第十一回国際セミナー「現代中国と東アジアの新環境」(サマリー)

2017年8月29日更新

開幕式(8月26日,9:00-9:20) 开幕式(8月26日,9:00-9:20)

ごあいさつ:林智良
おはようございます。大阪大学大学院法学研究科長の林智良でございます。第11回国際セミナー「現代中国と東アジアの新環境:史料・認識・対話」にお集まりの皆さま、ようこそ大阪大学理学研究科の南部陽一郎ホールにお越し下さいました。このホールは本年落成したばかりのもので、最新鋭施設を誇っております。おそらく、我が国のみならず、中国、韓国、台湾など多くの国を拠点とする方々が、さまざまな言語的・文化的背景を持ちながら集われていると思います。今回で11回を数えると言うことで、本学法学研究科の田中仁教授をはじめ、多数の皆さまの継続的努力の賜として、この集まりが続いていることを思いますと、深い畏敬の念を抱きます。今回の題目を拝見しまして、シンポジウム、分科会、ポスター・セッション等さまざまなかたちを取りながら、多彩なテーマに取り組まれるものと思います。二つのシンポジウムは歴史、メディア、政治、民族政策と民族意識などを軸に組み立てられるものかと想像致しますが、さらに分科会やポスター・セッションではPM2.5問題など東アジア全体に関わる問題、文芸創作、経済活動、国際法、農学、質量分析など多様な課題が文系理系の垣根を越えて広く扱われるものと存じます。また、すでに独立の研究者として活動されているメンバーのみならず、大学院学生など若手の研究者も多数積極的に参加されているようです。私自身は、ローマ法専攻で西洋学が主な研究領域になりますが、それでも、上海でのシンポジウムに参加したり、韓国の同僚と議論したりするときに、東アジアでの、国や文化、立場を超えた対話の重要性を深く感じます。まさに、今回のセミナーのテーマにうたわれている「対話」の重要性であります。本セミナーでの皆さまの対話が新しい知見を生み、若い世代を含めた参加者の皆さま相互の交流を深めることを信じてやみません。再び、大阪大学がこのような対話の場になることを光栄とするものであります。実り多い二日間となることを祈念致しまして、私からの挨拶に致します。
趣旨説明:田中仁
2007年8月に天津・南開大学で開催した国際セミナー「現代中国と東アジアの新環境」は,毎年夏に開催,今回が11回目を迎えます。それは,大阪大学中国文化フォーラムが中国・南開大学歴史学院,台湾・東華大学歴史学系とともに共同開催するもので,学校間交流の形式による東アジアの学術交流,とりわけ若い世代に交流する機会をもってほしいと考えました。もう一つの着眼点は,大阪大学中国文化フォーラムが大阪大学で中国地域研究を行う教員・大学院生による部局横断組織であることから,この国際セミナーは,地域研究の学際性と歴史研究の総合性の対話をめざしてきました。今回は大阪大学における三回目の国際セミナーですが,総合テーマ「史料・認識・対話」としたのは,大阪大学中国文化フォーラムの三つの課題を具現したものです。2013年から2015年,中国文化フォーラムが提案した「21世紀課題群と中国」が学内の研究支援事業に採択され,大阪大学の特色を活かした中国地域研究のあり方を構想する機会が与えられました。そこで企画の柱としたのが(1)歴史学を基軸とする現代中国研究,(2)東アジア言語空間,(3)21世紀課題群と文理の対話の三点であり,同時に,この支援事業を契機として豊田教授をリーダーとする理学研究科の研究グループとの協働が具体化しました。総合テーマの「史料」は,多言語空間としての東アジアの問題について,大阪大学の貴重図書・石濵文庫が世界で唯一ほぼ完全なかたちで所蔵する戦前期モンゴル語新聞『フフ・トグ』のデジタル化と公開の可能性をさぐろうとするものであり,今回の国際セミナーのシンポジウム⓵がそれにあたります。総合テーマの「認識」は,今回の国際セミナーのシンポジウム②『21世紀の東アジアと歴史問題』を読む,における「歴史認識」です。ここでは人文学の政治史と政治学の政治史,さらには日本・中国・韓国・東南アジアから見た政治史と歴史問題をめぐる思索と対話をめざそうとしています。総合テーマの「対話」は,21世紀課題群をめぐる文理の対話を念頭においています。昨年秋から本学において,「まちかねCAFE」と称して文系・理系のさまざまな研究領域を跨ぐ共通の「ことば」の探求をめざすささやかな試みを始めました。今回のセミナーにおけるポスターセッションはこうした活動をふまえてのもので,「総論」につづいて「東アジアの環境問題と文理融合研究」「20世紀中国と東アジア」「21世紀課題群をめぐる文理の対話」「まちかねCAFÉと質量分析プロジェクト」としました。この国際セミナーは毎年分厚いプロシーティング(論文集)を作ってきましたが,今回も500頁近い大部のものになりました。表紙に日中台「両岸三地」から日中台韓「東亜四地」へと記しましたが,来年は韓国での開催を予定しています。今日と明日の研究交流を通して,私たちの対話と思索がさらに拡大し深まっていくことを祈念します。

主題報告(8月26日,9:30-11:30)
主题报告(8月26日,9:30-11:30)

江沛:自保、爱国与屈从:一个伪满“合作者”的心态探微(自己保存、愛国と屈従:一人の満州国「協力者」の心理について)
本报告基于《辙印深深:一个伪满军官的日记》这套材料,通过对主人公伪军下级军官施明儒1937-1945年间在伪满洲国明为伪军、暗有抗日行为,无力改变大局、极度苦恼、压抑又十分迷茫的心境及生活情节的细致梳理,试图突破以往从民族国家立场出发诠释沦陷区历史的单一认知模式,在充分考虑日军强权之下伪满“合作者”生存状态的基础上,既强调民族主义情感的影响,又揭示占领下人性的脆弱与复杂。本文认为,在“白皮”面具下,主人公的心态经历了从忧患、焦虑到接受、顺从,其中又夹杂着愤怒、屈辱与悔恨的嬗变过程,具有东北沦陷区民众心态的代表性。
本報告は『轍印深深:一個偽満軍官的日記』(ある満洲国軍官の日記)を素材とし、主人公の満州国の下級軍官である施明儒が1937-1945年において、表では満州国の軍官を演じながら、裏では抗日行動をし、結局情勢を変えられず、極度に悩み、重苦しくて混迷していた心境と彼の生活を詳細に整理することによって、従来の国民国家の枠組みから占領区の歴史を考察するという単一な認知モデルを破り、日本軍の強権的支配下に置かれた満州国「協力者」の生存状態を十分に考慮した上で、民族主義的感情の影響を強調しながら、占領下に置かれた人の人間性の脆弱さと複雑さを明らかにすることを試みる。「仮面」の下で、憂患、焦慮から受け入れ、屈従へと変わり、またその中には怒り、屈辱と悔恨が混じり合っているという主人公の心境の変は、東北占領区の民衆の心理を反映していると考える。(林)
許育銘:試析日本帝國的擴張區域戰略「大東亞共榮圈」(日本帝国の地域拡張戦略「大東亜共栄圏」に関する分析) 
「大東亞共榮圈」此一話語的誕生,本來是日本對德外交,預想軸心國勝利牽制德國對於東南亞區域勢力範圍的一個外交口號,結果此話語口號化過程中不斷地附會納入各種思想內容,迎合社會氛圍所喜的如「八紘一宇」、「亞洲解放」等概念,雖然內容有許多矛盾存在,但此一區域戰略基本上立足於近代日本帝國對外擴張的線性脈絡,甚至集大成。日本帝國的區域戰略是帝國在一定時期內對區域發展方面的選擇、規劃及策略。大東亞共榮圈作為區域戰略有兩個特點:第一,它是「機會型擴張戰略」的選擇,一方面是日本希望占領東亞區域市場與資源,不考慮得失,而是先考慮日本支配勢力的點、線、面建設,排斥競爭對手的進入;另一方面是希望避開強大競爭對手,先求生存,再求發展。第二,它是採用「區域相對壟斷策略」,區域相對壟斷策略就是日本通過外交談判、武力進駐等手段,形成對東南亞區域市場與資源的有效控制,從而形成相對壟斷地位。此外,加入強者或形成戰略聯盟(日德義三國同盟)等亦是區域相對壟斷方式之一。本文嘗試根據歷史材料,循此兩特點進行分析驗證,暸解日本帝國擴張區域戰略「大東亞共榮圈」的發展過程。
「大東亜共栄圏」という言説の誕生は、本来、日本の対ドイツ外交が枢軸国の勝利を予想し、ドイツの東南アジアにおける地域勢力範囲を牽制するために用いられた外交スローガンであり、結果としてこの言説のスローガン化の過程において、絶えず各種思想が付会して組み込まれ、当時の社会的雰囲気に迎合する概念、例えば「八紘一宇」や「アジアの解放」等が形成された。内容には矛盾が多く存在するが、この地域戦略は基本的に近代日本帝国の対外拡張の直線的脈略に立脚しており、集大成ですらある。日本帝国の地域戦略は一定の時期における地域発展に対する選択、計画、策略である。大東亜共栄圏は地域戦略として2つの特徴を有する。一つ目は「機会型拡張戦略」の選択であり、一方で日本は東アジア地域の市場と資源を占領することを望み、損得を考慮せずにまず日本の支配勢力の点、線、面の構築を考慮し、競争相手の進入を退ける。またもう一方では、強大な競争相手を避け、生存第一、発展第二(“先求生存,再求発展”)というポリシーである。二つ目は「相対的地域独占戦略」を採用していることである。これは日本が外交交渉や武力進駐等の手段を通して、東南アジア地域の市場と地域に対して効果的なコントロールを形成し、それゆえに相対的に独占的な地位を形成することである。このほかに、強者に加わるか或いは戦略的連盟(日独伊三国同盟)等を形成することもまた相対的地域独占戦略の方式の1つである。本文は歴史資料に基づいてこの2つの特徴によって分析と検証を行い、日本帝国の地域拡張戦略である「大東亜共栄圏」の発展過程を理解する。
丸田孝志:毛泽东传、故事的形成和展开:从中日戦争时期到建国初期(毛沢東の伝記・物語の成立と展開:日中戦争期から建国初期を中心に) 
中日战争末期的中共根据地,随着群众运动的发展,中共利用民俗推进毛泽东形象的神化。同一个时期,随着毛泽东权威的最后确立,中共党史正式形成,与此同时也出现了由中共有关人写的毛泽东传和毛泽东的故事。中共为主动掌控毛泽东形象,需要正式的毛泽东传和有关故事。用浅显的文体写的传记和故事,是面向有一定教育水平的基层干部及学校的青少年、部队士兵等。本报告,初步考察从日中战争期到建国初期毛泽东的传记和故事的形成过程。最早在报刊上刊登的毛泽东的故事,是1940年7月『中国青年』上刊登。这些是,毛泽东的战友叙述苏维埃时期毛泽东用他的智谋摆脱危机,以百折不挠的精神和幽默的言词,鼓励士兵等故事,跟歌颂他共产主义品德的后来的故事不一样,当事者阐述毛泽东在危机中发挥的个人的魅力。1944年7月在『战友报』刊登的毛泽东的故事有新的特征。①创作故事的出现。②突出表现,毛泽东时常关心每个士兵和群众生死的形象。③毛泽东与人民关系比喻为家属关系。传记等赞扬毛泽东“当群众小学生”的态度,是共产党人的榜样。此时也形成了 “为人民服务”的标语。如此一来, 便完成了最能理解并体现“人民的意志”的英明领袖,再将“人民的意志”回收归纳的过程。建国初期,受中共阶级教育后,产生一定“权利意识”的民众要求政府敬天敬神,将其恩德广传天下。革命领袖和红军为民众带来奇迹的“革命传说”,是响应民间信仰对权力的这种需求中逐步形成,以便把这些民间信仰吸收在体制内。
日中戦争末期より、中国共産党の根拠地においては、大衆運動の活性化とともに民俗利用による毛沢東の神格化が進展した。この時期は、毛沢東の権威の最終的確立にともない中共の公式的な党史が形成される段階にもあたり、中共関係者による毛沢東の伝記や物語が生まれる時期でもある。中共自身が毛沢東のイメージを主体的に操作するために、公式の伝記や物語が求められていた。平易な文体で書かれた伝記や物語は、文字を解する教育水準にある一般大衆と基層幹部および教育を受ける環境にある青少年を対象とするものであると考えられる。小論は、日中戦争期における毛沢東の伝記と物語の成立過程について初歩的な考察を行う。最も早く雑誌に現れた毛沢東の物語は、1940年7月『中国青年』に掲載された。これらは、ソビエト革命時期の戦友らの回想で、機転によって危機を脱し、不屈の精神とユーモアで兵士を激励するなど、毛の人間としての魅力が生んだエピソードであり、共産党員としての素養や徳目を讃える後の物語とは一線を画すものである。1944年7月、『戦友報』に掲載された毛沢東の物語には以下のような、新たな特徴が付与されている。①創作の物語の出現、②兵士や民衆の命に関心を抱く毛沢東のイメージの表現、③毛沢東と人民の関係の家族関係への比定、である。伝記等は毛沢東の「民衆の小学生になる」態度を共産党員の模範として賞賛し、この頃、「人民に奉仕する」という標語も成立した。このようにして、「人民の意志」を最も知り体現した英邁な指導者が「人民の意志」を回収していく過程がか完成した。建国初期、中共の階級教育を受けて、一定の「権利意識」に目覚めた人々は、政府が天や神を敬い、その恩徳を天下に及ぼすことを要求するようになった。革命の指導者、紅軍やそれに関わる事物が奇跡をもたらす「革命の伝説」は、このような民間信仰の権力への要求を意識しつつ、形成されていった。

シンポジウム① 文化資産と共同研究:戦前期モンゴル語新聞『フフ ・トグ 』を展望する(8月26日,13:30-15:30)
专题讨论会① 文化财产与共同研究:关于《青旗》的研究展望(8月26日,13:30-15:30)

娜仁格日勒:『フフ ・トグ 』紙研究の重要性 
内田孝:満洲国期モンゴル語新聞『フフ ・トグ 』における文芸作品の特徴 
ウルジージャルガル:青旗研究会と『フフ・トグ』記事索引の作成 
広川佐保:満洲国研究から見た『フフ・トグ』の可能性 

シンポジウム② 『21世紀の東アジアと歴史問題』を読む(8月26日午後)(8月26日,16:00-18:00)
专题讨论会② 《21世纪的东亚与历史问题》书评会(8月26日,16:00-18:00)

土田哲夫:中国近現代史 
林初梅:台湾言語社会論 
片山慶隆:日本政治史 
臧運祜:日中関係史 

分科会①(8月27日,9:00-11:00)
分组讨论会①(8月27日,9:00-11:00)

【A】座長:江沛(中国・南開大学)

鄭東然:清の万国公法受容と国際観念の再編 (清的万国公法的接纳和国际观念的重组) 
中国を中心とした中華秩序は東アジア社会で千年以上持続された。 このような状況でも淸は国家間対等な関係を前提とする西洋の国際法秩序を認知して, これが対外問題解決に役に立つというのを分かるようになった。此の頃西洋国際法を紹介する書籍も断続的に出版された. 淸の󰡔万国公法󰡕受容はその延長線上で行われた。『万国公法』翻訳に最も貢献したのは西洋宣教師マーティン(Martin)だとしても, 淸朝と中国人助力者の支援がなかったらこの本の出版は容易ではなかったようだ。要するに西洋国際法書籍 Elements of International Law は『万国公法』に翻訳される過程に中国式に內在化された。いっぽう, 『万国公法』の中国式內在化には翻訳の重層性が著しかった。一つの概念を翻訳するためには類似の意味を持つ既存の単語をリサイクルしたりまったく新しい単語を創造しなければならなかった. この翻訳の重層性を通じて淸の国際秩序における認識を確認できる. 特に「国際」, 「主権」,「属国」槪念の翻訳樣相は淸がまだ中華秩序を通じて国際秩序を理解しようとしたのをよく示している. しかしこれらの訳語にもようやく西洋国際法理念が混入して淸の世界観はずっと調整されつづけた。これは淸を中心とする東アジア国際秩序の変動に大きな影響を与えたと思われる。
以中国为中心的中华秩序在东亚社会存续了上千年。然而即便如此,清也认识到了以国家之间的对等关系为前提的西洋国际法秩序,以及该秩序在解决外交问题上所发挥的作用。在此期间介绍西洋国际法的书籍也断断续续得到出版,而清对“万国公法”的接纳便是在此延长线上得以开展的。虽说西方传教士丁韪良(Martin)在翻译《万国公法》上作出了最大的贡献,然而如果没有清政府和中国助手的协助,此书的出版也绝非易事。简要言之,即西洋国际法书籍Elements of International Law在被翻译成《万国公法》的过程中被中国式地内化了。另一方面,在《万国公法》的中国式内化中其翻译显示出了显著的层次性。一个概念的翻译,需要将带有相近词义的原有词汇加以再利用,或者重新创造一个新的词汇。而通过这一翻译的层次性可以确认清政府对国际秩序的认识。尤其是诸如“国际”,“主权”,“属国”等概念的翻译体现出了清仍然欲意通过中华秩序来理解国际秩序。但是,这些词汇的翻译也逐渐混入了西洋国际法理念并持续调整着清的世界观。进而给以清为中心的东亚国际秩序的变动带来了巨大的影响。(林)
郭海燕:近代中国构筑与经营属国电报线的研究:以朝鲜为中心(近代中国による属国電報線の構築と経営:朝鮮を中心に)
近代中国の対外関係において朝鮮半島における電信網の構築と経営は、近代中国の東アジア政策を考える上で重要な意味を持っている。19世紀80年代から90年代にかけて、李鴻章による朝鮮電信電報線架設事業は、日清戦争が勃発するまで中国の対朝鮮政策の成功事業であったと言える。1885年から1891年まで中国は朝鮮政府と四つの電信電報線条約を締結していた。そして朝鮮半島において1885年からほぼ8年の歳月をかけて南の釜山から漢城、平壤を経由して中朝国境線にある義州まで、また東海岸の仁川から西の元山まで、即ち朝鮮半島全体をほぼ覆うことができる電信電報線を架設し完成させた。更にそれを中国国内電信線に繋げ、最終的には李鴻章の大本営へ直通の中朝両国の軍事用電信電報線として活用した。所謂属国電信電報線事業である。この事業は日本が朝鮮海底電信電報線敷設権を侵害したことを契機に始め、それまで中国国内電信電報線事業が積み重ねた経験と教訓を活かし、李鴻章の対朝鮮政治、軍事、外交政策にとっては欠かせない措置として展開していったのであった。日清戦争までの属国電信電報線問題は、朝鮮半島における日中両国の勢力の変化によって競争、制御、喪失という過程を見せてくれると共に、李鴻章の東アジア政策や宗主国中国とっては近代中朝宗属関係を強固する過程を明らかにするための重要な歴史的事実であると考えている。 キーワード:李鴻章、 属国電信電報線架設、 中朝軍事通信網、電信線条約、日清戦争
在近代中国的对外关系中、构筑和经营属国朝鲜电信电报通讯网的事业对于研究和阐明近代中国的东亚政策、具有极为重要的地位。19世纪80年代中期至90年代初,李鸿章主持兴办的构筑朝鲜电报通讯网一事,可谓是其在甲午战争前对朝鲜外交活动中的成功之举。在李鸿章的主持下,中国于1885年至1891年,与朝鲜共签署了4个有关架设朝鲜半岛电报线的合同[注], 之后又费时近8年时间,架设开通了一条贯通朝鲜半岛南北、覆盖东西两岸,直通中国大陆的电报线路,并使其发展为属国军用电报线路网。此举是以1883年日本侵占朝鲜海底电报线权为契机,以晚清中国电报事业的发展经验为借鉴,以李鸿章将其作为对朝鲜政治、军事、外交重要措置为目的的情况下,得以实施和发展的。它伴随着中日两国在朝鲜势力消长的变化,经历了竞争、掌控和丧失的过程。可以说,甲午战争前李鸿章建立朝鲜电报线路网个案研究,是李鸿章研究乃至近代东亚国际关系研究的一个重要内容,同时它对揭示宗主国中国强固近代中朝宗藩关系实体化过程的理解也有着重要的意义。 关键词:李鸿章 属国电信电报线架设 中朝军事通讯网 电信条约 甲午战争
[注](1)1885年7月17日《中国代办朝鲜陆路电线合同》,又称《义州电线合同》。(2)1886年3月24日《中国代办朝鲜陆路电线续款合同》。(3)1887年4月18日《中国允让朝鲜自设釜山至汉城陆路电线议定合同》。(4)1891年3月24日《中国允让朝鲜自设咸境总营元山春川至汉城陆路电线合同》,又称《元线合同》。
范立君:近代关内移民与中国东北区域文化的变迁(近代関内移民と中国東北地域文化の変遷) 
清末民初,随着关内移民大规模出关谋生,东北人口的民族构成发生了深刻的变化,汉族已成为东北人口的主体。随着汉族人口绝对多数地位的形成,汉族的传统文化占据了东北文化的主导地位,促使东北区域文化发生了变异。一方面,汉族文化在东北少数民族中传播,被土著民族所接受,以满族为主体的土著文化逐渐被同化;另一方面,汉民族的传统文化也出现了变异。在汉族移民改变东北地区文化面貌的同时,他们自己也不同程度被打上了当地固有文明之烙印。土著文化的合理性和中原文化的先进性相辅相承,融铸汇合,使两种文化在一定程度上都发生了变异,正是这种文化的相互作用,相互交融,使东北地区,既接受汉族农耕文化,又保持自己独有的地区特色。东北文化开始呈现出一种多元的类别,使得原来以“民族”为主的文化特征开始向以“地方”为主的文化特征转化,并在各自原有民族特性的基础上进行自觉的融合和优化,在此基础上形成了既不完全同于关东,又不与中原地区一致的东北地区特有的富于移民特色的文化形态——“新型关东文化”,这使得东北地区的文化由民族性特色到地方性特色的转化十分明显。 关键词:近代;关内移民;中国东北;区域文化;变迁
清末民初、大規模の関内移民が生計を立てるために出関したことを背景に、東北人口の民族構成に深刻な変化が生じ、漢民族が東北人口の主体となった。それに伴い、漢民族の伝統文化が東北文化における主導的な地位を占めるようになり、東北地域の文化が変容していった。一方では、東北の先住民族が漢民族の伝統文化を受け入れたことにより、満州族を主体とする先住民族の文化が同化されていった。他方では、漢民族の移民たちが東北地域の文化に影響を与えると同時に、自身もまた現地の固有文明に烙印を押されたのである。先住民族の文化の合理性と中原文化の進歩性が互いに融合し合うことによって、東北地域が漢民族の農耕文化を受け入れながら、地域の特色を保持することができた。つまり、それぞれの民族的特性を基に、自ら融合していき、優れた方向へと発展したのである。こうして、東北文化が一種の多元的なものとなり、原来の「民族」を主体とする文化が「地方」を主体とする文化へと変容した。それは、関東地域とも中原地域とも違う、移民の特色溢れる文化形態——「新型関東文化」である。 キーワード:近代、関内移民、中国東北、地域文化、変遷(周)
趙興勝:简论近代以来日本稻作技术在中国的传播:1896-2000(近代以来日本の稲作技術の中国への伝播(1896-2000)について) 
传统时代,日本的稻作技术深受中国影响。但近代以后,日本作为一个先发达国家,其稻作生产技术也开始向中国传播,并对中国的稻作业产生了重要影响。大致说来,这个传播过程经历了四个阶段:(1)清末民初:日本稻作技术在中国的早期传播;(2)日本全面侵华战争与其稻作技术在中国的“规模化”推广;(3)从东方向西方:集体化时代日本成为中国稻作技术引进的主要源头国;(4)改革开放与中日稻作技术合作交流的常态化与深化。日本稻作技术在中国的传播,其直接推力是日本的侵华与殖民统治政策(早期),其内在动力是中国人对现代化事业的追求,其客观效果是中国稻作技术从传统到现代的转变。
古代、日本の稲作技術は中国の影響を強く受けた。しかし近代以後、日本は先に発展した国家としてその稲作生産技術を中国にも伝播させ始め、中国の稲作業に重要な影響を与えた。おおまかに言って、この伝播過程は4つの段階を経た。(1)清末民初。日本の稲作技術の中国における初期伝播。(2)日本の全面的な中国侵略戦争の実行と稲作技術の中国における「大規模化」の普及。(3)東方から西方へ。集団化時代、中国が稲作技術を導入する際の主要な導入元となった日本。(4)改革開放と中日稲作技術の協力交流の常態化と深化。日本の稲作技術の中国における伝播において、その直接的推進力となったのは日本の中国侵略と殖民統治政策であり(初期)、その内在的原動力は中国人の近代化事業への探究心であり、その客観的効果は中国の稲作技術が伝統から近代へ転換したことである。(和田)

