1931年『蒋介石日記』抄

20世紀中国政治史アーカイヴス研究会(2008年)

担当:余点・前田輝人

1月24日

午前,文書に目を通し指示した後,休憩。日本の幣原外務大臣が一昨日議会で行った報告に,わが国民政府の中国統一,また不平等条約はもはや存在しえないとあったのは,7年来の奮闘の結果であろうか。革命はただ忍耐と勇決をもってこれに赴くものである。その勝敗毀誉については,千載の後にこれを聞くのみである……内外の人々の中国革命に対する考えがすでに大きく転換したことは,最大かつ得難い成果であり,(私も)自らを励ますことができよう。小子(しょうし)よ,決して忘れてはならない……午後は,内政会議で講演。

2月15日

党国を破壊し,革命を妨げる陰険な小人は,ついに自覚せず。これをどうしたものか。彼は自らをスターリンとみなし,人をトロツキーとみなしている。ゆえに党外の人士に対し,私が軍人であるために政治を知らないといい,政治に無能であるとそしり,他方では政治を阻害し,各種の重要法案を通過,執行させない。その了見は陰険で,寒心に堪えない。私は,国民会議の議案を自由提案,自由決議とし,制限を加えるべきではないとし,それこそが訓政時期の約法を制定することである。各省党部の選挙は絶対に自由であり,もはや上からの認定方式で決めるべきではない。また一切の議案も絶対に公開とするべきである。この方法は内乱を平定するのに十分である。わが党の主張を貫徹しなければ,決して乱源を杜絶させることはできないのである。

2月24日

午前は客に会い,(李)石曾氏と胡漢民問題を相談し,(呉)稚暉氏の見解はたいへん的を射ている。(呉)稚暉氏はじつに政治的見解をおもちだ……湯山にきて入浴,休憩。午後は客に会い,上の姉と話して,気持ちがしだいによくなる。□□氏がまた来て話し,すぐ南京に戻って会議。対日外交は調和を考えるべきであって,東アジア情勢を団結,安定させ,共産党と強権の侵略を防がなければならない。けれども,日々覚悟がなければ,すなわち虎に向かって皮をよこせと頼むことになるのである。その効果があるかどうかわからない。

2月25日

劉湘に督辦の名義で,四川軍を派遣,指揮させる。午後客と会った後,また胡漢民のことで憤怒し,湯山に戻って休む。彼は断固として約法を制定しようとは考えていない。立法院(の立場)によって,任意に毀法変法し,その個人的な企図を求めようとし,党国の安危を顧みない。また国民会議は中国の統一と建設を求めるためだとし,約法を言わない。しかしいったい約法がなければ,いかにして統一がなろうか,いかにして建設がなろうか。総理の革命は民国元(1912)年参議院の約法(臨時約法)を制定する意思はなかったが,訓政時期の約法を再び制定すること,あるいは革命の約法を再び制定することを主張していたのであって,約法を制定しようとしなかったのではない。3年……

2月26日

北伐戦争以来,すべては統一と建設のために展開しており,したがって全軍の将士は,危険を顧みず……,流血をもって……,統一を保障し,平和を強固にして,一度の苦労で永く安楽を得られるようにし,一つの約法を求め,人の生命,財産を(保護し)……,平和統一し,永久に三民主義を実行することを求めた。ゆえに私はその痛みに耐えて,なお我が党は速やかに約法を制定し,全国代表大会を開催し,国民会議を開催することを要求した。それによって国内の戦争(が再開すること)を免れ,再び軍閥が復活して人民(を搾取し),国や党に災いを及ぼすようにさせない。これは(数?)十万の将士の犠牲と無数の国民の損失から得られたものであるが,政客や官僚は一己の私欲によって党国の名誉や地位をかりて,個人の権利のために人民と将士の犠牲を顧みない。彼らは,党国を破壊し,革命による既得の成績を台なしにしようとするのみならず,「有約法」と「無約法」の紛糾を引き起こし,あるいはついには党国に100年にわたる尽きることなき災いを残そうとするものである。……しかも彼(胡漢民)はすでに総理に追随すること数十年を自任し,もとより世人はみな我が総理の有能な側近であることを知っている。しかし民国元年,本党の既得の革命政権については,彼らが総理に強いて袁(世凱)賊に譲位させ,総理の世を終わらせ,本党の革命をひとつの成果もなくさせた。彼らによって一手に強奪され,総理を孤立無援にし,有志の士は総理の革命に従おうとしたがならなかった。革命を阻害し,革命を破壊した罪悪について悔悟することを知らず,総理の偉大な勇決の精神はすべて彼らに騙し取られた……。
今夜,客を招いて,胡漢民を家に留まらせ,外出して騒動を起こさせないようにした。

