20091210日ロイヤリング講義

講師:弁護士小林徹也

文責:古川真理

 

実務からみる労働法

 

 本日皆さんにお話する労働法については,毎年講義をしていますが、実際に携わった事件についてお話をすると皆様の感想を読んでいても好評なように思います。「実務からみる労働法」と銘打ってはいますが、私自身は大学時代に労働法を勉強したわけでもなく、たまたま所属する事務所が労働事件を多く扱う事務所であったので労働事件携わることが多かったことから、実際に扱った事件を題材に今日はお話ししようと思います。加えて中国残留孤児訴訟にも携わったことから、憲法が法廷で直接争われた当該事件も踏まえつつ、労働法と憲法の関係についてもお話ししようと思います。こうした話は基本書ではごくわずかしか記述されていない部分ではありますが、私自身の経験を通じて考えたことなどをお話ししたいと思います。私自身は勿論労働法のみならず、一般民事にも携わっており、来年の2月には初の裁判員裁判を担当することになっており、現在裁判所と打ち合わせ中です。

レジュメには、本日の話の流れとこれまでに携わった事件を挙げておきました。こうした実際に携わった事件を通じて現在の社会に関することなどをお話ししようと思います。

 

実務からみる労働法

1弁護士として扱う「労働事件」

現在では労働組合の組織率も低下し、労働組合から依頼を受けて行う大規模な労働事件は減る一方で、非正規労働者からの依頼が増えています。今でこそ非正規労働社員の組織化は重要な課題になっていますが、この問題には長年正社員を中心とした労働組合の非正規社員の組織化に力を入れてこなかったことの悪影響が現在露呈しているという側面もあると思います。

ここで労働事件とは、社員としての地位確認や賃金についての給付請求、差別によって得られなかったであろう利益の損害賠償請求、業務上の事故に関する労災事件、不当労働行為を扱う事件などを言います。不当労働行為事件は裁判所で争うのではなく、労働委員会という独立行政委員会が扱います。こうした事件にも弁護士は労働委員会の代理人として携わります。それ以外にも、最近多いのは残業代や賃金の未払いについての事件です。加えて、最近増えているのは、違法な派遣について労働局へ申告し是正させる、つまり労働局の働きを促すような役割を弁護士が積極的に担う事件です。

 

2労働法の存在意義

実務家である弁護士とすれば、法律は労働者を救う手段であるので、実行性がなければ意味はありません。逆に実務を通じて、教科書に書いてある労働法の規定の重要性を実感することも多いです。では、そもそもなぜ労働法というのがあるのでしょうか。

 

3民法の原則からする雇用契約

民法では雇用契約について規定されていますが、あえて別に労働法というものを定めた意義は何なのでしょうか。そもそも、労働契約も含め、契約には私的自治の原則が妥当するので、公序良俗に反さない限りどんな契約でも自由に行うことができるはずです。こうした民法の原則に照らせば「時給300円」「土日も働く」「115時間勤務」といった契約内容であっても原則としては有効なはずです。つまり内容に不服がある場合は契約をしなければよく、働いている過程で嫌になれば解除をすればよいのです。これが民法の原則に照らして考えたときの雇用契約です。しかし、実際にはこうした契約は社会ではまかり通っていないということも皆さんはご存じだと思います。最低賃金や労働時間等についてもそれぞれ法律で規定がされており、たとえ労働者が上記のような内容で了解をしたとしてもその通りにはなりません。つまり私が今から話したいのは、なぜ私的自治という民法の原則が変容したのかということです。

 

4当事者の自由・平等を建前とする民法からする矛盾

基本的に裁判所は私的自治の原則故に当事者間の合意について強い効力を認めます。現に、「労働契約は使用者と労働者が自由な意志で結んだものであるから、当事者の意思で契約を終了させるのは自由であると思います。労働者が契約を自由に終了させることができるのと同様に、会社も自由に労働者を解雇できるのが原則ではないかと思っています。」と言った裁判官がいました。しかし、私はこの考え方はおかしいと思っています。

