20101216日ロイヤリング講義

講師:弁護士 小林 徹也先生

文責 亀之園 直幸

 

実務からみる憲法と労働法                         

1.はじめに

私は1990年に大阪大学を卒業し、1994年に弁護士登録を済ませました

これまで、刑事・民事と様々な事件を扱ってきたし、最近では裁判員事件も扱っているが、中でも比較的多く扱ってきたのが「労働事件」である。

レジュメ3枚目以降に掲載している9つの事件は私が担当してきた事件の一例です。

私は、大学時代は特に労働法を学んだことはないし、司法試験でも選択科目として労働法を学んだわけではない。つまり、労働法を体系的に学んだことはない。しかし、それでも実際に事件に触れる中で(生きた実務の中で)知識も身につけてきた。今日はそうした生きた実務の中のから見た「労働法」という観点で講義を行いたい。

2.弁護士として扱う「労働事件」

最近私が扱う労働事件は減ってきた。これまで労働組合を通じて事件の依頼が来ることが多かったが、労働組合の組織率が20%を下回り、労働組合が主体となる規模の大きな事件が少なくなってきたことも一因であると思われる。

そもそも、「労働事件」とは、労働者としての人権が侵害された事件であると言える。

その例としては、@不当解雇等を前提とした地位確認・賃金請求事件、A思想や男女差別を理由とする賃金格差についてこれを損害賠償として請求する事件、B業務中等に事故にあった場合の労災事件、C労働委員会(≠裁判所)に対して行う不当労働行為(=「組合活動」を理由とする不当な取扱い)救済申立事件、がある。

弁護士は学者ではない。つまり、弁護士にとって法律は、事件の依頼者を救うという「目的」を実現するための「手段」に過ぎないのである。

労働法という法律と無縁な人はいない。ロースクールに通い法曹となる人も、就職する人も、皆が何らかの関係を有する法律である。

私がこれから話をするのは、このような多くの者と密接な関係にあり、私にとって事件解決の「手段」として存在する労働法についてである。

3.労働法の存在意義

そもそもなぜ労働法という分野があるのか。「もし労働法がなかったら」というところからスタートして考えていきたい。

4.民法の原則からする雇用契約

もし労働法がなかったとしたら、雇用契約に「私的自治の原則」(民法の原則)が及ぶということになる。

具体的にいえば、「土日休みなし」「1日15時間労働」「時給300円」「男性時給1000円、女性時給500円」「使用者の解雇の自由」といった内容の契約を締結することも原則自由となるし、ストライキは債務不履行・業務妨害とみなされ、損害賠償・刑事責任追及がなされる原因となりうる。

こうした事態を避けるために、今では労働法によって、最低賃金は法定され、自由解雇も禁止され、正当な理由に基づくストライキも認められている。

なぜこのような労働法が必要なのか。

私が扱った事件において、ある若い裁判官が発した言葉にこのようなものがある。それは「労働契約というのは、労働者と使用者がお互いの自由な意思で結んだもの。とすれば、いずれかの意思でその契約を終了させることは本来自由なはず。労働者が自由に辞めることができるなら、会社だって自由に解雇することができるはず」という言葉であるが、本当にそう言えるのだろうか。

5.当事者の自由・平等を建前とする民法からする矛盾

確かに、近代市民社会形成期には、前近代に存在した身分による支配(ex従弟制度(召使い))からの脱却、つまり人は合意のみに拘束されるとする「民法の原則」を厳格に貫くことは重要な意味を持っていたといえる(ここでは労使両当事者の対等が前提とされていた)。

しかし、歴史が進むにつれこの考え方には矛盾が生じてくる。資本家と労働者の格差が生じ、金持ちはどんどん金持ちに、貧乏人はどんどん貧乏になるという事態が生じてきたのである。

これは、労働者(=「労働」という商品を売る者)は、初めから、「労働」を売らなければ生活していくことができないという特殊性(弱み)を持っており、使用者に対して経済的従属を強いられるのが普通だからである。

断言はできないが、この矛盾に対して生まれた労働者の不満(社会不安)の解消のはけ口として戦争(新領土・資源の開拓)が発生したという考え方もある。

そして、戦争に負けてこの方法に行き詰った日本は日本国憲法を制定し、労使関係を見直す労働法を制定することとなるのである。

6.日本国憲法を頂点とする労働法制の歴史的変容

日本国憲法25条1項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、「社会権」により、近代市民社会の「民法原理」を修正することを規定している。

