第三回「現代“中国”の社会変容と東アジアの新環境」国際シンポジウム
【報告要旨】

2009年9月29日更新

基調報告&共通論題

基調報告

西村成雄(放送大学):民国政治における正統性問題:政治的委任=代表関係の新経路(民國政治的正統性問題:政治委任=代表關係的新路徑)
政治的委任=代表関係の制度化は、権力にとっての支配の正統性を担保する決定的役割を果たしている。中華民国の政治過程にあって、その制度化された正統性根拠は、1912年「中華民国臨時約法」を経て、1928年中国国民党による「訓政綱領」制定と1931年「訓政時期約法」の国民会議での制定にあった。
民国政治における中国国民党の執政権限は法制化された「訓政時期約法」にもとづいていたが、それは抗日戦争の勝利という1945年段階に最も尖鋭的な政治問題として浮上することとなった。いうまでもなく、1931年以来の政治的委任=代表関係は、孫文以来の革命運動と北伐戦争による北京政府打倒という歴史的正統性にもとづく「主権在党」原則に示されていた。この「以党建国」「以党治国」の論理は、孫文国家学説にいう訓政段階であったが、同時に憲政を準備する前段階であるとすることによって「国民党訓政」支配の正統性が担保されていた。事実、1933年から立法院長の孫科らによる憲法草案の起草がはじまり、1936年5月5日には「憲法草案」が公表され、もし1937年7月7日の盧溝橋事件が生じなければ同年11月12日の孫文誕生記念日には憲法制定国民大会が開催されたはずであった。
中国国民党権力の主流にあった蒋介石は、盧溝橋事件以後、自らの権力の正統性を確保しつづけるためにも、1938年4月国民参政会という諮問会議を設置し、中国共産党や他の政党政派を含む新たな政治的委任=代表関係の制度化を承認せざるをえなくなった。ここに「一党訓政的代表制」を基盤としつつ「国民参政会的代表制」が新たな制度的経路として創出された。こうした制度化を推進した社会的圧力は憲政民主運動として1939年以降高揚し、とくに1944年段階になると「党治の終結」と「連合政府樹立」という政治的要求が国民参政会を政治的プラットフォームとして公然化するにいたった。国共両党という武装政党以外の民主諸党派は第三の政治勢力としての発言権を高め、社会的影響力を増大し、国民参政会の諮問的制約を超えた政治的機能を獲得し、国共両党もそれを機に自己の政治的エネルギーの社会的源泉のひとつに位置づけなおすことを迫られていた。
1945年抗日戦争勝利直前の民国政治は、戦時体制下にあっても憲法制定国民大会開催による脱「訓政国家」プログラムをめぐって、国民党、共産党、民主党派という三大政治勢力間の緊張関係が顕在化していた。しかし、国民党側はあくまでも「訓政時期約法」の法統を守ることを前提としていたのに対し、共産党側は民主党派を組みこんだ連合政府論として、民国政治の争点をとらえていた。この対立の構図が、重慶会議と政治協商会議に接続し、その後「憲法制定権力」の正統性をめぐって「訓政下国民大会」路線と「訓政終結のための政治協商会議」路線として明示化される。
政治的支配の正統性からみれば、中国国民党は国民参政会的代表制を導入したことによって、1931年以来の「訓政時期約法」という合法性基盤を自ら浸蝕し掘り崩すなかで、より広い社会的同意としての正統性を摩滅させていたといえるだろう。国民党は、国民参政的代表性という政治的経路の創出が民国的政治空間の新たな政治的プラットフォームを提供したことを、自らの正統性原理に組む込むことができなかった。
1945-46年段階の民国政治の新たな政治的正統性問題を通して、20世紀中国政治空間の内在的理解をはかるひとつの「支点」を論じたい。
政治的委托=代表关系的制度化对权力支配的正统性的担保起到了决定性的作用。在中华民国的政治过程中,这种正统性的制度化的根据是经过1912年的「中华民国临时约法」,1928年由中国国民党制定的「训政纲领」和1931年在国民议会上制定的「训政时期约法」。
民国政治时期的中国国民党的执政权限是基于被制度化的「训政时期约法」,但它也随着1945年抗日战争的胜利,做为尖锐的政治问题浮出水面。不用说,1931年以来的政治的委托=代表关系是根据表现在,以孙中山以来通过革命运动和北伐战争推翻北京政府的历史正统性为根据的「主权在党」的原则之中。 这个「以党建国」「以党治国」的理论虽然是位于孙文国家学说的训政阶段,同时也是通过将其作为宪政准备的初期阶段,担保了「国民党训政」支配的正统性。实际上,1933年立法院的孙科等人就开始了起草宪法草案,1936年5月5日「宪法草案」被公布,如果1937年7月7日没有发生卢沟桥事件,同年11月12日孙中山诞生纪念日应该召开宪法制定国民大会。
作为中国国民党政权的主流的蒋介石在卢沟桥事件以后为了继续确保其权利的正统性,在1938年4月设立了所谓国民参政会的咨询会议,并且不得不承认包括中国共产党和其他政党政派在内的新的政治委托=代表关系的制度化。由此在「一党训政的代表制」的基础上,创立了「国民参政会的代表制」成为新的制度途径。推动这种制度化的社会压力,在1939年以后成为宪政民族运动而高涨,特别是到了1944年的阶段「党治的终结」与「联合政府的成立」的政治要求在国民参政会这个政治舞台上公开化。武装政党的国共两党以外的各民主党派提高了作为第三个政治势力的发言权,增大了社会影响力,获得了超越国民参政会的咨询制度的政治机能,迫使国共两党都以此为契机将民主党派定位于自己政治能量的社会源泉之一。
。1945年抗日战争胜利前夕民国政治围绕着战时体系下召开的宪法制定国民大会的脱离「训政国家」计划,国民党、共产党、民主党派三大党派之间的紧张关系也越发明显。但是国民党始终以坚持「训政时期约法」的法统为前提,而共产党认为以将民主党派编入的联合政府论,就是民国政治的争论点。这个对立的构图,与重庆会议和政治协商会议相连接,之后围绕着「宪法制定权利」的正统性,以「训政下国民大会」路线和「为了训政终结的政治协商会议」路线得到明示化。
从政治支配的正统性来看,可以说中国国民党由于导入了国民参政会的代表制,亲自将1931年以来的「训政时期约法」的合法基础侵蚀挖毁,并磨灭了作为广泛的社会同意的正统性。国民参政代表性这个政治途径的创立,给民国政治空间提供了一个新的政治舞台,但国民党没能把它组织成为自己的正统性原理。
通过1945-46年阶段民国政治的新政治正统性问题,将要讨论推测20世纪中国政治空间的内在理解的一个「支点」。(單晓文)

共通論題1

川井伸一(愛知大学):中国における会社支配の歴史的伝統(中国的企业统治的历史性质)
中国では1990年代以降、国有企業の民営化改革との関連からコーポレート・ガバナンス概念の導入検討が進んでいる。国有企業を中心にコーポレート・ガバナンスの機能(特に所有・経営者のあり方と経営効率性との相関関係)と性格(特に政府支配と内部者支配)についての研究も急速に進展しつつある。ただし、それらは専ら、1990年代以降の現在の中国会社企業を対象としたものであって、改革開放以前の中国企業、さらには1949年以前の中国企業を対象として検討したものではない。計画経済時期の中国公有企業はそもそもコーポレーションとしての法人会社ではなく、かつ所有と行政管理が一体的で経営が行政支配下にあったので、利害関係者の分化に基づくコーポレート・ガバナンス概念の発想から考えにくいというところがある。また、1949年以前の企業制度は法人会社制度が存在したものの、法人会社に対する歴史的検討は蓄積が浅く、特にコーポレート・ガバナンスの観点から検討したものはなかった。このように、現代企業に関する研究と過去の企業に関する歴史研究とのあいだには大きなギャップがあるといえる。ただし、近年になって1949年以前の会社企業のコーポレート・ガバナンスに関する研究成果が現れるようになった点は注目される。本稿では、過去100年前後の中国の会社企業に注目して、コーポレート・ガバナンス、とくに会社支配の性格について所有・経営・行政の関係を軸に検討する。
1949年以前の近現代中国における会社支配の性格について、官督商弁会社では行政(官僚)支配、家族会社では個人・家族オーナー支配、国有大会社では行政支配がかなり顕著であった。所有権にもとづく経営支配という性格は官督商弁会社を除いて強く見られるが、他方で所有と行政の一体化した行政支配も1940年代以降強く見られた。バーリとミーンズの議論に即していえば、1949年以前の会社は①完全な所有権による支配、②過半数持株支配の形態が大部分であり、一部で③法律的手段による支配が持株会社などでみられた。その点で所有と経営の分離程度は比較的低い水準に留まっていたといえる。中華人民共和国時期においては投資会社の試みは行政強化のもとで短命に終わり、国有大会社の行政化(国営企業化)がさらに進んだ。計画経済時代には企業(ただし法人会社ではない)に対する行政支配が最高度に達した。1980年代以降の改革期になると行政支配は後退しはじめる。国有大会社では所有権は政府と国有企業に集中しているものの、支配株主(親企業)と会社経営者の内部者支配が広くみられ、その点で所有と経営の一体的関係が強い。逆に所有代表である政府行政と経営との関係は希薄化している。他方、民営会社は基本的に個人経営・家族経営であり、所有と経営は一致し、行政の経営への関与は低い。チャンドラーの言う個人企業や企業家企業・家族企業は中国で広範に出現しているが、経営者が所有から分離された経営者企業の形成はこれからの課題である。
中国在90年代以后,从国有企业的民营化改革的需要出发,开始探讨企业治理这一概念的引进问题。以国有企业为中心,关于企业治理的功能(特别是所有者、经营者的作风和经营效益的关系)和性质(特别是政府治理和内部治理)的研究也正在急速发展起来。但是,这些主要是以90年代以后的中国企业为对象所进行的研究,而不是以改革开放以前,甚至1949年以前的中国企业为对象进行的研究。计划经济时期的中国公有企业本来就不是作为企业的法人公司,并且因为所有权和行政管理一体化,经营处于行政治理之下,所以从利害关系的分化而出发的企业治理理论来说,是不好理解的。另外,1949年以前的企业制度里虽然有法人公司制度,但是对于法人公司的历史研究的积累还很浅,特别是一直不存在从企业治理的观点出发的研究。因此可以说,关于现代企业的研究和关于过去的企业的历史研究之间有很大的差别。但是,近几年来,出现了有关1949年以前的中国企业的企业治理的研究成果,并受到关注。本稿以过去100年前后的中国企业为对象,以所有权、经营、行政的关系为轴,对企业治理,尤其是对其治理公司的性质进行研究。
从1949年以前的近现代中国的企业统治的性质来讲,在官督商办公司里实行行政(官僚) 治理,在家族公司里是个人、家族所有者进行治理,在国有大公司里行政治理相当显著。一方面,基于所有权的经营治理这一性质在除了官督商办公司以外的其他公司里都能被观察到,另一方面,所有权和行政一体化以后行政治理也在40年代以后被观察到。根据Berle和Means的理论,1949年以前的公司大部分是①由所有权来统治,或者②由持有过半数股份的经营者来治理,还有一部分③持股公司等由法律手段来治理。在这一个点上可以说所有权和经营的分离程度停留在比较低的水准上。在中华人民共和国时期,投资公司的尝试在行政强化政策之下很快失败了,国有大公司的行政化(企业国营化)反而进一步加深。在计划经济时代,对企业(并不是法人企业)的行政统治达到了最高程度。到80年代以后的改革期,行政统治开始衰退。在国有大公司里所有权虽然集中于政府和国有企业,但是普遍存在着由拥有支配权的股东(总公司)和公司经营者的内部支配,在这一点上,所有权和经营的一体性关系很强。反过来,拥有所有权的政府和经营的关系变得稀薄化。另一方面,民营企业基本上是个体户、家族经营,所有权和经营相一致,行政对经营的干涉程度比较低。Chandler所说的个人企业、企业家企业和家族企业都在中国广泛出现了,不过,经营和所有权分离的经营者企业的形成问题成为今后的课题。(徐丽)
王先明(南開大学):近代中国の「半封建」問題について(关于近代中国“半封建”问题的辨析)
中国近代社会の特質の問題に関して、近来の研究の焦点は主に「半封建」の解釈に集中している。20世紀の「封建」特に「半封建」概念の洗練およびその時代的特質とは、すべてが西欧や西周の「封建」制度と比較対照して解釈したり否定したりできるものではない。「半封建」の特質は1920~30年代の学界において比較的一致した認識を得ていたが、共産党やレーニン主義の唯一の理論の一つの認識として簡単には判断され得なかった。日本の学者である田中忠夫は『国民革命と農村問題』という本の中で、近代中国社会の「封建」特質の認識に対して、根拠ある指摘をしている。近代社会に存在する実際の状況によれば、「封建残余」あるいは「半封建」の存在は理解できないわけではなく、また「知識」や学問的「ロジック」にも反しているわけではない。中国近代社会の「半封建」の認識についていうと、マルクスの様々なレベルの「封建」概念と抵触するわけではない。「半封建」理論の出現は、ただ単に概念の変遷の問題であるだけでなく、特定の歴史時代を形作っているのである。(和田英男)
关于中国近代社会特性问题,近来的焦点主要集中在“半封建”之释义上。20世纪的“封建”尤其是“半封建”概念的凝练及其时代特征,都不是仅仅以西欧或西周之“封建”制度的比对所能诠释或所能否定的。“半封建”特性在二、三十年代获得了学界相对一致的认同,不能简单评判为共产党或列宁主义唯一理论的一种认识。日本学者田中忠夫在《国民革命与农村问题》一书中,对近代中国社会“封建”特性的认识并非无根之论。根据近代社会存在实况,“封建残余”或“半封建”的存在并非不可理解,也并非违反了“知识”和学理“逻辑”。 对于中国近代社会“半封建”的认识,与马克思多层次的“封建”概念并无牴牾。“半封建” 理论的出现不仅仅是一个概念流变问题,而形成了一个特定的历史时代。

不少学者的研究表明,明清之前的中国本不存在一个封建社会,那末近代中国“半封建”社会之说,岂非无根之木?此外,中国现代语境中的“封建”与西欧之封建制度(feudal system)(即“封土封臣”、“采邑领主”)也相去甚远,似也未合马、恩封建社会之释义。但是,对于 “封建主义”何以在20世纪的中国形成一种时代认同,它如何在“时代主题”下获得了具有新的价值等更为深远的问题,却恰恰被疏漏了。

早在1924年,日本学者田中忠夫在《国民革命与农村问题》一书中,就形成了比较系统的“半封建社会”的理论,他认为“中国至今仍为半封建社会,或仅进至初期资本主义社会。田中忠夫所持的认识比30年代“论争”中形成的“半封建社会”理论至少早出10年之久,而且田中所持既非泛泛之空谈也非简单的概念移借,而有着自己相对成熟的思考。遭到马克思主义学者的激烈批判的任曙和严灵峰也认为,中国现存社会中仍有“所谓封建剥削的阻碍”。正是这种“封建剥削”及其经济关系,成为“半封建社会”认识的现实“社会存在”。 正是在此经济、社会制度考量基础上,“半封建”特性获得了相对一致的认同。这绝不仅仅是共产党理论体系的逻辑结论,即使对于当时的国民党而言,也复如此。

正是在中外历史相互比较研究中,学者们在现存社会生活中发现了源于古代社会的“封建残余”的历史制约,从而为“半封建社会”特性的认知提供了历史的依据。不仅如此,当时许多来自国外学者的调查研究也表明,近代以来的中国社会中封建性因素的存在并不是偶发的个案事实。
周代作为典型的“封建制度”,并秦汉之后发生“封建制度”崩解的史实,在当时的学者中也获得了相当多的认同。但对这一史实的认同并不意味着对后世社会“封建性”存在的彻底否定。封建与集权并不是直接对立、互不相容的概念。
“封建周制” 的礼制及其文化传统,历久不湮地在存在于后世的社会和文化制度之中。即便是秦汉以后形成的中央集权,也不能不俯首于封建礼制和文化传统的强固价值——所谓“道统”的力量。集权的中央政制,并不等于乡制的集权;封建传统在乡制层面上的沿袭、绵延、甚至一定条件下的放大,是中国历史和文化演进进程中的复杂性、丰富性和传承性的特征之一。“封建残余”或“半封建”的存在并非不可理解,也并非违反了“知识”和学理“逻辑”。

与非马克思主义学者研究视角有所不同,当时共产党阵营中的学者对于近代中国“半封建”社会理论的解说,更多地侧重于“生产关系”角度的分析,“所有制关系”的理论立场十分突出。这些马克思主义学者的论述并不与经典马克思论述的“封建”概念完全相牴牾。马克思在“封建”概念的理解和运用上也是多层次的。
首先,作为一个特定“时代”指属的“封建”,具有相当宽泛的含义。“封建时代”是指称“前资本主义时代”。
其次,作为一种人际关系特性的“封建”,用以指称传统社会中不同于资本时代的社会关系。
再次,自由的“小农经济”和“独立手工业生产”也是封建社会的特征之一。

在“反帝反封建”的时代主题下,“封建主义” 在近代被认同为统一民族—国家对立的存在;中国“半封建”社会的特性也获得了时代的价值和意义,并在其学理层面和现实社会层面赋予了新的特征和内容。“半封建社会”的出现不仅仅是一个概念流变问题,而是形成了一个特定的历史时代——正是在其特有的理论认识体系中,借以创造了整整一个时代的历史。
20世纪之初,在近代中国获得认同的“半封建”概念,有其特有的时代内涵。它理论认知上承接了马克思的理论成果,史实认知上观照了现存中国社会“残存的封建性”因素,并在学术理论上形成了相对系统、完整的解说体系。正是在“半封建”的认识体系中,人们创造了一个时代,创造了一个特定的历史。
張力(中央研究院近代史研究所):中国と1946年パリ講和会議(中國與1946年巴黎和會)
1945年7月、米・英・ソの3カ国がポツダム会談を行い、会談中に5カ国外相会議を設けることを決定した。1945年9月、中・米・英・仏・ソ5カ国の外相がロンドンに集まった。英・米両国とソ連の意見が対立したため、多くの問題が合意に至らずに終わった。当時のアメリカ国務長官のジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)はただちに講和会議を開催して講和条約について話し合うことを提議したが、ソ連は受け入れなかった。1945年12月にモスクワで米・英・ソ3ヶ国の外相会議が開かれ、ようやく21カ国の連合国が1946年5月1日以前にパリで講和会議を開催し、外相会議が起草した講和条約を討論することを確定した。
 中国は5カ国外相会議の一員であったが、イタリアの降伏受諾条項への署名がまだだったために、講和条約起草作業にはまだ参加していなかった。その後、講和条約起草作業が遅れたため、講和会議は延期されて1946年7月29日に開催され、10月15日に終了した。会議前にパリで開かれた4カ国外相会議の中で、ソ連は中国がいまだに講和条約起草作業に参加していないことを理由に、中国が会議召集国の地位にいることに反対した。しかし駐仏大使の銭泰がソ連の外相と交渉した結果、ようやく米・英・仏・ソの4カ国とともに講和会議中に議長を交替でつとめることで同意を得た。
パリ講和会議の開幕時、中国外相の王世杰は自ら出席し、7月30日の演説で条約草案に対して、(1)戦敗国に軍事条約が過酷であると思わせない。(2)領土、政治、経済の各条項はより十分な考慮が必要である。(3)若干のイタリアの植民地をただちに独立させる。もし実行不可能であるならば、一定期間、連合国の信託統治下におき、この期間中に自治と独立の準備を完成させる、という3つの提案をした。王世杰は、暗に中国は4大強国の合意に完全には賛成できないと表明したのである。講和会議の組織は、秘書部門が設立されて、会議に関する一切の事務を処理する以外、全体大会を最高機関とし、21カ国による全体参加とした。全体大会の下、9つの委員会を設け、それぞれ講和条約草案の関連条項を討論した。あらゆる委員会の討論結果は、すべて全体大会に提起して採決をとった。中国代表が参加した委員会の内訳は、軍事委員会、法律起草委員会、イタリア政治領土委員会、イタリア経済委員会であった。その他の委員会には人員を派遣し列席して傍聴した。
本論文は主に『王世杰日記』及び台北国史館と中央研究院近代史研究所档案館が所蔵する外交部档案を用い、中国が参加したパリ講和会議の準備作業や列強と行った交渉、及び会議出席期間中の若干の議題に対する反応を検討する。これによって戦後中国がヨーロッパ事案を主とする国際会議の中で展開した外交態度を調べたい。(根岸智代)
1945年7月,美、英、蘇三國舉行波茨坦會議 (Potsdam Conference) ,會中決定設立五國外長會議 (Council of Foreign Ministers)。1945年9月,中、美、英、法、蘇五國外長在倫敦 (London) 集會,由於英、美兩國與蘇聯意見對峙,甚多問題無法達成協議,當時美國國務卿貝爾納斯 (James F. Byrnes) 即有召開和會共商和約的提議,但未被蘇聯接受。到了1945年12月在莫斯科 (Moscow) 舉行的美、英、蘇三國外長會議,始確定21個同盟國 (Allied nations) 於1946年5月1日以前,在巴黎 (Paris) 召開和平會議,討論外長會議草擬之和平條約。
中國雖為五國外長會議的一員,但因未在對義大利 (Italy) 受降條款上簽字,故未參加和約的起草工作。其後因為和約起草工作之延宕,和會延至1946年7月29日召開,至10月15日結束。會議之前在巴黎舉行的四國外長會議中,蘇聯以中國未參加和約起草工作,反對中國具有召集國的地位,經中國駐法國大使錢泰向蘇聯外長交涉,才獲得同意與美、英、法、蘇等四國,在和會之中輪流擔任主席。
巴黎和會開幕時,中國外交部長王世杰親自出席,並在7月30日之演說中對草約提出三大建議:(一) 勿使戰敗國認為軍事條款過苛;(二) 領土、政治和經濟各項條款,應有更充分之考慮;(三) 義大利若干殖民地應立即給予獨立,若不能實行,則應於一定時期內,置於聯合國託管制之下,並在此時期中,完成自治與獨立之準備。王世杰並暗示,中國不會完全贊同四強之一切協議。和會組織,除設立秘書處,掌理會議一切事務外,以全體大會為最高機構,由21國全體參加。全體大會之下設9個委員會,分別討論和約草案有關條款。所有委員會討論結果,均提請全體大會表決。中國代表參加之委員會計有:軍事委員會、法律起草委員會、義大利政治領土委員會、義大利經濟委員會。其餘委員會則僅派員列席旁聽。
本文主要利用《王世杰日記》,及台北國史館和中央研究院近代史研究所檔案館典藏之外交部檔案,對中國參加巴黎和會之準備工作、與列強進行之交涉,以及出席會議期間,對若干議題所作之反應,進行探討,藉此瞭解戰後中國在以歐洲事務為主的國際會議中,所展現的外交姿態。