【B】座長:丸田孝志(広島大学)

李軍全:马克思主义文化视域下华北根据地和解放区的春节文化生活(1937-1949)(マルクス主義的文化視野における華北根拠地と解放区の春節文化生活(1937-1949)) 
在社会生活转型过程中,文化具有重要的推动作用。革命战争年代,中国共产党为了应对艰难的斗争环境,较为重视文化建设,尤其是注重通过文化改造建立起来一种符合现实要求的文化生活,从而推动各项政治工作的开展。春节以其独到的文化特征和内涵成为华北根据地和解放区文化建设中的一个重要节点。华北根据地和解放区体现出来的新文化风尚,不仅是民众支持和拥护中国共产党的一种展示,也是革命战争年代中国共产党文化建设具有先进性的一个侧证。 关键词:春节、华北根据地,民俗文化
社会生活が転換する過程において、文化は重要な推進作用を有している。革命戦争時代、共産党は苦難に満ちた環境に対応するために文化建設を比較的重視し、特に文化改造を通して現実の要求に合致する文化生活の建設に力を入れ始め、これにより各政治工作の実施を推し進めた。春節はその独特な文化的特徴と内実によって華北根拠地と解放区の文化建設において重要な結合点となった。華北根拠地と解放区が体現した新たな文化的習慣は、民衆が中国共産党を支持・擁護したことをはっきりと示すだけでなく、革命戦争時代の中国共産党の文化建設が先進性を有していたことを傍証するものでもある。 キーワード:春節、華北根拠地、民俗文化(和田)
菊地俊介:近現代中国の戦争・革命と青年問題(近现代中国的战争・革命与青年问题) 
青年は国家の柱石、社会の中堅、未来の主人公……社会が変動する中、社会変革の担い手として、近現代中国ではしばしば青年に期待するこうした議論が見られた。なぜなら、青年は純粋であり、エネルギーがあり、情熱的だからである。特に戦争、革命で社会が揺れ動く時代にあって、青年は革命を推進するため、戦争に動員するため、重要な存在であった。同時に、青年は未熟であり、意志が弱く、騙されやすいといった批判もしばしば見られた。五四新文化の潮流の時代を経て、青年はあるべき生活、人生、社会の姿に対する理想を抱いていた。しかし現実の社会はそれほど容易に変わるものではなく、現実と理想のギャップに青年は「煩悶」し、「堕落」し、社会問題を引き起こした。いかに青年を育成し、いかに青年問題を解決するかも、近現代中国社会の重要な課題だったのである。本稿では、近現代中国の出版物の青年に関する様々な議論を分析し、特に青年を取り巻く生活や社会の問題に着目し、近現代中国社会の青年のあり方、青年の生活と社会をめぐる実態、青年に対する社会の認識、青年問題の背景について考察する。同時に、戦争と革命の時代の変動の中で、青年問題にどのような変化があったのかを考察する。その他、当時の青年問題の議論において、個人の理想を抱く青年と、動員対象たる青年という二つのあり方に、いかなる矛盾があったかにも論及する。
青年是国家的柱石,社会的中坚,未来的主人翁……这是在社会变动过程中,作为改变社会的生力军,近现代中国常看到的期待青年的言论。因为青年是纯朴的,有力量的,有热情的。特别在由战争、革命社会动荡的时代,青年是为了推动革命,为了进行战争动员,青年是重要的存在。同时,青年还是未成熟的,意志薄弱的,容易被欺骗的,常看到如此批评。经过五四新文化的潮流的时代,青年对应有的生活、人生、社会怀着理想。但是现实社会并不是这么容易变的,为现实与理想的差距,青年陷于“烦闷”、“堕落”,引起社会问题。怎么培养青年,怎么解决有关青年的问题,这也是近现代中国社会的重要课题。本文分析在近现代中国出版的有关青年的各种言论,特别关注围绕青年的生活、社会的问题,探讨近现代中国社会的青年的心态,围绕青年的生活与社会的实际情况,社会怎样认识青年,这些有关青年的问题的背景。同时本文关注战争与革命的时代动态之中,探讨这些青年问题有什么样的变化。此外探讨,在当时的青年问题的讨论上,怀着个人的理想的青年,作为动员对象的青年,两者之间有什么样的矛盾。
臧運祜:1930年代中期的中日亲善问题(1930年代中期の中日親善問題) 
1930年代中期,主要是在华北事变几乎同时发生的1935年上半年,以蒋介石发表《敌乎?友乎?》一文为契机,国民政府在年初确定了对日和缓、化敌为友的方针,并在内政与外交方面,采取了一系列呼应日本广田外交的举动。九一八以后持续紧张与僵局的中日关系,因此呈现出一度“亲善”、甚至达于高潮的奇特局面。本文主要以最新的蒋介石日记为主要载体、以日本对华外交为参照对象,着重论述1930年代中期围绕亲善问题的中日互动过程,并指出华北事变的继续发展,导致中日亲善陷入顿挫、最终进入战前的“最后关头”。在日本并未改变且变本加厉地实施其既定侵华政策的背景之下,蒋汪合作的国民政府所推行的对日亲善,无异于与虎谋皮、缘木求鱼,其历史教训是深刻的。 关键词:中日亲善、华北事变、蒋介石、汪精卫、广田弘毅。
1930年代中期、主に華北事変がほぼ同時期に発生していた1935年前半、蒋介石の「敵か友か?」の発表を契機として、国民政府は年初に対日軟化・“化敵為友”(敵対勢力を味方に引き入れる)方針を確定させ、内政と外交の面において日本の広田外交に呼びかける動きを採った。九一八以後、緊張と膠着状態が続く中日関係はこれにより「親善」を呈し、それがピークに達するという奇異な局面にまでなった。本文は主に最新の蒋介石日記を主な媒体として日本の対華外交を参照対象とし、1930年代中期の親善問題をめぐる中国と日本の相互作用の過程を重点的に論述する。また、華北事変の継続的な進展が中日の親善を頓挫させ、最終的に戦争前の「最終局面」(“最後関頭”)に踏み込んだことを指摘する。日本が既定の侵華政策に変更を加えずそれを悪化させた背景化で、蒋介石と汪精衛が協力して国民政府が推進した対日親善は、出来ない相談(“与虎謀皮”)で、見当違い(“縁木求魚”)のものに他ならず、その歴史的教訓は深い。 キーワード:中日親善、華北事変、蒋介石、汪精衛、広田弘毅 (和田)
鄒燦:“圣战”话语下的七七纪念:日本国民眼中的中日战争(「支那事変周年記念」と「聖戦」観:戦時日本国民の戦争認識) 
卢沟桥事变爆发后,日本虽被视作事变及战争的始作俑者,却在其国内展开了以“支那事变周年纪念”为名的七七纪念活动,以推动战时国民动员,争取国民对战争的持续支持。关于战争起因、性质及意义的认识,正是通过纪念活动的策划与展开,向国民反复进行渗透,逐渐形成了“战争的起因在于罪恶的中国军队,与中国的战斗是为实现东亚永久和平与安定的神圣战争”这一“圣战”观。在国民的“圣战”记忆中,战争的残酷性被弱化,对中国的加害行为亦完全不见,至太平洋战争时期,“圣战”记忆中甚至连作为受害者的中国本身也在逐渐消失。因此,战后日本的战争认识中加害意识淡漠的根源,可以从战时国民动员中找到些许线索。
日中全面戦争勃発後、日本政府は戦時動員の推進を図るため盧溝橋事件の周年記念活動を繰り広げた。この戦争記念日には、日本の情報統制と宣伝機関が記念方策を作成し、「聖戦」の文脈の中で過去の戦闘成果や日中間の出来事を総括し、銃後の国民動員を集中的に行い、戦争認識形成の手段とした。このようなプロセスの中で形作られた「聖戦」観は、「支那事変の勃発は罪深い中国軍によるものであり、中国との闘いは東亜の永遠な平和安定を実現するための正義で神聖な戦闘である」というものになった。「聖戦」観をもとにした戦時国民の「聖戦」記憶には、戦争の残酷さが弱められ、戦争による加害の実態が全く見えてこない。さらに、太平洋戦争に入ると、以前から形成された国民的「聖戦」記憶の中で、加害の相手としての中国すら不在となってしまった。戦後日本人の戦争観に加害意識欠如の歴史的要因について、まさに戦時国民動員に対する検討から手掛かりを得られるのである。

ポスター・セッション(8月27日,11:30-13:00)
墙报发表(8月27日,11:30-13:00)

【0】総論

田中仁:史料,認識,対話:大阪大学中国文化フォーラムの三つの課題(史料、认识、对话:大阪大学中国文化论坛的三大课题) 
今回の国際セミナーの総括テーマ「史料・認識・対話」について,それが大阪大学中国文化フォーラムの活動を集約したうえで提起されたものであることを概括する。
本报告主要介绍本届国际研讨会的主题“史料、认识、对话”是在归纳总结大阪大学中国文化论坛活动的基础上提出的这一主旨。
三好恵真子:東アジアのPM2.5汚染の固有性を解明するための最先端科学知による文理融合研究(东亚PM2.5大气污染的特性分析:前沿科学知识下的文理结合研究) 
本研究では、越境汚染として最大の懸念を集めている東アジア(主として中国)のPM2.5汚染に着目し、リスクの諸脅威が、技術的・経済的発展から出現するという概念だけでなく、広汎な文化的・社会的枠組みに媒介されて生ずるという社会的行為概念と結びつけて検討していくことの重要性に立脚し、科学的先端性と学際性(文理)を融合した実践志向型の地域研究を遂行するものである。具体的には、人間環境学,経済地理学,質量分析学の専門家がタッグを組み、濃厚な現地の人脈・資源を活かしながら、主に以下の4つの研究視角を掲げ、多次元的な検討を行う。すなわち、地球システム、社会システム、人間システムを網羅する1)から3)のアプローチを行いながら現実的な対策を講じつつ、4)で総括し、これまで国際レベルでもなし得なかった課題解決への一助を展望するものである。1)調査や情報が不足している内陸部都市を事例として通時的・共時的分析・評価を多面的に行い、中国全体への相対化を図る。2)先端最新科学(生態系の複雑性を評価するカオス解析,超小型高性能質量分析装置(オンサイトで測定可能))を駆使し、中国PM2.5汚染の固有性を解明しつつ気候システム安定性の評価法を確立する。3)産業,自動車排出ガス,エネルギー開発,廃棄物,メディア等に焦点を当て、中国社会における人びとの生活の視点から構造的諸課題を抽出する。 4)1)〜3)を包括し、大気汚染改善と信頼醸成に向けた日中国際協力による共創基盤の構築を目指していく。※本研究プロジェクトは、科学研究費補助金・基盤研究(B),2017~2020年度(研究代表者:三好恵真子)を基盤としたものである。
东亚(主要是中国)的PM2.5汚染作为一种越境污染问题,已经引起广泛关注。而讨论风险的威胁,不仅仅要认识到其源于技术和经济的发展,更要关注其与广泛的文化和社会体系为媒介而衍生的社会性行为概念之间的关系。本研究着眼于PM2.5汚染问题,融入上述风险理论,并将科学前沿性和跨学科性结合起来,开展注重实践的地域研究。具体而言,就是人类环境学、经济地理学和质谱分析学的专家联手合作,利用广泛的当地人脉和资源,从以下4个研究视角展开多维度的探讨。以下1)至3)的三种研究视角同时覆盖地球系统、社会系统、人类系统,本研究中从这三种视角切入并寻求切实的措施。4)为总括,并展望本研究对解决国际性难题的贡献。1)以调查和信息不足的内陆城市为研究事例,开展多角度的历时性及共时性的分析评价,并明确其在中国整体中的相对位置。2)利用前沿科学技术(评价生态系复杂性的混沌解析、超小型高性能质谱分析装置(可现场勘测)),阐明中国PM2.5汚染的特有性,并确立能评估气候系统稳定性的方法。3)聚焦于产业、汽车尾气、能源开发、废弃物和大众媒体等方面,从中国民众的生活视角出发,抽象出各种结构性的课题。4)总括1)~3),通过基于解决大气污染和建立信赖关系的中日国际合作,构建共创平台。 本研究项目基于科学研究研究费辅助金 基础研究(B),2017-2020年度(代表研究者 三号惠真子)。(張・胡)
豊田岐聡(理学研究科):豊田岐聡(理学研究科):ジオミクス:先端質量分析技術で切り拓く生態圏惑星科学(地球全域解析法:以先进质谱分析技术开拓生态圈行星科学研究) 
先進質量分析技術をベースにし,地球を取り巻く環境である【生態圏】(惑星間空間,気圏,地圏,水圏,生物圏,土壌圏,人間圏)に存在する様々な原子・分子(「ジオーム」)を網羅的に解析(「ジオミクス」)する。これにより,生態圏の過去から現在までを統合的に理解することが可能となり,地球の生成と進化過程における物質動態に加えて,生物・人間活動の影響,特に工業化以来劇的に変化した物質動態を詳細に分析し,地球の未来像をより克明に描く新たな惑星科学「生態圏惑星科学」を構築する。
以先进质谱分析技术为基础,全面分析存在于地球的【生态圈】(行星间空间、大气层、地圈、水圈、生物圏、土壤圈、人类圈)里各种各样的原子、分子等微观粒子。借此方法可以综合理解生态圈从过去到现在的变迁。在掌握地球产生和进化过程中的物质动态的基础上,对生物、人类活动的影响,特别是从工业化以来变化剧烈的物质动态进行详尽分析,构建一个能够细致描绘地球未来状况的新的行星层面的科学——“生态圈行星科学”。(張・胡)

