北地区ないしは中日間の政治面における進展状況をはっきりと理解する上で大いに有益であろう。

1934年中日间的通车交涉与华北的政局
  1934年的南京国民政府与伪满、日本间关于通车通邮的交涉是日本试图策动华北自治的所制造的一系列交涉“悬案”中的一个插曲。但由于它处于特定的政治和社会情境之中,在国民政府及其内部和日本政府及其内部关于这个问题的不同态度和主张反映了当时复杂的政治斗争和舆论氛围,而且这一事件的解决也对华北的政治格局乃至中日关系产生了一定的影响。本文则通过对有关通车通邮的交涉事件的波荡起伏的交涉历程进行细致的描述和分析,来展现围绕这一事件所进行的错综复杂的政治斗争及其对华北政局乃至中日关系进程所产生的后果和影响。
  1931年“九一八”事变之后,连接华北与东北的政治、经济和社会的“纽带”——北宁铁路再次遭到“肢解”的命运,关内一段仍由华北地方当局控制,而关外的约三分之二的里程为伪满政权下的东北交通委员会所控制,从而,形成了一分为二、各自为政的管理局面。1933年随着华北治安形式和逐渐好转和政治局势的相对安靖,华北地方政府与伪满及日本间关于北宁路政的统一和通车问题展开了秘密且间断的交涉,但并未取得实际的结果。1934年,日本对华北地区的觊觎和“渴望”愈加强烈,不断制造一些摩擦和事端以试图对华北地方当局和国民政府施加压力,同时提出要求解决中日间的曾经搁置的一系列悬案,而关于通车的交涉正是这些悬案中的焦点问题,也成为社会舆论中所关注的一个热点问题。其后的数月间,南京国民政府、华北地方政府、日本政府及关东军当局之间围绕着这个问题展开了一系列的持久的谈判和妥协,最终达成了关于通车交涉的解决方案和具体办法。然而,就在双方当局为这一事件得“圆满解决”而欢欣庆贺得时候,交涉后的第一次通车却在途中由于中国激进的爱国团体的暴力行为而为它的前途蒙上了一层“阴郁”的色彩,也使关于通车交涉的努力和成果几乎化为乌有。因此,这次事件的进行和解决对华北的政治局势乃至中日的关系甚至在国际范围内都产生了直接或间接的影响,而且对于华北地区的军事形态的影响尤其严重。
  总之,对中日间的通车交涉的描述和分析将对于我们清晰的了解这一时期华北地区乃至中日间的政治运行的情况大有裨益。

刘晖(南开大学历史学院博士生)

鉄道と近代鄭州綿業の勃興
 近代以来、中国社会は農業社会から工業社会へと転換を開始した。工業化の増大及び貿易の需要は、鉄道を中心とする近代交通体系の形成と鉄道中心型都市の勃興を推進した。隴海・平漢鉄道は鄭州に集まり、中原地区における交通中心の地位の基礎を定めた。同時に鉄道は近代における鄭州の都市化のエンジンとなり、鄭州の商工業の発展を強力に推し進めた。その中でも綿花の備蓄、中継輸送、梱包、加工に依拠して形成された産業は、近代鄭州の商工業の重点となった。
 鉄道と近代鄭州における綿業の萌芽について、経済的角度から見ると、綿花は十分な工業原料でもあり、また十分に商品化された農業産品であった。中国の黄河流域にある河北、山東、河南、陝西の各省は、自然が与えた大きな綿花産出地域であり、鄭州は中国中部の要衝で、隴海・平漢2鉄道が東西南北を貫通して四方八方に通じており、旅商人たちが雲集し、貨物の中継輸送の重要都市となっており、商工業もこれとともに発達し、中でも綿業が最大の業種である。鄭州の綿業は鉄道交通の配置という要素に支えられて芽を出しはじめ、同時に国内市場の刺激も受け、また国際市場による制約をも受けた。
 次に、鉄道と鄭州の綿花備蓄・中継運輸業の勃興について述べる。鄭州駅で中継される貨物のうち、綿花が最も多い。河南省内の各綿市場の製品は、ほとんどが鄭州に集中する。また陝西・山西両省の綿花も、鄭州を経由して販売、中継輸送される。関中、渭南、涇陽、朝邑などの綿花は鉄道によって鄭州に集中し、その後再び送り出される。鄭州における毎年の綿花交易規模は、常に100余万担(1932年の運送販売6000トン)(訳注: 1担は100斤に相当する)に達し、我国中部の主要な綿花の中級市場である。
 鉄道は近代鄭州の綿花加工業の発展を促したが、その中心は綿紡績と梱包業であった。1910年に開業した豫豊紡績工場は原料と生産品の運輸における利便性を確保するため、鉄道設置場所の近くに設置され、鄭州最大の綿花紡績業である。その資本は300万元、労働者は合計4500人、毎日産出する糸は100包である。豫中梱包工場は1925年に開業された。資本は35万元、毎日8000余包を梱包でき、一つの梱包の重さは400斤で、毎年利潤があった。1928年、豫中梱包工場の労働者数は既に2500人を超え、営業が発達し、業務は忙しかった。
 当然、鄭州綿業の発展には、国民政府の推進、綿花生産販売合作社の成立、及び金融機関の介入等、他の促進要素もあった。綿産改善所の指導の下、河南・陝西両省の各綿花産出区はそれぞれ綿花生産販売合作社を成立させ、上海財団等の金融機関から貸し付けを受け、優れた品質の綿花(アメリカ綿)の栽培、販売を促進した。中国銀行、浙江興業銀行など金融機関は鄭州に綿操り機、梱包工場、備蓄倉庫等の設備を有し、河南や陝西の綿産出運送販売に対して、確かに大きな機能を果たしていたのである。

