第1回セミナーの記録

ごあいさつ(田中仁)

このたび大阪大学中国中国文化フォーラムの研究活動の一環として「20世紀中国政治史アーカイヴズ研究会」の連続セミナーを開催させていただくことになりました。去年10月の大阪大学と大阪外国語大学との統合以来,中国文化フォーラムでは,大阪大学の特色を活かした現代中国研究をどのように具体化していくことができるかということを考えてまいりました。今日「1931年蒋介石日記を読む」と題して第1回セミナーを開催することができましたが,このセミナーが実りあるものになりますよう,どうかよろしくお願いします。それでは今日のセミナーをご担当いただきます西村成雄先生,よろしくお願いいたします。

アーカイヴズ研究会と伊原澤周先生抄録本『蒋介石日記』について(西村成雄)

最初にアーカイヴズ研究会で,なぜ蒋介石日記を取り上げることになったのかについてすこしお話させていただきます。スタンフォード大学フーバー研究所は20世紀前半の中国政治史研究の一つの拠点であり,蒋介石日記も所蔵されています。もともとこの研究所には宋子文文書があり,多くの研究者が閲覧のために研究所を訪れていたのですが,最近の蒋介石日記の公開はかなりのインパクトをもって迎えられました。さらに孔祥煕のプライベイト・アーカイヴズも寄贈されたようでやがて公開されることになるでしょう。あと注目されるのは陳果夫・陳立夫兄弟のプライベイト・アーカイヴズですが,研究所の郭岱君氏がその実現に向けて努力していると仄聞しています。

今回,1931年の蒋介石日記を取り上げることになった理由についてお話します。ここにおられる彭澤周(伊原澤周)先生は,1999年以来フーバー研究所に毎年数カ月から半年くらい滞在され,研究所に蒋介石日記が収蔵された段階から,どのように読んだらよいのかという問題について研究所のラモン・マイヤーズ(Ramon H. Myers)さんの相談に乗ってこられました。この点からすれば,先生は蒋介石日記をフーバー研究所でご覧になった最初の専門家のひとりであると思います。伊原先生は,自身のご研究と並んで丹念に蒋介石日記の1931年を抄録されました。日記の記載には資料的に見て意味のないものありますので,その部分は省略しておられます。お手元に配布しました31年の日記はこれですべてです。系統的にこういう形で抄録されたのは初めてでしょう。

彭先生は1926年生まれです。1953年以来,先生は日本に滞在しておられますが,1947年に武漢大学歴史系をご卒業になり,戦争中も中国におられたということでまさに歴史の生き証人でもあります。これまで中国語と日本語で10冊余りの専著を上梓されています。このうち1969年に出版された明治初期における日中韓関係の研究は,この問題を研究する時の基礎文献として現在でも参照されていますし,『中国近代化と明治維新』も先生の一貫した研究課題の成果です。今年,北京社会科学文献出版社から『近代朝鮮の開港』を出版されました。まさに研究者の「鑑」とも言うべきでしょう。

今回,先生の抄録本の講読を目的とする連続セミナーを開催したいと申しましたところ,快く応じてくださり,さらに学問的関心を共有する若い世代と一緒に勉強したいとおっしゃってくださいました。今回このような機会をもつことができましたのは,ひとえに伊原澤周先生のご配慮の賜物でありますことを重ねてお礼申し上げます。

配布させていただいておりますお手許の資料について簡単に説明いたします。まず今日お読みいただく蒋介石による胡漢民軟禁事件に関する当時の日本側の新聞資料で,大阪大学大学院博士課程の前田輝人さんが集めてくださいました。この事件にかかわる日本側の論点として適宜ご参照ください。それから本日読む日記のなかに,幣原喜重郎による帝国議会での外交問題に関する演説についての記述があります。『議会制度70年史』にはオリジナルではないものの,ほぼ正確な講演内容が引用されています。

もう一つは参考資料で,台湾の呂芳上先生らが主催されている「蒋介石研究会」の紹介です。日本でも,関東で山田辰雄先生を中心に「蒋介石研究会」が発足していますが,実際アーカイヴズをご覧になった方々が参加しておられます。

