2010年12月2日ロイヤリング講義

講師:弁護士 許 功先生

文責 渕山 剛行

 

医療事故と交通事故

〜医療過誤法入門〜

 

私は1980年度に阪大法学部に入学しまして司法試験を目指しながら卒業後すぐに医学部に行きました。在学中に司法試験に合格して、司法修習にも行きました。今は医療法務専門の弁護士として法律事務所を経営しています。法律の専門分野としては、どんな弁護士でもすべての法律を経験しますが、私はプラス自分の専門分野として医療法務をしています。医療の専門分野は外科です。臨床医として現在も少ない回数ではありますが、外来を診療しております。

今日は医療過誤法入門ということですが、昨今はリーマンショック以来不確定要素が多くなってきており、社会の中で皆さんがどういう道に進んでいかれるかということについて、必ずしも法曹資格をとればいいというものではなくなってきております。これから具体的な例を通じて法律と社会事象をどのように法律に融合させていったらいいのか、次から次へと問題が発生していく世の中でどういった視点から物事を見て解決していく思考プロセスを身につけることができるのか、そのような観点から講義をしていきたいと思います。

まずは今日の講義で皆さんがどういったものを期待していたかお聞きしたいと思います。

学生A「現場でどんな医療過誤が起こって、それをどう法律を使って解決していくのかということが知りたいです。」

学生B「理系の先生ということで今までの先生と違った経歴をお持ちなので、その点に興味がありました。」

では今言われたことも踏まえて講義をやっていきたいと思います。今日のテーマは紛争処理について、しかも高度の医療知識を持っていなくても紛争処理が可能であることをみなさんに理解していただくために、レジュメの事例2についてみていきたいと思います。

【事例】

慢性副鼻膣炎の手術施行中に、術者が誤って脳と副鼻膣を隔てる天蓋部という非常に薄い骨を損傷してしまい、そこから髄液が鼻腔に漏れるという事故が発生しました。直ちに、髄液鼻漏を塞ぐために太ももの筋肉の一部を採取して穿孔部にあてがうという修復手術が行われました。修復手術自体は成功し、その後、髄液が漏れるということもなく、治癒しました。なお、修復手術の際に、医師から「脳と鼻との間を隔てる薄い骨が弱くなっていたので、太ももの筋肉の一部を骨の弱い部分にあてがう手術をします。」という説明を受けました。ところが、鼻の手術中に突然別の手術が必要だといわれ患者がその意味を十分に理解できず、その説明を「両足の太ももを根元から切断します」という意味に聞き間違えてしまいました。しかも、術後1週間は頭を動かしてはいけないといわれていたので、1週間は自分の両足がないものと思い込んでいました。1週間後に自分の足が切断されていないことに気づいたのですが、その後も、穿孔した孔から感染して髄膜炎になるのではないか等の不安から、歩行障害を発症し、次第に歩行がフラフラと不安定になり、1年6ヶ月後には、とうとう完全に歩けなくなりました。その後の検査で、両下肢麻痺は、髄液漏や髄膜炎によるものでなく、心の病が下肢に来る病気(ヒステリー性下肢麻痺、転換性障害、解離性運動障害という)であることが判明しました。精神療法やリハビリ治療によりその1年後に、一旦は歩行できるようになりましたが、裁判中であるという状況も影響して、2年後に再発してまた突然ある歩けなくなりました。なお、この病気の発生頻度は極めて稀です。

 このようなケースで医師は髄液鼻漏を発生させた責任を超えて、両下肢麻痺による損害についても責任を負わなければならないのでしょうか。

 

 

前提となる医学的知識として、人間の脳というのは周りに髄液というのが満たされています。副鼻膣というのは鼻の眉間の後ろにあります。→(医学的な説明)

 