3月1日

法律は長くは続くことができない。随時改めて,その個人的な企図に有利になるようにしている。彼(胡漢民)はボロディンの革命を破壊し,反対する手段を基本として用い,その罪はじつに甚だしい。

4月30日

午前,常務会議に出た後,『軍声』の旧稿を読み,たいへん満足する。夜,張学良兄を招宴す。鄧澤如,古湘芹(応芬),林森,肖佛成の4人が今日電報を出して,私を弾劾し,多くの罪を私に帰している。左右の人心ここに至り,無国,無党というべきで,私情と私恨があるのみである。愚昧ここにまで至る,嘆くべし。

※“□”の部分は解読不能,“(?)”の部分は確定不可。

担当:島田美和

9月19日

昨晩、日本侵略者が理由もなく瀋陽にあるわが兵工廠を攻撃し、しかもわが兵舎をも占領した。今、すでに瀋陽と長春〔東三省〕が占領されたという知らせを受け取り、さらに牛荘占領との知らせもある。これは、粤逆叛変の時、〔中国の〕内部の分裂に乗じ、東三省を侵略しようとしているのだ。内乱は止まず、逆賊は禍乱に対して悔いる気持ちが少しもない。国民は愛国心なく、社会は組織されず、政府は不健全である。・・・私が頼るところは、一片の愛国心である。この時存亡の危機にあることを明確に知るも、ただ鞠躬尽瘁(命のある限り献身的に力を尽くす)し、死して後に已むのみである。

 

9月20日

日本が東三省を侵略したことは、すでに事実となり、手の打ちようがない。かくのごときならば、わが国内がこれより一致団結しようなら、禍いを転じて福となす機会となろう。ゆえに、内部に対して団結を計らなければならない。瀋陽、長春、営口を日本侵略者に占領されたと聞きし後、心神の哀悼は父母を弔うがごときものがある。いやしくも我が祖宗と子孫のために東三省を取り戻さなければ、永遠に国としての面目がたたないだろう。小子(私)はこれに励もう。内乱平定に遑なく、これまで外交にあまり注意してこなかった。臥薪嘗胆、教養生聚、屈辱に耐え重荷を担うことが、わたしの今日なすべきことなのだ。午前は、何応欽、陳銘枢、熊式輝と協議し、午後は飛行機にて南昌を出発し南京に戻る。

◆人物:(1931年の役職)
【敬之】何応欽(1890‐1987)(国民政府委員、中央政治会議委員、剿匪軍前敵総司令)
【真如】陳銘枢(1889‐1965)(国民政府委員、中央政治会議委員、剿匪軍右翼集団軍総司令)
【天翼】熊式輝(1893‐1974)(国民政府軍事委員会委員長南昌行営参謀長)
徐友春主編『民国人物大辞典』河北人民出版社、1991年参照。以下、『民国人物大辞典』と略す。

9月21日

内部を団結させ、中国を統一し、日本侵略者に抵抗し、外交を重視し、精神を奮い立たせて、国民を喚起し、わが東三省を取り戻す。午後2時、南京に到着し、幹部を召集する。私は以下のように主張した。日本が東三省を占領したことを、まず国際連盟と不戦条約締結諸国に提起し、公理による勝利を求める。また他方で、国内を団結させ、共に国難に赴き、忍耐がかなりの程度まできたら、自衛の最後の行動に出る。広東派に対しては誠意をもって合作を求める。1.広東派に速やかに南京に来て政府に加わるよう覚悟させる。2.南京中央の幹部はみな辞職してもよい。広東派側が(中国の)統一に責任を持ち、南京に来て政府を改組しさえすれば、胡漢民、汪精衛、蒋介石の合作も可能である。

◆人物(当時の役職)
【胡】胡漢民(1880‐1936)(1931年2月28日、蒋介石との「訓政時期約法」制定の可否をめぐる意見の相違から、蒋により南京湯山に監禁される。)
【汪】汪精衛(1883‐1944)(1931年5月、反蒋各派とともに、広州で国民政府を組織し、南京国民政府と対峙する。)『民国人物大辞典』参照。

