趣旨説明 「現代“中国”の社会変容と東アジアの新環境」国際シンポジウムは,大阪大学中国文化フォーラムが,天津・南開大学歴史学院,台湾・東華大学歴史学系とともに,2007年8月に天津で第一回を,2008年8月に台湾花蓮で第二回を開催し,今回の第三回の開催をもってひと巡りとなります。 この三校による国際シンポジウムには,以下の四つの特色があるように思われます。 第一に,大阪大学中国文化フォーラムは,大阪大学において中国地域研究を専攻する学部生・大学院生と,教員および卒業後他大学や研究機関で研究活動に従事している方々との有機的連携を実現することによって,地域研究の一環としての現代中国研究の活性化とその深化を図ることを目的とする部局横断的なプラットホームです。私たちは,中国地域研究あるいは現代中国研究を共通項とする多領域(マルチ・ディシプリン)の混成チームであり,そのことを意識しながら大阪大学らしい中国研究を具体化できないかと考えました。この国際シンポジウムのテーマ「現代“中国”の社会変容と東アジアの新環境」は,今日の中国と東アジアという課題を設定することによって,私たちが中国および台湾の歴史学者と学術的な対話を行うことができるのではないかと考えたものです。 第二に,21世紀東アジアは地球上で最もダイナミックな展開を遂げている地域であり,経済・政治・社会などすべての領域で大きな変容を遂げつつあります。その一方で,この地域は,経済格差や政治的分断など他地域とは異なる深刻な課題を抱えております。このような現実をふまえたとき,学校間交流という国際交流のスタイルは,東アジア内部の各地域の交流を推進し実体化するための一つの有効な手立てなのではないかと考えました。 第三に,一昨年,昨年同様,今回も会議用語を中国語として開催いたします。日本で開催される国際シンポジウムは,通常,英語か日本語で行われるものだと思います。私たちのチームの課題が現代中国地域研究であること,あるいは「中国」が研究の対象であるということのみならず,中国地域研究に関わる圧倒的多数の学術的成果もまた中国語で産出されるという事実を想起すれば,大阪で開催するこのシンポジウムもまた,中国語で行う意味があると判断いたしました。同時にこのことには,二つの含意をふくんでいます。すなわち,私たちのチームが多領域の混成チームであって中国語を研究言語としない仲間を有しており,当然,会議で中国語コミュニケーションを成立させるための工夫を要すること,同時に,そのような工夫を行う条件を私たちは有しているということであります。2007年10月に大阪大学は大阪外国語大学と統合しましたが,この「条件」とは,統合後の大阪大学が大阪外国語大学から継承した貴重な資産にほかなりません。 第四に,大学院生やポストドクターなど若い研究者の交流の機会を提供するということであります。一昨年の天津では日中の大学院生らの報告の機会をもち,また昨年の花蓮では日本側若手研究者によるセッションを設定しました。今回は,中国から6人,日本側は7人が報告を行います。中国側報告者には『大阪大学中国文化フォーラム・ディスカッションペーパー』への寄稿をお願いし,また日本側報告者は2011年3月に中国で刊行する論文集への寄稿のための公募に応じていただいた方々です。 今回の国際シンポジウムは,来年度末(2011年3月)に三校が中国で刊行する論文集に収める論文をもちよるかたちで開催します。この三校による国際シンポジウムが,今後さらに大きな実を結ぶよう,みなさまのご支援とご助力をお願いいたします。(田中仁) 《现代中国的社会变动与东亚新格局》国际研讨会是大阪大学中国文化论坛与天津南开大学历史学院、台湾东华大学历史系共同于2007年8月在天津首次召开,并于2008年8月在台湾花莲第二次召开,这是第三次在大阪轮流召开。 这三所大学共同举办的国际研讨会,我认为有以下四个特点。 第一,大阪大学中国文化论坛,实现了大阪大学中国地域研究专业的本科生、研究生、教员以及毕业后在其他大学或研究机构从事研究活动的研究员的有机结合。作为地域研究的一环,以实现当代中国研究的灵活性与深度为目的的校内跨专业的平台。我们组成了中国地域研究和当代中国研究为共通点的多领域(Multi-Disciplinary)混合团队。并以此为目标,建成有大阪大学特色的中国研究体系。此国际研讨会的课题--《现代中国的社会变动与东亚新格局》是根据当今中国与东亚之间的课题,构建我们与中国以及台湾的历史学者进行学术对话的平台。 第二,21世纪的东亚是世界上发展、变化最快的区域,经济、政治、社会等全方位的领域都发生着巨大的变化。与此同时,在这一区域, 与其他区域不同,还存在着贫富差距、政治隔阂等深刻的问题。在认识到这种现实情况的同时,学校间的交流--这种国际交流形式,我认为在东亚内部各地区大学间推行,是一种行之有效的方式。 第三,与前年,去年一样,这次会议在召开时,以中文为会议讨论语言。在日本召开的国际研讨会通常以英语或者日语为会议讨论语言。我们团队的研究课题不仅仅是现代中国地方研究,或者以“中国”为对象,与中国地域研究有关的绝大多数学术成果都是以中文的形式产生的。结合这一事实,在大阪召开的国际研讨会以中文为会议讨论语言自有它的意义。同时,还有两层含义。即,我们的团队是多研究领域的混合团队,有并不精通中文的伙伴,当然,在会议中对用中文进行交流还需要努力。同时,我们也有条件解决这一问题。2007年10月大阪大学与大阪外国语大学合并,这种“条件”是,合并后的大阪大学从大阪外国语大学那里继承下来的重要资产。 第四,这一研讨会也为研究生及博士后等年轻学者的交流提供了机会。前年在天津,中日的研究生都得到了报告的机会,去年在花莲,提供了与日本年轻学者的对话机会。今年研讨会中,有中国6人、日本7人的青年学者的报告。中国青年学者的报告是以后作为《大阪大学中国文化论坛Discussion Paper》的论文在网上发表,而日本的青年报告者也答应对2011年3月在中国出版的论文集的征稿进行应招。 这次的国际研讨会,是三校以明年度末(2011年3月)在中国出版的论文集为目的召开的。这三校联合举办的国际研讨会,为今后能结出丰硕的研究成果,还期待着大家的支持与帮助。(田中仁;高洋译) |
用10分钟的时间评论4篇内容各异的高质量论文,对我而言是一个巨大的挑战。每篇论文只有平均2分半钟,而且4篇论文涉及政治、经济、封建理论及外交,实在是太困难了。我只能尽力为之。
西村先生的大作,从宏观的角度对国民政府时期的政治体制进行了系统而富有启示的梳理。在近代中国,从清以前“君权神授”的帝王专制体制到民国初年开始“人民托付”的共和体制,通过南京临时政府通过的《临时约法》,中国建立起亚洲第一个民主共和国,这是一个巨大的历史性进步。此后,民国政治的正统性从共和体制转入国民党时代的“党国体制”,形式上是对民初共和体制的继承,但也是一个基于战乱时代的权力集中,是一个历史的反复。西村先生的这种分析,都是具有重要学术价值的。 此外,西村先生在文中提出,中日战争时期国民参政会的设立,在体制上具有改变中国政治路径的重要意义,它迫使国共两党都把民主党派视为不可忽视的政治力量进行争取,这是一个非常有启发性的新提法。 我的问题在于,西村先生在着重于民国时期政治体制改变的研究同时,是否应注意到影响中国政治体制运作的因素还有很多,比如传统中国政治文化就是不容忽视的重要因素,制度与文化的矛盾实在是影响正统性的核心所在。民国初年的政治制度,正是在传统政治文化的影响下发生变异的。 川井伸一先生的论文,是对中国企业管理的历史性质进行研究。他详细地考察了自晚清时代开始的“官督商办”、家族企业、股份公司、国有企业、民营企业、股份制的企业管理体制的演变,思路清晰,历史脉络也十分清晰。 对于我们理解近代以来中国企业管理体制的进展是十分有益的。但从川井先生的分析看,企业管理体制似乎存在着一个轮回,即从19世纪末20世纪初的股份制到20世纪末的股份制,这个轮回说明了什么问题?是经济发展的原因,还是政治因素在起作用呢? 自清末以来,国家对于国有大企业的控制一直处于一种日益紧缩的状况,而对民营企业较为放松。今天的中国经济结构上,私有企业产值占全国年GDP的三分之二以上,市场化已十分明显,但企业与政治的关系似乎更加紧密。因为中国政治的特性,决定了行政力量对于重大资源的控制,这使得其对市场规则及法律都形成了十分强大的挑战。不少私营业主意识到这一关键所在,纷纷通过各种方式进入政协、人大,并进而试图影响法律条文的制定,这是一个新的趋势。而政治势力也开始与企业进行或明或暗的联盟,“寻租”效应十分明显。在这种情况下,只从企业管理体制去寻求对其性质的判断,能不能达到接近真实的效果呢? 王先明教授的论文,理论性很强,也提出一个对于辨析近代中国社会性质来说十分重要的理论性判断。 作者基本认可西周封建制是典型的“封建制”的说法,即传统意义上讲的裂土封侯、血缘关系、超经济强制等。作者认为,秦汉之后的政治形态与之前有所不同,存在着众多的“封建性”(残余),换句话说,即秦汉之后即已是“半封建”的社会形态了。那么,这个秦汉之后到近代之前的“半封建”与近代的“半封建”是什么关系呢? 作者认为,近代中国的“半封建”是一个十分复杂的问题,可以充分表明近代中国的社会性质。那么,这个“半封建”实际上与近代工业化及西方冲击关系甚大,是近代中国社会转型的一个表现。“半封建”是不是可以看作是对近代中国社会转型的一种理论性表述或更注重历史与文化延续的说法呢?究竟应该如何认识它呢? 1920年代开始,“半封建”的概念开始流行,事实上与中共、国民党的社会形态认识理论有关,它们共同的源流是苏俄。在五四之前,并没有“半封建”的概念,只是以“专制”形容古代政治体制。因此,本人认为第20页的表述值得商榷。 张力研究员的论文,涉及外交问题,非我所长。他利用档案资料将1946年巴黎和会与中国的关系分析得相当清晰,把当时所谓“世界五强”的中国的实际地位的有限性描述得非常清楚,对中国在会议上的作用也予以客观的表达。 我的一个问题在于,1946年巴黎和会召开之际,正是中国国内国共内争、制宪会议酝酿召开之时。此时,中国的政治视野主要在国内,中国的世界战略究竟是什么?中国意欲通过巴黎和会达到什么样的国际战略?我觉得,本文对此的表述不是十分清楚。(江沛) 多岐にわたる高度なテーマ報告4本を、10分で評論することは、私にとって一つの大きな挑戦であった。論文1本あたりに使える時間は2分半程度であり、しかも、その4本の論文は、政治、経済、封建理論、外交と多岐にわたっていたため、はなはだ困難なものであり、微力を尽くすのみであった。 西村成雄先生(放送大学)の大論文は、マクロな視点から、国民政府時期の政治体制について、体系的かつ豊富な示唆に富んだ整理が行われた。近代中国において、清朝以前の“君権神授”の皇帝専制体制から、民国初年に始まる“人民托付”の共和体制、南京臨時政府による“中華民国臨時約法”の採択を通じて、アジア最初の民主共和国が成立したことは、大きな歴史の進歩であった。