また,フーバー・アーカイヴズが英文版で蒋介石日記の紹介をしている冊子にありますオリジナルの写真版を紹介する意味で二三枚つけておきました。もう一つは宋子文アーカイヴズにあるもので,蒋介石が熊式輝という人物に対して出した1945年8月以降の東北接収にかかわる文書です。これは私が大昔にコピーしたものですが,これが蒋介石の肉筆です。読みやすいのですが,個性もありますのである種の慣れが必要です。ハーバード大学には胡漢民の書簡類が大量に保存されていますが,胡漢民の字は完全に文人の書であり,読解するためにはかなりの修練を必要とします。これらについては現在浙江大学におられる陳紅民氏によって大部の印刷本で出版されましたので随分楽になりました。とは言えオリジナルを見ることも一つの醍醐味ですので,ぜひとも解読していただけたらと思います。

もう一つ手紙とか文書の中で我々が困るのは,字や号が入り交じっていることです。みすず書房から出ている『蒋介石日記』日本語版の最後に「字・名対照表」があります。これも読解の際の資料としてご利用ください。配布資料については以上です。

それでは伊原先生のお話に入らせていただきます。まず,スタンフォード大学における蒋介石日記の保存状況,資料的価値,他のアーカイヴズとの関連性について少しお話いただきたいと思います。実は彭先生は私の学部時代の恩師ですが,談論風発,実にいろいろなことをお教えいただきました。蒋介石日記そのものについてどういうふうに読んだらいいか,私たちをご指導いただけたらと思う次第です。

フーバー研究所と『蒋介石日記』のこと(伊原澤周)

私は追手門大学を定年退職してから今年で11年になります。この間,時間を比較的自由に使えたこともあり,1999年以来,度々スタンフォード大学に行きました。ご存知のようにスタンフォード大学にフーバー研究所があります。この研究所は,名目上はスタンフォード大学の研究所ですが,実質的には別の2つの組織で,予算や人事は別々です。

フーバー研究所はアメリカの研究所の中で特に中国近現代史研究に非常に力を入れております。中国の近代はいつから始まるのかについてはいくつかの見解がありますが,一応アヘン戦争以降から今日に至るまで百何十年間の研究です。張嘉璈(張公権)という人物はもともと国民政府の重要な役人ですが,辞職後フーバー研究所に勤めていました。彼は半分役人,半分学者で,達筆で文章にも長けていました。張君勱とは兄弟で,彼も著名な学者であり政論家です。

フーバー研究所の存在を世に認知させたのは張嘉璈ですが,彼は死ぬまでこの研究所に勤めていました。またアメリカ人ラモン・マイヤーズは,一貫してフーバー研究所の重要な責任者でした。彼はもともとハーバード大学の助教授でしたが,後にフーバー研究所に移りました。私はハーバード時代からマイヤーズと面識があり,20年来の友人です。彼は中国近代に関する資料の探索と収輯を精力的に行いました。フーバー研究所は元大統領フーバーに由来しており,資金的には比較的恵まれています。近代中国関係資料,とりわけ国民政府時代のそれは,台湾およびアメリカに移住した中国人を通して,きわめて多くの重要資料がフーバー研究所に預託されてきました。1920~40年代の資料に関して言えば,研究所所蔵資料は世界一でしょう。このためハーバード大学の学生が博士論文を書くために,わざわざボストンからスタンフォードにやって来ます。

宋子文資料はフーバー研究所が所蔵する代表的な近代中国資料で,膨大なコレクションです。2002年の公開以来,私は宋子文資料を読み続けていますが,最も興味を持っているのは中米関係および中ソ(ロ)関係,とりわけ外交問題です。経済問題にかかわる論点も少なくないのですが,吟味する時間がありません。宋子文資料について言えば,われわれは誰でも身分証明書かパスポートがあれば閲覧可能で,コピーも問題ありません。宋子文資料は半分は英語,半分は中国語です。また宋子文個人による重要な手紙はほとんど英語を用いています。フーバー研究所の宋子文資料はおそらく世界一でしょう。

マイヤーズ氏が私に「蒋介石日記が我々の研究所に入ってきた」と知らせてくれました。私は蒋介石日記が宋子文資料よりも資料的価値が高いと判断し,2006年2月にスタンフォードに行きましたが,まだなかなか到着していませんでした。マイヤーズ氏によると,日記はニューヨークから一旦台北に戻されてマイクロフィルムを作成,これに約1ヵ月間を要したとのことです。2006年3月31日,蒋介石日記はようやくフーバー研究所でその一部が公開されました。