铁路与近代郑州棉业的兴起
  近代以来,中国社会开始由农业社会向工业社会转型。工业化的增长及贸易需求,推动了以铁路为中心的近代交通体系的建立以及铁路枢纽型城市的兴起。陇海、平汉铁路交汇于郑州,奠定了其在中原地区交通枢纽的地位,同时,铁路亦成为近代郑州城市化的引擎,有力地推动郑州工商业的发展。其中,依托棉花的仓储、转运、打包、加工所形成的产业成为近代郑州工商业的重心。
  铁路与近代郑州棉业的起步。从经济的角度来看,棉花既是十足的工业原料,也是充分商品化的农产品。中国的黄河流域即冀鲁豫陕各省,是天赋独厚的产棉区域,而郑州居中国中部要冲,陇海、平汉二路贯穿东西南北,交通四达,商旅云集,成为货物转运的重要城市,工商业亦随之发达,其中以棉业为巨。郑州棉业在铁路交通区位因素的支撑下得以起步,同时它也受到国内市场的刺激,亦为国际市场所制约。
  铁路与郑州棉花储存、转运业的兴起。在郑州火车站转运的货品中,棉花为大宗。河南境内各棉产市场,产品多运郑州往集中,而陕晋两省棉产亦多经郑州销售转运,关中、渭南、泾阳、朝邑等地的棉花通过铁路集中到郑州,成交后再行输出。郑州每年的棉花交易,常达百余万担(1932年运销6000吨),为我国中部的主要棉花中级市场。
  铁路促进了近代郑州棉花加工业的发展,以棉纺和打包业为主。1910年开办的豫丰纱厂为便于原料与产品的运输,靠近铁路设址,是郑州最大的棉纺企业,其资本300万元,工人计4500人,每日出纱100包。豫中打包厂,1925年开办,资本35万元,每日能打成机器棉包800余包,每包重400斤,年有盈余。1928年,豫中打包厂的工人数已超过2500人,营业发达,业务繁忙。
  当然,郑州棉业的发展亦有其他因素的促动,如国民政府的推动、棉花产销合作社的成立以及金融机构的介入等。在棉产改进所指导之下,豫陕各产棉区分别成立了棉花产销合作社,并向上海财团等金融机构进行贷款,以促进优质棉花(如美棉)的种植、销售。中国银行、浙江兴业银行等金融机构在郑州设有轧花机、打包厂、仓库等设备,对于河南乃至陕西的棉产运销,无疑具有很大的作用。

宝丽娜(南开大学历史学院硕士生)

張君勱の憲政思想及びその実践:20世紀1930-40年代を中心に
 張君勱は中国近現代憲政史上、特別な影響を持つ人物で、彼は一生憲政を信仰し、積極的に憲政運動に身を投じ、中国での民主憲政実現を終始追い求めた。1930-40年代は、彼の民主憲政理論が次第に完成し成熟した時期であり、また彼が政論救国から政党救国への過度期にいた時期でもある。本稿はこの一時期を中心として、主に張君勱の憲政思想と実践を紹介し、それが民国の憲政運動に対して与えた影響を検討しようとするものである。憲政思想面では、本稿は主に張君勱の「人民を基本にする」という民主憲法観と「坂道を登り階段を下る」式の平和的権力競争を基盤とする政党観を紹介する。また憲政実践面においては、本稿は彼による国家社会党の創設、国民参政会への参加、「中国民主政団同盟」の設立への参加、『中華民国憲法』制定等の活動を研究することに力をいれている。
 民主憲法の設計において、張君勱は人民主権、分権制度など、近代欧米国家の進んだ憲法原則を取り入れ、現代的意義をもつ憲法の青写真を描いていた。また政党政治の理論については、彼は多党政治や平和的権力競争などの理念を提唱し、民主的色彩に満ちた政党を構想した。
 民主憲法と政党政治に対しての系統的思考は、明らかに、張君勱が1930-1940年代に政党設立により参政する方式で「修正的民主政治」の理想を実現したことに直接影響している。この時期、中国が民主憲政運動をアピールした舞台において、張君勱は終始積極的かつ重要な役目を果たした。彼の憲政実践が集中的に表れたのは、彼が国民参政会という場を利用して憲政の早急な実現をアピールし、政党の合法化を要求したことである。彼の政党設立活動もまた、国民党による政党結成禁止を解く可能性を開き、この時期の憲政運動の推進にきわめて重要な役割を発揮した。
 自分の憲政思想を用いた指導をあくまで貫徹し、同時に実践の中で自分の憲政思想を補充し修正したことで、張君勱が制定した1947年憲法には更に多くの経験的基礎が提供された。憲法原則の設計において、国民大会や五権制度に対して行った巧妙な調整などは、全て彼の鋭敏な政治的眼力と憲法に対する「視覚」の広さを反映していた。
 このように、張君勱がこの時期に行った憲政活動には積極的意義があったと言える。彼は、中国の民主政治と政党政治の推進に対して、また憲法制定・施行事業への貢献において、さらには民国時代ないし今日の政治に対して、いずれも無視できない意義を持つのである。