その後、民国政治の正統性は、共和体制から国民党時期の“党国体制”へと移り変わり、形式上は、民国初期の共和体制を継承していたものの、戦乱時代の権力集中を基礎にもしており、これは一つの歴史の反復であった。西村先生の、この種の分析はすべて、重要な学術的価値を有している。 この他に、西村先生が論文中で述べられた、日中戦争時期における国民参政会の設立が、体制上において、中国における政治的経路を改変する重要な意義を持っていて、国共両党にとって、民主党派を無視し得ない政治的エネルギーと見なし、争奪していた。こうした議論は、非常に啓発されるところも多く、新しい問題提起を行っている。 私が述べたい点は、以下の点である。西村先生が、民国時期の政治体制の変化に重点をおいて研究を行うのと同時に、中国の政治体制に影響を与えた要素が多いことに注意を向けるかどうかということである。例えば、伝統中国の政治文化が、無視し得ない重要な要素であり、実際に、制度と文化の矛盾という面で、正統性の核心部分に影響を与えたというような点である。民国初年の政治制度は、まさに、伝統的な政治文化の影響下において発生した変革だったのである。 川井伸一先生(愛知大学)の論文は、中国における会社支配の性格の歴史的性質について研究を進めたものである。川井先生は、清末に始まる、官督商弁会社、家族会社、株式会社、国有会社、民営会社、持株式会社の支配体制の変遷について、思考的方法も明確であり、歴史的文脈の面でも大変明晰である。我々が、近代中国以降の会社支配体制についての変遷を理解する上で、大変有益なものである。しかし、川井先生の分析によるならば、会社支配体制には、あたかも、ある種の“輪廻”が存在しているかのようである。つまりは、19世紀末から20世紀の初めの株式制度から、20世紀末までの株式制度までの、こうした“輪廻”が、どのような問題を説明しているかということである。経済発展の原因なのか、はたまた、政治的な要素が影響したのだろうか? 清末以降、国家の国有大企業に対する統制は、緊密化の一途にあったが、民間企業に対しては、比較的緩やかな姿勢をとっていた。今日の中国における経済構造では、私有企業の生産高は、全国の年間GDP値の3分の2以上を占め、市場化は既に十分であるが、企業と政治の関係は、逆によりいっそうに緊密化しているようである。中国政治の特性は、行政権力が重要な資源について支配することを決めてしまい、このため、市場に対する規制や法律が、とても強い挑戦を引き起こしているのである。多くの私営企業が、このような重要な点を意識し始めたことで、続々と、様々なルートを通じて、政治協商会議や全国人民代表大会へと参入していき、さらには、企てを行い、新しい法律条文の制定に影響を与えようとすることは、新しい動きだと言えるだろう。政治勢力が、企業活動に、陰に陽に協力を始めることは、“尋租(レントシーキング)”によって、十分明らかである。このような状況下、企業支配体制の性質について分析を進めていくところから、実際の効果について近づくことが出来るのではないだろうか? 王先明先生(南開大学)の論文は、理論的性格の強いものであり、また、近代中国における社会の性質の観点から見ると、大変重要な理論の判断的枠組みを提起している。 王先生は、西周王朝の封建制が、“封建制”の典型例であること、つまりは、伝統的文脈における、諸侯に土地を分けること、血縁関係、経済外的強制などを基本的には認めている。また、王先生は、秦漢帝国以後の政治形態とそれ以前の政治形態が違ったところであり、多くの“封建制”(残滓)を存在していたこと、言い換えれば、秦漢帝国以後は、“半封建”的な社会形態となったと考えている。だとすれば、秦漢以後より近代までの“半封建”という概念と、近代における“半封建”という概念とはいったいどのような関係があるのだろうか? 王先生は、近代中国における“半封建”という概念が、とても複雑な問題であり、近代中国社会の性質をとてもよく表すことが可能だと考えている。もしそうならば、この“半封建”という概念は、実際は、近代工業化及び西洋の衝撃ととても深い関係にあり、近代中国社会の典型的なあり方なのである。“半封建”という概念は、近代中国社会の変化におけるある種の論理的な表現であるのか、それとも、歴史と文化の連続性を重視する表現なのだろうか?結局のところ、この点の理解について、どのように考えればいいのだろうか? 1920年代に、“半封建”という概念の流行がし始め、実際には、中国共産党と中国国民党の志向する社会形態の認識する理論と関わっており、ソ連が両党双方の理論の源泉であった。五・四運動以前は、“半封建”という概念は全く存在せず、ただ、古代の政治体制を形容する場合、“専制”という概念が使われていた。だからこそ、私は、20頁において述べられていることは、検討する価値があると考える。 張力先生(中央研究院近代史研究所)の報告は、外交問題に関するものであり、私の得意とする所ではない。張先生は、档案史料を用いて、1946年のパリ講和会議と中国の関係について詳細な分析を行った。当時、“世界五強”とされた中国の実際の地位をめぐる限界性について明確な記述を行い、中国のパリ講和会議における役割について、客観的に言い表している。 私が気になる点は、以下の点である。1946年のパリ講和会議の開催に際して、まさに中国国内においては、国共内戦が勃発し、憲法制定会議が開かれようとしていた時期であったという点である。この時、中国における政治的注意の大部分は国内に向いていた。中国の世界戦略はつまるところどういうものであったのだろうか?中国の思惑は、パリ講和会議を通じて、どのような国際戦略に至ったのであろうか?本論文中においては、以上のような問題が、十分明確に解答されていないように思われる。(江沛。蔦井亮佑訳) |
分科会Aのテーマは「想像する中国と東アジア/中國印象與東亞」で、四つの報告がありました。そのうち一つ大坪慶之報告は独立したテーマ、耿科研と堤一昭の報告は中国の微視的なまたは巨視的な中国の印象に関わるもの、高艶林報告は中国と東アジア(朝鮮)に関わるものでした。 第一の堤一昭報告は、古代以来、中国と日本の双方とも同時期に中国観が変化する三回の画期があるとするものです。それに対し三大画期の妥当性、日本の中国観の変化が政策に影響したか否かを問うコメントがありました。また論文中の「正統」という語の定義について質問がありました。 第二の大坪慶之報告は、十九世紀後半、西太后の垂簾聴政期の政策決定について、官僚の翁同龢の日記を用いて一事案を詳細に検討したものです。これまでの公文書のみによる研究ではうかがい得ない、政策決定にいたる過程と権力者との関係を明らかにしています。論文中の「訓政」という表現が中国史上いつまで溯りうるのかという質問がありました。 第三の高艶林報告は、中国の『大明律』を中心に、朝鮮王朝がどのようにそれらを受容していったのかについて、その消化及び独自の法典形成の具体的なありさまが考察されました。これに対し、『大明律』は日本にも伝えられたが、受容のあり方は異なる。朝鮮では法律の中心になるが、日本では研究は行われたが中心にならなかった。その背景は何だろうかと問うコメントがありました。さらに朝鮮王朝の「自立的」また「選択的吸収」の内容・意義づけについて質問がありました。法典を介した中国と東アジア各地域の関わりの研究の可能性を感じさせる報告でした。 第四の耿科研報告は、近代天津で形成された買弁階層の規模及び出身地域別グループの具体像を明らかにし、さらに彼らに対する社会的イメージや自己イメージを分析したものでした。これに対し、天津買弁の自他のイメージを探る重要性、また買弁及び天津史に関する日本の研究史を述べたコメントがありました。買弁階層の規模拡大及び密輸の問題について質問があり、さらに買弁階層の時期による意識の変化、特に九一八/満洲事変以後どのように変化するのかを考えるべきだとの指摘がありました。それに対し、彼らの自己意識を探ることは、日記などの一次史料が限られているために難しいとの回答がありました。 コメント・討論も含めてきわめて充実した分科会となりました。特に討論の際には、康越先生の通訳の助けが大きかったことを特記したいと思います。(堤一昭) 本组讨论共有四个报告。即,堤一昭先生的“中国的自我观与日本的中国观:追寻历史变迁中的转折期”;大坪庆之先生的“垂帘听政期清朝中央政府决策过程中的召见、上奏、廷议”;高艳林先生的“《大明律》对朝鲜王朝法律制度的影响”;耿科研女士的“近代天津买办阶层的社会形象与自我认知”。 堤一昭先生的报告从历史学角度,对“国民国家”形成前的前现代时期中国的自我形象及日本人心目中的中国形象进行了探讨,提出了中国的自我观和日本的中国观变化过程中,都经历了三个转折期,发生了三次巨大的转变。与会学者对三大转折期的划分及论文中所使用的“正统”的含义提出异议,并围绕日本不同时期的中国观与日本对华政策的影响进行了进一步的探讨。 大坪庆之先生的报告主要通过对《翁同苏日记》的分析,还原了晚清时期中央政府的决策过程,并在此基础上进一步探讨了握有决策权的慈禧太后和臣子们的关系。同以往主要以公文为分析对象不同,该报告提供了一个较新的研究视角。与会者还就“训政”一词的起源进行了广泛的讨论。 高艳林先生的报告详细分析了中国《大明律》传入朝鲜王国的过程及其对朝鲜王朝法律制度的影响。在讨论中就朝鲜王国早期有选择地使用《大明律》的内容及其意义进行了进一步的探讨。与会人员还就《大明律》曾同样传到日本,但是对日本的法律制度没有产生很大影响的原因提出了问题。可以认为法典研究将有助于进一步推动中国同东亚各国之间历史关系的研究。 耿科研女士的报告在详细介绍近代天津买办阶层形成与发展过程的基础上,分析了天津买办阶层的地域性构成、基本特征及其自我认知。讨论中就买办阶层在不同时代背景下意识形态的变化,尤其是“九一八”事变以后的变化提出了问题。报告人就此作了进一步的说明,认为目前由于日记等第一手资料的缺乏,促使对天津买办阶层意识形态的研究存在一定的局限性。另外,与会人员还介绍了日本的中国买办阶层以及天津历史研究的概况。 通过以上四位学者的报告,从微观和宏观层面对中国印象问题进行了深入而广泛的探讨,为今后进一步加深该领域的研究打下了良好的基础。(康越) |