【1】東アジアの環境問題と文理融合研究

姉崎正治,董雪晨,胡毓瑜,三好恵真子:中国の水銀使用の現状と環境問題:地域汚染と越境汚染に関する事例検討(中国水银使用的现状与环境问题:关于区域污染和跨区域污染的事例分析) 
2017年8月16日に発効される「水銀に関する水俣条約」を目前にして、その的確・円滑な実施を確保するために、各国で水銀排出抑制対策が進められている。中国の場合、2010年時点での水銀の大気中排出量が全球排出量の30~40%を占め(中国科学院)、世界最大の排出国となっている。またその内訳として石炭燃焼を伴う火力発電並びに工業用ボイラーで33.7%、非鉄金属製錬業が27.6%、セメントクリンカー製造業が26.5%であり、これら三者が全体の87.8%占めている。これまで中国政府は1996年に『環境保護に関する若干の決定』を発令し、小規模鉱業(Artisanal Small Scale Mining)を期限付きで廃止に踏み切った。さらに第12次五か年計画では、包括的な重金属土壌汚染の抑制管理計画を立て、その中で水銀排出抑制に関しては、上述の主要対象の水銀排出量を対2007年比で2015年までに15%削減する目標を示した。現在までに上記の主要水銀排出工場では排ガス処理設備の強化が進められている。本研究では、このような水銀排出抑制対策が進行する中で、中国国内の調査研究の成果を参考にしつつ、従来の議論では不十分であったと思われる次の2点について検討した結果を報告する。(1)大気への排出と合わせて土壌や水圏への排出に着目し、関与物質総量(Total Material Requirement)の観点から、『隠れたフロー(Hidden Material Flow)』である“捨石、ズリ”や“尾鉱”、“スラグ”等に含まれる水銀の鉱害性を議論する。(2)排ガス処理設備の選択によって水銀回収率および排出水銀の形態が異なる点に着目し、日本の観測点で得られた水銀の形態分析値との対比を通して、遠距離移動中の湿性沈着、乾性沈着とPMや黄砂等の大気汚染との関係を議論する。
2017年8月16日为《水俣公约》的生效日,为确保公约能够顺利实施,各国都制定了控制水银排放的对策。中国是大气汞排放量最大的国家,其2010年间的排放量占到了全球的30-40%(中国科学院)。其中,燃煤发电和工业锅炉占了33.7%,非铁金属冶炼占了27.6%,水泥制造业占了26.5%,而这三者占了总量的87.8%。中国政府曾在1996年下达文件《国务院关于环境保护若干问题的决定》,要求地方政府对于土法炼汞选金的企业,责令其关闭或停产。在国家环境保护“十二五”规划中,要求加强重点行业和区域重金属污染防治,其中在水银排放上,要求上述对象的排放量到2015年要比2007年降低15%。上述产业中,作为主要的水银排放工厂,至今都被要求加强建设废气处理设施。 在水银管控政策实施过程中,本研究参考了中国国内的研究成果,对在过往研究中未被深入分析过的两个研究方向作了讨论。(1)结合大气排放和朝向水圈、土壤的排放,从物质需求总量(Total Material Requirement)的观点出发,讨论了被称为“隐流”(Hidden Material Flow)的“废石”、“尾矿”和“矿渣”中所含有的水银成分所带来的危害性。(2)着眼于不同废气处理设备下水银回收率和存在形态的不同,与日本的观测点所获得的水银形态分析值进行对比,并讨论长距离移动中的湿沉降、干沉降与颗粒物、黄沙等大气污染的关系。
胡毓瑜,古谷浩志,豊田岐聡,三好恵真子:PM2.5成分分析及其观测、分析系统的开发(PM2.5の成分分析および観測・分析システムの開発) 
近年在中国,由PM2.5引起的大气污染问题非常严重。中国的PM2.5问题,与已知的大气污染种类有明显差异,有着在冬季且夜晚高发、影响区域广等特点。本研究于2015年4月至2016年1月,在清华大学通过质谱仪进行了实测,并完成了10月份数据的成分分析。发现同时含有钾和有机碳的粒子占了总数的三分之一,因为可以认为植物或化石燃料的燃烧是主要的污染源之一。而有机碳比重高说明汽车尾气的排放也具有很大的影响。另一方面,为了能从空间和时间上追踪污染物质的浓度变化和化学反应变化,本研究开发了针对PM2.5的现场实时测定系统。该系统的核心是首创的超高分辨率小型质谱仪“MULTUM”。该设备采用了各种先进的质谱分析技术,能够对各种有机物质,包括传统的色谱法无法分析的复杂有机物,进行现场实时分析,具有全面性、同时性和直接性等特点。因此能够用于确定PM2.5的形成原因和反应过程。最后,通过与中国研究者的交流,能掌握中国政府的环境政策与相关信息,以及现场的实际情况。同时,在考虑了政治、环境以及文化背景因素之后,结合地域特性,开展了文理结合、产学合作的研究模式。并在此基础上,试图构建一个系统,该系统能够有效传递信息,综合利用科研成果,从而能从更广泛的角度来应对解决PM2.5问题。
近年、中国では、特に微小粒子状物質PM2.5による大気汚染が深刻化している。中国のPM2.5は、既知の大気汚染と著しく異なり、冬季のしかも夜間にその濃度が最高に達し、影響を及ぼす地域が極めて広域にわたるという特徴を持つ。そこで本研究では、2015年の4月から2016年の1月まで、質量分析装置を清華大学に持ち込み、現地での観測データーを得ることに成功した。10月に測定した粒子の成分分析により、カリウムと有機炭素を含んだ粒子が1/3を占めるため、植物や化石燃料の燃焼が主要な発生源の一つと考えられた。また、有機炭素が多いことから自動車排ガスの影響も大きいと考えられた。一方、空間的・経時的に汚染物質の濃度変動や化学的変質を追跡するために、本研究ではオンサイト実時間測定システムを開発し、その中心は世界初の「小型超高分解能質量分析MULTUM」である。本装置は、種々の先端的質量分析技術を駆使することで、従来のクロマトグラフィー法では困難であった複雑な有機物質なども含めて、多様な環境有機物質を現場で一括して直接・網羅的に、しかも実時間で測定できる。したがって、PM2.5生成メカニズムの解明と発生原因の特定に有効であると考えられる。さらに本研究では、中国の研究者との交流を通じ、中国政府の政策・情報、また現場の実情を把握した。同時に、政治、経済および文化的な背景、地域性なども考慮し、文理融合の取り組み、企業との連携を進めている。それらを踏まえ、本研究成果を活用できる環境及びPM2.5のより広域な対応システムの構築の構想を目指していく。
許俊卿,胡毓瑜,三好恵真子:大气污染问题的纸媒报道框架考察 :以1970-2010《人民日报》报道为对象(大気汚染問題報道における紙メディア報道フレームに関する研究:1970‐2010年の『人民日報』の報道を対象として) 
自2012年以来,越来越多的人开始关注大气污染问题,尤其是pm2.5问题。针对污染治理,政府和研究人员不断推出新的政策,开发新的技术,但是对于我们一般人来说,我们只能看到一直持续的雾霾天气,各种媒体上登载的恐怖消息。而媒体作为一般人的唯一信息来源,在意识形成上会产生极大的影响。本研究以人民日报为研究对象,使用内容分析法,对1970年代到2010年代的大气污染问题报道进行了考察。结果表明,70年代的报道数量较少,且很大一部分是学者研究分析。到了80年代,报道数量开始急速增长,大多数是以政府的立场,对政府的应对行为,颁布的法令政策进行报道。70年代和80年代共通的是有很多以日本为主的世界各地的污染状况报道和经验学习。90年代的前期沿袭了80年代的报道形式,而进入后期后,增加了各地污染治理成果的报道,呼吁式报道数量也有所上升。同时,开始面向普通市民采访,可以看到环境报道对象的扩大。21世纪,报道中经常使用图片,提高渲染力;在内容上,污染状况细节报道,曝光污染源,针对政府的提议的报道数量上升,且报道更贴近一般人的生活。总结来说,截止2010年为止的大气污染报道基本是站在政府立场的报道,且对象多为工业废气的二氧化硫和温室气体二氧化碳。对于一般人来说,专业术语太多,不太易懂,在意识形成上意义不大。
中国では、2012年以来、大気汚染問題、特に、PM2.5問題への注目が急速に高まっている。それに伴い、政府、研究者は汚染制御を目指して、新たな政策、新規技術を次々に創出しているものの、一般市民が日常的に感じ取れるものは、視界に映る暗雲が立ちこめた空、メディアからの恐怖を煽る情報だけである。一方、メディアが一般市民の唯一の情報源として、市民の意識形成に影響を与えている。 そこで本研究では、『人民日報』を対象にして、コミュニケーション学の視点による内容分析法を活用し、70年代から2010年までの大気汚染問題に関する報道を分析・考察した。その結果、70年代の報道数が少なく、しかも研究者が執筆した文章が多いことが明らかとなった。また80年代は、報道数が急増し、政府の行動、政策や法令の実施報道が始まり、政府の立場が主流となった。ただし、70年代と80年代で共通するのは、日本をはじめ、他国での汚染状況と経験を参考にした報道が多いことである。90年代前期は80年代の報じ方を継承し、政府業務の情報開示を頻繁に行っていた。しかし後期となると、地方において汚染制御を行った成果を多く報道するようになり、啓発タイプの報道が増えた。さらに個人への取材も始まり、政府が報道を主導するモデルが変化した時点とされる。21世紀に入ると、形式として、記事や写真を使う報道が出現し、内容面として、汚染状況開示、汚染源曝露、政府への提議、生活面の汚染源やその対応策が増加した。結論として、2010年までの大気汚染問題が工業排気のSO2、温室ガスのCO2を中心に、政府の立場で報じており、一般市民にとって、物理的心理的に距離があり、わかりにくい報道の仕方であるといえる。
張曼青,胡毓瑜,丁良才,三好恵真子:从能源利用到环境保护:舟山沼气利用模式的变迁及展望(舟山におけるバイオガス利用方式の変遷と展望:エネルギー利用から環境保護対応へ) 
本研究通过资料调查和现地调查,对舟山沼气开发的原委、利用过程作了整理,并对利用模式进行了讨论和分析。舟山沼气利用方式的变迁大约经历了三个阶段。首先20世纪30年代,洪筏禅院自主引入沼气技术,并建起100立方米以上的沼气池。该池作为文化遗产至今仍保存完整。70年代为响应国家政策,农村开始大量建设户用沼气池。2005年开始以环境保护为出发点,政府要求禽畜养殖场必须设置沼气设施以处理禽畜粪便。论文结构如下。首先,讨论了三阶段各自的利用目的、开发规模和运营方式。30年代的沼气利用是由用户自身需要而主动引入使用,因此对沼气设施的质量有一定要求,且用户对沼气的利用技术较为详细。70年代是在政府政策主导下由上而下的推广利用模式,其利用原理简单,操作方便,但是技术的负责人是政府的相关部门而非用户本身。2005年以后虽然同为政府政策主导的开发模式,不同点在于沼气池规模以大中型为主,并由专门企业提供技术且负责维护维修。其次对政府主导开发模式的利弊进行了讨论。政府主导型有着开发速度快、参与人数多、能大规模开发利用等优点,但同时伴随着高风险和低效率,且对环境和居民生活的影响缺乏足够和长远的考虑。在论文最后,对今后沼气设施的综合性利用的开发模式进行了探讨以及对沼气与区域发展的关系作了分析。
本研究は、中国舟山におけるバイオガスの歴史的変遷をたどり、資料調査と現地調査からその開発の経緯と特徴を明らかにしつつ、今後の展望を模索する論考である。バイオガスの利用方式の変遷は三段階に分けられる。まず、20世紀30年代、洪筏禅院が自らバイオガス技術を導入し、100立方メートルの施設を建て、現在は文化財として保存されているものである。次に70年代に国家政策により、大量の家庭用の施設が普及した。さらに2005年から環境保護に鑑み、養殖場には糞尿の処理のためのバイガス施設を設置しなければならない状況となった。本論文の構成は以下の通りである。はじめに、これら三つの段階における利用目的、開発規模、運営方式についての詳細を描写した。30年代は、ある施設が自ら導入したもので、品質も良い他、持ち主自身がバイオガスの利用方式と技術に造詣が深かった。一方、70年代のバイオガス利用は政府政策によりトップダウン方式で推進され、原理が簡単で、使いやすいという利点があるものの、技術の担当者は政府の関連部門に限られていた。近年のバイオガス利用も政府の政策に推進されているが、規模は大中型となり、技術も専門企業が担当することになっている。続いて政府主導の開発方式自体の考察を深めると、進行が早く、大中規模の開発が可能という利点があるものの、リスクが高いうえに利用効率が低く、環境、住民の生活への影響に対する配慮が不足していることが明らかとなった。最後に今後のバイオガスの統合的利用方式の開発、さらには地域の産業との関係性を分析してゆく。
董雪晨,胡毓瑜,三好恵真子:中国电子废弃物的非正规回收现状及对策(中国における家電廃棄物のインフォーマルな回収の現状と対策) 
如今在中国电子废弃物的回收是一个重要的课题。本研究以此为对象,通过多角度的考察将回收现况具体化,并对如何改善回收问题提出了建议。首先从宏观的角度对电子废弃物的回收现状以及相关法制度进行了综述。在此基础上,考虑到地域差异,本论文选择了回收现状尚未明了的中小城市为研究对象,并以黑龙江省鹤岗市为事例进行了现场调查。通过调查,掌握了电子废弃物的非正规回收的回收流程、回收价格等情况。并对调查结果进行了分析,明确了非正规回收会给回收系统带来不安定性,但也发现电子废弃物的非正规回收有着回收者之间情报可共享、回收效率较高等优点。因此,今后需要对电子废弃物的非正规回收进行积极面的评价,并认为发挥内部回收者自身能动性,使非正规回收发展成为正规组织是一个重要的实践方向。
本研究では、中国において、極めて重要な課題の一つである電子廃棄物の回収問題を取り上げ,多面的な角度からその回収実情を具体化しつつ、問題解決に向けての提言を行った。まず、マクロな側面から電子廃棄物回収の現状と関連法制度を包括的に俯瞰したうえで、中国の国民性と地域性を十分に考慮し、実態が明らかにされていない地方都市を注目した。特に、黒竜江省鶴崗市を研究事例として、現地調査を行った。その結果、電子廃棄物の回収主流であるインフォーマルセクターによる回収メカニズムや回収価格などの実情を質的な観点から把握することができた。さらに、実態調査の結果を分析し、インフォーマルセクターによる回収の不安定性を明確化した。同時に、インフォーマルセクターの情報共有、回収効率性という長所も見いだした。今後、家電廃棄物の回収インフォーマルセクターを積極的に評価する上で、内発的な作業者自身のイニシアティブによる組織化へ移行するための実践的な展開が重要になると考えられる。
李欣,胡毓瑜,三好恵真子:中国机动车尾气对大气污染的影响:从三元催化器着眼(中国自動車排ガスによる大気汚染への影響:三元触媒器に着目して)
根据中国公安部交通局2017年4月公开的统计所示,至2017年3月末为止中国的机动车保有数突破3亿辆,平均机动车保有数为每4.6人1辆。机动车的普及给国民的生活带来便利性的同时,由于机动车废气所产生的大气污染问题也越来越严重。根据中国环保部2017年公布的《中国机动车管理年报》来看,2016年全国机动车排放污染物总量为4472.5万吨。并且,该年报还解析出北京、上海和深圳的机动车尾气为PM2.5的主要污染源,分别达到31.1%、29.2%和41.0%,机动车尾气的影响之大,自不言而喻。机动车尾气中最主要的污染物为碳氢化合物(HC) 、一氧化碳 (CO) 、氮氧化合物(NOx)。为了消除这3种有害成分,汽车尾气催化剂的研究开始于19世纪60年代,至19世纪80年代美国销售的机动车开始加装尾气催化器。现如今三元催化器被全世界的机动车所应用。查询现有的大气污染相关研究,一般为现状的把握与数据分析,并提出对策建议。另一方面,关于机动车尾气催化剂的研究,多是大学、研究机关以及汽车厂商的材料研发和反应解析等高度专门性的科学研究为主。中国机动车尾气产生的大气污染非常复杂,脱离了地域和环境,或者偏重于理论与数据,都会有残留的课题。本研究以三元催化器为对象,最大限度地发挥曾在催化剂相关企业工作过的经验与知识,通过结合地域和环境,进行文理融合,从基础与应用这两方面展开研究。
中国公安部交通管理局が2017年4月に公開した統計によると、2017年3月末までにおける中国の自動車保有数は3億台を突破し、平均自動車保有数は4.6人当たりに1台となった。自動車の普及は中国国民の生活に利便性を与える一方、自動車排出ガスによる大気汚染問題はますます深刻化している状況にある。また中国環境保護部が2017年に公開した「中国自動車環境管理年報」によれば、2016年全国自動車排出汚染物総量は4472.5万トンに達している。また、北京、上海と深圳の自動車排ガスは、PM2.5の主要汚染源であると実証され、それぞれが31.1%、29.2%と41.0%になっており、自動車排出ガスの影響が大きいことは言うまでもない。自動車排ガス中の最も主要な汚染物は炭化水素 (HC) 、一酸化炭素 (CO) 、窒素酸化物(NOx)である。この3種類の有害成分を浄化するために、自動車排ガス触媒が1960年代から研究され、1980年代からアメリカ生産の自動車に装備され始めた。そして現在、三元触媒器は全世界の自動車に応用されている。既存の大気汚染研究を精査すると、現状把握とデータの分析、さらにはその対策の構築が一般的となっている。一方、自動車排ガス触媒に関する研究では、大学、研究所や自動車メーカーにおける材料開発や反応解析など専門性の高い科学研究が主流的となっている。中国自動車排ガスによる大気汚染は非常に複雑であり、排ガスが排出されている地域と環境の乖離、理論とデータの偏りなど、いずれも課題が残されている。そこで本研究では、三元触媒器を対象とし、これまで触媒関連の企業に勤めていた経験と知識を最大限に活かしながら、地域と環境とを連動させた文理融合研究を遂行し、基礎と応用の両面からのアプローチを模索していく。
黄璇,胡毓瑜,三好恵真子:中国中小城市生活污水处理系统的现状及分析:以贵州省多个污水处理厂的实地调查为中心(中国における中小都市の生活汚水処理システムの現状と分析:貴州省の汚水処理場の現地調査を中心として) 
自2000年开始,为了使水污染得到有效改善,中国政府加快了新建污水处理厂的进程。但是现在水污染的现状依然十分严峻。基于这样的背景,本研究对贵州省九个生活污水处理厂的运营实态进行了调查走访,并通过对调查结果的分析与考察,把握具体问题,探讨相关的解决方法。为了完成中央政府的数量指标,贵州省地方政府开始大力新建污水处理厂,导致投资资金和运营资金不足,且工作效率低下,冗员现象等问题日益严重。于是政府通过BOT和TOT模式将越来越多的污水处理厂的经营管理权移交给了企业。如此一来,上述问题有所改善,但新的运营方式也产生了新的问题。特别是污水处理场的电力供给、废水收集、监督管理等方面都与许多政府部门有着密不可分的关系,在政府自营污水处理厂时,关系主体仅仅是政府内部的各平行部门,而移交给企业之后,变成了包括政府、企业,甚至个人的复杂的关系主体。因此,对于企业自营的生活污水处理厂,需要把握其利弊,并构建新的运营管理模式下的监督管理系统。
中国では、2000年以後になって、水質汚染の改善に向けての政府による下水処理場の建設が加速された。しかしながら、水汚染の現状は、いまだ深刻な状況にある。このような背景を踏まえ、本研究では、貴州省における生活下水処理場(9箇所)を対象とし、その運営実態についての調査を行った。そして現地調査を含めた包括的な分析・考察を行うことにより、具体的な課題を把握しつつ、改善策についても検討した。 中央政府が発表した指標である下水処理場の増設の達成を目指したため、貴州省地方政府では、下水処理場における投資資金と運転資金の不足、政府事業の非効率性及び冗員現象等の問題が日増しに深刻化してきた。またそれに伴って、多くの下水処理場がBOT方式またはTOT方式に変更することにより、「政府による全ての経営管理」から「民間企業の経営管理」に徐々に移行している。しかし、上述の問題は現在では改善されているものの、新たな運営方式による新しい問題が生じていることが明らかとなった。特に下水処理場の電力供給、廃水収集、監督管理などに関することは、多くの政府部門と関係する事柄である。政府自営の時代は、下水処理場における関係主体は政府自身の部門であった。しかし企業の自営に移行して、関係主体は政府と企業、さらには個人さえも関連してきてより複雑になっている。したがって、企業自営による生活下水処理場の善い面と悪い面を具体化して、新たな運営方式による監督管理システムの整備に関する一提言を加えた。