蒋介石は1917年からおそらく1975年4月5日に死去するまで日記を書いています。2006年3月に1917~1931年の日記が公開され,2007年4月には1932~1945年の部分が公開されました。そして今年7月18日から第3回目の公開があり,それは1946~1955年の部分です。1956年以降の日記の公開に関しては,来年実施されるという話もありますが,はっきりしたことは分かりません。

蒋介石日記が初めて公開された2006年3月から2ヵ月ほど,私はスタンフォードに滞在してこの日記を閲覧しました。研究所の古文書室は8時半に始まるのですが,私は7時頃に行って並んで待ちました。蒋介石日記は膨大な資料で,だいたい1年12冊,毎月1冊ずつ箱に納められています。閲覧時,資料は1箱ずつ渡されます。たとえば1917年1月の箱を渡され,読み終わると次は2月という具合です。

ただこの史料にはひとつの大きな問題があり,閲覧条件が宋子文資料や他の資料と異なるということです。コピーをできないし写真も撮れない,さらにノート・パソコンを持参することも認められていません。従って閲覧者は,読みながら書写するしかありません。膨大な分量であることを考えれば,このことは閲覧に大変な苦労をともなうことになりました。従って,みなさんにお配りしたものは,私が書き取った蒋介石日記の抄録本です。さきほど西村先生が用意された蒋介石の肉筆史料でもお分かりのように,彼の字は非常に端正です。ただ日記の場合は,手紙と違って事後的に加筆している場合があります。

アメリカで史料が公開された場合,基本的に誰でもそれを閲覧できるし写真撮影も自由です。にもかかわらず,蒋介石日記にはなぜ先に述べた閲覧上の制限が加えられているのでしょうか。それは蒋介石日記がフーバー研究所にもたらされた事情に起因しているのです。

蒋介石の息子は将経国で,彼の妻はロシア人です。彼らには何人かの子供がいましたが,一番下の息子が蒋孝勇です。彼が30歳前後に亡くなったそうです。蒋孝勇の妻である蒋方智怡は,現在50歳前後だと思いますが,宋美齢(故人)とともにニューヨークに移住しました。蒋介石は生前,自らの日記を蒋経国に託し,1975年4月に台北の栄民総医院で亡くなりました。この病院の院長彭芳谷は蒋氏の家族と親しい関係があります。蒋経国と蒋孝勇が相次いで死去し,蒋介石日記が蒋孝勇の妻蒋方智怡の手許に保存されていることを彭院長は知っております。

フーバー研究所のラモン・マイヤーズ氏は高齢で停年になりましたが,同所の名誉上級研究員(Senior Fellow Emeritus)として,中国の研究をまだ続けています。彼は蒋介石日記という近代中国研究の一級史料を入手したいと考えました。彼は,彭院長に蒋方智怡をフーバー研究所所員(Research Fellow)郭岱君女史に紹介することを依頼しました。ついに郭女史はフーバー研究所を代表して蒋方智怡と交渉し,蒋介石日記がフーバー研究所にもたらされるに至ったのです。

問題は,蒋介石日記がどういう形で研究所に提供されたのかということです。換言すればそれは贈与(寄贈)か貸与かという問題ですが,蒋方智怡とフーバー研究所は,50年の間日記をフーバー研究所に貸与するという契約を結びました。50年以後はどうかということについて,現在何とも言えません。彼女が存命かどうか分かりませんし,台湾に移管されるか,あるいは中国に移されるか分かりません。蒋介石日記は,このような背景のもとで公開されました。上述の貸与契約には,フーバー研究所での閲覧条件(コピー・撮影不可)のほか,引用の際にはフーバー研究所を通して蒋方智怡の承認を得なければならないということも明記されています。研究所としては,「これは私有物であり,しばらくの間研究所で保管しているにすぎない」という見解です。

私は,2007年4月の第2回公開時には時間がなく,訪問の機会はありませんでした。今年5月に訪米し,1ヵ月余りのあいだ1931年以後の未読部分を閲覧しました。第3回公開は7月18日からで,1946~1955年の日記が公開されました。今回,私は20日に北京に行かなければならなかったので,2日間で1946年の1月と2月の部分を閲覧しました。この冬にもう一度スタンフォードに行ってさらに読み続けたいと考えています。