本分科会における4つの報告は、いずれも文化の内在的変化に焦点をあてたものである。ここでの文化は、地域の客観的境界と一対一対応する文化ではない。また、社会の成員によって共有、継承された典型的な風俗、慣習、行動様式をさすものでもない。むしろ、外部環境と交渉し、秩序化するしくみを織り込んだ認知プロセスとしての文化である。 伝統的な建築様式ではなく、国家の定住政策や建築法規などの外部的要因や、家族のサイズや発展段階に即して、どう住居を改築するか、改革運動としての革新性を失った宗教組織がどう組織を改編するか、といったことが、ここでの議論の対象となる。 こうした文化の内在的変化の具体的なプロセスとしては、漢化とクレオール化がキーワードとなる。漢化とは、漢族の認知システムのなかに外部の民族が取り込まれることで、外部の民族そのものが漢族化するプロセスである。報告にあるように、台湾漢族が地方志の編纂を通して、台湾先住民を分類、命名、管理し、先住民が性格を変化させていくプロセスがこれにあたる。 一方、クレオール化は、同様のプロセスを通して漢族側に変化がひきおこされるプロセスである。主体と環境、あるいは主体間の関係は、二つのプロセスを通して恒常的に変化しているのだ。 近代化パラダイムの下での文化理解は、文化単位の境界を社会の客観的境界に一致させようとしてきた。これに対して、グローバリゼーション・パラダイムは、個々の人間の自由な選択の可能性を広げるとともに、原理主義を生み出しかねない「文化」を身体と世界のあいだに埋没させることで、統治の効率化を図ってきた。 本分科会で提示された視点は、こうしたいわば球面に平らな紙をあてるような文化の理解ではなく、球体に内在する論理、変化を織り込んだ論理を明らかにしようとする。本分科会における4つの報告は、特定の地域の、一般化不能な事例なのではなく、漢化とクレオール化の一局面として重要である。それは、特定の地理的領域に束縛された「中国文化」の研究とは異なる「中国文化」研究の可能性を示していると言えよう。(宮原曉、黄蘊) 我们这一组的四个报告都是探讨文化的内在性变化。首先,我们认为文化不是一定与特定地理区域相对应的东西,也不是由某社会的成员所继承的具典型意义的风俗习惯等。与之相对,我们认为文化是与外部环境不断交涉的一个认知性的过程。 比如我们这一组中有这样的报告,将政府规定的建筑模式根据其家庭需要进行改造,赋予其文化意义;以及将传统型的宗教组织进行改造,使之符合时代的需要与潮流。 这些文化的内在性变化的过程,我们可以用两个词来表述,一个是“汉化”,另一个是“混血性”。 “汉化”是指其它民族被汉族化的过程。比如我们这一组中有关于地方志和台湾原住民的问题的报告,原住民通过编写地方志这一种手段,来强化其族群标识性,进行一种族群性的诉求。其实,他们学习汉族编地方志的手法,也可以被认为是一种汉化。“混血性”是指汉族的文化产生变化的现象。如此这般,不论是“汉化”还是“混血性”,都说明了个体与环境,或两个个体之间总是在不断进行交涉,不断产生变化的。 最后将我们这一组的报告进行理论化的提升的话,我们可以得到如下的结论。即在现代化的框架下,文化往往被认为是具体的地理范围内的现象,但在全球化的框架下,某一文化不是总局限于特定地理范围内,而是处于一种流动与移转性中。因此,我们不应将所谓的“中国文化”局限于特定地理范围内,而应从流动的空间这一视角来进行探讨。 另外,我们应视某地的“中国文化”,或东南亚某地区的华人文化为一个各种要素相互冲撞的过程,而非一个实体。即它们不一定是与某一个传统一脉相承的,而是一个各种要素互相冲击的动态体。(宮原曉、黄蘊) |
分科会では、政治宣伝と大衆動員に関する3つの報告が行われた。内戦期の中国共産党(中共)根拠地における民俗・象徴を利用した組織拡大を取り上げた丸田孝志報告、抗日戦争期の国民政府の戦地工作、宣伝動員工作における女性の役割を検討した柯恵鈴報告、大躍進期の政治ポスターを通じた宣伝による政治の社会化過程を検討した鄒燦報告である。これらは、政治宣伝と民俗伝統との関係、宣伝・動員における女性の役割、大衆メディアを使用した政治の社会への浸透など、政治動員において十分に検討されてこなかった対象を捉え、近年の新しい研究の方向を示すものといえる。 それぞれの報告に対して、以下のようなコメント、意見、質問が出された。丸田報告に対しては、政治等級と階級区分との差異をどう考えるのか、伝統的科挙官僚制と中共の政治等級に関連性が見出せるのか、伝統を利用する権力が伝統の改編・操作によって生みだした、新しい革命の要素を明確にすべきである、伝統の利用において、中共指導部の政策方針と基層の村落の対応にどのような差異があるかなど。柯報告に対しては、档案史料による更なる実態解明が期待されること、農村の女性が夫・子供を従軍させる動員を可能とした中共の工作と比較した場合、国民政府の工作の水準や特徴はどのように捉えられるか、戦時動員の精神的拠り所の問題として、国民政府は戦死者の追悼のあり方をどのように考えていたか、ある軍事集団を対象とした女性の参与の程度と戦闘の結果の関係などから、女性の役割を実証的に検討できるのではないか、女性の戦争動員に果たす負の役割についてはどう考えるか、など。鄒報告に対しては、中国絵画の伝統、ソビエト革命時代や延安などの経験からの継承の問題、政治ポスターの作成者の背景・意図と民衆の反応、時代によって異なる表象の意味づけ(女性の短髪は、時代ごとに文明、軍事、階級の表象という変遷を辿った)などについて更に吟味する必要がある、同時期の台湾の政治ポスターと比較をすることも可能である、などである。 報告者からはそれぞれについて回答があったが、逐一ご紹介できないことをお詫びしたい。総じて、政治動員において、使用される多様な手法をそれぞれの意図・文脈に照らして明らかにしていくこと、それを受け取る社会・民衆の論理、政治と社会の相互浸透作用について明らかにしていくことの必要性が議論の中で確認された。(丸田孝志) 在分科会C上,进行了与政治宣传和大众动员相关联的三个报告。丸田孝志报告考察了在国共内战时期,中国共产党(中共)根据地利用民俗、象征进行组织扩大的情况。柯惠铃报告探讨了抗日战争时期,在国民政府战地工作,宣传动员工作中妇女所起的作用。鄒燦报告分析了大跃进时期,通过政治宣传画宣传政治的社会化进程。这些报告中,政治宣传与民俗传统的关系;宣传、动员中妇女的作用;利用大众传媒向政治社会渗透等。将政治动员中尚未完全探讨的问题作为研究对象,指出了近年新的研究方向。 对于各个报告,分别提出了如下评语、意见、问题。对于丸田的报告,是如何理解政治等级与阶级区分的差异。怎样理解传统的科举官僚制与中共的政治等级的相关性。应该阐明,利用传统的政治势力对传统进行改编、操作时,创造的新的革命要素。在利用传统中,中共指导部的政策方针与基层农村的对应有哪些差异等。对于柯惠铃的报告,希望能够从档案史料中获得更加明确的实态解释。中共的参军工作能够利用农村妇女动员丈夫、孩子参军, 与此相比,如何评价国民政府的工作水平及特征。关于战时动员的精神寄托问题,国民政府对烈士的追悼是怎样考虑的。从以某军事集团为考察对象的妇女参与程度与战斗的关系等中,能否以实证的形式对妇女的作用进行探讨。对妇女在战争动员中所产生的负面作用又是怎样理解的等。对于鄒燦的报告,中国绘画的传统,苏维埃革命时期与延安时期的经验中的继承问题,关于政治宣传画的作者背景、意图与民众的反应,根据时代的不同,表象上的差异(妇女的头发是各个时代分别象征文明、军事、阶级在表象上的变迁)等,需要有更进一步的研究。也可与同时期的台湾政治宣传画进行比较等。 报告者均对以上问题进行了回答,在这里就不能逐一介绍了,略表歉意。总的来说,讨论中确认了需要按照各自的意图、来龙去脉,明确政治动员的多种手法,并需要阐明接受动员的社会、民众的论理以及政治与社会的相互渗透作用。(丸田孝志;高洋译) |
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分科会Dでは「20世紀前半期中国社会の変容」と題して5つの研究報告が行われた。これら5つの研究は大きく分けて二つの傾向に分けられた。モノの流通と消費文化に注目する研究(蒋)と交通手段の変化が与える地域や社会の変化に注目する研究(上田・張・劉・郭)である。 蒋研究は、中国、日本の人参に関する記述を集め、人参関係書籍の出版増加が人参の消費のされ方、医療に影響を与えたことを指摘した。蒋研究の消費文化に注目する視点は、地域の産業構造がかわることを指摘するだけにとどまりがちな前者に対し、それがヒトの暮らしなどの質的な部分をどう変えているのかという視点を与えた。 交通手段の発達が地域に与えた影響という点では、劉報告が河南省における綿花栽培を事例としてとりあげた。鉄道の発達によって河南省での綿花栽培の商品化、専門化、地域集中がおこったことを指摘した。その結果、在来綿花からアメリカ綿に作付けが変化するなど、綿花栽培に変化が生じた。またそれまでは生産市場と消費市場しかなかったものが、内陸都市である鄭州の地位の向上とともに、これが集散市場として、他地域の綿花までも集めるようになるという地域経済の構造が変わることを指摘した。 上田研究では、東北地域への移民が、鉄道と汽船航路の発達により増加したことを指摘するとともに、運河が整備されなくなったことによる運河地域の衰退とそこにまで届く鉄道網の充実により、従来東北地域に出稼ぎに行くことのなかった人々が出稼ぎに出るようになったことを指摘した。このような大量の移民は非人道的な扱いをうけやすいといことを指摘したが、その要因における日本側の政策などへの分析が不十分であるという意見がフロアから出された。 郭研究は、隴海鉄道の敷設により西安が交通の要衝となったことで生じた都市西安の変化を分析した。鉄道敷設ののち沿海地域が日本軍の占領下におかれたことによって、沿海地域の企業や人口が西安近郊に移動した。これによって、西安の産業発展、人口増加がおこり、都市の景観をもかえていくことになった。今後の課題は、都市構造に加えての社会の変化への目配りといえる。 張報告は済南の紡績業をとりあげ内陸企業が沿海部の企業とちがい、外国資本の企業との競争にさらされにくいこと、地方資本が有効に機能しこれを支えていたことを指摘した。ここでの内陸企業の特質の指摘は、郭研究にある西安の産業発展の理解を深める視点でもあった。また商業資本からスタートし近代的産業へ業種を増やし、中国の近代化に貢献する地域の有力者を地方資本家として評価することは、東北地域における商業資本をとりあげた上田研究の事例にも共有できる視点である。 以上のような議論がなされたが、全体としては、ヒト・モノの流れが歴史のダイナミズムのなかで変わっていくことが共有された。(上田貴子,張楓) 分科会D以「20世纪前半期中国社会的变迁」为主题发表了5个研究报告。这5个研究报告大致呈现出两种倾向。一是着眼于物品流通与消费文化的研究(蒋),一是着眼于交通手段的变化对于地区和社会的影响的研究(上田,张,刘,郭)。 蒋竹山研究收集了中国与日本关于人参方面的资料,指出有关人参书籍的出版增加对于人参消费方式和医疗的影响。这种关注消费文化的研究视点,不同于以往谨局限于分析地区产业构造的变化,而是从新的视角阐述了消费文化如何改变了生活的实质性的部分。 在关于交通手段的发达对于地区的影响的研究中,刘晖报告以河南省的植棉业为例,分析了铁路的开通与发达所带来的河南植棉业的商品化,专业化和区域化,其结果导致了河南棉花种植结构的嬗变,由以传统中棉为主逐步转向以现代美棉为主。并且还指出内陆城市郑州的地位的上升,即由原来的产地市场,消费市场两级结构,演变成为原始市场,中转(集散)市场,消费(终点)市场的三级市场结构。 上田贵子的研究指出,东北地区中国移民是随着铁路及轮船等交通手段的发达而增长,同时由于运河治理的停滞及铁路网络的逐步充实,使以往不需要出外劳动赚钱的农民也开始外出劳动。上田在发表中虽然指出这种大量的移民很容易受到非人道待遇,但是但是分科会场中有与会者指出,这与日本对于移民政策的分析不够充分有关。 郭海成报告分析了陇海铁路的建设对于作为关中乃至西北最为重要的西安城市发展的影响。陇海铁路通车后,由于全面抗战暴发,从被日军所占领的沿海地区,企业和居民大量移居西安周边。因此西安产业发展与人口增长突飞猛进,并且城市空间也发成结构性变动。作为今后的课题,将进一步着眼于社会构造的变化。 张枫的报告以济南纺织业为事例,对内陆企业的发展特征进行了分析,在此强调了其发展与沿海地区企业不同,不受外国资本企业竞争的影响,并且在其发展中地方资本起着积极的作用。这种内陆企业发展特征的观点,有助于更加深刻地理解郭海成报告所指出的西安城市产业发展。并且对于地方资本家给与高度评价,即地方资本家以商业资本为基础逐步发展到近代产业,对中国的近代化作出积极得作用。这种观点与上田贵子的研究所指出的东北地区的商业资本有共通之处。 以上是5个研究报告的简介。总之,在滚滚的历史洪流之中,人・物的流动也在不断地变化流动这一视点为研究者们的共识。(张枫、上田贵子) |
