第2回セミナーの記録

講読は,島田美和(大阪大学非常勤講師)・田中剛(京都精華大学非常勤講師)の両氏があらかじめ『伊原本・蒋介石日記』の1931年9月19日,20日,21日,22日,23日,25日,26日,27日,28日,30日,10月1日の部分を整理してレジュメとされたものを逐次検討するというかたちで行われた。

歴史背景:蒋介石と満洲事変(島田美和・田中剛)

1931年9月18日,関東軍は奉天(現,瀋陽)北方の柳条湖付近で中国軍が満鉄線を爆破したとして,一斉に攻撃を開始し,翌日までに満鉄沿線の主要都市を占領した(柳条湖事件)。11月,錦州を爆撃,翌年3月には満洲国を樹立した。さらに,33年2月,関東軍は熱河省に侵攻,5月塘沽停戦協定を締結,熱河を満洲国の統治下に組み込むとともに,華北への橋頭堡を築いた。一般にはここまでを,満洲事変と呼ぶ。

中国側にとっては,1930~40年代の抗日闘争の起点となる満洲事変に対して,国民政府の最高責任者蒋介石は,どのように対応し,いかに解決しようとしたのか。すなわち,蒋介石の対日政策に関わる問題である。1931年の中国国内の政治情況は,中国共産党による武装革命運動をはじめ,国民党内における反蒋勢力たる「広東派」が,同年5月に広州に別の「国民政府」を樹立し,自ら正統政府と称して南京国民政府と全面的に対決していた。

9月18日,満洲事変勃発の際,蒋介石は三度目の剿共作戦のため江西省に移っており,東北辺防軍司令官張学良も満洲を留守にしていた。蒋介石と張学良は,いずれも満洲事変勃発直前には,日本軍に対して「無抵抗」政策に徹すべきであると考えていた。そのため,満洲事変後,中国軍はどの地域においても無抵抗であり,関東軍は一日にして南満洲の要衝である奉天,安東,営口,長春など18都市を占領した。21日,国民政府は,日本の侵攻に対応するため,進行中の第3次「剿共戦」をすべて中止し,政府軍の一部を北上させ,対日防衛を援助することを決定した。また,国民党広東派に対しても,21日から国民政府の広東派に対する討伐戦を中止し,要人を広州に送り,一致団結を呼びかけた。しかし,広東派は南京の対日政策を「売国・誤国」と非難して,「蒋介石下野」を挙国一致の前提として譲らなかった。

このような中,国民政府は,満洲事変の解決を,事変以前の「衝突回避」方針に沿って,外交手段によって図ろうとする。当初,国民政府の対応としては,19日に,行政院副院長兼財政部長の宋子文が,重光葵公使に対し,日中直接交渉の実現を求めたが,22日にこれを撤回する。その背景には,21日,南京に戻った蒋介石が,国民政府指導部の緊急会議を召集し,その際「国際連盟と不戦条約締約諸国に提訴する」と主張したことがあった。これより,国民政府は,当面日本との直接交渉をせず,国際連盟を通じて満洲事変を解決する方針を定め,「国際的解決」路線を選択したのである。それに伴い,国民政府は,国内において「直接交渉」主張者の動きを阻止した。宋子文には,対日直接交渉案を撤回させ,張学良側には,蒋介石自らが説得をおこなった。30日には,政界・外交界の要人を加えて,対日問題を統括する「中国国民党中央執行委員会政治会議特殊外交委員会(以下,特殊外交委員会と略)」が設立され,戴季陶が委員長,宋子文が副委員長に任命される。

これに対し,日本の若槻内閣は,10月9日の閣議決定において,日中間の直接交渉と「大綱の協定の成立」を撤兵と紛争解決の先決条件とすることを決定し,国民政府の「国際的解決」路線と真っ向から対立した。その後,国民政府は,特殊外交委員会などでの議論を通じ,「国際的解決」を試みるも,挫折した。12月15日,蒋介石は「共同対日」の統一政府成立を促すため,広東派の下野要求に屈して辞任した。そして,広東派は,広州の「国民政府」を解散し,南京に復帰して中国の新たな統一政府の中心となり,対日外交も孫科を行政院院長とする「孫科政権」によって行われた。しかし,1932年1月下旬,蒋介石は,汪精衛と手を組み,再び中枢へ復活し,以降,満洲事変をめぐる対日外交も,「蒋・汪合作政権」によって行われることになった。

参考文献

日記の講読

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配布資料

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