今回公開された1946~1955年の10年間は,台湾との関係や中国解放などという問題があるため,各方面から注目されました。今年の7月18~19日の2日間,私はフーバー研究所で多くの研究者に会いました。すなわち,台湾東海大学教授の呂芳上氏(元台湾中央研究院近代史所長),北京中国社会科学院近代史所所員楊天石教授,慶応大学の中国人研究者段瑞聡氏(慶大の准教授で,1年間の休暇を得て新生活運動の関連資料を調べています),さらに台湾輔仁大学教授の林桶法氏,上海復旦大学教授の呉景平氏,台湾中央大学教授の王成勉氏,長沙湖南師範大学の周秋光氏,広州中山大学教授の袁偉時氏らです。それから日本の朝日新聞記者の野島剛氏にも会いました。野島氏は台北駐在特派員として台湾の学者たちとともにフーバー研究所にやって来たのですが,『朝日新聞』に14回の「蒋介石 素顔日記」紹介記事を掲載しています。彼は日記の要点をつかんでいてなかなかよくできています。

このほか,今年の8月10日にフーバー研究所と“中華聯誼会”(中国人の団体)との共催の“日記中的蒋介石”討論会が,サンフランシスコ市付近のMillbraeで行われました。本文上掲の中国人研究者全員がこの討論会に出席し,それぞれが閲覧した部分のみを紹介しました。紹介された各出席者の意見は,アメリカでの代表的な華字紙『世界日報』に掲載されています。

以上,蒋介石日記と本セミナーで講読するテキストについて紹介させていただきました。

日記の講読

講読は,前田輝人(大阪大学大学院法学研究科)・余点(大阪大学大学院言語社会研究科)の両氏があらかじめ『伊原本・蒋介石日記』の1931年1月24日,2月15日,24日,25日,3月1日,4月30日,31日の部分を整理してレジュメとされたものを逐次検討するというかたちで行われた。

時代背景(前田輝人,余点)

1930年11月に中原大戦で勝利を収めた蒋介石であるが,同年12月16日から12月30日にかけて行なわれた「第一次囲剿」と呼ばれる共産主義勢力の討伐作戦が失敗に終わる。そして1931年4月には「第二次囲剿」が始まる。その間,蒋介石は内政を固めるべく,1930年10月3日に,河南省開封の前線から南京へ電報を送り,国民党第四次全国代表大会の開催を促すが,立法院長の胡漢民の反対を受ける。

胡漢民は国父孫文の遺志を引用し蒋介石に反発した。まず胡は1930年10月30日の『中央日報』において論文「国家統一と国民会議の開催」を発表し,文中で「総理の建国綱領は,第一次全国代表大会に於ける宣言内政綱領であり,他の全ての約法より完璧なものであるゆえに,指定された約法は無用である」と指摘し,「且つ国民党第三次全国代表では,総理の主な遺教を約法に値するものと議決した今,約法を再度引き出すことは総理の遺教を無視し,別の道を模索することに匹敵する」と蒋介石を批判した。更に1931年1月5日の立法院記念週間では「総理の遺教に随従した国民会議の開催」を題に講演を開いた。この講演では胡漢民は以下の3点を提起した。

  1. 孫文が主張する国民会議は,訓政期間に於いて政治協商の性質を持った組織であり,権力機関ではない。
  2. 国民会議は国民大会の任務を引き受ける権利は無く,また立法と大統領の選定権も無い。
  3. 孫文の遺言では短期間内に約法を制定することについては触れていない。

また胡漢民は1931年2月16日の演説でも国民党の腐敗問題について言及した際に党政策を批判した。胡漢民のこれらの言論は国民党党内で大きな反論を呼び,当然ながら蒋介石の逆鱗にも触れた。しかし,胡漢民は中華民国の元老の地位にいるため,彼の蒋介石に対する批判は日々増すことになった。そして蒋介石は呉稚暉らに意見を求め,胡漢民を軟禁することを決心する。日記では,蒋介石が胡漢民に対する感情が鮮明に描かれている。

最後に話題は変わるが,1931年1月24日付の日記では,蒋介石は当時日本の首相幣原喜重郎の国会演説に関心を示している。確かに幣原演説では「帝国政府はつとに日華両国の親交に重きを置き,その関係のいよいよ円満に進展することを期している」と述べ,また当時日華の間で取り交わされた条約についても「われわれはもとより民国の正当性を無視して,みだりに利己的要求をするような意思を有するものでない」と発言している。こうした隣国の認可に対し,蒋介石が喜びを露にしている箇所は非常に興味深い。

参考文献

配布資料

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