张君劢的宪政思想及其实践:以20世纪30—40年代为中心
  张君劢是中国近现代宪政史上一位具有特殊影响的人物,他一生信仰宪政,积极投身宪政运动,始终追求民主宪政在中国的实现。20世纪30-40年代,既是他的民主宪政理论逐渐完善和成熟的时期,也是他由政论救国过渡到政党救国的时期。本文即以这一时期为中心,着重介绍张君劢的宪政思想与实践,并力图探讨其对民国宪政运动产生的影响。在宪政思想方面,本文着重介绍张君劢的“以人民为基本”的民主宪法观和“走上坡路和下楼梯”式的和平竞权的政党观;在宪政实践方面,本文着力研究其成立国家社会党、参加国民参政会、参与组建“中国民主政团同盟”、制定《中华民国宪法》等活动。
  在民主宪法的设计中,张君劢引入了人民主权、分权制衡等近代欧美国家先进宪法的基本原则,勾画了一部具有现代意义的宪法蓝图;在政党政治的理论中,他提倡多党政治、和平竞权等理念,构想了一个充满民主色彩的政党。
  对于民主宪法和政党政治的系统思考,又显然直接影响了张君劢在20世纪30—40年代以组党参政的方式实践“修正的民主政治”理想。在这一时期中国呼吁民主宪政运动的舞台上,张君劢始终扮演了一个积极而重要的角色,他的宪政实践集中体现了他利用国民参政会的平台呼吁早日实现宪政,要求政党合法化;他组党的活动也使国民党开放党禁成为可能,对推动这一时期的宪政运动发挥了极其重要的作用。
  始终坚持用自己的宪政思想作为指导,并在实践中补充和修正自己的宪政思想,为张君劢制定1947年宪法提供了更多的经验基础。在宪法原则的设计中,对国民大会、五权制度所作的巧妙调整等,都反映了他敏锐的政治眼光和全面的宪法“视角”。
  因此,可以说,张君劢在这一时期所从事的宪政活动是积极意义的。他对于中国民主政治和政党政治的推进,对制宪行宪事业的贡献,对民国时代乃至今天的政治都具有不可忽视的意义。

邹灿(南开大学历史学院)

「6・1」児童節と中国の政治社会化過程:1949-1976
 1949年以来の20年余りにわたり、国内外の複雑な環境の影響及び中国共産党の政権を安定化する必要によって、伝統道徳及び政治信仰を核心とする政治教育が極めて重要な地位に置かれた。この政治社会化の過程は、一世代また一世代と育つ少年児童の集団にきわめて目立って現れた。少年児童を対象に政治教育を進めるうえで重要な媒介かつ担体として、「6・1」児童節は中共及び政府が少年児童に対して政治及び観念教育を行う主な内容とルートを示唆しており、少年児童の集団的意識の変化や政治的人格の形成及びその社会的効果もまた、祝日におけるさまざまな活動に十分に示されている。
 本稿では、中国共産党機関紙『人民日報』と雑誌『紅旗』に現れる、児童節に関する報道および児童政治教育に関する文書の分析を通して、この時期の中共及び政府が少年児童集団に対して政治教育を行った主な内容とルートについて包括的な概括とまとめを行う。党国観念の育成、革命伝統精神の宣伝、階級観念及び階級闘争の教育、道徳教化、国際時事の注入が、この時期の政治教育の中心的内容であった。中共及び政府は、家庭、学校、社会の三方面の役割を通して、政治的な児童組織を組織し、文化教育と娯楽活動において政治的要素を浸透させて、その政治教育の目的を達成した。この時期の少年雑誌と文学出版物、及びこの時代から成長した人の回想録と伝記は、当該時期の政治教育が少年児童の成長に与えた影響や、少年児童集団の政治社会化に対する反応を、さまざまな角度から生き生きと現している。
 本稿は、政治学、社会学、児童心理学及び宣伝学の関連知識の助けを借りて、中共及び政府が政治教育を行うプロセスにおいて、如何に巧妙に少年児童の集団的特徴と心理的特徴を利用して政治社会化の効果を増強させたかを分析する。同時にこれらの知識を通して、少年児童集団が政治社会化に対して示した各種反応の原因の分析を試み、その集団意識の変遷及び政治的人格の形成過程を理解しようとするものである。
 中共及び政府がこの時期、少年児童に対して行った非常に強度な政治教育は、その要求する政治観念とイデオロギーを当該集団の意識へ浸透させることに成功し、社会政治化の程度は深まった。少年児童の心身の成長は完全に濃密かつ強烈な政治的雰囲気のただ中に置かれ、児童は准成人として扱われ、当該年齢段階では受けるべきでない政治的圧力を受けた。政治の社会生活に対する過度の干渉は、とりわけ少年児童の教育と育成に対する過度の干渉は、その世代の人間から正常な成長の過程を奪い、一定程度の心理的な捻じ曲がりを与えることになる。これは当該時期の中国の政治的発展や変化の過程に大きな影響を与え、政治社会化の畸形的発展をもたらした。少年児童自身の人格形成もまた異化へと向かい、思考や言行は極めて強い政治性を示し、単一化、モデル化の状態が現出した。
 この時期の政治社会化が進む過程における少年児童集団を分析することは、現代の中国歴史発展の変遷過程と政治社会化がこの後に成長した数世代の人々の人格及び心理状態に及ぼした影響について、更にはっきり深く知るために有益である。この時期の政治社会化と社会政治化という双方向の相互作用プロセスが少年児童の成長に与えた多方面の影響は、その後の中国の歴史プロセスにおける例えば紅衛兵運動や知識青年運動、ひいては中国人の政治意識の特徴を理解する上での鍵となるであろう。

