1930年代『獨立評論』における高等教育論争

根 岸 智 代

本論文では、1930年代に発行された雑誌である『獨立評論』における教育関係の投稿をとりあげ、当時の教育関係の事柄に『獨立評論』がある程度影響を与えたということを、当時の新聞である『大公報』との比較の上で証明するというものである。

雑誌『獨立評論』は1932年5月の創刊主旨に「各人の自分の知識によって公平な態度で、中国の当面の問題を研究する。たとえ熾烈な論争であっても皆こうした討論は有益だと考える。この雑誌を発刊するにあたり、何人かの意見を随時公開して、社会の注意と議論を引き出したい。我々はこの雑誌を『獨立評論』と呼ぶ。それは、どの党派にもたよらず、どの意見にもたよらず、責任のある言論でもって自分達の思考の結果を公表するからだ」(胡適「引言」『獨立評論 第1号』 1932年5月)と述べているように、当時の知識人が自己の考えを特定の政治的思想的制約なしに公表したいとする目的をもった政治評論雑誌であった。

1932年5月22日に第1号が創刊され1937年7月25日に第244号で停刊されるまでの約5年間に、『獨立評論』誌は「民主と独裁論争」、「教育論争」、「抗日論争」といった論争的主題を積極的に提起するとともに、書評、雑文、旅行記等さまざまな分野で、知識人はもちろんのこと、多くの読者からの投稿も掲載してきたが、それは北京を中心とした華北地域のみならず中国全体に政治的影響を与える言論空間を創造しえたということだと考えられる。

当初の『獨立評論社』組織は、主編、胡適、副編集、丁文江、蒋延黻、社員、傅斯年、任鴻雋、陳衡哲、翁文灝、呉憲、その他に校正担当として羅爾綱、章希呂、財政担当に竹垚生、発行責任者として黎昔非がいた。また『獨立評論』の投稿者の中には政府関係者もおり、内部の計画を早期に知ることができる立場にいて、なおかつそれを議論できる人物であったことが、この雑誌を社会的に影響力のあるものとしていたと考えられる。

本論文では、『獨立評論』の他に、上記で述べたように当時広く読まれていた『大公報』という新聞記事も『獨立評論』の投稿とあわせて参照していくことにしているが、各章では年代を追って、『獨立評論』における教育投稿と、『大公報』での相当する記事との比較によって、当時の教育関連の問題が浮き彫りにできると考えられる。

第1章では、『獨立評論』創刊時から33年の熱河進攻、塘沽協定の時期における教育問題をとりあげる。この時期において、陳果夫の教育政策についての批判が『獨立評論』と『大公報』で大きくとりあげられることで、陳果夫の教育政策は修正を発表することになったこと、度重なる学潮問題で個々の事件の解決策を胡適が『獨立評論』で提示したこと、また師範大學の在り方を巡っての『獨立評論』投稿に批判意見を『大公報』で投じた北京師範大學教授会側の対立をとりあげることによって、『獨立評論』という雑誌が教育界の上層部に読まれ、また批判の対象になりうる雑誌であったことを証明する。

第2章においては、教育部が1934年5月19日に公布した「教育部頒布大學研究院暫行組織規定(附大學研究院統計表)」(中華民国史档案資料匯編 第5輯第1編教育(2)』江蘇古籍出版社 1991年pp.1383-1386)に対して、『獨立評論』で、投稿者達が実際の大學組織運営と政府公布の規定との違いを具体的に浮き彫りにし、提言した例や、この研究院問題と留学政策問題が関係している論争もとりあげて、当時の教育政策の見直しを提言していたことを示す。

第3章では、1935年に起きた十二・九及び十二・一六運動に関して『獨立評論』と『大公報』の報道の態度を取り上げ、中立の立場に立とうとした『獨立評論』誌を論じるものである。

このようにして、従来政治論争などの研究に焦点がおかれることの多かった『獨立評論』が教育関連においても社会や政府にたいして発言力を持っていたということを例証することが本論文の目的である。

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