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お知らせ

卒業生のみなさんへ(法学部長 中山竜一)

卒業生のみなさんへ 

 本日は、ご卒業おめでとうございます。苦渋の決断ではありますが、今年度は、新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、学部としての学位授与の式典を断念せざるを得ませんでした。ですので、ウェブサイトを通じて、皆さんの卒業を心からお祝いする気持ちと餞(はなむけ)の言葉を贈りたいと思います。

 式典こそ開催できませんでしたが、すでに多くの皆さんの手元には、卒業証書が渡っているかもしれません。これは皆さんが積みあげてきた種々の努力が実を結んだということの証しであるとともに、今日から皆さんは、法学士──英語では Bachelor of Law(略せば LL.B)──という学位の保持者として人生を送るということも意味しています。では、法学の学位を保持する者、つまり、大学で法や政治について学び、それらを修得した人間に期待されることとは何でしょうか。もちろん、裁判官や弁護士の道に進むことを考えている諸君は、法律の専門家として社会に貢献すると答えることができるでしょう。しかし、それだけではなく、法学の学位保持者には、社会の様々なセクター──すなわち、国や公共の諸機関、経済を動かす民間企業、さらには、市民社会を支える国際機関やNPO等の内外の組織体といった、社会の要所要所における「制度知」の担い手としての役割が期待されています。このことは、明治以降の大学制度にあって法学部にはいわゆる「ジェネラリスト」養成が求められてきたこと、また、現在の世界各国の政治経済システムで法学部やロースクール出身者が幅広く活躍していることからも明らかでしょう。

 では、「制度知」の担い手としての役割とは具体的にどのようなものでしょう。平時においては、そうした役割の多くは、各種の制度やシステムがスムーズに回っていくことを支える、つまり、昨日と同じように今日があり、今日と同じように明日があるという人々の期待に応えるということがあるでしょう。いうまでもなく、そのような確実性が予見可能なものとして保証されているからこそ、人は安心して各種の営みを続けることができるからです。しかし、今回の新型コロナウィルスの世界的拡大のような「非日常」的事態に直面するとき、「制度知」にはいったい何ができるでしょうか。

 私はかつて、法理学=法哲学を専攻する者として「リスク社会」における法と政治について研究したことがあります。長々とは述べませんが、「リスク社会」とは、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックが20世紀末に使い始めた言葉で、過去の先例や統計データに基づく「確実性」がその足場を失い、「計算不可能なリスク」ないし「不確実性」が前面化する事態を指しています。こうした現代の「リスク社会」にあっても、法や政治を学んだ皆さんには、「制度知」の担い手として、「計算不可能なリスク」ないし「不確実性」に対する「決定」や「決断」を求められることがあるかもしれません。ずるずると「決定」や「決断」を引き延ばせば、状況はさらに悪化します。しかし、だからといって専門家の知見を全く無視し、思いつきの「決定」や「決断」に飛びついても、さらなる混乱を招くだけでしょう。

 このように、「制度知」の担い手としての皆さんには、まさに現在起こりつつあるような、困難な「決定」や「決断」を余儀なくされるような場面も待っています。あくまでも私見ですが、そのような「決定」や「決断」に直面した際の指針として、次の三つの要素を考えることは可能であるでしょう。
 (1) 各人のリスク判断や、その自己決定に委ねる。その場合、各人の判断の前提となる情報の提供が必要となり、そこで「市場」が発するシグナルや各種媒体からの情報の精査が重要となってきます。ただ同時に、それらが容易に歪曲され得るという側面についても考慮しなければなりません(しかも、今回のように、集団的拡大が見込まれる感染症については、これに固執すれば最悪の結果となる危険があります)。
 (2) 集団での熟議プロセスを重視するということがあります(いうまでもなく「熟議民主主義」のことです)。見通しがつかないリスクであっても、種々の可能性について話し合い、最悪のシナリオも含め、リスク現実化後の対処について一定の合意形成を目指すということです。しかし、他方では、急を要する状況下にあっては、熟議過程があまりに長引く結果、手遅れとなる危険があるということも考えなければなりません。
 (3) 各人の自由を可能な限り尊重しながらも、その利益を最大化するような──あるいは、不利益が最小化されるような──制度的パッケージを工夫すること(聞き慣れない言葉かもしれませんが、これは「リバタリアン・パターナリズム」と呼ばれます)。その際、最悪の制度設計とならないためには、各種の専門家の知見に耳を傾け、それをまとめ上げるための知恵が必要となります。
 長くなりましたが、以上の三つの要素について考えることは、職業人として仕事を行う場合にも、個人として、あるいは家族を守るために行動する場合にも、きっと何らかの側面で役だってくれるものと信じています。

 いずれにしても、今回のような「非日常」的な状況はもちろんとして、「平時」においても賢明な「決定」や「決断」を行うことは決して容易くはありません。だとしても、法学(Jurisprudence)という言葉の語源にあるように、皆さんが法学の学位を得たということは、少なくとも、公平性としての法(juris)にかんする賢明な知恵(prudentia)を学ぶために取り組んできたことを意味しています。人生の貴重な時間を割いて、学問としての法や政治に取り組んだということ、そして、ほかならぬ大阪大学法学部でそれらを学んだことに誇りを持ち、これからの人生を切り開いていって欲しいと願います。

法学部長 中山竜一