共通論題2

片山剛(文学研究科):自然の領有における階層構造:字の世界と一筆耕地の世界(拥有土地自然的重层结构:单位村域的领域及单位农田的领域)
本稿の目的は、筆者が古老を対象に行った聞取り調査を材料として、20世紀前半の広東省高要県第八区の金東囲(現在の高要市金利鎮の金安囲の一部)における、農村社会が自然(陸地と水面)を領有する構造を解明することである。
さて、金東囲内部に所在する一筆々々の耕地は、物理的には、その外部空間から三重に区画されている。第一の区画は、金東囲の堤防によって区切られた囲内の陸地・水面の全体である。第二は、囲内の水路によって区切られ、土名で「某某塱」と呼ばれる陸地である(塱は日本の「字」、特に「小字」に相当するので、以下、塱を小字と呼ぶ)。第三は、個々の小字内部において畦によって区切られ、作物が栽培される「一筆耕地」である。
囲内の陸地・水面の全体 ~ 個々の小字 ~ 一筆耕地
金東囲の一筆耕地の属性として、①土地税等の課税対象である;②一筆耕地の所有者には、作物を栽培して収益する権利(耕地の用益権)が付与されている;③ただし所有者が自ら経営耕作せず、小作に出すこともある;④所有者の多くは囲内の農民や宗族組織である。⑤所有者は売買・相続によって流動する;等がある。以上の属性は特異なものではなく、近世・近代の中国で普遍的に見られるものである。 小字を対象とする専論は、管見では見当たらず、おそらく本稿が初めてであろう。金東囲の小字(および小字に付属する水路)の属性として、⑥土地税等の課税対象ではない;⑦売買されず、特定の村(集落)に固定的に帰属している;⑧村は一筆耕地の用益権には関与しないが、小字と水路から「寄庄穀」「涌源」等の収益を得ている;⑨村に帰属している小字と水路の総和が村の領域を構成する;等がある。
以上から、収益性があり、かつ売買によってその所有者が流動する属性をもつ〈一筆耕地の世界〉と、収益性があり、かつその帰属先が特定の村に固定している属性をもつ〈小字の世界〉とが、同一の土地空間において次元を異にしつつ並存していることが判明する。旧中国における「村の土地」(村の固定的領域)の存否については、現在、否定的見解が定説となっている。しかし⑨から、「村の土地」が〈小字の世界〉で成立していることがわかる。中国史上における自然の領有に関する研究は、従来、主に文字史料にもとづき、〈一筆耕地の世界〉における問題として検討されてきた。〈小字の世界〉は、課税されず、売買もされない世界であるから、文字に記録されることは少ない。この点を踏まえるならば、今後、中国史上における自然の領有を考察していくには、聞取り調査を活用して〈小字の世界〉の存否やその内容を問う必要があろう。
本文的目的在于:通过笔者对作为20世纪前半期行政区划的广东省高要县第八区金东围的农村地区(现在的高要市金利镇金安围的一部分地区)的访查,并以对乡村长老们的采访记录为资料,来解析拥有土地自然(陆地和水面)的构成形式。
金东围内部的土地和自然,在物理结构上是由三层区划构成的:第一区划为:被金东围堤坝围住的围内的全部的陆地和水面;第二区划为:被围内的水渠所隔开的一片片的陆地、当地人称为“某某塱”(塱也称作“塱埗”)。本文称之为“单位村域”;第三区划为:在各个塱埗的内部,被田埂所隔开的种植作物的各块“一宗农田”,本文称之为“单位农田”。因此,可以将这种区划的重层结构整理为以下的形式: 围内所有的陆地和水面 ~ 单位村域(塱埗)~ 单位农田
金东围内的单位农田具有:①是土地税等税的征收对象;②单位农田的所有者拥有种植农作物并获得收益的权利(农田的使用和收益权);③而农田的所有者也可以自身不耕种,将其出租给其他人耕作;④农田所有者的多数为围内的农民和一些宗族组织;⑤由于农田的买卖和继承的原因其所有者发生变化;等特点。这些特点不是很特殊的,而是在中国近世、近代时期普遍所能看得到的。
关于以单位村域(塱埗)为对象的研究,据笔者所知还不存在,本文或许是最早提及的。金东围的塱埗(及其附属的水渠)具有:⑥不是土地税等税的征收对象;⑦不是买卖的对象而是固定地归属于某一村庄;⑧村庄从塱埗和水渠中获得“寄庄谷”、“涌源”等收益;⑨归属于村庄的塱埗和水渠加在一起,共同构成了村子的区域;等特点。
如上可知:一方面存在着具有收益性同时因其被买卖而使得所有者发生变化的〈单位农田的领域〉,一方面还存在着具有收益性而其固定地归属于某一村庄的〈单位村域的领域〉;并且这些领域同时存在于同一土地空间而其层次各异。关于旧中国是否存在“村子区域”的问题,现在,否定的见解成为定说。但从特点⑨的内容可知:“村子区域”在〈单位村域的领域〉中是存在的。迄今为止,关于中国历史中的拥有土地自然问题的研究主要以文字史料为主,因而使〈单位农田的领域〉的研究一直不断。而〈单位村域的领域〉则由于不是征税对象,又不可以进行买卖,因此,关于这一领域的文字资料很少。由此推知:今后在对中国史中拥有土地自然的问题进行考察时,运用采访调查的手法对〈单位村域的领域〉的存否及相关内容予以考证、研究应是很有必要的。(高洋、布和)
江沛(南開大学):港湾、鉄道と青島の都市変動1898-1937(港口、铁路与近代青岛城市变动:1898-1937)
19世紀末から20世紀の初めにかけて、近代中国の社会・経済が近代的転換を遂げていくにつれ、その機運に応じて鉄道・汽船などの新しい交通輸送システムが現れ、そして、この新型交通輸送システムを備えた一群の都市が徐々に形成され、青島はかかる都市の一つであった。本稿は、1898年~1937年の港湾、鉄道、青島の都市変容を事例に、港湾、鉄道及び青島における交通運輸業・工商業の発展、また青島への人口集中及び市街地の拡張等の内容をめぐって議論を進める。そして、近代交通システムと港湾都市青島の急速な勃興との関係を考察することを通じて、最終的には、近代交通システムと近代華北地域における都市の変容や社会の変化との内在的関連性を解明することを目指している。
青島市は青島港の所在地かつ膠済鉄道の起点であったから、その1898年から1937年にかけての変容は港湾・鉄道と密接に関係している。すなわち、港湾と鉄道が結びついた運輸システムが構築されたことは、当該地域の交通運輸条件を大きく改善し、青島を陸上交通の要衝とし、同時に山東省沿海における第一の港へと成長させた;鉄道と港湾の連結によって、モノとヒトの流れがいずれも未曾有の速さと規模で、中国の内陸部~青島~海外の間を移動するようになり、青島の商工業経済に急速な発展をもたらし、また青島に注目が集まって多数の労働者や商人が青島へ移住し、青島市の人口規模が拡大して市街地が不断に拡張していった;等である。青島は、青島港と膠済鉄道の存在によって、小さな漁村から近代化された都市へと変貌し、またこれによって山東省、ひいては近代華北地域の交通と経済における構造変動がもたらされた。
青島港と膠済鉄道の建設及び運営は、対外貿易が促進した中国経済の転換による必然的要求の結果であった。かかる近代交通システムの出現は、開港前の山東半島における煙台~濰県~済南を中心とする伝統的交易ルートを衰退させ、前近代の経済交易ネットワークにおける沿海部の周辺的地位に変化をもたらし、自然経済及び伝統的商業交易活動を世界経済システムに次第に接続させていくだけでなく、加えて、港湾と鉄道が連結した都市である青島を絶え間なく勃興させて、青島が煙台を追い抜く結果をもたらし、また、日ごとに成熟していく山東半島の近代経済システムにおけるターミナル市場かつ地域経済の中心に青島を成長させ、さらに、山東半島における都市の伝統的構造に変動をもたらした。港湾、鉄道、そして青島の都市としての発展という三者の間にある関係性は、青島に限られたものではなく、天津、大連、秦皇島、上海、寧波、厦門、広州といった都市についても、その発展にはそれぞれの特色はあるものの、その内在的な特徴には驚くほどの類似性が見られる。その特徴とは、港湾・鉄道を備え、近代交通の要衝に位置する都市は、その内陸部における伝統的経済の転換を世界経済システムが推し進めていくうえでの橋頭堡であり、また、近代中国における近代的経済の生成・発展をリードする役割を果たすことになった点である。(蔦井亮佑)
19世纪末20世纪初,随着近代中国社会与经济的现代转型,铁路、轮船等新型交通运输方式应运而生,一批新兴交通型城市逐渐形成,青岛便是其中之一。本文以1898-1937年间港口、铁路与青岛城市变动为个案,围绕港口、铁路与青岛交通运输业、工商业发展,与青岛人口集聚和街市扩展等内容展开论述,旨在通过考察现代交通体系与港口城市青岛迅速崛起间的关系,探寻现代交通体系与近代华北区域城市变动、社会变迁的内在关联性。
作为青岛港所在地和胶济铁路起点,青岛市在1898至1937年间的变动与港路休戚相关:港路运输体系的构建,极大改善了当地的交通运输条件,使青岛成为陆上交通枢纽并跃居山东省沿海第一大港;凭借路港联动,物流与人流均以前所未有的速度和规模在内陆—青岛—海外地区间流动,带动了青岛工商经济的飞速发展,也为青岛集聚了人气,大批务工、经商人员移居青岛,青岛市人口规模增大,街市不断扩展。在青岛港和胶济铁路的作用下,青岛完成了由小渔村到现代化城市的嬗变,并由此带动了山东省乃至近代华北地区交通和经济格局的变动。
青岛港和胶济铁路的修建及运营,是以外贸拉动中国经济转型的必然要求,这一现代交通体系的出现,不仅颠覆了开埠前胶东半岛以烟台-潍县-济南为中轴的传统贸易线路,改变了沿海地区在传统时期经贸网络中的边缘地位,使自然经济及传统商贸活动开始与世界经济体系逐渐接轨,也使港口-铁路型城市青岛不断崛起超越烟台,成为胶东半岛日益成熟的现代经济体系中的终极市场及区域经济中心,进而改变了胶东半岛传统的城市格局。港口、铁路与青岛城市发展间的关系并非个案,天津、大连、秦皇岛、上海、宁波、厦门、广州等城市的发展,虽然各有特点,但内在的特征却惊人相似,即由港口-铁路构成的现代交通枢纽型城市,是世界经济体系推动其腹地区域传统经济转型的桥头堡,又在近代中国扮演着现代经济产生及发展进程中的龙头地位。
秋田茂(文学研究科):1930-1950年代アジア国際経済秩序とイギリス帝国・スターリング圏(1930-50年代的亚洲国际经济秩序与大英帝国・英镑货币圈)
本報告では、新たな世界史の模索である「グローバルヒストリー」構築の一環として、第二次世界大戦をはさんだ1930-50年代のアジア国際経済秩序を連続性の観点から再考する。その際に、1930年代から展開されてきた経済外交と帝国秩序の解体(脱植民地化)、冷戦体制の形成とその展開、世界システム内部でのアジア世界の「相対的自立性」、以上の三点の相互のつながりを考察する。その際、本報告では特に、国際金融面でのスターリング圏の重要性に着目し、アジアにおけるイギリスの影響力と国際秩序の関連性を明らかにする。
まず、1930年代のアジア国際経済秩序に関して、30年代の中国が展開した経済外交とスターリング圏の関係を再考する。当時のイギリスにとって、資本輸出による債権を円滑に回収しロンドン・シティの金融・サーヴィス利害を擁護することが不可欠であった。1935年の中国幣制改革の成功は、当事者であった中国国民政府の周到な準備に加えて、英米両国の協力を引き出した中国当局の巧みな経済外交の成果であった。だが、協力したイギリス側からすると、中国を実質的にスターリング圏に包摂して、基軸通貨としてのポンドの価値を高めることができたのである。
次いで、戦後の1950年代の東アジア(東南アジアを含む)の国際経済秩序においても、スターリング圏が依然として重要性を有したことを日本の経済復興を事例に論じる。戦後アジアの低開発のスターリング圏諸国にとって、日本は、本国の限られた生産能力を補完する安価な代替供給源(綿製品・雑貨)であり、同時に、自国の第一次産品の主要輸出市場(パキスタンの棉花、オーストラリアの大麦、英領マラヤの鉄鉱石)であった。経済復興を進める日本にとっても、スターリング圏諸国向けの輸出は45%を占め、双方にとって貿易とポンド決済を通じた広範な相互依存関係が復活した。この相互依存関係を支えたのが、対日スターリング支払協定であった。また、日本側は、スターリング圏で例外的に優遇された香港の自由為替市場(香港ギャップ)を利用して、米ドルを獲得して戦後復興に活用することも可能であった。さらに、1951年にコモンウェルス諸国を中心に発足したコロンボプランに日本は1954年に加盟し、アジア地域主義の形成に寄与した。
以上のように、1930年代と50年代の間には、スターリング圏とアジア貿易ネットワーク(アジア間貿易)の両面で、ある種の連続性を指摘できる。我々は、こうした関係史的な見方にもとづいて、国際政治経済秩序の側面からグローバルヒストリーを構築できる。1990年代の「東アジアの奇跡」もこうした長期の歴史的射程で考察すべきであろう。
本报告作为新世界史摸索之一的 “全球史”构筑过程中的一环,以连续性的观点来重审包括第二次世界大战在内的1930-50年代的亚洲国际经济秩序。具体对1930年代展开的经济外交与帝国秩序的解体(脱殖民地化)、冷战体制的形成与展开,处于世界体系内部的亚洲世界的“相对独立性”这三点之间的联系进行考察。同时,本报告尤其着眼于在国际金融方面英镑货币圈的重要性,继而阐明英国在亚洲的影响力和亚洲与国际秩序的关联性。
首先、就1930年代亚洲国际经济秩序这一点,本报告重审了30年代中国展开的经济外交及中国与英镑货币圈的关系。对于当时的英国而言,将通过资本输出而发生的债权顺利回收以保护伦敦的金融服务业利益是必不可缺的措施。1935年中国币制改革的成功是在中国政府以直接参与人的身份,凭借周到的准备赢得了英美两国的协助这一背景下结出的巧妙的经济外交硕果。但对协助方的英国而言,实质上也将中国加入英镑货币圈,甚至使作为核心货币的英镑提升其价值。
接着,欲以日本经济复兴为例,论证即便在战后50年代的东亚(包含东南亚)国际经济秩序中,英镑货币圈仍占据重要位置。对于战后亚洲的开发程度较低一点的英镑货币圈诸国而言,日本不仅是补充本国有限的生产能力的廉价代替供给源(棉制品、杂货),同时也是自己第一产业产品的主要输出市场(巴基斯坦的棉花、澳大利亚的大麦、英属马来亚的铁矿石)。即使对正加快经济复兴步伐的日本而言,其面向英镑货币圈诸国的输出比例为45%,双方通过贸易及英镑支付而获取的广泛的相互依存关系也得以复活。而支撑这种相互依存关系的则为英镑货币圈对日支付协定。并且,日本方面利用在英镑货币圈中受到特别优待的香港自由外汇交易市场(香港贸易逆差),可获得美元并将之应用于战后复兴。另外,1954年日本加入了由英联邦国家1951年发起的科伦坡计划,对亚洲地域主义的形成起到了一定作用。
以上可见,在1930年代到50年代间,在英镑货币圈与亚洲贸易网(亚洲间的贸易)两方面都可看出某种连续性。而我们恰恰可以通过这种关系史学上的看法,从国际政治经济秩序这个侧面来构筑全球史。大概1990年代的“东亚奇迹”也应以上述这种长期性的历史眼光来考察吧。(金晶 译)
許育銘(東華大学):戦後台湾と琉球の政治・経済関係の再建過程(戰後台琉關係再建的過程:以1957年前後為中心)
本論文は主にこの2回に発表してきた戦後台湾と琉球関係の研究に引き続き、新たに発見した資料に基づいて、これまで未解決であった問題を検討する。最も重要なキーポイントは、1957年に蒋介石が国民党中央第六組主任の陳建中を引見した際、台湾と琉球との関係を発展させるよう指示し、すぐに大陸救災総会秘書長の方治が統括に加わり中琉文経協会の設立準備をしたことである。
蒋介石はなぜ1957年にこの指示を出したのだろうか?その理由の一つは、台湾と琉球との貿易発展に関係がある。琉球の民間対外貿易は1951年に始まり、すぐに台湾と貿易協定を結んだ。しかし、台湾から琉球への運送販売量は琉球から台湾への運送販売量よりはるかに多く、しかも台湾が琉球に運ぶ商品が次第に減少し、問題が徐々に顕在化してきた。もともと台湾では第一期四年経済建設計画実施後、1957年には台湾経済は自給自足に達すると見込まれていたが、国際収支は依然として輸入超過で、苦境から抜け出せずにいた。琉球は米軍のコントロールの下で各方面の再建を行い、アメリカが援助する外貨を大量に有していた。台湾はそれに目を付けていたが、同様にアメリカの琉球商務部門も台湾と貿易を拡大することを強く願っており、彼らは琉球側に早急に必要な物資は台湾が多く有していると考え、台湾ができる限り琉球に物資を輸出するように希望したのである。米軍が琉球人民の政治・経済への参加を認めるにつれて、1956年10月に琉球政府職員と商業界人士が初めて代表団を組織して訪華を開始し、台琉双方の商業貿易に関する相互訪問は増加していった。しかし、話題に上る問題の重点は、依然として、どのように台湾と琉球の貿易不均衡状態を解決し、台琉貿易を増加させるか、ということであった。
一方、同じく1957年、日米間で琉球の特殊な地位に関する交渉に比較的大きな発展があり、この年の初めから、琉球を日本に返還するかどうかという議題が絶えずわき起こった。1957年1月25日には、台湾のスポークスマンが琉球の隣国に「日本を含めて、何ら正当な理由もなく、琉球人民が独立自治の願望を徐々に実現することを尊重していない」と表明した。台湾島内の琉球への関心は次第に増加していった。
最近の史料によると、1957年5月に光復大陸設計委員会科長の李国卿が訪琉の感想を報告し、その後、当時の副総統であった陳誠(当時、光復大陸設計委員会主任委員であった)を経て蒋介石に報告された。李国卿が提出した9つの提案事項は以下のとおりである:
一、琉球政府副主席は6月12日より前に代表団を組織して訪台し、貿易について折衝するが、この機会を利用して、経済的に琉球が日本に依存する状態から台琉の相互扶助の状態へと転換することを希望する。
二、機会を求めて話し込み、琉球人の台湾に対する認識を増やす。
三、琉球に商務及び僑務機構を設立する。
四、今年の双十節あるいは総統の誕生日に、琉球滞在の華僑が帰国してお祝いするのを許可するよう政府に要請する。
五、政府に琉球籍の留学生12人を募集するよう求める。
六、米国駐琉軍司令及び行政長官に台湾訪問を要請する。
七、琉球の文化教育界の人士に台湾訪問を要請し、我が国の出版物や資料を贈呈する。
八、フィリピン、韓国、ニュージーランド、オーストラリアと共同宣言を出し、琉球問題に更に国際性を持たせるようにする。
九、琉球で台湾の商品展覧会を開催する。
この提案に対し、蒋介石は「提案事項第七項が妥当でない以外は、他はその通りでよい。展覧会に関しては、中信局が東南アジア商品展覧会から帰国して後、ただちに琉球に赴き展覧会の準備をすべきである。展覧品は琉球が必要とする、茶やパイナップル、ベニヤ板を主とするのがよい。」という指示を出した。続けて行政院に実施を指示したが、これにより経済部外貿会は1957年6月に「台琉貿易推進工作小組」設立を準備し、台琉貿易促進を強化し続けたのである。
本論文は主に1957年の李国卿の訪琉とその影響を中心に検証した。これ以外にも、李国卿の琉球訪問を要請した琉球経済のボスである国場幸太郎を研究した。彼は台琉関係発展の中で重要な役割を演じたのである。(和田英男)
本文主要是延續前兩次發表之關於戰後台灣與琉球關係研究,根據新發現的資料探討以往所未能解決之問題。最重要的關鍵是1957年,蔣介石召見國民黨中央第六組主任陳建中,指示發展台灣與琉球關係,而遂有大陸救災總會祕書長方治參與主持,籌設中琉文經協會。
為何蔣介石在1957年提出此指示?其理由之一應該與台琉貿易發展有關,琉球民間對外貿易自1951年開始,即與台灣訂定貿易協定,然而台灣運銷琉球之貨遠多於琉球銷台之貨,且台灣運琉貨物又逐漸減少,此一問題逐漸浮現。原本台灣因為第一期四年經建濟建設計劃實施後,期望在1957年台灣的經濟達到自給自足的地步,然而國際收支仍然未擺脫逆差困境。而琉球在美軍控制下進行各方重建,握有大量的美援外匯,成為台灣當局的目光所在,同樣地,美方在琉球商務部門,也極願與台灣擴大貿易,他們認為琉球方面急需物資正是台灣最豐富的產品,希望台灣能儘量向琉球輸出。隨著美軍放寬琉球人民參與政治、經濟事務,自1956年10月琉球官員與商界人士首度組團訪華開始,台琉雙方商貿互訪的次數不斷增加,但是所談之問題重點仍在如何解決台琉貿易之不平衡狀態,擴大台琉貿易。
另一方面,也是就在1957年,日美關於琉球特殊地位之交涉有比較大的發展,自從該年年初起,關於琉球是否歸還日本的議題便不斷在發酵。台灣外部發言人曾於1957年1月25日表示,琉球的鄰國,「包括日本在內,均無任何正當理由不尊重琉球人民逐漸實現其自治獨立之願望。」台灣島內對於琉球之關心也逐漸增加。
根據新近史料顯示,1957年5月光復大陸設計委員會科長李國卿所提出之訪琉觀感報告,後來經當時的副總統陳誠(當時亦為光復大陸設計委員會主住委員)提出給蔣介石。李氏提出了九點建議事項如下:
  1. 琉球政府副主席於6月12日前組團訪台一談判貿易,希望能利用此一機會,在經濟上由琉球依存日本之狀態轉為台琉互需互助。
  2. 請釣座賜予長談,以增加琉人對我之認識,
  3. 在琉設商務及僑務機構。
  4. 務請政府於本年雙十節或總統華誕准旅琉華僑回國慶祝或祝壽。
  5. 請政府招收琉籍留學生一二人。
  6. 邀請美國駐琉軍司令及行政長官訪台。
  7. 邀請琉球文化教育界人士訪台,並贈予我國出版品及資料。
  8. 聯合菲、韓、紐、澳、發表聯合宣言,將琉球問題造成更具國際性。
  9. 在琉球舉辦我國商品展覽會。
此建議經蔣介石批示,「除建議事項第七項不妥外,餘可照辦。關於展覽會事,可令中信局俟東南亞商品展覽團返國後應即籌備前往琉球展覽,展覽品可以琉球所需要者如茶、鳳梨、三夾板等為主。」隨後指示行政院執行,因此經濟部外貿會在1957年6月間籌備設立「台琉貿易推進工作小組」,繼續加強推動台琉貿易。
本文即著重檢討1957年李國卿的訪琉與此事之影響,此外還探討邀請李國卿訪問琉球的琉球經濟巨頭國場幸太郎,在台琉關係發展中所扮演的重要角色。

共通論題3

田中仁(法学研究科):日中戦争前期における華北農村と中国共産党:河北省淶源県の「800日」(中日战争前期的华北农村与中国共产党:河北省涞源县的“800日”)
日中全面戦争期の中国政治は,「抗日」を共通課題とする国民党と共産党(中共)との政治的連携を前提として,中国が有するあらゆる資源を「抗日」のため に動員することを基本的特質としていたが,国民政府軍が軍規違反を口実として 中共系の新四軍を殲滅した1941年の皖南事件は国共関係に甚大な衝撃を与えるとともに,中国政治を大きく変容させることになった。以前報告者は,1938年11月7日(中共6期6中全会終了後)から41年1月5日(皖南事変発生の前日)の797日にいたる中共権力の中枢部分の実態(書記処と中央委員会の関係,「中央」の意味,党軍関係と軍事委員会,毛沢東の指導権)について考察を加えた(田中,汲古書院2008)。本報告では,河北省淶源県を素材として,同時期における中共の基層部分の実態について検討する。
河北省淶源県は山西省との省境地域,太行山脈中の小盆地である。日中全面戦争 勃発後,同県は,察南自治政府・晋北自治政府および中華民国臨時政府山西省と接する地点に位置し,同時に八路軍が太行山脈を拠点に河北平原に展開するうえで重要なポイントにあったため,日本軍と八路軍との間の典型的な係争地域となった。このことは,本稿が対象とする淶源県の800日に関わる事象―(1)黄土嶺戦闘と阿部中将の戦死,(2)ノーマン・ベチューンの記憶,(3)日本軍の拠点・東団堡の奪取,(4)王二小言説の形成と展開―がいずれも単なる地方事件ではなく,中国抗日戦争全体(あるいはその語り)に関わる出来事であったことによっても理解することができよう。
本報告では,日中戦争前期の淶源県の実態を,a.中共淶源県委員会が作成した数件の報告書(「拡軍工作総結報告」1940年6月4日,「県選議員工作総結報告」11月1日,「関於争取反掃蕩徹底勝利的初歩検査報告」11月9日,「1940年宣伝教育工作総結報告」12月30日,「関於双十綱領材料」1941年2月1日;河北省档案館所蔵),b.「楊成武回想録」や「淶源県文史資料」所収の回想資料,c. 「淶源県志」「中共淶源県組織史資料」などの編纂資料によって復元するとともに,上述した淶源県の800日に関わる(1)~(4)の事象が,「戦争と革命の記憶」として今日の淶源でどのように定置されているのかを確認する。
中日全面战争时期的中国政治,是以“抗战”为共通课题,以国民党和共产党(中共)的政治合作为前提,还以为“抗日”而动员中国所有资源为基本特质。但是,国民政府军以违反军纪为借口,歼灭中共新四军的1941年皖南事件对国共关系产生相当大冲击的同时,中国政治也发生了巨大的变化。之前本人对1938年11月7日(中共6期6中全会结束)到41年1月5日(皖南事变发生前)797日之间的中共权力中枢部分的实际状况(书记处与中央委员会的关系―“中央”,党军关系与军事委员会,毛泽东的指导权)进行过考察(田中,汲古书院2008)。本报告以河北省涞源县为题材,对同时期的中共基层部分的实际情况进行探讨。
河北省涞源县位于山西省与河北省交界处,是太行山脉中的小盆地。中日战争全面爆发后,该县处于察南自治政府,晋北自治政府,以及中华民国临时政府的接合处。同时,由于八路军以太行山脉为据点,在河北平原展开抵抗,这里属于日军与八路军进行争夺的典型地区。由于这个原因,本报告以涞源县的800日为对象―(1)黄土岭战斗与阿部中将的阵亡,(2)对诺尔曼・白求恩的回忆,(3)对日军据点―东团堡的争夺战,(4)王二小故事的形成与展开―不论哪方面都不是单独的地方事件,可以理解为与中国抗日战争整体(或者在这样的历史背景下)相关联的事件。
本报告中,对中日战争前期的涞源县的实际情况,a.中共涞源县委员会制订的几份报告书(≪扩军工作总结报告≫1940年6月4日,≪县选议员工作总结报告≫11月1日,≪关于争取反扫荡彻底胜利的初步检查报告≫11月9日, ≪1940年宣传教育工作总结报告≫12月30日,≪关于双十纲领材料≫1941年2月1日;河北省档案馆藏),b.≪杨成武回忆录≫和≪涞源县文史资料≫所收集的回忆资料,c.≪涞源县志≫≪中共涞源县组织史资料≫等编篡资料进行复原的同时, 作为“战争与革命的记忆”,对上述与涞源县800日相关联的(1)-(4)事件,在今天以怎样的历史视角来解读进行确认。 (高洋)
李金錚(南開大学):「新革命史」への転換:国家と社会という視野における中共革命史研究(向“新革命史”转型:国家与社会视野下的中共革命史研究)
中共革命は既に多くの年月が過ぎ、次第に人々から忘れられていく傾向にあるようである。しかし、実際には、歴史的側面からであれ現実的側面からであれ、革命史は別れを告げられないものであるばかりか、今なお研究を続けていく必要が相当あるのである。なぜなら中共革命は中国近代史の重大で鍵となる問題だからであり、中共革命を研究しなければ、中国の近代歴史の発展の変遷と最終結果を説明できないからである。これだけでなく、中共革命は全世界における民族革命史の中で重要な歴史的地位を持っており、研究により人類革命史の研究に具体的な実証と理論的貢献を提供できる。その上、中共革命とポスト中国革命時代は、とりわけ集団化時期が非常に密接な継承関係にあり、研究により中国歴史の発展の筋道をよりはっきりと理解できるであろう。しかし、先行研究の多くは伝統的革命史の転写モデルであり、単一の「政策―効果」という手法に過ぎず、革命政策の決定や実施、農民大衆の賛同や支持は、一種の必然的な直線的論理関係である。このような認識は中共革命の複雑性や艱難性を覆い隠してしまい、表面的な称賛は実のところ共産党の偉大さを低下させている。中共党史と革命史の真なる突破を実現するには、伝統的革命モデルに基づいた単純な思考方式を改め、研究思考の転換と研究視角の刷新を追求し、「新革命史」へと転換していかなければならない。比較していうと、国家権力と人民社会の相互作用という観点は、使用可能な導入点であり、突破点である。(和田英男)
中共革命已经过去多年,似乎有逐渐被人遗忘的倾向。其实,无论就历史还是现实而言,革命史不仅无法告别,还颇有继续研究的必要。因为中共革命是中国近代史的重大问题、关键问题,不研究就不能解释中国近代历史的发展演变和最终结局;不仅如此,中共革命在全球民族革命史中也有着重要的历史地位,研究它可以为人类革命史的研究提供具体实证和理论贡献;再者,中共革命与中国后革命时代尤其是集体化时期具有十分密切的承继关系,研究它能使我们更加清晰地理解新中国历史的发展脉络。然而,以往的研究多为传统革命史的书写模式,即单一的“政策——效果”路径,革命政策的制定、实施与农民大众的认同、拥护似乎是一种必然的线性逻辑关系,这种认识大大遮蔽了中共革命的复杂性、艰巨性,表面的称颂其实是降低了共产党的伟大。要想实现中共党史或革命史的真正突破,必须改进传统革命范式下的简单思维模式,寻求研究思维的转换和研究视角的创新,向“新革命史”转型。比较而言,国家政权与民间社会双重互动角度就是一个可以使用的切入点和突破点。
陳進金(東華大学):抗戦前の中央・地方関係の検討:蒋介石と地方軍人の態度を中心に(抗戰前中央與地方關係的檢討:以蔣介石和地方軍人的態度為中心)
1928年に国民革命軍が北伐を完成させることによって、中華民国建国以来の軍閥統治の時代に終止符を打ち、形式上の統一が達成された。北伐完成後の国民政府は“軍政”から“訓政”へと移行し、南京政府はようやく政治制度の設計に力を注げるようになった。1928年10月、胡漢民の計画の下で、国民政府は五院制を試行した。胡漢民は、党権を向上させることによって党治を推し進め、これによって北伐時期に膨張に転じた軍権と軍閥割拠という状況を払拭しようとしたのである。軍権から党権へ移行してさらに民権主義を実行することは、孫文の早くからの構想であり、また国民革命軍の革命の目標でもあった。しかし、軍権から党権へと移行する計画の中で、地方軍人の信任を期待するも得られず、北伐後の国民政府は依然として、軍隊を擁してそれを恃み、各地に割拠する地方軍人を完全に掌握するすべがなかった。その上、新しい党政組織は、異なる派閥の地位を軽視しすぎ、かえって党内の派閥が地方軍人と連合して中央情勢に対して反抗する事態が発生した。1929年の「護党救国軍」、1930年の「中原大戦」、1931年の「寧粤分裂」などは、どれもこの顕著な例である。
筆者は2002年と2007年に、『地方実力派と中原大戦』(台北,国史館)と『機変巧詐(機に応じて巧みに偽る)-両湖事変前後の軍系統相互の影響分析―』(台北,輔仁大学)の二冊の専門書をあいつぎ出版した。この二冊の専門書はそれぞれ、1929年の李宗仁ら広西派の中央への反蒋運動である“両湖事変”と、1930年の閻錫山、馮玉祥、李宗仁らと連合した国民党改組派、西山会議派が蒋介石との党権と軍権を争奪した状況について検討したものである。実際、筆者がこの二冊の専門書を書いた目的は、“両湖事変”と“中原大戦”を明らかにすることにあり、北伐後の中央・地方関係について見通すことにあった。そして、二冊の専門書を完成させた後、筆者は一貫してある問題について考えるようになった。すなわち、抗戦前の中央・地方関係は、なぜいつも緊張状態にあったのか?地方軍人は、なぜいつも軍事行動を取ることによって中央に対抗するという道を選択したのか?ここで重要なのは、蒋介石と地方軍人の態度である。そのため本論文では、“両湖事変”及び“中原大戦”を事例として、李宗仁、馮玉祥、閻錫山、および蒋介石らの地方と中央の武力衝突についての態度についてそれぞれ論ずる。
蒋介石の基本的な態度は「国家統一」をやりぬくことであり、そのため平和的手段での紛争解決が不可能となった時に、「国家統一」を求める武力に訴えることをいとわなかった。 “両湖事変” の平和的解決を試みて失敗した後、蒋介石は断固として武力討伐を決定したのである。中原大戦の時期には、蒋介石はかつて「国家統一」を訴えて、閻錫山や馮玉祥らを討伐すると同時に、「国家統一」を呼びかけて、当時要となる地位を有した張学良に説いてまわったのである。深く考えるべきは、国家指導者が中央集権的な「国家統一」に熱中しすぎると、かえって内戦を誘発する一因になるということである。
またこれらの地方と中央の衝突の中で、地方軍人は中央からの訴えから独立していたとは言え、彼らの関心は依然として自らの地盤であり、彼らの信じるところはやはり自らの手中にある武力だったのである。地方軍人は制度を信じない以上、自らの地盤を頼みとし、蒋介石もやむなく地盤や金銭で地方軍人を抱き込み、主要な敵を孤立させることで、武力討伐の好機に機先を制し得たのである。“両湖事変”の時期には、蒋介石は馮玉祥と連合して李宗仁らの広西派を制した。その後、西北軍が蒋介石に敵対すると、蒋介石は閻錫山と連携して馮玉祥を制した。そして、中原大戦において閻錫山が蒋介石に敵対した時は、蒋介石は張学良と協力して閻錫山を制したのである。このような悪循環は収まることはなく、それどころか国家の発展や政治の制度化・近代化に対して悪影響をもたらしたのである。 (蔦井亮佑)
1928年國民革命軍完成北伐,結束了民國以來軍閥統治時期,達成形式上的統一。北伐後的國民政府,結束軍政,進入訓政時期,南京政府乃致力於政治制度的設計。1928年10月,在胡漢民的規劃之下,國民政府開始試行五院制,胡氏試圖以提升黨權,推行黨治,以消除北伐時期過渡膨脹的軍權與軍人分治的局面。由軍權過渡到黨權再實行民權,是孫中山早年的設計,也是國民革命軍革命的目標,但是在由軍權過渡黨權的規劃中,卻得不到地方軍人的信任,北伐後的國民政府仍然無法完全控制擁兵自重、割地自據的地方軍人;且新的黨政組織過於忽視不同派系地位,反而造成黨內派系聯合地方軍人反抗中央的情勢不斷發生,1929年的「護黨救國軍」、1930年的「中原大戰」、1931年的「寧粵分裂」皆是顯著的例子。
筆者於2002年、2007 年相繼出版《地方實力派與中原大戰》(臺北,國史館),《機變巧詐:兩湖事變前後軍系互動的分析》(臺北,輔仁大學)兩本專書,這兩本專書分別探討1929年桂系軍人反抗中央的兩湖事變,與1930年閻錫山、馮玉祥、李宗仁等聯合國民黨改組派、西山會議派與蔣介石爭奪黨權、軍權的情形。事實上,筆者撰寫這兩本專書的目的在透過兩湖事變與中原大戰,來瞭解北伐後的中央與地方關係。是以,完成上述兩本專書後,筆者一直在思考一個問題:即抗戰前的中央與地方關係,為何總是處於緊張狀態?地方軍人為何總是選擇以軍事行動來對抗中央?這其中的關鍵即在於蔣介石與地方軍人的態度,因此本文將以兩湖事變、中原大戰為例,分別討論李宗仁、馮玉祥、閻錫山和蔣介石等人,對於地方與中央武力衝突的態度。
蔣介石的基本態度是堅持「國家統一」,因此當以和平方式解決紛爭不可得時,蔣氏為求國家統一,會不惜訴諸於武力的方式。兩湖事變在和平解決嘗試失敗後,蔣即斷然決定武力討伐;中原大戰期間,蔣介石也曾經以「國家統一」為訴求,出兵討伐閻、馮等人,同時也以「國家統一」為號召,來遊說當時深具關鍵地位的張學良。值得深思的是,國家領導人過於迷思於中央集權式的「國家統一」,有時反而成為導致內戰的因素之一。
再者,在這些地方與中央的衝突中,地方軍人雖有另立中央的訴求,但其所關心的仍是個人的地盤,所相信的仍是手中的槍枝。既然地方軍人不相信制度,只相信個人地盤,蔣介石就只好用地盤、金錢來拉攏這些地方軍人,以孤立主要敵人,便於武力討伐時取得先機。兩湖事變期間,蔣中正聯馮制桂;之後西北軍反蔣,蔣又聯閻(錫山)制馮;中原大戰閻錫山反蔣時,蔣又聯張(學良)制閻,如此循環不已,反而對國家發展或政治制度化、現代化,產生不良的影響。
張同楽(河北師範大学):抗日戦争時期の河北省淪陥区における聯荘会の研究(抗日战争时期河北沦陷区联庄会研究)
聯庄会とは、中国における特定の歴史条件の下に形成され、発展した組織である。抗日戦争時期、河北省の淪陥区(日本軍占領地域)の聯庄会は、郷村住民の自衛組織であるだけでなく、いわゆる“郷村共同体”構築のための重要な形態であった。“抗日”と“降日”という矛盾が拡大していく中で、聯庄会は“抗日”と“降日”の両方の可能性を有していた。そのような中で、中国共産党は抗日民族統一戦線の思想で指導し、聯庄会を味方に取り込むための卓越した工作を進めていった。
本論は大きく分けて三つの部分から成る。
まず第一部では、河北省淪陥区における聯庄会の設立について検討していく。日中戦争の長期化によって、日本軍は物資や資源を確保するという面で相当困難な状況に陥ったことから、華北は日本軍の戦時下における物資調達のための基地とされた。また、河北省は華北の要衝であったが、華北の共産党八路軍が侵略してきた日本軍と真っ向から激突し、抗戦し続けたことで、日本軍は思うように略奪することは出来なくなった。そこで日本軍は、共産党組織を“剿滅(掃討)”するために、自治を施行し、農村を確保し、いわゆる愛郷観念を涵養することによって、組織としての聯庄会の設立に着手した。そして、聯庄会を利用して“聯庄会自衛運動”を展開し、華北において共産党が活動する余地なくすという目的を果たしたのであった。
続く第二部では、河北省淪陥区における聯庄会の主要な活動について分析を行う。河北省淪陥区の聯庄会は、日本軍の支配下において、各郷村の住民に対して“培訓(専門知識を持った技術員を育成すること)”を行い、並びに秘密情報員を養成し、聯庄会の組織内部に潜んで情報工作を行わせた。また、不良分子や頑固分子(反動勢力)が聯庄会の組織というこの公開された合法的形態を利用するようなことがあれば、“站岗放哨(歩哨に立つこと)”をさせて八路軍の抗日戦線を指導する幹部の活動を監視して、情報を取得し、特定の場所で暗号を発して日本軍に報告した。反共分子や反革命的な特務分子はすきをうかがいながら活動し、抗日戦争を指導する共産党幹部を闇討ちすることや、暗殺活動などに従事した。また、日本の傀儡組織は、ごろつき・ならず者・盗人らを聯庄会に引き入れて、夜の歩哨のチャンスに乗じて盗みを働かせ、後方における抗日戦争への工作を破壊し、社会秩序を憂乱し、そして“食う・飲む・打つ・買う”といった目的を達したのだった。新民会は聯庄会訓練班を通じて、“新国民運動”を展開し、反共、反英米の宣伝工作を行い、並びに“青年先鋒隊”等の傀儡団体を組織して訓錬した。
そして第三部では、中国共産党が聯庄会を味方に取り込んでいくための闘争について考察する。中国共産党は、聯庄会を味方に取り込む過程で、人々が日本軍を強く恨む心理に目を向けるだけでなく、同時にまた、日本軍を恐れる気持ちを理解する必要があった。また、抗日戦争の影響だけでなく、漢奸の動向にも目を向けた。そして、聯庄会の先進性に目を向けるだけでなく、同時に聯庄会の立ち後れた封建性や保守性についても考えた。これによって、聯庄会は同時に二種類の可能性を有することになり、そのうちの一つの可能性を現実としなければならなかった。もとより聯庄会が備えている主要な客観的条件、さらにそれらの条件がどのように発展するかを考える必要があったが、それに加えて人の主観的能動性をも考えに入れ、主観的・客観的な条件に基づいた最大限の努力によって可能性を現実に変えた。共通の敵に憤り立ち向かう大衆心理を発揚し、その悲観的で希望を失っている意識を克服し、聯庄会の先進性を推進し、彼らの反動的な部分の克服を援助し、聯庄会を味方に取り込んで抗日の道を歩ませた。同時に、聯庄会内部における地主や資産階級の反動性についても十分な注意を払わねばならなかった。また、大衆の中に存在する恐怖心、頑固分子の打破、日本軍の威嚇や漢奸の買収などに対して狙いを定めた工作が行われた。(蔦井亮佑)
联庄会是在中国特定的历史条件下生长发展起来的,抗战时期河北省沦陷区的联庄会,不但是乡村群众自卫组织,而且是所谓的“乡村协同体”建设的重要形式。在抗日降日的矛盾发展中,联庄会存在着抗日降日两种可能性。中国共产党以抗日民族统一战线思想为指导,对联庄会进行了卓有成效的争取工作。
论文分三部分:
第一部分,探讨河北省沦陷区联庄会的建立。由于中日战争的长期性,以致日军在物资资源上陷入相当困难,而华北为日军战时物资基地。河北省又是华北之重心,但是由于华北的共产党八路军和侵华日军针锋相对,坚持抗战,使日军不能恣意掠夺,日军为达“剿灭”共产党组织,施行自治,确保农村,以培养所谓的爱乡观念,开始组织联庄会,并利用联庄会展开了“联庄会自卫运动”,以达清除共产党在华北活动余地的目的。
第二部分,河北省沦陷区联庄会的主要活动。河北省沦陷区联庄会在日军控制下对各乡村民众进行“培训”,并培植秘密情报员,隐蔽在联庄会组织内做情报工作。有个别坏蛋份子或个别的顽固份子利用联庄会组织这一公开合法形式,“站岗放哨”监视八路军抗日干部的活动,获取情报,在一定的地点打枪放暗号报告日军,反共分子及其特务分子乘机活动,打抗日干部的黑枪及进行暗杀活动等。日伪组织还将地痞流氓小偷拉入联庄会,趁晚上站岗放哨之机进行偷盗,破坏敌后抗日工作,扰乱社会秩序,以达其吃喝嫖赌的目的。新民会通过联庄会训练班,开展“新国民运动”,鼓动反共反英美宣传工作,并组织训练“青年先锋队”等伪团体。
第三部分,中共争取联庄会的斗争。共产党在争取联庄会的斗争中,不仅看到人们仇恨日军的心理,同时也要看到恐怖日军的情绪;不仅看到抗战影响,同时也看到汉奸活动;不仅看到它的前进力量,同时看到它的落后的封建性保守性。因此它有两种可能同时存在着,要把一种可能变为现实,固然要看所具备的主要客观条件,以及这些条件的发展如何,然而必须加上人的主观能动性,根据主观客观条件尽最大的努力,化可能为现实。发扬同仇敌忾的民众心理,克服其悲观失望的情绪,推动联庄会的进步力量,帮助克服它们的反动力量,争取联庄会走上抗日的道路。同时,对联庄会内部的部分地主资产阶级的反动性应充分注意;对群众中存在的恐怖心理,以及顽固分子的破坏,日军的威胁,汉奸的收买等,进行针对性的工作。