9月22日

私が日本の砲火の中にいたのは一度に止まらない。日本が、済南で砲撃と機銃掃射を行った時、私が実際に日本の砲火の中で死なずにその身をとどめたことは、全く誇張したものではなく、より悲しみと怒りが増すばかりである。愛国者は多くも国者は少ないことを知り、国事はなおなしうることがある。午後、呉稚暉と戴季陶に私の考えと感想を詳述した。胡漢民、汪精衛が合作するなら、私は政権を譲り渡すつもりだ。

◆人物(当時の役職)
【稚暉】呉敬恒(1865‐1953)(中央陸軍軍官学校校務委員)
【季陶】戴季陶(1891‐1949)(満洲事変後、国民政府特種外交委員会委員長に就任)
『民国人物大辞典』参照

9月23日

昨日、国際連盟は、日中両国が戦時行動を停止し、双方の軍隊は元の駐屯地に撤退するよう決議した。国際連盟が委員を派遣して調査し、その裁定を行うのを待つ。これは実際に、外交の転機であり、対内統一にとって良い機会でもある。もし、天が中国を滅ぼさないとすれば、今回の外交は失敗には至らないだろう。張学良は万福麟を南京に派して、外交による早期解決を求めた。わずかばかりの長官自らの財産と東北の痛苦のみを気にしている。これを聞き心痛む。広東側は日本と結託し、外侮を招くことによって、中央を倒すことをよしと考えている。東北側は、また部分的な利害のために、急いで解決を図ろうとする。国際的地位と国際情勢、及び将来における単独講和による権益喪失と辱めを受けることなどは問題とされていない。ああ、外侮すでに迫りくるも、国内の政治官僚は、買国にあらざれば、敵を恐れている。このような民族は、滅びる以外に何があろう。今回、国際連盟が干渉しないことになり、もし、わが国内が対外的に一致できなければ、中国はこれより国としての面目がなくなるだろう。憂慮は尽きることがない。夜、万福麟と話し、外交情勢と東三省の位置を見誤り、単独交渉を望むなら、軽はずみに国土喪失と国を辱める条約に調印することになろう。慌てて決着をつけるより、これを国際仲裁に委ねたほうが、まだ根本的勝利の望みがある。そうならなければ、日本侵略者との一戦をもいとわず、もって国家の存亡を決するのだ。

◆解釈・理解の問題
中国語7~8行目:張学良は北平駐留のまま、万福麟を派遣した。

◆人物(当時の役職)
【汉卿】 張学良(1901‐2001)(東北辺防司令長官)
【万福麟】万福麟(1880‐1951)(黒竜江省主席) 『民国人物大辞典』参照

担当:田中剛

9月24日

午前、漢卿に書簡を送る。広東派への返電を起稿する。午後、稿を作成し、第四回全国大会を11月12日に延期すると決定。夜、外交国際紛争の仲裁の事を研究し、声明を受け入れると決めるも、要求方式は採らない。

9月25日

経扶に返信する。天翼と漢卿に来京するよう電報を打つ。緊急委員会と外交顧問会を組織する……上海の学生は政客に憤激し、外交を口実に政府を攻撃している。ただしかし、国際連盟理事会は閉会せず、中日問題の解決を期待するとのことである。これすなわち外交上の好機である。

9月26日

暴戻な日本は国際連盟の勧告を受け入れず、中日の直接交渉を主張し、これによって連盟の態度は軟化しているのだ。これから日本の勢いの炎は更に広がるだろう。もしも、直接交渉や地方交渉をすれば、必ず良果はない。私は横暴を放任することは出来ない。この決戦に勝利して最後の存亡を決する。我が中華民族の面子を持って、戦わずして滅びるよりは、戦って滅びる方がよい。故に首都の西北移動、主力の隴海路集中を決意する。

9月27日

国難家憂、危急の状況はこれを超えるものはない。昼過ぎ、話が合わず、妻が別れを告げずに上海へ赴いたことは、私に一層の苦痛を与えた。午後、呉敬恒・李石曾と対ソ・対日問題について語り、湯山に宿泊する。危難の時、私のすべき所を尽くし、故に、無責任な者と生死を共にしたいと思わない。妻と艱難を共にするのも忍びない。故に、死んででも独り責任をとる覚悟を抱く。何ら疚しいところなく、ただ人心のみ。