これにより、憲法は「形式的な契約原理にとらわれない」ということを宣言しているといえる(誤解を恐れずに言えば、「自己責任」をある程度否定したとも考えられる)。

さらに、「使用者の権利」について憲法は特に規定していない。もちろん「使用者の権利」も22条・29条等により、一定のレベルでは保障されている。しかしこれは「公共の福祉」による修正を当然の前提としているのである。このことが意味するのは、日本国憲法は労使を対等なものとしては捉えていないということなのである。

この憲法のもとでは、@契約原理によれば債務不履行とみなされる「ストライキ」も、正当なものであれば民事でも刑事でも責任をとわれない、A独占禁止法に抵触する恐れのある「労働組合(カルテル)」の結成も認められ、B「労働契約」は特に一般民事契約とは区別して守っていかなければならない、ということになるのである。

そういう意味では、先の若手裁判官の発言は、歴史的大実験の結果できた「憲法」の趣旨を全く理解していない発言といえるのである。

このことは教科書を読むだけでは、「肌で問題を感じる」ことはできない、ということを実証している。

7.大企業でも発生する労働者の人権侵害―扱った事件から

【国鉄問題】

国鉄時代に労働組合に加入していた人がJRに移ることを拒否されたという問題である。

JRになってからも、会社は国労組合員に対し「労働組合(国労)を抜けろ」という圧力をかけられることも多かった(「職」「昇進」を脅しに使っていた)という。

多くの国労組合員が労働委員会に救済申立を行い、労働委員会のレベルでは国労側が勝利するも、命令の取消訴訟において敗訴することが多かった。なお、201011月にはJRが労働組合に対し解決金を支払うことで合意が成立し、国鉄問題は一応の解決を見た。

JR西日本吹田工場事件】

大阪地裁平成15327日(労判858154頁。労働旬報155520頁)事件。

工場長が2人労働者(60歳前後)に対し、真夏の炎天下で、日よけのない約1m四方の白線内に立って、終日、工場内の踏切横断者の指差確認状況を監視、注意するという作業は、その内容が単に肉体的、精神的に過酷であるのみならず、合理性を欠き、使用者の裁量権を逸脱する違法なものであったとし、少額ながら損害賠償請求が認められた事案。

【倉敷紡績事件】

大阪地裁平成15514日(労判85969頁)事件。

会社が日本共産党及び共産党員を嫌悪し、従業員が共産党員であることを理由に昇進昇給などにおいて違法に差別していた(大阪大法学部卒の原告に草むしりの仕事しか与えなかった)として、差額賃金相当損害金及び慰謝料の請求が認められた事例。

ここでポイントとなるのは、賃金差別は「民事責任」の対象となるばかりではなく、そのものが「犯罪」であり、「刑事責任」の対象ともなりうるということである。

そうであるにもかかわらず、裁判までしないと労働者の人権を回復することが困難であるという実態があることは、やはり問題である。

【その他(セクハラ事件など)】

短大出身で20歳の女性社員が原告となったセクハラ事件。

彼女は「いつか建築デザインをしたい」という考えのもと、やっとの思いで、ある建築会社(被告。社長あわせて34人の小さな会社。)に就職することができた。

彼女が1日目に出社すると、歓迎会と称して、社員全員で居酒屋に行くことになったが、その後他の社員が帰宅し、社長(40歳前後)と女性が二人きりになってしまった。女性は帰りたいと思いながらも、社長の誘いを断れず、2次会としてバーについていってしまう。そこで、社長は女性に対し「彼氏いるの」「かわいいね」などと言いながら、女性の腰に手を回す、肩に手を回す等の行為をおこなった。その後、帰宅した女性は自分がしたことを後悔し、二度とそのようなことはしないと強く心に誓った。

2日目出社以降も、図に乗った社長は、女性をしつこく飲みに誘ってきたが、女性はこれを断り続けた。すると、しだいに社長の態度は冷たくなっていった。

そして約3週間後、ついに女性は解雇に追い込まれた。ここへきて女性は訴訟に踏み切った。

しかし、一審判決で女性は敗訴。女性の一連の行為は「女性の意思によるものだった」というのがその判決理由であった。

高裁でも、初めは「自分の意思だったのではないか」と、女性への集中攻撃がなされた(女性は気が弱く黙ったままだった)。そこで私は女性に対し、「あなたはこんな男性ばかりの中で本当の気持ちが言えますか」と質問をぶつけた。すると女性は「言えません…。」と言った。この一連のやりとりを見た裁判官は、「男性がセクハラをした」という前提での和解を言い渡してくれた。

このようなセクハラ・パワハラ事件は増えているが、上司に逆らえない女性の心情を裁判所に理解してもらうことは大変難しい。

8.現代における労働法を支える価値観の存在意義

現代においても、上述の例(「7.大企業でも発生する〜」)のような憲法の趣旨に反する、無茶なことがまかり通ってしまうのが実態である。

だからこそ、労働法の意義を強調する必要がある。

今問題となっているのは、「INAXメンテナンス事件」で問題となっているような、『形式では業務委託契約等の形をとっているものの、実質は労働契約(対等でない労使関係にある)』という事例である。