分科会

大阪大学中国文化フォーラム

青野繁治(言語文化研究科):欧米および日本のロックに見るチャイナインパクト(对于西洋和日本摇滚乐的中国冲击波)
中国のロックを考えるとき、欧米のロックが中国に与えた影響だけを見るのでは、一面的との批判を免れない。ロックが社会現象であるかぎり、影響関係は双方向的である。では「中国から欧米および日本へ」の方向はどのように現れているのか
ビートルズの「Revolution」(1968)、 YESの「And You And I」(1974)、ブライアン・イーノの「Taking Tiger Mountain(by Strategy)」、イギリスのバンドJAPANの「TIN TRUM」(1981)、ギリシャ出身で映画音楽で知られるヴァンゲリスの「China」、グラムロックの雄デヴィッド・ボウィーの「Let’s Dance」(1984)に収められた「China Girl」などを分析し、西洋のロックはそれぞれのアーティストがそれぞれの関心のもとで、中国イメージを表現していたが、憧れを表現するにせよ、批判的に見るにせよ、それは比較的しっかりとした中国認識に支えられたものであった、と結論づける。
一方、日本のポップスやロックはすでに触れたさだまさしやアリス、ゴダイゴのように中国と直接対峙する例もあったが、間接的な受容に始まって、それに終始した場合も多かった。これを主にYMOグループの音楽を通じて考察する。Tin Pan Alley時代の細野晴臣の「北京ダック」、坂本龍一のソロ・デビューアルバムである「千のナイフ」に収録した「The End of Asia」、高橋幸宏の「中国女」、矢野顕子の「在広東少年」、YMOのアルバム「Solid State Survivor」や「増殖」のアルバムジャケット、坂本龍一の「ラストエンペラー」など多くは、直接的に中国と接触するのではなく、欧米の中国イメージや日本の古い中国イメージから出発しつつ、新しい情報を吸収して、自分たちの作品に取り込んだのである。
YMOグループの対中国スタンスは、さだまさしが音楽活動の初めから、「フレディもしくは三教街」や「椎の実のママへ」に見られるような個人的な動機から、中国への高い関心を示し、さらには直接の交流へとすすんで行ったのとは、まさに対照的であった。
研究中国摇滚乐的时候,只考察西洋摇滚乐对于中国的影响,难免有人批评其偏颇。摇滚乐既然是一个社会现象,中西两方面的影响应该是互动的。那么,中国对于西洋或者日本的影响,能在何处看得出来呢?
本文,在一方面,通过披头士《革命》、YES《And You And I》、布莱恩・伊诺《Taking Tiger Mountain(by Strategy)》、JAPAN《Tin Drum》、David Bowie《China Girl》、Vangelis《China》等作品分析出欧美的摇滚乐对于中国和中国文化的态度,哪怕是批评还是赞扬,他们都是把自己对于中国的认识表现在他们的作品当中的。
另一方面,在日本也有,如已经介绍过的佐田雅志、亚里斯、后醍醐等,直接面对中国听众受到文化冲击波的音乐人,同时还有一些通过欧美信息,才能得到中国意象的音乐人。本文现在就这种以YMO为代表的音乐人进行考察。比如,细野晴臣的《北京烤鸭》、坂本龙一《亚洲的末尾》《末代皇帝》、高桥幸宏《中国女》和矢野显子《在广东少年》等,基本上都把日本传统的中国形象或者从欧美学来的中国形象作题材形成他们的中国意象。YMO甚至在唱片封皮上采用中山装和集体图画来引起欧美听众注目,得到了成功。
YMO对于中国的态度,和佐田雅志通过自己表母在中国的经验对于中国感兴趣,然后做《Fredy或者是三教街》《给椎果的姑妈》等歌,后来还走上直接交流的态度,比较起来,完全是相反的。
大谷順子(人間科学研究科):2008年四川大地震から見る中国(2008年四川大地震视角中的中国)
中国史上、大地震は決して珍しいものではない。1976年の河北省唐山地震(マグニチュード(M)7.8)は有名であるが、他にも実は多くの大地震が起きている。しかし、中国の地震は、日本ほど頻繁に起きていないことと、これまで地震に関する情報があまり公開されてこなかったことがあり、2008年5月12日午後2時28分に、四川省の汶川県を震源地として発生した四川大地震は世界に衝撃を与えた。
2008年の四川大地震は、経済発展目覚しい現代中国の抱える課題を表面に浮かび上がらせた。中国内陸部の四川省は、経済開発重点区として急発展をしており、少数民族や世界遺産も多く、観光地として栄える一方で、核関連施設を持つ中国政府としては神経を尖らせる地域でもある。本発表では、国際社会の注目を集める北京オリンピック開催直前という四川大地震が起きたタイミングと中国全体への影響、メディア政策などの政府の対応、インターネットやボランティアなど中国社会の反応を経時的に整理、分析し、四川省被災地域に縮図として浮かび上がる現代中国の抱える課題に関する考察を試みる。また、被災地コミュニティでの保健医療分野からの考察も加える。 四川大地震のあとも、この地域では8月に余震ではない攀枝花地震(M6.1)が発生したり、同じく8月に新疆ウィグル自治区でもいくつかの地震が起きている。2009年7月9日には中国雲南省楚雄イ族自治州姚安県でもM6レベルの地震が起きている。これからも中国において地震は起きるであろう。そこで、四川大地震での経験を記録しておくことは重要である。
これは、また日本や台湾でも将来再びいつか起こるであろう大規模な地震が実際に起きた時のための準備にもなり、また相互援助の仕方についても参考となる経験として、また知として蓄積されるべきものである。
在中国历史上,大地震并不少见。最有名的要数1976年河北省唐山发生的地震(震级(M)7.8),其实还有很多别的大地震。但是,中国并不像日本那么频繁的发生地震,而且目前与地震有关的信息并没有太多的公开,2008年5月12日下午2时28分,以四川省汶川县为震源发生的四川大地震,震惊了世界。
2008年的四川大地震,使经济显著发展的现代中国所面临的问题浮出了表面。中国内陆的四川省,作为经济开发的重点区域急速发展,少数民族和世界遗产也很多,作为旅游观光地繁荣的同时, 也由于核设施的存在,中国政府有所顾虑。本报告,对举世瞩目的北京奥运会举办前发生的四川大地震对中国社会整体产生的影响,媒体政策等的政府对应措施,网络与志愿者等中国社会的反应进行整理,分析,以四川省受灾地为缩影,对现代中国所面临的课题试着进行研究。同时,也对受灾地自治团体的保健医疗领域进行考察。
四川大地震发生以后,8月,四川省还发生了并不是四川大地震余震的攀枝花地震(M6.1),同样在8月,新疆维吾尔自治区也发生了几起地震。2009年7月9日,云南省楚雄彝族自治州姚安县还发生了M6级地震。从此以后中国恐怕也会频发地震的。那么,对四川大地震的经验记录就显得尤为重要。
同时,也为将来日本,台湾再发生大规模地震时做准备,还可以为相互援助提供参考经验,对这方面应该进行知识和经验的储备。(高洋)
許衛東(経済学研究科):中国内陸部の開発と日系企業(中國內陸地區的經濟發展與日企的投資動向)
本稿は、「西部大開発」、「中部崛起」に代表れる中国内陸部の開発計画に日系企業がどのようにかかわっているかを検討する一試論である。
中国経済をどう見るかは見る人の立場によって異なる。学問的関心から見るのか一般的経済知識として見るのかビジネスの対象として見るのか。ビジネスの対象として見る場合は常にリターンとリスクの駆け引きを試される真剣勝負である。
地理的区分として中国経済のどの部分をみるかによって、見方も異なる。沿海部を対象として限定すれば、フラグメンテーション化(産業集積間分業)、プロダクトサイクルの短縮化、バリューチェーン(価値創造の多層化)に象徴されるトランスナショナル化する世界の最適生産拠点に中国が成長している事実は揺るぎない。他方、内陸部まで広げて全体像を掴もうとすると、巨大な経済格差やインフラの不備や伝統産業の脆弱性などの地域問題が山積しており、「だれが中国を養うのか」といった論調と共通する悲観的な側面は少なくない。 地域格差の解消を期して2000年に「西部大開発」が導入されてすでに9年目を迎えている。この間、WTO加盟と北京オリンピックの開催を契機として、沿海部は「ハイテク型」産業集積への転換を進める外資誘致に傾斜しつつある。ここに立地淘汰の危機から調整を試みる「労働集約型」企業は内陸シフトの動向を期して、内陸部が積極的な投資誘致を展開している。
果たして、内陸に新たな投資機会が生まれつつあるのか?日系企業にとって内陸部向けの投資は単に沿海モデルの外延化なのか?内陸部の持続的発展に外資の役割はどこまで期待されるのか?
本稿では、まず内陸の投資環境を近年の投資管理方法の大幅変更点を踏まえて整理する。特に沿海部との相違を明らかにする。
次に内陸部に進出している日系企業の立地動向を把握し、内陸シフトの要因のパターン化を図る。現状では内陸部に進出している日系企業(上場企業)は全部で260社(蒼蒼社編『中国進出企業一覧2007-2008年版』)。過半数の146社は金属・電気・機械関連分野に集中している。合弁パートナーとなる重化学工業系の国営企業が「三線建設」を背景に内陸に多く分布していることと関係する。もっとも、日系企業(上場企業)の中国の金属・電気・機械関連分野への進出総数は2,078社であり、内陸部は全体の7%を占めているにすぎない。
さらに内陸部を取り囲む国土構造の変容、とりわけアジアハイウェーの整備やユーラシア鉄道の敷設に代表される物流環境の変化が内陸部の国際経済連関に及ぼす影響を踏まえて、東南アジア諸国での投資拠点との関係を含めて内陸部の日系企業の立地性格を吟味する。
沿海與內陸的區域經濟差異是中國的老大難問題之一,如何有效地利用外資促進欠發達地區的經濟發展是一項重要的經濟政策。
本文的目的是通過分析“西部大開發”(2000年)、“振興東北”(2003年)、“中部崛起”(2005年)等新經濟政策出臺之後日本企業在中國的投資調整動向,探討市場經濟整合與外企的關係。
目前,在全球金融危機的影響之下,以出口和投資帶動經濟發展的中國沿海地區經濟出現急速萎縮的同時,以欠缺全球化為特征的內陸地區卻實現了兩位數的增長,呈現出“風景這邊獨好”的良性狀態。很明顯,中國經濟的增長重心出現從傳統的“東高西低”結構向“西高東低”的方向轉變是一個重要的政策效果指標。
在以往的全球化浪潮衝擊的背景之下,中國經濟地位的提高以及市場體係的形成就經濟空間格局而言主要是仰賴沿海地區長期推行的國際經濟分工發展取向,其中投資帶動國際產業轉移與產業集束帶的發展(世界的工場)、IT領域的技術革新加速生產循環周期的效應(研發中心)、中產階層的大量崛起開啟消費社會的大門(金磚四國的首要新興市場)等結構性的變化代表了中國開放政策之後的長期發展方向。日本企業在中國的投資布局無疑也與此結構變化尤其是沿海地區的經濟功能定位休戚相關。
隨著中國市場經濟的擴大,內陸經濟的發展成為新的增長熱點,沿海向內陸的產業轉移也勢在必行。
究竟內陸地區是否存在合理的投資機會?日企對內陸地區的投資是否僅是沿海模式的擴大性延續還是另闢新路?
本文首先針對內陸的投資環境參照最近的投資管理政策的變更作係統的整理,以此明確區分沿海與內陸的環境差異。
其次分析日企在內陸地區的投資現狀和動向,厘清其在內陸布局的範式。根據資料顯示,目前有260家上市企業(蒼蒼社編《中國進出企業一覽2007-2008年版》)在內陸投資,其中超過半數的146家企業集中在金屬加工、機電、機械製造等組裝產業領域,其分布與選擇源於“三線建設”背景下發展的國企作為合資夥伴的投資方式密切相關。內陸投資的日企僅占中國投資總數的7%。
本文最後結合圍繞中國內陸地區的國土結構的變化,尤其是亞洲高速公路網絡和歐亞大陸橋的物流通道的形成探討內陸的日企與東南亞投資的關係。
堤一昭(文学研究科):中国の自画像と日本の中国像:歴史的変遷の画期を求めて(中国的自我观与日本的中国观:追寻历史变迁中的转折期)
21世紀初頭の現在、日本で中国と言えば中華人民共和国の領域という地理的なわく組みでイメージし、そのわく組みをはるか過去にまで遡らせて中国の歴史をも考えがちである。しかし、現時点のこの中国像や認識も様々な変遷の一結果に過ぎない。現代中国地域研究においても、自他の中国像の変遷を長い時間の中でたどり、将来の変容の可能性まで考えることは、注意を払うべき課題である。
本論文では、主として「国民国家」形成以前の前近代における中国と日本の中国像を歴史的に検討する。中国と日本の中国像はどのようなもので、いつどのように変化したのか。前近代のそれらは、近代・現代の中国像にどんな影響を及ぼしているのか。
中国の自画像、日本の中国像はともに儒教的な「中国-四夷」の図式と、「正史」と「正統」の継承によって規定されてきた。これらは過去のある時期に当時の現実を解釈して作られた、世界観に基づいた地域認識の図式による“像”である。それらの“像”は現実そのものと言うより、“あるべき”または“ありたい”姿でもあった。一度、“像”が作られると、時代を経て現実が大きく変化しても過去の“像”の持つ力は強く、人々の地域認識を規定し続けた。現在においても前近代の中国“像”を検討する価値はここにある。
中日の中国像変遷をたどると、中日ともに大きく像が変化する三つの画期があることが注目される。
第一の画期は、13~14世紀のモンゴル帝国・元朝の時代である。中国の巨大化と「正統」の多元化という大きな変化が起こった。モンゴル帝国の日本侵攻は、仏教的世界観と神国思想とによって中国の地位を相対化しようとする『神皇正統記』等の思想を生む契機ともなった。
第二の画期は、17世紀の明朝から清朝への交代期である。清朝の拡大によって、中国の巨大化と「正統」の多元化が再現された。「四夷」の一つから出た清朝が中国を支配したことは、日本の中国像に大きな動揺をもたらし、伝統中国への憧れと現実の中国への蔑視というアンビバレンスの源となった。
第三の画期は、19世紀に「西洋の衝撃」を受けて中日が「国民国家」を形成していく時期である。中国では、巨大化した中国と多元化した「正統」の状態からどう「国民国家」としての中国を形成するかの模索が始まる。日本では、西洋からの文明史観という新たな図式の導入によって、文明への到達を中日が同列に競うライバルであると考える福沢諭吉の思想が現れた。
时至21世纪初的今日,日本言及中国之时,往往难免有如下思考方式:先勾勒出中华人民共和国地理领域上的轮廓,再以此为基础追溯往昔,考察中国历史。但是,在此思考方式下形成的今日中国观及认识也不过是众变迁带来的结果之一。即便在现代中国地区研究领域,我们仍应考虑到中国的自我观与他国的中国观在穿越历史长河后,将来可能会发生变化。这是一个应引起重视的课题。
本文主要从历史学的角度,对“国民国家”形成前的前现代时期的中国的自我形象及日本人心目中的中国形象进行探讨。中国的自我形象及日本人心目中的中国形象究竟怎样,何时以及发生了怎样的变化,对近现代的中国观又带了何种影响。
中国的自我形象与日本人心目中的中国形象都是被儒教的“中国—四夷”模式以及“正史”、“正统”观念所规定的。这些都是在过去的某时期,人们解释了当时实际情况,而形成了某种世界观。他们根据这种世界观得出地域认识的模式而形成某种形象。其反映出的与其说是现实本身,不如说是其“应有的”或者“理想的”姿态。“形象”一旦形成,纵使时代变迁,现实巨变,其影响力依旧强大,并制约人们对该地域的理解。我们现今对前现代时期中国形象进行探讨的价值即在于此。
反思中日两国的中国观变迁历程时,值得关注的是,两国都有三段对中国观发生了巨大转变的转折期。
第一段转折期是13~14世纪的蒙古帝国・元朝时代。其间发生了诸如中国巨大化和“正统”多元化等巨大变化。蒙古帝国侵袭日本、佛教的世界观及神国思想催生了以《神皇正统记》为代表的将中国地位相对化的思想。
第二段转折期是17世纪明朝到清朝之间的过渡期。由于清朝疆土的扩大,中国巨大化及“正统”多元化现象再度出现。“四夷”之一的清朝统治了中国,对日本的中国观带来了巨大动摇,也是日本既对传统的中国怀有憧憬的同时又对现实的中国充满蔑视这种双重价值观产生的来源。
第三段转折期是19世纪中日两国在遭受 “西洋冲击”后,其“国民国家”逐渐形成的时期。身陷巨大化并且多元“正统”状态的中国开始了如何形成“国民国家”的摸索。而在日本,由于西洋文明史观这种新模式的导入,福泽谕吉的思想也随之出现。他认为在摸索达到文明的路径时,中日两国会成为势均力敌的竞争对手。(金晶 译)
宮原曉(グローバルコラボレーションセンター):ディアスポリック・チャイニーズと文化の創造:「中国系フィリピン人」の再移民をめぐって(关于现代以后的文化创造的途径和渊源:从Chinese-Filipino到Diasporic Filipino-Chinese)
今日、「文化」という語は、二通りの意味で急速にその意味範囲を狭め、グローバル化という潮流のなかでとるに足らないものの代名詞となりつつあるのかもしれない。ひとつは、人類学者がとうの昔に捨て去った「文化」の概念が一般に流布し、それによって人類学者が批判にさらされること、そしてもうひとつは、グローバリゼーションに伴い、「文化」が極限まで形式的なものとしてとらえられるようになったことゆえに、である。
本論文は、ポスト近代社会における「中国系移民」の「文化」をどう見出し得るか、「中国系フィリピン人」からディアスポリック・フィリピノ・チャイニーズへの経路(route)と故郷(root)の動員をたどることで考察しようとする。今日の「中国系移民」のなかには、中国大陸からの新規の移民や東南アジアなどに居住する旧移民、さらに東南アジアなどから北米やオーストラリア、台湾に移民する再移民が含まれている。「中国系フィリピン人」の再移民を射程に入れることで、「中国系移民」、そして「中国」をとりまく多文化主義の歴史的変遷を跡付け、近代およびポスト近代における「文化」のあり方と人類学的研究の可能性について考えてみようというのである。
グローバリゼーションが相対主義的で対称性を持ったスキームのなかに移民の文化を絡みとろうとするにもかかわらず、「中国系移民」という語には、反本質主義的な「小さな物語」を経由しながらも、結局のところ、ナショナリズムの「大きな物語」に戻ってきてしまういくつものしかけが施されている。境界の多孔性や異種混淆性への配慮は、「エスニック・コミュニティ」内部の不均質性を際限なく暴露することで、個を対象としたネオ・リベラリズム的な、きめ細やかな分割統治にかえって加担する。戦略的本質主義は、そうした分割統治に抗う有力な手段の一つとなり得る。
「中国人」の移動は、1990年代この方、グローバル化する世界の性格に影響を与え、ある種「社会変革」(もしくはパラダイムシフト)を引き起こしてきた。しかし、彼らの移動を近代からポスト近代への変革のベクトルに即して理解することは、視点に織り込まれた像を語っているに過ぎず、かえって「中国系移民」や、ひいては「中国」の文化システムに対する理解を歪めてしまうことにもなりかねない。
労働力市場のグローバル化というコンテクストにおいて、フィリピンから北米や台湾に再移民する中国系住民は、平準化され規格化された労働力として国境を越える。そこで「中国系移民」の「文化」は、多様性を担保する記号として個の分割統治を推し進める道具立てとなる一方で、外部環境と他者を意味づけ世界を解釈する文化的プロセスとしての性格をそぎ落とされ、グローバル化した世界に馴化される。こうしたなか、グローバリゼーションの申し子としての中国系移民は、個人もしくは家族のアッパーモビリティとリスクマネジメントを追求しつつも、例えば中国系フィリピン人に向けウェブサイトに見られるように、ホスト社会や他のエスニック・コミュニティ、さらにグローバル社会とのやり取りを通じて多文化主義的な社会空間を生成するのである。
近代において、「文化」は、相対的に他と区別し得る有機体、もしくは意味のシステムととらえられてきた。これに対してポスト近代における文化的プロセスでは、個人がそれぞれの社会的上昇を追求しながらも、それぞれの移動の経路(route)において、それぞれの故郷(root)と結びついた多文化主義的な社会空間を生成する。「中国系フィリピン人の文化」や「中国文化」は、近代における「文化」とは異なった意味で、この種の社会空間の生成に付随して現れる。換言すれば、ポスト近代における「文化」とは、様々な移動と定着の経路において、異種混淆性(包摂要因)と本質主義(差異化要因)が動員される過程であると言えよう。
现代社会中,很多用“文化”这一概念来表现的事物,如果不是“高度的艺术”,就是“毫无价值的事物”或是“很难为市场经济所接受的事物”、“脱离常规的事物”。出现这种情况的原因是,随着现代到后现代的转变,“文化”在含义上不断地被更新或者在动摇。 特别是,人类学者所探求的“文化”(它并不是“某地域固有的行动模式”,而是“给外部环境和他者赋予意义的系统”)——在全球化社会中的定义,变得极其暧昧。
本文通过追溯Chinese-Filipino经过再移民到成为Diasporic Filipino-Chinese的途径(route)和渊源(root)来考察如何了解后现代社会的“Diasporic Chinese”的“文化”这一问题。
尽管全球化促进了对“文化”的相对性、对称性、形式性的理解,但是Diasporic Chinese这一词语包含着几个花招,令人虽然经历了反本质主义的“小话题”,最后总返回到民族主义的“大话题”里。
“境界的多孔性”和“异种混淆性”的讨论在追求“少数民族社会”内部的非均匀性的同时,支持分裂个人与个人关系的新自由主义的分割统治。战略的本质主义一直是抵抗这种分割统治的一种手段。
90年代以来,“中国人”的迁移给世界全球化的方向带来了影响。但是,把Chinese Diaspora作为反本质主义的表现来理解的话,只不过是在描述一个观点里的现象,反而扭曲了对“华裔移民”和“中国”的文化体系的理解。
在劳动力市场全球化的情况下,从菲律宾再移民到北美和台湾的Chinese-Filipino根据市场的要求作为规范化的劳动力跨出国门。在这样的劳动市场里,Diasporic Chinese的“文化”,作为保证多样性的标志,在推进新自由主义的“个体分割统治”的同时,却失去了作为一种文化过程给外部环境和他人赋予意义的性质,被埋没在全球化了的世界里。
在这种状况下,Diasporic Chinese一方面追求个人和家族社会地位的上升以及风险回避,另一方面,比如像在“为华裔菲律宾人服务”的网站上看到的一样,他们通过跟移民地的社会多数派和其他的少数民族社会以及全球化社会的交涉形成多文化主义的社会空间。
在现代,“文化”一直被理解为相对地能与其他区别的有机体或意义的体系。于此相对,在后现代的文化过程里,个人在追求各自社会地位上升的同时,在各自的迁移途径(route)上,形成与各自的渊源(root)相结合的多文化主义的社会空间。“华裔菲律宾人的文化”和“中国文化”,与现代的“文化”不同,是随着这种社会空间的形成而出现的。 换句话说,后现代的“文化”意味着,在各种各样的迁移和落户的途径上,动员异种混淆性(包容因素)和本质主义(区别化因素)的过程。(徐丽)
三好恵真子(人間科学研究科):中国食品を巡るリスクコミュニケーションの構築を目指して:中国製冷凍ギョーザ中毒事件を通じての食の安全と消費者の安心・信頼の検証(如何构建围绕中国食品的危机沟通 :通过中国产冷冻饺子中毒事件检验食品安全性及消费者的安心和信赖)
1.はじめに
2004年、日中間の年間貿易額は、これまで主軸であった日米間のそれを超えたことが発表され、最大の貿易パートナーとしての中国の存在と、今後の日中関係の重要性を示す象徴的な出来事となった。しかし食の安全性を巡る問題に見られるように、両国の経済関係の進展にくらべ、政治・外交,文化,草の根交流といった分野では数多くの課題が残されている。 特に2008年1月末に起こった中国製冷凍ギョーザ中毒事件の場合、その被害の規模が大きかったことに加え、原因究明に向けた日中両国政府の協力関係の脆弱さが露呈し、さらに政府・企業などの不手際も発生したことなども重なり、中国食品を巡る日本の消費者の不信・不安感が予想を超えて助長された面は否めない。しかし一方で、我が国の「食の外部依存性」の高さを改めて痛感させられ、日本の食の安全・安心の構築は、もはや中国との関係を抜きにして考えられない状況下にあることを忘れてはならない。 そこで本稿では、主としてこの事件を巡る諸問題に焦点を当て、中国食品の安全性と消費者の不安の原因と構造をリスク認知分析等により追求してゆく。また今後中国食品、ひいては中国とどのように向き合ってゆくべきかを考えることにより、日中両国の相互理解・尊重・交流を深め、双方の摩擦を解消するようなコミュニケーションの構築に繋がる論考を目指そうと思う。
2.急増する中国からの農産物輸入の実態
日本における中国産野菜の輸入が、特に1990年代以降に急増している背景として、野菜の特性上、「労働コスト面」および「運送コスト面」で中国は優位であり、さらに広大な国土を利用して日本の市場向け野菜を一年中通じて生産・供給できる体制を構築できることも重要な要因になる。加えて、①「中国のWTO加盟」,②「農産物政策と企業の輸出拡大」,③「日本企業の開発輸入戦略」の3つの相乗効果が挙げられ、日本と中国の間では、現状では「互恵関係」の成立していることは明らかである。
3.中国製冷凍ギョーザ中毒事件を巡る消費者の安心・信頼の崩壊
3.1.日中両政府、日本企業の対応の分析
本事件発生後の、日中両政府,日本の企業の本件への対応をWeb上の情報を集積して、比較検討を行った。注目すべきことは、2月という比較的早い段階で、日中両政府が協力して原因究明に取り組むと発表している事実である。しかしながら調査が進むにつれて、両者は見解一致から遠ざかり、外交の舞台で両政府は協力関係の強化をアピールするものの、その後もその溝は益々深まるばかりであった。ついに8月に中国政府は、問題物質の国内混入を認めたが、日本政府は、その事実公表を一ヶ月近く先送りしていたため、日本国民の不信感はさらに高まってしまった。
3.2.消費者への安心・信頼感に及ぼす新聞報道の影響力
毎日新聞の朝刊・夕刊をもとに、事件発生前後において中国製食品や農産物に関連する内容を扱った記事の数を月別に比較して検討したところ、事件が発覚した翌月の2月は、特出して197件にも上った。 この197件の内訳を①中国政府の対応に関連する報道,②中国生産者・製造者の対応に関する報道,③日本企業の対応に関する報道,④日本政府の対応に関する報道,⑤その他(消費者の不安や不信に結びつくもの)の5つに分類してみた結果、⑤のネガティブな内容の記事が60%以上を占めている一方で、①や②の中国側に関する報道は10%強と極めて少なかった。 現在のところ、この事件の原因は中国国内での人為的な混入との見解が確立されており、責任の所在はその問題を犯した個人にあるにも関わらず、各種報道により、「中国」という国家の食のシステム全体の問題であるかのような過熱報道がなされていた。よってこうした仕組みにより、消費者が「中国」自体に否定的な感情を抱く結果を生み出してしまったと考えられる。
4.中国食品の安全性および安心・信頼を巡るリスクコミュニケーション
4.1.国内の食の安全性と海外向け輸入農産物の安全対策
中国において、国内における食品の安全意識は、近年急速に高まり、特に海外輸出向けの農産物に対する安全管理は、2002年8月の「輸出入野菜検査検疫管理弁法」制定や2003年1月の「トレサビリティー(生産履歴管理)」に基づく国際標準手法の導入のように、極めて徹底されてきており、検疫違反率等などの状況からも、中国食品の安全性は科学的にも立証されていることが明らかとなった。
4.2.中国食品に対する不安・不信の構造における二重過程理論
リスク研究分野において「コミュニケーション」が重要視されるのは、リスク管理は、将来の「安全」を高める行為であるものの、それを駆動させるのは、人々の「心の状態」にあるからであると指摘されている。よって食の安全性を巡り、しばし専門家と市民との間の摩擦は必然的に生じるのは、心理的要因に誘導された「安全でも安心できない」という社会構造に起因していると考えられる。 食に限らず、今日の社会では外部依存性の高い「分業化社会」が構築されており、人々が「安心」できるかどうかは、専門家や行政など依存する相手に対する「信頼」の程度で決まると考えられ、これはリスク認知学における「二重過程理論」により説明されている。すなわち、個人に動機づけも能力もある場合は、「中心ルート」による処理が進められ、相手の意見や情報の内容を充分に吟味し、提示された論拠を熟考することで、自らの意見が形成されていく。しかし、動機づけと能力のいずれかが低い場合には、「周辺ルート」による処理が進められ、この場合は、意見や情報を発信した相手の「信頼性」や「魅力(専門性)の高さ」など、周辺的な手がかりによって、相手の見解を受け入れるかどうかが安易に決定されてしまう。 さらにこのモデルを本事件に当てはめてみると、得られる情報の真偽や正当性に関して、一般消費者は、自らの力で分析し評価する専門的能力を持ち合わせているとは考えにくいため、メディア等の情報の中身よりも、情報を発信する相手への信頼性等により判断していることが示唆される。一方で、不信をあおるような情報操作により人々の信頼はたやすく崩壊し、ひいては経済・政治的側面までに影響を与えてしまっていることは否定できない。
4.3.中国製冷凍食品を巡る信頼のマネジメント分析
人々の他者へ対する「信頼」が確立される要因として、相手のリスク管理能力を意味する「能力」とリスク管理の姿勢を意味する「動機づけ」、さらに、リスク管理者と自分とが同じ価値観を共有していると感じられる場合の「主要価値類似性」の3つが挙げられている。 そこで本研究では、中国製冷凍食品に対する人々の「関心」の高さや各関連組織に対する「信頼」やそれを導く要因の詳細について分析するために、質問票による調査を行った。 まず信頼の度合いを比較すると、日本政府>日本の輸入業者>中国政府>中国の製造者・輸出企業となっており、これは2008年2月の関連新聞報道の内訳の記事の数の順序と一致しており、メディアからの情報量の多さが、直接的に人々の信頼の度合いに反映している可能性が示唆された。 また各組織に対して信頼が導かれる要素は、いずれの場合も、自分と同じ価値を持っていると感じられる時に高い信頼性が得られた。日本の輸入業者の場合、公正さによる信頼が最も高く、公正さを欠く企業行為は、瞬く間に消費者の信頼を失うことが推察された。
5.まとめ
本事件を事例としたリスク認知分析からも、各組織に対する人々の信頼は、情報量によって影響を受けるため、情報発信に対するメディア側の責任意識を高めてゆくとともに、情報を受け取る消費者側も、メディアリテラシーを身につけてゆくことが重要になる。 また、価値類似性を高めるような行為が有効であることから、様々な関係者が情報を共有しつつ、相互理解を深めるためのリスクコミュニケーションの場を設けることが今後のリスク管理の鍵を握ることが再確認された。 さらに科学的リスク評価が「信頼」を得るために、リスク管理に携わる組織は、安全性に対する能力を高めることとは別に、人々との間に「安心」と「信頼」の関係性を醸成する諸策を考慮することにもっと目が向けられるべきである。
1 绪论
据报道,2004年的日中贸易总额超过了历来稳坐头把交椅的日美贸易总额。这件具有象征意义的事件不仅标志着中国已成为日本最重要贸易伙伴,同时也凸显出未来日中两国关系的重要性。但就食品安全而引发的诸多问题所示,与两国经济关系的进展程度相比,其在政治・外交、文化及民间交流等方面尚遗留着众多悬而未决的课题。
特别是2008年1月末发生的中国产冷冻饺子中毒事件,其受害规模之大,调查原因时暴露出的日中两国政府合作关系之脆弱,再加之政府及企业处理手段的不恰当等诸种超出预想的因素无疑助长了日本消费者对中国食品的不信任度与不安感。但是另一方面,此事件再次让笔者痛感日本“食品对外依存度”之高,日本食品安全性的构建不能不考虑与中国的关系。
由此本文主要以该事件的诸多问题为着眼点,用危机认知分析方法来探讨中国食品的安全性及导致消费者不安的原因及其构造。并且通过关于今后该如何面对中国食品乃至中国这个国家这个问题的考察,旨在论述如何进一步加深日中两国的相互理解、尊重及交流,以及如何构建能消除双方摩擦的沟通关系。
2 从中国进口农产品急剧增加的现状
日本对中国蔬菜的进口情况,其90年代后急剧增加的背后原因为如下几点,就蔬菜的特性而言,中国在“劳动成本方面”及“运输成本方面”占优势,而且非常重要的一点是,由于其国土面积广阔,可以构建面向日本市场的全年蔬菜生产及供给体系。再加之1、中国加入WTO,2、农产品政策与企业出口扩大,3、日本企业的开发进口战略这三点有利因素,日中之间的现状已经明显形成了“互惠关系”。
3中国产冷冻饺子中毒事件引发消费者丧失其信赖
3.1.对日中两国政府及日本企业相关对策的剖析
该事件发生后,笔者在网络上对日中两国政府及日本企业作出的相应对策进行了搜索,并对此进行了比较分析。值得注意的是,在2月份即事件发生后的较早阶段,日中两国政府声称将会互相合作并共同调查事件原因。但随着调查的深入,二者的意见却渐行渐远,在外交舞台上双方虽然宣称会加强合作关系,但其间的隔阂却日益深化。终于在当年8月,中国政府承认导致中毒的物质是在中国境内混入,但日本政府却推迟近一个月才对外公布此事实,更加深了日本民众的不信任感。
3.2. 影响消费者安心及信赖感的报刊报道影响力
笔者根据《每日新闻报》的早报与晚报,对该事件发生前后有关中国食品及农产品的报道数量按照月份进行了比较和研究,在该事件发生的次月即2月份,相关报道竟然达到了197件之多。
这197件报道,按内容可分为如下五种:①有关中国政府相关对策的报道。②有关中国生产者及制造者的相关对策的报道。③有关日本企业相关对策的报道。④有关日本政府相关对策的报告。⑤其他(与消费者的不安心理与不信任感有关的内容)相关报道。如对上述结果进行分析的话,可以发现:内容消极的第⑤种报道占总体的60%以上,而以第①及第②种为代表的关于中国方面的报道仅为占总体的10%多一点。
目前,中国境内的蓄意投毒为该事件的原因这一看法已经得到认同,虽然该事件的责任所在为犯罪者个人,但充斥纸面的却是诸如“中国”整个国家的食品体系为问题所在之类的大肆渲染。受此种报道姿态的影响,消费者难免会对“中国”本身产生排斥感。
4.围绕中国食品的安全性及安心感和信赖感的危机沟通
4.1.国内食品的安全性与出口农产品的安全对策
中国国内的食品安全意识近年来急速提升,随着2002年8月《进出境蔬菜检验检疫管理办法》的出台以及2003年1月国际标准手法Traceability(即生产履历管理)的导入,对出口农产品的安全管理尤为彻底,另外从检疫不合格率等其它方面来看,显然可见中国食品的安全性已经在科学上得到了证明。
4.2. 对中国食品不安及不信任感构造中的双重过程理论