 

5日本国憲法を頂点とする労働法制の歴史的変容

たとえば、現在では解雇については法律での制限が加えられており、自由に行うことは認められていません。その理由について歴史的変遷を踏まえて以下で説明したいと思います。現在の民法の大本ができたのは明治29年で、その頃の日本はまだまだ前近代的・封建的な時代でありましたが、その中で西欧のような社会を目指して法律が制定されました。当時は使用者と労働者の関係というのは、江戸時代から続く徒弟制度のような、いわば労働者は使用者の召使であるといったような関係が一般的でした。しかし、それではいけないということで、使用者と労働者の関係の対等性を担保すべく、民法が定められたのです。つまり民法の基本的な発想は、対等な人間と人間が契約をしたなら、その契約によってのみ拘束されるというものでした。しかし、歴史が進むにつれて、裕福な人と、貧困な人との間に社会的な格差が生まれました。その結果、貧困状態にある人は、実質的には安い賃金の契約であっても結ばざるを得ない状況が生まれました。こうした状況下で労働者が団結して使用者に賃金の増額を要求しストライキをしても、契約自由の原則の下では、逆に債務不履行を理由に損害賠償を請求されるという事態になってしまいます。つまり、当事者が対等でお互いに平等で合理的な主体として契約を行うという前提は全くの理想論であり、そうした前提を押し通すことは結果的に社会に矛盾を生むことになるのです。たとえば、戦前の東北地方においては貧しさの余り身売りが行われ、日本人はそうした貧しさのはけ口を大陸進出に求めたという歴史的事実があります。その結果、例えば中国残留孤児という人々を生んでしまいました。こうした社会的な矛盾は、誤った前提を押し通していった結果生まれたものであると言えます。

戦争後、日本国憲法25条によって生存権が認められ、契約の形式的な側面のみを重視し、契約を行った当事者に責任を求めること、誤解恐れずに言えば「自己責任」という考え方を否定した憲法が成立しました。この日本国憲法においては勤労の権利・義務が認められています。また,憲法は労働契約についてのみ、法律で契約内容を定めるということにしているのです。こうした規定は他の契約には決して見られません。つまり憲法は、歴史的経緯を踏まえ、労働者と使用者の自由な契約によっては最終的には不平等な契約がまかり通ることになってしまうことから、当事者の意思を否定してでも、労働契約については法律で内容を定めることとしたのです。他方で、憲法は労働者の権利については条文で定めを設けましたが、使用者の権利については何ら規定していません。つまり憲法は中立に制定されているわけではなく、労働者の保護に重きを置いているのです。憲法が最も重視しているのは、13条に規定されている「個人の尊厳の保護」であり、憲法は雇用契約においてこの考え方を実現するために、労働者という個人の保護をより重視するという姿勢を示しているのです。とはいっても使用者の権利を一切認めていないということではなく、使用者にも一定の権利が認められています。しかし、使用者の権利は自由に決められる事項がある一方で、公共の福祉による制約を常に受けるのです。つまり、憲法を頂点とする法解釈においては、労働者と使用者について対等に規定されているわけではないということです。

 

「法の中立な適用」という言葉が法律を学習する際には出てきますが、法律とは特定の価値観を保護するために定められているものであるので、何を守るためにどの法律を適用し、どのように法律を解釈するのかということ意識することが実務においては重要になります。皆さんの中には、法律というものは方程式のように、そこに事実をあてはめれば答えが出るというものであるという風に考えている人もいるかもしれませんが、実際にはそうではなく、極端に言えば結論が先にあるのです。その結果、「この人は絶対に救わなければならない」という場合には、裁判所は多少無理な法解釈を行ってでも救わなければならない人を救います。たとえば、中国残留孤児訴訟において、神戸地方裁判所は、「先行行為の条理上の作為義務」に違反しているとして中国残留孤児への賠償を認めました。中国残留孤児訴訟は、同様の法律構成で全国13地裁に提訴した事件で、一般的に考えるととても勝てそうもない事件であり、ほとんどの地裁で敗訴し続ける中で、唯一神戸地裁において主張が認められたのでした。つまり、「中立」という言葉に惑わされないということが実務では重要になるのです。