こういった医療事故を契機にして2次的な反応が出てくるということは、このような症状は稀ですがけっこうあることです。精神的ストレスがヒステリーなどに転化して身体の不具合が生じることは精神科領域ではひとつの独立した疾患概念として認められています。それで心因性の両下肢麻痺という状態になってしまったということです。ここで法律的な問題点としては、ここでは天蓋部を傷つける行為、これを過失だったとしましょう。そして、最終的な両下肢麻痺との間に因果関係を認めることができるのかということです。もちろん実質的な因果関係はあるでしょう。しかし、法的評価としての損害賠償により填補されるべき因果関係の範囲にある損害といえるのかどうかが問題となるのです。しかも、この疾患というのは症状固定しているわけではありません。この方はいろんな精査をその後繰り返していくなかで、麻酔面接というのを受けました。麻酔を通常の半分量だけですると半覚醒状態になります。その状態では自分の意思の状態では動きたくないとしても、動けといわれれば動いてしまうんです。その方は麻酔面接テストでは歩きました。そのあとに両下肢麻痺は心の病気なんだということで歩行訓練を始め、病院から駅までの1キロくらいの道を往復できるようになりました。ところがまた病院を退院すると、裁判がまだ続いているということもある、母親との関係もうまくいっていないなどの周囲のいろんな環境の影響でまた同じ症状を再発させてしまいました。だから症状は固定していなく、また回復する可能性があるわけです。このような損害に対して法律的にどこまでの因果関係を認めるのかが問題になりました。この事件は私が実際に担当したものです。もしも両下肢麻痺で固定するとこの人は20歳くらいなんで逸失利益と慰謝料で1億くらいの損害があります。慰謝料は両下肢麻痺は1級障害ですので2800万くらい、逸失利益はいろいろな計算方法があり、一番有利なものを当てはめていきます。では1億円の損害すべてを認めるのでしょうか。そこまでは認められないとして、ではいくらなのかということになります。いろいろな解決方法がありますが、まずは損害賠償は損害の公平な分担が趣旨ですから調整が必要です。法律的には素因減額というものがあります。これは、患者がもともと本来持っていた病気や心の状態が通常起こりうる損害を拡大させたとし、その素因がなければ落ち着いたであろう損害の範囲に減縮するというものです。そういったことも考えられます。もうひとつは、このケースでは症状が固定していないために将来症状が改善する可能性があるとして、それまでの逸失利益を賠償すると考えることもできます。しかしいつ症状が改善するかはわからないわけです。そこは統計的な資料に基づきながら裁判所が認定していくということになります。示談交渉であれば、社会常識や医学的なエビデンスを示して判断していくことが必要になってきます。実際にこの例で広島高裁は7年間の期間を認定しました。そのうえで本人の素因を考慮して具体的な金額としては慰謝料と逸失利益あわせて3000万くらいの判決になりました。

 

皆さんが今の事例で学んでほしいことは、医療訴訟は専門的知識が必要ではありますが最終的な金額算定などについては専門知識よりも社会科学的な統計資料などに裏打ちされた公平な解決が問題になってるということです。

次に、今のは起こってしまった後の弁護士の仕事の話ですが、昔から予防法学といいましてこのような手術等による心因反応等を未然に防止するようアドバイスすることも弁護士には必要なことです。

 

この例では心因反応が非常に極端な例で現れたもので、心因反応は一般には、なにか事故が起こった場合にみんな戸惑い、何も考えることができなくなるというものです。たとえば家族が急に交通事故にあっただとか、突然知らない人に暴力を振るわれたなどです。急性ストレス障害といわれるのですが、その後にこのような状況になったのはなぜなんだということが知りたくなるわけです。この点についてマズローも人間における欠乏状態というものを科学的に仮説として打ち立てました。人間にとって一番強い欠乏状態というのは、

生理学的な欲求が欠乏したときだとしています。寝るだとか、食べる、排泄するなどです。これと同じくらいに人間が強い欠乏状態を感じるのは安全性の欲求の欠乏です。自己ないし身近な人の身体に対し危険が及んでいるという状況です。このようなときに人間というのは自分がどうしてこのような状況に陥らなければならなくなったのかを強く考えます。たとえば医療事故にあった人がまず医者にきくことは、どうしてこうなったのですか、ということです。必ずききます。それに対して、納得のいく説明がないとこのストレス状態はさらに強まっていきます。アメリカなどの研究によれば、この状況が続くといわゆるPTSD、心的外傷後ストレス障害になっていくともいわれております。つまり、今回の麻痺については足が切られてしまったと思ったことによる心因性の身体障害、そして本来ならばありえない解離性の障害が出てきたということになります。

