1935年中国「幣制改革」と宋子文

馬越 麻紗美

1935年11月の中国幣制改革は1930年代の国民政府による経済建設におけるひとつの頂点をなしていた。幣制改革の要となった米中銀協定の成立は、アメリカの中国経済への大幅な介入を示すものであり、また、幣制改革に対する英米日各国の対応は第二次世界大戦の構図を模式的に表したものでもあった。

本論では英米との交渉にあたった宋子文を主軸に幣制改革の経緯を俯瞰し、彼の幣制改革への関与について分析する。アメリカで教育を受けた宋子文は国民政府の金融財政政策の中心的人物であった。幣制改革実施2年前の1933年10月、財政部長を解任された宋子文は、しかしその後孔祥熙との合作によって幣制改革実施に向けて奔走し、主に英米との交渉にあたった。彼が幣制改革に対しいかなる役割を果たし、また幣制改革は彼の構想によっていかなる影響を受けたのか分析するのが本論の目的である。

第一章ではまず、中国の伝統的貨幣状態の変容と、幣制改革の前段階である「廃両改元」について分析を加える。中国の伝統的貨幣土壌は納税用の銀貨と農村で使われ銅貨のレートが一定でなく、また地域によって貨幣が異なるというものであった。ここに19世紀以降外国銀元や銀行券が流入し、20世紀初頭、中国の貨幣状況は立体モザイクの様相を形成していた。近代国家形成を急ぐ中華民国政府は1914年に袁世凱銀元を発行し、これを本位貨幣と定める。袁世凱銀元は他貨幣を駆逐するには至らなかったものの、「廃両改元」の地均しをしたと評価できる程度には普及した。北伐終了後、国民政府は全国経済会議・全国財政会議で経済政策の方針を定め、1933年に秤量貨幣を廃止し、全面的に銀元に移行する「廃両改元」を実施した。「廃両改元」の結果、銀量を扱っていた銭荘の金融力量は低下し、かわって銀元を発行した銀行が金融の中心的存在となった。

第二章では幣制改革に対する英米日の対応を取り上げる。幣制改革実施にあたって外国の借款は必要不可欠なものであった。当初中国の借款要請に対しては、数カ国で共同借款をするという雰囲気があったが、「東アジアモンロー主義」を唱える日本の強固な反対と、借款は日本との協力なくしてありえないとするイギリスの立場から交渉は行き詰まり、最終的に借款を取り付けられないままに幣制改革が発布されてしまう。幣制改革発布時期は汪精衛狙撃事件という偶発的な出来事が要因となって決定されたが、発布の10日後アメリカとの間に米中銀協定が成立し、幣制改革は一応の帰着をみることになる。米中銀協定は第二次、第三次と締結され、1937年以降は対中援助、1941年以降はアメリカの意思で中国が連合国の「四強」の一国として組み込まれるなど、中国のアメリカに対する依存を高める契機でもあった。

第三章では宋子文の幣制改革前夜の行動と、幣制改革の評価についてとりあげる。1933年、蒋介石によって財政部長を解任された宋子文は、しかし1934年6月に中国建設銀会社を設立、孔祥熙との合作をはじめる。同時期アメリカで成立した「銀買い上げ法」によって中国では銀流出がはじまった。1935年に入る頃には幣制問題は国民政府にとって焦眉の問題となっていた。宋子文は1934年末からイギリス公使ヘンチマン(A. S. Henchman)と借款交渉をはじめており、この交渉は1935年9月のリース=ロス訪中へ行き着くことになる。同時に宋子文はアメリカとの借款交渉もはじめたいと考え、国務省へ1935年1月、訪米を打診したが、日本との関係悪化を避けたいとするアメリカからこの打診を拒否された。しかしイギリスによる借款が不可能であると判明すると、財務省の提案する単独借款以外に幣制改革実施の道はないとし、アメリカは米中銀協定締結に動いた。借款が決定しないうちに幣制改革が発布されたことは国民政府にとっては大きな賭けであったが、銀協定により成功をおさめた。遡及的な観点であるが、1936年12月の西安事変、1937年7月の日中戦争勃発というその後の歴史的事件を考えれば、幣制改革実施のタイミングはこの時しかなく、この成功は中国国民政府の経済支配圏の確立としてとらえることができる。

日中戦争勃発以降、アメリカは中国にとって最もつながりの深い国家であり、これは1949年の国共内戦終結まで継続される。この関係の発端は1930年代の国民政府の外交政策に見出すことができる。宋子文はこの時代の米中関係を象徴する人物であったといえるだろう。

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