分科会Eの共通テーマは「21世紀アジアにおける中国と日本」で、経済、教育、流行文化、国際関係及び地域対話などの視点から五名による報告が行われた。 第一の許衛東報告は、中国の市場経済化の新しい局面として内陸シフトの開発戦略の変容を取り上げ、民間企業に代表される担い手の養成の重要性ならびに開発極形成において有力外資としての日系企業の果たせる役割について初歩的展望を行ったものである。それに対し中国の地域的広がりの多様性やインフラ整備に代表される開発コストの巨大さが惹起する効率性の保障がどの程度可能かという質疑があった。中国一国単位でみれば効率対コストの難点があるが、隣国との経済連携の将来性を考慮すれば、必要な先行投資という認識が重要であるという回答があった。 第二の趙永東報告は、近代化論を中心的視点として持ちながら、日中両国で進められてきた高等教育の制度設計及び各段階改革の共通性と相違性を体制変容過程の教育理念と突き合せて克明に追求したものである。かつて日本でも「和魂漢才」、「和魂洋才」、「和魂和才」という言質があったように西洋化とアンチ西洋化の対極のみで教育改革の連続性と非連続性の説明が可能かという質問があった。質問に対して、少なくとも現段階のグローバリゼーションという共通の国際環境の中で、共通する課題が増大しつつ、同じ危機意識の下で日中両国が教育改革の在り方を議論する時期が来ているという回答があった。 第三の青野繁治報告は、現代ロックの進化過程において中国イメージが西欧と日本とでどのように形成されそれぞれの音楽創作にどのようなインパクトを注入したかを考察したものである。日本と中国が文化的にも距離的にも近いのになぜ当初から日本の中国イメージ形成は欧米を媒介にしなければいけなかったのか、ロック音楽にみられた日本の中国イメージ形成の特有パターンは他の分野でも存在するのかといった質疑があった。 第四の山田康博報告は、21世紀初頭の東アジア国際環境の変化要因を中国の台頭とASEANの中心的役割の増大に求めながら、アメリカ・パワーの存在意義ならびに日米安全保障の現実的機能の在り方を考察したものである。日本とアジアの直接対話の力量と日本の歴史問題に対する総清算の可能性があるかどうかという質疑があった。日本の国内の世論形成の問題もあり、現段階では難しいという回答があった。 第五の五島文雄報告は、投資、技術と人的交流、共同開発事業の取り組みなどの各レベルからインドシナ半島諸国と中国の相互依存関係の新局面を考察し、日本の対インドシナ経済支援の在り方の再考を提起したものである。インドシナの発展には日本と中国の協力が重要であるが、日本ではライバル意識を捨てて中国と共同提案する心構えができるかどうかという質疑があった。 時間的制約があるなか、適切なコメント・討論も提示され、充実した分科会であった。しかし各報告は、現代的問題に集中するとはいえ、経済交流、制度改革、文化交流、国際関係などの多方面に亘っており、共通の議題に耐えうる素材的役割の明確化作業として今後の更なる検証を要すると感じた。(許衛東) E组的讨论主题是“21世纪东亚格局中的中国与日本”,共有五位专家从经济、教育、流行文化、国际关系以及区域合作等各个领域的角度对当今的日中关系提示了最新的分析报告。 许卫东先生的报告针对中国内陆地区开发的新动向提出重视发展民营企业的观点,并结合开发极的发展需求论述了日本企业进军内陆地区所发挥的双重重要性。对此,有意见提出由于内陆地区覆盖面过大造成基础设施的投资巨大化并由此出现开发效率不能保障的问题,报告者认为成本问题应该从未来内陆地区与周边国家的合作潜力的大框架中考量,而不宜仅仅从一国的得失来取舍。 赵永东先生的报告以现代化的历史进程为时代坐标论述了日中两国的高等教育制度设计以及制度改革的共同点和差异,特别提示了教育问题与社会经济发展状况密切互动的层面。对此,有意见提出,过去日本提出过“和魂汉才”、“和魂洋才”、“和魂和才”的发展阶段论,而今日本已经出现人才不足的问题,是否问题的切入以西化或反西化为线条会造成片面性?报告者认为分析思路的设定方式是否完全能涵盖高等教育的问题有待商议但面对全球化浪潮席卷所有旧制度的今天,日中就高等教育问题多方面、多层次交换意见的意义极大,教育改革的成功与否都将决定各国社会经济发展的活力。 青野繁治先生的报告针对西欧和日本的现代摇滚音乐的发展历程中“中国印象”或“中国要素”究竟是如何体现出来并构成音乐创作的元素作了精彩的概括,并使用音像资料进行了现场演示。对此,与会者提出疑点:为何中国与日本一衣带水,而日本的音乐家在相当长的时间里需要从欧洲的摇滚音乐中间接地接触中国印象?文化以外的层面是否也有相似之处? 山田康博先生的报告聚焦21世纪初中国的国际地位上升以及东盟的区域对话功能的扩大,考察了未来美国在亚洲国际关系的影响力以及日美安全保障条约的现实意义。对此,与会者提问:要发挥日本的主体性,直面历史问题是一个关键,日本是否有新思考? 五岛文雄先生的报告主要依据印支半岛的经济和社会开发的现实发展的调查材料高度评价了中国的印支半岛三国的经合协调的成效,提出日本须考虑与中国携手共同开创多边关系互相合作的新局面。对此,与会者提出在新格局中日本能否放下亚洲独大的心态事关重要。 尽管存在时间上的限制,E分组的专题和公开讨论都十分热烈,内容也很充实。各个报告针对现代性的问题从不同的角度提出了颇具挑战性的论点。今后有待对各个问题中包含的亚洲共性的归纳和概念的整理,也需要和其它分会提示的历史、社会考察的论点作进一步的整合。(许卫东) |
本组共有五篇论文,学者们围绕“中国社会日益国际化”这一主题,从不同角度进行了深入研讨。金城学院大学日野绿教授的论文《现代中国高学历人群职业观形成的考察:以有无实际工作经验为着眼点》,以上海大学生为研究个案,用大量的社会调查数据,细致分析了上海高学历人群的职业观,其研究结论“应届毕业大学生对自由职业的宽容度比往届毕业生要高”不仅符合事实,而且证明了中国大城市青年在一些观念上日益与国际接轨。中国南开大学李少兵教授的论文《教育救济:1900-1937年京津善堂的慈善转型》,用可靠的档案文书资料,论证了20世纪初期北京、天津传统善堂在欧美慈善事业的影响下发生了转型,慈善活动由施善教化逐渐转变为现代教育救济。北京化工大学康越副教授的论文《北京市社区管理主体研究》,对20世纪90年代末以来北京市社区管理主体的变化进行了细致分析。从论文中可以看出,北京市民的自我管理组织——居民委员会、业主委员会的权力和作用在不断加强,这有利于市民社会的最终形成。大阪大学准教授大谷顺子的论文《2008年四川大地震视角中的中国》,用丰富的实地调查资料,对汶川大地震、台湾921地震和日本阪神大地震进行了比较研究,认为三者可以在知识储备和相互救援方面提供参考经验。大阪大学准教授三好惠真子的论文《如何构建围绕中国食品的危机沟通:通过中国产冷冻饺子中毒事件检验食品安全性及消费者的安心和信赖》,引起了与会学者的热烈讨论,凸显了现代社会信息公开化和透明化的重要性。通过研讨,本组学者有了如下共识:中国社会正在向国际化迈进,在细节方面则应该进一步努力。(李少兵)
分科会Fでは、五つの論文が提出され、参加者は、“日々国際化する中国社会(中国社会日益国际化)”というテーマを巡って、様々な視角から深く掘り下げた検討を行った。日野みどり教授(金城学院大学)の論文「現代中国高学歴層の職業観形成に関する一考察~実務経験の有無に着目して~」は、上海の大学生を研究対象として多量のアンケート調査のデータを用い、上海の高学歴層の職業観についての緻密な分析を行ったものである。本論文の結論は、“新卒予定者のフリーランスに対する許容度は、既卒者においてより高い”というものであった。このことは、事実に合致するだけでなく、中国における大都市の青年層の意識が、日々国際基準へと近づいていっていることを論証した。李少兵教授(南開大学・中国)の論文「教育救済~1900-1937年北京・天津地区における善堂の変容~」は、信頼できる档案史料を用いて、20世紀初めの北京・天津地区の伝統的な善堂が、欧米の慈善事業の影響下で変容を遂げ、慈善活動が「施善教化」から、次第に近代的な「教育救済」へと変化していったことを論証した。康越副教授(北京化工大学・中国)の論文「北京市におけるコミュニティ管理システムについて」は、1990年代末以降の北京市におけるコミュニティ管理システムの変化について、精緻な分析を行った。論文中に見られるように、北京市民の自己管理組織であり、居民委員会・業主委員会の権力と影響が不断に強まっていき、このことは、市民社会の最終段階の形成に役立ったのである。大谷順子准教授(大阪大学・日本)の論文「2008年四川大地震から見る中国」では、豊富な現地調査資料を用いて、四川大地震(汶川大地震)、台湾9・21地震、そして日本の阪神大震災について比較研究を行い、この三つの地震が、知識の蓄積、また、相互援助の仕方についても参考になる経験として価値あるものであると認識された。三好惠真子准教授(大阪大学・日本)の論文「中国食品を巡るリスクコミュニケーションの構築を目指して~中国製冷凍ギョーザ中毒事件を通じての食の安全と消費者の安心・信頼の検証~」では、分科会参加者の熱のこもった討論を引き起こし、現代社会における情報の公開化・透明化の重要性を明らかにした。研究討論を通じて、分科会Fの参加者は、以下のような共通認識を持った。それは、中国社会が、今まさに国際化の道を邁進しており、細かい部分においては更に努力していかなくてはならない、ということである。(李少兵;蔦井亮佑訳) |