【2】20世紀中国と東アジア

辛孟軻:辛亥革命中的奉天:以庄复暴动为中心的考察(辛亥革命期の奉天:庄復暴動を中心に) 
以庄复暴动为代表的奉天辛亥革命,是民间武装与革命党合作的结果。这种合作体现了奉天革命区别于其他地区的特点,即缺少新军的支持,依靠与结社、土匪等民间力量的合作,采用“周边包围省垣”的策略,进而发动革命。正是由于这种复杂、不稳定的联合,使得整个革命过程缺乏统一指挥,各股民间武装并未全力投入革命,单就其实力而言,便不具备赢得革命的条件。从外部环境来看,东三省总督赵尔巽调度各路巡防队,并借助驻奉陆军的力量,有计划地镇压革命,给各地革命军以打击。日本对革命期间的奉天政局与革命军的行动均有重要影响,并因外务省与陆军省的政策分歧而表现出矛盾的行为。民间采取各自的方式应对革命带来的动荡,纷纷成立商团、民团、堡防等自卫团体。但一方面,这些组织由地方商绅操办,他们倾向首先维护自身利益;另一方面,因大多为临时组织,由众绅筹款维持,难免有金钱纠葛。因此,这些组织能在多大程度维护平民的生命财产安全,仍有待考证。另外,民众对革命的认识因其所处的社会环境不同而存在差异,并普遍表现出观望和中立的态度。总之,面对革命,奉天并非简单地分裂成“革命”与“反革命”两个阵营,而是与当地社会紧密结合,呈现出具有地方特色的面相。 关键词:辛亥革命;庄复暴动;奉天;日本对满政策
庄復暴動に代表される奉天辛亥革命は、民間武装と革命党の協力によるものである。この種の協力は奉天革命がほかの地域と異なる特徴を反映する。すなわち、新軍の支持に欠けており、結社、土匪などの民間勢力の協力のもと、「周辺から省都を包囲する」という策略を取り、革命を発動したのである。こうした連合は複雑かつ不安定であったため、革命の過程において指揮の統一性に欠け、民間武装も革命に全力を投じることができなかった。このような状況から見れば、革命が勝利する条件を有していなかった。外部環境から見ると、東三省総督趙赵尔巽が各路の巡防隊を調度し、奉天に駐在していた陸軍の力を借りた上で、計画的に革命を鎮圧し、革命軍に打撃を与えた。革命期間中、奉天の政局と革命軍の行動の両方に対して日本は重要な影響力を持つが、政策面における外務省と陸軍省の分岐によって矛盾した行為を取った。民間が各自の方式で革命がもたらした動乱に対応し、商団、民団、堡防などの自衛団体が組織された。こうした組織は地方の绅商によるものであり、彼らは自身の利益保護を最優先する。他方、多くは臨時的な組織であり、資金の調達によって維持されているため、金銭面のトラブルが避けられない。こうした組織は平民の生命・財産安全をどこまで保障できたについては検証の余地が残されている。さらに、民衆の革命に関する態度がそれぞれの置かれた社会状況によって異なり、情勢を伺って中立の態度を示すのが一般的であった。総じて、革命に対して、奉天では簡単に「革命」と「反革命」の陣営に分裂することなく、現地の社会と緊密に結合し、地方の特色に富んだ様相が呈されていた。 キーワード:辛亥革命、庄復暴動、奉天、日本の対満州政策 (周)
李龍雲:孙中山的“两支路线”与党治理论的发展(Sun Yat-sen’s ‘dual political orientations’ and developing party-state theory) 
中国的国民国家是通过革命党的党国体制建设而成的的方法形成了,那个这一理论的基础是孙中山的党治理论。在这个研究上针对这一问题,本文我将要从”两支路线”交叉的观点出发,梳理整理孙中山的政治历程,并且探讨在两支路线的相互作用下关系中发展党治理论的发展过程。所谓两支路线是,一个是追求西方式议会民主的护法路线,另一个则是主张革命党的革命独裁的党治路线。二次革命的失败以后,孙中山建立建党中华革命党,提出“训政党治”训政党治的革命党独裁理论(党治路线)。不过,他在参加护国战争和第一次护法运动的过程中,孙中山不是并非主张党治,而但是强调实行议会民主政治与恢复临时约法(护法路线)。在五四运动时期的时候,孙中山提出出版《建国方略》,改名“中华革命党”中华革命党为“中国国民党”中国国民党,再一次发展党治当值理论,强化革命政党(党治路线)。随后然后,他发动二次护法运动,试图在广东试图尝试两支路线的结合,但因遇到遭遇陈炯明兵变,最终总是失败了(并行路线)。为了继续革命活动运动,孙中山采用“联俄容共”联俄容共政策,特别引进苏联共产党的组织原理。1924年,在中国国民党第一次全国代表大会上,他着重非常强调以党建国和以党治国的必要性,决定了党治路线的优势地位(党治路线)。在这一个阶段,孙中山的党治理论基本大概完备了,其要点是由先知先觉的革命党建设国家,通过从革命主义的统治方式,实现由通过革命党独裁的党治,向完成三民主义及五权宪法的民主共和国的转变。孙中山虽于然1925年孙中山离世了,但可是继承其遗志的国民党最终成功完成了国民革命,建立成立了训政体制。这是孙中山的党治理论与党治路线的胜利。
中国の国民国家は革命党の党国体制が建設・構築した方法を通して形成されたが、その理論の基礎は孫中山の党治理論であった。研究上のこの問題に対して、本文は「両支路線」が交差する観点から出発し、孫中山の政治的歩みを整理し、両支路線の相互作用関係における党治理論の発展過程を検討する。いわゆる両支路線とは、1つは西洋式の議会民主を追求する護法路線であり、もう1つは革命党の革命独裁を主張する党治路線である。第二次革命の失敗後、孫中山は中華革命党を創設し、「訓政党治」の革命独裁理論(党治路線)を提起した。しかし、護国戦争と第一次護法運動に参加する過程において、孫中山は決して党治を主張しなかったわけではないのだが、議会民主政治の実行と臨時約法の回復を強調した(護法路線)。五四運動の時期において、孫中山は『建国方略』を出版し、「中華革命党」を「中国国民党」へと改名し、党治理論を再度発展させ、革命政党を強化した(党治路線)。その後、彼は第二次護法運動を発動させ、広東において両支路線の結合を試みたが、陳炯明のクーデターに遭遇し、最終的に失敗した(並行路線)。革命運動を継続させるため、孫中山は「聯蘇容共」政策を採用し、特にソ連共産党の組織原理を導入した。1924年、中国国民党第一次全国代表大会において、彼は党によって建国し、党によって国を治める(“以党建国和以党治国”)必要性を重点的に強調し、党治路線の優位的地位を決定付けた(党治路線)。この段階において、孫中山の党治理論は基本的に大部分が完成した。その要点は、先見の明を有する革命党が国家を建設し、革命主義の統治方式を通して革命党の独裁による党治を実現し、三民主義と五権憲法を有する民主共和国の完成へと転換させることである。1925年に孫中山はこの世を去るが、その遺志を継いだ国民党は最終的に国民革命を成功・完成させ、訓政体制を成立させた。これは孫中山の党治理論と党治路線の勝利であった。(和田)
宋新亜:1920年代初期归国的留日知识分子的探索:以郁达夫《茫茫夜》的创作为中心(1920年代初期に帰国した留日知識人の文学的葛藤:郁達夫「茫茫夜」を中心として) 
郁达夫归国后所创作的第一篇小说《茫茫夜》刊载于1922年5月发行的《创造季刊》创刊号。小说发表后,因为小说的“颓废倾向”和“提倡同性恋”而受到了读者的猛烈批判。郁达夫也撰写《〈茫茫夜〉发表以后》一文,针对读者的批评进行了回应。目前针对郁达夫初期小说的研究较为集中于《沉沦》,对于归国初所创作的小说《茫茫夜》的研究较少。本文拟通过对1920年代初期的文坛环境、文艺批评、时人回忆以及同时期日本旧制高等学校的“教养主义”的研究整理集中讨论两个问题:第一,小说中所呈现的同性友谊(male homosocial)是在怎样的文化差异下被误读为“同性爱”的。本文以此问题为切入点,通过对大正期日本旧制高校的精英意识对留日知识分子的影响、及同时期中国报刊杂志中的“同性爱”的社会意义的整理,考察归国初期留日知识分子与当时中国社会文化之间的鸿沟。第二,小说中所采用的第三人称“于质夫”的叙事手法系郁的创作中首次使用,写作时期也正逢《沉沦》遭受批判之际。本文拟通过文本、郁达夫日记、往来信件等资料,并对比郁之前对待批评的态度,考察其在1920年代的创作心态以及融入中国社会的尝试,并在此基础上将创造社第一期同人纳入考察视野,以其为中心考察1920年代初期归国的留日知识分子对中国社会的探索。
「茫茫夜」は郁達夫の帰国後初めての小説であって、主人公于質夫の眼を通して、作家自身の経験を描いた自伝的作品である。小説の発表後、批判の声が数多くあった。郁達夫は批判に対して、特に「デカダン的傾向」と「同性愛の提唱」について反論した。これまでの郁達夫初期作品に関する研究では、主に出世作の『沈淪』に重点が置かれており、「茫茫夜」に関する研究は少なかった。しかし、郁達夫という作家の内面を考える際には、「沈淪」に対する激しい批判を受けていた時、そして、一時帰国した時、というふたつの重要な節目は無視できないところであると考えられよう。本稿が「茫茫夜」に着目する所以である。さらに本稿では、この作品の中に、郁達夫のみならず、彼を代表とする1920年初期に帰国した留日知識人に共通する、留学生となり母国を離れていた後で現実の中国社会に作家として入って行った時に生じた独特の意識と彼らの主体性のありかについてもふれてみたい。郁達夫が置かれていた当時の文学環境や思潮などを整理することを通じ、「茫茫夜」とこの作品をめぐる郁達夫のテキストを精読することによって、1920年代初頭に彼が感じていたであろう、自身の目論見と当時の現実社会のギャップ、そして、その中で彼が現実の中国社会を受け容れようとした葛藤を跡付けたいと考える。
夏麒:由《学灯》里的施蛰存两篇谈起(《学燈》の施蟄存の二篇を巡って)  
上海《时事新报》副刊《学灯》,在新文化运动中,发挥了巨大的传播思想解放的作用。笔者的关注点在其哲学、美学、心理学领域的学术讨论,对新文学的影响方面。在调查京都大学影印版(1922年至1927年)的过程中,发现施蛰存在该副刊至少发表过两篇文章:1.《<流云>之我见》(1924年8月8、9日);2.《行为论是什么》(1926年8月26、27日)。其中《行为论是什么》该篇,在应国靖版施蛰存年谱及华东师范大学版施蛰存全集中,均没有出现过,可能是逸文。《<流云>之我见》是施蛰存对宗白华诗评的文章,但由此可以反观施蛰存自己在文学创作上的审美态度。《行为论是什么》是施蛰存翻译的,当时一份美国月刊《哈泼斯杂志》上刊载的行为主义心理学创始人约翰・华生(1878~1958)的关于行为主义心理学的一篇文章。本文将结合以上史料,具体分析施蛰存的初期作品《江干集》等,及其十年创作高峰期的代表作22篇(应国靖编订版)。从其对 “光线” 的画面描写和 对“道”的意境阐释,探讨他对宗白华美学思想的借鉴过程。再从其作品中表现出来的心理分析套路,反观他对行为主义心理学的借鉴过程。
上海《時事新報》の副刊《学燈》は、新文化運動のために大きく貢献した。《学燈》に掲載された哲学、美学、心理学諸領域の討論が、新文学にどう影響を及ぼしたのかを解明するために、京都大学所蔵のマイクロフィルム版(1922年から1927年まで)を調査した。そして、施蟄存の二篇を発見した。1.《<流雲>之我見》(1924年8月8、9日)。2.《行為論是什麼》(1926年8月26、27日)。2.は、応国靖版施蟄存年譜と華東師範大学版施蟄存全集になかったため、逸文の可能性がある。《<流雲>之我見》は美学者宗白華の詩についての評論である。この評論に施蟄存の審美態度が映し出されていると考えられる。《行為論是什麼》は施蟄存の翻訳作品であり、原文は行動主義心理学の創始者ジョン・ワトソンがアメリカの雑誌《ハーパーズ》に発表した行動主義心理学の文章である。本稿は以上に基づき、施蟄存の早期小説集《江干集》などと小説創作ピーク時の代表作22篇を分析し、「光の描写」と「道の境地」を巡って、施蟄存と宗白華の美学思想の関係性を議論する。更に、施蟄存の心理分析創作手法と行動主義心理学との関係性にも言及する。
高翔:抗战前国民革命军制式武器选定工作研究(抗戦前の国民革命軍における制式武器の選定工作に関する研究)
中国军队的武器制式混乱问题源于晚清,民国初年沉疴依旧。南京国民政府成立之初,国民革命军各部没有统一的武器制式标准,枪炮型号混乱异常,武器制式选定问题亟待解决。1928年11月,军政部兵工署成立,主管国军武器的研发和生产。创立之初,该署设计科便着手研究武器制式化问题,科长李待琛综合研究成果,撰写《规定制式兵器刍议》,确立了国军武器制式化的若干原则。1932年,第一次制式兵器会议召开,确定陆军各型武器制式。但此次会议过于仓促,所定武器制式多为技术上之优选,或缺乏实际检验,或难以仿制,并非国军武器制式的合适选择。第一次制式兵器会议结束后,兵工署并未停止对武器制式化的探索。兵工署在署长俞大维的领导下,大量引入留德人才和德国顾问,并借助德国提供的武器工作图样,初步具备了制式武器标准化生产的能力。1934年底,军事委员会组织召开第二次制式兵器会议,各审查组经过细致讨论,得出较详尽的制式武器审查意见。1935年,军制研究会召开,经过1年多的反复调研,参照制式武器审查意见,会议第三组最终确定了各型步兵主战武器的制式,长达7年的武器制式选定工作告一段落。
中国軍隊の武器制式の混乱は晩清にすでに見られており、この問題は民国初年に依然として存在していた。南京国民政府が成立した当初、国民革命軍の各部は統一した制式武器の基準を持たず、銃砲の型番が非常に混乱しており、武器制式の選定問題が喫緊な課題であった。1928年11月、軍政部兵工署が成立し、国軍武器の研究・開発及び生産を任されていた。兵工署が成立してまもなく、当署の設計科が武器の制式化問題に着手し、科長の李待琛が研究成果を『規定制式兵器芻議』としてまとめ、国軍武器制式化のいくつかの原則を確立した。1932年に行われた第一次制式兵器の会議では、陸軍各型番の武器制式が確定された。しかしこの会議が急いで行われたため、武器制式の多くは技術の優位性で選ばれたため、実際にテストされていなかったり、複製することが困難であったりするなど、いずれも望ましい国軍の武器制式ではなかった。第一次制式兵器会議が行われた後、兵工署が引き続き武器制式の問題に取り組んでいた。署長俞大維の指導の下、ドイツへの留学経験を持つ人材やドイツ人の顧問が大量に招聘され、またドイツの提供した武器工作の図様も参照された。こうした努力によって、兵工署が制式武器の標準化を規定する道への第一歩を踏み出すことができた。1934年末、軍事委員会が第二次制式兵器会議を主催し、各審査組の徹底した討論を経て、制式武器に関する詳しい審査意見が出された。1935年の軍制研究会では、一年あまりの間に繰り返して行われた調査研究、制式武器に関する審査意見を基に、会議第三組が最終的に步兵のメイン武器の制式を確定した。これによって、7年間にわたる武器制式の選定工作が一段落した。(周)
白石英子:王実味の小説について(关于王实味的小说) 
王実味(19069-1947)は、延安で中国共産党中央研究院中国文芸研究室の特別研究員として高い英語能力を見込まれて翻訳業務を担当していたが、1942年3月『解放日報』文芸副刊で雑文「野百合の花」を発表し、幹部の特権意識や腐敗を批判したことで、1940年から延安で始まっていた整風運動の批判対象とされ、糾弾、粛清、1947年に秘密裏に処刑された。王実味は河南省で生まれ、貧しい環境の中で苦学をしながら高い志を抱いて1925年秋に北京大学に入学、当時の中国社会の暗黒状況を憂っていたが『共産党宣言』を読み、祖国を救えるのは唯一共産党だと確信、1926年に入党した。他方、同時期、北京大学文学部教授であった徐志摩と知り合い、文学をこよなく愛する王実味は1925年冬から文学活動を始め、年末には処女作『休息』を完成させ、1930年に徐志摩編集の中華書局出版『新文芸叢書』第八種で発表した。また『小長儿与罐頭茘枝』を1929年10月に『新月』第二巻第八期にて発表している。これまでの王実味研究は、中国共産党による文芸政策の最初の犠牲者として政治的側面から行われており、文学者としての王実味の研究は進んでおらず、王実味の小説創作と徐志摩及び新月派との関連について、『小長儿与罐頭茘枝』を中心に分析考察を行う。
王实味(1906-1947)因英语水平高超,就任延安中国共产党中央研究院文艺研究室特别研究员,从事翻译工作,但后因1942年3月在《解放日报》文艺副刊上发表批判干部的特权意识和腐败问题的杂文《野百合花》,而成为自1940年开始的延安整风运动的批判对象,遭到批判和肃清,并于1947年被秘密处决。王实味出生于河南省,家境虽非殷实但志向高远,勤奋好学。1925年秋考入北京大学,因不满当时中国社会的黑暗,阅读《共产党宣言》,开始坚信惟有共产党才能救中国,并于1926年加入中国共产党。但与此同时,喜爱文学的王实味在大学期间还结识了时任北京大学文学系教授的徐志摩,并于1925年冬开始从事文学创作活动,同年底完成处女作《休息》,后刊载于1930年由徐志摩主编,中华书局出版的《新文艺丛书》第八种上。此外,1929年10月出版的《新月》第二卷第八期上,还刊载发表了王实味的短篇小说《小长儿与罐头荔枝》。有关王实味研究,目前大多集中在中共文艺政策的第一位牺牲者的政治方面上,而作为文学家的王实味研究却很少。本报告从王实味小说创作与徐志摩及新月派的关系出发,着重就《小长儿与罐头荔枝》进行分析和考察。
包賀喜格図:“蒙疆政权”时期西部内蒙古地区日语教育史研究(「蒙疆政権」時期における西部内モンゴル地域の日本語教育史研究) 
伪蒙疆政权下的日语教育可以分为前期的善邻协会在西部内蒙古地区的文化活动时期和后期的“蒙疆联合自治政府”时期两大部分。两个时期的日语教育政策和活动并不是孤立的偶然的历史现象,而是日本对华侵略政策,特别是满蒙政策自清末以来发展演变并在伪满洲国殖民侵略行动付诸实施这一背景下的产物。日本近代对华侵略政策中,文化侵略一直起着辅助军事、经济侵略的作用,这在伪蒙疆政权的日语教育政策的制定和活动的开展上得到了非常具体的体现。本文在介绍了伪蒙疆政权两个阶段日语教育产生的背景,即日本对华文化侵略政策,特别是“对华文化工作”在二十世纪前半期的演变过程及其对伪蒙疆政权的文化侵略活动的影响之后,主要围绕后期的“蒙疆联合自治政府”下的日语教育政策的内容以及在西部内蒙古地区的日语教育活动状况进行了较为具体的分析说明。希望以此能够还原当时日本“对华文化工作”政策及其活动在西部内蒙古地区开展的真实原貌,从而对伪蒙疆政权这一傀儡政权的形成和它所担负的殖民侵略作用形成更为全面的认识。
蒙疆政権下の日本語教育は、善隣協会が西部内モンゴルで文化活動を展開していた時期(前期)と「蒙疆聨合自治政府」時期(後期)の両時期に分けられる。両時期の日本語教育政策と活動は孤立した偶然的な歴史現象ではなく、日本が対中侵略政策、とりわけ清末以来発展してきた満蒙政策が満州国植民地支配の実行に移された背景下の産物である。近代における日本の対中侵略政策では、文化侵略は常に軍事・経済侵略を手助けする役割を果たしており、そのことは蒙疆政権下の日本語教育政策の設定と活動の展開においてかなり具体的に反映されていた。本報告は蒙疆政権の両時期において日本語教育が始められた事情、すなわち日本の対中文化侵略政策とりわけ「対支文化事業」の20世紀前半期における変遷過程とそれが蒙疆政権の文化侵略活動に与えた影響を紹介した後、後期の「蒙疆聨合自治政府」時期の日本語教育政策の内容および西内モンゴルにおける日本語教育の活動状況について比較の視座から具体的な考察を行った。この作業を通して、当時西部内モンゴル地域で展開されていた日本の「対支文化事業」政策およびその活動の全体像を復元し、傀儡政権である蒙疆政権の形成とそれが担った植民地支配への役割についてより全面的な認識を得られることを期待する。
李珆萱:中華民國農技援泰的新面貌:退輔會參與泰王山地計劃(1973-1977)(中華民国のタイへの農業技術援助に関する新たな様相:退輔会の泰王山地計画への参与(1973-1977)) 
對外援助(Foreign Aid)是國際關係中常見的外交工作之一,而國際關係錯綜複雜,援助政策的走向,深受援助國政治、經濟與外交的目的,有著不同的實施過程。例如二戰後,美國施行在歐洲的援助政策以復興各國經濟為主,但在東南亞開發中國家,卻是建立於反共聯盟的基礎上。戰後遷往臺灣的中華民國政府(以下簡稱國府),為了維持戰前國府的國際地位,亦嘗試開拓援助他國的外交工作。然而,甫經歷數場戰事的國府,其政治、經濟條件尚不足以用貸款或投資的方式援助他國,故以現有的技術人才提供農業技術,成為國府較易達成的援助手段。國府利用農業技術援助友邦,往往以1958年越南經濟考察團為開端。不過,農技援外的濫觴,是國府從1961年起,向美國尋求經費提出先鋒案(Operation Vanguard)派遣農技團(農耕隊),開啟有計劃性、有組織的農技援助非洲國家之外交工作。國府援助動機在於獨立後的非洲諸國,擁有左右聯合國議案的關鍵票數。自始之後,農技團成為國府拉攏未開發國家或開發中國家的外交手段,也是展現外交成果的具體象徵。農技援外,往往以派遣友邦的農技團最廣為人知。然而,援外是外交工作之一,而外交工作的模式,可取決於援助國與受援國的互動狀態。也就是說,國府與不同國家的交往,其各自分歧的外交關係,應該產生截然不同農技援外的樣貌。本文先行描繪泰王蒲美蓬(King Bhumibol Adulyadeij 1927-2016)創建泰王山地計劃(Royal Hill Tribes Assistance Project)的緣由,然後邀請臺灣退輔會參與的經過。接著,本文利用退輔會藏機關檔案,呈現自1973年2月開始,退輔會派遣宋慶雲前往清邁,參與山地計劃之安康農場(Ang Khang)建置的整體細節,勾勒出國府農技援泰的新面貌。 關鍵詞:農技援泰、泰王山地計劃、退輔會、中泰關係
対外援助(Foreign Aid)は国際関係においてよく見られる外交工作の1つである。国際関係が複雑に錯綜しているため、援助政策の行方は援助国の政治・経済・外交目的に深い影響を受け、実施過程は異なったものとなる。例えば第2次世界大戦後、アメリカがヨーロッパで実施した援助政策は各国の経済を復興させることを主としていたが、東南アジアの発展途上国において、それは反共連盟の基礎の上に構築された。戦後台湾に移った中華民国政府(以下、国府と省略する)は戦前の国府の国際的地位を維持するため、他国を援助する外交工作の開拓を試みた。しかしながら、複数の戦争を初めて経験した国府は、借款や投資の方式で他国を援助する政治・経済的条件が不足しており、故に技術者が農業技術を提供するという現在の方式が、国府にとって比較的達成しやすい援助手段となった。国府が農業技術を利用して友好国を援助する方式は、1958年のベトナム経済考察団が端緒とされている。しかし、農業技術の対外援助の起源は、国府が1961年からアメリカに対して経費の支出を求めた先鋒案(Operation Vanguard)が派遣した農業技術団(農耕隊)であり、計画性と組織性を有する農業技術援助をアフリカの国家に行うという外交工作を始めたのであった。国府の援助の動機は、独立後のアフリカ諸国が国際連合の議案を左右するほどの投票数を有したことにあった。この後、農業技術団は国府が未開発国家や発展途上国を懐柔する外交手段となり、外交成果を示す具体的な象徴となった。農業技術援助以外に、友好国に派遣する農業技術団が最も広く知られている。しかしながら、対外援助は外交工作の1つであり、外交工作のモデルでもあり、援助国と被援助国の相互交流の状態によって決まる。つまり、国府と他の国家の交流は、それぞれ異なった外交関係が明らかに異なった農業技術対外援助の様相を生み出している。本文はまずタイ国王ラーマ9世(King Bhumibol Adulyadeiji 1927-2016)が創設した泰王山地計画(Royal Hill Tribes Assistance Project)の原因を叙述し、台湾の退輔会に参加を要請した経過を叙述する。次に本文は退輔会が所蔵する機関档案を利用し、1973年2月から始まった退輔会の宋慶雲のチェンマイ派遣と、宋慶雲が参加した山地計画の安康農場(Ang Khang)設置に関する全体と細部を描き、国府のタイへの農業技術援助の新たな様相を描く。 キーワード:タイへの農業技術援助、泰王山地計画、退輔会、中タイ関係(和田)
楊勝文:鍾理和的兩個故鄉(鍾理和と二つの故郷) 
鍾理和の作品について今までほとんどの学者は「親家與山歌」を鍾理和の故郷四篇作品の最後に紹介したが、作品の完成順序から見ると、「阿煌叔」が最後の作品だとわかる。また、何故鍾理和は故郷四篇作品において「親家與山歌」という楽観的な作品を書き、最後の一篇「阿煌叔」には結局悲観的な感情を入れたのかについて今までほとんど述べられていない。鍾理和は1952年の台湾に対して悲観的な考えを持っていたため、故郷四篇作品の最後に「阿煌叔」を仕上げた。その時の鍾理和の台湾観は悲観的である。長編小説〈笠山農場〉にはこう書かれている。「以前他在中國畫上常常看見的那種傍山依水,表現著自給自足與世無爭的田家風景,總以為不外藝術家心目中的理想境界,在天底下決然找不到的,卻不期在這裡遇見了。(中略)這些田家在田壟?中錯落掩映,儼然一幅圖畫,正像他在中國畫上所看見的那樣。(昔彼が中国画でよく見たあの山水は、自給自足し平和に暮らす田園風景を表現しており、それは芸術家の心中の理想的な境地に他ならず、この世界には絶対に見つけることなどできるはずがないと常々思っていたのだが、ここで図らずも出会うことができたのだった。(中略)それらの農家は田の畦の間に入り合いながらくっきりとしたコントラストを見せており、あたかも一幅の絵のようで、それはまさに彼が中国画の中に見出したあの風景そっくりだった。)張良澤は「在此,作者不但肯定了即使是土生土長的台灣人,終將受到中國文化的影響,也道出他理想中的中國。(ここで作者は、たとえ生粋の台湾人であっても、最終的には中国文化の影響を受けてしまうことを是認しているだけでなく、彼の理想上の中国についても述べている)」と鍾理和の理想上の中国についても触れている。鍾理和の中国観は美化されており理想的である。
關於鍾理和故鄉四連作的作品介紹層面,目前的學者都把鍾理和的「親家與山歌」放到最後面才介紹。但是依照作品的完成順序而言,「阿煌叔」才是最後的作品。再者,為什麼鍾理和在故鄉四連作中寫下「親家與山歌」這樣樂觀的作品之後,卻在最後一篇作品「阿煌叔」中寫入的悲觀的情感這一件事情,到目前為止的學者幾乎都沒有討論到。我認為由於鍾理和對於1952年的台灣抱持著悲觀的看法,因此才在故鄉四連作的最後一篇「阿煌叔」寫入了悲觀的情感。那時鍾理和的台灣觀是悲觀的。鍾理和的長編小説〈笠山農場〉寫著以下的話:「以前他在中國畫上常常看見的那種傍山依水,表現著自給自足與世無爭的田家風景,總以為不外藝術家心目中的理想境界,在天底下決然找不到的,卻不期在這裡遇見了。(中略)這些田家在田壟中錯落掩映,儼然一幅圖畫,正像他在中國畫上所看見的那樣。張良澤認為「在此,作者不但肯定了即使是土生土長的台灣人,終將受到中國文化的影響,也道出他理想中的中國。由此可見鍾理和的中國觀是受到某種程度美化與及崇拜理想的。
櫻井修平:司馬遼太郎的東亞史觀與《台灣紀行》(司馬遼太郎の東アジア史観と『台湾紀行』) 
司馬遼太郎,一位代表近代日本的歷史小說家。晚年司馬遼太郎停止書寫小說,透過由自行的遊記《街道漫步》與思考日本的《這個國家的樣貌》等書寫進行統整並推廣自己的思想。 本文以司馬遼太郎的後期書寫作品與相關歷史書寫為主,透過文本分析建構司馬遼太郎本身所堅持的核心觀念「合理主義」。擺脫以往擁有政治色彩的「司馬史觀」形象,回歸司馬遼太郎所強調的理性並多元的思想。 由該思想與司馬遼太郎東亞歷史敘述,訂出司馬遼太郎的東亞史觀。再從司馬遼太郎的東亞史觀看起晚年書寫近代台灣而廣受注目的著作《台灣紀行》給予一個新的定位。 關鍵字:司馬遼太郎、合理主義、東亞史觀、《台灣紀行》【章節安排】一、前言/二、司馬遼太郎的合理主義/三、合理主義之下的東亞史觀/四、由司馬遼太郎的東亞史觀分析《台灣紀行》/五、結論
司馬遼太郎、近代日本を代表する歴史小説作家である。晩年司馬は小説活動をやめ、紀行文『街道をゆく』と日本について考えた『この国のかたち』など、司馬自身の考えを整理し、作品として広めてきた。 本研究はそのような司馬の後期作品を中心に分析し、司馬自身の理性的観点から多様性を重視した核心的概念「合理主義」を見出す。この概念をもとに司馬の東アジア史観を定義し、その上で当時日台で議論になった司馬の紀行文『台湾紀行』の真髄を見出す。 キーワード:司馬遼太郎、合理主義、東アジア史観、『台湾紀行』 【論文概要】第一節 はじめに/第二節 司馬遼太郎の合理主義/第三節 合理主義から見出した東アジア史観/第四節 司馬遼太郎の東アジア史観から分析した『台湾紀行』/第五節 結論