“六一”儿童节与中国政治社会化进程:1949-1976
  在1949年后的20余年间,由于国内外复杂环境的影响以及中国共产党巩固政权的需要,以传统道德及政治信仰为核心的政治教育被置于极其重要的地位。这一政治社会化进程,在一代又一代少年儿童群体身上表现得极为突出。作为对少年儿童进行政治教育的重要媒介和载体,“六一”儿童节展现了中共及政府对少年儿童进行政治及观念教育的主要内容和途径,少年儿童群体意识的演变、政治人格的形成及其社会效果,也在节日各种活动中充分展示出来。
  本文通过对中共党的机关报刊《人民日报》和《红旗》杂志中有关儿童节报道和儿童政治教育文件的分析,将这段时期中共及政府对少年儿童群体进行政治教育的主要内容和途径做了全面概括和总结:党国观念的培养、革命传统精神的宣扬、阶级观念及阶级斗争的教育、道德教化、国际时事的灌输是这一时期政治教育的核心内容;中共及政府通过家庭、学校、社会三方面的作用、组建政治性的儿童组织、在文化教育和娱乐活动中渗透政治因素来达到其政治教育的目的。这一时期的少儿杂志和文学性刊物,以及从这个时代成长起来的人的回忆录和传记,从不同角度生动地体现了该时期政治教育对少年儿童成长造成的影响及少年儿童群体对政治社会化的反应。
  本文借助政治学、社会学、儿童心理学以及宣传学的有关知识,分析中共及政府在进行政治教育的过程中,如何巧妙地运用少年儿童的群体特征和心理特点来增强政治社会化的效果;同时通过这些知识,试图解析少年儿童群体对政治社会化做出各种反应的原因,从而理解其群体意识演变及政治人格的形成过程。
  中共及政府在这一时期对少年儿童进行的高强度政治教育,将其所要求的政治观念及意识形态成功地渗入该群体意识中,社会政治化程度加深。少年儿童的身心成长完全处在浓烈的政治氛围中,儿童被当作准成人看待,承受着该年龄阶段不该承受的政治压力。政治对社会生活的过度干预,尤其是对少年儿童教育和培养的过度干预,致使那一代人正常成长过程的缺失和一定程度的心理扭曲。这对该时期中国政治发展、演变历程产生了极大影响,造成了政治社会化的畸形发展;少年儿童自身人格的塑造也在走向异化,思维及言行表现出极强的政治性,并呈现出单一化、模式化的状态。
  对这一时期政治社会化进程中的少年儿童群体进行分析,有助于我们更清晰、深刻地认识当代中国历史发展演变历程和政治社会化对此后成长起来的几代人人格及心态的影响。这一时期政治社会化与社会政治化双向互动过程对少年儿童的成长造成的多方面影响,是理解此后中国历史进程中如红卫兵运动、知识青年运动乃至于中国人政治意识特征的关键所在。

曹牧(南开大学历史学院)