9月28日

今日、南京中央大学の学生が外交部を攻撃し、〔外交部長王正廷の〕頭部を殴打する。上海学生の請願に来るものは絶えないが、これは必ず反動派のそそのかしているところである。政治的背景はあきらかである。時局は深刻で既に頂点に達し、内憂外患に遭遇している・・・・・・私は今ここに及んでただ■のみ。ついには、我が父母の子、我が総理の徒であることにただ恥じないのみ。万が一にも不測の場合、危険の迫ったときには命をも捨てる。この書と遺嘱、そして復仇の志を持ち、暴雪のときに兄弟牆にせめげども、外その禦ぎを侮るなかれ。願わくは中国国民党の指導指揮のもと我が同胞は団結一致せよ・・・・・・
妻は帰京したが、危難のなか困難や危険を避けず、生死を共にすることは、感謝に堪えない。

9月30日

午前、政治会議は外交特種委員会を組織、施肇基を外交部長に任じ、閻錫山を赦免する。午後、広東派の起稿した通電を受ける。統一会議は改組・統一した国民政府をなおも条件とする。あわせて多くの中傷の句・・・・・・大局を顧みず、独断騒動を起こし、しかも政府を組織する能力もなく、不可能にして天命を受けるものでもない。外侮の機に乗じ、敵国と結託して国の基を揺るがすことに、心を痛めずにいられない。今はただ、逆境を耐え忍び、恥を忍んで重責を担い、万が一の火消しを願うだけである。

10月1日

午前、宋子文、天翼と今後について話す。もし、願いがかなって下野したならば、野にあってこの政府を守り続け、国の基の強化を求め、汪精衛、胡漢民の悪習に反して守法の美風を唱導する決意であると。……午後、顧維鈞と外交についてかなり研究したことは、平時の幸いである。私は先ず、張学良に辺防司令長官の名義で東北各地部隊の担当長官を任せ、日本軍撤退後の地域を接収して治安の回復を担当するよう決した。また対外声明は、日本軍が占領するところの各地方都市は、未だ正式に中国政府へ返還されておらず、およそ当該各地の各種団体については日本政府がその責任を負うものであり、中国は一切承認しない。

担当:石黒亜維

11月 19 日

午前中、来客あり、その後、中央幹部を招集し協議した。広東側の候補者名簿を提出し、大会においてすべて容認することを求め、さらに北上駐屯し、国のために前駆し、以て民心を安んじることに関するものであった。協議した結果、午後の大会で臨時報告を行うこととなり、午後、大会で1時間20分演説した。私の主張はすべて承認された。本党は一大成功を収め、数ヶ月以来ここにおいて活路を見出せたと考える。黒龍江省の省都(龍江=チチハル)が日本侵略者によって陥落させられたと聞き、悲憤すでに極まれり。パリの国際連盟会議は、ここに於いて緊迫するであろう。私は、北上し、国のために前線に赴くことを決心した。あるいはまた、自ら助くるものは人に助けられ、自ら助くるものは天に助けられることを達成できるかもしれない。おおよそ人は患いあれば自立自強ができない。

11月 25 日

・・・・・国弱く民愚かにして、老衰と幼稚という民族病は、実に救う薬がない。もし 外交において、 確実なる不平等条約の撤廃を得なければ、中国は滅びずとも、滅びるに等しい。 午前中、来客あり、幹部と進退などの問題について協議した。午後、招宴の後、休息した。各方面の学生が反動派にそそのかされて、南京にやってきて、北上を請願するのは、意図的に混乱させ政府を破壊しようするものだ。日本と結びついた広東派の革命的人格なるものは完全に失われている。 私のおかれた境地は悲惨なもので、また、未だ今日ほど甚だしきものはない。胡逆漢民の肉は食すに足らず(逆徒胡漢民は食えない奴だ)。愛妻は今日南京に戻った。