【3】21世紀課題群をめぐる文理の対話

康越:中国超大城市养老问题研究:以北京市为例(中国の「超大都市」における高齢化問題:北京市を事例として) 
作为超大城市的北京在城市规模不断扩大的同时,人口老龄化问题也开始日益凸显,存在老年人口总量大、分布不均衡、高龄化趋势明显,失智、空巢及失独家庭增速快等诸多问题。虽然近年北京市出台一系列有针对性的应对措施,并初见成效,但由于受基础条件薄弱、养老人才队伍建设滞后、养老服务企业和社会组织总量小等各种因素制约,养老服务供需矛盾仍较为突出,特殊老年群体的养老问题仍未得到充分的解决。上述问题仍需从长计议,通过科学规划、细化相关政策,逐步推进。 关键词:超大城市、养老、北京
2014年、中国政府は新しい都市区分基準を公表し、市内常住人口が1000万人を越える都市を「超大都市」と定めた。なお、2016年の最新統計によると、現在中国ではこの基準に達する都市は八つある。即ち、北京、上海、広州、深圳、重慶、天津、成都、武漢などである。むろん「超大都市」は中国改革開放三十年に伴う急激な都市化がもたらした結果である。都市規模の拡大に伴い、近年、これらの「超大都市」は急速な高齢化問題にも直面している。本論文では北京市を事例に、「超大都市」の高齢化の実態を明らかにしたうえで、その今後の対策について論じたい。 キーワード:超大都市、高齢化、北京
金吉男:论代际正义理论在近当代优秀建筑保护中的适用(近当代優秀建築物の保護における世代間正義理論の運用) 
建筑,是人类居住环境中重要的组成因素之一,对其之保护体现了人类在保护自然环境的同时,对具有特殊意义之人居环境的重视,是更高层次上环境法律保护价值的体现。但中国作为一个具有历史底蕴之国,“重古轻今”的建筑保护观依然存在。由此,作为人居环境重要组成部分之一的大部分近当代优秀建筑在具备被认定为文物之资格前便遭拆除。因此,在对文化遗产法律体系内法律客体之现有概念的不足做出分析的基础上,本文提出了 “近当代优秀建筑”之概念,对需要保护之法律客体进行了重新界定。认为自鸦片战争至20世纪末期的历史时期内所建成的具有保护价值的建筑,都应作为一个统一的法律客体被保护。进而通过客体重构——主体扩充的进路,在对现有建筑遗产保护理论做出臧否的基础上,运用代际正义理论论述了保护近当代优秀建筑的必要性,认为近当代优秀建筑在本世代具有稀缺性;对后世代具有价值性;且对其的保护具有现实性,符合代际正义理论的内涵,具有现实的意义。 关键词:近当代优秀建筑;代际正义;法律主体
建築物は、人間にとって、社会環境の重要な一部であり、それに対する保護は必然となる。すなわち環境法の保護対象として自然環境が位置づけられるようになり、その表裏一体の関係として、社会環境の保護は、環境保護法律の立法価値を表すと考えられる。しかしながら、歴史故国である中国では、建設された時代が古い建築物が、より重視されるという観念がいまだ存在している。したがって、社会環境の重要な部分である近現代における優秀建築物の大部は、文化財として認定される前に解体されたことにより、社会環境自体も破壊されてしまったのである。そこで本研究では、文化財保護体系における法律客体の概念の不足を分析・評価した上で、「近当代優秀建築物」という新たな概念を提示した。すなわち法律で保護される必要がある法律客体を修正し、アヘン戦争から20世紀末にかけての時期に建設された保護価値のある優秀な建築物に対して、統一された法律概念を設け、保護すべきであると主張した。さらに、先行研究にみられる建築物保護の関連理論を批判的に論じた上で、近当代優秀建築物は現世代にとって希少性があり、また未来世代にとっても価値があり、これら建築物自体に対する保護は現実性があるという結論を導いた。さらに近当代優秀建築物の保護のために、世代間正義理論を運用すべきであるとして、論考を深めた。
楊霊琳:谁是最后的王者?:浅谈对刘慈欣SF小说的一点看法(最後の王者は、誰だ?:劉慈欣のSF小説『三体』について) 
征服了大自然,如王者般统治了地球几十万年的人类,在《三体》的世界里灰飞烟灭。与大多数科幻作品不同,《三体》中的人类并没有被描写成总是能在毁灭的最后一刻力挽狂澜、拯救了自身、拯救了地球的战无不胜的王者。而是在面对一张薄薄的小纸片时就已脆弱得不堪一击。可以说《三体》与诸多科幻作品最大的不同就是,它将人类对自身建造的战无不胜的王者形象碾得粉碎。那么,在《三体》中,是如何将人类的王者形象碾碎的?碾碎后新的王者是谁?《三体》这样的写作视角对今后文学的发展又有着怎样的影响?本文企图通过分析《三体》的三部曲,来试着探讨一下上述的几个问题。
大自然を征服し、地球の支配者のような存在である人類は、劉慈欣(1963-)の『三体』(2006-2010)のSF小説の中で、一瞬で絶滅してしまった。他のSF作品と違い、『三体』に描かれる人類は、自分たちの絶滅を阻止し、地球上の全ての生物を救い、すべての生物を支配できる、無敵な支配者のような存在ではない。『三体』の中の人類は、一枚の極薄い小さな紙きれによって簡単に絶滅させられた。人類の勝者のイメージを打ち砕くという点は、『三体』が他のSF作品との最も異なるところと言えるだろう。『三体』の中では、人類の支配者の姿をどのようにして壊していくのか、そして、新たに打ち上げた最後の支配者は一体誰なのか?『三体』が人類の最終の支配者の姿を壊した創作視点の提起は、今後の文学の発展にとって、一体どのような意味があるのか。本論文は、劉慈欣の『三体』シリーズを分析することによって、上記疑問の探求を試みることである。
黃沛瑜:『踏血尋梅』の王佳梅についての考察:中国大陸から香港へ移住した青少年に迫る社会問題を中心に(解析《踏血尋梅》中對王佳梅的人物刻劃:淺談從內地移居香港的青少年所面對的社會問題) 
本報告では香港映画『踏雪尋梅』(フィリップ・ユッグ監督・脚本、2015)を取り上げ、中国大陸に生まれた女主人公、王佳梅の香港へ移住後の遭遇に焦点をあてることで、香港における「本土意識」の一側面について考察したいと思う。香港は1997年の返還から中国大陸との関係が不安定な状態にある。双方の政府は融合に努めているのに、香港の市民が一方的に中国大陸を拒否しているという状況が存在している。このような状況を説明するために、政治の要素はあまりにも重要視される一方で、香港の人々が大陸の人々に対して持っている独特の感情にはあまり注意が払われていないようである。本報告では、大陸に生まれ香港社会に馴染みたいという強い希望を持つ王佳梅の視線を借りて、香港社会がどのような基準で外の人を受け入れるか否かを決めているのかについて考察する。彼女は香港へ移住後、貧乏な家で暮らすことを余儀なくされたり、学校で差別を受けたり、低収入の仕事ばかりをしたりした。王佳梅の遭遇を分析してみると、彼女がこのような境遇に陥ったのは、言語や家といった社会的背景が重要な原因としてあげられる。これは、大陸から香港へ移住する、いわゆる「新移民」の青少年の香港社会におけるイメージと重なる。それは、香港社会の排他性を示していると同時に、また「香港人」というアイデンティティに不可欠な要素もここから浮かび上がってくるのである。
是次報告以香港電影《踏血尋梅》(翁子光導演、編劇,2015)為題材,透過分析女主角王佳梅移居香港後的遭遇,藉其外來者的角度探討香港的「本土意識」問題。香港於1997年回歸後,中港關係一直處於不穩定的狀態。雖然中港政府致力促進兩地共融,然而部分香港市民仍然單方面向中國內地表示抗拒。現有的討論偏向以兩地政治模式的差異來說明相關問題,當中卻忽略了香港市民對內地人民抱有的特殊情感。是次報告將透過王佳梅的視線,觀察香港社會以何等準則來決定是否接納外來人士。王佳梅出生於內地,抱著融入香港、重過新生的希望移居香港。然而,她到香港後才發現,她的家庭過著貧困的生活。她在學校也受到各方面的歧視。輟學後,她也只能從事低收入的工作。王佳梅之所以在香港遇到這些困境,主要是因為她的語言習慣和家庭背景等社會因素。這恰恰是從內地移居香港,即所謂「新來港」青少年的縮影。這不但反映了香港社會中的排他性,同時也帶出了「香港人」這身分認同中不可或缺的因素。