20世紀中・後期工業化の松花江水環境に対する影響:吉林市を例として
 現在の中国環境史研究は、ほとんどが歴史上の環境要因の変遷や環境総合評価及び理論的研究というような早期の社会環境問題への関心に集中しており、近現代の工業発展がもたらした環境破壊に関して系統的研究を展開している歴史学者は少ない。研究の区域からいうと、黄河、長江の二大流域の環境歴史問題に主に集中しており、残りは華南と西北内陸で、東北地区に関する環境変遷史の研究成果は少ない。しかし当該区域は、工業化以来の環境変遷史を研究する上で、特殊かつ重要な意義を備えているのである。
 松花江の水環境問題に関する従来の研究は、大多数が科学的考察の性質を持った調査報告であり、しかも汚染事件そのものの調査・検証が多かった。社会が環境保護を重視するにつれて近年では松花江の環境問題に関する調査が現れてきており、こうした研究は流域の環境保護に対して疑いなく重要な働きをするようになった。しかし、その成果には若干の顕著な欠陥が存在している。言い換えると、こうした考察はすべて分散しており全面に及んでいない。地域の生態環境の回復と保護は一つのシステマティックな事業であり、系統だった解決案を提供し採択するために、関連する問題についてのより全面的な認識と理解が必要である。上述した状況にかんがみて、筆者は一人の歴史研究に従事する者として、工業化が引き起こした環境問題とそれがもたらす影響に対して、歴史的な深度と一定の包括性を備える考察を行うものである。松花江流域の地域が拡大し、問題は複雑であるため、議論を集中させ、掘り下げることができるように、本稿では吉林市を典型的な事例として選び、5つの部分に分けて議論を行う。
 論文の第1部では選定した事例都市の吉林市を簡単に紹介し、それを研究対象として選んだ原因と20世紀中後期における発展基本状況を明らかにする。第2部では工業排水放出と水環境汚染関係の研究に重点を置き、当地の実際の状況から両者の関係をまとめる。第3部の関心は汚染がもたらした経済面への影響へと移り、そこには漁業、栽培業ならびに工業生産等も含める。第4部では生産領域から生活領域に視野を拡げて、汚染がもたらす人体への健康被害に重点をおき、死亡率、癌発症率などの各観点から切り込むとともに、1960-70年代の当地における水俣病の事例を解説する。最後の部では、一つの新しい角度から汚染問題を取り扱う。すなわち、社会的影響という観点から汚染について考察する。水の汚染は勢い社会問題を招くにちがいないし、これは区域内部、国家内部の矛盾につながるだけでなく、ひいては国境を分ける境界河川を通じて国際紛争をも引き起こしうる。
 長い歴史発展のプロセスの中で、人類の歩む一歩一歩が自然環境と不可分である。重工業を主とする粗放的経済発展の道は、もとより中国の経済発展に多大な貢献をなしてきた。しかし、これによる汚染問題もまた、はかりしれない害を残すのである。これはつまるところは、人と自然の関係をうまく処理してこなかったことに帰結するだろう。20世紀中後期の吉林市を代表例とする工業発展と環境保護との矛盾および衝突は、工業化の時代における「人類―自然」の矛盾した関係の普遍性な事例であり、それが我々に与えてくれる経験と教訓は、深く考え参考とするために極めて大きな価値を持つのである。

20世纪中后期工业化对松花江水环境的影响:以吉林市为例
  目前中国环境史研究,更多关注于早期社会的环境问题,如历史上环境要素的变迁、环境综合评价及理论性的研究等,而对于近现代工业发展带来的环境破坏,却很少有历史学者展开系统的探研;从所研究的区域而言,则主要集中于黄河、长江两大流域的环境历史问题,其余则为华南和西北内陆,而关于东北地区环境变迁史的研究成果则很少。然而,该区域对于研究工业化以来的环境变迁史却具有特殊重要的意义。
  以往关于松花江水环境问题的研究,绝大多数是科学考察性质的调查报告,且多为对污染事件本身的查证。随着社会对环境保护的重视,近些年出现了一些对松花江环境问题的调查,这些研究无疑对流域环境保护起到了重要作用。但是,其成果却存在着若干显著的缺陷。换言之,这些考察都是分散和不全面的。区域生态环境的恢复和保护是一个系统的工程,需要对相关问题有一个更加全面的认识和了解,以便提供和采取系统的解决方案。鉴于上述情况,笔者欲以一名历史工作者的身份,对工业化引起的环境问题及其带来的影响,进行一种具有历史纵深和比较综合性的考察。由于松花江流域地域广大、问题复杂,为了使讨论更加集中、深入,本文选择吉林市作为典型的案例,分为五个部分进行讨论:
  在文章的第一部分,作者简介了所选定的案例城市吉林,指明选择其作为研究对象的原因以及它在20世纪中后期的发展基本状况。第二部分,侧重于对工业废水排放与水环境污染关系的研究,并从当地实际情况总结两者之间的关系。第三部分,将注意力转移到污染造成的经济影响上,其中包括渔业、种植业以及工业生产等方面。第四部分由生产领域扩展到生活领域,将重点放在污染对人体健康的作用,分别从死亡率、癌症发病率等角度切入,并利用二十世纪六七十年代当地的水俣病案例进行解说。最后一个部分,则从一个新角度看待污染问题,即由社会影响考察污染。水污染势必导致社会问题,这不仅牵扯到区域内部、国家内部的矛盾,甚至会通过界河引起国际纠纷。
  在漫长的历史发展过程中,人类的每一步都与自然环境不可分割。以重工业为主的粗放型经济发展道路,固然对中国经济发展贡献巨大,但是由此带来的污染问题亦遗患无穷。这些归根结底是由于没有处理好人与自然的关系。二十世纪中后期以吉林市为代表的工业发展与环境保护之间的矛盾冲突,是工业化时代“人类——自然”矛盾关系的一种具有普遍性的案例,它提供给我们的经验教训,非常值得深思和借鉴。

迟晓静(南开大学历史学院博士生)