11月 27 日

午前中、来客あり、政治の過渡的弁法について協議した。午後、上海の各大学生請願出兵団対して訓戒し、28時間立たせることでこれを罰した。ここ数日、各地から来(南)京した学生と接見し、訓話した人数はおよそ2万人に及び、精力を使い果たしてもってこれに応じたといえよう。(学生運動では)幸いにして未だ何事もなく、かつ幾分の良い影響を与えることができた・・・・・。日本とのことは国内の売国奴によってもたらされたことである。胡展堂(漢民)と陳友仁の肉は食すに足らず。

12月 4 日

北平の大学生の示威団が南京で示威を行ったことは誠に嘆かわしい。 敵国に対する示威ではなく、政府に向けられた示威であり、これこそ中国を辱めるものである。何とかしてこれを制止しなければならない。午後、北平の各校の代表および各地の大学生に対して、二度、長時間にわたる訓話を行った。みなよく理解してくれた。このことからも公道は自ら人心に宿ることがわかる。国の危機、なお救うことができよう。今回の失敗の原因は、古くからの党の奸臣を峻拒したことにあり、そのことで、唐紹儀、陳友人、伍朝枢ら外交派は、売国してでも蒋(介石)を打倒しようしている。これがそのひとつの原因である。その次に、学者・知識人階級に決して近寄らず、各党部が各地の学者の敵となっているため、 学生運動はすべて反対派に操られ、党部は全く役割を果たせずそれを害しているのである。これが第二の原因である。また政治と党務の人材が不足しており、根本的に幹部には力になるものが一人もいない。戴季陶は弱いが、共に奮闘してくれる。かれ以外には、あろうことか公のため友のために尽力する者はいない。

12月 7 日

午前中、軍校に行く。国府では紀年週を主催し、武漢大学および首都抗日会の学生に訓話した。青年が無知無礼であることは、民族として寒心に堪えない。午後、・・・・・・(幹部と議論するなかで)国民大会を開いて、本党の政権を時間を早めて国民に奉還してはと考えたが、それは、本党が奮起することができず、以党治国の精神がとっくに消え失せたからである。胡漢民などは、党員としての古い資格を拠り所として、党を滅ぼし国を害しようとしている。しかし、中国は私の手によって統一された以上、また、私の手によって国民に政権を奉還すべきであろう。吳稚暉老は、このやり方はとても危険で、現在は、安定的に制御するしかないとする。まさに深い見識だ。

12月 9 日

今日の事についてはこのように思う。私が非難を意とせず責任を負わざるとも、救国できずとするならば、すなわち、いかなる罪名もまた辞せざるところである。どうしてたいしたことのない青年の示威行為など慮れようか。救国がここにおいて危機的状況となれば、もし殺戮の悲惨さを畏れるなら、もし最大の犠牲を払う覚悟でなければ、どうしてこの目的を達することができようか。 もし幸いにして流血を免れることができれば、党と国にとって幸いであり、さもなければただ菩薩の心をもって、雷霆の威力を下す。何を懼れることがあろうか。ただこの時、自身が自信をなくして自ら敗れるもとで決断することを心配するのみだ。もし自立自強しうるならば、一切を顧みず、私および幹部が新環境と新生命を創出し、小から大へ、また近くから遠くへと拡大すれば、どんな国も救われないことがあろうか。

担当:高洋

12月11日

午前、来客あり、文書の決済後、湯山に赴いた。真如(陳銘枢)の話を聞き、哲生(孫科)などが私に迫って辞職させてこそ満足だとしていることを知った。真如も彼ら若輩に迷妄されて、国家の大計を深く考えていない。私が領袖の資格をもってすれでも、力な幹部は、ややもすれば譲歩をもってよしとする。内部の意思は統一せず、領袖の志は実行しがたい。こうして私は人を用いることができず、幹部側近も人をいれることができず、これが国家の安定できない原因である。私は政治哲学について、2つの好きな言葉がある。「政者は進み、貪者は退く」。領袖が前に進みたくとも、幹部は退こうとする。大きな力があっても、推進することができない。