本分科会G于2009年8月26日下午13:00-15:30举行,主题是“20世纪中国的战争、革命与农村”。不过很显然,本分科会的三个报告虽然涉及到农村,却与“战争、革命”的主题无关。由于只有三位报告人,在讨论时间上便显得格外充裕。 本分科会首先由张思(南开大学历史学院教授)发表报告,题目是《集体化时代的乡村社会流动——一个华北村庄的个案研究》。该报告以20世纪河北省侯家营村作为案例,分析了20世纪不同阶段华北村落在人口迁移、阶级地位升降方面所表现出的社会流动性。该报告指出,进入到集体化-人民公社时期,国家通过户籍、统购统销等束缚性制度对乡村社会进行严格控制,由此形成了一种集体化时代特色的乡村社会流动模式——乡村人口、职业流动要通过农转工、参军、上学等极有限的官方渠道实现;人口迁移主要是以婚姻为媒介的女性人口迁移。该报告提出了两个独特的观点:(1)公社体制在对乡村社会流动进行限制的同时,又提供了一些机遇,集体化时代的农民的创造性在其中得到发挥,这为后集体化时代的乡村发展奠定了基础。(2)集体化时代新型乡村社会流动体制容纳了传统的社会流动模式,同时又孕育了新的形式,反映出中国乡村社会变迁的时代特征。 接着,分科会第二位报告人小都晶子(国际日本文化研究中心机关研究员)做了《“满洲国”的“土地改良事业”:以“锦州省”盘山县为例》的报告。该报告指出,“满洲国”时期,在盘山县内首先进行了朝鲜移民的集体农场的建设,随后为日本移民的迁入地实施了大规模的“土地改良事业”。由盐碱地改良后的耕地开发使这个地区的农业形态景观有了很大的改观,之后又被中华人民共和国所继承。同时,该报告也慎重地看到,这一时期的“开发”、“改良”等等政策的背后存在着解决治安问题、日本朝鲜移民的定居、粮食增产等日本殖民地统治的要求。本座长认为,该报告利用丰富的史料和数据,配合多幅地图资料,详细再现了当年在日本殖民统治当局的政策和组织之下,朝鲜和日本移民在旧盘山县一带从事所谓“土地改良事业”的具体过程。该报告的一大特色和创新之处就是探讨了以往学者从不涉猎的研究领域,并关注“满洲国”时期历史与后来的新中国之间的连续性。 本分科会的最后一位报告者是李屿洪(南开大学历史学院博士研究生),报告题目是《建国以后中国农村现代教育的发展:以河北省昌黎县侯家营村为个案》。该报告的核心观点是,1950年代以后的集体化时代大力发展基础教育和业余教育,促使社员获得了更多的知识和技术,掌握了更多更有力的认识、改造世界的工具,也在一定程度上缩小了城乡教育之间的差距,为现阶段教育的发展打下了良好而坚实的基础。本座长认为,该报告的特色和创新之处在于用具体细微的村落文献资料去实证20世纪后半个世纪中国农村教育事业的发展及其基础性意义。该报告通过考察一个普通华北农村(20世纪40年代满铁曾在该村从事过深入的调查)的教育发展状况来对20世纪后50年中国农村教育事业的发展进行反思,并尝试重新评价集体化时代。 在分科会讨论阶段,除了评论人张思、小都晶子、李屿洪做了评论之外,上田贵子、片山刚、张同乐、李金铮、高艳林等也纷纷发表评论,报告人对此做了回应。其中,针对小都的报告,与会者提出了明确报告学术价值、补充明清时代地方志资料等评论和建议。而针对张思、李屿洪的报告则引来较为集中的批判,李金铮等不同意通过对人口流动或教育发展等问题的研究而对集体化时代给予肯定。 本座长认为,分科会G有一个最大特点——与会者一扫历来学术讨论一片温良恭俭让(只说好话、表扬话)的风景,开诚布公甚至有些声高激昂地进行相互批判和辩驳,这对促进学术发展大有裨益。(张思) 分科会Gは、2009年8月26日の13時から15時30分に開かれ、テーマは「20世紀中国における戦争・革命と農村」であった。しかし、明らかなことではあるが、本分科会の三報告は、「戦争、革命、農村」といったテーマのうち、特に「農村」に重点を置いている。報告者が三名であり、討論の時間は充分にとれたように思われる。 本分科会の最初の報告は、張思(南開大学歴史学院教授)による、「集団化時期における中国農村の社会流動性:華北の一村落についての事例研究」であった。本報告は、20世紀の河北省侯家営村を例として、20世紀の異なる時期での華北地域における村落での人口移動、階級や地位の変動によって出現した社会流動性について分析したものであった。本報告では、「集団化-人民公社」時期に入ると、国家は戸籍や“統一買付・統一販売”などの制約性の強いシステムを通じて、農村社会を厳格に管理し、この結果として、一種の集団化時代の特色ある農村社会の社会的流動のパターンを形成することになった。つまりは、農村人口の移動及び、職業の変更は、農村戸籍から都市戸籍への転換、人民解放軍への入隊、大学への進学などといった、非常に限られた政府系ルートを通じて実現され、また、人口移動は、主に婚姻を媒介とした女性人口の移動を通して行われた、ということであった。本報告では二つの独特な見方を提供している。まず第一に、人民公社体制は、農村社会の流動に対して制約を加えたのと同時に、そのチャンスも提供した。そして、集団化時代の農民の創造力はその中で発揮され、これがポスト集団化時代の農村発展の基礎を築くことになった。第二に、集団化時代の新しい農村社会の流動体制は、伝統的な社会流動パターンを受け入れると同時に新しい流動形式を育み、中国における農村社会の変遷の時代的特徴を反映するものであった。 次に、分科会の第二報告者である小都晶子(国際日本文化研究センター機関研究員)は、「「満州国」の「土地改良事業」:「錦州省」盤山県を事例として」という報告を行った。本報告は、「満州国」時期における、盤山県ではまず朝鮮人移民のための集団農場の建設が、ついで日本人移民の入植地建設のための大規模な「土地改良事業」が実施された、と指摘する。アルカリ性の土地の「改良」後における農地の「開発」は、この地域の農業形態及び景観を大きく変容させ、その後も、中華人民共和国へと継承されることになった。また本報告は、この一時期の「開発」、土地の「改良」といった政策の背後に存在する治安問題の解決、日本人・朝鮮人移民の定住、食糧増産などの、日本植民地帝国側の要求についても慎重に考慮している。本座長は、本報告が、豊富な史料とデータを用い、多くの地図資料を組み合わせることで、当時の、日本の植民地統治を実行する当局の政策と組織の下で、朝鮮人及び日本人の移民が、旧盤山県一帯でいわゆる「土地改良事業」に従事した具体的過程を詳細に再現していると考える。本報告の一大特色とオリジナリティは、従来の学者がこれまで目を向けていない研究分野を研究し、さらに「満州国」時期の歴史と、後の中華人民共和国との間の連続性に注目していることである。 本分科会最後の報告者である李嶼洪(南開大学歴史学院博士生)は、「建国以降農村教育の発展:河北省昌黎県侯家営を例として」であった。本報告の中心的な視点は、1950年代以降の集団化時代に基礎教育と余暇教育の発展に大いに力を注ぎ、人民公社社員によって多くの知識と技術を習得させ、より多くの、より役に立ち、生活を改善する道具を把握させ、また一定程度は都市の教育格差を縮小させ、現段階の教育の発展のために良好で堅実な基礎を築いたということである。本座長は、同報告の特色とオリジナリティは、具体的で詳細な村落に関する文献資料を用いることによって、20世紀後半の中国農村教育事業の発展及び、それが後々の基礎になったことを実証したという点に意義があると考える。本報告はある一般的な華北地域農村(1940年代に、満鉄は、同村の詳細な調査を行ったことがある)教育の発展状況の考察を通じ、20世紀の後半50年の中国農村教育事業の発展に対する再考を行い、さらに集団化時代の再評価を試みている。 分科会の討論ではコメンテーターの張思、小都晶子、李嶼洪が批評を行ったほかは、上田貴子、片山剛、張同楽、李金静、高艶林等も次々に論評を行い、報告者がそれに回答した。その中で小都晶子の報告に対しては、参加者が報告の学術的価値を明確にし、明清時代の地方志資料等を加えて考察することについての評論と提案を行った。また、張氏と李氏の報告に対しては、かなり多くの別意見が展開され、李金静等は人口流動や教育発展等の問題の研究によって、集団化時代に肯定的な評価を与えることに同意しなかった。 本座長は、分科会Gの最大の特徴、つまりは、参加者が従来の学術討論会のように遠慮しあうような形でなく、忌憚なく意見を言い合うことを通じて、活発に議論を行うという特徴があり、これは学術発展の促進を考える上でとても有意義であったと考える。(张思;蔦井亮佑訳) |
分科会Hのテーマは「20世紀東アジアにおける日中関係」で、四つの報告がありました。王宏斌報告と金晶報告が日中関係を中心としたもので、坂井田夕起子報告は日中関係に台湾を、田中剛報告は日中関係に加えてイギリスとの関係をも視野にいれたものでした。 第一報告の王宏斌報告は、日中戦争時期の日本の対中アヘン侵略について華北を素材として報告したものでした。これに対し、華北地域と他の日本軍占領地(満州・台湾・華中地域)との違いを問うコメントや国民党軍地域、共産党地域のアヘン政策についての質問がありました。また最近のNHKによって放送されたアヘン関連の資料を紹介するコメントや台湾で行われている共産党地域のアヘン研究を紹介するコメントもありました。 第二の坂井田夕起子報告は、1950年代の日中仏教交流が「民間交流」として再開し、日本側にとっては戦後処理の意識がつよく働く一方で多様な人々も参加したこと、中国側にとっては冷戦を色濃く繁栄したものであったことをあきらかにしました。坂井田報告が仏教者を中心としたものであったのに対し、在日華僑の役割の重要性をもっと考慮すべきとのコメントや台湾側の資料をもっと組み込むべきとのコメントがありました。 第三の金晶報告は、従来の研究で「唯美頽廃派文人」と一面的に評価されてきた章克標について、時期毎に「楽観的」「社会派的」な部分、谷崎翻訳の影響がある等の全面的評価を試みたものでした。これに対し、極めて短い創作時期しかもたなかった章克標の集中的多面的な活動が逆に時系列にすることでわかりにくくなるとのコメントや日本文学の影響、他の日本留学の中国人との関係についての質問がありました。また、分析対象である章克標との距離をもう少しとった方がよいのではとのコメントもありました。 第四の田中剛報告は、日中戦争勃発後に日本軍が成立させた「蒙疆政権」について、羊毛統制政策を中心にイギリスとの関係を報告した。田中報告に対しては、今回の報告対象となった時期が38年までと短く、「蒙疆政権」の性格を分析するのには短すぎるのではないかというコメントが出ました。また現在公開されている中国の档案館についての紹介もありました。 