中国民主社会党の憲政思想について
 近代中国の歴史は救国と啓蒙という二つのテーマで構成されており、民族滅亡の瀬戸際にあっては、救国がややもすれば主流となったが、啓蒙が近代中国の転換プロセスにおいてプラスの役割を果たしたことは否定できない。そのうち、中国近代の憲政運動もまた啓蒙運動中の一つの重要な構成部分である。
 西洋の憲政理念普及の影響を受け、民国初年から1949年に至るまで、憲政はずっと試みられ、同時に絶えず変異していた。中国民主社会党は西洋の憲政理念を受け入れ、できるだけこれを実践しようと努めてきた。そして、1946年から1948年は中国民主社会党が中国の政治舞台で活躍した時期であり、まさに彼らが自己の政治抱負と憲政理想を展開する準備をしていた時期でもあった。この時、国民党は「一党専制」の合法性を構築するため、民社党と青年党が「制憲国大」と国民政府に参加するよう極力言いくるめた。これは、政治資源が欠如している民社党が大政党への依拠を通して憲政という自己の理想を実現する「きっかけ」を提供するものであった。しかし現実の政治は民社党の憲政という理想を打破し、ついには近代中国の政治転換の中で脇役にされてしまった。
 中国民社社会党の前身は国家社会党で、その理論の基礎は国家民族本位を中心とした国家社会主義であり、すなわち「絶対的愛国主義と漸進的社会主義」である。政治的には「民主政治を根本原則とする」修正「社会主義」(あるいは資本主義)を主張し、経済的には国家社会主義を主張し、生産手段の国有と私有財産の排除に反対し、階級闘争理論に反対し、漸進的な社会主義を主張した。また文化政策面では学術の自由独立を主張した。このような自由主義或いは改良主義思想の実現には、民衆素質の普遍的向上と、さらに徹底的な啓蒙が求められただけでなく、結果が証明されるには相当な時間が必要とされた。しかし当時の中国にあっては、革命のような即効手段がさらに適しているようであった。憲政をあまりにも「執着」して追求しすぎ、現実政治への認識があいまいであり、さらには情勢判断を誤ったことで、民社党は共産党、中国民主同盟、及び国民党の三大勢力に押しつぶされる状況に陥った。つまり、中国共産党との間では暴力革命を中心とするか否かをめぐる論争により、中国民主同盟とは憲政立場上の齟齬ゆえに、さらに国民党とは「一党専政」を終わらせるか否か核心とする意見の不一致によって、そうなったのである。この様な背景のもと、勢力が手薄な民社党は自らの憲政理念を伸ばすことが難しくなり、最終的には政治上の「花瓶」となりはててしまった。

中国民主社会党的宪政思想探析
  近代中国的历史是由救亡与启蒙两大主题构成的,虽然在民族危亡关头,救亡往往成为主流,但是不能否认启蒙在近代中国转型过程中的积极作用。其中,中国近代宪政运动也是启蒙运动中一个重要的组成部分。
  受到西方宪政理念传播的影响,从民国初年到1949年,宪政一直都在尝试,同时也在不断的变异。中国民主社会党接受了西方宪政理念并力求付诸于实践。而1946-1948年是中国民主社会党在中国政治舞台上的活跃时期,也正是他们准备展现自己政治抱负和宪政理想的时期。此时,国民党为了造就“一党专政”的合法性,极力拉拢民社党和青年党,参加“制宪国大”和国民政府。这就为缺乏政治资源的民社党企图通过依附于一个大党来实现自己宪政理想提供了“契机”。然而现实的政治打破了民社党的宪政理想,使其最终成为近代中国政治转型中的一个配角。
  中国民主社会党,前身为国家社会党,其理论基础是以国家民族本位为中心的国家社会主义,即“绝对的爱国主义与渐进的社会主义”。政治上主张以“民主政治为根本原则”的修正“社会主义”(或资本主义);经济上主张国家社会主义,反对生产工具国有和废除财产私有,反对阶级斗争理论,主张渐进的社会主义;文化政策上,主张学术自由独立。这种自由主义或者改良主义思想的实现不但需要民众素质的普遍提高,需要更为彻底的启蒙,也需要相当长时间的效果见证,然而在中国当时的形式下,革命这种速效的手段似乎更为适用一些。对宪政过于“执著”的追求,对现实政治认识的模糊,对形势判断的失误,使民社党深陷于共产党、民盟及国民党三大势力的挤压之下:与中共围绕着是否以暴力革命为中心展开争论,与民盟在宪政立场上的龃龉,与国民党以是否结束“一党专政”为核心的分歧。在这种背景下,势力微薄的民社党难以伸张自己的宪政理念,最终沦为政治上的“花瓶”。

熊亚平(南开大学历史学院博士生)