【4】まちかねCAFEと質量分析プロジェクト

角野浩史:質量分析で地球のダイナミクスを探る(以质谱分析探讨地球的动力学
地球のダイナミックな活動に伴う莫大なエネルギーは、火山噴火や地震といった地殻変動として解放され、人間社会に大きな災害をもたらす。その兆候は、地下深部から放出される火山ガスや温泉水、湧水などに含まれる、さまざまな元素の濃度や同位体比に現れることがある。例えばヘリウムの質量数3と4の安定同位体の存在度比(3He/4He比)は、大気や海洋、地殻、マントルそれぞれにおいて異なるため、温泉水や火山ガスの3He/4He比の地域的分布から、マントルから上昇したマグマからのヘリウムの放出状況を把握でき、あるいはその時間変化から、マグマの活動度もモニタリングできる。また過去に噴出した溶岩や、断層を埋める鉱物の中で、カリウムの放射性同位体40Kの壊変で生じたアルゴンの同位体40Arの蓄積量からは、過去の火山噴火や地震の年代がわかる。このように同位体は、過去と現在の地球の活動を知る上で有力なトレーサーであるが、その分析には目的成分の分離抽出・精製処理と、大型の質量分析計が必須であり、数時間~一日程度の時間分解能で、かつ現場でのデータ取得が要求される地殻変動のモニタリングには対応できていない。そこで我々は、可搬であり簡便に運用できる質量分析計による、リアルタイム・オンサイト分析の開発を進めている。
随着地球的动态运动而产生的巨大能量,以火山爆发和地震等地壳运动的形式被释放出来,给人类社会带来了巨大的灾难。然而我们可以通过分析地下深处放出的火山气体、温泉和泉水等物质中包含的各元素的浓度及同位素比来进行预判。例如,对于元素氦而言,质量数3和4的稳定同位素存在比(3He/4He)在大气、海洋、地壳或地幔中各不相同。因此,可以从温泉和火山气体的3He/4He比的区域分布中掌握从地幔涌出的岩浆的氦释放状态。也可以从时间变化来监测岩浆的活跃程度。再或者,从埋藏在以前喷出的熔岩或断层里的矿物中,测出氦的放射性同位素40K衰变而生成的氩的同位素40Ar的蓄积量,则可以推测火山喷发或地震发生的年代。可见,同位素是了解从古至今地球运动状况的有力的示踪剂。但在分析同位素的时候,需要对目标成分进行分离提取/提纯处理,且需要利用到大型的质谱分析仪。但是地壳运动的监测又需要仪器时间分辨率达到数小时到一天左右时间,且需要在现场测取数据,因此用现有设备难以实现测定。对此,本研究着眼于开发易操作的便携式质谱分析计来实现实时、现场分析。(張・胡)
河井洋輔:隕石から探る太陽系の起源と進化(从陨石来探索太阳系的起源与进化) 
太陽系の起源と進化過程を明らかにする上で、天体望遠鏡を使った観測的なアプローチに加え、隕石など地球外物質を調べる物質科学的な手法は必要不可欠である。本報告は、そもそも隕石とは何かという話題から始め、現在の太陽系がどのように形成されたのか、その形成モデルが隕石の分析によってどのように「制約」されているのか説明を行った。隕石は、惑星やその前段階である小天体(微惑星、原始惑星)の「かけら」である。物質科学的な手法では、隕石に含まれる元素存在度や同位体比に着目する。例えば、放射性同位体の半減期が一定であることを利用し、隕石に含まれる親核種と娘核種の存在量を調べれば、その母天体がいつ形成されたのかを知ることができる。このような手法を使うことで、太陽系が45億6700万年前に形成されたこと、そこから2千万年以内には惑星が形成されていたことなどが明らかにされている。また元素存在度などから、月や火星からも隕石が飛来してきていることが分かっており、それらの進化過程を明らかにする上で重要な試料となっている。
了解太阳系起源与进化过程时,除了可以通过天文望远镜进行观测之外,调查陨石等地球外物质这种物质科学式手法同样必不可少。本次报告,先说明了陨石是什么,再解释了现在的太阳系如何形成,最后讨论了陨石分析对确定太阳系形成模型起到了何种作用。陨石是行星或者行星生成前阶段的小天体(微行星、原始行星)的碎片。物质科学式手法关注于陨石中含有的元素存在度和同位素比。例如,由于放射性同位素的半衰期是确定的,利用这一原理,只要测的陨石中母核种和子核种的存在量,即可确定母天体的形成时间。通过这种手法,可推测得到太阳系形成于45亿6700万年前,而行星则是在之后的2千万年以内形成。另外,分析陨石中元素存在度等,可知有陨石来自月球或火星,这也成为进一步分析月球、火星等的进化过程提供了重要的样本。(張・胡)
中山典子,豊田岐聡:多成分ガス同時計測から地球表層の環境を探る(通过多成分气体同时检测来探查地球表层环境) 
ガスの成分や濃度を測定する「ガス分析」は、各々のガス成分が持つ特有の生成・消滅過程や、特徴的な物理・化学的性質を巧みに利用することで、地球環境に関わる様々な事象を探る「化学トレーサー」として有効である。例えば、大気や海洋、陸域、生物圏における物理・化学・生物が関係する諸過程の追跡や、それらが組み合わされて生じる物質循環の定量的な評価が可能となる。しかし、“地球システム”と言われるように、地球科学が対象とする事象には様々な過程が内包されており、ある事象やその変動を1つのプロセスだけで説明できることは稀である。そのため「多成分ガス分析」によって、関係するあらゆるプロセスの状態を、同時にかつ連続的に測定・追跡することが重要となってくる。しかし、各々の濃度が大きく異なる多成分ガスをオンサイトで同時測定することは容易ではない。現在、小型の超高分解能質量分析計 (MULTUM)を活用した多成分ガスの同時連続測定法の開発を進めている。本発表では、海水温の変動や海氷の生成・融解などの諸過程を定量的に見積もるためのトレーサーガスとなる希ガス(Ne, Ar, Kr, Xe)や、生物代謝活動と密接に関係し温室効果ガスとなるCO2とN2Oの同時分析について紹介する。
“气体分析法”巧妙地利用了各种气体特有的生成消灭过程,以及具有特征性的物理和化学性质,对气体的成分和浓度进行检测。作为一种“化学追踪剂”,能够有效地探查与地球环境相关的种种现象。例如,可以追踪大气、海洋、陆地和生物圈中和物理、化学、生物相关的各个过程,还可以对各过程组合产生的物质循环进行定量评价。但是,正如“地球系统”这个说法一样,地球科学当中包括了各种现象和过程,很少单用一个流程来说明某种现象或变化过程。因此,通过“多成分气体分析”同时且连续地对所有相关的过程状态进行测定和追踪就变得很重要。但是,在现场对各种浓度差异很大的气体进行同时测定并不是一件容易的事。现在,针对这个问题,正在开发利用小型超高分辨率质量分析仪(MULTUM)对多成分气体进行同时连续测定的方法。带有追踪性的稀有气体(Ne, Ar, Kr, Xe)可以用于定量估测海水温度的变动和海冰生成、融化等过程,而本次发表就是对这类气体,以及这类气体与生物新陈代谢密切相关的温室气体—二氧化碳、一氧化二氮的同时分析作了介绍。(許・胡)
青木順,豊田岐聡:多重周回飛行時間型質量分析計の基本原理と応用分野(多重型飞行时间质谱仪的基本原理和应用领域) 
本発表では、計測技術として様々な分野で用いられている質量分析技術について、その基本原理と応用されている具体例について説明する。質量分析では各種の物理現象を応用し原子・分子レベルで物質の質量を計測している。世の中の物質はそれぞれ固有の質量を持っているため、精密に質量を測定することは物質種の特定につながる。阪大の質量分析グループでは、独自に開発した技術である多重周回飛行時間型質量分析計・MULTUMを用いて研究を進めている。このMULTUMの特徴は小型でありながら大型装置に匹敵する計測性能を有することであり、可搬型にして測定現場で直接的に精密な計測が可能になる。この特徴を活かした具体的な応用として、環境汚染の測定、 火山ガスの分析、 病気の診断などが検討されている。
质谱分析技术是一种广泛应用在各领域的计量检测技术,而本次发表就是介绍其基本原理和应用实例。质谱分析能应用各种物理现象,在原子/分子层面测定物质质量。世界上各物质有其固定的质量,因此可以通过精密测定某物质的质量来确定其为何种物质。大阪大学的质谱分析团队利用自主研发的多重型飞行时间质谱仪“MULTUM”来开展研究活动。MULTUM的特征在于小型且同时具有与大型仪器匹敌的性能,故而能作为便携式仪器直接在现场进行精准的测定。利用这一特性,能在环境污染的测定、火山气体的分析、疾病的诊断等多个领域开展应用。(张・胡)
古谷浩志,紀本岳史,豊田岐聡:単一微粒子質量分析計で探る中国PM2.5大気汚染(通过单颗粒质谱仪分析中国PM2.5大气污染) 
「PM2.5」とは、粒径が2.5 m“以下”の大気中に浮遊する微小な液滴や固体粒子(Particulate Matter)のことである。工場の煙、自動車の排気ガスの煙、野焼きや森林火災の煙、春の風物詩である黄砂、波しぶき、全てPM2.5である。この身近なPM2.5、酸性雨や地球温暖化といった環境問題から人への健康被害にまで、これまた身近な環境問題に深く関与している。特に中国では、近年の飛躍的な経済発展に伴って大気中のPM2.5濃度が数100 g/m3にも達し、深刻な大気汚染問題となっている(日本やアメリカのPM2.5環境基準は24時間平均で35 g/m3以下かつ年平均で15 g/m3以下)。そこで我々は、先端粒子測定装置である単一微粒子質量分析計を北京市に持ち込み、中国清華大学の研究グループと共同でPM2.5の詳細な化学組成を明らかにすることを目的にPM2.5大気観測を行った。本発表では、同大気観測で得られたPM2.5粒子1つ1つの化学組成データの詳細な解析から明かとなった、北京市PM2.5粒子の化学組成の特徴、それらから推測されるPM2.5発生源や生成機構について紹介する。
“PM2.5”指的是粒径在2.5μm以下的悬浮在大气中的固态和液态颗粒物。工厂废气、汽车尾气、烧荒或森林大火、黄沙、海盐都可能产生PM2.5。从酸雨、全球气候变暖等环境问题到个人健康问题,PM2.5与这些切身问题都息息相关。尤其在中国,近年伴随经济高速发展,PM2.5浓度也达到了100μm/m³,成为了严重的大气污染问题(日本、美国等国的PM2.5环境标准为日均35μm/m³以下,且年均15μm/m³以下)。为了查明PM2.5的组成成分,我们同中国清华大学的研究团队通力合作,把先进的粒子测定装置——单颗粒质谱仪带入北京市,对大气中的PM2.5进行了测定。这次报告,将围绕观测获得的PM2.5颗粒,对其化学组成类型进行逐一介绍,以说明北京PM2.5颗粒的化学组成的特征,并推测PM2.5的发生源和形成原理。(胡)
山本敦史:地域での環境モニタリングの重要性と政策への反映(区域环境监测的重要性以及反映政策的情况) 
化学産業はエネルギー・気候変動等環境問題解決の鍵を握る分野である一方で、化学産業が生み出す多様な化学品に含まれる化学物質による健康リスク、環境リスクは最小化されなくてはならない。持続可能な開発に関する世界首脳会議 (WSSD) における 2020 年目標に基づき、透明性のある科学的根拠に基づくリスク評価手順を用い化学物質適正管理の取組みが進められている。化学物質には様々な性質を持つものが含まれるため、巨視的・全域的な手順に加え、局地的なリスク評価手順も取られることが望ましい。質量分析は目の前の環境にどのような化学物質が含まれるかを調べる上で最も有力な手法の一つである。一例として地域における合成洗剤について紹介する。環境中の界面活性剤の存在状況を質量分析により調査し、リスク評価を行い、これまでの対策が現状でも有効かどうかについて検討した。また、質量分析は分析対象を事前に定めないノンターゲット分析が可能である。この分析手法はこれまでの化学物質管理から漏れていた化学物質がどの程度存在するかを知ることができる手法として注目されている。都市環境におけるノンターゲット分析の例についても報告する。
化学产业是解决能源不足、气候变动等环境问题的关键领域,但同时在生产化学制品时也会产生各种化学物质,需要将其所带来的健康威胁和环境风险降到最低。为实现可持续发展世界首脑会议(WSSD)中制定的2020年目标,正在尝试构建有科学依据础且具有透明性的风险评估方法,以能够对化学物质进行妥善管理。化学物质中可能含有性质各异的多种成分,故而在全领域的宏观评估之外,还期待有某种方法能有效评估局部风险。质谱法是检测眼前的环境中存在的化学物质的最有力的方法之一。在此以合成洗涤剂为例子进行简单介绍。通过质谱法检测环境中存在的表面活性剂,并对其进行风险评估,从而讨论至今为止的对策在问题解决上是否有效。而且,质谱法也可以对事前不确定的物质进行非针对性分析。通过这种分析方法可以知道至今为止采用的化学物质管理中遗漏的化学物质的存在状况,因而受到广泛关注。在这次的发表中,也会对城市环境检测中使用非针对性分析法的例子进行报告。(許・胡)

分科会②(8月27日,13:30-15:30)
分组讨论会②(8月27日,13:30-15:30)

【C】座長:柳鏞泰(韓国・ソウル大学)

潘宗億:The Demonization of Chinese Courtesans in Late Qing Shanghai: Wu Jianren’s Eyewitness Statement in Haishang Mingji 
This article proposes to provide an alternative perspective on new wenren (文人) of younger generation’s literary representation of courtesans in the Foreign Settlement of Shanghai during the last decade of the Qing dynasty by a close reading of The Sensational Biographies of the Four Great Golden Diamond Cutters from Shanghai (Haishang mingji si da jingang qishu海上名妓四大金剛奇書, 1898)(Haishang mingji) by Wu Jianjen (吳趼人, 1866-1910). This article as a whole will explore how Wu Jianjen shows his mentality of demonizing the late-Qing courtesans in the Foreign Settlement of Shanghai as the social evil at his time and the significance of this mentality. In doing so, this article tries to locate Wu and his literary representation of the courtesan in the structural transformation of the Foreign Settlement of Shanghai. This reading strategy means to make a contrast between Wu Jianren’s literary Shanghai courtesans and the structural transformation of the society of the Foreign Settlement of Shanghai.
The first part of this article will punctuate upon several particularities of Wu Jianren as a new wenren as compared to Wang Tao (王韜, 1828-1897) and of his novel writing by locating him at the sociocultural context of the late-Qing Foreign Settlement of Shanghai, especially the rise of new print culture and the formation of the new wenren. Next, the second part moves to Wu Jianren’s literary representation of the late-Qing courtesan in Shanghai by a close reading of his Haishang mingji. It intends to show how the historical transformation of the relationship between the courtesans and traditional literati in particular and the changing society of Shanghai in general are represented in his Haishanghai mingji. It means to illuminate how the structural transformation of Shanghai society was reproduced in the changing structure of clientele in the Shanghai courtesan industry. Finally, the third part turns to demonstrate how and why Wu Jianren tended to demonize the Shanghai courtesan by focusing on a close reading of Haishang mingji. It will show the demonization of Shanghai courtesan as the social evil is Wu Jianren’s first step to expose the self-corruption/ self-demonization of the Foreign Settlement of Shanghai (or China as a whole) along with his concern over newspapers’ role in the publicization of Shanghai courtesans and its social impact on the society in general.
青野繁治:文革后中国大陆邂逅台湾文学的经过令人深思(文革後における中国の台湾文学発見の経緯が興味深い) 
中国大陆在文革后,文坛只有描写文革的伤痕时,有人发现研究台湾文学之需要,促成新时期文学的新的开展。这个时候,中国大陆对台湾文学介绍,是怎样进行的呢?这个问题,我重新察看资料之后,有了一个新的认识。这里我想把这个认识提出来,和大家一起讨论。我的这个认识,概括起来,就是说,台湾文学是否中国文学的一部分?这也许跟台湾的陈芳明在他的《台湾新文学史》中提出来的再殖民、后殖民的观点,让我大开眼界。
中国大陸で文革収束後、文壇に傷痕文学が溢れていたころ、台湾文学の研究の必要性に気付き新時期文学の新しい展開を促した二人の人物がいた。聶華苓と䔥乾である。この時期における台湾文学の中国大陸への紹介はどのように行なわれたのか。この問題について、資料を再検討した結果、筆者はある認識に達した。ここでは、その認識を提示し、皆さんと議論したいと考える。私の認識とは、概括すると、台湾文学は中国文学の一構成部分なのか、という問題である。それは陳芳明の『台湾新文学史』が提出する再植民、ポスト植民の観点によって、目を開かれたものである。
林礼釗:浅析战后中国自由主义时政周刊与知识分子的公共网络:以《观察》《周论》《新路》为例(1940年代後半の中国時論誌と知識人ネットワーク:『観察』『周論』『新路』を素材に) 
抗战胜利以后,经历了战时两次的宪政运动,中国的民主政治运动蓄势待发,得以高涨。大批中国知识分子开始积极发声,掀起了一阵参政议政的热潮。他们或“入政府”或“组党”或“办报”,通过各种自由主义报刊发表时政评论,批评国共两党, 呼吁和平、民主、自由、宪政,形成了各自的知识分子群体和公共网络。闫润渔曾经总结过中国自由主义研究存在的问题和缺陷,他指出,第一、“以对个别有代表性的人物的研究,取代了对整个流派的研究,即只见树木,不见森林”;第二、“以对具有自由主义‘特征’的言论的描述,代替了对其内部丰富多彩的思想层面的具体剖析,即只划了类,没有析其别”;第三、“因对自由派政治角色的定位,轻忽了其对一些根本性的问题的探究价值和意义的关注,即重历史判断,轻价值判断”。本报告将带着上述思考,不在如以往般将单个知识分子或个别群体作为研究对象,而是要将复数的知识分子或群体放在多个时间空间中进行讨论,以三本时政周刊《观察》《周论》《新路》为例,探讨1940年代后期中国知识分子在各个公共言论空间中的群体结构和公共网络,以及它们之间是如何相互渗透、相互影响,其各自的公共网络又是如何构建起来的。最终希望能从“意识形态”(对自由与平等重视程度)的异同以外的角度(比如知识分子的人际交往与公共网络),来探讨1949年革命之际知识分子转向的又一原因,进而试图描绘出战后中国自由主义知识分子的全体面貌。
1940年代半ば以降、中国には民主・憲政実現の課題がクローズアップされることとなった。中国知識人らは、政府に参加し、または政党を結成し、または新聞・雑誌を刊行し、さまざまなメディアを通して、積極的に平和・自由・民主・憲政等を訴え、戦後中国の政治体制のあり方をめぐって論争を活発に展開していた。彼らは次第に各自の知識人ネットワークを形成していった。中国自由主義に関して、多くの研究が蓄積されているとはいえ、いくつかの問題と欠陥が存在している。それは①個別で代表的な人物に関する研究がその全体的な流派に関する研究に取って代わった。すなわち木を見て森を見ないということ;②自由主義的「特徴」をもつ言論に対する分析がその内部の多様な思想に対する具体的な分析に取って代わった。すなわち種類を分けて差異を分析しないということ;③自由主義者を政治的アクターとして位置づけたため、根本的問題の研究価値と意味に対する関心を薄めた。すなわち歴史判断を重んじて価値判断を軽んじるということである。本報告は、『周論』に関する研究の空白を埋めることを試みながら、個々の人、あるいは個別の知識人グループ(例えば儲安平と『観察』グループ)を単一に取り上げるのではなく、複数の人物・知識人グループを複数の時空間に置いて検討する。『観察』『周論』『新路』といった戦後の中国時論誌を素材に、1940年代後半の公共言論空間における知識人ネットワークを分析し、それらがどのように相互に浸透・影響し、また知識人らがどのように公共言論空間とネットワークを構築したかを明らかにし、1940年代後半の中国自由主義知識人の全体像を素描することを試みる。
魏殊,許衛東:日台ビジネス・アライアンスの諸形態と対中経済連携の活性化(日台商务合作的形态以及其在中国市场的运作特点) 
2012年11月に「三本の矢」(大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長政策)を放って鳴り物入りで登場したアベノミクスは現在大きな転換点に立たされている。国内において、景気浮揚の効果薄のまま、少子高齢化対策の不徹底に起因する不安感だけは増幅の一途をたどっている。海外において、2017年1月23日のトランプ米大統領によるTPP(環太平洋地域による経済連携協定)離脱宣言の直後、中国が提案する「一帯一路」戦略およびそれに連動するRECP(東アジア地域包括的経済連携)の年内締結協議が加速し、日本のイニシアチブ不在の情勢となって通商協議の危機が現れた。本稿では、日系企業の新興市場向け投資の一大特色である日台ビジネス・アライアンスの変遷を整理し、新しい通商環境下における日本対外投資戦略マネジメントの諸問題にフォーカスする。なお、日台ビジネス・アライアンスとは、20世紀90年代以降、日系企業が台湾企業と組く形で、台湾市場での成功経験をベースに 生産委託、技術提供、販売委託、共同開発、人材提供、合弁会社といった多岐の分野に渡って協業を行ない、中国大陸市場を中心に90%以上の事業定着率を収めて注目されたビジネスパターンである。近年では日本企業の買収を通じて日本と両岸で新事業を展開するケースまで浮上し、進化の可能性を見せている。米国の自由貿易主義に対する後退の姿勢とEU統合後の未曾有の不安定を背景に、「一帯一路」ビジネス拡大の新動向が顕在化するなか、日台ビジネスの市場機会とリスクを再考することは極めて重要なアジア的経営課題の一つである。
2012年11月挟三枝箭(①宽松的货币政策;②大规模的财政刺激政策;③包括TPP(《跨太平洋战略经济伙伴协定》)、放松管制和促进创新等在内的一揽子增长战略)的隆重登台的安倍经济学,在进入第五个年头时迎来了关键的转折点。目前为止日本国内经济的振兴计划收效甚微,尤其是缺乏长期的应对少子老龄化策略的状况,加深了内民众在消费心理层面上的不安情绪。国际关系方面来看,2017年1月23日美国总统特朗普宣布退出TPP协定,而此后中国倡议的《一带一路》战略的推出和RECP谈判(区域全面经济伙伴关系协定)年内收尾的明确化,使日本丧失了动议权,面临通商协议危机的困境。在本文中,针对日系企业采用日台联盟的方式,加大对新兴市场投资的特点,着重于新的通商环境下日本对外投资管理和战略变通等问题的探讨。目前的日台联盟形态是以20世纪90年代之后日台企业合作中,在台湾市场获得的成功经验为基础的。在委托生产,技术合作,共同开发,人才支持,设立合资企业等多样化的领域中进行合作,形成了以中国大陆市场为中心的商业模式并达到了90%存活率。近年来通过对日本企业的收购,日本和海峡两岸新的合作案例层出不穷,这也让我们看到日台联盟未来新发展的可能性。在美国贸易保护主义思潮的抬头和EU联盟形成后出现英国退盟等多方面的不稳定因素的局面中,《一带一路》商务合作扩大化的趋势逐渐清晰,反差强烈。重新再考量日台商业合作的市场机会以及风险评估,已经成为亚洲跨境经营合作中十分重要的课题。