話を戻して、日本国憲法によって労働者の権利が保護されることになったという経緯から、そうした労働者の権利を目の敵のように思い、未だに労働組合をつぶそうとする使用者もいるのが実情です。大企業においては今の時代そんなことはないだろうと思われるかもしれませんが、実際は現在においてもそうした事例はあります。私の同僚が携わった事件では、労働組合員に対する使用者からの嫌がらせのような行為に対し、数多くの訴訟を提訴し、結果的には全面勝訴しましたが、このことは逆に言えば時間をかけて裁判を行い司法の助けを借りなければ労働者の保護は難しいということも示しています。そうした意味で、上述の裁判官の発言はこうした労働者の保護の難しさという観点からは、本心はどうであったとしても、不当な発言だったのではないかと思うのです。こうした労働の経緯は教科書などでもなかなか実感しにくい部分であるので、こうした事実をどれだけ実感できるかということが実務者には求められる資質であると思います。

 

6大企業でも発生する労働者の事件侵害−扱った事件から

JR西日本吹田工場事件

工場長と労働者の間でおこった些細なトラブルをきっかけに起こった事件です。この事件の判決では、認められた金額自体は少なかったものの、工場長によって命じられた作業は「違法」とする判断がなされました。この事件に限らず、脱線事故といったこともありましたが、こうした事件はJRという企業の負の部分が露呈していると言えます。

損害賠償請求事件(倉敷紡績事件)

この事件も勝訴し、控訴審において一審で認められた以上の額で和解しました。こうした思想信条に基づく賃金差別や残業代未払いは罰則も定められており犯罪に当たります。こうした事件は比較的裁判所には認められやすいですが、セクハラ事件などは裁判官に認められにくいです。私が携わった事件としては、建築デザイン志望の女性が就職先の社長から受けたセクハラを理由に慰謝料請求を求めた事件があります。一審では負けてしまい、控訴審から私も携わることになりました。この事件は、結果的には裁判所からセクハラがあったことを前提としての和解を勧告され、セクハラ事件としては高い金額での和解が成立しました。しかし労働事件の中でもセクハラ事件というのは、未だに裁判官の理解を得ることが難しく、請求が認められにくい事件であると言えるのです。

 

7現代における労働法を支える価値観の存在意義

 今回なぜ私が労働法の意義をお話ししたいかというと、現在においては労働法の基本原則に真っ向から対立する価値観の台頭という動きが見られるからです。たとえば経済的に優位な立場に立つ使用者に対して労働者は団体交渉権という権利を有しています。このことはつまり、労働者を経済的に支配するのが使用者の立場であると言えますが、現在では派遣という雇用形態のように法律が前提とする労使関係とは異なる労使関係が増えています。ここでいう派遣とは賃金を支払う人と指揮命令をする人が異なる雇用形態のことです。この雇用形態は派遣法ができるまでは違法とされていた働き方です。派遣というのは使用者にとっては非常に扱いやすい雇用形態ですが、その一方で労働者としては立場を不安にするものです。望んで派遣という雇用形態を選択している人もいるという風に言われますが、アンケートなどでも多くの労働者が正社員としての雇用を望んでいることは明らかです。

 

8より一層広がる当事者の不平等

社会においては、貧富の格差が広がり、非正規労働者の収入が減れば、消費が減り、企業としても売り上げが落ちるという悪循環に陥ります。私が扱う離婚事件でも離婚後の女性が子供を抱える母子家庭では経済的にも、その他の面でも苦労しているという現実があります。このように現在の日本は所得格差が広がる大変な社会になっていると言えます。

 