有学者指出在危机研究领域,“沟通”之所以被重视的原因在于,危机管理虽然是提高未来“安全”的措施,但是付诸实行的却是人们的 “心理状态”。由此围绕着食品安全性这一点,目前专家及市民之间之所以必然会产生摩擦,其原因就在于由心理原因而产生“虽然安全却还不能放心”的社会构造。
不仅仅食品领域如此,当今社会已被构筑成一个有着高度外部依存性的“分工型社会”,人们能否获得安心感,取决于对他们所依靠的专家及行政部门的信赖程度。这种现象可以用危机认知学上的“双重过程理论”来证明。也就是说,对于个人而言,当动机与能力两者兼具时,处理经由“中心路径”,就对方意见及所得信息内容充分予以斟酌,并对所举论据进行深思熟虑,在此基础上,个人的意见才会形成。但是,如果动机或能力不够高,个人在“信赖可能性”“魅力(或专业性)的高低”等边缘信息的影响下,容易不假思索地在是否接受对方见解方面作出决定。
进而如果我们将上述模式适用于该事件进行考察时,可看出如下结果:由于一般消费者很难具备自行分析及评价所获情报的真伪及合理性的专业能力,所以他们与其说根据媒体发出的信息内容本身来判断,不如说更重视该发信者的可信度来判断。另一方面,不可否认的是,由于媒体大肆炒作降低可信度的报道,人们容易丧失信赖感,甚至对经济及政治方面也带来了影响。
4.3.对中国产冷冻食品信赖管理的分析
人们是否可建立起对他人的信赖感,取决于如下三点重要原因:意味着对方危机管理能力的所谓“能力”,意味着对方危机管理采取相应态度的所谓“动机”,以及人们以为风险管理者和自己持有相同价值观时的所谓“主要价值类似性”。
由此本研究为了分析日本人对中国产冷冻食品的关心程度及其对各有关部门的“信赖度”和导致此结果的重要原因,展开了问卷调查。
首先对信赖度高低进行了比较,其顺序为:日本政府>日本的进口商>中国政府>中国的生产者及出口企业。此结果与2008年2月相关新闻报道中各专题的数量排序相同,这表明媒体信息量的多寡可能直接影响人们信任度的高低。
并且,对各组织的信赖度高低产生影响的重要原因为:不管何种场合,只有当感到对方与自己持有相同价值观时,才会对其产生高度信赖感。并可由此导出以下结论:日本的出口商在公平无欺时赢得的信赖最高,而一旦做出有失公正行为之际,立刻就会失去消费者的信赖。
5.小结
从以上这例危机认知分析中可知,由于人们对各部门的信任程度受信息量影响,媒体在传播信息之时应提高自己的责任意识,而作为信息接受方的消费者也应具备不盲从报道的主体性,此点尤为重要。
同时,也令我们再度认识到,既然提高价值类似性的行为具有效力性,那么各领域的相关人员能否在信息共享方面,构筑一个加深相互理解的危机信息的场所,成为今后危机管理的成败关键。
并且为了科学的评价能够赢得高度信赖,从事危机管理的有关部门,除了应该在提高自身对于安全性的认识之外,还应对如何构筑人之人之间“安心”与“信赖”关系的种种对策予以注目。(金晶)
山田康博(国際公共政策研究科):変化する東アジアの国際環境と日本の対応(东亚国际环境的变化和日本的对策)
21世紀初頭の東アジアの国際環境がどのような特徴をもっているのか、それはまたどのような方向へと変わりつつあるのか。そして日本は、東アジアの新しい国際環境にどのように対応してきたのか、これからの日本の課題は何であるのか。これらの問いに対して答えることが本論文の目的である。
東アジアにおける国際関係は2つのレベルで変貌しつつある。第1のレベルは、アメリカ、中国、日本を軸とする主要国間関係のレベルである。この主要国間関係のレベルにおいては、中国の台頭が東アジアの国際構造を変えつつあり、米中日3カ国間の関係においても中国の重要性が高まりつつある。日本は、アメリカとの安全保障関係を強化することを通じて、冷戦後の新しい東アジアの国際環境に対応しようとした。しかし日本は、中国との間には良好な関係を発展させていくことには成功せず、小泉政権時代の5年間には日中関係が逆に悪化した。
第2のレベルは、地域主義・多国間主義のレベルである。冷戦後の東アジアではASEANを中核とする多国間の枠組みが大きく発展した。また2003年に始まった北朝鮮の核兵器開発をめぐる「6カ国協議」が、東アジアの安全保障にとって重要な多国間の枠組みのひとつとなった。日本は、ASEANとの間の協力関係を拡大するなどして、多国間主義のレベルでの新しい東アジアの国際環境に対応しようとした。しかし6カ国協議において日本は、北朝鮮との間にある拉致問題の解決を前面にだしたことによって、他の参加国とは北朝鮮の「核無能力化」をめざす足並みがそろわなくなってしまった。
今後は、主要国間関係のレベルにおいて中国がますます重要性を増していくだろうし、多国間主義のレベルではASEANと中国の役割がさらに重要となっていくだろう。どちらのレベルにおいても中国との協力関係を構築していくことが、日本のこれからの課題となるだろう。
21世纪初叶东亚国际环境具有怎样的特征,它要向什么方向转变?而日本是怎样应对东亚的新国际环境的,今后日本的课题又是什么?这篇论文以回答以上问题为目的。
东亚的国际关系在2个层次上逐渐转变。第一个层次是以美国中国日本为主轴的主要国家间关系的层次。在这个主要国家间关系层次上,中国的崛起在渐渐改变东亚的国际构造,在美中日3国关系上中国的重要性也渐渐提高。日本通过强化与美国的安全保障关系来应对冷战后新的东亚国际关系。但是,日本在与中国发展良好关系上没有成功,在小泉政权时代的5年间反而导致日中关系的恶化。
第2个层次是地域主义多国间主义的层次。冷战后在东亚以东盟为核心的多国间主义框架得到了很大的发展。另外从2003年开始的围绕着朝鲜核武器开发问题的六国峰会成为了对东亚安全保障来说重要的多国间框架中的一个。日本通过扩大与东盟之间的合作关系来应对多国间主义层次上的新东亚国际环境。但是,在六国会谈上日本由于把与朝鲜绑架日本人的问题放在首位,在争取朝鲜的无核化问题上不能与其他国家步调一致。
今后在主要国家间的层次上中国的重要性将会增强,在多国间主义的层次上东盟与中国的作用会变得更加重要。无论是在哪个层次,与中国构筑合作关系将成为日本今后的课题。(単暁文)
大坪慶之(法学研究科):垂簾聴政期、清朝中央の政策決定過程における召見・上奏・廷議(垂帘听政期,清朝中央的政策决定过程中的召见、上奏与朝臣会议)
従来の清末政治史研究は、清朝中央の政策決定過程を考察するにあたり、公文書(上諭・懿旨、上奏文など)を主要史料として利用してきた。しかし公文書からは、その性格上、公文書が作成されるまでに行われた動きを窺い知ることはできない。そこで本稿では、次の二つの目的を設定する。第一は、政策が決まるまでの過程を、公文書には現れない水面下の動き(原案を構想したのは誰か、政策決定に至るまでの過程で如何なる根回しや駆け引きが行われたか、また誰がそれを主導したか等々)も含めて復元することである。第二は、復元した政策決定過程をもとに、政策決定権を握る西太后と臣下の関係を検討することである。考察にあたっては、光緒12(1886)年に起こった光緒帝の親政開始をめぐる政策が決定されるまでの過程を取り上げる。
本事案では、官僚の日記である『翁同龢日記』の考察から、臣下側の中心人物として政策決定を導く醇親王の姿が浮かび上がってきた。彼は、西太后による政策決定に影響を及ぼすべく、彼女にはたらきかける手段として次の三つを用いることができた。それは、①召見、②上奏、③廷臣会議、である。醇親王は、まず①召見を利用して、西太后との間で意見調整を試みたが不調に終わった。そこで②上奏が選択され、醇親王を中心に、三種類の上奏文を提出する計画が立てられた。さらに醇親王は、③廷臣会議の開催に言及して西太后に圧力をかけていた。こうして醇親王は、複数の手段にそれぞれ役割を持たせ、それらを組み合わせることにより、西太后の譲歩を引き出すことに成功していた。
ここから、政策決定過程における西太后と臣下との間の意思疎通には、①召見が用いられること、それは②上奏や③廷議に先駆けて行われること、の二点が分かる。そして、①召見での意思疎通が上手くいかなかった場合に、③廷議などが政策決定に影響を持つようになってくると考えられるのである。
以往的晚清政治史研究,在分析清朝中央的政策决定过程的时候,把公文书(上谕、懿旨、上奏文等)当作主要史料。但是,从公文书的内容来看,并不能窥知其完成前的形成过程。因此,本稿设定了以下两个目标。第一,还原政策的决定过程,包括不体现在公文书里的背后的动态(比如,构思草案的是谁,在政策决定过程中是如何进行事前疏通的,另外又是谁进行主导的等)。第二,在还原政策决定过程的基础上,讨论掌握政策决定权的慈禧太后和臣子之间的关系。在考察中,重点放在光绪12年(1886)开始的光绪亲政政策的决定过程。
在这里,通过考察官僚日记——≪翁同苏日记≫,可以知道,作为臣子里的中心人物,醇亲王在引导政策决定上扮演了重要角色。他主要利用了以下三种手段来影响慈禧太后的政策决定:①召见,②上奏,③朝臣会议。醇亲王首先①利用召见之机,尝试跟慈禧太后之间进行意见调整,结果以失败告终。于是②选择了上奏,以醇亲王为中心,设计了提交三种奏本的计划。醇亲王进一步③提议召开朝臣会议,向慈禧太后施加压力。如此,醇亲王结合使用了几种手段成功地让慈禧太后做出了让步。
由此可见,政策决定过程中,慈禧太后和臣子之间的沟通,一是运用①召见,二是用召见为②上奏和③朝臣会议打前锋。并且,可以认为当①召见不能使意见沟通顺利进行的时候,③朝臣会议等也对政策决定起了相当大的作用。(徐丽)
上田貴子(近畿大学):東北アジアにおける中国人移動の変遷1860-1945(东北亚中国移民的变迁 1860-1945)
東北アジアにおける中国人移民の多くは、河北省山東省出身者が多い。そのなかでも本報告では出稼ぎ的な特徴を持つ移民に焦点をあて、近代におけるその変遷を分析する。前近代以来、山海関に近い楽亭県、昌黎県、山東半島北岸の黄県、掖県、蓬莱県を中心とした地域から、東北地域での商業に投資する資本が存在し、ここには常に同郷人が従業員として顔見知りを通じた紹介によって雇用されていた。この流れは新中国の成立まで存続した。天災によって華北地域からの人口流出が急増してもこれらの地域からの移動には顕著な増加はみられなかった。
一八六〇年以降は、これに加えて肉体労働に従事する出稼ぎが増加した。彼らは東北だけでなく、汽船航路で繋がった極東ロシアやヨーロッパにまで向かった。また鉄道と汽船という交通手段の近代化は、それまで移民を出してこなかった地域をも移民の送出地に組み込んだ。これらの出稼ぎの間には、把頭と呼ばれるリーダーが存在し、把頭が出身地での信用をもとに知人や親戚を通じて出稼ぎ希望者を募って出稼ぎ移民をとりまとめて移動した。しかしこのような同郷の知人を介した信頼に基づく関係は、出稼ぎ労働者が大量に募集される場面では成立しなかった。ここでは出稼ぎを紹介する知人や親戚や把頭とは質の違う仲介者が現れるようになった。この仲介者は仲介料を目的とし、労働者との間の信頼関係が希薄である。
信頼関係が希薄な仲介者は移民の歴史の浅い地域にみられる。清代から移民を出した山東半島北岸にはこのような仲介者の事例はほとんどみられない。むしろ黄河と運河による洪水に見舞われた地域に新しい形の出稼ぎが多い。これらの地域では、近代以前には運河を通じた物流が発達し、現金収入の機会に恵まれ、出稼ぎに出る必要がなかった。しかし清末の反乱による運河の破壊と、外洋航路の発達によって運河の利用頻度が低下した。利用頻度の低下とともに、中央政府の指導力が低下のために、治水経費が削減され、運河周辺地域はいっそう洪水に見舞われやすくなった。その結果、この地域では従来の豊かさを失い、出稼ぎに出る必要が生まれた。しかし、移民経験者が少ないため、親戚知人を頼れるケースは少なかった。さらに天災による経済的な危機を契機とした出稼ぎであったため、出稼ぎへの欲求が高く、営利目的の仲介者が介在する余地が存在した。またこれらの地域は、鉄道と港湾の整備によって、移動の利便性が確保され、大量募集大量送出が可能な地域でもあった。
従来華北地域からの出稼ぎについては東北地域の労働需要と華北の貧困から説明されることが多かったが、このように送出地の地域社会について、個々に異なった状況が存在した。
东北亚中国移民中的大多数来自河北省和山东省。本报告欲以其中有出外劳动特征的移民为中心,分析其在现代社会中的变迁情况。前近代时期以来,以山海关附近的乐亭县、昌黎县、山东半岛北岸的黄县、掖县、蓬莱县为中心的地区,存在着对东北地区进行商业投资的资本,同乡之间通过熟人介绍被雇用的事情常常发生。此种方式一直延续到新中国成立。华北地区在遭受自然灾害后人口流动急速增加,而上述地区并未出现显著的人口流动现象。
1860年以后,从事体力劳动的出外劳动者人数有了增长。他们不仅奔赴东北,甚至前往有轮船航线连接的远东俄罗斯及欧洲。并且铁路及轮船等交通手段的现代化,将以往从未出现过移民的这些地区纳入了移民输出地。在这些出外劳动者之间存在着被叫做把头的头目,把头根据自己在老家的信誉,通过熟人和亲戚来招工,最后集合这些出外劳动者一起奔赴目的地。但是,这种通过老乡熟人介绍,建立在信任基础上的关系,当需要大量招募劳动者时就无法成立了。与此同时,与上述这些熟人、亲戚及把头性质不同的中介人也就应运而生。这些中介人以中介费用为目的,他们与劳动者之间的信赖关系十分淡薄。
与劳动者信赖关系较淡薄的中介人常见于移民史较短的地区。在清朝就曾出现过移民的山东半岛北岸地区就鲜见此种中介人的事例。而在遭受黄河及运河洪水泛滥的地区,另一种出外劳动形式则屡见不鲜。这些地区,在近代以前,运河物流发达,现金收入机会丰富,无须出外劳动。但清末叛乱的繁盛导致运河遭到破坏,再加之外洋航路的发达降低了运河的使用频率。随着使用频率的减少及中央政府指导不力,治水经费被削减,导致运河周边地区更易遭受洪水的威胁。由此,该地区不再富裕,出外劳动的必要性也随之产生。但由于有移民经历的人很少,故很少能借助亲戚朋友的关系。并且这种因天灾而导致经济难以维系,不得不出外劳动的打工者们,其愿望往往十分强烈,从而使以营利为目的的中介人有了生存市场。并且,这些地区铁道与港口设施完备,便于来往,使大量招工和大量输出变成了可能。
迄今为止有关来自华北地区出外劳动问题,大多数的研究是从东北地区的劳动需要与华北的贫困这两方面加以解释的。而对于上述输出地的地区社会而言,则有着各自不同的实际情况。(金晶译)
日野みどり(金城学院大学):現代中国高学歴層の職業観形成に関する一考察:実務経験の有無に着目して(现代中国高学历人群职业观形成的考察:以有无实际工作经验为着眼点)
現代中国の都市部の高学歴者層が形成する職業観につき、2005年に上海市で582名を対象にアンケート調査を行い、尾高邦雄の言う「職業三要素」に照らして検証するとともに、職業経験の有無が職業観に及ぼす影響についても比較分析を行なった。その結果、職業三要素のうち「生計の維持」「能力の発揮」を重視し、「社会的役割の完遂・社会への貢献」の意識は相対的に弱いことが明らかになった。これに替わり、「発展」「成長」といった個人に内在する概念への志向が顕著であった。また、職業経験の有無において異なる既卒者と新卒予定者を対比した結果、以下の知見を得た。(1)新卒予定者は長期安定・定時の仕事を既卒者より強く支持し、逆にフリーランスに対する許容度は既卒者においてより高い。(2)既卒者は「職業を選べないことは才能の発揮と必ずしも相互排他的でない」という回答傾向を示し、「職業を選べなければ才能発揮は望めない」とする新卒予定者と明らかな相違があった。(3)職業に臨む意識において、既卒者はより主体的・積極的であり、新卒予定者はより受動的であった。
笔者先就现代中国都市高学历人群持有的职业观这一问题,于2005年在上海市对582名市民进行了问卷调查,然后按照尾高邦雄提出的“职业三要素”观点对此调查结果进行验证,并对有无工作经验和职业观的相应影响进行了比较分析。由上可以清晰得出以下结果:被调查人对职业三要素之中的“维持生活”、“发挥能力”比较重视,而“社会角色的实现・对社会有所贡献”这一意识却相对淡薄。取而代之,“发展”、“成长”这样等对个人内在观念的重视比较明显。并且,根据笔者对持有不同工作经验的应届毕业生和往届毕业生进行对比的结果,可得出如下几点。(1)与往届毕业生相比,应届毕业生更支持长期安定并定时的工作,但他们对自由职业的宽容度比往届毕业生要高。(2)往届毕业生的回答中存在如此倾向,即“择业不自由与发挥才能未必是相互排斥的” ,而应届毕业生的想法与之相差悬殊,他们认为“如果择业不如意,则无法发挥个人才能”。(3)就对待工作的态度而言,往届毕业生更加主动积极,而应届毕业生则相对被动。(金晶 译)
五島文雄(静岡県立大学):中国の台頭とインドシナ三国(中国的崛起与印度支那三国)
今世紀に入ってから中国のインドシナ三国(カンボジア、ラオス、ベトナム)に対する影響力が急速に増大している。これを経済面(貿易、直接投資、経済協力)と社会面(人的交流、華人社会・華語教育)から考察すると以下のようなことが言える。
貿易では2000年から2007年の間にその規模は5.49倍となった。これは、中国からの輸入がカンボジアで5.37倍、ラオスで5.21倍、ベトナムで7.75倍、中国への輸出がカンボジアで0.86倍、ラオスで14.17倍、ベトナムで3.46倍となった結果である。
また、中国からの直接投資は2003年から2007年の間にカンボジアで2.91倍、ラオスで154倍、ベトナムで8.54倍に増えている。この5年間の直接投資累計額を1979年から2002年までの24年間の累計額と比較すると、カンボジアでは1.05倍、ラオスでは6.24倍、ベトナムでは2.42倍となる。
さらに、経済協力もラオス、ベトナムでは中国が資源開発に積極的姿勢を示すなど新たな動きも見られ、インドシナ三国全体でも増大傾向にある。
このような経済関係の拡大・緊密化に伴い、中国とインドシナ三国との間の人的交流も盛んになった。中国からカンボジア、ラオスへの旅行者数は2000年から2007年の間にそれぞれ3.86倍、1.95倍となり、ベトナムへの旅行者数も2004年には1.24倍に増えた。
そして、インドシナ三国の華人社会にも徐々に変化が生じている。特にラオスとカンボジアでは流入した新華僑が、近い将来、その経済活動を活発化させて存在感を増すのではないかと予想される。インドシナ三国では90年代に入って華人学校における華語教育も復活・活発化している。とはいえ、三国の間には中国との関係を反映するかのように華語教育の内容や華語新聞の発行について微妙な違いもある。
今後、大メコン圏(GMS)のプロジェクトが順調に進めば、中国とインドシナ三国の関係はさらに緊密化するであろう。
このような情勢の中で、インドシナ三国の指導部は中国との経済関係拡大に多大な期待を寄せる一方で、それが自国に対してどのような影響を与えるのかについて慎重に検討を加えている。
報告では、以上のような変化を踏まえ、日本の対インドシナ三国に対する政策について批判的検討を行いたい。結論としては、日本は現在ベトナムに対して積極的な支援を行っているが、それだけではなくラオス、カンボジアに対してより直接的な支援を行うと同時に、中国とのより協調的な援助政策を採るべきである(中国にも協調的対応を求めたいが)、ということになろう。
进入本世纪以来中国对印度支那三国(柬埔寨、老挝、越南)的影响力急速增大。关于这点若从经济层面(贸易、直接投资、经济协助)与社会层面(人与人的交流、华人社会・华语教育)来予以考察的话,可以得出如下内容。
从贸易上来看,从2000年到2007年其规模增长了5.49倍。其中,从中国进口的贸易额按国别统计为:柬埔寨增长了5.37倍,老挝为5.21倍,越南为7.75倍。对中国出口的贸易额按国别统计为:柬埔寨增长了0.86倍,老挝为14.17倍,越南为3.46倍。
另外,从2003年至2007年的中国直接对外投资额按国别统计为:柬埔寨增长了2.91倍,老挝为154倍,越南为8.54倍。如将这五年间的直接投资累计额与1979到2002年这24年间的累计额相比较,柬埔寨增长了1.05倍,老挝为6.24倍,越南为2.42倍。
另外在经济协助方面,可以看到中国在老挝、越南的资源开发上呈现出积极姿态这一新动态,并且对于印度支那三国均呈现出增大倾向。
伴随着上述经济关系的扩大化与紧密化,中国与印度支那三国之间的人员来往也日益频繁。从2000年到2007年之间,中国前往柬埔寨、老挝的游客数量相应增长了3.86倍与1.95倍,前往越南的游客数量在2004年也增长了1.24倍。
并且,印度支那三国的华人社会也在逐渐发生变化。特别是涌进老挝与柬埔寨的新华侨们,在不久的将来其经济活动将更为活跃,其成就将愈加为世人所公认。印度支那三国自进入90年代以来,华人学校中的华语教育开始复活,并活跃发展。然而,该三国,就像反映对中关系一样,在华语教育的内容及华语新闻的发行情况上,也有着微妙的差异。
将来,大湄公河次区域(GMS)计划如能顺利进行,中国与印度支那三国的关系大概会更加紧密。
在如此形势之下,印度支那三国的领导层在对中国与本国经济关系的扩大寄予了很大的期望的同时,也对此举给本国带来的相应影响予以了慎重考虑。
本报告基于上述诸点变化,旨在就日本对印度支那三国施行的政策进行批判式的探讨。意在导出如下结论,即:虽然日本现在正对越南予以积极的支援,但支援的对象不应只限于越南,对于老挝及柬埔寨也应予以更为直接的支援,同时对中国也应采取更具协调性的支援政策(同时也欲谋求中国方面的协调合作)。(金晶 译)
康越(北京化工大学):中国北京市におけるコミュニテイ管理システムについて(北京市社区管理主体研究)
2008年で中国は改革開放30周年を迎えた。この30年の間中国社会全体が大きな変化を遂げたことはいうまでもない。その変化の一つは急ピッチな都市化である。全国における都市の数は1978年の193から2006年の661までに増加し、都市化率は17.9%から43.3%までに増加した。都市人口はすでに6億近くなり、これに1.5億近くの出稼ぎ労働者を加えると、都市部に生活している人口は7億を超える。従って、近年中国政府は都市管理システムの改善を図ってきた。そのうち都市管理の末端であるコミュニテイに対する管理は最も重視されている。 本論文では2600を超えるコミュニテイより構成し、1700万の総人口(うち流動人口は510万人)抱える首都北京を分析対象とし、そのコミュニテイ管理システムの実態を明らかにしたい。具体的には以下の三つの部分より構成する。
第一に、まず1949年2月から1978年までの北京市における都市管理システムの変遷過程を分析し、伝統的なコミュニテイ管理システム街道弁事処(市政府或いは区役所の派遣組織)—居民委員会(自治体であるが、街道弁事処の指導を受ける)の確立過程を明らかにする。
第二に、1990年代初期まで、厳しい戸籍管理制度のもとで、北京市におけるコミュニテイは“単位”(職場)と密接な関係があり、その類型も少なかった。しかし、1990年代以降の“単位制”の解体に伴う職業の多様化、住宅改革、人口の急加(特に流動人口の増加)、収入の格差などさまざまな要因の影響でコミュニテイの類型も多様化してきた。この部分では1978年以降の北京市における人口、職業、住宅政策など三つの側面の変化に注目し、統計分析を加え、コミュニテイ管理主体が多様化する背景を解明しておきたい。
第三に、住宅の私有化やコミュニテイの急増や規模の拡大にともない、北京市における伝統的な街道弁事処—居民委員会管理システムはますます現状に対応しきれなくなる。そのため、1990年代末から、北京市はコミュニテイ管理の大きな転換期を迎え、コミュニテイ管理システムは大きく変わった。つまり、街道弁事処と居民委員会を含め、さらに物業服務会司(物件の管理やそのもち主に有料サービスを提供する会社)と業主委員会(物件持ち主の組織)を加えた多元的な管理システムへ変わった。ここでは、四つの管理主体を分析対象とし、その役割、相互関係及び直面する課題などを分析し、北京市におけるコミュニテイ管理の現状を明らかにしたい。
改革开放30年来,中国社会发生了举世瞩目的变化。其中,城市化进程的加快及其所带来的变化尤为突出。据统计,1978年我国城市总数为193个,到2006年已增至661个,城市化率从17.9%提高到了43.3%,增长了近1.5倍。城市户籍人口已接近6亿,加上在城市的外来务工人员,实际在城市生活的人口超过7亿。因此,近年来各地政府在完善城市管理职能方面不断加大力度,并取得了一定成效。
本文拟以拥有1700万人口、2600多个社区的北京市为例,通过以下三方面的分析,综合论述北京市社区管理主体的变迁和现状。
1、街居管理体制的建立。建国初期,中央和北京市政府高度重视基层社会管理工作,经过实践和探索,于1954年确立了以街道办事处——居委会为主体的城市基层管理体制。文革期间,街居管理体制受到冲击,近于瘫痪。
2、北京市社区改革背景分析。自20世纪80年代以来,随着单位体制的解体、职业的多样化、住房政策改革、人口的增加(外来人口明显增加)、居民收入差距的拉大等社会变迁的加剧,北京市的社区也发生了巨大的变化。因此在第二部分主要从人口、职业、住房政策三方面对1978年以来北京市的社会变迁进行了较为详细的分析,从而揭示了20世纪90年代末北京市社区改革的背景。
3、北京市社区管理主体现状分析。随着社区数量的不断增加和规模的扩大,北京市社区管理主体也发生了重要变化。即从传统的街——居管理体制逐步转向街道办事处、居民委员会、物业服务公司、业主委员会共同管理的多元管理体制。在第三部分全面分析了目前北京市社区四大管理主体的特点、作用及面临的问题。
周太平(内モンゴル大学):1920-30年代の環境と郭道甫 試論:1928年「フルンブイル青年党暴動」を中心に(二十世紀二、三十年代背景下的郭道甫試談:以1928年“呼倫貝爾青年党暴動”事件為中心)
郭道甫(1894-1934?)、号は浚黄、字は道甫で、フルンブイルのソロン左翼の鑲黄旗出身のダフール族モンゴル人である。本名はメルセンタイ(Mersentai)、略称でメルセーと呼ぶ。社会活動に従事する際には常に郭道甫と名のっていた。郭道甫の活動した時代は、近代モンゴル民族運動の勃興期であった。1921年に外モンゴルで人民革命が勃発し、内モンゴルは直接影響を受けた。1923年、郭道甫はフルンブイル青年党を組織した(中央党部はウランバートルに設置)。1925年には、内モンゴル人民革命党の結成に参加した(秘書長の任に当たる)。1927年にモンゴル人民共和国総工会主席に就任した。1928年7月、郭道甫はフルンブイル武装蜂起を起こした(歴史的には「フルンブイル青年党暴動」と称す。同年6月には皇姑屯事件が発生する)。暴動が失敗すると、単身瀋陽に赴き、張学良に招かれ秘書となった。同年末には京都で「満蒙問題」特別会議に参加した。1929年、東北政務委員会の支持を受け、東北蒙旗師範学校を創立した。さらに著書を著して民族自治を極力主張した。1931年東北局から免職され、同年失踪した。
フルンブイル青年党暴動問題:1928年6月に張作霖が爆殺されると、東北情勢は不安定になった。郭道甫らは、この機会に乗じて武装蜂起を起こしフルンブイル政権を奪取しようと決定した。フルンブイル青年党党首はモンゴル国境で秘密会議を開催し、「武装革命によるフルンブイルの完全自治を回復する決議」を行った。7月にフルンブイル平民軍を設立し、「内モンゴルの統一、モンゴル人の完全自治」を宣言した。8月に中東鉄道守備隊を襲撃し、鉄道輸送や通信等を破壊した。万福鱗は馬占山に命じ、部下を率いて暴動地区に入り、軍事鎮圧を行わせた。張学良は代表を派遣して平和的解決を考証し、暴動は平定された。
しかし、この事件には多くの疑問が存在する。1、背後で操っていたのは一体誰なのか?2、暴動軍(平民軍)はなぜ中東鉄道の守備軍を襲撃したのか?3、暴動失敗後、郭道甫はなぜ敵側へ投降したのか?4、郭道甫は日本の特務に殺されたのか?5、皇姑屯事件や西公旗事件等と、どのような関係があるのか? さらに:20世紀前半期の内モンゴル政治上、最も代表的な人物である郭道甫とその史実に対していかなる歴史的分析を行うべきか?
上述した点に焦点をあてて、郭道甫の文集、日本やロシアの記録等の一次資料を用いて検討する。(根岸智代)
郭道甫(1894—1934?),号浚黄,字道甫,呼伦贝尔索伦左翼镶黄旗达斡尔蒙古人。本名墨尔森太(Mersentai),简称墨尔色。从事社会活动时常为郭道甫。郭道甫所处的时代是近代蒙古民族运动兴起时期。1921年外蒙古人民革命爆发,直接影响内蒙古。1923年郭道甫组建呼伦贝尔青年党(中央党部设在乌兰巴托),1925年参与组建内蒙古人民革命党(任秘书长),1927年任蒙古人民共和国总工会主席。1928年7月郭道甫发动呼伦贝尔起义(史称“呼伦贝尔青年党暴动”。同年6月发生皇姑屯事件),暴动失败后只身前往沈阳被张学良聘为秘书。同年底赴日本京都参加“满蒙问题”专题会议。1929年受东北政务委员会支持创立东北蒙旗师范学校。还著书立说力图民族自治。1931年被东北局撤职,同年失踪。
呼伦贝尔青年党暴动问题:1928年6月张作霖被炸死,东北局势发生动荡,郭道甫等乘机决定发动起义夺取呼伦贝尔政权。呼伦贝尔青年党党首在蒙古国边界秘密开会“决议以武装革命恢复呼伦贝尔的完全自治”。7月成立呼伦贝尔平民军,并宣布“统一内蒙古,蒙古人自治”文告。8月开始袭击中东铁路守备队,破坏铁路运输和通讯等。万福鳞命马占山率部推进暴动地区,以施军事镇压。张学良派代表谈判和平解决平息暴动。
但是,此事件存疑较多:1、背后操作者究竟是谁?2、暴动军(平民军)为何袭击中东铁路护路军?3、暴动失败后郭道甫为何投降敌方?4、郭道甫是被日本特务所害?5、与皇姑屯事件、西公旗事件等有何联系?另:对二十世纪前半期内蒙古政治上最具代表性人物—郭道甫及其史事如何做历史的分析?
针对上述诸点,利用郭道甫文集、日俄档案等基本史料,作一讨论。
丸田孝志(広島大学):冀魯豫区の政治動員と民俗・象徴(冀鲁豫地区的政治动员与民俗、象征)
中国民衆の心性の世界には、国家イデオロギーとしての儒教道徳が、階層秩序と平等主義の理念を共に強調しつつ浸透しており、社会には身分固定がなく、階層間の流動性が維持されながらも、権威の序列を厳格に視覚化する特徴を備えていた。中国共産党(中共)根拠地の民俗利用政策にもこのような特徴が確認される。
中共は、各種動員工作の奨励において伝統的な権威を利用していた。各種模範は「状元」と呼ばれ、「功臣榜」に名前が掲げられ、模範や新兵は馬や駕籠に乗って行進した。貧雇農は、土地改革の各種儀礼において旧社会の秩序の中での貧雇農と地主の文化的役割を逆転させ、地位の逆転を確認した。
土地改革が急進化した時期には、地主・富農の子供をも闘争の対象とし、地主・富農出身の教師を罷免し、貧雇農を教師にするなどの状況が生じた。また、村民の身体や家に標識を付して、政治的態度を可視化する方法が行われた。これらは厳格な身份秩序のようにも見えるが、各種標識や等級は、政治的態度の変化に応じて変更が許容されていた。土地改革と戦争の遂行は社会を流動化させており、政権は多数を獲得するため標識・等級の可変性を利用し、人々は安全の確保のため、標識・等級を改める必要に迫られた。
社会の流動化は、人々に安全保障を提示する会党の活動を活性化させるが、1947年の土地改革では中共自身が会党の宣誓の方式にならい、党組織と大衆組織を拡大していった。中心区では、毛沢東像が個別家庭の神像の代替として導入されて宣誓の対象となり、一度の大会で数千人が入党するなど、党組織は極端に膨張した。しかし、戦時動員の負担増と左傾政策による秩序の混乱により社会不安が高まると、民間の会党組織が活性化し、泉水などに霊験を求める迷信活動が盛んとなった。多様な領域の神に現世利益を求める民間信仰は、個別家庭の神としての毛沢東信仰を相対化して拡大した。
1948年春以降の政策転換により、等級分類の標識は廃止されて、経済的基準による階級区分が提示され、地主・富農の成分変更の原則も提示された。「革命職員」「革命軍人」への成分変更は、当人の社会経済上の変化を基礎として、思想行動上の「進歩」を反映するものであった。しかし、出身の変更は許されず、階層秩序の下で流動性を許容し、人々の忠誠心を獲得する構造は継続していた。
政策転換後も、大衆の革命参加を促す方針は維持された。工作組と貧雇農団による村支部の整党が混乱を招くと、工作組も批判を受けた。機関紙は民衆による幹部の不正摘発の場としても利用され、中共は一定の流動性を促しつつ社会への干渉を継続していた。統制の利かない偏向を生みながらも、上級の政策方針はその都度村レベルにおいて遂行された。脆弱で散漫な基層組織は、整党と1948年後半からの村幹部訓練班の実施を経て、次第に組織力を高めていった。
中国民众的精神世界,存在着如下特征:作为国家意识形态的儒家道德,强调着阶级秩序与平等主义,渗透在民众的意识形态之中,并且社会上无固定的身份、阶级之间的流动性得以维系的同时,在严格的等级区分却一目了然。中国共产党(中共)根据地的民俗利用政策也体现出上述特征。
中共在各种动员工作的奖励方式上也一直使用传统权威。各种模范被称作“状元”,其名字发在“功臣榜”上,模范及新兵们骑马或坐轿子游行。在土地改革的各种仪式当中,贫雇农逆转了旧社会中其与地主的文化职责,证明了其地位的翻新。
在土地改革激进的时期,地主及富农的孩子都被当作斗争对象,并发生了罢免地主及富农出身的教师,取而代之任命贫雇农为教师的现象。另外,中共在村民的身体及房屋上做标记,令政治态度可视化。这些看起来貌似十分严格的身份秩序,随着本人政治态度的变化其标记和等级也可以得到变更。土地改革和战争的实行使得社会流动化,政权为了赢得多数人支持而利用标记和等级的可变性,而人们为了确保安全,也迫感到改变标记及等级的必要性。
社会的流动化促使肩负保障人们安全任务的帮会活动更加活性化,在1947年的土地改革中,中共也效仿帮会的宣誓方式,扩大了党组织和大众组织。在中心区,毛泽东像在个别家庭替代了神像,作为宣誓对象而被导入,一次大会就发展数千人入党,党组织被极端膨胀。但是,战时动员增加的负担及左倾政策导致秩序混乱,社会愈加不稳定,民间的帮会组织得以活跃,通过泉水求灵的迷信活动也变得兴盛。向分属不同神职的众神祈求今世保佑的民间信仰,令原本只是个别家庭崇拜的毛泽东信仰得以相对化并扩大。
1948年春季以后,由于政策的改变,等级分类的标记被废除,中共提出按照经济基准来区分阶级,以及地主、富农成分变更的原则。若成分变为“革命工人”、“革命军人”的话,这是在本人社会经济上的变化的基础上,对其思想行动进步的反映。但是,出身却不能更改,为赢得人们的忠诚心,只有阶级秩序下的流动才被允许这种构造依旧沿用。
政策转换后,中共仍坚持推行大众参加革命方针。工作组及贫雇农团发动的村支部整党运动招致了混乱,工作组也受到了批判。机关报作为民众揭发干部违纪行为的阵地,中共在促进一定程度上的流动性的同时,继续对社会予以干涉。纵使带来了一些无力统管的偏离方向行为,村级单位还是每次贯彻落实了上级的政策方针。脆弱散漫的基层组织,在历经整党运动及参加1948年后半期的村干部训练班后,逐渐提高了自身的组织能力。(金晶 译)