報告や討論は時間を大きく延長し、分科会終了後もそれが続くなど充実したものとなり、特に若手研究者にとって得るところの大きかった分科会となりました。(坂井田夕起子) 本组讨论会的题目是《20世纪东南亚的日中关系》,共包括四个报告。即,王弘斌教授的“日本对华北的鸦片统制政策再研究”;坂井田夕起子的“中国人俘虏殉难者送还运动与佛教者:1950年代日中佛教交流的开端”;金晶女士的“试论:左脚章克标的创作观”;田中刚先生的“论蒙疆政权时期日英围绕羊毛贸易控制权的对抗关系”。 第一个是王弘斌教授的报告。被以华北地区为例,对抗日战争时期的日本对中国的鸦片侵略进行了探讨。与会学者对关于华北地区和别的日本占领地区(伪满洲、台湾、华中)的差别、以及国民党地区和共产党地区的鸦片统制政策的差别等相关内容进行了提问。还有别的学者介绍了来源于最近NHK播放的日本政府的鸦片政策节目的资料和台湾学者关于抗日战争的共产党的鸦片政策的研究。 第二个是坂井田夕起子的报告。她的报告提出:1950年代的日中佛教交流为<民间交流>的开始。对日本来说,中国人遗骨送还运动是有各类对中国怀有情趣的僧侣们参加的<战后处理>。而中国政府则根据冷战的思维来与日本开展交流,他们很重视遗骨送还运动的教育效果。与会学者提出了必须考虑在这个运动中的在日华侨的重要性、以及来自于台湾方面的资料的重要性的观点。 第三个是金晶女士的报告。她对被称为<唯美頽廃派文人>的章克标的创作活动进行了分析。并对各个时期的<乐观的>、<社会派的>特征,以及所受的翻译谷崎作品的影响等进行了全面的评价。与会学者提出了章克标的创作时间很短而且集中,对他的创作活动进行分时期的分析法反而会导致难于理解的观点。也有别的学者问及日本文学对于章克标的影响、和其他留学日本的中国作家与章的关系等问题。与会学者还提出,研究者应该保持与研究对象之间的距离。 第四个是田中刚先生的报告。他以羊毛统制政策为中心,分析了日中战争爆发后日本军建立的<伪蒙疆政权>与英国的关系。与学者提出,报告者的分析从36年到38年,这两年的时间对于探讨<伪蒙疆政权>而言太短了。他还介绍了现在中国的档案馆公开的情况。 本组的报告和讨论大大超出预定时间并一直持续到了会后。从而对于所有参加者、特别是年轻学者今后进一步加深在该领域的研究打下了良好的基础。(坂井田夕起子) |
分科会Iの共通テーマは「20世紀東アジア政治の多層性」で、周太平報告は、郭道甫と1928年のフルンボイル青年党暴動に関するもの、島田美和報告は、顧頡剛の「疆域」概念についてのもの、李朝津報告は、主に中山大学創立をめぐる広州国民政府時期の教育と革命の問題に関するもの、蘇瑶崇報告は1980年代における台湾の省議会と台湾社会の変化に関するものであった。周太平報告に対して、ディスカッサント(李朝津)から、郭道甫の著作を一部しかとりあげていない、という指摘があり、それに対して、報告者から、今回の報告は「フルンボイル青年党暴動」を論じることが目的で、郭道甫の全面的評価が目的ではなかったため、とりあげなかった、との回答があった。島田報告に対してはディスカッサント(蘇瑶崇)から、顧頡剛、費孝通がそれぞれ国共両政府の民族政策に与えた影響およびグローバリゼーションにおける中国の民族論について質問が出された。それに対し、報告者からは、費孝通理論が中国共産党に支持されていること、顧頡剛の理論は民国期国民政府に支持されたが、両理論は共存していたこと、現在も中国共産党の公式見解に変わりはないが、大衆の認識においては、顧頡剛理論も次第に受容される傾向にある、との回答があった。李朝津報告に対しては、ディスカッサントから、広州国民政府時期における教育と革命の相互関係をより大きな時代的環境によって理解しようとした高水準の報告である、と高く評価されたが、中国大陸における当該大学檔案館所蔵の校史資料アーカイブズの利用なども必要である、という意見が出された。これに対し、報告者から大学ではなく広東省政府のほうに校史資料が保管されていること、も含めて現地資料の調査と蓄積が重要である、との回答があった。蘇瑶崇報告に対しては、ディスカッサントから、第七、八期台湾省議会において、台湾籍議員の中に主張の違いや派閥が見られたのか、また同省議会は現代台湾政治のなかでどのような役割を果たしたのか、という2点にわたる質問が出された。報告者は、前者については「民主」の要求という点で一致していた、後者については、たとえば馬英九勝利の原因を分析することは目下困難である、と回答した。ここまでで、時間を大幅に超過していたため、フロアからの質問・意見も含め、更なる深まった議論を展開することは、残念ながらできなかった。(青野繁治) 分科会I的统一题目为“20世纪中国政治的多层性”。周太平报告是关于郭道甫和呼伦贝尔青年党暴动的研究。岛田美和报告是关于顾颉刚的”疆域”观念的探讨。李朝津报告是关于广东国民政府时期围绕中山大学创立的革命和教育问题的研究。苏瑶崇报告是关于1980年代台湾省议会和台湾社会变化的研究。对于周太平报告,讨论者提出该报告只参考郭道甫的一部分著作,报告者对之说明,报告的重点不在郭道甫而在呼伦贝尔青年党。对于岛田报告,讨论者提出两个问题。1是顾颉刚和费孝通对于国共两党政策的影响如何?2是他们的民族理论理论在当代全球化社会的意义何在?对此,报告者回答,费孝通理论被中共党接受直到现在,顾颉刚理论在民国时期被国民党接受,但两者同时存在着。顾颉刚理论在80年代以后也在大陆慢慢被大众认同。对于李朝津报告,讨论者总结该报告从大的时代环境观看广东国民政权下的革命和教育的问题,给予了很高的评价,但是大学档案馆保存的校史资料方面还不是足够的。报告者同意这个观点之后,还介绍中山大学校史资料不在该校档案馆,而在广东省政府。对于苏瑶崇报告,讨论者提出两个问题。1是在第七、八届省议会中,台籍议员们有无意见分歧或宗派活动,2是第七、八届省议会在台湾当代政治起到如何作用。对此,报告者回答,台籍议员在“民主”这一点上互相一致,关于第二个问题,比如马英九为何得到胜利等问题,还有一些困难进行准确的分析。很遗憾,这时时间已超过许多,不能进行进一步的讨论,只好结束分科会了。(青野繁治) |
共通論題3では、近代中国の中央権力・地域権力・地域社会の相互関係に関わる4報告が行われた。マクロの視点からは、李金錚報告が、革命史研究を回避する現状に対して、社会の主体性に着目しつつ国家と社会の相互関係から新たな革命史を構築する必要性を唱え、陳進金報告が、国民政府と地域権力の対抗に関して、敵対する地域権力に武力行使を厭わず、他の勢力を抱き込んで主要な敵を打倒する蒋介石の対応が内戦の悪循環を引き起こしたと指摘した。ミクロの視点からは、田中仁報告が日本と八路軍の重要な係争地となった晋察冀辺区淶源県の根拠地建設の実態、同地の革命と戦争の記憶について検討し、張同楽報告が、華北農村の聯荘会を利用した日本軍の郷村統治と中共による聯荘会獲得・改造工作を検討した。 ディスカッサントの丸田からは、以下のようなコメント・質問を行った。革命史を中国近現代史の中に再定置することの必要性は、日本・欧米の研究者も主張するところであるが、その一方で、民衆や社会の自立性を認めつつ進められた実証研究の進展により、革命のイメージは統一的なものから個別ばらばらの地域の論理へと分化する傾向がある。また、これに関連して、中央・地方関係を扱った陳報告が示唆するように、地域の特性・政治情況(華北・華南・東北、都市・農村、日本占領区・根拠地・大後方)と革命をつなぐ、革命における中央・地方関係についても議論が必要であると考える。これらを踏まえて革命の統一像をどのように考えることができるであろうか。 社会の自立性に着目する研究手法に関して、近年の研究においては伝統的な要素が革命を阻害するばかりでなく、情況によってはこれを推進することもあることが示されている。中共は、国民政府よりも伝統に適応することによって革命を成功に導いた側面があると思われるが、この点について諸氏はどのように考えられるか。 田中報告については、淶源県の事例は特殊な成功例のように思われるが、華北根拠地において同県の位置づけはどのように理解されるであろうか。また、全中国の800日の政局において、どのような位置づけを与えられるであろうか。地域における革命の記憶については、現在は革命史において否定的に扱われた人々を顕彰する動きもあるが、これについてどのように考えるか。 陳報告については、1927,28年の省政府組織法により、国民政府の省政府への指揮権は制度上の根拠が与えられており、この時期の地域権力の割拠の原因は、やはり制度上の問題には求められないと考える。国民政府は地域権力の軍事的打倒の後、財政の統一を果たし、国家統一の基礎を築いたが、陳氏は内戦を選択した蒋介石の統一への執着を否定的に評価している。割拠の状況は内外の危機を深めていたと思われるが、陳氏は、当時の中央・地方関係はいかに処理されるべきであったと考えるのだろうか。 張報告については、聯荘会と会門をまとめて論じている部分があるが、実態として混同される事例も多かったのであろうか。愛国・愛郷でありながら反共の立場の人々に対して中共はどう対応したのか。聯荘会が日本によって村落共同体形成のための組織として位置づけられたと指摘されているが、地域エリートを排除して、武装組織の地域性を取り除く中共の聯荘会工作は、村落共同体的結合を否定するものではなかったろうか。 散漫な質問に対し、報告者からは時間的制約にも関わらずご丁寧な回答を頂いたが、逐一ご紹介できないことをお詫びしたい。李氏が回答された、地方党の自律性の維持とともに政策的な一致を図るという中共の中央・地方関係の方針は、陳氏の過度な集権への批判に通じるものであると考える。田中氏によれば、淶源県は県城によらずに活動を堅持できた点、中共権力のあり方を解く重要な論点を提示できる地区であるという。この点、前線根拠地の特徴を共有し、柔軟性に富んだ聯荘会工作とも議論が深められる問題であると感じた。最後に西村成雄氏から、中国における中央・地方関係については、中央権力の支持なしに成立する地域権力の問題、それぞれの権力が成立する正当性と革命による暴力の問題を考察に入れ、中央政府・地方政府・地域権力・地域社会という四層構造の中で検討する必要があるとの意見が提起された。(丸田孝志) 在共通课题3中, 四位教授作了关于近代中国的中央权力、地方权力、地方社会之间相互关系的四份报告。从宏观的角度来作的报告有:李金铮报告针对回避革命史研究的现状,提出了在关注社会的主体性的前提下,从国家与社会相互关系中构筑新的革命史的必要性;陈进金报告就国民政府与地方权力对抗的问题, 指出了蒋介石不放弃对死敌地方权力使用武力,联合其他势力,打倒主要敌人的政策,因此导致了内战的恶性循环。从微观的角度来作的报告有:田中仁报告分析了日军与八路军争夺要地--晋察冀边区涞源县的根据地建设的实态,对当地的革命与战争的回忆进行了探讨;张同乐报告探讨了日军利用华北农村的联庄会进行乡村统治的情况与中共对联庄会的争取、改造工作。 