 

どうしたら予防できたかのかといえば、このケースでいえば結局は医者がこの患者は嘘をついているというように判断したことが原因となっているんですね。この患者の訴えを現在の医学では起こりえないと考えてしまったというところです。医療事故があった場合は非常に強いストレス状態の中で患者というのは訴えてきます。それに対して真摯に対応するどころか患者さんを疑ってしまったということがこんな結果を招いた一因です。あとは患者のもっていた素因ですが、こういったものは一般には予見できません。ある人が一定の出来事にどういった反応を示すのかを予見することは絶対に不可能です。人それぞれいろんな精神状況があり、自分自身でもわからないことも多いはずです。したがって患者が症状を訴えてきた場合、検査をして何の問題もないのであれば2次的な心因反応も考慮してきちんと精神科にみてもらうだとか、大きな専門病院に送るだとかをしていれば、両下肢麻痺にまでは発展しなかったのではないかといえるわけです。したがって、心理学的な知識なども医療事故だとか、法律的な処理、予防のアドバイスでは重要です。それだけではなくて、社会学的な側面からの知識が非常に重要になってきます。法律ばっかりやっていても適正な解決はできないといえると思います。

 

それから、ダニエルカーネマンという人がいます。この人は心理学者で唯一ノーベル賞をもらった人です。この人の理論にプロスペクト理論というものがありまして、例えばこのような例で紹介されています。今皆さんに1万円ずつあげるとします。そしてサイコロが皆さんの目の前にあり、これを振って偶数がでればさらに1万円あげるとし、サイコロを振らないときは5千円払ってもらうとする、このような命題があるとします。これは利益をあなたにあげようという命題ですね。次にもうひとつ命題があって、皆さんに私はなにもあげないとします。同じようにサイコロがあり、これを振って奇数が出た場合は1万円皆さんが払い、偶数がでたら何も払う必要はない。サイコロを振らない場合は5千円払ってもらうというものだとします。これは損失を受けるときの命題です。最初の命題ではほとんどの人がサイコロを振らずに5千円払うようです。手元に確実に5千円が残るからです。これは損失を回避する行動に出ているといわれます。利益を保持したまま損失を回避しています。次の命題においては、サイコロを振ると考える人が大多数だということです。それは1万円没収されることを回避したいので大きな賭けに出るようです。ダニエルカーネマンの理論はもちろんこれだけではないのですが、なぜ私がこれを持ち出したのかといえば、医療法務の中では重要なひとつのファクターだからです。平成13年の最高裁判決において、説明義務についての判例がでていますが、これは乳房の部分的手術について医師が十分な説明をしなかったため問題となったものです。その中で最高裁は説明義務について@病名、病状、Aその疾患の予後、B治療法とリスク、C他の治療法の紹介、メリットとデメリットという規範を打ち立てました。その後弁護士や裁判官はこれを金科玉条のごとく使っており、病院もこれらのことだけを説明すれば説明義務を果たしたと思うかもしれません。しかし、実際にはこれだけ説明してもいくらでもトラブルは起こります。手術前に患者さんにこれだけ説明したとしても全く頭には残っていないことが多いです。それは、術前に本当に何が知りたいのかということを考えればこの基準を杓子定規に当てはめるだけではだめです。例えば患者さんが乳がんになってこれから手術を受けるとします。患者さんはなんのために受けるのでしょう。これは自分将来損失を受ける場面です。自分の乳房もなくなるし、ほっといたら命がなくなる。先ほどの命題でいうと後者の例です。患者さんは少しでも損失を回避するために賭けに出ます。最大限の賭けに出ようという心境にあるわけです。したがって癌を告知された段階では、人間はとにかく最善の治療を受けようと思うわけです。判例の基準のように危険性ばかりを説明しても意味はないです。患者はもう危険を覚悟しているのです。危険性を強調しすぎると信頼関係が崩れてしまうことさえあります。また、それとは別に予防的手術というものがあります。例えば、くも膜下出血というものがあります。