天津・南開大学歴史学院

李少兵(南開大学):教育救済:1900-1937年北京・天津地区における善堂の変容(教育救济:1900-1937年京津善堂的慈善转型)
慈善に関する中国の伝統的な考え方は最も早く『周礼』の「保息六養万民(6項目の政策で万民を保護する)、即ち「慈幼」(幼き者を慈しむ)「養老」(老人を養う)「賑穷」「恤貧」(貧民を救済する)「寛疾」(障害者を寛容に扱う)「安富」(富裕者を安心させる)に見られ、『礼記』では「衿寡婦孤独廃疾者皆有所養」(寡婦、孤独な障害者を哀れみ、皆養う)」ことを強調している。しかし慈善の実践という点からすると、各王朝各時代で「衿寡婦孤独廃疾者皆有所養」に関して全ての救助を行ってはおらず、それぞれ偏りが見られた。
清代の善堂は非常に多く、礼節の教えを守りきった寡婦を救済する「清節堂」は一時期盛んであった。寡婦とその幼児はここで「施善教化」を受けた。清節堂での寡婦は自由を失い、再婚することもできないばかりか、親戚に会う時以外、外出も許されなかった。幼児は科挙の試験を受けて官職につくのに備えて四書五経の教育を受けた。しかし当時中国の国勢は日増しに弱まってきており、民衆全体に近代文化の科学知識が欠如していた。必要なのは文化科学教育であった。清善堂は実質上、旧社会秩序の擁護者であった。旧い倫理を基準として救助対象を選択したため、すでに伝統的善堂の趣旨である「衿寡婦孤独廃疾者皆有所養」の道にはずれてしまっていた。「皆」という字は、本物の慈善活動は主観的好みの要素を混ぜるべきではなく、「衿寡婦孤独廃疾者」である貧困に苦しみ、助けのない、一刻も早い救済を必要とする者を主に考えるという意味である。
1900年から1937年の間に政府と民間の双方の努力の下、北京、天津の善堂慈善事業が伝統の「施善教化」から現代へと変容を開始し、「教育救済」が新しい慈善事業となった。この種の救済モデルは文化知識と生活技能の伝授を通して貧困にあえぐ婦女児童の素質を変え、極力、将来は自力で生活できるだけでなく社会の発展に参加でき、社会のお荷物から社会進歩の助力へ変容することを図るものであった。北平婦女救済院、香山慈幼院と天津広仁堂は強力に教育救済を進めた。これは当時北京、天津の慈善界が「社会進歩計画」を趣旨とし、勇敢に新しいものを作り出し実践していたことを物語っている。またその救済効果と救済機能は今日の慈善団体が学び、参考にするのに大いに役立っている。(根岸智代 訳)
中国传统慈善理论最早见于《周礼》的“保息六养万民”,即“慈幼、养老、赈穷、恤贫、宽疾、安富”,《礼记》则强调“衿寡孤独废疾者皆有所养”,但从慈善实践看,各朝各代对“衿寡孤独废疾者”都未能做到全盘救助,而是各有侧重。
清代善堂众多,救济守节寡妇的“清节堂”极一时之盛,寡妇及其幼儿在这里接受“施善教化”。寡妇在清节堂里失去人身自由,不仅不能改嫁,而且非探亲不能外出;幼儿接受的是四书五经教育,为的是以后考科举做官。而中国当时国势日衰,民众整体缺乏近代文化科学知识,需要的是文化科学教育。清节堂在实质上是旧社会秩序的维护者,它以旧伦理为标准选取救助对象,已经违背了传统慈善的宗旨“衿寡孤独废疾者皆有所养”。“皆”字意味着真正的慈善活动不应掺杂主观好恶因素,而应以“衿寡孤独废疾者”贫苦无助急需救济为主要考量。
1900-1937年,在官方和民间的双重努力下,北京、天津的善堂善业从传统的“施善教化”开始向现代转型,“教育救济”成为新型慈善事业。这种救济模式力图通过文化知识和生活技能的传授来改变贫困妇女儿童的素质,使其未来不仅能自食其力,而且能够参与社会的发展,从社会包袱转变为社会进步的助力。北平妇女救济院、香山慈幼院和天津广仁堂大力推行教育救济,说明当时京津慈善界以“谋社会进步”为宗旨勇于进行慈善创新与实践,其救济成效和救济机制值得今天的慈善团体学习和借鉴。
李少兵(南開大学):1950-1980年北京市民文化生活における「東アジア関係」:東城区文化宮を研究事例として(1950-1980年北京东城区市民文化生活中的“东亚局势”:以东城区文化宫为研究个案)
1950-1980年に北京東城区に在住する市民の文化活動の大部分は、政府の強力な指導の下で進められた。中共の文化政策によれば文芸は生産に奉仕する、政治に奉仕する、工(労働者)農(農民)兵(軍人)=人民大衆に奉仕するための活動であると強調された。政府主導による多くの文化活動は、終始政治宣伝と思想教育の教化機能を有し、政治教育と政治学習の補助的役割も担っていた。市民が文化娯楽活動に参加すると同時に、毛沢東思想等のイデオロギーが注入され、政府による共産主義者育成の説教が取り入れられた。
北京東城区の市民文化活動の場所もまた、政府によって意図的に指導され制限された。文化宮は表面上、市民たちの文化活動の専門的場所であった。しかし実際は、中共が市民の文化思想をコントロールするために設置した、重要な文化「陣地」であった。政府は文化宮で市民向けのために、さまざまな文化活動を企画し組織した。主な講座はそれぞれ、時事政策講座と科学普及講座の2種類であった。時事講座は主に市民の政治思想問題を解決することに重点が置かれ、科学普及講座は文盲をなくすことが重視された。文化宮の運営責任者は中共と固く結束し、各時期の世論宣伝や政治運動に関連した映画を選んで上映し、市民に注入式教育を行った。人民公社を題材にした「康庄大道」「三八河辺」を放映したり、抗米援朝の「英雄儿女」「上甘嶺」、抗日戦争映画の「地道戦」「地雷戦」等々を放映した。演劇上演に関しては、文化宮が組織した労働者のアマチュアサークル劇団が公演を行った。題目は「技術者が来た」「婦女代表」などである。朗詠、舞踊、美術クラスの活動を行い、市民に革命歌曲、革命舞踊を教えた。絵や写真の展覧会を催して生産建設、階級闘争、対外友好などの時事内容を宣伝した。図書の閲覧は勤労大衆、特に現場勤労労働者を対象に読書奨励に重点を置いたためであった。
30年の長期にわたり、文化宮及びそれが展開した文化活動は、北京東城区に居住する一般市民の文化思考パターンの硬直化を助長するのに重要な役割をはたした。このコミュニティーでは政府の指向性が極めて濃厚な、共産主義的政治文化に充ち溢れ、「文化大革命」中には最高峰に達した。彼らは「自分が最も幸福である」と考え、「世界人口の3分の2が苦難に充ちた生活を送っている」状況の中、自分が「全人類を解放する」という神聖な使命を持っているのだという偏執した精神文化をもっていた。
市民の目には、日本などの東アジア国家の労働者たちは牛や馬にも及ばない生活をしているため自分たちが救出しなければならないと、うつっていた。中国共産党が改革開放を実施した後は、文化活動に対する束縛が暫時次第に緩み、文化宮政府筋による政府意図の誘導やコントロール効果は絶えず弱まっていき、その重要性は日増しに低下していった。市民文化活動の場所が増えるにつれ、文化宮は日増しに没落していった。(根岸智代 訳)
1950—1980年,北京东城区市民的主要文化活动大多在官方的强力指导下进行。中共的文化政策强调文艺为生产服务、为政治服务、为工农兵服务。官方主导的各种文化活动始终肩负着政治宣传与教化的功能,是政治教育与政治学习的辅助。市民在参与文化娱乐活动的同时就被灌输了毛泽东思想等意识形态,被官方纳入了培养共产主义者的说教中。
北京东城区市民文化活动的场所也被官方有意地引导、限制,文化宫表面上是市民们的文化活动场所,其实质是中共为控制市民的文化思想而设的重要文化“阵地”。官方在文化宫为市民们举办的文化活动多种多样,主要有讲座,分时事政策讲座及科学普及讲座两种,时事讲座重在解决市民的政治思想问题,科学普及讲座重在扫盲;放电影,文化宫负责人紧密结合中共在各个时期的舆论宣传和政治运动选取相关影片,对市民进行灌输式教育。反映人民公社题材的影片有《康庄大道》、《三八河边》,反映抗美援朝的影片有《英雄儿女》、《上甘岭》,反映抗日战争的影片有《地道战》、《地雷战》等等;戏剧演出,文化宫组织工人业余剧团进行演出,剧目有《技术员来了》、《妇女代表》等;举办歌咏、舞蹈、美术班,教市民唱革命歌曲,跳革命舞蹈;图片展览,宣传生产建设、阶级斗争、对外友好等时事内容;图书阅览,重点帮助劳动人民特别是工人读书。
在长达30年的时间里,文化宫及其开展的文化活动对北京东城区的普通市民形成僵化的文化思维模式起到了重要作用。这一城区充溢着官方意识形态极为浓郁的红色政治文化,并在“文化大革命”中登峰造极。市民的精神文化状态是偏执的,认为自己最幸福,而“世界上三分之二的人民生活在水深火热之中”,自己有“解放全人类”的神圣使命。
在市民眼中,日本等东亚国家的劳动人民过着牛马不如的生活,是需要自己去解救的。中共实行改革开放以后,文化禁锢逐渐松弛,文化宫官方文化导向和控制的作用不断削弱,其重要性日益降低。市民文化活动的场所越来越多,文化宫日益走向没落。
張思(南開大学):集団化時期における中国農村の社会流動性:華北の一村落についての事例研究(集体化时代的乡村社会流动:一个华北村庄的个案研究)
20世紀前半の河北省侯家営村には長年にわたる移民の伝統があり、村落社会には自由な人口移動と階級地位の激しい変動を特徴とする社会流動性が存在していた。集団化、つまり人民公社の時代になると、国家は戸籍や“統一買付・統一販売”などの制約性の強い制度を通じて農村社会を厳格に管理したので、これにより集団化時代の特色ある農村社会の社会的流動のパターンが形成された。このパターンとは、第一に、農村人口の移動および職業の変更は、農村戸籍から都市戸籍への転換、人民解放軍への入隊、大学などへの進学など、非常に限られた政府系ルートのみで実現したこと。第二に、人口移動は主に婚姻を媒介とした女性人口の移動であったこと。第三に、幹部や村民は、会議・外部調査・見学・学習・訓練などの名目で頻繁に外に出る機会を得ていたこと。第四に、集団化時代の後期の農村の合作経済-兼業経済の成長に伴い、兼業を成長させることを契機に村落社会の流動性が高まったこと。以上のような四点があげられる。
集団化時代における農村社会における社会的流動のパターンは、中国農村社会が変容してきた基本的趨勢と時代の特徴を反映するもので、重要な示唆を与えてくれる。これら農村社会の新しい形の社会流動からは、人民公社時代の体制は伝統的社会の流動パターンを受け入れると同時に新しい流動形式をも育んできたこと;農村の社会的流動の範囲が拡大することで、農民の移動も伝統的な流動パターンの限界を超えたこと;集団化時代の各種社会的流動は、究極的には、それ以前と同じく、農村や個人の発展ニーズに貢献し、昔の伝統的な社会流動のニーズは、人民公社体制においても存続し、さらには強調されたこと;以上のような点が判明する。すなわち、農村社会は実際には、人民公社体制を後ろ盾として種々の社会的流動を実現したと言える。人民公社体制は、農村社会の流動に制約を加えたと同時に、流動が活発化するチャンスも提供した;集団化時代に農民が創造力を発揮することができたのは、かかる環境が存在したからであり、それはポスト集団化時代における農村発展の基礎となった;といえよう。(蔦井亮佑)
20世纪上半叶的河北省侯家营村具有悠久的移民传统,村落社会呈现出以人口自由迁移及阶级地位剧烈升降为特征的社会流动性。进入到集体化-人民公社时期,国家通过户籍、统购统销等束缚性制度对乡村社会进行严格控制,由此形成了一种集体化时代特色的乡村社会流动模式——乡村人口、职业流动要通过农转工、参军、上学等极有限的官方渠道实现;人口迁移主要是以婚姻为媒介的女性人口迁移;干部和村民以开会、外调、参观、学习、培训等名义频繁获得外出机会;伴随着集体化时代后期乡村集体经济-副业经济的发展,以发展副业为契机的村庄社会流动转趋活跃。
集体化时代乡村社会流动的模式反映出中国乡村社会变迁的基本趋势与时代特征,具有重要的启示意义。从这些新型乡村社会流动中可以看到,公社时期的体制容纳了传统的社会流动模式,同时又孕育了新的形式。乡村的社会流动范围得到了延展,农民的流动也超越了传统的界限。集体化时代的各种社会流动最终还是服务于乡村和个人发展的需要,旧有的传统的社会流动需求在公社体制中得到了延续甚至强调。可以说,乡村社会实际上是利用公社体制赋予的保护伞实现着各种社会流动。公社体制在对乡村社会流动进行限制的同时,又提供了一些机遇,集体化时代的农民的创造性在其中得到发挥,这为后集体化时代的乡村发展奠定了基础。
高艶林(南開大学):「大明律」の朝鮮王朝法律制度への影響(《大明律》对朝鲜王朝法律制度的影响)
『大明律』は高麗末期に朝鮮半島に伝来した後、朝鮮王朝統治者からの強い関心を集めることとなった。しかし、洪武二十五(1392)年から景泰六(1455)年まで、『大明律』は終始一貫して唐律や元律と混同して使用され、朝鮮王朝の法律体系と法律制度の混乱状況を生み出した。こうした状況が生じたのには三つの原因がある。第一に、高麗王朝の用律思想の影響を受けたことがある。朝鮮王朝初期の統治者、とりわけ李成桂のようにもともと高麗王朝の高官であった人物は、王朝交替によって過去の用律思想と習慣とを完全に改変することができなかった。これが朝鮮王朝初期に以前と同じように唐律と元律が継続して使われた原因である。第二に、朝鮮王朝初期の統治者は、用律について矛盾した心理を抱えていた。一方で高麗王朝の旧来の法制に従おうとし、またある一方で一部の領域については『大明律』を使用した。これが朝鮮王朝初期に『大明律』、唐律、そして元律を混同して使用した原因である。第三に、『大明律』を理解するのに、かなり長いプロセスを要したことである。『大明律』は、古代法の精華を大量に取り入れた部分以外は、相当多くの部分が独創的な内容となっていた。このことで、朝鮮王朝の統治者は『大明律』について相当長い時間をかけて理解する必要があり、その上で排他性を完全に受容する過程へと至った。これも朝鮮王朝初期に『大明律』を専一に使用することができなかった原因の一つなのである。世祖(在位1455-1468)が王位を継承した後、法律制度に関する改革を進め、“用律,用『大明律』”思想を明確にし、『大明律』が朝鮮王朝における法律体系の中核的位置を占めることを定め、歴代の王はこれを踏襲して変えることは無かった。その後、朝鮮王朝の法律制度の発展は、以下の二つの特徴を現した。第一に、長期にわたって『大明律』が使用されたこと。そして第二に、自覚的に望んで『大明律』を使用したことである。専一に『大明律』を使用することは、朝鮮王朝の希望するところであり、決して中国が強制したことではなかった。長きにわたり専一に、かつ自覚的に希望して『大明律』を使うことは、嘉靖年間(在位1521-1566)に形成される中国と朝鮮の政治一体化のための法律面の基礎を固めることになったのである。(蔦井亮佑)
《大明律》于高丽末期传入朝鲜半岛后,引起了朝鲜王朝统治者的高度关注。但从洪武二十五年至景泰六年,《大明律》一直与唐律、元律混同使用,造成了朝鲜王朝法律体系和法律制度的混乱局面。这个局面的产生有三个原因:第一,受高丽王朝用律思想的影响。朝鲜王朝初期的统治者,尤其像李成桂这样的原高丽王朝的高级官员,不可能因朝代的更替而完全改变过去的用律思想和习惯,这是朝鲜王朝初期仍继续使用唐律和元律的原因;第二,朝鲜王朝初期统治者在用律上存在着矛盾心理。一方面他们要遵循高丽王朝旧的法制,另一方面也在某些方面施用《大明律》,这是朝鲜王朝初期《大明律》、唐律和元律混用的原因;第三,对《大明律》的认识需有一个较长时期的过程。《大明律》除大量吸收了古代法律的精华部分外,同时还有相当多的独创内容,这就决定了朝鲜王朝统治者对《大明律》要有一个相当长时期的熟悉和认识以至达到排他性完全接受的过程,这是朝鲜王朝初期不能专一使用《大明律》的原因之一。世祖国王继位后,对法律制度进行了改革,明确了“用律,用《大明律》”思想,确立了《大明律》在朝鲜王朝法律体系中的核心地位,并历代沿袭不替。此后,朝鲜王朝法律制度的发展出现了以下两个特点:第一,长期使用《大明律》;第二,自觉自愿地使用《大明律》。专一使用《大明律》是朝鲜王朝之意愿,非中国之强令。长期专一地和自觉自愿地使用《大明律》,为嘉靖时期形成的中朝政治一体化奠定了法律基础。
趙永東(南開大学):日中両国の高等教育の発展過程と原因比較(日中两国高等教育发展的历程及原因比较)
日中両国の距離は近く、文化も近い。また、両国は儒教文化圏に属しており、歴史上似通った儒教的師道観が存在する。19世紀、中日両国は同様の問題に直面し、ほぼ同じスタートラインに立った。これは主に、第一に、両国の社会状況が似ていたこと、第二に、両国は似た歴史的課題、すなわち富国強兵と民族振興の実現という課題に直面していたこと、第三に、両国の社会的苦境を解決する方法が同じであったこと、を示している。日中両国はほぼ同じ時期に欧米諸国に学ぶ「新政」を実施し、近代化を開始した。中国の清朝政府は1860年代から1890年代にかけて洋務運動を推進し、日本の明治政府は1868年に維新運動を開始した。両者はともに欧米の先進技術を導入し、近代的企業や新式の学校、近代的軍隊を作り、それらによって民族の自強と強固な統治を実現しようとした。 しかし、両者には最も大きな相違点が存在する。それは、現代化初期国家の中で、日本だけが唯一成功を収め、ついには脱亜入欧を果たし欧米列強と肩を並べる非欧米国家となったのに対し、中国は日増しに衰退し、周縁化の度合いが日増しに深まる半植民地社会へと向かったということである。筆者は歴史的視角から両国の高等教育の発展過程を整理し、発展のプロセスの中から両国の高等教育の発展の客観的な法則とその影響を探る。
一、中国の高等教育の発展過程
第一時期:洋務学堂出現期。
第二時期:日本の高等教育模倣期。19世紀末から20世紀初めは、中国近代高等教育の発展における重要な時期である。
第三時期:多元化発展期。1912年から1927年までの10数年間は、中国高等教育の発展モデルの多元化時期であると言える。
第四時期:欧米高等教育参考期。
第五時期:ソ連の高等教育模倣期。
第六時期:高等教育の放置期。「モデル」を捨て、「伝統」へ回帰した。
第七時期:中国的特色のある高等教育体制の建設期。20年の鎖国状態がもたらした種々の災難を経験した後、改革開放に伴って基本国策を確立し、中国の高等教育は再び世界へ向かう。
二、日本の高等教育の発展過程
日本の高等教育の発展はおおよそ3つに分けることができる。
第一段階:明治維新の開始から第二次世界大戦の終結まで。
第二段階:1946年から1970年代初め。
第三段階:1960年代末、1970年代初めから今日に至る大学改革。
三、両国の高等教育の発展過程が異なる原因
中国と日本は共に儒教文化圏に属し、教育の現代化は欧米の軍事的攻撃という脅威によって始まった。しかし、両国の教育の現代化の方向性、プロセスおよび結果は大いに異なった。本論文では政治、経済、文化的観点から、両国の高等教育の異なる発展過程を大まかに検討する。
(一)中日両国の高等教育の発展過程における政治環境の対比
(二)中日両国の高等教育の発展過程における経済的要因の分析
(三)中日両国の高等教育過程の文化的差異の比較
第一に、外来文化の吸収に対して、両国には異なった伝統がある。
第二に、両国民族の思考方式が異なり、これが両国の高等教育の現代化のプロセスの違いを作り出している。
第三に、両民族の国家観が異なる。
参考文献:
[1]袁韶瑩『当代日本高等教育』[M]、長春:吉林教育出版社、1993年。
[2]梁忠義『日本教育発展戦略』[M]、長春:吉林教育出版社、1993年。
[3]張向前「日本現代高等教育発展及其啓示[J]、『貴州工業大学学報(社会科学版)』、2004年(1)。
[4]呉海涛「日本高等教育改革対中国的啓示」[J]、『日本問題研究』、2004年(1)。
[5]夏金元「近代中国高等教育的嬗変」[J]、『辺疆経済与文化』、2005年(1)。
[6]趙菊梅「中日高等教育的近代化比較」[J]、『高教発展与評估』、2004年(6)。(和田英男)
日中两国距离相近,文化相似,而且两国同属儒家文化圈,历史上都有类似的儒学师道观。19世纪的中日两国面临着同样的问题,几乎处在同一个起跑线上。这主要表现在: 第一,两国的社会状况相似。第二, 两国面临相似的历史任务,即富国强兵,实现民族振兴。第三,两国解决社会困境的方式相同。两国几乎同时期实施了学习西方的“新政”,开始了两国的近代化进程—中国的清政府从19世纪60-90年代进行了洋运动,日本的明治政府从1868年开始了维新运动。两者都引进西方先进技术,建立了一批近代企业、新式学校和近代军队用以实现民族自强和巩固统治。但它们又有着最大的不同, 这就是在早期现代化国家中, 日本是唯一取得成功最后脱亚入欧与西方列强并驾齐驱的非西方国家, 而中国却走向了日渐衰微、边缘化程度日益加深的半殖民社会。笔者从历史的视角梳理了两国高等教育的发展历程, 从发展进程中探索两国高等教育发展的客观规律及其影响因素。
一、中国高等教育的发展历程
第一个时期: 洋务学堂的兴起。
第二个时期: 模仿日本高等教育的时期。19世纪末20世纪初, 是中国近代高等教育发展的重要时期。
第三个时期:多元化发展时期。1912年至1927年的十几年间, 可以说是中国高等教育发展模式的多元化时期。
第四个时期: 借鉴欧美高等教育的时期。
第五个时期: 模仿苏联高等教育的时期。
第六个时期: 高等教育的荒废时期。摒弃“模式”, 复归“传统”。
第七个时期: 具有中国特色的高等教育体制的建立时期。在经历了闭关锁国20年所带来的种种灾难之后, 随着改革开放基本国策的确立, 中国的高等教育重新走向世界。
二、日本高等教育发展的历程 日本高等教育的发展大概可以分为三个阶段。
第一阶段: 自明治维新开始到第二次世界大战结束。
第二阶段: 1946年到20世纪70年代初。
第三阶段: 从20 世纪60 年代末70 年代初开始至今的大学改革。
三、两国高等教育不同发展历程的原因 中国和日本都同属儒家文化圈, 教育的现代化均始于西方的坚船利炮的攻击, 但是, 两国教育现代化的取向、进程、及结果不尽相同。本文从政治、经济、文化的角度对两国高等教育不同的发展历程作粗浅的探讨。
(一) 中日两国高等教育发展历程中的政治环境对比
(二) 中日两国高等教育发展历程中的经济因素分析
(三) 中日两国高等教育历程中的文化差异比较
第一, 对于外来文化的吸收, 两国有着不同的传统。
第二, 两国民族的思维方式不同, 造成两国高等教育现代化的进程不同。
第三, 两个民族的国家观不同。
参考文献: [1]袁韶莹.当代日本高等教育[M].长春:吉林教育出版社,1993.
[2]梁忠义.日本教育发展战略[M].长春:吉林教育出版社,1993.
[3]张向前.日本现代高等教育发展及其启示[J].贵州工业大学学报(社会科学版),2004,(1).
[4]吴海涛.日本高等教育改革对中国的启示[J].日本问题研究,2004,(1).
[5]夏金元.近代中国高等教育的嬗变[J].边疆经济与文化,2005,(1).
[6]赵菊梅.中日高等教育的近代化比较[J].高教发展与评估,2004,(6).
王宏斌(河北師範大学):華北アヘン統制政策再研究(日本对华北的鸦片统制政策再研究)
1937年から1945年にかけて、日本の華北地区(ここでの華北地区とは、主に偽華北政務委員会の管轄地区を指し、河北、山東、山西の三省および北平、天津、青島の3つの特別市をいう。また豫東や豫北地方を含む場合もある)へのアヘンによる汚染政策は 、占領以前のアヘンを利用した軍事的な浸透から、占領初期の「陽禁而陰縦(表向きは禁止だが、陰では容認する)」まで、また、「陽禁而陰縦」から公開強制まで、などのおおよそ3つの汚染段階をたどった。
1937年7月7日の「盧溝橋事件」発生後、日本軍は華北の大部分を非常な速さで占領した。12月14日、日本軍は武力を背景に北平において王克敏を偽中華民国臨時総統の地位に担ぎ上げた。翌年2月24日、偽臨時政府は第33号令を発布し、南京国民政府の禁煙禁毒法を廃止し、徐々にアヘン汚染容認処置を取った。これが、日偽政権が華北地区において麻薬に対して行った「陽禁而陰縦」政策の始まりである。 1940年3月、汪精衛傀儡政権が南京で成立し、偽華北臨時政府は華北政務委員会に姿を変えた。この偽政権の専売機関は華北地区の麻薬に対して、いわゆる「統制」政策を取り、2つの草案を発布した。1つは《蒙疆土藥統制経営暫行辨法》であり、もう1つは《土藥商購領蒙疆土薬規則》である。「草案」の規定によると、今後、全ての商店はモンゴル・新疆地区から無断でアヘンを購入・運輸してはならず、華北地区の土藥(アヘン)は専売機関が蒙疆清査署から買い付け、各アヘン店がアヘンを必要とする場合には、毎回数量申請書に記入しなければならず、土藥商務辨事処によってひとまとめにされ、専売機関で買いつけられるのである。
1943年、日本の大東亜省(興亜院から改称)の北京事務所と中国の日本大使館は華北土藥公会の改組を決定し、1942年11月に出された「華北地区禁煙禁毒制度実施要領」の推進に躍起になった。1943年12月30日、偽華北禁煙総局は華北政務委員会に「治本」と「治標」の2つの規則を提出した。華北がアヘン統制を完全に出来ないのは、「禁煙」機関に密輸人を逮捕する能力が欠けており、商人が輸送・販売してしまうことが問題の根源であるとし、制度を根本から変えなければならないと考えたのである。
中日8年戦争時期に、日本軍は華北に進攻し野蛮な統治を行い、銃や銃剣を用いて多くの世にも恐ろしい虐殺事件を起こしたのみならず、アヘン、モルヒネ、ヘロインなどの“ソフトな武器”を用いて、中国人の抵抗意志を麻痺させ、多くの中国人の身体健康に重大な損害を与え、多くの中国人の尊い命を奪おうと企んだ。これが、日本が華北地区において行ったアヘン統制政策の無視出来ない深刻な結果である。(和田英男)
从1937年到1945年,日本对华北地区(此处的华北地区,主要是指伪华北政务委员会的管辖区,即河北、山东、山西三省及北平、天津、青岛三个特别市。有时还包括豫东和豫北地方)的毒化政策 ,大致经历了从占领前的利用鸦片进行军事渗透到占领初期的“阳禁而阴纵”,再从“阳禁而阴纵”到公开强制等三个毒化阶段。
1937年7月7日“卢沟桥事变”发生后,日军迅速侵占华北大部分地区。12月14日,日军用刺刀在北平把王克敏扶上伪中华民国临时总统的位置。翌年2月24日,伪临时政府发布第33号令,宣布废止南京国民政府的禁烟禁毒法令,然后一步步采取措施纵毒。这是日伪政权在华北地区对于毒品采取“阳禁而阴纵”政策的开端。
1940年3月,汪精卫傀儡政权在南京成立,伪华北临时政府摇身一变而为华北政务委员会。这个伪政权的统税公署立即决定对于本地区的毒品采取所谓“统制”政策。为此颁布了两个草案:一个是《蒙疆土药统制经营暂行办法》,另一个是《土药商购领蒙疆土药规则》。“草案”规定,今后所有商家不得从蒙疆地区私自购买和运输鸦片,华北地区的土药统一由统税公署向蒙疆清查署采购,各烟膏店需要的鸦片,应一一填写数量申请,由土药商务办事处汇总,统一交给统税公署来采购。
1943年,日本大东亚省(由兴亚院改名)北京事务所与日本驻华使馆决定改组华北土药公会,加紧推行1942年11月提出的“华北地区禁烟禁毒制度实施要领”。1943年12月30日,伪华北禁烟总局向华北政务委员会提出“治本”与“治标”两个办法,认为,华北不能完成鸦片统制,根本问题在于“禁烟”机关缺乏缉私力量与商人运销鸦片,现在应当改弦更张。
中日八年战争时期,日本军队对华北进行野蛮统治,不仅用枪炮、刺刀制造了许多骇人听闻的屠杀事件,而且用鸦片、吗啡、海洛因等软武器,麻醉了中国人的抵抗意志,摧残了许多中国人的身体健康,谋害了许多中国人的宝贵生命。这就是日本在华北地区实施鸦片统制政策的不可忽视的严重后果。