鉄道と都市・農村の経済関係の再構成:1880-1937年の華北地区を例として
 いわゆる都市・農村の経済関係は、都市農村間の農工業分業、人口移動、商品(農産品、鉱産品、工業品等)交流等多方面を含め、都市農村関係研究の一つの重要な内容である。鉄道運輸は中国に出現して以来、都市・農村経済関係に影響を及ぼす重要要素となった。以前の研究成果はほぼ人口移動、沿海都市と内陸部農村間の経済交流等いくつかの側面による、依然として都市・農村の二元あるいは三元(都市・町・農村)構造理論に依拠したあいまいな分析であり、いまだ都市・経済関係の全貌と複雑性を反映していない。このため鉄道と都市・農村経済関係変動間の関係というこの課題には、やはり一歩進んだ研究が必要なのである。
 本文は1937年の鉄道分布が較的密集した華北地区を例にとり、鉄道と商工業小都市が成長しつつある都市・農村の経済関係、新興都市が出現しつつある中における都市・農村の経済関係、内陸の伝統的都市形態が変貌しつつある中での都市・農村の経済関係、沿海都市近郊を開発しつつある局面においての都市・農村の経済関係など、違った種類の都市・農村経済関係の変遷の関連性を考察することを通して、鉄道と都市・農村の経済関係変動の関係を論述する。
 本文では、鉄道運輸が出現し運輸ネットワークが形成された後、鉄道駅のターミナル機能、鉄道の後背地に与える連鎖的影響、中長距離輸送に適する特性などの優位性が、華北鉄路沿線の漯河、驻马店、焦作、秦皇岛などの商工業小都市の成長を促進し、唐山、石家庄等の新興都市の出現を推し進め、鄭州、済南など内陸部の伝統的都市形態の変貌を促し、さらには天津、青島など沿海都市奥地の開発を速める結果をもたらしたと考える。このプロセスにおいて、都市・農村間の農工業分業、都市・農村間の人口移動と都市・農村間の商品交流の内容などに等しく顕著な変化が発生した。華北地区の都市・農村経済関係の全体的構図は、国都北京、各省都市、府(行政機関のある)市、県市、河沿い、鉄道(駅)沿線の商工業小都市を主な要衝とし、河川運輸および道路運輸を主な紐帯とし、また農産品と手工業品を交易内容とする都市・農村経済関係から、鉄道沿線の商工業小都市、新興都市、内陸伝統都市や沿海港湾都市を主な要衝とし、鉄道を主な紐帯とし、近代的工業製品・農産物・手工業製品の交易を主な内容とする都市・農村経済関係へと転じた。
 鉄道が推し進めた都市・農村経済関係の再構成は、華北地区の都市・農村経済関係をさらに錯綜した複雑なものに変えた。従来の都市・農村間の二元構造および三元構造、あるいは二重の二元構造という理論に基づいたあいまいな分析では、都市・農村経済関係の全内容を射程に収めることはできない。同時に、1937年より前には、華北地区にはわずか9本の幹線鉄道しかなく、鉄道は海運、陸運などの交通方式の力を借りた連絡輸送形式を採らざるを得ず、そのようにしてようやくその影響を華北の大部分の地区に拡大した。このため、その影響下にある都市・農村経済関係は、地域上の不平等性をも現したのである。

铁路与城乡经济关系的重构:以1880—1937年间的华北地区为例
  所谓城乡经济关系,包括城乡之间的工农业分工、人口迁移、商品(农产品、矿产品、工业品等)交流等多方面,是城乡关系研究中的一项重要内容。铁路运输在中国兴起后,成为影响城乡经济关系的重要因素。由于先前的研究成果大都仅限于人口迁移、沿海城市与内地乡村之间的经济交流等几个侧面,仍然是城乡二元或三元(城市、城镇、乡村)结构理论关照下的笼统分析,并未反映出城乡经济关系的全貌和复杂性。因此铁路与城乡经济关系变动之间的关系这一课题,仍有进一步研究的必要。
  本文将以1937年前铁路分布比较密集的华北地区为例,通过对铁路与工商业市镇成长中的城乡经济关系、新兴城市崛起中的城乡经济关系、内陆传统城市形态演变中的城乡经济关系、沿海城市腹地拓展中的城乡经济关系等不同类型的城乡经济关系的演变之间关联性的考察,来论述铁路与城乡经济关系变动之间的关系。
  本文认为,铁路运输兴起并形成运输网络后,铁路车站的枢纽作用、铁路的向后连锁影响和适于中长途运输等优势,促进了华北铁路沿线漯河、驻马店、焦作、秦皇岛等工商业市镇的成长,推动了唐山、石家庄等新兴城市的崛起,促进了郑州、济南等内地传统城市形态的演变,加快了天津、青岛等沿海城市腹地的拓展。在此过程中,城乡间工农业分工、城乡间人口迁移和城乡间商品交流的内容等,均发生了显著变化。华北地区城乡经济关系的总体格局,开始由以京城北京、各省城、府城、县城、沿河、沿路(驿路)工商业市镇为主要交流中心,以河运和路运为主要纽带,以农产品和手工业品为交易内容的城乡经济关系,转变为以铁路沿线工商业市镇、新兴城市、内陆传统城市和沿海港口城市为主要交流中心,以铁路为主要纽带,以近代工业品、农产品和手工业品交易为主要内容的城乡经济关系。
  铁路推动下的城乡经济关系的重构,使华北地区的城乡经济关系变得更加错综复杂。以往在城乡二元结构、三元结构甚至双重二元结构理论关照下的笼统分析,并不能容纳城乡经济关系的全部内容。同时,由于1937年前华北地区仅有9条铁路干线,铁路必须借助和水运、陆运等交通方式联运的形式,才能将其影响扩展至华北大部分地区,因此其影响下的城乡经济关系,也呈现出地域上的不平衡性。

北京大学历史学系

臧运祜(北京大学历史学系 副教授)