【D】座長:竹内俊隆(京都外国語大学)

渡辺直土:2012年重慶事件に関する日本の新聞の報道状況に関する分析(对日本各大报纸关于2012年重庆事件报道情况的分析) 
2012年3月に中国共産党重慶市委書記の薄熙来が解任された事件(重慶事件、薄熙来事件)については、日本の各新聞の注目を集め、その動向が大々的に報道された。各紙は共産党内の派閥闘争の視点から事件を分析し、同年秋に発足予定だった習近平政権への影響などを論じた。これは薄熙来が習近平と同じ「太子党」であり、胡錦濤ら「共青団」と対立軸をなすとされていたことによる。しかし、習近平政権の発足以降、これまでの政経運営は基本的には安定しているといえる。すなわち、当時の各紙の報道にはどのような意味があったのだろうか。振り返ってみれば、1995年の陳希同事件や2006年の陳良宇事件のような同様の事件の際も、日本の各紙は党内の派閥闘争の視点からの分析を重視してきた。薄熙来事件も同様で、対立軸を「太子党-共青団」とするか、「保守派-改革派」とするか、江沢民を中心する「上海閥」をどう見るかといった違いはあるが、派閥闘争重視の分析である点は共通している。本報告ではこれらの報道について、メディア理論における「フレーム分析」の手法を用いて分析し、各紙の報道の特徴を明らかにする。また、派閥闘争に偏重した分析に終始した結果、中国の政治社会における構造的な問題やその変容が見えにくくなりつつあることを確認する。
2012年3月中国共产党重庆市委书记薄熙来被免职一事(重庆事件, 薄熙来事件)受到日本各大报纸关注,其事件动向被争相报道。基于将薄熙来与习近平同视为“太子党”,并认为其与胡锦涛的“共青团”形成对立态势的观点,各大报纸均以共产党内部的派系斗争为视角对该事件进行分析,讨论其对同年秋天即将成立的习近平政权所产生的影响。但是,习近平政权成立至今,其政治经济的运营基本处于安定之势。如此说来,当时日本各大报纸的报道究竟有着怎样的意义?回首诸如此类的1955年的陈希同事件和2006年的陈良宇事件,当时日本媒体的报道也同样的表现出了对用党内派系斗争视角来分析的重视。薄熙来事件亦是如此,各大报道虽存在诸如把对立的核心设为“太子党—共青团”,或设为“保守派—革新派”,或在如何看待以江泽民为中心的“上海派”等问题上存在分歧,但重视派系斗争的分析方法均是相同的。关于这些报道,本报告将以媒体理论中的“框架理论”对其进行分析,阐明各大报纸报道的特征。同时,指出其对倾向派系斗争的视角的坚持造成了对中国政治社会中的结构性问题及其变化的忽视。
韓召頴:The Rise of China and Its Implications on Northeast Asia Regional Security Complex(中国崛起及其对东北亚地区复合安全体系的影响) 
The central focus of the paper looks at the implications of China’s rise on the regional security situation, in particular the deep impact on NEA regional security. The relation between the rise of China and the direction of the regional order in NEA is dynamic. The rise of China has not changed the basic structure of the region, but it offers both challenges and opportunities. More specifically, this paper will analyse the role of a rising China in maintaining the stability of the region and the deep impact of the power shift between China and Japan, from which it can be concluded that there are both positive and negative influences from China’s rise on the traditional regionalism dominated by the US. Moreover, this paper will address the difficulty of building a stable security regime from a model of conflict formation
蔣竹山:帝國、工業與新味覺:從「味の素」看東亞的物質文化史研究(帝国、工業と新味覚:「味の素」からみる東アジアの物質文化史研究) 
若說「味の素」(味素)是1920年代臺灣最受歡迎的調味品,這一點也不為過。這食品原本是日本鈴木製藥所製造出來的調味料。1909年開始發售,取名味之素,每瓶三十克要價五十錢。1917年設立鈴木商店。這味素在台灣相當受到歡迎,銷路好到各處可見仿冒品,報紙中常可見到被查警方緝到的假貨新聞。近來物的社會文化史研究或物質文化史研究,越來越受到學界的重視。然而在日治臺灣史的研究課題中,雖然有學者關注飲食文化史的課題(可以曾品滄、陳玉箴為代表),但所研究的,要不是飲食與消費空間的轉變(江山樓、咖啡館、喫茶店、花廳到酒樓),就是台灣菜(辦桌)與西洋料理的問題;或者是食物品項如牛奶、洋菓子、水果(香蕉、蓮霧的產銷)等。目前為止,尚未有中文學界對像「味の素」這樣的食品產業進行過歷史研究。然而對於這樣的食品產業研究卻是必要的,這不僅有助於我們瞭解日治時期的產業特色與消費文化,也可以對於當前的食品安全問題,提供了一種歷史縱深,協助我們去對日治及戰後的食品工業的發展,有種不同於傳統將此類課題置於經濟史或產業史脈絡來研究的作法。這促使筆者試圖在這些學者的飲食文化史的研究基礎上,進而探索味素的全球史。我們所關注的不僅是味素的在日本的生產,更關注這項新興商品如何與當時的城市生活、消費文化、廣告模式與宣傳相結合,進而推廣至海外地區。若以一種物的生命史的角度來看味素的發展史,它不僅在日治時期台灣飲食史中佔有重要角色,更從殖民母國日本擴及到東亞其他諸國。當時不只東亞受到影響,就連歐美也可見到味素這樣的調味料商品。為什麼日治時期的《台灣日日新報》會有這麼多關於味素的廣告?當時有哪些不同管道的廣告?這些廣告的訴求與宣傳方式是什麼?又為什麼當時台灣社會有這麼多的味素仿冒品?面對這些偽造商品?各地方政府又是如何處理?這一切得從味素是一種怎樣的調味料商品來看。本文主旨在探討如何從帝國、化學工業與味覺感官的角度來研究「味の素」,並透過「味の素」分析物質文化史有哪些可關注的焦點。
「味の素」は1920年代の台湾で最も人気な調味料といっても過言ではない。もともと日本鈴木製薬所が生産したこの調味料は、1909年に「味之素」という名前で、一本三グラムで五十銭の値段で発売された。1917年、鈴木商店が設立された。台湾での「味の素」の人気ぶりは、各地で模倣品が見られたことに反映される。新聞でよく模倣品が警察に査収されたことが報じられていた。近年、物の社会文化史研究あるいは物質文化史研究は学界で一層重視されるようになっている。日本統治時代の歴史研究において、飲食文化に関する課題(曾品滄、陳玉箴の研究に代表される)が取り上げられているが、その内容は飲食と消費空間の転換(江山樓、咖啡館、喫茶店、花屋から酒樓まで)であったり、台湾料理と西洋料理の問題であったり、食品例えば牛乳、洋菓子、フルーツ(バナナ、レンブの生産販売)であったりする。「味の素」のような食品産業に焦点を当てた歴史研究はまだ見当たらない。食品産業に関する研究の必要性は、日本統治時代における産業特色と消費文化を把握することに留まらず、現在の食品安全問題に対して歴史的射程を提供し、日本統治時代及び戦後の食品工業の発展に対する理解を深めることにもある。このアプローチは、経済史や産業史の文脈で飲食文化の問題を考察する伝統的な研究方法と異なっており、グローバル史の視点から「味の素」の歴史を捉えることである。従って、本稿では「味の素」の日本での生産だけではなく、より重要なのはこの新商品の販売がいかに当時のシティライフ、消費文化、広告宣伝と結合され、更に海外に輸出されるようになったかということを探求する。物質の生命史の視点から「味の素」の発展の歴史を考察すれば、「味の素」は日本統治時代の台湾飲食史において重要な位置を示していただけでなく、それは宗主国の日本から東アジアその他の諸国にまで広がっていったといえる。当時、東アジアだけではなく、欧米でも「味の素」のような調味料が見られた。なぜ日本統治時代の『台湾日日新報』で沢山の「味の素」の広告が載せられていたのか、当時広告を載せるルーツがどれくらいあったのか、これらの宣伝方式はどうであったのか?また台湾社会ではなぜこれほど多くの模倣品が出回っていたのか、各地方政府がどのように対応したのか?以上の問題に対して、本稿は帝国、化学工業と味感覚の視点から「味の素」を研究し、物質文化史の文脈から示唆を得られることを目的とする。(周)
林相範:'Trans Humanus'时代的History:五四运动史研究(‘Trans-Humanus’時代のHistory:五四運動史研究) 
1.‘Trans-Humanus’時代。‘Trans-Humanus’時代的出現背景 : 柯潔(Kejie)之泪水: “跟AlphaGo下棋我特别痛苦, 他实在是太冷静了, 没有一丝获胜的希望.”Robert J Gordon批判了“AI和工厂自动化是20年前已经开始的, 但没有证据证明生产效率飞速提高. 第4次产业革命的主题是techno-optimist的毫无根据的主张.”(A)energy与環境:最近在韩国, 环境问题与新再生energy的关注急剧提高. 世界上最大的清净energy投资国,也是清净energy最快速增长的国家是中国. 中国在2016年投资了88亿美元. 到本世纪末, 人类energy使用达到新阶段 (B)勞動的終末:Outsourcing是在美国企业的所有地方都出现了. 这种急剧的劳动方式的变化是将对企业一词和工人的概念产生巨大的变化. 更大的问题是把人类所做的领域用作computer化自动领域替代. 在牛津大学的报告书中, 没有得到人类的帮助的人工智能(AI)比人类更有效、更低廉、更便宜的费用, 可以进行人类工作的日子(HLMI)就是2060年. 另外, google判断认为Boston Dynamics的Robot实用性下降, 也有可能会给人们带来排斥感,因此决定出售. 但是,Softbank的孙正义表示“我们将积极支援开发出更丰富、安全、更加满足的Robot.”(C)分配:工业化和资本主义时代的到来,在生产中引起了关于劳动和资本作用的争论, 它导致了工人和资本家之间如何分配剩余利益问题上的争端. 现在人工智能(AI)和自动化的时代里, 大多数工人的分配份额正在减少, 少数资本家和特殊知识人的份额正在增加. 我们开始害怕找不到需要生产的东西, 基础收入被宣传为可持续第4次产业革命时代的资本主义. (D) Trans-Humanus:2013年2月在美国Eric Loomis以"检察官高度评价人工智能(AI)设备compas的危险和再犯可能性很高, 判处重刑"为由提出上诉. 但Wisconsin State最高法院是AI algorithm资料, 依据的是合理的判决. 如果今后的技术发展, 人工智能(AI)法官登场, 那么人们会信任他并能接受吗? 最近Realbotix社推出了连接人工智能(AI)功能的头部和silicone sex doll的veta版本(version). 许多未来研究者预测到2050年这些Robot将会变得极为普遍. 如今, 人类Humanus已从Homo Sapience转变为(trans)新人類. 虽然无从知晓其方向.
2.‘Trans-Humanus’时代的历史学应该如何? Trans-Humanus时代根本的问题是“人类是什么”而且“我们该怎么做? 巨大变化的时期, 人类是如何抵抗、适应并前进了.” 历史学应该通过审视过去的问题来回答这一问题, 是自己的课题. 但是,发表者对近代成立以来的历史学能否恰当地履行这一课题持有怀疑态度.发布者过去‘energy的使用’, ‘劳动’, ‘分配’原则的变化发生的时期, 上述的问题是如何兴起、寻求任何方案、检查了得出什么样的结果, 是未来的历史学家在新兴起的任务.与此相关, 发表者认为在唐宋变革时期活跃的朱子, 就是对社会变化进行全面规划的‘Programmer.’ 与此类似的立场上, 发表者很关注5•4新文化运动时期. 笔者在笔者思考的未来历史学的课题中要讲述这个时期发生的中国社会的全面变化和󰡔新靑年󰡕构建新时代的规划.

1.‘Trans-Humanus’時代。‘Trans-Humanus’時代が出現した背景、柯潔(Kejie)の涙。「AlphaGoとの対局は特に苦しかった。AiphaGoは実に冷静で、勝てる希望はほんの少しも無かった」。Robert J Gordonは「AIと工場の自動化は20年前に既に始まっていたが、生産効率が飛躍的に上昇したことを証明する証拠は無い。第4次産業革命というテーマは根拠の全く無いtechno-optimist(技術楽観主義者)の主張だ」と批判した。(A)エネルギー(energy)と環境。最近、韓国において環境問題と新たな再生エネルギーへの注目が急激に高まっている。世界最大のクリーンエネルギー投資国、そしてクリーンエネルギーが最も早く成長している国家は中国である。中国は2016年に88億ドルを投資しており、今世紀末までに人類のエネルギー使用は新たな段階へと向かうであろう。(B)労働の終わり。アウトソーシングはアメリカ企業の全ての部分に現れており、この種の急激な労働方式の変化は企業という語句と労働者の概念を大きく変化させている。更に大きな問題は人類が行っている領域をコンピュータ化による自動化の領域に置き換えていることである。オックスフォード大学のレポートでは、人類の助けを借りない人工知能(AI)が人類よりもより効率的で、安価な費用で人類の仕事を行うことが出来るようになる日(HLMI)は2060年であると述べている。これ以外に、googleはBoston Dynamicsのロボットの実用性が下がったと考え、人々に拒絶感を与えうると判断したことから売却を決定した。しかし、ソフトバンクの孫正義は「我々はより豊かで、安全でより満足できるロボットの開発を積極的に支援する」と述べた。(C)分配。工業化と資本主義時代の到来は、生産において労働と資本作用に関する論争を引き起こし、それは労働者と資本家の間でどのように余剰利益を分配するかという問題の紛争を引き起こした。現在、人工知能(AI)と自動化の時代の中で、大多数の労働者の分配の分け前は減少しており、少数の資本家と特殊な知識人の分け前が増加している。生産する必要性のあるものが見つからないことを我々は恐れ始めている一方、ベーシックインカムは持続可能な、第4次産業革命時代の資本主義と宣伝されている。(D) Trans-Humanus。2013年2月、アメリカのEric Loomisは、「人工知能(AI)であるCOMPAS(再犯予測プログラム:訳者注)が危険性と再犯可能性を高いと予測したことを検察官が高く評価したことによって重い刑罰を科された」として控訴した。しかしウィスコンシン州最高裁はAIアルゴリズムの資料に依拠することが合理的であるとする判決を下した。もし今後、技術が発展し人工知能(AI)裁判官が登場すれば、人々はそれを信用し受け入れることが出来るだろうか?最近、Realbotix社は人工知能(AI)を頭部に接続させたシリコン製ラブドールのベータ版を発表した。多くの未来研究者は2050年までにこれらのロボットがごく当たり前のものになると予測している。今のところ、人類(Humanus)は既にホモ・サピエンスから新人類へと変化(trans)している。その行方を知る術は無いが。
2. ‘Trans-Humanus’時代の歴史学はどうあるべきか?Trans-Humanus時代の根本的な問題は「人類とは何か」と、「我々はどうするべきか?巨大な変化の時期に人類はどのように抵抗し適応して前に進むのか」というものである。歴史学は過去の問題を細かく見ることによってこの問題に答えるべきであり、これが自己の課題である。しかし、発表者は近代成立以来の歴史学がこの課題を適切に履行できるかについて懐疑的な態度を持っている。発表者は、過去の「エネルギーの使用」「労働」「分配」原則がどの時期に変化したか、上述の問題がどのように現れるか、また、全ての方策を探求し、どのような結果が出るかを検討することは未来の歴史学者の新たな任務であると認識している。これと関連して、唐南宋変革期に活躍した朱子はまさに社会の変化に対して全面的な計画を実行した「プログラマー」だと言える。それと類似する立場に立って、発表者は五四新文化運動時期に特に注目している。筆者は、筆者が思考する未来の歴史学の課題において、この時期に発生した中国社会の全面的な変化と『新青年』が構築した新時代のビジョンを論述したい。(和田)

分科会③(8月27日,15:40-17:40)
分组讨论会③(8月27日,15:40-17:40)

【E】座長:潘宗億(台湾・東華大学)