これまでの話をまとめると、労使の対等を前提として雇用契約の内容を私的自治に委ねると、使用者に従属的な契約になってしまうという歴史的経緯を踏まえ生まれたのが日本国憲法です。このことを踏まえ、これからの社会をどう考えるかということですが、今でこそ貧困は必ずしも個人の責任ではないという認識が世間に浸透しつつありますが、以前は、貧困は個人が努力しないから悪いという風潮がありました。加えて、親の経済力や教養の程度も子供の教育という面では非常に大きな影響力があるという事実に鑑みれば、貧困に陥るのは努力が足りないが故の自己責任であるという考え方は必ずしも適切ではないと思います。

法律の解釈においても、こうした考え方は重要で、法律適用の際には人間というものがどれだけ主体的合理的な主体であるかを考える必要があります。人間が全て主体的、合理的であれば契約自由の原則で足りますが、実際には人間は必ずしも常に主体的、合理的ではないのが現実です。こうした事実を社会も徐々にではありますが認識してきています。また、こうした考え方は経済学の分野でも提唱され、一人ひとりが必ずしも合理的・主体的でない人間の集団は、必ずしも集団としても合理的、理性的な方向に進んでいくわけではないということが主張されています。つまりこうした、「必ずしも主体的、合理的でない人間」という主体の捉え方は法律の種類や、法律の分野を超えてあらゆる場面に妥当するということです。しかし、こうした考え方は、たとえば裁判官のような本当に優秀な成績で司法試験・司法修習を終えた、エリート意識が強いであろうと考えられる人には認められにくいのではないかと思います。そうした裁判官に、労働者の立場を理解させるのは非常に難しいことです。

 

9「想像力」の重要性

実際にはその立場にない人が、その立場の人の置かれた状況を想像することは非常に難しいことです。たとえば障害のない人が障害のある人の苦労を実感するのはとても難しいことです。しかし、そうした想像力は自身の経験によって補われるものであるとも思います。誤解を恐れず言えば,弁護士は携わる事件の多様さゆえに、検察官や裁判官よりもこうした経験をする機会が多いのではないかと思います。

 

ここで、中国残留孤児訴訟の話に移りますが、第二次世界大戦終結前の1945年8月9日のソ連参戦を契機に、当時満州にいた日本人女性や子供は日本へ帰るために中国を南へ逃げていきました。その過程で中国人に預けられた子供は中国でも差別され、日本に帰ってきても言葉が通じず、長期間にわたり大変な苦労をされています。そうした想像を絶する苦労を裁判官に理解してもらうというのは非常に難しいことです。私も含め、皆さんも想像しようとしても容易に想像できないと思います。しかし、中国残留孤児の方のためにも、特に裁判官にはこうした想像した上で理解してもらわなければならないと思いました。全国13地裁へ同様の裁判を提訴する中で、勝ったり負けたりしましたが、その裁判官の理解の程度が裁判の結果に反映すると言えると思います。瀬戸内寂聴さんも新聞への投稿記事において中国残留孤児訴訟の東京地裁の判決文への批判の中で裁判官の想像力の欠如について「恐怖と絶望を覚え身も心も震え上がる」と述べられています。

本日資料をお配りした大阪空襲訴訟においては、軍人や軍属が厚い補償を受ける中で、同じく空襲の被害を被った人が補償を受けることができないというのは不当な差別であると主張しています。この訴訟においても、そもそも空襲がどれだけ悲惨なものであるかということについて想像力を働かせ手を理解してもらおうと努めています。

 

もし皆さんが法律家になるのであれば、自らが経験したことのない状況についての想像力を働かせるということの重要性を認識していただきたいと思います。想像力を身につけるためには、映画を観たり読書をしたりといった種々の経験を積むことが必要だと思います。特に法律家にはこの想像力という資質が必要であると思います。加えて、法律というのは決して中立なものではないので「中立」という言葉に騙されないようにしてください。裁判においては守らなければならない一定の価値観というのが重要になると思います。私の知っている先生に「労働者を守るためなら学説をいくらでも変える」とおっしゃった方がいらっしゃいました。法律とは結局、特定の価値観を保護する手段であって、基本的にはその人がどういう価値観を実現したいかということが最も重要であると思います。

 

以上