台湾・東華大学歴史学系

陳鴻圖(東華大学):戦後東台湾地方誌のエスニック・グループ記録(戰後東台灣地方志中的族群紀錄)
1990年代に教科書『認識台湾』では、福佬、客家、外省および原住民を台湾の4大エスニック・グループとして挙げている。台湾社会ではエスニック・グループ問題は長らく隠れて語られなかったが、にわかに議論の勢いは増し、論争は際限なく取り上げられ、「台湾意識」と「中国意議」の論争、エスニック・グループイメージ、国家認識、統一と独立の問題などの諸問題が、このエスニック・グループ問題の渦中に巻き込まれていった。
毎年選挙がある台湾社会では、票取りのために、いわゆる「少数」エスニック・グループに対して極力好意を示し、政府のエスニック・グループ政策は「短期的」操作で行われ、原住民委員会、客家委員会、原住民学院、客家学院、原住民文化園区、客家文化園区などの機構が雨後の筍のように次々と設立された。
地方誌の機能は、地方あるいは地区を中心として政治・教育・史料保存に役立つ地方全書となるべきであり、その役割に疑問を挟むには及ばないが、台湾政治でのエスニック・グループの議題が操作されるような状況下では、地方誌の作成には異なった声がいくらか出始めている。
東台湾(現在の花蓮、台東の両県)は、台湾でエスニック・グループが最も多様な地区である。現在の政府側および教科書の分類上では、この地区のエスニック・グループには、福佬、客家、外省、原住民がおり、その原住民の中には、アミ(阿美)、プユマ(卑南)、パイワン(排湾)、ルカイ(魯凱)、タオ(達悟)、タロコ(太魯閣)、ブヌン(布農)、サキザヤ(撒奇莱雅)、クバラン(噶瑪蘭)、シラヤ(西垃雅)の10の民族が存在する。花蓮平原と台東平原以外では、花東縦谷と東海岸地区はどのエスニック・グループも人数において絶対的優勢には立っていない。このような状況下で、地方歴史や地方誌はどのように記録されるべきであろうか?また、「誰」の観点によって記録されるべきだろうか?
本論文は「戦後東台湾地方誌のエスニック・グループ記録」と題して、戦後の東台湾で出版されたすべての地方誌を調査し、その中で「異なるエスニック・グループ」が地方誌のなかでどのように表されたか、またそこから「異なるエスニック・グループ」が今後どのように表されるべきなのかについて提起してみたい。(和田英男)
1990年代《認識台灣》教科書列舉福佬、客家、外省及原住民為台灣四大族群,長期在台灣社會隱而不談的族群議題,頓時沸沸揚揚,論爭被無限上綱,「台灣意識」與「中國意議」的爭議、族群想像、國家認同、統獨問題等全面被捲入此族群漩渦之中。
年年選舉的台灣社會,為拉攏選票,對所謂「少數」族群極力示好,政府的族群政策亦是採「短線」操作,原住民委員會、客家委員會、原住民學院、客家學院、原住民文化園區、客家文化園區等機構如雨後春筍般的設立。
地方志的功能應是以地方或區域為中心,作為資政、教化、存史的地方百科全書,其角色應無庸置疑,但在台灣政治操作族群議題的氛圍下,地方志的書寫開始有些不同的聲音。
東台灣(今花蓮、台東兩縣)是台灣族群最多元的地區,依目前官方及教科書上的分類,本區的族群有福佬、客家、外省、原住民,其中原住民又有阿美、卑南、排灣、魯凱、達悟、太魯閣、布農、撒奇萊雅、噶瑪蘭、西拉雅族等十族。除花蓮平原和台東平原外,花東縱谷和東海岸地區,沒有任何族群有人數上的絕對優勢。在這樣的情形下,地方歷史或地方志該如何紀錄?又該用「誰」的觀點來紀錄? 本文擬以〈戰後東台灣地方志中的族群紀錄〉為題,檢視戰後東台灣所有出版的地方志,從中觀察「不同族群」在這些志書中如何被呈現,並以此試著提出「不同族群」在爾後的志書中該如何呈現。
蔣竹山(東華大学):1930年代東アジアの人参史:今村柄の人参史を事例とする検討(1930年代的东亚人参史:以今村鞆的人参史为例的探讨)
十九世紀に中国の医療はいわゆる「近代」という時期に入った。これは明らかに西洋文明に刺激された結果となっている。しかし、十九世紀中国の医療システムがどのような「近代性」を持っているかということは、我々の研究にはまだこの質問に対応することが出来ない。また我々の研究は十九世紀以前に対する研究への評価が低くすぎる恐れがあると思われる。というのは、十九世紀以前、異なる段階で現れた「近代性」を、我々はどのように見ているのかという問題である。梁其姿が近年、『医療史と中国「現代性」』という本で次のように指摘している。「二十世紀、西洋の医師が漢方薬の理論は迷信だとよく批評する一方、漢方薬の効果や本草学の実績は肯定している。だから、学者たちはこの視点から十六世紀以来、中国社会の薬の用い方の「近代性」を認める必要がある。」更に中国大陸の医学史研究者鄭金生もうこう語っている。「明清時期薬物の製造、流通は多少医薬知識及び商業市場と結合する一種の新理性である。」実は東アジアの薬物交流の歴史から見ると、中国、朝鮮及び日本の人参などは十六世紀明末以来、もう密接な交流をしている。人参(又は人蔘或は人葠)が上述した東アジア諸国の薬物の交流の最大の物である。これより我々は、今まで東アジアにおける人参史の研究書に対して、ディスカッションをする。従って前近代期とは明朝の末期から乾隆及び嘉慶年間までを指している。この時期の人参の交流史は主に中国を中心に、一歩進んで中日及び中韓或は中国、日本、韓国など三国の流通まで及んでいる。だから、如何に前近代期の東アジア地区における人参交流を研究するのかは非常に重要な課題となっている。以下、清朝と関わりのある研究を中心に、ほかの国をも論ずることにする。
以下,1930年代閒に時代を限って、今村鞆の人参史の一端を考察することにしたい。
今村鞆(いまむら とも)は朝鮮半島社会の研究者、警察官(明治3年-昭和18年,1870~1943年)。1870年9月6日、土佐国高岡郡高岡村(現・高知県土佐市)に生まれる。1899年、警視庁警部となり、1903年、警察監獄学校を卒業し岐阜県警部となる。1904年、法政大学専門部法律科を卒業して、1908年に渡韓する。忠清北道警察部長をはじめ、江原道警察部長、平壌警察署長、済州警察署長などを務め、職務と趣味に関わりのあるものの調査に打ち込む。朝鮮民俗学会ともかかわりを持ち、民俗学の研究にも没頭する。1912年に最初の著書である『朝鮮社会考』を出版して以来、『朝鮮風俗集』、『朝鮮漫談』などを出版した。
1920年、朝鮮総督府の府尹元山に在勤務、李王職庶務課長を勤め、1925年、依願免官。1926年、逓信局嘱託、1928年、朝鮮放送協会理事、1930年、朝鮮史編集会嘱託、1931年、人参史編纂嘱託などを歴任する。李王職事務官を辞した後も籍を中枢院に置き、専売局の嘱を受け、大著『人参史』を1934年から1940年にかけて記す。博学といわれるほど多様な知識を持つ彼は、1937年に創設された京城書物同好会の会員に加わり、在野の学者として半島文化の啓発に貢献した。
中国的医疗在十九世纪进入了所谓的“现代”时期。这显然是在西方文明刺激下的结果。但是,对于十九世纪中国的医疗体系具有怎样的“现代性”这一质疑,我们的研究却尚无以为对。并且我们对于关于十九世纪以前的研究的评价恐怕有过低之嫌。这归结于,我们如何理解在十九世纪前的不同阶段出现的“现代性”这一问题。近年来,梁其姿在《医疗史与中国“现代性”》一书中,指出:“二十世纪的西方医师在屡屡批评中药的理论是迷信的同时,也对中药的效果及本草学的功绩予以了肯定,因此,若按这种观点来看,学者们有必要承认自十六世纪以来的中国社会中存在的中药使用方法上的‘现代性’” 。并且中国大陆的医学史研究者郑金生也指出:“明清时期的药物制造和流通或多或少都与医药知识和商业市场相结合,是一种新理性”。事实上从东亚的药物交流史上来看,自十六世纪明末以来,中国、朝鲜及日本已经在人参等方面有着密切的交流。人参(又名人蔘或人葠)是上述东亚诸国在药物交流上的最主要之物。由此本文欲围绕迄今为止出版的东亚人参史相关研究书籍进行探讨。前现代期指的是从明朝末期到乾隆和嘉庆年间这一段时间。该时期的人参交流史主要以中国为中心,进而发展到中日、中韩或中日韩三国的交流。因此,如何对前现代期的东亚地区人参交流情况进行研究是一项十分重要的课题。以下,笔者以与清朝相关的研究为中心,兼对其他国家也有所论及。
以下,仅限于1930年代,对今村鞆的《人参史》的一个侧面进行考察。
今村鞆(明治3年-昭和18年,1870-1943年),朝鲜半岛社会研究者、警察。1870年9月6日,出生于土佐国高冈郡高冈村(现在的高知县土佐市)。1899年,担任警视厅警部。1903年从警察监狱学校毕业,担任岐阜县警部。1904年,由法政大学专门部法律科毕业。1908年赴韩国,历任忠清北道警察部长、江原道警察部长、平壤警察署长、济州警察署长。热中于调查与自己职务相关的事情。与朝鲜民俗学会保持联系的同时,潜心于民俗学的研究。自1912年出版第一本专著《朝鲜社会考》以后,相继又出版了《朝鲜风俗集》、《朝鲜漫谈》等书。
1920年在府尹元山的朝鲜总督府担任李王职庶务课长。1925年,自愿辞去职务。1926年,担任递信局嘱托。1928年担任朝鲜放送协会理事。1930年担任朝鲜史编辑会嘱托。1931年担任人参史编纂嘱托。辞去李王职事务官一职后,在中枢院任职,受专卖局之嘱,从1934年到1940年着力于大著《人参史》的书写。博学多才的他在1937年加入了京城书物同好会,成为会员,作为在野学者为半岛文化的启蒙做出了贡献。(金晶)
蘇瑤崇(静宜大学):1980年代台湾省議会と台湾社会の変化(臺灣省議會與1980年代政治社會的轉型變化)
台湾は戦後38年の長期にわたり戒厳令を経験した。戒厳令制の下、政治・社会・経済を問わず、さらには環境など各方面全てが大きく歪んだ。1987年7月14日になって、ようやく「戒厳令解除」となり民主化が飛躍的に進展した。これは台湾の歴史上、節目となる重要な事件であった。戒厳令解除前後の1980年代に台湾は政治、経済、社会各方面全てにおいて、すでに相当な発展がみられた。その結果として蓄積された成果によって戒厳令の制限を突破し、最後に方向を転換して発展をなしとげたのである。これは台湾現代史の非常に重要な課題である。本論文は台湾省議会を例として、具体例をあげてこの議会が台湾政治と社会の転換・発展に与えた影響を論述する。
台湾省議会とは、省参議会、臨時省議会、省議会の3段階を含めている。戒厳令時代、省主席は軍職も兼任し甚大な権力を有していた。さらに国民党籍の議員が大多数を占め、「府会(行政・立法)一家」で政党と行政が運営を行った結果、早期の省議会の立場は省政府の諮問機関のようであった。省議会の主な成果は経済建設や財政方面などに偏り、むしろ省政府の施政や建設と連係するのが主であったと言った方がいいだろう。
しかし前述した第七、八期省議会の成果は、その内容が経済方面だけでなく、法制の正義、人権の擁護、公平な社会福利と環境保護など、経済以外の方面も含んでいた。これらは全て以前の省政府が軽視したり或いは積極的な施政を行わなかった項目である。しかし政府は、これらの件に否応なく直面して解決せざるを得なかっただけでない。更に相当に具体的な効果ももたらしたのだった。この時期の省議会は、すでに消極的な形式上・行政上の諮問機関から台湾発展のバランスを取って先導する、積極的な実質上の民意機構に発展していたのだった。総じて言うと、公平正義な社会を追求し建設することは当時の省議会が有していた最も代表的な使命であった。この過程を経ることで台湾は戒厳体制を突破し、方向転換して将来へ発展する重要な力を得ることができたのである。
本論文では省議会の発展史に従い、早期の省議会の諮問機関としての立場を説明し、第七、八期の飛躍的な発展と対照する。また具体的な事例によって第七、八期の省議会が台湾の方向変換と発展の促進に貢献できたことを説明する。最後に結論として言うと、後日、台湾省の“凍結”のために省議会は廃止されることになったのだが、これはむしろ立法院が省議会に取って代わったのだといえる。台湾議会の歴史的発展は、植民と権勢統治下での民主獲得の過程を反映している。また省議会から立法院への発展は、台湾が正常な国民国家と民主国家に向かって進展していく一つの過程を反映している。「台湾」はもはや統治者の中での単なる「省」という認識ではなく、台湾全住民に属する「国家」の概念なのである。この発展が21世紀東アジア国際情勢の最も敏感な精神に影響を及ぼしたのである。(根岸智代)
台灣戰後歷經38年長期戒嚴,在戒嚴體制下,無論政治、社會、經濟乃至環境等各方面,都遭到嚴重扭曲。直到1987年7月14日「解嚴」,民主化才有飛躍性進展,這是台灣歷史上非常重要的里程碑。解嚴前後,約為1980年代,台灣無論在政治、經濟與社會各方面,都已發展至相當程度,其究竟累積哪些作為,而突破戒嚴的限制,最後達成轉型發展,這是台灣現代史相當重要的課題。本文以台灣省議會為例,具體舉例論述其所影響台灣政治與社會轉型之發展。
台灣省議會,包括省參議會,臨時省議會與省議會三個階段。戒嚴時代,省主席兼任軍職,擁有甚大的權威,加上國民黨籍議員佔大多數,在「府會一家」黨政運作下的結果,使得早期省議會之地位,宛如省政府之諮議機構,其主要作為或偏於經濟建設、或財政方面等等,毋寧說以配合省政府的施政或建設為主。
然而前述第七、八屆省議會之作為,其內容不只是經濟方面,更包括了法制正義、人權維護、公平的社會福利與環境保護等非經濟面,這都是過去省政府忽視或不積極施政之層面。但它不只迫使政府面對與解決,更達到相當的具體成效。這時的省議會可以說已從從消極的、形式上與行政上的諮議機構,發展至積極的、實質上的制衡與引領台灣發展的民意機構。歸結而言,追求與建立公平正義的社會,可說是這時代省議會最具代表性的使命。這些過程,也正是引導台灣衝破戒嚴體制與轉型未來發展重要的力量。
本文從省議會之發展史,說明早期省議會為諮議地位,以對照第七、八屆突破性之發展。並以具體事例說明,第七、八屆省議會在促進台灣轉型發展之貢獻。最後就結論而言,雖然日後因凍省而使省議會遭廢置,但毋寧說這是立法院取代了省議會。台灣議會的歷史發展,反映了在殖民與威權統治下爭取民主的過程。而從省議會到立法院之發展,則反映出台灣朝正常國民國家與民主國家進展的一個過程。「台灣」不再是單單統治者中「省」的認知,而是一個屬於台灣全體住民之「國家」的概念。這項發展牽動了二十一世紀東亞國際情勢最敏感之神經。
柯惠鈴(中原大学):精神動員:抗戦初期における戦場の女性とプロパガンダ(精神動員:抗戰初期前線婦女的工作與宣傳)
抗日戦争は、中国の生死存亡に関わる戦争であり、過去の多くの研究では、戦争における男性の役割が、戦闘を含めて検討され、戦争行政における兵役・ゲリラから後方における補給など数々の問題について強調されてきた。文化やプロパガンダなど精神的な動員の問題に注目する研究も少なくなかったが、前述の二分野は、いずれも女性による戦争への貢献に対し、深い分析が欠けている。
女性の視点から見ると、戦争によって脅かされるのは男性だけではない。日中戦争中の女性に関する過去の研究は蒋介石夫人の宋美齢が率いる女性組織に多く集中しているが、私は戦地奉仕や武装闘争などの視点から前線にいる女性の武力的なイメージと戦争プロパガンダの間の関係を理解する上で、中国女性の戦争における努力が後方支援だけではなく、様々な角度からこの八年にも渡る抗日戦争を支えてきたことに注目したい。
戦争史の研究は、これまでは女性の戦争への介入という分析が欠けていた。本論文が最後に望むところは、女性と戦争との検討を通じて、戦争に関してさらに多くの理解の視角が存在することを示し、そして戦争史の記述する内容を開拓していくことにある。(蔦井亮佑)
抗戰是攸關中國生死存亡的一場戰爭,過去許多研究強調男性在戰爭的作為,包括戰役檢討,戰爭行政中的兵役、游擊到後方補給的諸多問題,雖然也有不少的研究注意到文化及宣傳等精神動員的問題,但上述兩方面都缺乏對婦女在戰爭中的貢獻提出一個深入的分析。
從婦女的角度而言,戰爭所帶來的威脅實不在於男子。過去對於中日戰爭中婦女的研究,多數集中於蔣夫人領導的婦女組織,本人擬集中於戰地服務、武裝鬥爭等的角度去理解前線婦女的武化形象與戰爭宣傳間的關係,中國婦女在戰爭中所做的努力並不僅只於後方的支援而已,她們從各種角度去支撐這場長達八年的戰爭。
戰爭史的研究向來缺乏女性介入的分析,本文最後希望婦女與戰爭的探討可以提出關於戰爭更多理解的角度,並且拓展戰爭史書寫的內容。
李朝津(台北大学):広州国民政府時期の教育と革命:中山大学創立を中心に(廣州國民政府統治下之革命與教育:西南大學之推動及其夭折)
教育は中国近代化過程における最も重要な推進力であり、辛亥革命、五四運動、北伐から国共内戦時期に至るまで、どの時期においても常に重要な役割を果たしてきた。また、それゆえに学生や知識分子の革命活動は一貫して学術界の研究テーマとなっていた。しかし近代化過程において、教育はそれ自身が目的であった。およそ学校体制を更新し、自由な学風を確立し、学問の研究を深めることも、同じく近代教育が追及するところであった。あまりにも教育階層の革命活動に重点をおくと、教育階層自体の需要を軽視しかねず、革命要因が歴史の他の様相を覆い隠すようになって、容易にわずかな例で全体を論じてしまうこととなる。一方で、革命と教育ははっきりと二つに分けることのできない範疇である。近代史から見ると、実際に両者は互いが要因の関係にあり、教育そのものの発展を理解することが、教育と革命間の対話の理解を増すことになるのである。ゆえに本論文は広州中山大学の成立をテーマとして、この着眼点から出発したい。
広州中山大学は国民政府の統治下、北伐時期に成立したため、中山大学と黄埔軍官学校とは革命政府の左右両翼、文と武だと考える人もいる。このため中山大学が成立した当初、国民党と共産党は積極的に活動し、中山大学の政党的雰囲気は濃厚となって、近代中国での政党組織校の先駆けとなった。しかし一方で、中山大学は1920年代、少数の人々が学術の近代化をリードした大学で、その医学、農学、言語学、民俗学についての計画は、当時の中国の大学の中でも他をリードする地位にあった。このような状況は、過去には常に傅斯年らのような少数の学術に卓越したリーダーたちが原因で起こったのだとされたが、このような解釈は十分ではなく、さらに大きな状況によって理解しなければならない。先に提起した点に即して、教育の近代中国における発展と、教育と革命の相互関係を論じたい。
紙幅に限りがあるため、本論文は中山大学成立前夜を背景とし、主に当時の広東から西南地区にかけての教育状況に焦点をあてて詳しく検討する。事実、五四運動前後には中国の大学改革運動はすでにどんどん進行していた。1917年に大学令が発布され、大学の文科理科を統合することが規定され、大学は多くの能力を身につけさせる教育の場と位置づけられた。1922年の学制改革では、また大学を画一化して一律に4年で卒業すると定めた。これと同時に各地で次々と新制大学設立が推進された。注目すべきなのは、南京高等師範学校は東南大学に改組されたが、同時期に広東で推進されていた西南大学は無視されたことである。西南大学の設立がその後計画途中で挫折したことは中山大学成立の主な要因だが、その成立はこういった一連の事情の結果である。同時に孫文が1921年に広東で政権を設立したこととも関係がある。このため本論文は1920年前後の広東政府が西南大学成立を推進させたことを主題として、広東地区の教育改革状況及びその後の中山大学との関係を検討する。(根岸智代)
教育是中國近代化過程最重要的推動力,由辛亥、五四運動、北伐、以至國共內戰時期,均扮演十分重要角色,亦以此緣故,學生與知識分子的革命活動一直成為學術界之研究主題。然教育在近代化過程中,是有其自身目的,舉凡學校體制更新、自由學風建立與及學問研究深化,均是近代教育所追求,過分側重教育階層的革命活動,便會忽視教育階層自身的需求,變成革命因素掩蓋了歷史的其他面相,很容易以偏蓋全。另一方面,革命與教育亦非兩個截然分開的範疇,由近代史看,兩者其實是互維因素,瞭解教育本身的發展,亦增加教育與革命間對話的瞭解,故本文由此角度切入,以廣州中山大學成立為主題,作為本文的出發點。
廣州中山大學成立於國民政府治下,亦是北伐大革命時期,故有人認為中山大學與黃埔軍校是革命政府的左右兩翼,一文一武,故國民黨與共產黨在中山大學成立之初是十分活躍,形成該校政黨氣氛十分濃厚,開近代中國政黨治校之先河。但另一方面中山大學在二十年代又是少數領先學術近代化的高等院校,它的醫學、農學、語言學、民俗學規劃,在當時中國院校中處於領先地位,這種狀況出現,過去常歸因少數學術菁英份子如傅斯年等的領導,但這種解釋是不足夠,必須由更大的環境去理解,亦即上文所提及教育在近代中國的發展,與及教育和革命的互動關係。
由於篇幅所限,本文是以中山大學成立前夕為背景,主要針對當時廣東以至西南地區之教育狀況作一深入探討。事實上在五四運動前後,中國之大學改革運動已如水如荼,1917年頒佈大學令,規定大學文理科合一,把大學定調為通材教育;1922年學制改革,又把大學劃一化,一律定為四年畢業。與此同時,各地亦紛紛推動新制大學,比較觸目是南京高等師範學校改為東南大學,但同期在廣東所推動之西南大學則受到忽視。雖然主因是西南大學後來胎死腹中,但中山大學之成立,實在為此一脈絡之結果,同時他又與孫中山1921年在廣東建立政權有關。因此本文會以1920年前後廣東政府推動西南大學成立為主題,探討廣東地區之教育改革狀況及其與日後中山大學之關係。