これは非常に致死率が高い病気である日突然やってきます。バットで突然殴られたような痛みに襲われ、3分の1の人は即死し、もう3分の1の人は障害が残り、残りの3分の1だけが社会復帰できるというものです。この原因としては、脳に動脈瘤というものができて、それが破裂してしまうことです。なので、脳ドックなどで動脈瘤が見つかった人は予防的にそれをクリッピングしてしぼませてしまうことができます。ところが、この動脈瘤自体は年間1%も破裂しません。その人の予後が20年として、20%しか破裂しません。それより低い10%かもしれません。そして手術の危険性が10%くらいだったとしたら、同じくらいになってきますよね。どうしますか。その時の患者さんの気持ちになってみてきださい。なんだったら0.1%としましょう。皆さんは今20歳前後ですよね。80歳まで生きるとして、生涯8%の確率で動脈瘤が破裂するかもしれないと思ってください。手術したら5%で合併症になるかもしれない。もう5%も8%も一緒じゃないか、という状況になりますよね。そのような場合、医師としては何を説明すべきなのか、患者としては何を説明してもらいたいのかを考えてみてください。これはどっちかといえば利益を追求する場面です。先ほどの命題からすると少しでも危険性の低い選択をしたいと考えるはずです。患者としては他に薬などでの治療法がないのか、ということが知りたいはずです。このように弁護士として事後的に事件を扱う場合であっても、最高裁の基準を杓子定規に当てはめるのではなくて、その時の患者からすれば何が重視されるべきだったのかを考えなくてはいけません。先ほどの例であれば、別に手術しなくても生きていけるわけです。だとすれば当然別の治療法をどれだけ説明していたかが重視されます。非常に重篤な乳がんのような例であれば、あまり危険性について説明しなくても免責されます。ある程度の説明があればどんな患者であっても自分の命が一番重要であるわけですから、治療の選択についてある程度決まってくるものですからリスクの説明は比重としては小さいものになります。しかし、同じ乳がんでも、そこまで進行していない場合であれば、大きな手術によらない治療も可能なわけなので、乳房を残しながらの治療など他の治療法をもっと説明すべきだったというように評価されてしまいます。判例ではいろいろな基準が提示されますが、それが実際にどういった形で現実に機能するのかを見通す力、例えば、判例雑誌を読む場合も、事案があって争点があってそれらに対して一定の法律判断が下されています。判旨だけを読んで理解することは最低限必要でしょう。しかし、その奥にある、実際にその基準がその事実関係の中でどのような役割を果たしているのだろうか、ここまで掘り下げてほしいと思います。実際に弁護士になると具体的な場面に対処します。そのときに弁護士がこのときはこういう基準があるからこうにしかならないというだけでは本当の依頼者の気持ちはわかりませんね。上っ面だけの満足だけでは本当の信頼は得られないし、自分自身も発展しません。生の事実に法律がどのように当てはまるのかということは非常に難しく答えはありません。何が正解で何が不正解かは全くわからないし、人間というのはいろんな心因反応を起こしてきますのでわからないのです。ただトラブルが起こったときに、きちんとまずは何が真実なのかを真摯に追求する気持ちを忘れずに正面から向き合っていくという態度が大切です。先ほどのようによくわからないから患者を疑う、という前にこんなことがなぜ起こったんだろうと科学的に自分で分析する必要があるでしょう。もちろん法学では解明できない社会事象も世の中にはいっぱいあります。たくさんの知識を身につけて社会事象の解明をしていただきたいと思います。これは一生かけてやることです。どのような業界にいても自分の領域だけに没頭していては限界があります。一事件一冊という言葉もあるくらいですから、いろんなことを勉強しながら社会事象のメカニズムを探っていくという姿勢が非常に大事になってくると思います。医学の知識というのは医療事件を扱ううえで有益であるし必要であると思います。しかし、われわれのやっていることは人を治療しているわけではなく、医療ではありません。トラブルを未然に防ぐ、または事後的に解決する仕事なのです。