抗戦中後期日本の「重慶工作」について (1941-1945)
 我国の学界では、1940年以前の中日「和平工作」に関しては今まですでに多くの深く掘り下げた究がされてきたが、抗戦中後期(1941-1945年)における日本の「重慶工作」の研究に関してはまだ相当に手薄である。
 1940年11月13日、日本の「御前会議」が決定した『中国事変処理綱要』では、「重慶工作」の計画と談判条件の推進が提示された。その実質は、蒋介石と重慶国民政府を「第2の汪精衛」と「第2の南京」にさせようとしたものであった。この目的は「銭永銘工作」を推し進めることはなかったが、11月30日に日本が汪精衛偽政府を承認することによって実現した。1941年に入り、日本は世界戦争の助けを借りて「中国事変」を解決しようと企て、「中国事変」によって、世界戦争で有利な形勢をとろうとした。太平洋戦争勃発後すぐの1942年、日本は偽満州国と汪偽政府の参戦を許可せず、また対重慶の諜報路線設置を引き続き国民政府に屈服を促そうと図り、閻錫山を対象とする「対伯工作」に転じて国民政府を分裂させようとしたが成功せず、攻撃戦略を主とする方向へ向くほかなかった。
 1943年はじめ、日本は汪偽政府の「参戦」をきっかけとして、その偽政権を主とする「対華新政策」を実施した。日本の指導のもと、汪偽政府により進めた「対重慶政治工作」は、対華新政策の内容の一つともなった。しかし1943年末、「カイロ宣言」の発表は日本の対華新政策の破綻を宣告し、それに続いて開始した「一号作戦」もまた日本の「対重慶政治工作」を結果のないものに終わらせた。
 1944年7月政権を持った小磯内閣は、日本の対華政策の重要性を再び汪偽政府を通しての対重慶政治工作へ転換した。最高戦争指導会議が関係文書を決定し、昭和天皇もまた多くの質問をされた。しかし汪精衛の病死により当該工作はさらに悲観性を増し、日本は中国派遣軍によってこれを守るほかなかった。小磯首相は「繆斌工作」をすすめようと企てたが内部の強烈な反対を受けて失敗した。鈴木内閣期間中、本土決戦と停戦のため、依然として重慶に対する「和平工作」を進めることが企てられたが、中国派遣軍の談判には結果がえられなかった。敗戦に伴い日本の「重慶工作」を含んだ国内の対華政策は徹底して失敗した。
 抗戦中後期における日本の「重慶工作」は、政策ランクや実施レベルに関しては高くないわけではなかったが、最終的にはすべて失敗に終わった。偽満州国と日本の駐留軍は、日本が和平の真意があるのか、和平が実現できるかどうかを検証する上で決定的に重要な条件となった。すでに汪精衛偽国民政府を育成し、承認した抗戦中後期において、日本の「重慶工作」の実質は重慶国民政府を南京偽政権に成り下げ、それにより戦わずして降伏するという目的を達成しようとしたものにほかならなかったが、その失敗は歴史の時勢のしからしめるところであった。

抗战中后期日本的“重庆工作”述论(1941-1945)
  我国学界对于1940年以前的中日“和平工作”,迄今已有较多且深入的研究,但对于抗战中后期(1941—1945年)日本的“重庆工作”的研究,尚相当薄弱。
  1940年 11月13日日本“御前会议”决定的《中国事变处理纲要》,提出了进行“重庆工作”的计划和谈判条件,其实质就是要使蒋介石和重庆国民政府做“汪精卫第二”和“南京第二”。这一目的虽然没有推进“钱永铭工作”的进行,但随着11月30日日本的承认汪精卫伪政府而实现。进入1941年,日本企图借助世界战争来解决“中国事变”,并以“中国事变”促进世界战争的有利形势。太平洋战争爆发之初的1942年,日本不许伪满洲国和汪伪政府参战,以设置对重庆的谍报路线为主,企图继续促使国民政府屈服,并转向以阎锡山为对象的“对伯工作”,来分裂国民政府,但最后均未成功,只好转入战略打击为主。
  1943年初,日本以汪伪政府的“参战”为契机,实施以该伪政权为主的“对华新政策”。在日本领导下、由汪伪政府进行的“对重庆政治工作”,也成为对华新政策的内容之一。但到1943年底,“开罗宣言”的发表宣告了日本对华新政策的破产,随后开始的“一号作战”又使得日本的“对重庆政治工作”无果而终。
  1944年7月上台的小矶内阁,将日本对华政策的重点再次转向通过汪伪政府的对重庆政治工作;最高战争指导会议决定了有关文件,昭和天皇也多次垂询。但由于汪精卫病死,该工作愈加悲观,日本只好转由中国派遣军主持之。小矶首相企图进行的“缪斌工作”,由于受到了内部的强烈反对而夭折。铃木内阁期间,为了本土决战和停战,仍然企图进行对重庆的“和平工作”,但中国派遣军的谈判没有结果。随着战败,日本包括“重庆工作”在内的对华政策彻底失败。
  抗战中后期日本的“重庆工作”,决策级别与实施层次不可谓不高,但最终均以失败告终。伪满洲国与日本驻军,成为检验日本是否有和平真意或和平是否会实现的关键条件。在已经扶植并承认汪精卫伪国民政府的抗战中后期,日本“重庆工作”的实质,就是要使重庆国民政府沦为南京伪政权,以达到其不战而降的目的,其失败也就是历史的时势之使然。

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