若手研究者(南開大学歴史学院)

劉暉(河南行政学院・講師):鉄道と河南省経済の近代化:綿業を例として(铁路与河南省经济的近代转型:以植棉业为例)
20世紀の初めに、平漢鉄道、道清鉄道、そして隴海鉄道が相次いで建設され、それらが河南省における近代交通ネットワークの基幹としての、綿花生産地、地場市場、地方広域市場、そして通商口岸(開港場)といった消費市場を連結させ、河南省の経済を沿海及び国際市場の軌道へと組み込み、河南省の外部の市場空間を開拓することを促した。根本から言えば、河南省における棉業の発展についての原動力は工業化によるが、低開発地域に位置する河南省にとって、鉄道が棉業の構造変動に影響を与える最も顕著な外部的要因であった。
本文は三つの方面から、鉄道が河南省における棉業の生産構造の変遷過程に与えた影響について検討し、さらに鉄道と河南省における近代経済の構造転換との間に内在する連関性について考察する。結果、第一に、鉄道の開通は、工業化の過程において強い推進力となり、商品流通を加速させ、河南省の棉花生産構造の変化を引き起こし、地域集中化、専門化、商品化の水準を大幅に引き上げることになった。第二に、鉄道の敷設及び利潤追求の動きは、農民の使用する土地利用形態を変化させ、河南省における棉花栽培構造の変化を引き起こした。すなわち、伝統的な中国棉は、次第にアメリカ棉に取って代わられた。第三に、鉄道の敷設は、河南省における棉花の運送・販売のルートを変化させ、棉花の大規模な流通を引き起こし、それによって速やかに河南省各地の市場が結びつき、棉花市場の構造もまた、これに伴い質的な変化を遂げた。つまりは、旧来からの産地市場と消費市場だけの市場形態から、原初市場、中継(集散)市場、消費(終点)市場の三つからなる市場形態を生み出すことになったのだ。
河南省における棉業ないしは地域経済の発展過程において、鉄道は重要な伝達、連結の機能を備え、河南省と外部世界を繋げる橋渡し役となり、新しい推進力の一つと言える。河南省における棉業構造の変化が生じ、経済の近代化への転換を加速させたのであった。(蔦井亮佑)
20世纪初,平汉铁路、道清铁路和陇海铁路相继筑成,构成了近代河南交通网络的基本框架,把棉花产地、产地市场、中级市场与通商口岸、消费市场紧密联系在一起,从而把逐步河南经济纳入到沿海及国际市场的轨道,拓展了河南省的外部市场空间。从根本上来说,河南棉业发展的内在动力源自工业化,但对于地处后开发内陆地区的河南而言,铁路是影响其植棉业结构变迁的最显著的外在因子。
本文从三个方面探讨了铁路在河南植棉业结构变迁过程中的作用,由此来观照铁路与河南省近代经济转型之间的内在关联性。一、铁路的开通给工业化进程以强劲的推动力,加速了商品流通,引发了河南棉花生产格局的变迁,其区域化、专业化、商品化程度大为提升;二、铁路的修筑以及利润的驱动,改变了农民利用土地的方式,引起了河南棉花种植结构的嬗变,由以传统中棉为主逐步转向以现代美棉为主;三、铁路的敷设改变了河南棉花的运销路线,使得棉花大规模流通成为现实,从而迅速联结起河南各地市场,棉花市场结构亦随之发生了质的变化,即由原来的产地市场、消费市场两级结构,演变成为原始市场、中转(集散)市场、消费(终点)市场的三级市场结构。
在河南植棉业乃至区域经济发展的进程中,铁路具有重要的传递、链接功能,成为河南联系外部世界的桥梁与中介,可谓是新的驱动力,推动了河南省植棉业结构的转换,加速了河南省经济的近代转型。
郭海成(重慶郵電大学・教員):隴海鉄道と近代西安の都市変動(陇海铁路与近代西安城市变动)
近代中国における西安の都市としての発展は、隴海鉄道に多大な影響を受けてきたと言える。
第一に、西安は関中ひいては西北の経済的地位の大幅な向上とともに、西北経済の中心都市としての地位を確立した。隴海鉄道の開通以前において、西安は関中ひいては西北の最も重要な都市ではあったが、それは単に、政治上の地位が、経済生活の地位より高かったというだけであった。西安は、関中最大の商業の中心となっていたが、あくまで消費都市としての側面が大変強かった。西安以北では、伝統的な商業ルートに位置していた三原や涇陽は、主要な貨物の集散地の一つであり、相当程度、西安の経済的な影響力を弱めていた。隴海鉄道が西安に通じて以来、貨物の大部分は鉄道による輸送に変わり、伝統的な商業ルートは、経済生活上の役割から外れ、西安は鉄道輸送という条件により、西北地域における最も重要な貨物集散の中心地となったのである。抗日戦争が勃発すると、沿岸部の工場や企業は内陸部へ移転し、西安は鉄道輸送の利点から、大量の人員や物資を受け入れ、都市の商工業はめざましい発展を遂げることになった。
第二に、都市空間の構造に変化が生じた点があげられる。都市が従来の城壁の枠組みにとらわれずに発展していき、鉄道の駅周辺やその附近の地域が都市経済の中心地となったのである。隴海鉄道の開通以前は、西安の市街区域は城壁の中に限られており、都市経済の中心は、市街区域の西南部における南大門地区や東大街にあった。隴海鉄道の開通以後は、こうした状況に変化が生じることになった。鉄道の駅が、城外の東北部に建設されたことにより、西安の市街区域が、城壁の外へ向かって発展していくことになったのである。加えて、鉄道の駅がヒト、モノの流れを集めたことは、鉄道の駅の周辺地区が新しい工商業の中心を形成することに繋がり、西安経済の中心市街区域の西南部から東北部へと移動させることになったのである。
隴海鉄道の開通以後の、都市西安に生じた一連の変動は、近代的な交通技術が近代都市の発展に与えた影響と促進作用をはっきりと表している。この問題について分析を進めることは、更に近代中国における都市の発展の軌跡について深く理解する一助となるだろう。(蔦井亮佑)
近代西安城市发展,受陇海铁路影响至大。
一则西安在关中乃至西北的经济地位大幅提升,确立了西北经济中心城市的地位。陇海铁路通车前,西安是关中乃至西北最为重要的城市,但其在政治上的地位高于其在经济生活中的地位。西安虽为关中最大的商业中心,但消费性城市的特征非常明显。位于西安以北、处于传统商路上的三原与泾阳,作为其时主要商货集散地之一,在很大程度上削弱了西安的经济影响力。陇海铁路通达西安后,商货大部改由铁路运销,传统商路在经济生活中的作用下降,西安则因铁路交通的因素,成为西北范围内最为重要的商贸集散中心。全面抗战爆发后,东部厂企内迁,西安因有铁路交通之利,吸引大量人员物资来迁,城市工商业获得长足发展。
二则城市空间发生结构性变动,城市拓展突破城墙束缚,火车站周边及附近区域成为城市经济重心之所在。陇海铁路通车前,西安城区局限于城墙以内,城市经济重心位于城区西南隅的南院门地区及东大街。陇海铁路通车后,情况发生变化。由于火车站位于城外东北部,西安城区开始向城墙之外拓展。加以火车站对人流、物流的集聚吸附,在火车站周边地区形成新的工商业中心,西安经济重心从城区西南隅移向东北隅。
陇海铁路通车后,西安城市发生的一系列变动,清晰地表征了现代交通技术对近代城市发展的影响与促进。对此问题进行探析,有助于更加深刻地认识近代中国城市的发展轨迹。
耿科研(天津財経大学・講師):近代天津買弁階層の社会イメージと自己認識(近代天津买办阶层的社会形象与自我认知)
アヘン戦争、特に第二次アヘン戦争後、列強の勢力は急速に拡大した。外国人経営の商社があいつぎ設立され、多くの買弁が出現した。これは近代中国の貿易港都市における一つの重要な特色となった。買弁は次第に近代中国社会での光と影を合わせ持ち、勢力は盛大だが卑賤であるという特殊で矛盾に満ちた集団となった。
天津は近代中国北部のもっとも重要な貿易港都市の一つであり、そこでの買弁階層の基本的特徴は、近代中国社会において一定の代表的意義をもつ。一面で彼らは外国語を大まかに理解し、中には精通する者さえおり、外国人の仕事のやり方を熟知しているため、中国人と外国人の間で貿易の仲介となり、商業界での勢力はきわめて強大な敏腕家たちの階層となった。この階層の出身は一様ではなかったが、外国人に奉仕することで、彼らの大部分は資産を築いた。もう一面では、外国人は強大な軍事力に先導され、不平等条約を後ろ盾にして中国に乗り込んで来たため、中国人民は非常な苦しみや多大な損害を受けた。外国人の侵略という本質のため、外国人に奉仕し、外国人と取引して巨財をなした買弁階層も、またともに生まれ出てくる西洋崇拝者、民族の裏切り者、売国奴といった卑賤な存在であり、国家の危機が深刻である時、この影はいっそう顕著となったのである。
 本論文ではまず時間に沿って、近代天津買弁階層の形成と発展を整理し、天津買弁階層の地域的構成及びその基本的特徴を分析する。主にその中で非常に勢力のあった広東人グループ、寧波グループ、安徽グループと江浙系が構成する「南帮」買弁と河北、東北と地元の天津の三つの系統が構成する「北帮」買弁を分析する。第二に、先行研究を基礎とし、さらに天津地方史料を発掘して経済、政治、社会領域における天津買弁階層の活動を考察する。第三に、天津買弁階層の経済、政治、社会活動状況を結び付け、異なる歴史的段階や重大な歴史的事件の中で、天津買弁階層が現した社会イメージ、および買弁階層自身の社会的地位や社会イメージに対する自己認識を重点的に検討する。外部と内部の二つの角度から分析を行うことで、買弁という近代中国における特殊な社会階層への認識をさらに深めたい。(根岸智代)
鸦片战争,特别是第二次鸦片战争之后,列强势力迅速推进,洋行林立和买办的大量涌现成为近代中国通商口岸城市的一个重要特征,买办也逐步成为近代中国社会中一个光环与阴影并存,显赫与卑微同在的特殊而矛盾的群体。
天津作为近代中国北方最重要的通商口岸城市之一,其买办阶层的基本特征在近代中国社会中具有一定的代表性意义。一方面,他们略通甚或精通洋文,熟悉洋人的处事方式,是国人与洋人交易的中介,是商场上叱诧风云、呼风唤雨的能人阶层,尽管这个阶层出身不一,但通过为洋人服务,他们大多财力丰厚,家业显赫;另一方面,洋人的到来是以坚船利炮为先导,以不平等条约为护符,直至中国生灵涂炭,千疮百孔,由于洋人的侵略本质,为洋人服务、发洋财的买办阶层又无法摆脱其与生俱来的洋奴、汉奸、卖国贼的卑微阴影,在国难深重的时刻,这种阴影就愈加明显。
本文首先以时间为线索,梳理近代天津买办阶层的形成与发展,分析天津买办阶层的地域性构成及其基本特征,主要是其中颇具势力的广东帮、宁波帮、安徽帮和江浙系所构成的“南帮”买办和由河北、东北和天津本地三系所构成的“北帮”买办。第二,在已有研究成果的基础上,进一步挖掘天津地方史料,对天津买办阶层在经济、政治和社会领域的活动进行考察。第三,结合天津买办阶层经济、政治和社会活动的情况,重点探讨在不同的历史阶段和重大历史事件中天津买办阶层所展现的社会形象和买办阶层本身对其自身的社会地位和社会形象的自我认知,从外部和内部两个角度进行分析,以加深对买办这一近代中国特殊社会阶层的认识。
李嶼洪(南開大学・DC):建国以降農村教育の発展:河北省昌黎県侯家営を例として(建国以后中国农村现代教育的发展:以河北省昌黎县侯家营村为个案)
本文では主に河北省昌黎県候家営村を例として取り上げ、中華人民共和国成立以後の農村における現代教育の展開過程について研究を行う。候家営村に建国以後残されてきた1次資料を利用し、県誌とフィールドワークで得た調査記録とをつき合せて史料の整理を行った。その結果、本研究では、建国以後、農村の教育水準は総じて上昇したと考える。農村教育は正規教育と余暇教育の2種類に分けることができ、前者は一般教育と職業教育を含み、後者は識字の普及を主な活動形式とする文化教育および余暇技術教育を指す。候家営村は建国以前にも教育を重視する優れた伝統があり、建国後引き続き村立小学校を設立して大きな成果を収めており、学齢児童の入学率は非常に高い。同時に、村内で中学およびそれ以上の程度の教育を受けられる農民は増えており、高等教育経験者も現れている。それ以外には、農民の中には副業や農村医療従事者(はだしの医者)の育成訓練に参加する者、中等専門学校や職業技術学校で学習する者もおり、村外の社会と接触する機会を得、自身の見聞を広めるなどして、多くの方面で村落と外部との関係の橋渡し役となっている。これらは全て人民公社時期における正規教育の発展の重要な現れである。候家営村の余暇文化教育は「半耕半読」という非識字の一掃運動を主としており、この教育方式によって建国以後の非識字率は大幅に減少した。余暇技術教育は全く新しい教育形式で、新事象の一種として農村に現れ、経済発展において重要な役割を果たした。新形式の教育は人民公社時期以後、空前の発展を経験し、同時に正規・余暇利用の職業教育も農村に導入された。教育の面でのこのような進歩によって、農民が更に多くの知識や技術を獲得し、自らの生活環境を改善する有力なツールを得ることができるようになっている。人民公社時期に基礎教育と余暇教育を発展させる政策に力を入れたが、このような政策は農村の特徴と順応する状況の中で、教育権利の行使を更に公平にし、農民が更に教育を受けられるようにした。また、都市と農村の教育格差をある程度縮め、現段階の教育の発展に良好で堅実な基礎を打ち立てたのである。同時に、政府に教育推進のリーダーシップを良好に発揮させ、充分に基礎教育の重要性を重視させ、かつ正規教育と余暇教育の融合を発揮させることによって、初めて農村教育の良好な将来を創造できるのである。(和田英男)
本文主要以河北省昌黎县侯家营村为个案,对中华人民共和国成立之后农村现代教育的发展进行了研究。在利用该村建国以后遗留下来的一批原始资料的基础上,结合县志和田野调查得到的采访记录,本研究认为,总的来看,建国以后农村教育的水平是向前发展的。农村教育可以分为正规教育和业余教育两类,前者包括普通教育和职业教育,后者指以扫盲为主要表现形式的业余文化教育,以及业余技术教育。侯家营村发扬了建国以前重视教育的优良传统,继续兴办村办小学,并且取得了很好的成效,学龄儿童入学率很高。同时,村内能够接受中学及以上程度教育的社员人数增多,也出现了接受过高等教育的社员。另外,一些社员参加了副业工、赤脚医生的培训,或者到中专或职业技术学校学习,从而获得了广泛接触外部世界的机会,开阔了自身的眼界,在很多方面沟通了村落与外部世界的关系。这些都是公社时期正规教育发展的重要表现。侯家营村的业余文化教育主要以“半耕半读”的扫盲形式为主,这一教育方式使建国以后的文盲率大为下降。业余技术教育这一新的教育形式也作为一种新事物在农村出现,对于发展经济有着重要作用。新式教育在进入公社时期之后得到了空前的发展,同时,正规和业余的职业教育也进入了农村。教育方面取得的这些进步,都促使社员们获得了更多的知识和技术,掌握了更多更有力的认识世界和改造世界的工具。公社时期大力发展基础教育和业余教育的政策,在适应乡村特点的情况下,使教育权利行使得更加公平,农民有了更多的机会来接受教育,一定程度上缩小了城乡教育之间的差距,为现阶段教育的发展打下了良好而坚实的基础。同时,只有使政府良好地发挥对于教育的主导性作用,充分重视基础教育的重要性,并且发挥正规教育与业余教育的合力,才能够创造乡村教育的良好前景。
鄒燦(南開大学・MC):政治ポスターと現代中国政治の社会化過程:「大躍進」時期を例として(政治宣传画与当代中国政治社会化:以“大跃进”时期为个案)
広告芸術の一種の重要な形式として、ポスターは20世紀の1930年代から中国で特殊な宣伝作用を持ち始めた。その中で、政策、方針、措置や各種公益・公共活動の普及を目的とした政治ポスターは、新中国成立後、国家の提唱と支持の下で突出して発展し、中共および政府の政治文化を普及させる上で重要なツールとなり、中国政治の社会化過程の中で軽視できない役割を果たした。本文では「大躍進」時期の政治ポスターを例として、政治文化の角度から政治ポスターと中国政治の社会化過程との関係を分析し、中共のイデオロギーがどのように芸術創作の過程に浸透し、その中でイデオロギーの指向性がどのように表現されるのかを考察する。また、政治宣伝ポスターを代表とする政治化された芸術がどのように人々の美意識に影響し、美的感覚や価値観を変化させるのか、またそれが政治の社会化過程をどのように助長したかを分析する。
「大躍進」時期の政治ポスターは、中国の民間芸術の改良、ならびにソ連の政治ポスターの芸術的特徴の吸収を経ると同時に、「芸術を政治に奉仕する」概念の全面的浸透によって最高潮に達し、社会における政治生活の中でその地位と役割を確立するに至った。中共の重要政策、措置およびその主導による重大な政治運動は、政治ポスターという形式によって、全てこの時期に極めて誇張して表現され、中共のイデオロギーを主な内容とする政治文化は、このような、通俗的で、平易で、直観的に視覚に訴える形式で人々の思想に浸透していった。これと同時に、人々の美的感覚および価値観は、ポスターの中で形作られたデザインや表現形式によって強烈に誘導され、徐々に階級化、絶対化、単一化された。「工(労働者)農(農民)軍(軍人)」を創作主体とし、革命至上の現実主義とロマン主義を結合させて創作理論とする政治ポスター創作モデルは、「大躍進」の時期にも基本的に一つの型にはめられ、大衆運動の方式によって政治社会化過程の中で成功裏に運用された。これは後の「文革」の中で形成される、鮮明な特徴を持つ政治ポスターに決定的に影響していた。
中共の過度の利用によって、政治ポスターは完全に政治社会化の道具となり果て、次第に芸術としての性格や価値を失っていった。政治社会化の過程も、中共の過激な推進の下でいびつなものとなり、人々の思考方式や行動方式は高圧的な政治的空気の中で極端に走り、日常の社会生活も政治に全面的に侵食される結果となった。(和田英男)
作为招贴艺术的一种重要形式,宣传画从20世纪30年代开始在中国就起到特殊的宣传作用。其中,以传播政策、方针、措施和各种公益、公共活动为目的的政治宣传画,在新中国成立后受到国家的倡导与支持,发展极为突出,是中共及其政府传播政治文化的重要工具,在当代中国政治社会化进程中起到不可忽视的作用。本文以“大跃进”时期的政治宣传画为个案,从政治文化角度分析其与当代中国政治社会化的关系,考察中共意识形态如何进入艺术创作及其如何在艺术创作中表现。并进一步解析以政治宣传画为代表的被政治化的艺术如何影响人们的审美意识、改变审美观及价值观,从而达到政治社会化的效果。
“大跃进”时期的政治宣传画,在经过对中国民族民间艺术的改造并吸收苏联宣传画的艺术特征,同时被“艺术为政治服务”的观念全面渗透后,达到发展高潮,确立了其在社会政治生活中的地位和作用。中共的重要政策、措施及其领导的重大政治运动都通过政治宣传画的形式在这一时期得到极为夸张的表达,以中共意识形态为主要内容的政治文化借助这一通俗、简易、直观的视觉形式深刻渗入人们的思想。与此同时,人们的审美观及价值观受到宣传画中造型设计及表达形式的强烈引导,逐渐阶级化、绝对化、单一化。以工农军为创作主体、革命现实主义与浪漫主义结合为创作理论的政治宣传画创作模式,也在“大跃进”时期基本定型,并通过群众运动的方式在政治社会化过程中得到成功运用,这对此后“文革”中形成的具有鲜明特征的大批政治宣传画有决定性影响。
由于中共的过度利用,政治宣传画完全沦为政治社会化的工具,从而逐渐丧失艺术特征和价值;政治社会化进程也在中共的过激推动下走向畸形,使人们的思维方式、行为方式在高压的政治氛围中走向极端,日常社会生活也遭到政治的全面侵蚀。
李軍全(天津師範大学・MC):グラスルーツ文化の政治化:華北抗日根拠地における春節の文芸娯楽(1937-1949)(草根文化的政治化:华北抗日根据地内的春节文娱(1937-1949))
華北地区の春節に欠かせないものと言えば、多種多様にくり広げられる娯楽活動である。秧歌(田植え踊り)、高蹺(高足踊り)、戯曲(伝統演劇)などの娯楽は広大な華北大地で1100年の長きにわたり伝承され民衆の幸福祈願、厄払い、団欒、歓楽などへの願望を代々担ってきた。これらの娯楽活動は、内容から形式まで全て濃厚なグラスルーツの色彩や郷土の息吹に富み、一般庶民の美意識レベルや心理的需要に合致していた。それ故に広範囲に及ぶ民衆の参加意欲を獲得したのであった。
 抗日戦争勃発後、春節の文芸娯楽は、政治の「宣伝教育の道具」として中国共産党が指導する春節文芸活動の基本方針となった。この方針による指導の下、中国共産党は濃厚なグラスルーツ文化の息吹をもつ春節の文芸娯楽を改造し、共産党の政治理念を注入し、民間の娯楽を政治情勢に従わせ、「中心となる仕事」に奉仕させた。改造後の春節の娯楽は、濃厚な政治的色彩を持ち、中国共産党のイデオロギーを体現していた。実際の効果を出すため中国共産党は、群衆運動の形式で改造後の文芸娯楽を普及させ、「誰でも上演、どこでも舞台」の新文芸運動を提唱した。群衆運動による普及形式の効果がはっきりと現れ、多くの革命的息吹に富んだ文芸娯楽作品が現れただけではなく、民衆が自分の経歴を直接舞台で上演する傾向が現れた。文芸娯楽の芸術性は低下し、現実的な部分が増していった。とりわけ国共内戦時期には、舞台はもはや娯楽の場所ではなく、革命闘争の陣地であった。役者はもはや文芸に従事する者ではなく、革命に従事する戦士であった。民衆もまた普通の観客ではなく、政治細胞が活性化された革命の支持者であり、擁護者であり参加者であった。旧暦の新年という重要な風俗の祝祭日にも、娯楽的部分は次第に革命的需要に取って代わられ、舞台上や舞台下には闘争的雰囲気が満ちあふれ、民衆はこのような政治性・革命的な作品に励まされ、感化された。もともとは団欒や喜び事である春節が、濃厚な革命的息吹に包まれてしまった。にぎやかで楽しい娯楽機能を有していたグラスルーツの文芸娯楽は、分厚い政治的色彩に被われ、また中国共産党の政治言説が、何らかの程度、郷土の文化空間を占有したとも言える。しかし実際、中国共産党は華北の農村に政治言説を構築する過程にあって、農村の旧伝統文化や習俗を捨てたり、攻撃したりはしなかった。グラスルーツ文化の昔からの形態を借用したり利用したりした。内容から形式まで改造することによって、グラスルーツ文化と政治テーマとが高度に一致し、それによって中国共産党の政治言説と華北の農村地域文化形態との結合と融合が達成されたのである。(根岸智代)
开展丰富多彩的娱乐活动,是华北地区春节必不可少的元素。秧歌、高跷、戏曲等娱乐形式在广袤的华北大地传承了千百年之久,承载着代代民众祈福、驱祸、团聚、快乐等愿望。这些娱乐活动从内容到形式都富于浓厚的草根色彩和乡土气息,符合普通百姓的审美层次和心理需求,因而获得了民众广泛的参与热情。
抗日战争爆发后,春节娱乐是政治“宣教工具”成为中共指导春节文娱的根本方针。在此方针指导下,中共对具有浓郁草根文化气息的春节文娱进行改造,把其政治理念渗入其中,使民间娱乐服从于政治形势,服务于“中心工作”。改造后的春节娱乐具有浓厚的政治色彩,集中体现了中共的意识形态,为取得实际效果,中共以群众运动的形式推广改造后的文娱,提倡“人人可演戏、处处是舞台”的新文艺运动。群众运动的推广形式成效颇为明显,不仅出现了一大批富有革命气息的文娱作品,还出现了民众把自己的经历直接搬上舞台的趋势,文娱的艺术含量降低,现实成分增加。尤其在国共内战时期,舞台不再是娱乐的场所,而是革命斗争的阵地;演员不再是文艺工作者,而是从事革命的战士;观众亦不再是普通的看客,而是政治细胞被激活的革命支持者、拥护者和参加者。在旧历新年这个重要的民俗节日里,娱乐的成份逐渐被革命的需求所取代,舞台上下充斥着斗争气息,民众被这些政治性、革命性的作品所激励和感染,原本团圆、喜庆的春节被浓郁的革命气息笼罩,以热闹、乐呵、娱乐为主要功能的草根文娱被涂上厚厚的政治色彩,也可以说中共的政治话语某种程度上侵占了乡土文化的空间。但是,中共在华北乡村建构政治话语的具体途径不是抛弃或打击乡村旧有的传统文化和习俗,而是借助或利用乡村草根文化的旧有形态,通过从内容到形式的改造来实现草根文化与政治主题的高度契合,从而达到中共政治话语与华北乡村地域文化形态的对接交融。
張楓(広島大学・研究員):戦前期済南地方紡績企業の成立と展開:魯豊・成通・仁豊紡績を中心に(近代济南的地区工业化与地方企业家:以纺织工业为例)
本報告は、戦前において内陸部地方都市山東省済南に設立された魯豊・成通・仁豊3紡績企業に対する考察を通じて地域工業化に果たす地方企業家の役割を明らかにすることを課題とする。本報告では、資料的制約を克服すべく、『紡織周刊』や『紡織時報』、『紡織世界』、『染織紡週刊』など戦前中国紡織業界誌のほかに、済南日本商工会議所による調査資料や戦後刊行の文史資料をも駆使して考察を進めたい。
本報告で明らかにしえたことは、以下の3点である。1つに、戦前期において重要な工業都市として成長し、また棉花の集積地であると同時に綿製品の販売市場でもある地域に立地していたことが、済南地域魯豊・成通・仁豊の3紡績企業の成立・展開にとって重要な条件となった点である。2つに、済南地域3紡績企業は異なる経路で経営展開していたものの、それぞれ生産合理化を進めていたことである。これまで久保氏により指摘された沿海地域の上海新裕紡の再建過程において進められた生産合理化の実態を念頭に置く場合、内陸地域の済南地方紡績企業の展開には沿海地域の特徴をも持ち合わせていたことが明らかである。3つに、紡績企業の資金調達と経営再建において地方資本が果たした役割という点である。3紡績企業のうち、成通紡績については、とりわけ資本金調達段階においては多くの困難に直面しながらも、その資金力が苗氏資本集団に支えられて比較的潤沢であったといえる。苗氏資本集団の役割は成通紡績にとってただ単に資金調達にとどまらず、集団内企業で蓄積されてきた人的ネットワークをフルに活用できる点にも大きなメリットがあった。さらに魯豊紡績の再建においても集団のトップに君臨する苗杏村は合理的判断に基づき積極的に関与することで、強いリーダシップを発揮したのである。これまでの内陸部紡績企業研究で明らかにされた、①山西省楡次晋華紡績の資金調達における銀行への、②陝西省大華紡績の創立過程にける武漢裕華の資金面・技術面の支援への、③さらに山西省楡次晋華紡績と河南・河北省省諸紡績企業の企業再建における銀行への、それぞれ強い依存を考えると、済南地域における苗氏資本集団の役割が苗氏資本集団内部の企業発展にとどまらず、地域工業化の自立的展開を支えていたといえる。そういう意味では、本稿における内陸部済南地方紡績企業の分析には、内発的発展を考えるうえでの重要なヒントが含まれていると思われる。
本报告通过对战前内陆都市山东省济南市的鲁丰・成通・仁丰3家纺织厂考察,揭示在地区工业化过程中地方企业家所起到的作用。本报告力求克服资料的局限性,在『纺织周刊』や『纺织时报』、『防止世界』、『染纺织周刊』等战前中国纺织杂志之外,同时参考使用济南日本商工会议所的调查资料以及战后刊行的其他文史资料。本报告阐明了下列3点。第1,济南作为战前重要的工业城市成长发展,同时既是棉花集聚地也是棉制品的销售市场,这是济南地区鲁丰・成通・仁丰3家纺织厂成立和发展的重要条件。第2,济南地区3家纺织厂在展开了不同的经营路线的同时,分别采取了不同的生产合理化方法。久保氏曾指出过有关沿海地区的上海新裕纺在重建过程中的生产合理化情况,内陆地区的济南地方纺织企业在发展过程中的生产合理化措施与沿海地区有共通的特征。第3是关于纺织企业的资金筹措和经营重建过程中地方资本所起到的作用。3家纺织企业之中,特别是成通纺织在筹措资金时虽然遇到一些困难,但得到苗氏资本集团的资金支持相对来讲资金比较充裕。对于成通纺织来讲,苗氏资本集团的作用不只是筹措资金,集团内部企业所蓄积的人际关系网络得以利用也是一个有利之处。并且在鲁丰纺织的重建过程中,集团首脑苗杏村合理判断积极参与,发挥了其强有力的领导能力。与关于内陆纺织企业的研究中所揭示的①山西省榆次晋华纺织在筹措资金过程中对于银行的依存②陕西省大华纺织设立过程中在资金和技术上对武汉裕华支援的依存 ③山西省榆次晋华纺织与河南・河北省各纺织企业的企业重建过程中对于银行的依存等相比较,济南地区苗氏资本集团的作用不止局限于苗氏资本集团内部的企业发展,可以说同时也支持了地区工业化的自立和发展。从这个意义上说,本报告对于内陆济南地方纺织业的分析之中,包含了有益于探讨内生型发展的启发性的因素。