徐暢:封锁与反封锁:抗战时期鲁西冀南地形改造(封鎖と反封鎖:抗戦時期における山東西部・河北南部の地形改造) 
为了改变利敌不利我、无山少水的鲁西冀南平原地形,抗战期间八路军广泛动员群众,挖道沟,拆城寨,掘地道,改变地形村形,不仅有效打破了日军的封锁,而且还在一定程度上形成了对日军的反封锁,为开展长期平原抗战创造了有利条件,书写了人类战争史上的奇迹。 关键词 鲁西冀南;道沟;城墙;圩寨;地道
敵に有利で自己に不利な状況を変えるため、山が無く水が少ない山東西部・河北南部平原の地形は、抗戦期間中に八路軍が群衆を広範に動員し、溝状に道路を掘り出し、城塞を壊し、地下道を掘り、地形と村の形を変えた。効果的に日本軍の封鎖を打破しただけでなく、日本軍に対して一定程度の反封鎖を形成し、長期の平原抗戦を展開し有利な条件を作り出すため、人類の戦争史上の奇跡を記した。 キーワード:山東西部・河北南部(“鲁西冀南”)、溝状の道路(“道溝”)、城塞、圩寨、地下道(和田)
周妍(国際公共政策研究科):現代中国知識人の日本論:1989年から1992年まで(当代中国知识界的对日言论:1989年至1992年 
改革・開放以後、日本の経済的援助や大衆文化の浸透を背景に、中国人の日本に対する良いイメージが定着した。しかし一方、歴史問題や領土問題をめぐる日中間の衝突が、中国人の日本に対する良くないイメージをもたらす大きな要因になっている。このように、親日感情と反日感情が同時に高揚しているのは、中国社会における一つの興味深い現象である。両者の関係性を解明するために、本報告では「他者」という概念を導入し、親日感情も反日感情も中国人の自己認識を映し出す鏡として捉える。このアプローチの要点は、中国人の対日感情を、改革・開放以後、中国社会が激しい変容を経験してきたことに沿って、内在的に理解することである。改革・開放の時代において、天安門事件が発生した1989年から社会主義市場経済体制が確立した1992年までの転換期はとりわけ重要である。本報告では、中国知識人の日本論を分析することを通して、この時期の親日・反日の構図を明らかにする。この考察は、1990年代以後の中国社会における親日・反日感情の並存を理解する鍵になる。
改革开放以后,在中日经济关系日益紧密、文化交流日益推进的背景下,中国人对日本的亲近感逐渐提升。然而,随着历史问题与领土问题的不断升级,中国人对日本的反感也逐渐加深。由此,中国社会中产生了“亲日”与“反日”并存的现象。以探求此社会现象为出发点,报告引入“他者”概念,将中国人的对日感情作为中国人自我认识的反映,即在改革开放以后中国社会经历巨大变化的过程中,把握“亲日”与“反日”的内在联系。在改革开放的新时代中,1989年天安门事件后至1992年社会主义市场经济体制成立这一过渡期意义重大。报告将通过对中国知识界对日言论的分析,结构性阐明这一时期“亲日”与“反日”的内在联系。这对于理解1990年代以后中国社会中“亲日”与“反日”并存的现象有重要的启示作用。
彭雨新:日本占領期の周作人に関する新史料発見:1942-45年の『東亜新報』を中心に(关于沦陷期周作人的新史料发掘:以1942-45年的《东亚新报》为中心) 
本研究は、中国での調査によって新しく発見した、日本占領期の北京で発行された日本語新聞『東亜新報』を用い、1942-45年の紙面における周作人関係の記事を整理する。日中におけるこれまでの周作人研究に新史料を補充し、日本占領期の北京における「現地日本語メディア」という報道・記録の新たな視点を提供することを主な目的とし、新史料に基づく周作人再考の今後の可能性も検討する。『東亜新報』は1939年7月から1945年5月まで、主に北京で発行されていた日本語新聞である。対米英戦に備え、大陸在留民指導のため、北支軍と北京大使館が株主となって発刊した新聞であり、当時北京で唯一の日本語新聞でもある。『東亜新報』は、「北支軍の機関紙」、「国策新聞」として語られることが一般的である一方で、文化・文芸面のコラムや記事は、日本占領下の北京や華北の文化生活、社会状況、習慣風俗などを検討する際、現地日本メディアの視点として重要である。しかし、新聞の所蔵が最近まで確認されていなかったため、研究がほとんど進んでいない。今回の調査で確認した1942-45年分の『東亜新報』文芸関連記事には、周作人に関する報道が多数あり、これまでの周作人研究で注目されてきた「周作人狙撃事件」「周作人・沈啓无破門事件」に関する記事のほか、1942年、周作人が対日協力政権の「偽職」に就任し政界で盛んに活躍する姿や、1943年、華北文壇の第一人者と見做される彼が、武者小路実篤、久米正雄などの日本人文学者と交流した記録なども見られる。近年、日本占領期の周作人研究は、占領期の日記が未公開であることや新史料が見つからないため、議論が活発に進展しているとは言い難い。今回発見した『東亜新報』における関連記事は、日本占領下の北京に残留し、政客と文士の狭間に苦悩する周作人の一側面を、北京における現地日本メディアという独自の視点から報道しており、日本占領期の周作人研究に新たな可能性を提示している。 主要参考文献:神谷昌史(2016)「『東亜新報』研究のためのおぼえがき:創刊期を中心に」『滋賀文教短期大学紀要』(18), 滋賀文教短期大学, pp.17-24./木山英雄(2004)『周作人「対日協力」の顚末』岩波書店/東亜会編(1984)『東亞新報おぼえがき:戦中・華北の新聞記者の記録』東亜会/黄开发(2015)《周作人研究历史与现状》辽宁人民出版社/黄开发(2006)「关于《沈启无自述》」『新文学史料』01 pp.58-62./黄开发,沈启无(2006)「沈启无自述」『新文学史料』01 pp.63-85.
本研究对沦陷期北京发行的唯一日文报纸《东亚新报》进行调查,并使用本年度调查结果:1942-45年份《东亚新报》,对沦陷期周作人的相关报道进行整理和介绍。本研究主要有以下两个目的。第一,区别于北京地区发行的中文媒体以及日本本土发行的日文媒体,《东亚新报》作为北京唯一的“当地日文媒体”,能够为沦陷期北京研究提供一个报道・记录的新视点。第二,由于《东亚新报》的保存情况直到最近才被发现,此次调查并整理的周作人相关报道,能够为中日两国的周作人研究提供新的资料和信息,并可基于此材料探讨今后周作人研究的其他可能性。《东亚新报》是从1939年7月至1945年5月主要在北京发行的日文报纸。该报纸是由日本北支军和日本驻北京大使馆持股发行的北京地区唯一的日文报纸,最初地发行目的主要为备战美英和指导日本在大陆的居留民。《东亚新报》一般被理解为“北支军的机关报”、日本的“国策报纸”等,然而另一方面,其文化・文艺类的报道和专栏在内容、题材、数量上都十分丰富,是考察沦陷期北京及华北地区的文化生活、社会状况、风俗习惯等问题时的一个重要的视点。由于日本国内保存的《东亚新报》数量极少,仅有1943年8月4日和1945年部分月份的馆藏,而中国方面的保存情况直至最近才被发现,关于《东亚新报》的研究调查一直没有进展。今年,笔者在中国调查了《东亚新报》1942年至1945年份文艺版面的情况,其中反映了许多沦陷期北京文坛不为人知的侧面。本文将首先整理和介绍关于沦陷期“华北文坛老大家”周作人的相关报道,主要分为以下三个部分。第一,关于既往研究中始终关注的周作人沦陷期两大事件:“周作人狙击事件”和“周作人・沈启无破门事件”的相关报道。第二,关于周作人出任华北政务委员会教育总督办这一“伪职”期间的政治活动。第三,关于周作人作为“华北文坛老大家”的一系列文化活动,包括与日本文学者武者小路实笃、久米正雄等人的文化交流、座谈,以及对1945年战败前一月日本主办“大陆川柳展”的参与情况。近年由于周作人沦陷期日记的未公开,以及未见相关新史料被发掘,关于沦陷期周作人的研究和讨论并不算活跃。本次新发掘的《东亚新报》相关报道,以驻京“当地日文媒体”的视角反映了沦陷期残留北京,徘徊于文人政客之间的周作人的一个侧面,为沦陷期周作人研究提供了新的可能性。
胡毓瑜,川原春花,三好恵真子:是“黑”还是“亲善”?:浅析日本动漫作品中的中国角色(「面目をつぶす」か、それとも「親善」か:日本アニメ・漫画作品の中国人キャラクターに関する分析) 
日本动漫产业发达,影响深远。而出现在动漫作品中的中国角色不仅数量多,且特征鲜明。很多研究者对这些角色或这种创作模式进行了分析,认为是一种有意义的文化交流的方式,但也有研究者认为,日本动漫丑化中国角色,影响中国形象,应当进行管制。本研究则是在参考了大量资料的基础上,结合中日动漫爱好者、动漫专业学生、动漫制作人员、动漫公司经营者的视角,从更多元的角度来讨论这个课题。在文章中,首先对2016年以前的动漫作品中的中国角色做了详细的整理和分类,并作了形象分析。这些角色往往带有带有以下特点:有中国特色的发型和服饰;有口音;会某类特技,多是会功夫或擅长料理,故而辨识度高。其次,讨论了角色塑造的两个动机:作者的主动创作以及应市场需求而创作。前者多是想表达某种意图或传递某种信息,而这类创作往往需要对中国文化做深入了解;后者多是自身或日本民众所认知的中国形象的反映。最后对这种创作模式进行了讨论:基于文化的创作,其结果也利于文化传播与交流,这种方式值得学习;而对于应市场需求而被创作出来的角色,若是深入观察也有助于自我反思。
日本のアニメ・漫画産業は、もはや海外でも盛んになり、その影響はそれぞれの文化・社会にも多少なりとも及んでいる。こうした作品の中に、中国人キャラクターが種々登場しており、しかもその特徴が明確である。近年、中国でも日本のアニメ・漫画の中国人キャラクター、またこの創作方法に関する研究が増えてきている。これらは、有益な文化交流の方式であるとの論考が多い一方で、中国人を醜悪化し、中国のイメージに悪影響を及ぼすので、制限すべきという意見もある。そこで本研究では、先行研究の精査を踏まえ、中国人キャラクターを分析すると同時にアニメのファン、大学生、従業員、経営者に聞き取り調査を行い、多角的に分析を深めていく。まず2016年以前の作品に現れた中国人キャラクターを包括的に整理し、三種類に分類した。いずれも、①中国的特色を持つヘアスタイルとファッション、②特別な発音方式、③得意技を持つ(主に武道あるいは料理が得意)というような明確の特徴を持つことが認識されている。つぎに、中国人キャラクターを創作する動機を考察した。作者が意図的に、あるいは市場ニーズに応じて創作することである。前者の多くは文化を表現したい、あるいは何らかの情報を伝えたいがためであり、これらの作品には主に中国文化に対して深い理解が求められる。他方、後者の多くは、自身あるいは日本の市民が認知している中国イメージの反映である。最後に、中国人キャラクターの影響やこの創作方法に関する議論を深めた。文化に基づいた作品におけるキャラクターは、文化伝達・交流の役割を担うので、これらの創作方法は参照すべきであると考えられる。一方、市場ニーズに応じて創作されたキャラクターを深く分析することは、中国人の自省への要素につながるかもしれない。

【F】座長:臧運祜(中国・北京大学)

王峰:滇缅公路与战时滇西1937-1942(ビルマ公路と戦時の雲南西部1937-1942) 
滇缅公路是在抗战全面爆发后因战时需要,以当时能力所及之最快速度,不计代价之方式抢通的一条战略物资运输线。滇缅公路贯穿当时处于较为落后的滇西地区,使得滇西地区的经济、社会、民间贸易等诸多方面发生了较大的变化。依托滇缅公路这样一条近代交通线,特别是滇缅公路经过的地区变化最为明显。但是随着战争的持续,对滇缅公路运量要求的提升,同时日方的不断破坏,围绕滇缅公路的各种修筑工程持续不断,加之由于前期滇缅公路抢通时大量人力物力的消耗,众多因素的作用,滇缅公路也为后方经的恶化起到了助推作用。看到滇缅公路对于滇西社会产生的积极作用的同时,也应该理性认识滇缅公路从抢通到后期不断的改造等修筑工程,以及战况因素对滇缅公路运输采取的交通管制等,对于后方经济、社会等方面产生的负面影响。  关键词:滇缅公路;滇西社会变化;民间贸易;大后方社会与经济
ビルマ公路は抗日戦争の全面勃発後、戦時の需要に応じて、当時できる最も速いスピードで、代償を問わずに緊急開通した軍事物資の輸送ルートである。ビルマ公路は当時比較的に遅れていた滇西地区に通じていたため、滇西地域の経済、社会、民間貿易等の各面に大きな変化をもたらした。また、ビルマ公路のような近代的な交通ルートに依拠して、とりわけビルマ公路沿線の地域は最も大きな変化を見せた。しかし、戦争が持続するにつれて、ビルマ公路の輸送量の増加に対する要求や、日本軍の絶え間ない破壊によって、ビルマ公路に関連する各種の整備・改修工事が実行し続けられた。同時に、初期の緊急開通が招いた大量の人力・物力の消耗やその他の要因に加え、ビルマ公路は後方の経済の悪化に拍車をかけることにもなった。ビルマ公路は滇西地域社会に積極的な役割を果たしたと同時に、開通後期の絶えない整備・改修工事や、戦況によるビルマ公路の輸送に対する交通規制、そしてそれらが後方経済・社会にもたらしたマイナスの影響をも理性的に認識しなければならない。 キーワード:ビルマ公路、滇西社会の変化、民間貿易、大後方社会と経済(林)
賀江楓:“亲日派”的内外困境:黄郛与1935年华北危局(「親日派」の内外の苦境:黄郛と1935年華北の危機的局面) 
“亲日派”的含义伴随着中国近代民族主义的兴起而日趋政治化。面对日军侵略,黄郛主张采取妥协外交,换取中日和平,外界将其视作“亲日派”的代表人物。1935年华北危机重重,黄郛在内外夹攻之下,逐渐淡出华北政局,由此或可窥悉1930年代妥协外交派面临的内外困境。首先,蒋汪体制看似并行不悖、权责清晰,但随着蒋介石权力地位的巩固,在中央政局愈发占据强势地位,汪精卫往往难以独自决断。而1935年蒋内外政策的矛盾性与双重性,使得国民政府对日政策呈现出分歧庞杂的状态。其次,国民政府不仅中央内部派系冲突激化,中日外交成为派系攻伐的工具,并且黄郛与东北军、宋哲元势若水火,各方对日谋略均夹杂派系因素,在为日军创造良机的同时,更恶化华北政局。此外,主张妥协外交的“亲日派”对日本侵略意图缺乏清晰认知,而日本政府又难以有效统制驻华陆军对华北的步步蚕食,“亲日派”主导的妥协外交无从实现。 关键词:“亲日派”,黄郛,蒋介石,汪精卫。
「親日派」の含意は中国近代のナショナリズムの台頭に伴って日増しに政治化していた。日本軍の侵略に対して黄郛は妥協外交を採用する引き換えに中日の和平を実現することを主張したが、外部の人間は彼を「親日派」の代表的な人物であると見なしていた。1935年に数々の華北危機が発生し、黄郛は内外の板挟みの状況下で華北の政局から徐々にフェードアウトしていき、ここから1930年代の妥協外交派は内外の苦境に直面することになったと思われる。第一に、蒋汪体制は互いに矛盾せず、職責と権限がはっきりしているように見えたが、蒋介石の権力基盤が強固になるにつれて、中央の政局においてますます優位な地位を占めるようになり、汪精衛が単独で決断することが難しくなった。1935年の内外政策の矛盾と二重性は国民政府の対日政策に意見の不一致と混乱状態をもたらした。次に、国民政府は中央内部の派閥衝突が激化したのみならず、中日外交が派閥攻撃の道具となり、黄郛と東北軍、宋哲元は相容れない関係になり、それぞれの対日謀略に派閥の要素が入り混じり、日本軍に付け入る隙を与えると同時に、華北の政局を更に悪化させた。これ以外に、妥協外交を主張した「親日派」には日本の侵略の意図に対する明確な認識が欠けており、日本政府が効果的に統制することが困難であった駐華陸軍は華北に対して少しずつ蚕食していき、「親日派」が主導する妥協外交を実現する術はなかった。 キーワード:「親日派」、黄郛、蔣介石、汪精衛(和田)
団陽子:中華民国の対日賠償要求とその限界:米中関係の視点から(战后中华民国对日索赔政策及其局限性:以中美关系的视角为中心) 
第二次世界大戦に敗戦した日本に対する中華民国政府の賠償要求問題については、1948年初に公表された米国政府の対日占領政策の転換により日本に対する賠償政策が緩和の方向に向かったことで、中華民国政府の思惑通りに賠償問題が進展しなかったことが論じられてきた。確かに、その転換を機に日本に対する賠償要求が緩和の方向に舵を切ったという事実は疑うべくもない。しかし、終戦直後から賠償問題が必ずしも中華民国側の主張通りに進展していなかったことを考え合わせると、米国政府の対日占領政策の転換とその転換の背後にある理由が中華民国の賠償要求に影響を及ぼした本質的な要因であったのかどうか疑問が生じる。本稿は、その転換の背後にある諸問題がまだ顕在化していない戦時中に遡り、米中両政府の賠償政策の形成過程を跡付けることで、日本に対する賠償問題をめぐって米中間に利害対立が存在していたのかについて考察を行う。
第二次世界大战结束后,关于中华民国政府对战败国日本的索赔问题,既有的研究认为,由于1948年初公布的美国政府对日占领政策较过去发生了转变,即美国对日索赔政策力度转向缓和,导致中华民国政府未能如愿在对日索赔问题上有所进展。毫无疑问,对日索赔的要求的确是在上述一连串转变之际,朝着逐步缓和的方向转变。然而,若考虑到战后中华民国政府的对日索赔始终未如其主张展开,美国政府对日占领政策的转变及其背后之缘由是否确是如既有研究成果所言,乃中华民国对日索赔的主因,笔者对此仍然存疑。为此,本文回溯至美国占领政策转变中诸多因素尚未显现之二战期间,通过追溯中美两国对日索赔政策的形成过程,进而考察在此过程中中美两国是否存在的利害矛盾。
李道緝:1952年泰國《防共條例》與國共勢力在僑社之消長(1952-1954)(1952年のタイの『防共条例』と華僑団体における国共勢力の消長(1952−1954)) 
本論文主要探討在50年代國際冷戰體系架構下,在臺灣的中華民國與東南亞國家的外交關係,尤其是與泰國的外交關係的演變,進而從外交架構下討論泰國華人政治立場的變化。1952年泰國〈防共條例〉的頒布不是驟出現的,它有複雜的時代背景,此時泰國的執政者鑾披汶(Phibun Songkhram)總理正面臨內政外交的困境。《防共條例》的頒布,賦予泰國警察更大的司法權,使泰國政府可以遂行其反共產主義的政策,在實施過程中,透過逮捕、驅逐出境及對僑團的加強管制,泰國政府一方面肅清境內共黨的威脅,一方面趁機遂行其同化政策。中華民國則假泰國政府之手「飭僑心而有利僑社」,而中共勢力則大受打擊而削弱對僑社的影響力。但總體而言,在三方互較勁的角鬥中,受害最大仍為在泰華人。 關鍵詞:泰國;華僑;《防共條例》;國共鬥爭
本稿は50年代冷戦体制において、台湾の中華民国と東南アジア諸国との外交関係、特にタイとの外交関係の変遷を通して、在タイ華人の政治的立場の変容を探求する。1952年、タイが『防共条例』を公布したのは偶然なことではなく、複雑な時代背景を有していた。当時、タイの執政者であるプレークピブーンソンクラーム(Phibun Songkhram)総理が内政・外交の両面で窮地に陥っており、『防共条例』の公布によって、タイの警察により大きな司法権が与えられ、タイ政府が反共産主義政策を実行することが可能となった。実施の過程において、華僑団体への逮捕、追放及び管理の強化を通して、タイ政府は一方では国内における共産党の脅威を粛清し、他方では同化政策を推進しようとした。中華民国はタイ政府の手を借りて、「華僑の心を正し華僑団体に利する」ことを考え、他方、中共の勢力が大いなる打撃を受け、華僑社会への影響力も弱まった。総じて、三者が張り合いを繰り広げる中、最大な被害者は在タイの華人であった。 キーワード:タイ、華僑、『防共条例』、国共闘争 (周)

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劉暉:都市规划与近代郑州交通功能型城市的建构:基于20世纪上半叶的历史考察(Urban Planning and the Construction of Traffic Function Urban of Modern Zhengzhou:A Historical Investigation Based on the First Half of the 20th Century) 
郑州作为平汉铁路和陇海铁路的交汇点,是近代中国最为重要的铁路交通枢纽城市之一,城市因交通而兴的特点尤为明显,城市的其他功能亦因交通而发展并围绕交通中心功能得以强化。20世纪上半叶,郑州先后实施四次都市规划方案,均把铁路视为城市规划的基点,谋求以现代管理理念和现代管理方式来筹划城市的发展。尽管这些都市规划方案存在诸多理想色彩,规划的实施亦不彻底,但是其规划的理念、规划设计的内容以及对城市发展方向的顶层设计,依然对郑州交通功能型城市的建构产生了重要影响。 关键词:近代郑州、都市规划、交通功能型城市、城市变迁
Abstract: As the intersection of Pinghan Railway and Longhai Railway,Zhengzhou is one of the most important railway hub cities in modern China. It is a typical city which flourished with transportation. And other functions of the city are developed by traffic and strengthened around the functions of the transportation center. In the first half of the 20th century, Zhengzhou had implemented four urban planning programs, seeking to planing city development by using modern management ideas and methods. The urban planning program had many idealizations and was not thoroughly implemented. However, it’s planning idea, design content and top design of urban development direction still had a significant impact on the construction of this traffic functional city. Key Words: Modern Zhengzhou, Urban Planning, Traffic Function City, Urban Change

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