12月16日

昨日10時以後、辞職の会議をする時、 北京大学の共産分子は学生を操縦し、中央党部に来て示威行動し、発砲をしたうえで、蔡孑民(元培)と陳真如(銘枢)を拉致した。今日、午前は政治会議、午後は国府に出向き、引きつぎを儀に則って実施した。学生はかくも粗暴であったが、年長者はいつも寛容に対応する。その結果、全国の秩序を不安定にさせ、このように無政府的に放任して、どのように革命立国の責任を完成させうるのか。孫夫人(宋慶齢)はソ連共産党の東方部長を釈放したいとしているが、その罪状はすでに明らかである。しかし、私に釈放を強要し、また在ソの息子蒋経国と交換するように誘った。私はむしろ経国を帰らせず、あるいはソ連に殺されても、国を害する犯罪をもって、自分の子供と交換することは絶対しない。滅種亡国は天命だから、幸運にも免かれることを望みえようか。しかし、法に則り自分がそれを犯さず、国も自分が売らずに、もってわが父母の令名を保全する。恥とすることなく生くるところあれば、危ういからだ。子供のことなど、どうして思うところであろうか。

12月18日

午前、璧君((陳璧君、汪精衛の妻))、孟余(顧孟余)、公博(陳公博)と談話し、汪精衛は私が政府の監察院に参加することを要請し、上海大世界十委員問題の解決に助力しから、南京に来ることを了承しているという。私は毅然としてこれを承諾した。哲生(孫科)に行政院長を担当するなら、外交部には陳友仁は伍朝枢に及ばぬこと、そうして国民の反対を免かれるよう婉曲に伝えた。哲生には誤解があるかもしれず、干渉されたと考えるだろう。私は南京で政府にとどまる必要がなく、ただ党国の存亡にかかわるかぎり良心と道徳上の協力を行なわざるをえない。人は私がとても愚かだと考えても、私は人として恥じることなく生き、神明のごとく泰然としたいと思う。これができなければ、道義滅亡、欲望乱流、国家滅亡の時にあたりて、愚忠をもって世に示さざれば、民族の滅亡を救いがたくするだろう。夜、各幹部と談話した。

12月22日

今日、故郷に帰ることを決心した。昨夜嬉しく眠らなかった。ただ党と国家に対する善後策がないため、また輾転反側し、ずっと考えつつみた。上帝にわが後継者の成功を保佑されんことを願う。私が永遠に政治との関係がなくなれば、父母の後の生をよく保ちうる。この一生は幸運である。午前、顧孟余、陳公博、王法勤三人と談話し、その後、一中全会に赴いた。腐敗分子、およそ私の仇敵、全て私に打倒されたもの、今日皆ここに集まり、彼らと隣席した。彼らに対し、私はただ同情し、笑止千万、慨嘆すべく、いささかのわだかまりもなかった。若輩や腐敗分子は全てわが仇に値しない。

12月24日

今回の革命の失敗は、自分が自主的にできなかったからである。その誤りは「老者」(孫中山を指す、楊天石の説)の対ロシア、対左派政策に対し、全て私の主張を貫徹することができず、ひたすら譲歩し、大局を誤ったことに始まる。更に我が党の歴史において、胡漢民、孫科を受け入れ、ひたすら譲歩し、更に収拾つかぬ状況にまでなった。また、私は幹部なく、組織なく、情報なきことで、外交派の唐紹儀、陳友仁、伍朝枢、孫科が日本侵略者と結託し、国を売ることは、事前にまったく気づかなかった。陳済堂は左派の桂(広西)系各派と結託し、 また古応芬は陳逆を利用し、全て信じることができない。内外からの挟撃の状況に陥ったのはすべて人材がなかったことによる。また、反動的な知識階級に対する不注意のため、教育は依然として反動者の手に握られている。これも私の幹部と組織がなかった過ちである。軍事の後進幹部には熊式輝、陳誠、胡宗南などがいるが、党務幹部には本当に一人もなく、外交にもいないのである。

12月27日

午前、大姊が来て、私と墓参りをしてから、楽亭の学校を見回った。午後、枕琴先生などと楽亭行についての手配を相談した。夜、妻の病気で、心が悲しく不安である。後の世まで伝わるのは事業と徳行によるのであり、子孫にあるのではないと考えてきた。多くの歴史の中の聖賢豪傑、忠臣烈士は跡継ぎがいないわけではないが、その精神事業は非常に卓越している。私はなぜ先人のためにひとり跡継ぎのないのを憂うるのか。その志の小さること、蔑むべきはいずれが甚しきや。経国がロシアの敵に陥し入れられれば、私が生きている間に彼に会えなくても、私が亡くなった後で、彼は必ず故郷に帰る日があるだろう。かくの如く、私は先に死し、先人の魂を慰めることを望む。

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