若手研究者(大阪大学中国文化フォーラム)

小都晶子(国際日本文化研究センター・機関研究員):「満洲国」の「土地改良事業」:「錦州省」盤山県を事例として(“满洲国”的“土地改良事业”:以“锦州省”盘山县为例)
本稿の目的は,近現代中国東北地域で行われた農地「開発」を,盤山県を事例として通時的に分析し,その連続性を明らかにすることである。
中国東北地域は,1932~45年の14年間にわたって,日本による「満洲国」統治の下にあった。そのためこの14年間はそれ以前の時期,それ以後の時期とは切り離して検討されることが多く,農業についてはとくにその傾向が強い。近年になって,「満洲国」期以前の時期とは通時的に検討されるようになってきたが,「満洲国」期以後,すなわち新中国との連続性についてはいまだ十分に検討されているとはいえない。
対象とする盤山県は,中国東北地域の最南部,遼東半島のつけねに位置する。「満洲国」期には「錦州省」に属した。「南満」に位置していたが,渤海に面していたため,地中の塩分濃度が高く,「満洲国」期以前,県内の海岸地帯では農業不適地として開発が進んでいなかった。
「満洲国」期,同県ではまず朝鮮人移民のための集団農場の建設が,ついで日本人移民の入植地建設のための大規模な「土地改良事業」が実施された。「満洲国」内でも集中的に農地「開発」が実施された地域のひとつである。この過程で課題となったのが,農業には適さないアルカリ土壌の克復であった。
アルカリ地「改良」による農地「開発」はこの地域の農業形態,景観を大きく変容させた。この盤山県における「満洲国」期の農地「開発」は,それ以前の時期の方法を取り入れたものであり,後の中華人民共和国にも継承された。その過程では遼河からの揚水,土壌の除塩,灌漑という基本的な方法は維持されつつも,さらに後になればなるほど近代的な技術や資金が投入され,国家プロジェクトとして拡大していった。
しかし,こうした「満洲国」期の農地「開発」に「開発」の側面のみをみることには,慎重にならなければならない。この事業の背景には,「治安」問題の解決や日本人・朝鮮人移民の確実な定着,食糧増産など日本植民地帝国の側の要請があった。
本稿では,1)民国期までの水田「開発」,2)「満洲国」初期の朝鮮人農場の建設,3)1940年代の「土地改良事業」の実施と日本人開拓団の入植,4)戦後の水田開発を,それぞれ地図を用いて時系列的に分析する。これによって,近現代中国東北地域の農業開発史において,「満洲国」期の農地「開発」の位置づけを明らかにする。
这篇文章的目的在于通过盘山县的事例分析现当代在中国东北地区开展的耕地开发,并明确其历史上的连续性。
1932年至45年的14年间,中国东北地区处于由日本支配的「满洲国」的统治之下。因此,将这14年与之前之后的时期分开研究的情况比较多,特别是在农业的研究方面其倾向尤其显著。近年来,将「满洲国」时期与以前进行比较的研究多起来了,但是关于「满洲国」时期与之后即与新中国之间的连续性这一点并不能说研究的十分透彻。
作为研究对象的盘山县位于中国东北地区的最南部,辽东半岛的脚跟。在「满洲国」时期隶属「锦州省」。虽然位于「南满」,但是濒临渤海,土地中的盐分很高,在「满洲国」时期以前县内的沿海地区属于不适宜农业耕地而未得到开发。
「满洲国」时期,在同县内首先进行了朝鲜移民的集体农场的建设,随后为日本移民的迁入地实施了大规模的「土地改良事业」。这也是在「满洲国」内集中实施耕地开发的地域之一。克服不适宜农耕的碱性土壤成为了这个过程中的课题。
由盐碱地改良后的耕地开发使这个地区的农业形态景观有了很大的改观。「满洲国」时期的盘山县耕地开发采纳了此前的方法,之后又被中华人民共和国所继承。在这个过程中维持了从辽河扬水,土壤除盐,灌溉的基本方法,并且越到后期越加大了现代化技术和资金的投入,扩大成为国家工程。
但是,不得不慎重的是这只是从「开发」这一侧面所观察的满洲国时期的耕地开发。这个事业的背后存在着治安问题的解决,日本朝鲜移民的定居,粮食增产等日本殖民地帝国的要求。
在这篇文章中利用地图按时间的顺序逐个分析①到民国时期为止的水田开发②满洲国初期的朝鲜人农场的建设③1940年代的「土地改良事业」的实施和日本人开拓团的迁入④战后的水田开发。由此可以在现当代中国东北地区的农业开发史上,明确地定位「满洲国」时期的耕地开发。(単暁文)
金晶(大阪大学・DC):試論:作家章克標の創作観(试论作家章克标的创作观)
「海派文学」を議論するに際して、章克標はつねに「唯美頽廃派文人」の肩書きを冠せられていたといえよう。しかし、「唯美頽廃」だけで、彼の文学を語り切れるのだろうか。まず、経歴から見れば、章氏は獅吼社のメンバー、高校教師、大学教授、作家、編集者、汪精衛南京政府宣伝部要員として、文壇や教育界や政界ともに十分に活躍していた。それだけではなく、自らの文学創作において、時期的には、初期自叙伝作品に表れているように社会に対する楽観主義的な面もあれば、現実から逃避し、芸術の象牙の塔に閉じこもって自己陶酔に陥っていた時期もあった。さらに、鋭い筆鋒で民衆の苦しみと目まぐるしい時代情勢を浮き彫りにした雑文も少なからずあるといったさまざまな側面を呈していた。
本稿の目的は、章克標の代表作品を時期別に追うことによって、同時代の作風の類似している作家たちと比較しながら、彼の創作観の変遷を追うことにある。
本稿の考察によって、以下のことが明らかになる。1、初期作品『結婚当夜』(原題は《結婚的当夜》)と郁達夫の『沈淪』(原題は同じく《沈淪》)とを比較することによって、章克標の初期自叙伝的作品は頽廃的な作風ではなく、むしろ楽観的で、社会を改良しようとする志が明らかになる。2、第二節は主に章の最盛期の作風を、日本耽美派の大家である谷崎潤一郎と比較することによって、谷崎作品の主要な翻訳者である章克標における谷崎受容の一側面が明らかにするとともに、民国期における耽美主義衰退の内因を考察する。3、章克標が新感覚派手法を放棄した理由について、穆時英、劉呐鴎と比較することで、雑文へと転向するに至る彼の新しい文学観の形成が見て取れる。
要するに、章克標は純粋な耽美主義者ではなく、彼の作品からは、それ以外の要素を多く指摘することができる。一つの文学流派で彼を定義づけするのは、容易ではない。そして、民国期における日本耽美主義の受容状況、また、淪陥期における汪精衛南京政府の行った言論弾圧とマスコミ統制を研究する際、章克標は見過ごすことができない人物である。
在海派文学研究已成为一门显学的今日,章克标―这位曾被历史湮没的作家又重新被纳入学者们的视野。然而与此同时,对于有些研究者对其定义的“唯美―颓废主义者” 这一称号,笔者认为难免有些头大帽小。首先从个人经历上看,他身兼作家、翻译家、编辑、教授、汪伪政府宣传部要员诸职,于文坛教育界政界均游刃有余,其能力可见一斑。不仅如此,当我们把焦点聚集在他的文学作品上之时,从早期自叙传作品中略显稚嫩的反抗,到遁入艺术象牙塔时沉迷于小自我世界中的孤芳自赏,再到之后的“万人共通的大自我活跃”的毅然觉悟,他的作品绝非“唯美颓废”四字可以言尽。
本文首先将其初期作品《结婚的当夜》与郁达夫《沉沦》的母题进行对比,通过比较,值得深思的是他的这些初期自叙传作品能否称之为颓废?第二节主要对其创作鼎盛期的作品风格进行了相关探讨,作为日本唯美大家谷崎润一郎在民国时期的最主要译者和推崇者,他究竟受到何种影响,写出了什么样的作品,同时这种影响与其加入的唯美主义社团“狮吼社”的衰亡又有何种关联?在最后一节中,笔者首先以章对新感觉派手法的摒弃为引,通过与穆时英、刘呐鸥的相互观照,来探求其偏好杂文文体的背后,究竟隐藏着什么样的文学观之变化。
总之,在研究日本唯美主义在民国时期的影响以及沦陷期汪伪政府文化干预和舆论导向等众多论题之时,章克标绝对是一个不容忽略的人物。
黄蘊(関西大学・研究員):マレーシアにおける華人民間教派の現在:いくつかの展開方向(马来西亚华人民间教派的发展:试论几个不同之路向)
20世紀前半の中国社会において、多くの民間宗教結社ないし民間教派が勃興し、それらの多くは「無生父母」信仰を中核とする千年王国的な救済観をもち、また自己の修養と他者への救済とを結びつけた社会運動を展開していた。こうした教派はいわゆる明清時代を通して培われてきた民間宗教のイデオロギーを継承しつつ、新たな時代の要請に見合った展開をみせていた。
一方、1949年の社会主義政権の誕生後、多くの民間教派は香港や台湾、東南アジアの華人社会へと流れ、それらの地で新たな展開を遂げることとなる。今日、マレーシアなど東南アジアの華人社会では、多くの民間教派は綿々とその脈を保ち、宗教の世界において「伝統中国」の世界観を部分的に維持、継承している。しかし、移民社会という社会環境にあって、現地化が必然的な方向となると同時に、民間教派の伝承、発展においては、様々な問題も伴っている。本系との断絶による師承、修行制度の破綻、人材の断層がそのうちの大きな問題点となっている。
21世紀の現在において、東南アジアの華人社会ではこれらの民間教派はどのような展開を遂げているのか、その存在と活動にどのような意義があり、そこからどのような社会的現実が読み取れるのだろうか。本論は、マレーシアの華人民間教派の展開について、紅卍字会、真空教、一貫道、または徳教、宗教慈善結社である「南洋同奉善堂」を取り上げ、それぞれの展開路線と活動に関する考察を行いたい。
本論で挙げる民間教派ないし民間宗教結社は、およそ三つのタイプに分けることができ、すなわち伝統型、近代型と教化体制不完全もしくは欠如の地域密着型である。道院紅卍字会と真空教は、旧来型の民間教派の展開路線を踏襲し伝統型とみなされる。それらに対し、一貫道は大胆な改革を行い新しい教団路線を切り開いたことで近代型といえる。最後に徳教と「南洋同奉善堂」は完全なる宗教団体足らず、地域社会のニーズに密着する展開方針をもつタイプとなっている。こうした三つの展開方向は、華人民間教派をめぐる複数の社会的現実を物語るものといえる。本論は、華人大衆の伝統的価値観、現実的需要への希求とローカル社会の様々な要素との間の相互交渉の観点から関連の考察を行いたい。
在20世纪前半期的中国社会,各种民间教派此起彼伏地兴起,呈现出一种蔚为壮观的景象。这些民间教派大多以无生父母信仰为中心,持一种千年王国式的救赎观,另外它们也结合个人的修行与慈善救济于一体,开展了相应的社会活动。这些教派可以说是在承继了明清以来民间宗教之意识形态的同时,配合新时代的需求也进行了相应的变革。
自1949年在中国大陆诞生新政权后,多数的民间教派遂将其据点转入港、台,乃至东南亚的华人社会,其后更开始了在彼地新的发展。今日在马来西亚等东南亚地区的华人社会,许多源自近代中国的民间教派绵延不绝地保留了其道脉传承,在宗教这一领域内部分性的保存了属于传统中国的世界观。但在移民社会这一社会环境下,如何在地性地发展成为了必然的方向,同时,有关如何传承、发展各自的道脉也产生了各种问题。与教派母体关系之切断所引发的传承乃至修行体系的崩溃、人材的断层是其中大的问题点。
在21世纪之今日,流传于东南亚华人社会的民间教派有如何之发展,它们的存在及其活动有何种意义,从中我们又可以看到何种社会现实呢?本文将针对马来西亚的数个华人民间教派抑或民间宗教团体,即红万字会、真空教、一贯道、德教及南洋同奉善堂进行相关考察,旨在厘清它们的发展路线及活动方针。
本文所列举之华人民间教派抑或民间宗教团体可以分为三种类型进行考察,即传统型、现代型、宣教体制不完善或欠缺的在地发展型。道院红万字会和真空教因因袭传统民间教派的发展路向可被视为传统型。与之相对,一贯道因进行大胆的改革而开辟出新的发展方向属于现代型。最后,德教和南洋同奉善堂属于体制不完善的宗教团体,它们可被归类为以地区需求为导向的在地发展型。这三种不同的发展路向其实正代表了华人民间教派赖以生存的社会环境的不同层面。本文将从华人对传统价值观之企求、现实利益需求、当地社会环境之要素这三者间的交涉碰撞的角度进行相关的探讨。
坂井田夕起子(大阪教育大学・講師):中国人俘虜殉難者遺骨送還運動と仏教者たち:1950年代の日中仏教交流をめぐって(中国人俘虏殉难者遗骨送还运动与仏教者:1950年代日中佛教交流的开端)
満州事変から第二次世界大戦終結に至るまでの日本仏教界はごく一部の反戦僧侶を除き、様々な形で中国侵略に協力した。戦争が終り、GHQによる戦争責任追及を免れると、日本仏教界は再び戦前からの人脈による日華「仏教親善」を模索しはじめるが、1949年の中華人民共和国の成立により、かつての人脈は途絶え、かわって中国との関係改善を目指す動きが、中国側のいわゆる「人民外交」を契機として始まる。その象徴的な活動が中国人俘虜殉難者遺骨送還運動である。この運動において先駆的な役割を担ったのは、かつての戦争に対する贖罪の意識を持つ僧侶や中華人民共和国に親近感を持ち、独立直後の日本社会・日本仏教界の現状に批判的な考えを持つ僧侶らであった。彼らは、「宗教的活動」「人道的活動」のスローガンを前面に掲げ、遺骨送還を自由党から共産党・各種団体までが幅広く参加する運動に発展させた。冷戦下の民間交流において、日中仏教徒の交流はシンボル的な存在となっていったのである。
一方、中国側は遺骨送還運動の日中両国の「人民」に対する教育的意義を認め、また対外的な宣伝素材としても高く評価し、日本からの数次にわたる遺骨捧持団を歓迎した。ただし、日本の仏教者を迎えるにあたっては、当初かなり警戒していた。そこで、中国政府は訪中団の経歴や発言を詳しく記録し、日本からやってくる仏教者らは多様であり、共産主義に批判的な者もいるが、日本仏教の源流としての中国仏教に高い関心を持つ点では共通していること、中国仏教に対して「悪影響」がないことを理解した。そして、その後、遺骨送還以外の訪中団についても「人民外交」の一環として広く受入れるようになっていったのである。
1950年代の日本と中国の仏教交流が他国に比べて突出しているのは、日本側と中国側のこのような事情によるのである。
从九一八到第二次世界大战结束,日本仏教界除了一部分反戦僧侶以外,大部分僧侣采用各种形式与日本政府的中国侵略政策合作。战败后,日本佛教界避免了连合军追究的战争责任。此后,利用战前的人脉关系开始摸索“日华佛教亲善”。但是,因为1949年的中华人民共和国建立, 日本佛教界已有的与中国的关系断绝了。取而代之,从“与中国改善关系的活动,通过中方的“人民外交”之契机而展开。其中的象征性的活动是中国人俘虜殉難者遗骨送还运动。在这个运动中起前驱作用的,是那些对以前的战争有赎罪的意识、对中华人民共和国感觉亲近的、或对战后的日本社会和日本佛教界的情况持批评态度的僧侣。他们提出“宗教活动”“人道活动”的口号,把遗骨送还运动发展成从自由党到共产党、各种劳动团体广泛参加的运动。在冷战下的民间交流中,日中佛教徒的交流起到了象征性的作用。即,如果没有佛教徒的参加的话,那么广泛的团体无法团结起来。
另一方面,中国政府认为遗骨送还运动具有对于日中两国人民的教育意义,并认为这个运动的对外宣传效果很好。因此中国政府多次欢迎日本遗骨送还团。可是,当初中国政府接待日本佛教者的时候很警戒。所以,中国政府通过调查访中团团员的经历和纪录他们在中国的发言,理解了日本佛教者的多样性。虽然也有反对共产主义的。但是大家都感兴趣的是日本佛教源流的中国佛教,而对中国政治并不关心。所以从那以后中国政府也接受遗骨送还团以外的佛教徒的访问。
一九五○年代的中日佛教交流与他相比突出之处是:日中佛教徒的努力以及中方的“人民外交”政策。
櫻田涼子(筑波大学・DC):場所をつくる、「家」を生きる:マレーシア華人の低価格団地の事例から(构筑理想空间,尽享自我生活:以马来西亚华人所居低价住宅为例)
マレーシアでは、特にイギリスによる植民地統治によりもたらされた民族間格差や地域間格差の是正を目的とし、1970年代以降の住宅政策は、開発政策と密接に結びつきながら、国民に対し最低限の生活の質を確保するための住宅供給と、生活水準の向上が目指された。農村開発から、都市開発へ移行するマレーシアが求めたのは、都市部に集中し膨れ上がる人口を収容する大規模な住宅団地(タマン)を郊外などに建設することであった。
このような経緯からマレーシアの多くの場所で次々と計画・造成された住宅団地は、低価格住宅、中価格住宅、高価格住宅という複数のコスト階層から構成されるよう行政指導されている。ここで問題とする低価格住宅とは、販売価格は低く抑えられ、住宅内部の空間構成や取得条件などが厳密に定められた、<近代住宅>の典型である。
本報告では、1980年代にマレー半島南部の州、ジョホールのある町に造成されたある住宅団地をフィールドとし、そこに居住する華人家族の場所づくりの実践を、民族誌的記述から明らかにするものである。
多民族国家マレーシアにおいて、政府主導で導入される住宅が民族性を欠き、主流派ではない華人にとって、決して住みやすいものではないことは想像に難くないだろうが、実際に購入時の住宅は、無味乾燥のコンクリートの箱のような空間である。このような環境を、マレーシア華人はどのように愛着の湧く自分たちの場所に作り変えていくのだろうか。
本報告の主眼は、日々の営為によって、どのように近代的集合住宅という所与の環境が自分たちの場所―家―に作り変えられていくのか、つまり人と住居の相互作用の過程を、空間に埋め込まれた意図を超える使用方法を実践することにより乗り越えていく事例から明らかにしたい。
为了缩小由英国殖民统治而导致的民族差距与地域差距,马来西亚1970年代后实施的住宅政策与开发政策紧密相连,旨在保障供给国民以最低生活标准的住宅和提高生活水平。由农村开发转向都市开发的马来西亚需要在郊外建设能够承受大规模膨胀的都市人口的大型住宅区(taman塔曼)。
因此,马来西亚的各地预计或已建成的住宅区,在国家指示下,按照其造价成本被分为低价住宅、一般住宅、高价住宅等。本文中欲探讨的所谓低价住宅,其出售价格被压低,住宅内部的空间结构以及取得条件等被严密规定,是“现代住宅”的典型。
本报告欲以1980年代马来半岛南部的柔佛州(johor)某镇的住宅区为中心,按照民族学记载方法,就居于此地的华人家庭对其居住空间的改建实践进行考察。
在多民族国家马拉西亚,由政府参与而建成的住宅由于缺乏民族性,对于非主流派的华人们而言,不难想象这些住宅绝非是他们的易居之所。实际上,刚买到手的住宅就像一个个混凝土搭建的小盒子一样千篇一律、毫无生趣。那么,马来西亚的华人们又是怎样将此变成令人留恋,匠心独具的地方呢。
本报告的主旨就在于探讨人们的日常行为是如何将自己身处的现代集体住宅这一环境改变
为属于自己的地方――家。也可换言之:通过改变原本赋予给该建筑空间的用途,来突破人与住宅相互制约的这一过程。本报告也欲通过以上事例来阐明其实践方法。(金晶译)
島田美和(日本学術振興会・特別研究員):顧頡剛の「疆域」概念(顾颉刚的“疆域”概念)
本報告では,1930,40年代における漢族知識人の,中国の「民族」と「疆域」概念の形成過程と,辺疆への関心及びその実践について検討を加えることを目的とする。そのため、顧頡剛の「民族」や「疆域」概念の形成及びその辺疆研究を考察し、以下の知見が得られた。
先ず、日中戦争前期,中国東北部をめぐる日本と中国の学術上の衝突は,近現代東アジアにおけるナショナリズムを背景として,矢野仁一と,傅斯年や顧頡剛との言説の間に顕著に現れた。顧頡剛ら禹貢派知識人は,新しい統合原理の創出のために,孫文により提唱された「五族共和」にみられる種族主義的民族論を否定し,「抗日」という感情によって一体化された新しい民族概念を提唱した。なぜなら,従来の種族主義的民族論は,少数民族の純潔性を担保し,内モンゴル自治運動にみられる独立運動へと発展する可能性を孕んでいたからである。また,『禹貢』では,この新しい民族概念を,内モンゴル地域へ適用することによって,非漢族地域を,中国の「疆域」内に包摂することを試みた。そして,その理論は,日中戦争期に至り中国全土に適用された。
日中戦争初期,顧頡剛は,戦前におけるこうした「民族」観と「疆域」観をより一層発展させた。中国の「疆域」設定に関しては,漢族の文化概念である「華」の地域を,非漢族地域にまで引き伸ばし,中国の「疆域」とされるすべての地域を、漢族を中心とする地域として再設定した。そのため,中国の「民族」観に関しても,その「疆域」内部の構成メンバーたる漢族と非漢族との差異が取り去られた,ひとつに融合した「中華民族」という概念が創出された。それは,個々の民族の独自性よりも中国国内の民族がひとつに融合することを奨励(実質的には漢族化)する作業であり,その延長線上に,中国の領域内における「華」の地域の拡大が求められた。その観点において,顧頡剛にとって最も重要な活動は,辺疆地域の「開発」すなわち辺疆工作であった。
顧頡剛の国家統合理論において,中国の「彊域」と「民族」の定義は表裏一体をなしていた。顧頡剛のこうした作業は,日中戦争期における強烈なナショナリズムを背景として,単一的な国民作りを目指し,極めて近代西洋主義的な国家形成を目指した知識人の試みでもあった。その作業は,日中戦争中期に至り,国民政府,地方政府,知識人による中国辺疆学会の辺疆研究に受け継がれた。顧頡剛の「疆域」概念と民族論は,国民政府や地方政府の非漢族への民族政策と合致し,政府の民族政策に学術的正統性を与えた。ここに、日中戦争期中国の政治と学術の接点がみられる。
本报告旨在探讨1930、40年代汉族知识分子对中国的“民族”及“疆域”概念的形成过程,以及他们对边疆的关心所在及其实践活动。在此基础上,对顾颉刚的“民族”及“疆域”概念的形成及其对边疆的研究进行了考察,可得出如下内容。 首先,在中日战争爆发之前,以近现代东亚的民族主义为背景,围绕中国东北地区,日本及中国在学术方面上的冲突显著地出现在矢野仁一和傅斯年、顾颉刚的言论之间。以顾颉刚为代表的禹贡派知识分子为开创新统合理论,对孙中山提倡的“五族共和”思想中蕴含的民族主义民族论予以否定,倡导由“抗日”感情而引发的一体性新民族概念。这是因为,以往的种族主义民族论在确保了少数民族纯洁性的同时,也孕育着在内蒙古自治运动中可见的向独立运动发展的可能性。另外,在《禹贡》中,他通过将新民族概念适用于内蒙古地区此举,试图把非汉族区域也摄入中国“疆域”之中。并且,该项理论在中日战争期间被推广至整个中国。
中日战争初始,顾颉刚进一步发展了上述的民族观和疆域观。在中国的“疆域”设定方面,他把汉族文化概念上的“华”地区,扩展至非汉族地区,将被视为中国“疆域”的所有地区,重新设定为以汉族为中心的地区。由此也导致他的中国“民族”观舍弃了汉族与非汉族这些“疆域”内部构成成员的差异性,从而创造出一种融合的“中华民族”概念。此举与其说是尊重各民族的独特性,不如说是鼓励中国国内的所有民族融为一体(实际上是汉族化)。而在此延长线上,中国领域内“华”的区域的扩大也势不可挡。就此点而言,顾颉刚最重要的活动是边疆地区的“开发”工作,即边疆工作。
在顾颉刚的国家统合理论中,中国的“疆域”与“民族”的定义是互为表里的。顾颉刚此举,是知识分子在中日战争时期浓厚的民族主义背景下,旨在实现国民单一化以及构建高度现代化的西式国家的一种尝试。直到中日战争中期,国民政府、地方政府及知识分子为代表的中国边疆学会在从事边疆研究时仍沿用此理论。顾颉刚的“疆域”概念及民族论,与国民政府及地方政府对非汉族地区施行的民族政策步调一致,对政府的民族政策赋予了学术上的正统性。此点上,可看出中日战争时期中国的政治与学术上的交汇点。(金晶 译)
田中剛(神戸大学・学術推進研究員):「蒙疆政権」の羊毛統制をめぐる日英対立(論蒙疆政權時期日英圍繞羊毛交易控制權的對抗關係)
1937年7月に日中全面戦争が勃発すると、内モンゴル西部を占領した日本軍は、ここに傀儡「蒙疆政権」を樹立した。この状況に対して国際社会はどう反応したのだろうか。本報告は「蒙疆政権」をめぐる国際関係を明らかにする試みとして、イギリスとの関係を中心に考察するものである。とくに、以下の二点に焦点を当てる。
第一に、羊毛取引の統制について。「蒙疆政権」の支配地域は、羊毛の産出地・搬出路であり、その多くが天津を経てアメリカやイギリスに輸出され、国際収支の上で重要な役割を果たしていた。言うまでもなく、華北経済の中心であった天津に最大の権益を保持していたのはイギリスであり、羊毛の輸出も英商の手に委ねられていた。ところが、「蒙疆政権」を樹立すると日本は軍需・産業用の原料を確保するため、支配地域における羊毛取引を統制下においた。そのため、西北・内モンゴル地域からの羊毛が途絶した天津では、イギリスがアメリカと連携しながら日本の一方的な措置に激しく抗議し、「蒙疆政権」の羊毛統制政策を揺さぶるのであった。
第二に、イスラーム政策について。西北地域の羊毛は、その集荷・移出の多くを回民商人の交易ネットワークに依っていた。そのため、「蒙疆政権」の羊毛統制政策は、回民をはじめとするイスラーム政策と連動して進められることになる。こうした西北地域に対する「蒙疆政権」の積極的活動は、その政権樹立の「正当性」にモンゴル民族運動をあげていたこともあり、周辺国は日本の次の狙いが西北地域での「回回国」樹立である、と見るのであった。とりわけ、エジプト、イラク、インドなど多くのイスラーム地域を影響下におくイギリスでは、日本がトルコ革命によって廃されたオスマン王家を擁立してカリフ制を「復活」させるのでは、との危機感となって広がっていた。ここに日本とイギリスは、イスラーム政策をめぐっても対立することになるのであった。
1937年7月中日全面战争爆发后,占领了内蒙古西部的日军,在那里建立了傀儡“蒙疆政权”。对于这种状况国际社会是如何反应的呢?本报告以日本与英国的关系为中心进行考察,解明围绕“蒙疆政权”的国际关系的问题。尤其以以下两点为焦点进行讨论。
第一,关于羊毛交易的统制政策。“蒙疆政权”的支配地区是羊毛的产地和输出地,羊毛多经天津出口到美国和英国,在国际收支上起了重要作用。不用说,在曾是华北经济中心的天津内,持有最大权益的国家是英国,羊毛的出口也掌握在英商的手里。然而,建立了“蒙疆政权”的日本为了确保军需和产业用原料,把支配地区内的羊毛交易置于其统制之下。因此,在断绝了来自西北和内蒙古地区的羊毛输入的天津,英国与美国联合对日本的单方面措施进行强烈抗议,动摇了“蒙疆政权”的羊毛统制政策。
第二,关于伊斯兰政策。西北地区的羊毛汇集和运出主要是依靠回族商人的交易网。因此,“蒙疆政权”的羊毛统制政策与以回族为首的伊斯兰政策连动推进。“蒙疆政权”对于西北地区的如此积极的活动,因为以蒙古民族的独立为其政权的“正当性”,促使周边国家认为日本的下一个目标是在西北地区建立“回回国”。特别是,对于把埃及、伊拉克、印度等很多伊斯兰地区置于影响之下的英国来说,日本是否会拥立被土耳其革命所推翻的奥斯曼王朝并使哈里发制度“复活”的这样的危机感扩大开来。因此,在这里日本和英国在围绕伊斯兰政策的问题上也形成了对立。(徐丽)

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