 

基本的な医療訴訟の理解のためには、基本的な債権法、不法行為法がすべての基礎になっています。条文で言うと民法415条、709条、この2つの条文で始まってこの2つの条文で終わるといってもいいと思います。医療訴訟といっても非常に構造としては単純です。複雑な心因反応についても医療の現場だけではなく相隣関係などでもそういうものはあります。みなさんもこれらがわかっていれば、すべての社会現象に応用できる可能性があるわけです。AさんとBさんがいたとして、売買契約をしたとします。それにCさんがからんでくる。さらに他の人が絡んできたとしても、基本的には二者の対立構造の中で考えていきます。それがたくさんあるだけです。それを規定しているのが、415条であり709条なのです。この条文が別になくても、アメリカでは判例があるし、常識的に考えさえすれば同じような結論になります。この2つは時効についてなどの違いはありますが、基本的に違いはありません。医療の現場ではほとんどが契約によりなされますので、債務不履行の構成の中での注意義務が問題となります。もちろん一般社会の中で、医師一般が科せられる、万人に対して負っている注意義務と同じだということであれば、709条での構成でいっても問題はありません。こういった損害の賠償と説明義務が科せられます。説明義務についてですが、結果との結びつきとはあまり関係はありません。予防的手術などの場合には結びつくことが多いのですが、今日はお話する時間はありません。こうしたことから、皆さんが社会現状の解決に取り組む時もこういった二者対立構造に条文を当てはめていけばよいのです。

臓器移植契約については、二者の関係にドナーが絡んでくる訳ですが、これは少し複雑です。例えば腎臓を摘出して息子に提供するとして、手術後の管理に過失があり親が死んでしまった場合、息子は医者に債務不履行責任を追及できるでしょうか。ここで腎臓の所有権はどうなるのでしょうか。直感的には息子に腎臓が入った時点で腎臓は息子のものですよね。結論はそうだとして、法的にどう説明すると思いますか。今の知識で答えてみてください。

学生A「息子に移植した段階で息子の体の一部になっているから」

先生「根拠は何でしょう。その答えやったら結論しか答えてないことになりますよ。」

学生B「一般的には90条で公序良俗に反しそうですが、この場合は親子なので特段の事情と言え贈与できると思います。」

先生「贈与だとしたら贈与税がかかるのですか。」

学生B「売買とかですかね。」

学生C「臓器移植法の規定により許容されると思います。」

先生「それは所有権の条文ではないですよね。」

学生C「そもそも人間の身体に所有権を観念できるかが疑問です。」

先生「では自分の身体は誰のものですか。」

学生C「それは自分のものなんですが、例えば献血で血を誰かに売るということについて、昔はできたけど今はできないということを考えれば、自分の身体に物権を観念することはできないと思います。」

先生「腎臓は確かに自分のものだとは思うのですが、取引の対象にはならないということですか。」

学生C「じゃあパターナリスティックな政策的観点からとしか思いつかないです。」

先生「取引以外で所有権を取得できる場合がなにかありますか。民法の物権のところにあるはずです。」

学生C「遺失物の取得や相続ですか。」

先生「無主物でもないし、お父さんは生きてることもありますよ。確かに相続もそうですね。時効でもないですしね。」

学生C「ちょっとわからないです。」

学生D「動産の付合ですか。」

先生「おー正解はないかもしれないですが、もし根拠にするならその条文でしょうね。」

なにが言いたいかというと、いろんな知識を総動員して、債権法だけじゃなく物権法も意識しながら考えてみるということが重要だということです。

ということで、なにか最後に質問はないですか。まとめるとしたら、結局は法律ばっかり勉強していてもだめです。心理学や、社会学などいろんなものを応用して法律は初めて生きたものになるのです。条文の中には人の気持などは書いていません。人の気持ち、生の現象をうまく法律にあてはめていくために法律以外の知識が大事だということが私からのメッセージです。ありがとうございました。