こうした事件は、労働委員会では勝てるが、裁判所に行くと、「労働者性」が争点とされ、勝てないことが多い。これは、契約書に「業務委託契約」とあるから「労働者」でない、という形式的な判断がなされているからであるが、私は、これは憲法の趣旨に立ち返って考えるべき大きな問題であると考えている。

9.より一層広がる当事者の不平等

派遣の問題。派遣法が制定されるまでは、「職安法」により違法とされていた派遣労働。この点、派遣労働者に派遣元に対する団体交渉等の権利を認めても実質的な意味はない。派遣元会社(契約会社)にいくら文句を言っても労働状況は変化しないという問題があまりにも日常的に生じてきてしまっているのである。

負のスパイラル。労働状況の悪化→労働者の収入の低下→物が売れない→企業コスト削減(値下げ)→労働条件悪化…という労働者にとって良くない流れができてしまっているのは事実。企業だけが内部留保を蓄えていっているという情勢がつくられてしまっているのだ。

10.法曹にとっての「想像力」の重要性

 法解釈の上での「想像力」の重要性について話をする。

 「形式的な対等性」ばかり重視するあり方は避けなければならない。いかに「実質」に踏み込んで、当事者の立場から問題を見つけられるか、というところが法曹にとっての勝負の分かれ目となる。

 例えば刑法でいえば、「人間が環境や生い立ちに影響されず、どれだけ主体的に行動できるか」という議論について、「影響を受けやすい」と考えるグループは、刑を軽くすべきとするのに対して、「影響を受けにくい」と考えるグループは、刑を重くすべきとする、という見解の違いが現れる。

ここで、「自己責任を強調する人(後者)」には、社会的条件に助けられながら努力ができて結果成功を収めたような人が多いということに注意する必要がある。

「そうでない人(自分とは違う環境にある人)」の立場を理解することは難しいが、それをしなければならないのが法曹なのである。

伊藤真氏がある公演で「今の自分にとって憲法は必要ない、なぜなら自分は今「五体満足」だからだ。しかし、憲法は社会的弱者のためにある。」、という趣旨のことを述べた。

ここで誤解してはいけないのは、伊藤真は「今」五体満足な者にとって、いつまでも憲法は必要がない、ということを言っているのではないということである。それは、いつ自分が「弱者側」になるかわからないという現実があるからである。

ここで大切なのが、「想像力」。経験したことのない辛さを、「自分が同じような立場に置かれたら…」と想像する、ということが大切なのである。

こうした「想像力」の大切さを示す一つの例が、「中国残留孤児訴訟」である。

これは、敗戦直後、日本軍に置き去りにされ、ソ連に攻め込まれ、中国で過酷な労働を強いられながらも、やっとの思いで日本に帰国した「中国残留孤児」に対して、日本政府が何ら自立支援を行わなかったとして、訴訟提起がなされたものである。

裁判では、どの裁判所でもその法律構成に違いはなかったものの、唯一神戸地裁だけでしか勝訴は得られなかった。

法律構成が一緒だったにも関わらず、裁判所によって、なぜ結果にこのような違いが現れたのか。

その理由が、裁判官の「想像力」、どれだけ原告を助けなければならないと実感できたか、という部分の差異ではないか。

この「中国残留孤児訴訟」の敗訴判決のうち東京地裁の判決について、瀬戸内寂聴はこのように述べている。「私たち、戦争の時代を生き、戦争の実態とその虚しさを体験した者が、いくら話しても、戦後生まれの人たちに、それを自分と同じようには感じさせられない。それでも人間には想像力の可能性が与えられている。残留孤児の苦労を、帰国後の生活の苦しさを、彼らと同じにはわからないまでも、私たちは、自分を人間と思っているなら、想像力をふるいたて、駆使して、彼らの辛さ、苦しさ、心のひもじさを理解しようと努力すべきであろう。判決文を読み、こういう判決文を書ける人間の想像力のなさに恐怖と絶望を覚え、身も心も震えあがった。」

「法律家」になるのであれば、このような「想像力」をぜひ身につけてほしい。映画・本などの力を借りながら、今から「想像力」を養っていくべきだろう。

11.最後に

法律とは「特定の価値観の表明」のための技術(道具)であり、決して絶対・中立のものではない。弁護士として活躍する上では、法律という「道具」を使って、「想像力」をはたらかせて自分または依頼者の「価値観」を実現させていくことが、何よりも大切となってくる。

 

以上