分会评论人丸田, 进行了评论并提出以下几个问题。虽然日本与欧美的研究者也主张有必要将革命史在中国近现代史中重新定位,但随着承认民众与社会自立性的实证研究的进展,革命的形象有从统一的概念向零散地区性的逻辑分化的倾向。并且与此相关联, 正像讨论中央、地方关系的陈进金报告所提到的那样, 针对革命如何连接各个地区的特征以及政治情况(华北、华南、东北、城市、农村、日本占领区、根据地、大后方)这一问题,有必要探讨革命中的中央、地方关系。通过这种议论,我们应该如何描绘革命的统一像呢?对于关注社会的自立性的研究方法,近年的研究表明传统的要素不仅阻碍了革命的发展,而且根据情况的不同有时也会推进革命发展的作用。丸田认为中共的有些情况比国民政府更会适应传统,因而迎来了革命的成功。关于这一点各位有何见解? 关于田中仁报告,丸田认为涞源县的事例似乎是特殊的成功例子,那么应该怎样说明华北根据地中涞源县的定位呢?另外,全中国800日的政局中又是如何给涞源县的定位的?有关地方革命记忆的问题,现在有些地区出现了为革命史中的反面人物歌功颂德的情况,关于这方面有何见解? 关于陈进金报告,根据1927、28年的省政府组织法,国民政府在制度上获得了省政府指挥权, 丸田也认为这个时期地方割据的原因并不在于制度的问题上。虽然国民政府通过军事手段推翻了地方势力后,统一了财政,奠定了国家统一的基础,但是陈教授却对选择内战的蒋介石在统一问题上的固执态度持否定的评价。丸田认为割据的情况已经加深了国内外的危机。陈教授认为应该如何处理当时的中央、地方关系呢? 关于张同乐报告,论述中有些部分将联庄会与会门一并而论。不知实际情况下,两者被混淆在一起的事例是否很多?有些人爱国、爱乡同时又反共,中共对这些人又是如何对待的呢?张教授指出日本打算利用联庄会要形成乡村共同体,而中共的联庄会工作排除了地方领袖,克服其武装组织的地方性,其作用是否要否定乡村共同体的结合? 对于琐碎的提问,报告者不局限于时间的限制,都仔细地进行了回答,在这里就不逐一介绍了,略表歉意。李教授在回答中指出, 中共中央一方面维持地方党组织的自律性,另一方面谋求政策的一致,中共这种有关中央・地方关系的方针,丸田认为与陈教授对于过度集权的批判有共通之处。田中教授认为,涞源县没有基于县城而能够坚持斗争,在这一点上,该地区可以提供阐明中共权力结构的重要论点。关于这一点, 联庄会工作也有前线根据地的特征,并富有灵活性,丸田认为这两个问题都是可以共同深入探讨的。最后西村成雄教授提出了如下的意见:探讨中国的中央、地方关系时,需要加以考察没有获得中央权力支持而自立存在的地方政权问题,以及树立各种权力的正当性与革命的暴力问题,还需要在中央政府、地方政府、地方权力、地方社会这四层结构中进行探讨。(丸田孝志;高洋译) |
第3回大阪国際シンポジウムでは、3共通論題で12人の報告とディスカッサント3人の評論があり、9分科会で36人の報告とそれぞれにコメンテーターが評論した。もちろん、討論に参加されたメンバーによる多角的な議論を含め、合計51人の大会報告がなされた。共通論題と分科会のテーマ設定については、実に多様な視点からの興味深い論点が提起された。 今回のシンポジウムの特徴をあえて一言でいうとすれば、「グローバル下100年中国の再認識」とでもいいうるもので、中国と観念される境界域を超えて、国際的視圏のもとで中国を内在的に再定義しようとする志向性をもっていた。しかも、それは具体的な成果として提示されたといえよう。くわしくはそれぞれの論考に依っていただきたいが、ここでは簡単に三つの成果として確認させていただきたい。 第一に、100年中国の時間と空間を共通のプラットフォームとして、政治的イデオロギー的空間の変動と社会経済的空間の変容過程を歴史内在的に分析する成果があった。ここには、広くいえば、国家と社会の分析視角の新たな段階が示されており、国家による社会の総括課程のみならず、社会の側からの国家や権力への関与という相互に浸透しあう関係性を具体的な時空間で、実証的に再定義するものであった。もちろん、政治権力としての国家そのものも固有の時空間性をもち、社会そのものも固有の時空間性をもつとともに、その交錯しあう場の分析の必要性という理解が前提となっていた。 この点にかかわって、たとえば政治的支配の正統性(legitimacy)問題をとりあげるとすれば、権力の側の提示した正統性原理を、社会の側がどれほどの広がりと深度において同意しえているのかが分析課題となるだろう。そのためには、被治者の側が同意を表明しうる政治的委任=代表の関係性をどう制度化しえているのかが問われることになる。あきらかに、正統性問題は、国家と社会の関係性が相互に切り結ぶ政治空間となる。 しかし同時に、こうした政治的委任=代表という関係性のあり方を、100年中国の場に置くとすれば、必ずしもその政治制度化に成功したわけではないことがあきらかとなる。逆にいえば、欧米のような周期的選挙制度の導入による支配の正統性の再生産のみが、委任=代表関係性を担保するのではなく、それは直接的委任の制度化であり、他にも間接的委任や非委任的「委任」という潜在的ルールとしての「制度」もありうることを予測する必要がある。つまり、選挙制度による委任は、近代欧米の政治的民主主義のひとつのパターンであり、そのグローバリゼーションのもとで導入移植を迫られた20世紀中国社会にあっては、むしろ士大夫身分がアプリオリに政治的に「委任」されているとするか、あるいは「輿論」を背景とした「委任」の正統性を主張するような、国家と社会の共有するイデオロギーが現実には機能することもあった。 20世紀中国社会において選挙制度も導入され、制度化され、運用されてしだいに定着しているにせよ、「人民の敵を打倒したことで人民が支持し、擁護している」と権力の側が判断することで、自らの支配の正統性が担保されるとする論理が一般的政治的基盤を構成してきた。ここに、革命による国家権力掌握が正統性をもつとする根拠があり、革命を担った政治勢力(20世紀中国にあっては、武装した革命政党としてあらわれた)による政治統治権力の正統性根拠もここにある。国家権力としての正統性(権威)と統治権力としての正統性(権力)は密接不可分な一体性をもって社会にたちあらわれる。とくに、1925年以降の中国政治空間の主流的制度化は、党による国家と政府の創出という「党国体制」と呼ばれる政治制度化が展開したことになる。100年中国をこうした「革命パラダイム」として把握するとらえ方は、同時に「ナショナリズム・パラダイム」でもあり、今日その認識の枠組み自体が問いなおされているといえるだろう。 このような政治制度の経路依存性は、強固な社会的基盤を前提として形成されており、この岩盤をどれほどの硬さと広がりをもったものとして再認識するかが、21世紀の今日にあって中国社会を内在的に再定義するひとつの「支点」となるだろう。 第二に、100年中国のグローバリゼーションとの相互浸透性について、内部化した国際的条件の分析にも成果があったといえよう。単純化していうとすれば、19世紀から20世紀の中国社会は、近代化(モダナイゼーション)あるいはグローバリゼーションのなかで、中国自身の近代性(モダニティ)あるいはグローバリティーを創出してきた。そもそも外部性としてあった近代化あるいは列強の圧力は、中国の内部性へと選択的に転化し、内面化され内部化された国際的条件として機能してきた。 同じく政治的支配の正統性問題としてとらえるなら、それは100年中国の支配の正統性の国際的資源として位置づけることができる。つまり、国民国家としての対外的正統性を確保しつつ、国際的な場における国家的利益の最大化をはかる手段として、また、国内的正統性を強化する手段として機能してきた。たしかに、国民国家体系の中で二国間不平等性や多国間不平等性のもとに置かれてきた20世紀中国は、従来、「半植民地」規定で語られてきたが、すでにその認識段階は過去のものとなり、従属的ではあるが、どのような自律性をもって自立性を確保し、その国際的地位を築いてきたのかを再定義すべき段階に到達しつつある。中国を含むさまざまなアーカイヴでの資料公開は、第一の課題ともかかわって新たな知見を加えつつあり、このシンポジウムも如実にその新たな潮流を反映している。 おそらく、対外関係性の内部化過程は、経済領域で最も典型的にあらわれるが、政治領域でも、1945年前後の国際政治変動の内部化過程がその典型であった。1945年2月段階のヤルタ体制のもとで、中華民国はアメリカとソ連の戦後国際関係構想に組みこまれ、8月には「中ソ友好同盟条約」を締結し、そのことによって「満洲国接収」の権限を国際的に認知されその接収の正統性を獲得した。ところが、同時に、ほとんどその政策は米ソの従属関数化し、45年11月には対ソ関係のなかで東北接収を放棄せざるをえない事態をむかえ、12月のアメリカの調停と支援のなかでようやく接収に入ることができた状況になった。この経緯をみる限り、戦後の米ソ中という三国国際関係が内部化することで、アメリカと国民党国民政府、ソ連と中国共産党という「四方関係」を生みだし、国共内戦という国内問題へと移行した。国民党国民政府はひとたび国際的正統性を得たが、改めて国内的正統性の確保に対応せざるをえなくなった。その国内問題化過程で中国東北地域性そのものへの国共の政策対応には差異があり、この第5番目の東北要因がその後の東北地域に対する支配の正統性を中国共産党側に与える結果をもたらした。たとえば、この時期の内部化された国際的条件は、「三国五方関係」として再認識する必要があるだろう。 また、域内少数民族問題の国際問題化という問題群も、こうした歴史的展望の中に再定置する必要があると思われる。 第三は、20世紀中国政治社会の境界線を超えて、グローバルな、また東アジア(東北アジア、東南アジア)のレベルから中国を再認識する成果があった。近代国民国家システムのもとで、中国という場で、どのように自らを国民国家として凝集させるのかという政治的課題は、20世紀中国社会そのものの一貫したアイデンティティを基盤としていた。 この過程には二つの側面があり、ひとつは国民国家形成願望としての「救国論(その意味は、既存の国を救うのではなく、創出する課題として意識された)」と、もうひとつはその国民を構成する20世紀中華民族の復興願望としての「救亡論(その意味は、民族が滅びるのを救うのではなく、20世紀中華民族を創出する課題として意識された)」にあった。前者は、政治的境界線の内と外を明示的に区別するとともに、その境域内の均質的支配の浸透力を極大化するところに特徴があった。これに対し、後者は、むしろ国民国家の境界を超える方向性を示し開かれた側面が意識されてきた。もちろん、国民国家としての凝集力が高まると、その存在の国際的関係性が強化され、グローバルかつ周辺諸国、諸地域との経済的社会的、政治的相互依存性を増大することに利益をみいだす傾向を示す。その反対に矛盾を激化させる可能性も排除できないことも、20世紀史は示してきた。 しかし、20世紀の第4四半期、中国はその経済的政治的存在感を高めるなかで、「平和的抬頭」を主張してきた。それを支えたのは、周辺諸国、諸地域との経済的相互依存性の増大にあったといえよう。この経済的関係性の相互依存的特質が、現在の中国政治を規定しており、たとえばアセアンとのさまざまな経済協力関係の国際制度化とその運用のなかから得られた対外的経済矛盾の経済的解決能力を高めてきたことはあきらかであろう。今日の視圏からみて、100年中国をグローバルな、また東アジアという地域経済社会のレベルに再定置し、再定義しなおす必要性がますます増大している。今回のシンポジウムは、その個別実証研究を通底するひとつの重要な視点として、何らかの東アジア共同体形成にむけた歴史的基盤を、現状分析も含めて解明したことになったと考えられる。 このようにみてくると、100年中国の再認識とその総合的理解の必要性は、単にそれぞれの国や地域の問題にとどまらず、少なくとも東アジア世界の構成員による相互認識をより深く共有する課題と結びつくことになろう。そのひとつの試みとして、100年中国再認識の分析課題として、第一に狭隘な民族主義的歴史理解からの脱却、第二にすべてを国民国家のレベルに回収する歴史理解からの脱却、第三に政治共同体の革命と近代化過程を対立的にとらえる歴史理解からの脱却の必要性を提示しておきたい。 * * *
第3回大阪シンポジウムを周到に準備いただき、大会を成功に導いてくださった大阪大学関係者、とくに事務局を御担当いただき翻訳や通訳に御尽力いただいた若き世代の研究者諸兄姉に、心からの感謝と御礼を申しあげます。あわせて、第4回シンポジウムの開催校に敬意を表します。(西村成雄)第三届大阪国际研讨会,在3个共通论题的报告会中有12名学者的报告和3位评论人的评论,在9个分科会中有36名学者的报告和针对各个报告的点评。同时,参加讨论的各位成员也都提出了多层次多角度的意见。本次研讨会中共有51位学者做了报告。各位与会专家还就共通论题与各分科会所设定的论题,从多种视角提出了许多极有深度和意义的观点。 关于本次国际研讨会的特点,如果用一句话来概括的话,可以说成是“重新认识在全球化背景下的百年中国的成果”。并且可以说,它不但超越了在原有观念上对中国的认识,还蕴含了从国际性的角度上,对中国进行内在性的再定义的指向性。并且,我们还可以说本次会议已经向我们展现了其具体成果。具体研究内容我希望各位参考各篇论文,在这里我想简单的确认以下三项成果。 第一, 本次会议中展现了,通过进行历史性的内在分析, 对作为百年中国在时间和空间上的共通平台,在政治意识形态空间上的变动,和社会经济空间的变化过程的研究成果。从广义上说,这些揭示了对国家与社会分析视角的新阶段。这不仅包括了根据国家对社会进行总括的过程,还包含了从社会的角度,参与国家和政府权力的相互渗透的过程。本次会议正是对这种相互渗透的关系进行了具体的时空间上的,通过实证分析的重新定义。当然,作为政治权力的国家有着固有的时空间性,这与社会固有的时空间性相同。我们有必要对在这两种固有时空间性相互交错的情况进行分析。而本次会议的讨论正好就是以这种理解为前提进行的。 与此相关,如果我们要研究政治统治的合法性(legitimacy)问题,则有必要分析掌权方所提示的合法性原理,在社会上被接收的广度和深度。正因为如此,作为授权者的政治委任与作为受权者的政治代表之间的关系,即政治委任=代表关系性制度化的问题也是十分重要的。很明显,合法性问题是国家与社会的关系相互交锋的政治空间问题。 但是同时,这样的政治委任=代表关系的存在方式,放在百年中国的角度来观察,则可以明显指出如此的政治制度化未必已经取得了成功。相反,如欧美各国那样依据导入周期性的选举制度,而得到统治合法性的再生产,并不是唯一一种保证委任=代表关系性的方法。那只是直接委任方式的制度化。我们有必要预测还有其他的间接委任、或非委任的“委任”等潜在规则作为“制度”存在的可能性。也就是说,依据选举制度的委任是近代欧美的政治民主主义的一个方式,在全球化的背景下,被迫导入并移植其进来的20世纪的中国社会,则是一些人以其士大夫身份来演绎先天性的政治“委任”,或是以“舆论”为背景主张受到政治“委任”的合法性。如此国家和社会共有的思想意识形态在现实中发挥作用的情况也是存在的。 即使我们可以看到20世纪的中国已经导入,并制度化地开始运用选举制度,并且已经使其有了较为稳固的地位,但掌权方却认为“因为打倒了人民的敌人,所以得到了人民的支持和拥护”,这也就保证了自己统治的合法性,而这也构成了其普遍政治基础。在这里,有通过革命掌握国家权力的合法性的根据,也有通过担负革命的政治势力(在20世纪的中国,表现为有武装的革命政党)获得政治统治权力的合法性的根据。作为国家权力的合法性(权威)和作为统治权力的合法性(权力)在社会中表现为密不可分,具有一体性。特别是,1925年以后中国政治空间中作为主流的被制度化的就是,被称为由党创建国家和政府的“党国体制”政治制度化得到广泛的展开。把百年中国用这种“革命范式”来理解的方法,同时也是“民族主义范式”。但是在今天,我们可以说此种思维方式本身正面对要被重新审视的命运。 这种政治制度的路径依赖性,是以坚固的社会基础为前提而形成的。是否对于作为此制度基础的板块所具有的硬度和广度进行重新确认,则将成为对当今21世纪的中国社会通过内部观点来进行重新定义的一个“支点(fulcrum)” 第二,同时我们还可以说,关于百年中国的与全球化之间的相互渗透之问题,也已经在有了基于内部化的国际条件进行分析的研究成果。简单来说,从19世纪到20世纪的中国社会,在近代化(modernization)或者全球化(globalization)的进程中,创造出了有中国特色的近代性(modernity)或者国际性(globality)。本来作为外部性的近代化或者列强的压力,使中国选择了向内部性转化。而这些也使它们作为被内面化、内部化了的国际条件作出了贡献。 与此相同,作为政治统治的合法性问题也能够被定位为百年中国的统治的合法性的国际资源。即其在确保了作为国民国家的对外合法性的同时,还作为为了在国际上最大地保障国家利益的方法,并作为强化在国内统治的合法性的方法方面也发挥着作用。确实,处于在国民国家体系中的两国间不平等性和多国间不平等性情况下的20世纪的中国,以往都用“半殖民地范式”来加以说明。可是,这种认识阶段已经成为过去。现在已经达到了应该重新定义中国与列强之间的关系虽然是从属关系,但是如何在有自律性的基础上确保自立性,并构筑其国际地位的阶段。包括中国在内的各种档案资料的公开,与第一点相关联,已经取得了一些有新见解的成果,而本次国际研讨会上也确切地反映了这种新潮流。 恐怕对外关系性的内部化过程,在经济领域中的展现最为典型。但是在政治领域中,1945年前后的国际政治变动中的内部化过程也是其典型之一。基于1945年2月时的雅尔塔体制中,中华民国被编入美国和苏联的战后国际关系构想之中,8月,缔结了《中苏友好同盟条约》。通过这一举措,“接收满洲国”的权限也得到了国际上的认可,从而获得了接收的合法性。然而,这一政策的绝大部分成为从属于美苏的关系,在1945年11月,由于对苏关系的问题,出现了不得不放弃接收东北的情况。同年12月,在美国的调停和援助下终于进入可以开展接收工作的状态。通过观察此过程,由于战后美苏中这三国的关系内部化,而产生了美国和中国国民党、苏联和中国共产党,这样的“四方关系”,最终发展为国共内战的国内问题。国民党国民政府虽然一时获得了国际上的合法性,却不得不面对需要重新确保其统治的国内合法性的情况。在此问题国内化的过程中,对于中国东北地区社会的各种政策,国共两党在政策上存在着差异。中国东北地区社会自己的自律性主动地选择了国共两党政策哪个是妥当的。这第5点的东北因素也正导致了把对东北地区统治的合法性交到中国共产党手上的结果。对这一时期被内部化了的国际条件,有作为“三国五方关系”进行重新认识的必要。 另外、我们还认为有必要对地区内少数民族问题的国际问题化这一问题组,在此种历史展望中进行重新定位。 第三,本次会议上还有了超越20世纪中国政治社会的界限,从全球或东亚(东北亚和东南亚)的层次对中国进行重新分析的成果。基于近代国民国家体系,在中国,中国本身是如何作为国民国家而凝聚起来的这一政治课题,则是以20世纪中国社会中一贯保有的民族认同意识为基础的。 这一过程有两个侧面,一个是作为形成国民国家的愿望的“救国论(其意思被认为不仅仅是救助现存的国家,还包括了创造新国家的使命)”,而另一个则是作为复兴20世纪中华民族的愿望的“救亡论(其意思被认为是不仅仅救助民族的危亡,还要创造出20世纪的中华民族) ”。前者具有在明确区别政治界线的内与外的同时,把在各自范围内进行均等统治的渗透力最大化的特征。与其相比,后者却一直意识着显示出超越国民国家界限的方向性的侧面。当然,这还展示了如果作为国民国家的凝聚力得到提高,其中存在的国际关系性也将得到强化,而与全球、特别是周边国家地区的经济、社会、政治上的相互依赖性也会得到增强,在此过程中也能获得利益的倾向。相反,20世纪的历史还显示了这一过程也不能排除矛盾被激化的可能性。 但是,20世纪的最后25年,中国伴随着经济政治实力的增长,不断主张“和平崛起”的重要性。可以说支持此种说法的,正是与周边国家、地区在经济上的相互依赖性不断增大的结果。而这种经济关系上相互依赖的特质,也规定了当今的中国政治。例如,与东盟的各种经济互助关系被国际制度化、与在其运用过程中获得的对外经济矛盾的经济解决能力的提高是非常明显的。从今天的视角来看,在全球化,在东亚这样的地区经济社会层次上对百年中国进行重新定位,重新定义的必要性也逐渐增大。我以为,本次国际研讨会作为以贯彻对其进行实证研究为基础的一个重要视点,面对形成某种形式东亚共同体的历史根源,解读了包括现状分析在内的中国社会各种条件。 如此看来,重新认识百年中国和对其进行综合理解的必要性,并不只是各个国家或地区的问题,而是可以与深入了解构成东亚世界的成员之间相互认识的课题相结合的问题。作为重新认识百年中国的分析课题,向我们提示了以下三点的必要性。第一是要从狭隘的民族主义的历史理解中脱离出来,第二是要把从所有基于国民国家层次的历史理解中脱离出来,第三是要从把政治共同体的革命和近代化进程视为对立的历史理解中脱离出来。 * * *
对第三届大阪国际研讨会进行周到的准备,使本次会议能够成功举办的大阪大学的各位会务人员,特别是对在事务局负责具体工作的、还有担任笔译和口译工作的各位年轻学者们,表示衷心的感谢。同时,我也要对在明年将要承办第四次国际研讨会的举办单位河北师范大学表示诚挚的敬意。(西村成雄;高洋、王雪萍译)
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